孫呉 > 孫権の二宮事件まとめ

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01_『三国志集解』呉主伝

孫和を太子、孫覇を魯王とする

『呉志』呉主伝 赤烏三年に、

五月、太子登卒。是月、魏太傅司馬宣王、救樊。六月、軍還。閏月、大将軍瑾卒

とある。赤烏四(240)年の五月、太子の孫登が死んだ。『三国志集解』は、とくに注釈がない。
その二ヵ月後(閏六月)、諸葛瑾が死んでいる。直接の関係はないが、良識あるアドバイザーがいなくなった。

さらに関係ないが、同年四月、諸葛瑾は柤中を攻めている。戦いに敗れて、数ヵ月後に死んだ。魏でも、曹仁・曹休が同じように死んでいる。まさか、敗戦の責任を取らされたとは思わないが、指揮官として重責によるものと思われる。


五年春正月立子和、為太子、大赦。改禾興、為嘉興。百官奏、立皇后及四王。詔曰「今天下未定、民物労瘁、且有功者或未録、饑寒者尚未恤。猥割土壤以豊子弟、崇爵位以寵妃妾、孤甚不取。其釈此議」……是歳大疫、有司又奏、立后及諸王。八月立子霸、為魯王。

翌年正月、太和を太子とした。百官が上奏し、皇后・四王を立てよという。孫権は、天下も国内も疲弊しているのに、子弟に封土を分け与え、寵愛する妃妾を爵位を高め、皇帝の家族だけが、いい思いをすべきでないと辞退した。
四王とは誰か。
皇后を立てるならば、順当ならば、太子和の母(王夫人)となるべき。孫権は、自分ばっかりゼイタクできないよ、と言っているが、群臣は「皇后を立てろ」と言ったのであり、「寵妃たちの待遇をベースアップせよ」とは言っていない。孫権が皇后を立てることを渋ったのは、別に原因があるのかも、、と考えてしまう。

趙一清は、『晋書』巻十四 地理志上を引く。

孫權赤烏五年,亦取中州嘉號封建諸王。其戶五十二萬三千,男女口二百四十萬。

「亦」とあるのは、蜀の「劉備章武元年,亦以郡國封建諸王,或遙採嘉名,不由檢土地所出。其戶二十萬,男女口九十萬」という文に続いているからで、呉での封建はこれが初めて。
劉備は章武元年、郡国に諸王を封建したが、蜀の領内の実際の地名に限らず、天下から良さげな地名を借りてきて、王に封じた。魯王とか。
孫権もまた同じで、中州(中原)の良さげな地名を借りてきて、諸王を立てた。戸数は523千、人口は2,400千人。この数字は、『晋書』武帝紀に見える、呉が降伏したときの戸数・人口と同じ。つまり、呉の諸王の領土がこの規模だったのではなく、呉の全体(皇帝の直轄?)も含めて、この規模であったと。

さっき孫権は、諸王・皇后を立てることを拒んだくせに、『晋書』は、赤烏五年に諸王を立てているじゃないか。と思いきや、呉主伝は、同年に再び、皇后・諸王を立てよと上奏している。
『芸文類聚』巻五十一 封爵部に、胡綜「請立諸王表」があり、胡綜が封建を勧めている。曰く、
周室は子弟を封建して、姫姓の国を55建てた。後漢の光武帝は、天下平定前、制度の未整備のとき、9子に国を建てさせた。後漢の明帝・章帝も、息子を王とした。『詩』に「既受帝址、施於孫子」とある。陛下は、皇帝になって12年が経過し、皇后は号無く、公主は邑無く、臣下は心配しています。天下の有識者は、「呉臣は礼制のことをよく知らず、呉帝は(謙譲しているのでなく)制度を知らんだけだろ」と言うかも知れません。陛下は謙譲をやめて、群臣の期待に応えて下さい。と胡綜が言ったという。

孫権が、皇后・諸王を立てなかったのは、「謙譲」と宣言し、理解されていた。光武帝が、天下平定・諸制度整備よりも前に、子を封建していることが、封建を優先できる根拠になっている、というのも面白い。

『三国志集解』に引く梁商鉅の説によると、胡綜は、践阼(皇帝即位)から12年と言っている。胡綜の上表は、赤烏三年と判明する。赤烏三年に却下され、赤烏五年、再び提案されたことが分かるという。

胡綜ら群臣から、皇后・諸王を立てろと言われた孫権だが、赤烏五年八月、魯王を立てるに到った。皇后よりも先に、四王を完備せず(誰が対象かは別に確認)、魯王孫覇だけを立てた。
『三国志集解』は、孫覇伝・是儀伝を見よという。まずは、呉主伝だけを消化していから見ることにする。

陸遜が死に、孫権が孫覇を殺す

呉主伝は、関連する記述が飛んで、赤烏八(245)年。
「八年春二月丞相陸遜、卒」とある。『三国志集解』によると、陸遜は上疏して、太子の正統をのべ、魯王を藩臣として、孫和の待遇と差を付けろと言ったが、孫権は中使を派遣して責めたため、憤って死んだという。

呉主伝は、赤烏十三年(250)年の秋八月に飛び、「廃太子和、処故鄣。魯王霸賜死」と極めてシンプル。
『三国志集解』は、孫和伝・孫覇伝を見よと。裴松之は、袁紹・劉表と同じようなことをした、と批判している。そうですね。
同年十一月、孫亮を太子に立て、この歳、神人に書を授けられ、これによって改元・立后をした。『三国志集解』に引く顧千里の説によると、これら(神人の託宣)が「矯誣の事」であり、実態を詳しく書くべきだし、そうでなければ(適当にごまかすくらいなら)書くべきでない、とする。そうですね。

是歳、神人授書、告以改年、立后。
太元元年夏五月、立皇后潘氏、大赦、改年。初、臨海羅陽県有神、自称王表。周旋民間、語言飲食与人無異、然不見其形。……秋七月、(李)崇与表至。権、於蒼龍門外為立第舍、数使近臣、齎酒食往。

太元元(251)年、夏五月、皇后潘氏を立て、大赦・改元した。王表と名乗る神が現れたという。
『芸文類聚』巻九十九 祥瑞部に引く『呉歴』は、呉王は神のために蒼龍門外に廟を立て(同じ記事は、呉主伝の同年七月に見える)、改元したという。
盧弼は、改元は五月であり、王表を迎えたのは七月である。改元→王表、の順番であり、王表→改元、の順番ではないから、『呉歴』は誤りである(改元の原因をもたらしたのは王表ではない)という。

ぼくが思うに、呉主伝の前年末に「神人」が書を授けたとあるが、これは王表とは別の「神人」なのだろうか。
呉主伝は、王表のことを書き始める前に「初」と書いている。王表が、改元の原因をもたらしたとしても、必ずしも誤りではない。むしろ、陳寿が編纂のとき、へんな書き方をして、王表と改元のことが、分かりにくくなったのかも知れない。


二宮事件の結末と、孫権の死

太元二(252)年、やっと諸王が立てられる。

二年春正月、立故太子和、為南陽王、居長沙。子奮、為斉王、居武昌。子休、為瑯邪王、居虎林。二月大赦。改元、為神鳳。皇后潘氏薨。

春正月、孫和が南陽となり、長沙に居す。孫奮が斉王となり、武昌に居す。孫休が琅邪王となり、虎林に居す。二月、大赦・改元し、皇后の潘氏が薨じたと。

『三国志集解』を消化しておく。孫休の居した虎林について。
胡三省によると、虎林は轅に浜し、呉は督をおいて守った地であると。のちに、孫綝は朱異を派遣して虎林から夏口を襲い、兵は武昌に至った。すると、夏口督の孫壱は魏に奔ったとある。このことから、虎林もまた、武昌の下流にあったと分かると。
盧弼によると、虎林督の朱熊は、孫綝伝に見える。
所引『一統志』によると、孫休は虎林に居し、諸葛恪は諸王を長江に浜した兵馬の地に居らせたくないから、孫休を丹陽に徙したという。のちに陸胤・何遜は、虎林督になっている。
盧弼によると、何遜ではなく、何邈に作るべきと。何邈のことは、妃嬪 何姫伝に見える。


