曹魏 > 『三国志集解』三少帝紀に関連して

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『三国志』斉王紀_日付考

景初三年

景初三年正月丁亥朔、帝甚病乃立為皇太子。是日即皇帝位、大赦。

景初三年正月丁亥朔、明帝の病が重くなり、曹芳が皇太子となる。同日、皇帝に即位した。

陳垣『二十史朔閏表』は、「景初二年十二月丁亥朔」とする。景初暦は、十二月を正月とするから、こういう書き方になる。
『二十史朔閏表』は、景初への改暦(十二月を正月とする)を、無視して作ってある。三年たらずで、もとの暦(十三月を正月とする)にもどるから、支障はないのでしょう。でも、陳寿の年と月の表記は、ちょっとブレてるので、読解のとき注意せねば。
ちくま訳は、景初三年(二三九)正月丁亥朔(ついたち)(十二月一日)という、ウルトラなぞ表記になってました。


二月……丁丑詔曰、……

二月丁丑(二十一日)に詔した。

『二十史朔閏表』によると、景初三年正月二十一日。ちくま訳は、〔景初三年二月〕丁丑の日(一月二十一日)という、なぞ表記。この時点では、景初暦が解除されてないので、景初暦の二月として、ふつうに「二月」と表記すればいい。


十二月詔曰「烈祖明皇帝、以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀。其復用夏正。雖違先帝通三統之義、斯亦礼制所由変改也。又夏正於数為得天正、其以建寅之月為正始元年正月、以建丑月為後十二月。」

十二月、詔した。「今年正月に、明帝が崩御した。夏正にもどすように。先帝が、三統の道理に精通した(景初暦を制定した)ことを、覆してしまうが、これ(明帝の崩御)もまた、礼制を改変すべき理由となる。夏正は、数理において天の中正にかなっている(十三月=一月を、正月とする)。建寅の月(十三月)を「正始元年正月」とし、建丑の月(十二月)を「後十二月」とする。

景初三年十二月(夏正の十一月であり、壬子朔)に詔して、翌月(夏正の十二月であり、壬午朔)を景初四年正月でなく、景初三年「後」十二月とする。さらに翌月(夏正の十三月であり、辛亥朔)を、景初四年二月でなく、正始元年正月とした。
①壬子朔の月、②壬午朔の月、③辛亥朔の月があった。①壬午朔の月に、斉王芳が詔して、景初暦では「①景初三年十二月、②景初四年正月、③景初四年二月」となるべきところを、夏正に復し「①景初三年十二月、②景初三年後十二月、③正始元年正月」にした。①②③は同じ月を指す。

『三国志集解』に引く、
『宋書』礼志一に載せる、景初三年十二月の尚書盧毓の上奏によると、「明帝は「今年正日」に崩御した。明帝は、建丑の月(十二月)に崩御したが、その月に(景初暦の正月として)正月を祝うのは、どうだろうか」と。詔して、「明帝が崩御した月(十二月、景初暦の正月)に祝うのは良くないし、その翌月(十三月、景初暦の二月)に祝うのは、二月に祝うというのがおかしい。ならば、十三月を正月にするべく、夏正に戻せば良いだろうと。

潘眉によると、明帝は景初三年正月に崩御し、踰年改元して正始とした。これを考えると、踰年改元といっても、2年をまたいでいる。景初は、建丑(十二月)を正月とし、春正月とは、夏正の十二月のこと。明帝は、景初三年正月に崩御したが、これは夏正では景初二年十二月。斉王は夏正に戻したから、景初二年十二月から三年へとシレッと年を越し、三年から四年という2回目の年越しのとき、正始に改元した。明帝崩御から、斉王の正始改元まで、十四ヵ月離れている。


景初改暦のリセットについて思うこと

魏明帝は、景初改暦において、漢から天命が移ったことを明確にするため、従来の十二月を正月にしたが、当人が新暦正月に崩御すると、すぐに十三月(一月)を正月とする、漢代の暦法に戻された。戻す理由は、明帝が崩御した正月に、君臣が新年を祝福するのは不適切だから、と脚色されているが、違うだろう。
「正月」に崩御した漢代の皇帝もいるはずで、そのたびに「正月」をズラそうという話はなかった(はず)。
要するに、漢代の暦=夏正(十三月=一月を、正月とする)は、年初が春で分かりよい、という実用のニーズを優先したのであろう。漢と魏は違うんです!と弁別をアピールするよりも、実用的な暦法がいいよね、という総意があったのだろう。
幼い曹芳に、可否を判断する権限はなかったはず。つまり、生前の明帝が、ほぼ独創で突っ走っており(高堂隆などが加担しており)、明帝・高堂隆が不在となれば、景初暦をキープする理由がなくなった。

十二月を正月とする、十一月を正月とする、という暦法は不便そうに見えるが、ぼくらは「太陽暦の四月を『正月』とする」の暦法を採用しており、年初、期初、年度初、今年中、今年度中などの表現を厳密に運用せず、よく会話に失敗する。「17年度3月は、カレンダー月の18年3月で」とか、魔術の秘法か。
日本企業は3月決算(3月に年度が終わる)が多いけど、2月決算の企業もある。これは、春秋の諸国が、それぞれ自分なりの暦法を使って、国の独自性をアピールしたことに通ずる。


正始元年

正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資為左右光禄大夫。丙戌、以遼東汶北豊県民流徙渡海、……

正始元年春二月乙丑、劉放と孫資の官職を追加した。

潘眉によると、二月は「正月」に作るべきである。この年の二月には乙丑はなく、正月十六日が乙丑である。
沈家本によると、後文に「丙戌」とあり、「乙丑」と「丙戌」は、二十一日離れている。乙丑は正月十六日であれば、丙戌は同月に入らない。「二月」は誤りではないことが疑われ、すると、「乙丑」は「乙酉」に作るべきか。
ぼくは思う。沈家本の言うように、乙丑(2)を乙酉(22)に改めれば、二月乙酉(五日)となる。このように改竄するメリットは、原典の「二月」をそのまま使うことができ、後文の二月丙戌(六日)と、日付の順序が整合して、二月五日の記事→二月六日の記事となることである。