魯王孫覇が死んだが、それと時期が重ならず、南陽王孫和・斉王孫奮・琅邪王孫休が封建された。当初、群臣が想定してた「四王」が、すれ違いながらも、これで実現したと見てよいのか。
孫権は、諸王を一斉に立てるのでなく、太子孫和とぶつける形になる、魯王孫覇のみを封建し、それ以外の諸王は立てなかった。
べつに、魯王(と限定しなくても、王)に、皇太子と同格であるとか、皇太子の予備であるとか、そういう意味はない。なぜ、魯王孫覇のみを立てたのか。このあたりに、孫権の思惑があるかも知れない。
皇后・諸王が揃った直後に、皇后潘氏が死にます。
孫権は、皇后を長らく立てず、皇帝権力の秩序(の必要条件)を整えなかった。けっきょく、二宮事件をやっている時期、皇后は不在だった。それが解決し、潘氏を立てたものの、すぐ死ぬ。

孫権もすぐ死ぬ。
「孫権は、曲がりなりにも後継者(孫亮)を指名して死んだ。孫権の死後、後継者争いは起きていない。袁紹・劉表よりマシ」という見方もできましょうが……。
二宮事件の終結と、孫権の死は、ほぼ同時期です。意志をもって後継者を決めた、きちんと問題を片づけた、というよりは、死ぬというタイムリミットにより、事件・問題が強制終了されたという感じを受ける。
孫権がきちんと裁いたのか。老齢により、意味が分からなくなった孫権に代わって、誰かが決着をつけたのか。
後者だとすると、孫権の判断力があるうちは、けっきょく結論を出せなかったということになる。なんで孫権は、そんなことをしたのか。どうして、皇帝としての体制をきちんと整えなかったのか。このあたりに、なにかヒントがあるような気がする。

呉主伝の二宮事件は、アッサリでした。関連史料を読んでいきます。171230

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02_『三国志集解』孫和伝・孫覇伝

二宮事件の当事者である、孫和・孫覇について。
2人の列伝は、『三国志』巻五十九 呉主五子伝に見える。この列伝に採録されている、孫登伝・孫慮伝は、前に読んだので、その続きということになります。
『三国志』巻五十九 孫登伝・孫慮伝を読む

孫和伝01_孫権に寵愛された見識者

孫和、字子孝、慮弟也。少、以母王有寵、見愛。年十四、為置宮衛。使中書令闞沢、教以書芸。好学下士、甚見称述。赤烏五年、立為太子、時年十九。闞沢為太傅、薛綜為少傅、而蔡穎、張純、封俌、厳維等、皆従容侍従〔一〕。

孫和は、孫慮の弟。母の王夫人に寵愛された。

妃嬪 王夫人伝に、黄武期、孫和を生んだとあり、孫和の誕生は黄武三年。王夫人伝を参照とのこと。

14歳のとき(嘉禾六年)宮衛が置かれ、中書令の闞沢に教育された。赤烏五年、19歳で太子に立てられた。闞沢が太子太傅、薛綜が太子少府となった。

闞沢・薛綜は、どちらも赤烏六年に卒しており、守り役であったのは、2年未満。のちに吾粲が太傅となり、二宮事件に突入する。陸遜が憤死するのは、赤烏八年で、孫和は幽閉された。赤烏十三年、孫和は故鄣に徙され、魯王覇は死を賜り、孫和は太子から外された。

蔡穎・張純・封俌・厳維が、侍従した。

〔一〕呉書曰、和少岐嶷有智意、故権尤愛幸、常在左右、衣服礼秩雕玩珍異之賜、諸子莫得比焉。好文学、善騎射、承師渉学、精識聡敏、尊敬師傅、愛好人物。穎等毎朝見進賀、和常降意、歓以待之。講校経義、綜察是非、及訪諮朝臣、考績行能、以知優劣、各有條貫。後(諸葛豊)[諸葛壹]偽叛以誘魏将諸葛誕、権潜軍待之。和以権暴露外次、又戦者凶事、常憂労憯怛、不復会同飲食、数上諫、戒令持重、務在全勝、権還、然後敢安。張純字元基、敦之子。呉録曰、純少厲操行、学博才秀、切問捷対、容止可観。拝郎中、補広徳令、治有異績、擢為太子輔義都尉。

孫和は、幼いときから智恵があり、孫権から特別に寵愛された。のちに諸葛壱が、いつわって呉に叛き、魏将諸葛誕を誘い込むとき、孫権軍は待ち伏せた。孫和は、孫権が戦場で身をさらし、軍営で飲食をともにしていることを、しばしば諫めた。
張純の伝記は、ここの『呉録』のほか、顧邵伝および同注引『呉録』、朱異伝 注引『文士伝』に見える。はぶく。

是時、有司頗以、條書問事。和、以為姦妄之人、将因事錯意、以生禍心、不可長也。表宜絶之。又、都督劉宝、白庶子丁晏。晏、亦白宝。和、謂晏曰「文武在事、当能幾人。因隙搆薄、図相危害、豈有福哉。」遂両釈之、使之従厚。常言、当世士人、宜講脩術学、校習射御、以周世務、而但交游博弈、以妨事業、非進取之謂。後、羣寮侍宴、言及博弈。……於是、中庶子韋曜、退而論奏。和、以示賓客。時、蔡穎、好弈。直事在署者、頗斅焉。故以此諷之。

孫和は、当時、担当官たちの意見具申は、国家の利益にならないものが多いから、辞めさせよと上表した。都督の劉宝・庶子の丁晏は、互いを告発しあったが、孫和は「有能な人材には限りがあるから、仲良くしろ」と諭した。
学問や武術を訓練すべきなのに、交遊・博弈が流行っており、国家事業の妨げになるから、孫和は戒めた。中庶子の韋曜が、孫和の意見をまとめ、賓客に示した。当時、(孫和に侍従している)蔡潁が博弈にハマっていたので、たしなめたのである。

二宮事件は、まだ現れない。孫和は、賢くて、孫権からの評価も高く、宮廷のなかでの発言も当を得たものであった、という話。もっとも、皇帝孫晧が、そういう孫和像を作らせたかも知れないが。


孫和伝02_二宮事件

是後、王夫人与全公主有隙。権嘗寝疾。和、祠祭於廟、和妃叔父張休、居近廟、邀和過所居。全公主、使人覘視、因言、太子不在廟中、専就妃家、計議。又言、王夫人、見上寝疾、有喜色。権、由是発怒。夫人憂死、而和寵稍損、懼於廃黜。魯王霸、覬覦滋甚、陸遜、吾粲、顧譚等、数陳、適庶之義、理不可奪。全寄、楊竺、為魯王霸支党、譖愬日興。粲、遂下獄誅。譚、徙交州。権、沈吟者歴年〔一〕、

のちに、王夫人(孫和母)と全公主が対立した。かつて孫権が病気になると、孫和に(代理で)廟を祭らせた。孫和に長沙桓王(孫策)の廟を祭らせたのである。杜佑によると、孫権は建業に都をおき、孫策廟を朱雀橋の南に設置した。
孫和妃(張承の娘)の叔父は、張休(張昭の子、張承の弟)である。張休は、孫策廟の近くに住んでおり、孫和は張休の家の前に窺った(過=窺)。全公主は、人に見に行かせ、孫権に「孫和は、廟に行かず、専ら妃の家にゆき、謀をしてます」、「王夫人は、孫権が病気なのを喜んでいます」と告げ口した。

孫和伝の書きぶりだと、全公主が、孫和失脚のキーマン。全公主が、王夫人(とその子の孫和)をにくみ、その失脚を願って、孫権のウソを吹きこんだことから、事件が始まったと書かれている。

孫権は怒り、王夫人を憂死させ、孫和への寵愛が衰え、廃太子を怖れた。魯王孫覇は、次代皇帝を狙うようになった。陸遜・吾粲・顧譚らは、孫和を支持した。全寄・楊竺は、孫覇を支持して、日増しに強くなった。

周寿昌によると、孫覇伝のなかに、孫覇派として、呉安・孫奇がある。歩隲は、孫覇派として見えない。歩隲伝にも記述がなく、周昭が歩隲を論じたときも、孫覇派のことはないから、次の裴注『通語』に歩隲が見えるのは、誤りであろうと。

吾粲は下獄して誅され、顧譚は交州に徙された。孫権は、数年間、沈吟した(決めたいが決めかねた)。

〔一〕殷基通語曰、初権既立和為太子、而封霸為魯王、初拝猶同宮室、礼秩未分。羣公之議、以為太子、国王上下有序、礼秩宜異、於是分宮別僚、而隙端開矣。自侍御賓客造為二端、仇党疑貳、滋延大臣。丞相陸遜、大将軍諸葛恪、太常顧譚、驃騎将軍朱拠、会稽太守滕胤、大都督施績、尚書丁密等奉礼而行、宗事太子、驃騎将軍歩騭、鎮南将軍呂岱、大司馬全琮、左将軍呂拠、中書令孫弘等附魯王、中外官僚将軍大臣挙国中分。権患之、謂侍中孫峻曰「子弟不睦、臣下分部、将有袁氏之敗、為天下笑。一人立者、安得不乱。」於是有改嗣之規矣。

殷基『通語』にいう。孫和を太子としたが、孫覇を魯王とし、当初は宮室を同じにし、礼制と秩序が未分化であった。群臣は「太子と国王の上下をハッキリせよ:といい、宮殿を分けて、属僚も分けた。これが対立の始まりである。

属僚が別々に付くこと自体は、珍しくない。孫権が、当初、2人を同等に扱ったことの名残で、孫覇派は(帝位への)期待を持ってしまった。
胡三省は、属僚が対立を始めたのが、孫和・孫覇の対立のキッカケとする。

侍御・賓客は対立し、その抗争が大臣にまで及んだ。丞相陸遜・大将軍諸葛恪・太常顧譚・驃騎将軍朱拠・会稽太守滕胤・大都督施績(施績はまだ大都督でなく、当時の大都督は朱然)・尚書丁密らは、礼制どおり孫和を支持した。
驃騎将軍歩騭・鎮南将軍呂岱・大司馬全琮・左将軍呂拠・中書令孫弘らは、魯王に付いた。

孫権死後の勢力争いに加わった人たちが、名前を連ねている。二宮事件と、孫権死後のドロドロ(諸葛恪暗殺から始まる、短期政権の交代劇)を、連続して捉えるべきなんだろう。

内外の官僚・将軍・大臣は、国を挙げて二分した。孫権は患い、侍中孫峻に、「子弟・臣下が分裂している。袁紹の衰退と同じになれば、天下に笑われる。どちらか1人を選べば、乱が起きちゃうよ」と。

のちの政争の立役者・孫峻が出てきてる!


臣松之以為袁紹、劉表謂尚、琮為賢、本有伝後之意、異於孫権既以立和而復寵霸、坐生乱階、自構家禍、方之袁、劉、昬悖甚矣。歩騭以徳度著称、為呉良臣、而阿附於霸、事同楊竺、何哉。和既正位、適庶分定、就使才徳不殊、猶将義不党庶、況霸実無聞、而和為令嗣乎。夫邪僻之人、豈其挙体無善、但一為不善、衆美皆亡耳。騭若果有此事、則其餘不足観矣。呂岱、全琮之徒、蓋所不足論耳。

裴松之の意見。袁紹・劉表は、下の子が賢いから、下の子に継がせようとした(意志は決まっていた)。孫権は、孫和を太子にしたが、そのくせ孫覇を立てて災いを招いたのだから、袁紹・劉表よりもひどい。

『通語』で孫権は、袁紹の失敗を繰り返すまいぞ!と自戒するが、裴松之に言わせれば、孫権は袁紹よりも劣るのである。孫権は、そのことすら分かっていないと。

歩隲は見識者なのに、楊竺と同様に孫覇を支持したのはなぜか。

上に引いた周寿昌の説で、歩隲は孫覇派ではないとされていた。

すでに孫和は太子で、嫡子・庶子の区別が定まっている。才能がなくても孫和を立てるべきだし、まして孫和は才能があった。孫覇派は、ダメである。孫覇派の呂岱・全琮は、ダメ過ぎて論じるに足らない。

孫和伝03_二宮事件の始末

後、遂幽閉和。於是、驃騎将軍朱拠、尚書僕射屈晃、率諸将吏、泥頭自縛、連日詣闕、請和。権、登白爵観、見、甚悪之。敕拠晃等、無事忩忩。権、欲廃和立亮。無難督陳正、五営督陳象、上書称引、晋献公殺申生、立奚斉、晋国擾乱。又拠晃、固諫不止。権大怒、族誅正象。拠晃、牽入殿杖一百〔二〕。

のちに、孫和を幽閉した。すると、驃騎将軍朱拠・尚書僕射屈晃が、将吏をひきい、泥頭自縛で、連日にわたり宮殿にいたり、孫和(を赦してくれと)請願した(朱拠伝を参照)。孫権は、白爵観(建業の宮中にある殿)からこれを見て、にくんだ。朱拠・屈晃に、軽率なことをするなと敕した。孫権は、孫和を廃して孫亮を立てたい。無難督陳正・五営督陳象は、

胡三省によると、呉主は、左右無難の営兵を置き、また五営の営兵を置き、それぞれ督にこれを領させた。

晋献公は申生を殺し、奚斉を立てたから、晋国は擾乱した、と上書した。朱拠・屈晃は、きつき諫めた。孫権は怒り、陳正・陳象を族誅し、朱拠・屈晃は宮殿に引かれ杖100の刑とされた。

朱拠伝 注引 殷基『通語』も、晋献公のことを引いている。

『資治通鑑』では、陳正・陳象が族誅され、朱拠・屈晃は宮殿に入り、それでも諫め続けたから、杖100としたと(筋が通りやすく改変)してある。朱拠は、公主をめとり、丞相を兼ねて領した重臣なのに、宮殿の階下で杖で打って辱めるなんて、夏桀・殷紂と同じじゃないかと。

〔二〕呉歴曰、晃入、口諫曰「太子仁明、顕聞四海。今三方鼎跱、実不宜搖動太子、以生衆心。願陛下少垂聖慮、老臣雖死、猶生之年。」叩頭流血、辞気不撓。権不納晃言、斥還田里。孫晧即位、詔曰「故僕射屈晃、志匡社稷、忠諫亡身。封晃子緒為東陽亭侯、弟幹、恭為立義都尉。」緒後亦至尚書僕射。晃、汝南人、見胡沖答問。呉書曰、張純亦尽言極諫、権幽之、遂棄市。

『呉歴』によると、屈晃が(宮殿に入ると)口頭で諫め、「太子の仁明は知れ渡っており、三国鼎立した今日、軽々しく太子を変えてはいけない」といった。孫権は屈晃の発言を聞かず、故郷に送還した。孫晧が即位すると、「屈晃は社稷の臣である」といい、子弟に官職を与えた。
屈晃は汝南の人で、胡沖『答問』に見える。

胡沖は『呉歴』の著者(文帝紀 黄初七年)。『隋志』『唐志』に見えず、裴松之が引いた屈晃のこと(を書いた『答問』というの)は、伝え書きの類いか。胡沖は胡綜の子であり、胡綜伝に見える。天紀期、中書令となり、西晋にも仕えた。


竟徙和、於故鄣。羣司坐諫誅放者、十数。衆咸寃之〔三〕。
〔三〕呉書曰、権寝疾、意頗感寤、欲徴和還立之、全公主及孫峻、孫弘等固争之、乃止。

孫和を故鄣に徙した。諫めたせいで誅殺・追放された者は、十を数えたが、みなは冤罪と考えた。

故鄣は、呉主伝 赤烏三年。秦が楚を滅ぼすと、鄣県を設置し、鄣郡とした。漢は故鄣郡とし、丹陽郡に属させ、呉では呉興郡に属させた。趙一清によると、この時点では呉興郡はまだ無いから(孫和が赴いたときの故鄣は)丹陽郡である。