ぼくは思う。『二十史朔閏表』によると、正始元年正月は、辛亥(48)朔であり、二月は、辛巳(18)朔である。乙丑(2)は、正月十五日である。
潘眉は正月十六日というが、正月十五日とすべきではないか。後文に「丙戌(23)」があるが、二月六日である。

沈家本の言うように、乙丑(2)から丙戌(23)まで、二十一日離れているのは、正しい指摘。これは、暦法以前の干支の話に過ぎないが。


どのように折り合わせるべきか。
もしも、『二十史朔閏表』を正しいとし、原典の月の表記(記事の割り振り)に誤りがあるかも知れないとし、日付を正しいとするならば、
校勘は、(二月)〔正月〕乙丑、〔二月〕丙戌とし、
現代語訳は、正月乙丑(十五日)、二月丙戌(六日)となる。

ぼくは、これがもっとも適切な処置だと思う。日付の干支は正しく転記され、それを本紀の体裁にまとめ、月ごとに割り振るときに、場所を間違えたのではないか。

『二十史朔閏表』を正しいとするなら、「二月」を「正月」にすべきといった潘眉の指摘は、賛同できる。しかし、乙丑を正月十六日とする潘眉の説には賛同できず、正月十五日と認識すべきである。
また、後ろの「丙戌」は、二月に変わりない(陳寿の表記から変更ない)のだから、陳寿の「正月」を「二月」に直してしまった以上、「丙戌」の前に、新たに「二月」を挿入しなければならない。

自去冬十二月至此月、不雨、丙寅詔令……

去年冬十二月から、この月まで、雨ふらず。丙寅、詔令して……。

潘眉はいう。十二月から三月まで、雨が降らなかったのである。丙寅は、三月十八日だから、雨が降らなかったのは、(潘眉の読みでは)三月までなのである。陳寿は、二月の記事のあとに、これを繋いでいるから、読者が「十二月から二月まで」とミスリードされる。しかも、「二月」は「正月」の誤りであった。「二月まで」というのも(潘眉の読みでは)怪しい。

ぼくは思う。陳寿が二月乙丑としたものを、潘眉は正月乙丑に直すべきと指摘し、それは妥当(既述)。しかし、つぎの丙戌は、やはり二月なので(既述)、「正月」の話を蒸し返す必要はない。上に書いたように、〔二月〕丙戌とすればよい。
『二十史朔閏表』は、正始元年三月を庚戌(47)朔とし、丙寅(03)は三月十七日である。潘眉は、『二十史朔閏表』から1日ズレ続けている。ちくま訳は、潘眉と異なり、『二十史朔閏表』とは等しく、丙寅を三月十七日とする。

沈家本の説によれば、『宋書』五行志によると、正始元年二月のこととして、「十二月からこの月まで、雨ふらず」という。「二月」に繋いで、「二月まで」の文とするのは、誤りではない。むしろ、丙寅の上に「三月」の二字を加えるべきである。
ぼくは思う。『宋書』五行志が、「二月……自去冬十二月至此月」を、丸写ししているだけの可能性があるため、『宋書』を根拠として、「二月で良いのである」と言うことはできない。丙寅(三月十七日)に、冤罪のチェックをさせており、それは、雨が降らないことへの対処である(潘眉の説)。つまり、雨が降らなかったのは、三月までと考えられる。
意味が通るように、訂正するなら、
〔三月、〕自去冬十二月至此月、不雨、丙寅詔令……
と、「此月」が三月を意味するようにしてあげることか。

『宋書』巻三十四 五行志五に、「魏齊王正始元年七月戊申朔, 日有蝕之。紀無」とある。『三国志』が載せていない日食である。

正始二年

六月辛丑、退。己卯、以征東将軍王淩為車騎将軍。

『二十史朔閏表』によると、正始二年六月は、癸酉(10)朔なので、辛丑(38)は、六月二十九日。これは、ちくま訳も同じ。問題なし。
己卯(16)は、六月に収まらない。六月辛丑(38)(二十九日)のつぎの己卯(16)は、三十八日後である。この年は閏六月があるから、閏六月をはさんで、七月八日。

『三国志集解』によると、官本は己酉に作るという。
ぼくは思う。己酉(46)であれば、辛丑(38)の六日後であり、やはり六月に収まらない。官本を正しいとして、「己酉」を採用すれば、陳寿の本文が整合する、という簡単な話ではない。ちなみに、己酉は、閏六月七日である。

李龍官によると、この月には辛丑はあるが(解決済)、己卯はない。『三国志』王淩伝によると、賊を退却させて南郷侯に封建され、車騎将軍になったのは、他の月ではないから、同月内とすべきである。

『三国志』王淩伝に、「力戦連日、賊退走。進封南郷侯、邑千三百五十戸、遷車騎将軍儀同三司」とある。

ぼくは思う。戦功が評価され、官爵が上がるまで、ちょっと時間があいても、必ずしも誤りとは確定できない。李龍官の言うように、同月とまでは断言できないのではないか。「同月のはず」を根拠に、ゴリ押しするよりも、「己卯」の前に「七月」二字を補うほうが、正解の可能性が高いのではないか。
六月辛丑、退。〔七月〕己卯、以征東将軍王淩……と。