『呉書』によると、孫権が病気になり、感じ入って孫和を太子に戻そうとしたが、全公主・孫峻・孫弘らが、きつく反対したので、実現しなかった。

胡三省によると、全公主・孫峻・孫弘は、孫和が太子に復帰すると、自分の不利益になるから、反対したのである。
ぼくは思う。孫和派を引きずる諸葛恪と、諸葛恪に対立的な孫峻という、孫権死後の朝廷での対立が、すでに胚胎していた。


孫和伝04_諸葛恪が推戴を計画する

太元二年正月、封和為南陽王、遣之長沙。四月権薨、諸葛恪秉政。恪、即和妃張之舅也。妃使黄門陳遷、之建業上疏中宮、并致問於恪。臨去、恪謂遷曰「為我達妃、期当使勝他人」此言頗泄。又、恪有徙都意、使治武昌宮。民間或言、欲迎和。

太元二年正月、南陽王に封建され、長沙に派遣された。四月、孫権が薨ずると、諸葛恪が執政したが、諸葛恪は孫和の妃である張氏のおじである。

張承は、諸葛瑾のむこである。孫和の妃(張妃)は、張承の娘である。張妃は、諸葛瑾の外孫の娘にあたるから、諸葛恪にとって、めいである。

張妃は、黄門をつかわし、建業で諸葛恪を訪問させた。去りぎわ、諸葛恪は黄門に、「張妃(孫和の妻)にお伝えください。まもなく、他人より優れた立場になれます」と。この発言が、モレてしまった。

諸葛恪は「廃立」をおこない、孫亮を廃して、孫和を皇帝とする算段があったことになる。

また、諸葛恪には遷都の意志があって、武昌宮を修繕した。民間では、「孫和を迎えるつもりらしい」とあった。

及恪被誅、孫峻、因此、奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死。和与妃張辞別、張曰「吉凶当相随、終不独生活也」亦自殺、挙邦傷焉。

諸葛恪が誅殺されると、孫峻は(南陽王の)璽綬を孫和から奪い、新都郡(治は始新県)に徙して、使者を派遣して死を賜った。
孫和は、張妃と別れるとき、張妃は「吉凶をご一緒します。私だけ生き残ることはありません」といい、自殺した。国をあげて、孫和・張妃の死を悼んだ。
以降は、孫和の子・孫晧のターンになるので、また別のときに。

孫覇伝01_督軍使者羊衜の上疏

孫霸、字子威、和同母弟也。和為太子、霸為魯王、寵愛崇特、与和無殊。頃之、和霸不穆之声、聞於権耳。権、禁断往来、仮以精学。督軍使者羊衜、上疏曰、

孫覇は、孫和の同母弟である。実際は、孫和は王夫人の子、孫覇は謝夫人の子である。孫和と孫覇の不和が、孫権に聞こえるようになると、(孫和・孫覇に、それぞれ賓客との)往来を禁止し、学問をせよと命じた。
督軍使者の羊衜が上疏した。

「臣聞、古之有天下者、皆先、顕別適庶、封建子弟。所以尊重祖宗、為国藩表也。二宮拝授、海内称宜、斯乃大呉興隆之基。頃聞、二宮並絶賓客、遠近悚然、大小失望。窃従下風聴採衆論、咸謂、二宮智達英茂、自正名建号於今三年、徳行内著、美称外昭、西北二隅、久所服聞。謂、陛下当副順遐邇所以帰徳、勤命二宮賓延四遠、使異国聞声思為臣妾。今既未垂意於此、而発明詔、省奪備衛、抑絶賓客、使四方礼敬不復得通。雖実陛下、敦尚古義、欲令二宮専志於学、不復顧慮観聴小宜、期於温故博物而已、然、非臣下傾企喁喁之至願也。或謂、二宮不遵典式。此、臣所以寝息不寧。就如所嫌、猶宜補察、密加斟酌、不使遠近得容異言。臣懼、積疑成謗、久将宣流、而西北二隅、去国不遠、異同之語、易以聞達。聞達之日、声論当興、将謂、二宮有不順之愆。不審、陛下何以解之。若無以解異国、則亦無以釈境内。境内守疑、異国興謗、非所以育巍巍鎮社稷也。願陛下、早発優詔、使二宮周旋礼命如初。則天清地晏、万国幸甚矣。」

羊衜「古に天下を治めた者は、嫡庶の区別をあきらかにし、子弟を封建して、藩屏としました。二宮は、ともに天下に賞賛されており、呉国の前途は明るいかと思いきや、二宮は賓客を遮断されてしまいました。異国の賓客が、二宮の名声を聞いても、訪問できません。警備・賓客を削って、学問に専念させたら、二宮が優れた人物に育たないことが心配です。魏・蜀にも、呉はもうダメだと思われるでしょう。孫和・孫覇の立場をハッキリ区別した上で、孫和は太子として、孫覇は藩屏として、賓客と交わる機会を作ってやりなさい」

羊衜は、公孫淵伝 注引『漢晋春秋』で、遼東の使者を斬るなといった。呉主伝の赤烏二年、遼東への使者となった。孫登伝で、孫登の四友となった。鍾離牧伝 注引『会稽典録』に始興太守として見える。など、じつは登場回数が多い、重要な人物。


孫覇伝02_孫覇派の末路

時、全寄、呉安、孫奇、楊竺等、陰共附霸、図危太子。譖毀既行、太子以敗、霸亦賜死。流竺屍于江。兄穆、以数諫戒竺、得免大辟、猶徙南州。霸賜死後、又誅、寄、安、奇等。咸以党霸搆和故也。

このとき、全寄・呉安・孫奇・楊竺らは、ひそかに孫覇に付いて、孫和に危害を加えようとした。孫和をそしり、孫和が敗れると、孫覇も死を賜った。楊竺の死体を長江に流した。兄の楊穆は、しばしば楊竺を戒めたので、免官で済んで、南州に徙された。
孫覇が死を賜ってから、全寄・呉安・孫奇らを誅殺した。いずれも孫覇の党派を形成して、孫和と対立をしたからである。

「霸二子」孫覇には2人の子がおり……というのは、また後日。171231

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03_『三国志集解』妃嬪伝

孫権の歩夫人伝

呉主権歩夫人、臨淮淮陰人也、与丞相騭同族。漢末、其母攜将徙廬江。廬江為孫策所破、皆東渡江。以美麗得幸於権、寵冠後庭。生二女、長曰魯班字大虎、前配周瑜子循、後配全琮。少曰魯育字小虎、前配朱拠、後配劉纂〔一〕。
〔一〕呉歴曰、纂先尚権中女、早卒、故又以小虎為継室。

孫権の歩夫人は、歩隲の同族。漢末、母に連れられて(臨淮淮陰から)廬江に移ったが、そこが孫策に破られ、長江を東に渡った。
娘2人を生み、長女は孫魯班(大虎)で、周瑜の子・周循と結婚し、のちに全琮と結婚した。
次女は孫魯育(小虎)で、朱拠と結婚し、のちに劉纂と結婚した。

劉纂は車騎となる(孫峻伝)。『抱朴子』譏惑篇によると、呉で書道がうまいのは、皇象・劉纂・岑伯然・朱季平であり、みな一代の絶手であったという。
孫魯班と孫峻は私通し、孫峻は孫魯育を殺したと、孫峻伝にある。

『呉歴』によると、劉纂は、まず孫権のまんなかの娘と結婚したが、早くに卒したので、さらに小虎と結婚した。

夫人、性不妬忌、多所推進、故久見愛待。権為王及帝、意欲以為后、而羣臣議在徐氏。権、依違者十餘年。然、宮内皆称皇后、親戚上疏称中宮。及薨、臣下、縁権指、請追正名号。乃贈印綬、策命曰「惟、赤烏元年閏月戊子、皇帝曰、嗚呼皇后、惟后、佐命、共承天地。虔恭夙夜、与朕均労。内教脩整、礼義不愆、寛容慈恵、有淑懿之徳。民臣県望、遠近帰心。朕、以世難未夷大統未一、縁后雅志、毎懐謙損、是以于時未授名号、亦必謂后降年有永、永与朕躬対揚天休。不寤奄忽、大命近止。朕、恨本意不早昭顕、傷后殂逝、不終天禄。愍悼之至、痛于厥心。今使使持節丞相醴陵亭侯雍、奉策授号、配食先后。魂而有霊、嘉其寵栄。嗚呼哀哉」葬於蒋陵。

歩夫人は嫉妬せず、ほかの女性の後ろ盾になったから、孫権に愛された。孫権が呉王・呉帝になると、皇后にしたいが、群臣は徐氏を推薦するので、決着できず10余年が経った。しかし(皇后に立てられずとも)宮内ではみな「皇后」と呼び、親戚は「中宮」と称した。薨ずると、赤烏元年閏月戊子、皇后と謚された。使持節・丞相・醴陵侯の顧雍が、皇后とする策文を届けた。蒋陵に葬られた。

潘眉によると、この歳、魏は閏十一月があり、呉は閏十月があった。けだし魏は景初暦をもちい、呉は夏正を用いたから。蜀と呉は、同じ暦を使っており、魏の景初二年にあたる。
顧雍伝によると、はじめ陽遂郷侯となり、すすんで醴陵侯となった。子の顧裕が、醴陵侯となった。けだし、郷侯から進んだのだから、県侯であるはずで、「亭」字は衍字である。

二宮事件に係わる、孫魯班・孫魯育の情報は、少なかった。

孫権の王夫人(孫和の母)

呉主権王夫人、琅邪人也〔一〕。夫人、以選入宮、黄武中得幸、生孫和。寵次歩氏。歩氏薨後、和立為太子、権将立夫人為后。而全公主、素憎夫人、稍稍譖毀、及権寝疾、言有喜色。由是、権深責怒、以憂死。和子晧立、追尊夫人曰大懿皇后、封三弟皆列侯。
〔一〕呉書曰、夫人父名盧九。

王夫人は、琅邪の人。『呉書』によると、父の名は、王廬九という。黄武期に寵愛され、孫和を生んだ。

孫和は赤烏五年に十九歳だったので、黄武三年の生まれである。その前年の黄武二年に、後宮に入ったのだろうと。

寵愛は、歩氏に次いだ。歩氏が薨じ、孫和が太子になると、孫権は王夫人を皇后にしようとした。しかし、全公主は王夫人をにくみ、孫権に向けて王夫人をそしった。孫権が病気になると、喜色を浮かべたとして、王夫人は憂死させられた。
(孫の)孫晧が皇帝となると、王夫人は、大懿皇后と謚された。

孫和伝よりも、情報が増えることがなかった。


孫権の王夫人(孫休の母)

呉主権王夫人、南陽人也、以選入宮。嘉禾中得幸、生孫休。及和為太子、和母貴重、諸姫有寵者、皆出居外。夫人、出公安、卒、因葬焉。休即位、遣使追尊曰敬懐皇后、改葬敬陵。王氏無後、封同母弟文雍為亭侯。

孫権の王夫人は、南陽の人。嘉禾期に寵愛され、孫休を生んだ。

孫休は永安七年に死んだとき、三十歳だったので、嘉禾四年の生まれ。

孫和が太子となると、孫和の母が尊重され、それ以外の夫人は、みな外に出された。

孫和・孫覇の区別は付けられなかった孫権だが、夫人たちの秩序は、付けることができた。10余年にわたり、歩夫人を皇后にしたいが、できなかった。しかし歩夫人が死んでしまえば、孫和母の王夫人を、実質的な皇后として扱うことに、迷いがなかったみたい。

(孫休母の)王夫人は、公安(劉璋伝に見ゆ)に出て死んだ。孫休が即位すると、敬懐皇后と謚された。

存在感がなかった。。一族の裏付けがなかったのだろう。


孫権の潘夫人

呉主権潘夫人、会稽句章人也。父為吏、坐法死。夫人与姊俱輸織室、権見而異之、召充後宮。得幸有娠、夢有、以龍頭授己者、己以蔽膝受之。遂生孫亮。赤烏十三年、亮立為太子。請出嫁夫人之姊、権聴許之。明年、立夫人為皇后。性険、妬容媚。自始至卒、譖害袁夫人等、甚衆〔一〕。権不豫、夫人使問中書令孫弘、呂后専制故事。侍疾疲労、因以羸疾、諸宮人伺其昬臥、共縊殺之、託言中悪。後事泄、坐死者六七人。権、尋薨、合葬蒋陵。孫亮即位、以夫人姊壻譚紹、為騎都尉、授兵。亮廃、紹与家属送本郡廬陵。
〔一〕呉録曰、袁夫人者、袁術女也、有節行而無子。権数以諸姫子与養之、輒不育。及歩夫人薨、権欲立之。夫人自以無子、固辞不受。

孫権の潘夫人は、姉とともに織室(宗廟の衣服を奉ず)に入り、孫権に見出された。夢で龍頭をさずかり、孫亮を生んだ。赤烏十三年、孫亮が皇太子となると、潘夫人の姉を(織室から出して)外で嫁がせてもらった。

孫亮伝によると、孫亮の姉の全公主は、孫和の母子をそしった。赤烏十三年、孫和が廃され、孫亮が太子となる。孫亮は八歳、孫権は六十九歳であった。晩年に兄弟順を反転させ、溺愛する幼子を立てたのである。
ここでも全公主のみがキーマンとされ、それ以外の説明が付かない。

翌太元元年、潘夫人が皇后となる。嫉妬深く、袁夫人を讒言で殺害するなど、ひどかった。『呉録』によると、袁夫人は袁術の娘で、節行あるが子がなかった。孫権は袁夫人に、姫や子らを養わせたが、育たなかった。歩夫人が薨ずると、孫権は袁夫人を皇后にしたいが、子がいないとして固辞した。

孫権が危篤になると、潘夫人は、中書令孫弘に、呂后が専制した固辞を訊ねた。孫権の看病づかれで寝ていると、宮人たちは潘夫人を縊り殺して、「にわかに死んだ」と言った。後にバレて、6,7人が罪により死んだ。すぐに孫権が死に、蒋陵に合葬された。

孫権には、ほかに仲姫がいた。孫奮伝に見える。……というのは、孫奮伝に「孫奮、字子揚、霸弟也、母曰仲姫」とある。
孫権の子の孫奮は、母を「仲姫」という(孫奮伝)が、母は妃嬪伝に見えず、伝記が未詳。孫奮は、袁術の孫娘と結婚している。「仲」という姓の人は、知りません。兄弟順を示す「仲」が、妻の呼称に使われるのも違いそう。孫奮の母は、袁術(仲王朝の皇帝)の関係者で、袁術系と婚姻を重ねたのでは。孫奮は、孫晧の時期に皇帝になりかけた。


孫亮の全夫人

孫亮全夫人、全尚女也。尚従祖母公主、愛之、毎進見、輒与俱。及潘夫人母子有寵、全主自以与孫和母有隙、乃勧権為潘氏男亮納夫人。亮遂為嗣。夫人立為皇后、以尚為城門校尉、封都亭侯、代滕胤為太常、衛将軍、進封永平侯、録尚書事。時、全氏、侯有五人、並典兵馬、其餘為侍郎、騎都尉、宿衛左右。

孫亮の全夫人は、全尚の娘。

全尚の妻は、孫峻の姉である(朱夫人伝)。孫綝伝に、「孫亮の妃は、孫綝の従姉の娘」とある。『資治通鑑』は、会稽の潘夫人は孫権に寵愛されて孫亮を生み、孫亮は愛された。全公主はすでに孫和と仲が悪いので、しばしば孫亮をほめて、夫の兄の子である全尚の娘を(孫亮の)妻としたとする。胡三省によると、のちに孫綝が全尚を殺して孫亮を廃したのは、全公主が原因を作ったという。