正始三年

秋七月甲申南安郡地震。乙酉、以領軍将軍蒋済為太尉。

正始三年七月は、丁卯(04)朔だから、甲申(21)は七月十八日。乙酉(22)は、七月十九日。『二十史朔閏表』もちくま訳も、干支の間隔も、なにも疑問がない。

『宋書』巻三十四 五行志五に、「正始三年四月戊戌朔, 日有蝕之。紀無」とある。『三国志』が載せていない日食である。

正始四年

夏四月乙卯立皇后甄氏、大赦。五月朔日有食之、既。

正始四年夏四月乙卯、皇后の甄氏を立てた。
『二十史朔閏表』によると、四月は壬辰(29)朔なので、乙卯(52)は、四月十四日。『二十史朔閏表』もちくま訳も、干支の間隔も、なにも疑問がない。
五月朔に日食があった。『三国志集解』に引く銭大昭の説によると、『晋書』に、「五月丁丑(14)朔」とあるという。
しかし、『二十史朔閏表』によると、五月朔は壬戌(59)である。銭大昭が引いたのは、『晋書』巻十二 天文志中に、「(正始)四年五月丁丑朔」とあるものと思われる。しかし、すでに『晋書』の校勘に、五月朔は壬戌であるから(『二十史朔閏表』に同じ)、『晋書』に不備があると指摘されている。

頼みの『宋書』巻三十四 五行志五は、正始四年の日食を載せていない。前は、正始三年四月戊戌朔の日食、後は、正始六年四月壬子の日食なので、五月でもなく、丁丑でもない。取り違えでもなさそう。
むしろ、『晋書』が、『宋書』にない日食を、どうやって独自に発見したか、という、『晋書』の編纂プロセスの解明のほうを、行うべきである。

正始五年

夏四月朔、日有蝕之。

夏四月朔、日食があった。

銭大昭によると、「丙辰」の二字が脱落している。
『二十史朔閏表』によると、たしかに四月朔は丙辰であり、OK。


五月癸巳、講尚書経通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顔淵配。賜太伝大将軍及侍講者各有差。丙午、大将軍曹爽引軍還。

五月癸巳、『尚書』を講じた。

五月朔は、丙戌(23)なので、癸巳(30)は、五月八日である。ちくま訳も同じ。

丙午、大将軍の曹爽が軍を撤退させた。

丙午(43)は、五月二十一日。ちくま訳も同じ。


冬十一月癸卯、詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。己酉、復秦国為京兆郡。

十一月癸卯、荀攸らを祭った。

『二十史朔閏表』によると、十一月朔は、癸未(20)であり、癸卯(40)は、十一月二十一日。ちくま訳でも同じ。

己酉、秦国を京兆郡にもどした。

己酉(46)は、十一月二十七日。ちくま訳でも同じ。


正始六年

六年春二月丁卯、南安郡地震。丙子、以驃騎将軍趙儼為司空。

二月丁卯、南安郡で地震あり。

二月朔は、辛亥(48)なので、丁卯(64)は、二月十七日。ちくま訳も同じ。

丙子、趙儼を司空とした。

丙子(73)は、二月二十六日。ちくま訳も同じ。


八月丁卯、以太常高柔為司空。癸巳、以左光禄大夫劉放為驃騎将軍、右光禄大夫孫資為衛将軍。冬十一月……

八月丁卯、高柔を司空とした。

八月朔は、己酉(46)なので、丁卯(64)は、八月十九日。ちくま訳も同じ。

癸巳、劉放と孫資を昇格させた。

癸巳(90)は、八月に収まらない。ちくま訳は「?」としている。「癸巳」という日付が正しいとすれば、九月十六日である。次の記事が「十一月」なので、九月十六日だと考えても、収まる。

癸巳の上に、「九月」の二字を補うべきでしょう。

『三国志』斉王紀 正始六年は、八月癸巳、劉放が驃騎将軍、孫資が衛将軍になったと記事がある。銭大昭によると、衛将軍を本紀に特筆するのはこれが最初で、あとは胡遵の就官を載せるが、司馬師・司馬昭・司馬望が衛将軍になっても本紀に載せないという。
特別な表記であるわりには、正始六年八月に癸卯はないので、日付ミス。『三国志集解』は、正始六年の八月癸巳が存在しない日付であることをスルーしているが、ちくま訳は、きちんと「癸巳の日(?)」と、日付が不審であることを明示している。


十二月辛亥詔、故司徒王朗所作易伝、令学者得以課試。乙亥詔曰「明日大会羣臣、其令太傅乗輿上殿。」

十二月辛亥、詔して、王朗の学説を試験科目とした。

十二月朔は、丁未(44)なので、辛亥(48)は、十二月五日。ちくま訳も同じ。

乙亥、詔した。

乙亥(72)は、十二月二十九日。ちくま訳も同じ。大晦日。


正始七年

秋八月戊申、詔曰「属到巿観……。己酉、詔曰「吾乃当。……

秋八月戊申、詔して、……

八月朔は、癸卯(40)なので、戊申(45)は、八月六日。ちくま訳も同じ。

八月己酉、詔して、……

己酉(46)は、八月七日。ちくま訳も同じ。
『三国志集解』で盧弼は、連日で二つの詔が出ており、政治に勤しみ、民を愛しているため、昌邑王とは違うとしている。日付を理解することで、このように皇帝を評価することもできるようです。


正始八年

八年春二月朔、日有蝕之。

二月朔、日食があった。

正始八年二月朔は、『二十史朔閏表』によると、庚午である。
『宋書』巻三十四 五行志五に、「正始八年二月庚午朔,日有蝕之」とあり、整合する。


正始九年

九年春二月衛将軍中書令孫資、癸巳驃騎将軍中書監劉放、三月甲午司徒衛臻、各遜位。

『三国志集解』は、「二月癸巳」の順序で書くべきと指摘している。
二月は、甲子(01)朔なので、癸巳は(30)は、二月三十日。
三月甲午は、三月一日である。いずれも、ちくま訳でも同じ。

『晋書』巻二十九 五行志下に、正始九年の記事がある。

魏齊王正始九年十一月,大風數十日,發屋折樹。十二月戊午晦尤甚,動太極東閤。嘉平元年正月壬辰朔,西北大風,發屋折樹木,昏塵蔽天。

正始九年十二月は、『二十史朔閏表』によれば、戊子晦なので、「戊午晦」に作る『晋書』には、疑問がある。
訂正案は二つ。正始九年十一月は戊午晦であるから、『晋書』五行志下は、「十二」を「十一」に改めるべきかも知れない。もしくは、「戊午」を「戊子」に改めても整合が取れる。