全尚の従祖母(全公主)が、孫亮を愛し、孫権に合うたびに連れて行った。潘夫人の母子(孫休とその母)が寵愛されると、全公主は自分が孫和母と仲が悪いので、全公主は孫権の勧めて、潘夫人の子である孫亮に、夫(全琮)の家の娘を結婚させた。これが全夫人である。

全公主は、孫和の母子が嫌いではあるが、「孫覇派」ではない。孫和でなければ、誰でも良かったほど。孫和・孫覇が喧嘩両成敗になったあと、孫亮が立ったのは、孫権が(孫和・孫覇と関わりなく)孫亮自体を愛していたからであり、全公主はそれを見越して、孫亮との関係を結んでおいた。

孫亮が皇帝となると、全夫人を皇后とし、全尚は(建興初、252年)城門校尉・都亭侯となり、高位に昇った、云々。

孫休の朱夫人

孫休朱夫人、朱拠女、休姊公主所生也〔一〕。赤烏末。権為休納、以為妃。休為琅邪王、随居丹陽。
〔一〕臣松之以為休妻其甥、事同漢恵。荀悦譏之已当、故不復広言。

孫休の朱夫人は、朱拠の娘。朱夫人の母は、孫休の姉の公主(朱公主=孫魯育)。孫休がオジで、朱夫人(孫魯育の娘)がメイであり、孫権が結婚させた。裴松之によると、メイを妻としたのは、前漢恵帝と同じである。荀悦が(『前漢紀』で)これを批判しているから、繰り返さない。

荀悦『前漢紀』によると、恵帝四年、皇后の張氏を立てた。恵帝の長姉である、魯元公主の娘である。呂太后は、重親(血縁者の婚姻を重ねて、より血の結びつきを濃くしようと)恵帝をメイと結婚させたのである。
前漢恵帝は、呂太后のサシガネでメイ(姉の娘)と結婚し、荀悦『漢紀』はその意図を「欲為重親」とする。呉の孫権は、子の孫休(三代皇帝となる)に、孫魯育の娘を結婚させており、これもオジ・メイの結婚。近親相姦がなぜタブーなのか、実は不明である(というか、それぞれが属する文化によって決まる)のだから、この婚姻の意図を探るのは面白そう。
近親相姦は、前近代中国でどのように捉えられたのか気になります。現代の生物学的に不適切とか(遺伝子の短所を補えない)とか、人類学的に無意味(女性は集団間で交換される財であるべき)とか、そんな説明は付かない。荀悦が推測した所の呂太后の考え(重親)も直感的に分からないでもなく、荀悦の考えも掘り下げたい。

赤烏末期、孫権が(当時十六歳の)孫休に、(朱拠と孫魯育の間に生まれた)娘をめとらせ、妃とした。(太和二年)孫休が琅邪王になると、随行して丹陽(呉主伝によると虎林に行き、諸葛恪によって丹陽に徙された)に居した。

ここから一時的に全公主(朱公主の姉)の話になる。

建興中、孫峻専政、公族皆患之。全尚妻、即峻姊、故惟全主祐焉。初、孫和為太子時。全主、譖害王夫人、欲廃太子、立魯王。朱主、不聴、由是有隙。

建興期、孫峻が専政すると、公族(どの範囲?)はみな気に病んだが、全尚の妻は孫峻の姉なので、ゆえに全公主だけが安泰であった。
これより先、孫和が太子であったとき、全公主は王夫人をそしり、太子を廃して、魯王を立ててやりたい。しかし、朱公主はこれに反対したから、(全公主と朱公主は姉妹で)仲が悪くなった。

五鳳中、孫儀謀殺峻、事覚、被誅。全主、因言朱主与儀同謀、峻枉殺朱主。休懼、遣夫人還建業、執手泣別。既至、峻遣還休。

五鳳期(254-256)、孫儀が孫峻を殺そうとしたが、発覚して誅された(孫亮伝の五鳳二年)。全公主は、朱公主が孫儀の計画に加わったとして、孫峻は朱公主を殺した。孫休はおそれ、朱夫人(朱公主の娘)を(丹陽から)建業に派遣し、手をとって泣いてから別れた。建業に至ると、孫峻は朱夫人を孫休のもとに還した(朱夫人に孫休を連坐させなかった)。

太平中、孫亮知朱主為全主所害、問朱主死意。全主、懼曰「我実不知。皆拠二子熊損所白」亮殺熊損。損妻、是峻妹也、孫綝益忌亮、遂廃亮、立休。永安五年、立夫人為皇后。休卒、羣臣尊夫人為皇太后。孫晧即位月餘、貶為景皇后、称安定宮。甘露元年七月、見逼、薨。合葬定陵〔二〕。

…………つづきは後日。171231

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04_『三国志集解』太子和派の列伝

『三国志』巻五十七 朱拠伝より

赤烏九年、遷驃騎将軍。遭二宮搆争。拠、擁護太子、言則懇至、義形于色、守之以死〔一〕。遂、左遷新都郡丞。未到、中書令孫弘、譖潤拠。因権寝疾、弘為詔書、追賜死、時年五十七。孫亮時、二子熊、損、各復領兵。為全公主所譖、皆死。永安中、追録前功。以熊子宣、襲爵雲陽侯、尚公主。孫晧時、宣至驃騎将軍。
〔一〕殷基通語載拠争曰「臣聞太子国之本根、雅性仁孝、天下帰心、今卒責之、将有一朝之慮。昔晋献用驪姫而申生不存、漢武信江充而戻太子寃死。臣窃懼太子不堪其憂、雖立思子之宮、無所復及矣。」

朱拠は、赤烏七(246)年、驃騎将軍に遷った。二宮が争うと、朱拠は太子を擁護し、懇ろに説明し、正しさが顔に表れており、死んでも譲らないほど。
殷基『通語』は、朱拠の意見を載せている。
朱拠「太子孫和は国の根本なのに、彼を責めては、国家のためになりません。むかし晋献公は、驪姫(の意見)を用いて(太子)申生は生きてゆけず(新城で自ら縊死したと、『春秋左氏伝』僖公四年にあり)、漢武帝は江充(の意見)を信じて戻太子を冤罪で殺してしまった。太子孫和が、今日の状況に耐えられず(申生のように自殺するのが)心配で、太子の死後、(漢武帝のように太子殺害を後悔して)思子宮を立てても、太子は生き返らないのです」と。

朱拠は、新都郡丞に左遷された。任地に到着する前に、中書令孫弘が(孫権に向かって)朱拠をそしり、孫権が病気になったとき、かってに詔をつくり、追って死を賜った(赤烏十三年のこと)。57歳であった。

赤烏十二年、朱拠はなお丞相を領したと、孫権伝に見える。何焯の説によると、魏の孫資・呉の孫宏(孫弘?)は、みな国政を誤らせた。蜀は董允を用いたが、比べられようかと。

孫亮の時代、二子の朱熊・朱損は、ふたたび兵を領したが、全公主に譏られて 孫亮に(孫峻・孫綝の派閥と見なされ)嫌われて、どちらも死んだ。

朱熊・朱損の死は、孫綝伝に見える。朱損の妻は、孫峻の妹である(孫休朱夫人伝)。
妃嬪伝に、太平期、孫亮は朱公主が全公主に殺されたと知り、朱公主の死んだ理由を(全公主に)質問した。全公主は懼れ、「知らん。朱熊・朱損(朱拠の二子である)が(わたしく全公主のシワザだと)言ったのだ」と言った。孫亮は、朱熊・朱損を殺した。
孫綝伝によると、孫亮は、本心では孫綝を嫌っていたから、孫魯育(朱公主)が殺された事情を知り、「虎林督朱熊・外部督朱損が、孫峻を匡正しなかったのが悪い」として、丁奉に命じて、朱熊を虎林で殺し、朱損を建業で殺した。
銭大昕が考えるに、妃嬪伝・孫綝伝をあわせると、朱熊・朱損の死は、孫亮の意志であり、全公主が譏ったからではない。全公主が、朱氏2人に罪をなすりつけたとは言えるが、全公主がそしっ(て朱氏が殺される原因を作っ)たと言うことはできない。
ぼくは思う。なんでも全公主のせいではないのです。朱損が、孫綝の妹を妻としているから、孫亮に悪まれて殺された。