『宋書』巻三十四 五行志五は、十二月戊子晦に作るから、後者が正しい。つまり、「十二」を「十一」に改めるのではなく、「戊午」を戊子に改めるべきでした。

嘉平元年(正始十年)正月朔は、己丑である。壬辰朔としているが、壬辰は正月四日である。

『三国志集解』に引く趙一清の説は、正月朔が壬辰ならば、十二月晦は辛卯にすべきという。ぼくは思う。趙一清は、「正月朔が壬辰ならば」という前提に基づいているが、正月朔は己丑が正しく、壬辰ではない。辛卯は正月三日、壬辰は正月四日である。趙一清の説は、見る必要がない。
『宋書』巻三十四も「壬辰朔」に作るが、校勘が、壬辰は四日だから、朔ではないと指摘している。『二十史朔閏表』に基づき、「壬辰朔」を誤りとしてよい。


嘉平元年

嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王、奏免大将軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衛将軍訓、散騎常侍彦官。以侯就第。戊戌、有司奏、収黄門張当付廷尉。考実其辞、爽与謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範、皆与爽通姦謀。夷三族。語在爽伝。丙午大赦。丁未、以太傅司馬宣王為丞相、固譲乃止。

嘉平元年正月は、己丑(26)朔なので、甲午(31)は、正月六日。ちくま訳も同じ。戊戌(35)は、正月十日。ちくま訳も同じ。丙午(43)は、正月十八日。ちくま訳も同じ。丁未(44)は、正月十九日。ちくま訳も同じ。
嘉平元年正月は、すべて問題なし。

夏四月乙丑、改年。丙子太尉蒋済薨。冬十二月辛卯、以司空王淩為太尉。庚子、以司隷校尉孫礼為司空。

夏四月は、戊午(55)朔なので、乙丑(62)は、四月八日。ちくま訳も同じ。丙子(73)は、四月十九日。ちくま訳も同じ。
冬十二月は、癸未(20)朔なので、辛卯(28)は十二月九日。庚子(37)は、十二月十八日。ちくま訳も同じ。『三国志集解』も、とくに疑義を指摘せず。

嘉平二年

十二月甲辰東海王霖薨。乙未、征南将軍王昶渡江、掩攻呉破之。

十二月は、戊寅(15)朔なので、甲辰(41)は、十二月二十七日。乙未(32)は十二月十八日。陳寿の記事の順序が逆転している。干支と日付の割り付け(この干支が、十二月戊寅朔のなかに収まるか)については、いちおう疑義なし。

嘉平三年

四月甲申、以征南将軍王昶為征南大将軍。壬辰大赦。丙午、聞太尉王淩謀廃帝立楚王彪、太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅、淩自殺。

四月は、丙子(13)朔なので、甲申(21)は、四月九日。壬辰(29)は、四月十七日。どちらも、ちくま訳と同じ。丙午(43)は、四月三十一日になってしまい、ちくま訳は「五月二日?」としている。『三国志集解』は、とくに指摘なし。
「五月」の二字を、「丙午」の前に置いて、「甲寅」の前から削るべき。
五月は、乙巳(42)朔なので、甲寅(51)は、五月十日。ちくま訳も同じ。

秋七月壬戌皇后甄氏崩。辛未以司空司馬孚為太尉。戊寅、太傅司馬宣王薨。以衛将軍司馬景王為撫軍大将軍録尚書事。乙未、葬懐甄后於太清陵。庚子驃騎将軍孫資薨。

七月は、甲辰(41)朔なので、壬戌(59)は、七月十九日。辛未(68)は、七月二十八日。戊寅(75)は、七月三十五日になってしまう。日付を正しいとするなら、「戊寅」の前に「八月」の二字を補い、八月五日と理解すべき。
八月は、甲戌(71)朔。戊寅(75)は、八月五日と解することができる。
乙未(92)は、八月二十二日となるため、やはり、乙未も八月である。やはり、「戊寅」の前に「八月」の二字を補い、これを乙未にも掛けるべきである。
庚子(97)は、八月二十七日であり、ちくま訳も同じ。

嘉平四年

四年春正月癸卯、以撫軍大将軍司馬景王為大将軍。

正月は壬寅(39)朔なので、癸卯(40)は、正月二日。ちくま訳も同じ。

嘉平六年

六年春二月己丑、鎮東将軍毌丘倹上言……

二月は、己丑(26)朔なので、己丑は二月一日。ちくま訳も同じ。

庚戌、中書令李豊与皇后父光禄大夫張緝等、謀廃易大臣、以太常夏侯玄為大将軍。事覚、諸所連及者皆伏誅。辛亥大赦。三月廃皇后張氏。

庚戌(47)は、二月二十二日。辛亥(48)は、二月二十三日。ちくま訳も同じ。

秋九月大将軍司馬景王、将謀廃帝、以聞皇太后。甲戌、太后令曰……。丁丑、令曰……。

九月は、丙辰(53)朔なので、甲戌(71)は、九月十九日。ちくま訳も同じ。
丁丑(74)は、九月二十二日。ちくま訳も同じ。180508

高貴郷公紀は、「斉王廃、公卿議迎立公。十月…庚寅公入于洛陽…大赦改元…正元元年冬十月壬辰…」とある。はじめの「十月」は嘉平六年のもので「斉王廃」とあるから、直前の斉王紀との繋がりから、読者が推定すべきもの。つぎの「冬十月」は、改元後の正元元年のものだが、嘉平六年十月と同じ月。
斉王紀は、九月丁丑(二十二日)までしか、日付明示の記事がない(高貴郷公を次の皇帝に指名する太后の詔が出た日)。つまり、斉王紀と高貴郷公は、嘉平六年九月と、嘉平六年(正元元年)十月の月の変わり目が境界線。高貴郷公が指名され、洛陽に迎えられるまでの空位の期間が、ふたつの本紀の境目。

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『三国志』高貴郷公紀_日付考

嘉平六年

十月己丑、公至于玄武館、羣臣奏請舍前殿、公以先帝旧処、避止西廂。羣臣又請以法駕迎、公不聴。庚寅公入于洛陽。

十月朔は丙戌(23)なので、己丑(26)は十月四日。庚寅(27)は、十月五日。ちくま訳も同じ。

正元元年

正元元年は、即位直後の改元によるもので、嘉平六年と同じ年。

正元元年冬十月壬辰、遣侍中持節分適四方、観風俗、労士民、察寃枉失職者。癸巳仮大将軍司馬景王、黄鉞、入朝不趨、奏事不名、剣履上殿。戊戌黄龍見于鄴井中。甲辰、命有司論廃立定策之功

十月は、丙戌(23)朔なので、壬辰(29)は、十月七日。癸巳(30)は、十月八日。戊戌(35)は、十月十三日。甲辰(41)は、十月十九日。いずれも、ちくま訳と『二十史朔閏表』は一致しており、『三国志集解』も疑義なし。

正元二年

二年春正月乙丑、鎮東将軍毌丘倹揚州刺史文欽反。戊戌、大将軍司馬景王征之。

春正月は、甲寅(51)朔なので、乙丑(62)は、正月十二日。
戊戌(95)は、正月に収まらない。『三国志集解』によると、『資治通鑑』は戊午(55)に作るといい、これならば、正月五日。正月に収めることには成功する。しかし、乙丑(十二日)に毌丘倹が反乱した記事のあとに、戊午(五日)に司馬師が討伐した記事が来るのはおかしい。反乱、討伐の順序であるべき。「戊」の一字をキープして、小手先でツジツマを合わせようとしただけである。
ちくま訳は、司馬師の討伐を戊寅(75)とし、出典が分からないが、これならば、正月二十五日となるため、月に収まる。反乱、討伐という順序も崩れない。どの版本に基づくのか確認できれば、戊寅に作るのがベスト。

戊午のことは、『三国志集解』によると、
何焯の説に、乙丑と癸未のあいだに、戊戌は入らないから、戊辰に作るべきという。
潘眉の説に、戊戌は誤りで、『晋書』本紀は戊午に作るが、それも誤り。※『資治通鑑』が『晋書』に従ったことが判明した。
呉雲璈の説によると、『晋書』景帝紀と多くが異なるが、『三国志』のほうが正しい。ただし、戊戌は癸未の後ろのはずで、これを癸未の前に置くから、これだけは容認できない。
沈家本はいう。毌丘倹が起兵した乙丑(2)(正月十二日)から、淮南から許都に連絡がいってから、司馬師が討伐を始めたはず。司馬師が討伐したのが、(戊戌でなく)戊辰(5)としても、起兵からたった4日であり、そんなに早くは対応できないから、何焯の説(戊戌を戊辰に改める)は、妥当でない。『晋書』景帝紀は、戊午(55)に作るが、この月に戊午はないから、これも誤り。戊戌は、戊寅(15)(正月二十五日)とするべきであろう。起兵の14日後に、征伐を始めたのである。『晋書』は後文に、「倍道兼行し、甲申(21)、隠橋にやどる」とある。甲申は、戊寅の7日後であり、整合する。もしも、戊辰とするなら、討伐を始めてから、隠橋にやどるまで、17日も空いてしまい、「倍道兼行」とは言えない。

沈家本が解決してくれた。戊寅にすべき、という結論は、ぼくが考えたものと同じであったが、『晋書』景帝紀と、記事の内容を駆使して、より確実性を増している。


癸未、車騎将軍郭淮薨。

癸未(80)は、正月三十日。『二十史朔閏表』によれば、この月には三十日があるから、正しい。乙丑(正月十二日)と、癸未(正月三十日)は、どちらも正月に収まって妥当に思われるので、その中間の司馬師による討伐の記事は、この間と考えるのが良いでしょう。
つまり、戊戌を戊寅に改める、という説が補強された。

閏月己亥破欽于楽嘉、欽遁走遂奔呉。甲辰、安風淮津都尉斬倹、伝首京都。壬子、復特赦淮南士民諸為倹欽所詿誤者。……司馬景王薨于許昌。

閏月は、閏正月は甲申(21)朔なので、己亥(36)は、閏正月十六日。甲辰(41)は、閏正月二十一日。壬子(49)は、閏正月二十九日。いずれも、『二十史朔閏表』とちくま訳は同じで問題なし。
司馬師の薨去は、高貴郷公紀に日付表記がない。
『晋書』景帝紀によると、閏月、病気になり、辛亥(48)、洛陽で薨去したという。閏正月は甲申(21)朔なので、薨去は、閏正月二十八日である。沈家本によると、これを、壬子(49)の記事の後に置くのは適切でない。

『三国志』高貴郷公紀は、司馬師薨去の日付表記がない。『晋書』景帝紀によると、閏月辛亥(48)、洛陽で薨去したという。閏正月は甲申(21)朔なので、薨去は、閏正月二十八日。高貴郷公紀は、司馬師薨去の記事を、壬子(49)の記事の後に置いている。薨去のことは、日付表記がないどころか、記述順序も誤っている。
陳寿が『三国志』本紀を作るとき、日付と記事の順序がザツなことは、まま見られる。明帝紀で、国内の出来事をまとめて書き、同月の国外の出来事をまとめて書くと、日付が逆転してた。毌丘倹の反乱と始末をまとめて書き、その後に司馬師薨去を書いたところ、司馬師薨去が始末完了の前日だったため、日付が逆転。
紀事本末体(特定の出来事を時系列で書く)と、編年体(出来事が混ざってもいいから、時系列で書く)があり、『三国志』本紀は編年体で書くべきであろうが、出典をカタマリでコピペすることにより、ある月の記事では、記事本末体みたくなったと考えられる。陳寿に特段の意図があったとは思えませんが。