のちに名誉を回復され、朱熊の子が驃騎将軍となった。

『三国志』巻五十八 陸遜伝

先是、二宮並闕、中外職司多遣子弟給侍。全琮報遜、遜以為、子弟苟有才、不憂不用、不宜私出以要栄利。若其不佳、終為取禍。且聞、二宮勢敵、必有彼此、此古人之厚忌也。琮子寄、果阿附魯王、軽為交構。遜、書与琮曰「卿、不師日磾、而宿留阿寄。終為足下門戸致禍矣」琮既不納、更以致隙。

二宮の府が並び立ち、内外の官僚は、子弟を給侍させた。全琮は陸遜に(二宮の並存を)伝えると、陸遜は、「子弟に才能があれば、任用されない心配は要らない。かってに(皇帝からの辞令がないのに)二宮に子弟を送りこみ、栄利を欲しがるべきでない」といった。もし(給侍した先が)コケたら、自分の一族に禍いを招くと考えた。しかも、対等勢力が張りあえば、必ずや優劣がつき、これ(このように対立を煽ること)は古人が避けてきたことであると。
全琮の子の全寄は、果たして魯王に阿付し、軽々しく交際を広げた。陸遜は全琮に書を与え、「あなたは金日磾を教訓とせず、全寄を魯王覇のところに行かせているが、全一族に禍いを招くよ」と諭した。全琮は聞き入れず、陸遜・全琮のあいだに対立が生まれた。

金日磾の長子である弄児は、態度が大きくて謹まず、かってに宮殿に出入りした。皇帝はこれを聞いて怒った。金日磾は、弄児を殺して詫びた。皇帝は金日磾を尊敬したから、この結果を理解してくれた。


及太子有不安之議、遜上疏陳「太子正統、宜有盤石之固。魯王藩臣、当使寵秩有差。彼此得所、上下獲安。謹叩頭流血、以聞」書三四上。及求詣都、欲口論適庶之分、以匡得失。既不聴許、而遜外生、顧譚、顧承、姚信、並以親附太子、枉見流徙。

太子孫和に不安の議(立場が安泰ではない、もしくは不適任であるという意見)が起こると、陸遜が上疏した。「太子は正統(正嫡)であり、立場を盤石とすべき。魯王は藩臣だから、寵愛に差を付けるべき。区別をすれば、国家は安定する」と。上書は、3,4たび提出された。陸遜は、自分が都にゆき(孫権に)得失を正したいが、許されなかった。
陸遜の外甥である顧譚・顧承・姚信は、

顧承伝に、「嘉禾中、顧承は、舅の陸瑁とともに」とあり、陸瑁は陸遜の弟である。『資治通鑑』は、太常顧譚は、陸遜の甥である、とある。
姚信のことは、陸績伝 注引『姚信集』にある。

みな太子和に親付し、冤罪により流徙された。

顧譚・顧承のことは、彼らの列伝にある。


太子太傅吾粲、坐数与遜交書、下獄死。権、累遣中使、責譲遜。遜、憤恚致卒、時年六十三、家無餘財。

太子太傅の吾粲は、しばしば陸遜と文書交換をしたから、下獄して殺された。

吾粲のことは、彼らの列伝にある。

孫権は、しばしば中使を派遣して、陸遜を譴責した。陸遜は、憤死した。63歳。家に余財はなかった。

陸遜は、赤烏八年二月に卒した(呉主伝)。
ぼくは思う。陸遜は、なぜ孫権に疎まれたのか。顧譚・顧承・吾粲らについて調べると、何かが分かるかも。


……又、広陵楊竺、少獲声名。而遜謂之終敗、勧竺兄穆、令与別族。其先覩、如此。

広陵の楊竺は、若いとき声名を得た。しかし陸遜は、最終的に楊竺が失敗すると考え、に兄の楊穆には、族を分けるようにアドバイスした。陸遜の先見は、このとおりであった。『三国志集解』に指摘はないが、楊竺は、魯王覇派。

『三国志』巻五十七 吾粲伝

吾粲、字孔休、呉郡烏程人也〔一〕。……雖起孤微、与同郡陸遜卜静等、比肩斉声矣。……
〔一〕呉録曰、粲生数歳、孤城嫗見之、謂其母曰「是児有卿相之骨。」

吾粲は、呉郡烏程の人。『呉録』によると、生まれて数年で、孤城のおばあさん(趙達伝に見える鄭嫗)が、吾粲の母に「この子は、卿相になる骨相をしている」といった。孤微の出身であるが、同郡の陸遜・卜静と名声を比肩した。
歩隲伝によると、潁川の張昭は、「吾粲は牧童の出身であるが、顧豫章(顧承)がその善さを揚げた」と言っている。

入為屯騎校尉、少府、遷太子太傅。遭二宮之変、抗言執正、明嫡庶之分。欲使魯王霸、出駐夏口、遣楊竺、不得令在都邑。又、数以消息語陸遜、遜、時駐武昌、連表諫争。由此、為霸竺等所譖害、下獄誅。

屯騎校尉、少府となり、太子太傅に遷った。

太子太傅の任命までは、公式の人事である。

二宮の変に遭うと、正しいと思うことを言い、嫡庶の分を明らかにした。魯王覇を、夏口に出駐させ、楊竺を派遣して、都邑から追いだそうとした。また、たびたび陸遜と文書交換をした。当時、陸遜は武昌に出ており、しきりに上表して(孫権を)諫めた。これにより、孫覇・楊竺らにそしられ、下獄して誅された。

記述はないが、孫覇・楊竺は、「吾粲が陸遜と、よからぬ策謀(孫権に対する謀叛)を企て、情報交換をしております」とか言ったのだろう。孫権は、呉郡で名声を等しくする、陸遜・吾粲を警戒した。


『三国志』巻五十二 顧譚伝01_二宮抗争

顧邵は、母方のおじにあたる陸績と並び称せられ、陸遜・張敦・卜静は彼よりも劣った。顧邵は、孫策の娘をめとった。……顧邵の子は、顧譚・顧邵である。

譚、字子默、弱冠与諸葛恪等、為太子四友。従中庶子、転輔正都尉〔一〕。
〔一〕陸機為譚伝曰、宣太子正位東宮、天子方隆訓導之義、妙簡俊彦、講学左右。時四方之傑畢集、太傅諸葛恪等雄奇蓋衆、而譚以清識絶倫、独見推重。自太尉范慎、謝景、羊徽之徒、皆以秀称其名、而悉在譚下。

顧譚は、諸葛恪らと太子四友となった。中庶子から、輔正都尉に転じた。
陸機は『(顧)譚伝』をつくり、孫登が太子になると、諸葛恪・顧譚が輔佐した。范慎・謝景・楊鑑 羊衜は、顧譚よりも名声が劣ったという。

……祖父雍卒数月、拝太常、代雍平尚書事。是時魯王霸、有盛寵、与太子和、斉衡。譚上疏曰「臣聞、有国有家者、必明嫡庶之端、異尊卑之礼、使高下有差、階級踰邈。如此則骨肉之恩生、覬覦之望絶。昔、賈誼、陳治安之計、論諸侯之勢。以為、勢重、雖親必有逆節之累。勢軽、雖疎必有保全之祚。故、淮南親弟、不終饗国、失之於勢重也。呉芮、疎臣、伝祚長沙、得之於勢軽也。昔漢文帝、使慎夫人与皇后同席、袁盎退夫人之座。帝有怒色、及盎辨上下之儀、陳人彘之戒、帝既悦懌、夫人亦悟。今臣所陳、非有所偏。誠欲以安太子而便魯王也」由是、霸与譚有隙。