二月丁巳、以衛将軍司馬文王為大将軍録尚書事。甲子、呉大将孫峻等衆号十万至寿春、諸葛誕拒撃破之。

二月は、癸丑(50)朔なので、丁巳(54)は、二月五日。甲子(61)は、二月二月十二日。『二十史朔閏表』とちくま訳は同じで、『三国志集解』に指摘なし。

夏四月甲寅、封后父卞隆為列侯。甲戌、以征南大将軍王昶為驃騎将軍。

四月は、壬子(49)朔なので、甲寅(51)は、四月三日。甲戌(71)は、四月二十三日。疑義なし。

八月辛亥、蜀大将軍姜維寇狄道、雍州刺史王経与戦洮西、経大敗、還保狄道城。辛未、以長水校尉鄧艾行安西将軍、与征西将軍陳泰、并力拒維。戊辰、復遣太尉司馬孚為後継。

八月は、庚戌(47)朔なので、辛亥(48)は八月二日。辛未(68)は、八月二十二日。戊辰(65)は、八月十九日。
陳景雲の説に、辛未(68)のあとに、戊辰(65)を置くのは、記事が逆転していると。そのとおり。

九月庚子、講尚書業終、賜執経親授者司空鄭沖侍中鄭小同等、各有差。甲辰、姜維退還。

九月は、庚辰(17)朔なので、庚子(37)は、九月二十一日。甲辰(41)は、九月二十五日。『二十史朔閏表』とちくま訳は一致し、『三国志集解』にも疑義なし。

十一月甲午、以隴右四郡及金城、連年受敵。或亡叛投賊、其親戚留在本土者不安、皆特赦之。癸丑詔曰、……

十一月は、己卯(16)朔なので、甲午(31)は、十一月十六日。癸丑(50)は、十一月に収まらない。ちくま訳の言うとおり、十二月五日?とせざるを得ない。すると、「癸丑」の上に、「十二月」三字を補うべきである。

甘露元年

甘露元年春正月辛丑、青龍見軹県井中。乙巳、沛王林薨。
魏氏春秋曰、二月丙辰、……

甘露元年正月は、戊寅(15)朔なので、辛丑(38)は、正月二十四日。乙巳(42)は、正月二十八日。疑義なし。
二月は、戊申(45)朔なので、丙辰(53)は、二月九日。疑義なし。

夏四月庚戌、賜大将軍司馬文王兗冕之服、赤舄副焉。丙辰、帝幸太学問諸儒曰

四月は、丁未(44)朔なので、庚戌(47)は、四月四日。丙辰(53)は、四月十日。疑義なし。

裴松之注:帝集載帝自叙始生禎祥曰「昔帝王之生、或有禎祥、蓋所以彰顕神異也。……其辞曰、惟正始三年九月辛未朔、二十五日乙未直成、予生。

正始三年九月辛未(8)朔とあるが、『二十史朔閏表』によると、正始三年九月は、丙寅(3)朔である。合わない。
銭大昕によると、曹髦は、甘露五年に弑殺され、歳は庚辰(77)、年は「纔二十」であった。すると、生まれは、正始二年の辛酉(58)となるはず。この「正始三年」という生年の表記は、誤りであろうか。『通鑑目録』は、正始二年九月正日を辛未朔とするが、この年の閏六月があり、立秋は九月の望(満月)の後にあり、月は亥に建ち(建亥の月)であるから、……

閏六月が……から、分かってません。すみません。

潘眉はいう。正始三年九月は、丙寅朔であり、辛未ではない。正始二年九月は、辛未朔であるから、「三年」を「二年」に改めるべき。曹髦は、甘露五年に死んでおり、本紀は二十歳としている。正始三年から甘露五年までは、十九年しかない。ゆえに、曹髦が正始二年の生まれである。

曹叡の生年問題は有名ですが、高貴郷公の曹髦も、生年問題がある。裴注『帝集』で、曹髦は自らの誕生を「正始三年九月辛未朔」の月に生まれたと申告しますが、九月朔が辛未なのは、前年の正始二年。「二年」が「三年」と誤記されたのは、ほぼ確実。後文「二十五日乙未直成」も正始二年の暦と一致。
曹髦が甘露五(260)年に弑殺されたことは確実で、高貴郷公紀は「年二十」とする。正始二(241)年の生まれと考えれば、「年二十」と整合する。ここまで確実に「二年」を「三年」と誤っているとき、校勘はどこまで手を出していいのか悩ましい。


夏六月丙午、改元為甘露。乙丑青龍見元城県界井中。秋七月己卯衛将軍胡遵薨。癸未、安西将軍鄧艾、大破蜀大将姜維于上邽。

六月は、丙午(43)朔なので、六月一日。乙丑(62)は、六月二十日。
七月は、乙亥(12)朔なので、己卯(16)は、七月五日。癸未(20)は、七月九日。疑義なし。

八月庚午、命大将軍司馬文王、加号大都督奏事不名、仮黄鉞。癸酉、以太尉司馬孚為太傅。

八月は、乙巳(42)朔なので、庚午(67)は、八月二十六日。癸酉(70)は、八月二十九日。疑義なし。
八月庚午(二十六日)、司馬昭に特典を与えたとあるが、『晋書』志によると、四月庚戌に、冠をたまわり、八月庚午に、加号されたとあり、『晋書』のほうが詳しいという。

甘露二年

夏四月癸卯、詔曰「玄菟郡……」。甲子、以征東大将軍諸葛誕為司空。五月辛未、帝幸辟雍。乙亥、諸葛誕不就徴、発兵反、殺揚州刺史楽綝。丙子、赦淮南将吏士民為誕所詿誤者。丁丑詔曰「諸葛誕造為凶乱、……」。己卯詔曰「諸葛誕造構逆乱、……」

甘露二年四月は、辛丑(38)朔。癸卯(40)は、四月三日。甲子(61)は、四月二十四日。
五月は、辛未(08)朔。辛未は、五月一日。乙亥(12)は、五月五日。丙子(13)は、五月六日。丁丑(14)は、五月六日。己卯(16)は、五月八日。疑義なし。

六月乙巳、詔「呉使持節都督夏口諸軍事、鎮軍将軍沙羡侯、孫壹。賊之枝属、位為上将。畏天知命、深鑒禍福、翻然挙衆、遠帰大国。雖微子去殷、楽毅遁燕、無以加之。其以壹為侍中車騎将軍、仮節交州牧呉侯、開府辟召儀同三司。依古侯伯八命之礼、兗冕赤舄、事従豊厚」甲子詔曰……

六月は、庚子(37)朔。乙巳(42)は、六月六日。甲子(61)は、六月二十五日。疑義なし。

甘露三年

六月丙子詔曰「昔南陽郡山賊擾攘、……」辛卯、大論淮南之功、封爵行賞各有差。秋八月甲戌、以驃騎将軍王昶為司空。丙寅詔曰……

六月は、甲子(01)朔なので、丙子(13)は六月十三日。辛卯(28)は、六月二十八日。
八月は、癸亥(60)朔なので、甲戌(71)は、八月十二日。丙寅(63)は、八月四日。潘眉は、甲戌(八月十二日)、丙寅(四日)、という記事が置かれており、逆転を指摘している。干支と日付の割り付けは、ちくま訳も同じで疑義なし。

甘露四年

冬十月丙寅、分新城郡復置上庸郡。十一月癸卯車騎将軍孫壹為婢所殺。

十月は、丁巳(54)朔なので、丙寅(63)は、十月十日。十一月は、丙戌(23)朔なので、癸卯(40)は、十一月十八日。ちくま訳は同じ。

甘露五年

五年春正月朔、日有蝕之。

正月は、乙酉朔なので、「乙酉」二字を補うことができる。
『晋書』天文志に、正月乙酉朔、日食ありとある。

五月己丑、高貴郷公卒、年二十。

五月は、癸未(20)朔なので、癸丑(26)は、五月七日。

『晋書』文帝紀に、五月戊子(25)、黄詔を示したとある。戊子は、五月六日なので、曹髦の崩御する前日であり、整合する。


庚寅、太傅孚、大将軍文王、……辛卯羣公奏太后曰「殿下聖徳光隆、寧済六合。而猶称令、与藩国同。請自今、殿下令書皆称詔制。如先代故事。」癸卯大将軍固譲、相国晋公九錫之寵。太后詔曰「夫有功不隠、周易大義。成人之美、古賢所尚。今聴所執。出表示外、以章公之謙光焉。」戊申、大将軍文王上言……
漢晋春秋曰、丁卯、葬高貴郷公……

庚寅(27)は、五月八日。辛卯(28)は、五月九日。癸卯(40)は、五月二十一日。戊申(45)は、五月二十六日。いずれも『二十史朔閏表』とちくま訳にズレはなく、『三国志集解』で疑義なし。
裴松之注『漢晋春秋』に、丁卯に曹髦を葬ったとする。曹髦の死後、最初の丁卯は、六月十五日。裴松之は、五月の死亡記事に注釈しているから、ちくま訳は「?」としているが、月をまたいでから、葬ったのだろう。

高貴郷公の曹髦を葬った日は、高貴郷公紀 甘露五年の五月八日の裴注『漢晋春秋』に、「丁卯」とする。ちくま訳は、日付を割り当てられないとして、「?」とする。曹髦の崩御(五月七日)の後、最初にくる丁卯は、六月十五日。新帝即位を待ち、曹奐が六月二日に即位し、1ヵ月以上経ってから葬った。
文帝の曹丕は、五月十七日に崩御し、六月九日に首陽陵に葬られた。明帝の曹叡は、正月一日に崩御し、正月二十七に葬られた。殯の期間もあるから、崩御から埋葬までの期間は、曹髦はちょっと長いかなってくらい。


六月癸丑、詔曰「古者人君之為名字、難犯而易諱。今常道郷公諱字甚難避、其朝臣博議改易、列奏」

六月は、癸丑朔なので、六月一日。

作業しながら考えたこと

ぼくは思う。十二月とか正月とかは、暦法によって変わるので、建寅の月や建子の月という。景初三年とか正始元年とかも、暦法によって変わるので、本来なら、干支で年を表して弁別すべきですが、たまたまわれわれは、西暦を弁別に使う。代替表記がある年が「特別」なのか、代替表記を持たない月が「特別」なのか。

気持ち悪いので整理すると、十干で日本語の音読みが重複するのは、「甲」「庚」のコウ、「己」「癸」のキ。甲と庚はともに奇数番目、己と癸はともに偶数番目なので(誰かの陰謀か!)、組み合わせでできる十干十二支でも音読みが重複。十二支でかぶるのは、「子」と「巳」のシ。「辰」と「申」のシン。
かのえね、みずのとみ…、と訓読みするとき、十干に五行を合体させるのは、派生的な思想。序数詞としての十干の本義から、離れてしまう。かといって、五行と合体していない、訓読みはない。だから、音読みが重複して不便でも、「コウシ」とか「キシ」とかで読んでいく。日本史の史料読みなら、「手を抜かずに、訓読みを覚えろよ」と言われそうだが、中国史なら音読みで行ける!180510