祖父の顧雍が死んで数ヵ月で、太常を拝し、顧雍に代わって平尚書事となった。
このとき、魯王覇は寵愛され、太子和と等しい。顧譚は上疏した。「嫡庶・尊卑を区別すれば、肉親の恩が生まれ、僭越な望みが絶たれる。前漢の賈誼は、諸侯の勢力を削った。勢力が重ければ、血縁が近くても、叛逆を考える。勢力が軽ければ、血縁がなくとも、現状に落ち着く。ゆえに、淮南王(高祖の少子である劉長)は叛逆して滅び、呉芮は(皇帝と血縁でないが)長沙王としての封地を全うできた。前漢の文帝は、慎夫人と皇后を同席させると、袁盎が慎夫人を退席させ、文帝を納得させた。太子和・魯王覇のために言っているのです」と。
これにより、孫覇と顧譚は、対立するようになった。

『三国志』巻五十二 顧譚伝02_芍陂の役

時、長公主壻衛将軍全琮子、寄為霸賓客。寄、素傾邪、譚所不納。

ときに長公主(全公主)のムコである全琮の子の全寄は、孫覇の賓客となった。全寄は、生来、邪に傾き(性根がねじ曲がり)、顧譚は受け入れられなかった。

先是、譚弟承、与張休俱、北征寿春。全琮時為大都督、与魏将王淩、戦於芍陂、軍不利、魏兵乗勝、陥没五営将秦児軍。休、承、奮撃之遂駐魏師。

これより先、顧譚の弟の顧承は、張休とともに、寿春に遠征した。全琮は、このとき大都督となり、魏将の王淩と、芍陂で戦ったが、呉軍が大敗して、五営将の秦児の軍が壊滅させられた。

呉主 赤烏四年四月、衛将軍の全琮に淮南を攻略させ、全琮は王淩と芍陂で戦った。中郎将の秦晃ら十余人が戦死した。銭大昕・潘眉によると、「秦児」は「秦晃」に作るべき。

張休・顧承が奮闘したから、魏軍を食い止めることができた。

時、琮羣子緒、端、亦並為将。因敵既住、乃進撃之、淩軍用退。時、論功行賞、以為駐敵之功大、退敵之功小。休承、並為雑号将軍。緒端、偏裨而已。寄父子、益恨、共搆会譚〔三〕。

このとき、全琮の子である全緒・全端は、呉将として参加している。

『資治通鑑』によると、全琮の子の全端・全緒は、公を争ったという。胡三省は、全端・全緒は、全琮の子とする。盧弼によると、全琮の長子は全緒で、全琮伝 注引『呉書』に見え、全琮の従子(おい)の全端は、鍾会伝に見える。全端を全琮の子とする、司馬光・胡三省は誤りであると。

魏軍が止まったので進撃し、王淩軍を退けた。論功行賞において、軍を止めた(張休・顧承の)功績を大とし、軍を退けた(全緒・全端の)功績を小とした。張休・顧承は、どちらも雑号将軍となったが、全緒・全端は、偏将軍・裨将軍となったに過ぎない。

〔三〕呉録曰、全琮父子屡言芍陂之役為典軍陳恂詐増張休、顧承之功、而休、承与恂通情。休坐繋獄、権為譚故、沉吟不決、欲令譚謝而釈之。及大会、以問譚、譚不謝、而曰「陛下、讒言其興乎。」江表伝曰、有司奏譚誣罔大不敬、罪応大辟。権以雍故、不致法、皆徙之。

『呉録』によると、全琮の父子は、しばしば、「芍陂の役は、典軍の陳恂が、いつわって張休・顧承の功績を水増ししており、張休・顧承は陳恂と通じあっている」とチクった。張休は有罪として獄に繋がれた。顧承について孫権は、顧譚が旧臣なので、判決を決めかね、顧譚に弁明させて(顧承を)無罪としてやろうと考えた。しかし顧譚は謝るどころか、「陛下、讒言が盛んに興るようになりますよ」と言った。

これを見ると、全琮・全緒・全端は、不正なことしか言わない。

『江表伝』によると、担当官は、顧譚が不敬であり、罪は大辟(死刑)に該当するといったが、孫権は、顧雍が旧臣なので、法を適用せず、みな徙した。

『太平御覧』巻七百七十五 所引『顧譚別伝』があり、呉では徙刑にあったら財産を没収するのであるが、顧譚は質素であったから、家財を取り上げずにおいた。


譚、坐徙交州。幽而発憤、著新言二十篇。其知難篇、蓋以自悼傷也。見流二年、年四十二、卒於交阯。

顧譚は交州に徙され、幽閉されて発憤し、著作を残した。流されて二年、42歳で交阯で死んだ。
『資治通鑑』によると、孫権が顧譚・顧承・張休を交州に徙したのを、呉の赤烏八年とする。孫権伝を見るに、赤烏四年に孫登が卒し、同五年に孫和が太子となり、孫覇を魯王とし、同六年、顧雍が卒し、同七年、陸遜が丞相となり、同八年、陸遜が卒し、同十三年、孫和が太子を廃されて故鄣にゆき、孫覇が死を賜った。
孫和と孫覇が、宮殿と礼秩を同じくしたのが、両宮が対立した発端である。全公主と王夫人(孫和母)が仲が悪かったのが、禍乱の原因である。顧雍・陸遜が前後して亡くなり、顧譚・顧承の兄弟と張休が、功臣の子なのに流刑にあったのは惜しいことである。芍陂の役がキッカケとなり(顧譚・張承・張休が失脚し)、全公主の讒言が通じてしまったのは、晩年の孫権がボケていたから。

なんだか、孫権末期の混乱の犯人が、全氏に収束してきた。


『三国志』巻五十二 顧承伝

承、字子直。嘉禾中、与舅陸瑁、俱以礼徴。権賜丞相雍書曰「貴孫子直、令問休休。至与相見、過於所聞。為君嘉之」拝騎都尉、領羽林兵。後、為呉郡西部都尉、与諸葛恪等共平山越、別得精兵八千人。還、屯軍章阬、拝昭義中郎将、入為侍中。芍陂之役、拝奮威将軍、出領京下督。

(顧承の子で、顧譚の弟である)張承は、嘉禾中、舅の陸瑁とともに、礼をもって徴された。

陸瑁は、陸遜の弟である。陸遜伝に、外甥の顧譚・顧承・姚信が、いずれも太子和に親付したが、冤罪で流徙されたとある。顧邵は、若いときに陸績と名を等しくし(上記)、顧承もまた舅の陸瑁といっしょに徴された。顧氏・陸氏は、二世代にわたって通婚し、ともに優秀な子がいた。しかし、顧譚・顧承は、孫権にの意に沿わず、陸遜も憤死してしまった。

孫権は、丞相の顧雍(妻は陸康の娘、顧邵の父、顧譚・顧承の祖父)に言った。「あなたの孫の顧承は、会ってみると、評判以上だった。優れた孫でよかったね」と。顧承は騎都尉を拝し、羽林兵を領した。のちに呉軍西部都尉(盧弼注あり)となった。……芍陂の役(の功績)で奮威将軍となり、出て京下督となった。

数年、与兄譚張休等、俱徙交州。年三十七卒。

数年後、兄の顧譚、張休らとともに交州に徙され、37歳で卒した。
張休が死を賜ったのは、41歳のとき。顧譚・顧承は、流刑先で死に、42歳・37歳であった。史書が年齢をきちんと書くのは、若死にを惜しむからであると。顧承の妻は、張温の中妹であり、節行があったと、張温伝 注引『文士伝』に見える。(張温の)一門は忠節で、朝野は関心した。

張昭・陸遜・顧雍の本人や子弟が、互いに通婚していたのだが、全琮の子弟および全公主にやっつけられたのが、二宮事件のようです。 171231

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