暦と関係ないですけど(唐突でごめんなさい)、
「論文を書け」というアカハラ、ビジネス文書を書けるなら査読論文を書ける、という極端に思える話がひとり歩きするように、われわれ大学に属さぬ人は、論文が何か、どんな価値を有するか、なぜ必要かが、分からないんですよね。この説明を大学関係者が自明として?省略するので、チグハグは埋まらず。
情報収集して整理し、持論を形成し、それを他人に伝達する(相違する意見の持ち主を説得する)という大筋では、会社員の企画書も、学術論文も同じだと思います。が、そこまで抽象化すると、「異性への求愛」まで同じになってしまいます。各手順のルールを弁え、習熟するのは、個別に努力を要します。
人の営みであるからには、どこかに共通点がありますが…。ぼくは、会社の企画と学術論文の差異だけに着目する(「文系学問を修めても、一般企業では役に立たない」という風潮)には反対です。しかし、意図的にか、差異を無視する(今回の「会社員なら、査読論文くらい書ける」)も違うなと。両方の経験を踏まえて。

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『三国志』陳留王紀_日付考

甘露五年

六月甲寅入于洛陽

六月は、癸丑(50)朔なので、甲寅(51)は、六月二日。
つぎの景元元年は、甘露五年を改元したもの。同じ年。

景元元年

景元元年夏六月丙辰、進大将軍司馬文王位為相国、封晋公増封二郡并前満十、加九錫之礼、一如前奏。諸羣従子弟其未有侯者、皆封亭侯。賜銭千万帛万匹。文王固譲、乃止。己未、故漢献帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人為献穆皇后。及葬、車服制度皆如漢氏故事。癸亥、以尚書右僕射王観為司空。

六月は、癸丑(50)朔なので、丙辰(53)は、六月四日。己未(56)は、六月七日。癸亥(60)は、六月十一日。いずれも、疑義なし。

十二月甲申、黄龍見華陰県井中。甲午以司隷校尉王祥為司空。

十二月は、己卯(16)朔なので、甲申(21)は、十二月六日。甲午(31)は、十二月十六日。疑義なし。

景元二年

二年夏五月朔、日有食之。……八月戊寅、趙王幹薨。甲寅、復命大将軍進爵晋公、加位相国、備礼崇錫、一如前詔。又固辞乃止。

五月は、丁未(44)朔なので、日食は五月丁未。『晋書』・『宋書』に従い、「丁未」二字を補うことができる。
八月は、丙子(13)朔なので、戊寅(15)は、八月三日。

八月戊寅のことを、ちくま訳は「九月八日?」としている。しかし、『二十史朔閏表』によれば、迷う必要がなく、八月三日である。

甲寅(51)は、八月三十九日となり、おかしい。九月は、乙巳(42)朔なので、甲寅(51)は、九月十日か。「甲寅」の前に、「九月」の二字を補うべきである。

ちくま訳は、これを八月十三日と、迷わず認定している。こんどは、認定に成功している、ちくま訳が不審である。

『晋書』文帝紀も、晋公に封建されかけたのを、「八月甲寅」に作っているが、甲寅は、八月に収まらない。
『三国志』陳留王紀・『晋書』文帝紀に共通する、「甲寅」の日付を重んじるなら、これは八月ではなく、九月に繋ぐべきであり、同じ誤りが犯されていることになる。

陳景雲によると、戊寅(15)とあるが、この月(八月)に、甲寅(51)が収まらず、誤りがある。『晋書』文帝紀・『資治通鑑』は、晋公になり、特権を受けたのを、すべて甲寅につなぐ。戊寅は誤りであろうと。
潘眉はいう。甲寅は、九月に繋ぐべきである。戊寅(15)、甲寅(51)は、四十七日も離れているから、同じ月に収まらない。そりゃそうだ。

景元四年

冬十月甲寅、復命大将軍進位爵賜一如前詔。癸卯立皇后卞氏、十一月大赦。

十月は、癸巳(30)朔なので、甲寅(51)は、十月二十二日。癸卯(40)は、十月十一日。甲寅、癸卯、の順番で記事があるが、順序に誤りがある。

十二月庚戌、以司徒鄭沖為太保。壬子分益州為梁州。癸丑、特赦益州士民、復除租賦之半五年。乙卯、以征西将軍鄧艾為太尉、鎮西将軍鍾会為司徒。皇太后崩。

十二月は、壬辰(29)朔なので、庚戌(47)は、十二月十九日。壬子(49)は、十二月二十一日。癸丑(50)は、十二月二十二日。乙卯(52)は、十二月二十四日。

『三国志集解』に引く潘眉の説も、『二十史朔閏表』と認識が一致。


『三国志集解』によると、鄧艾・鍾会の任命と、皇太后の崩御を、前文の「五年」に繋ぎ、景元五年と理解する版本があるが、誤り。前文の「五年」は、蜀地の租税を減免した期間であり、年号表記ではないと。
盧弼によると、『三国志』鄧艾伝に、十二月、鄧艾を太尉としたとあり、鍾会伝に、十二月、鍾会を司徒としたとある。明元郭后伝に、十二月に崩御したとある。『晋書』文帝紀も、鄧艾・鍾会の任命を景元四年とする。
景元四年で、決まり。
ただし、景元は、もとは五年まであった。鍾会伝に「(景元)五年、正月十五日」と見える。『蜀志』後主伝に、「景元五年三月丁亥、劉禅を安楽県公にした」とある。五月甲戌に、咸煕と改元した。「景元五年はないから……」と、文の区切りを説明する説は、誤りであると。納得。

咸煕元年

咸煕元年春正月(壬辰)〔壬戌〕、檻車徴鄧艾。甲子行幸長安。壬申、使使者以璧幣祀華山。

『三国志集解』は、鄧艾を徴したのを「壬辰」に作るが、何焯の説に従い、「壬戌」に改めるべきとしている。正月は、壬戌(59)朔なので、壬戌は正月一日。
他方、陳景雲によると、後文に「二月辛卯」とあって、辛卯が二月朔と分かり(『二十史朔閏表』に一致)、壬辰は二月二日である。

陳景雲の説の引用が、舌足らずだが、だから正月は、壬辰を壬戌に改めるべきと。


甲子(61)は、正月三日。壬申(69)は、正月十一日。
『晋書』文帝紀によると、乙丑(62)、司馬昭が曹奐を奉じて長安に行ったと。『三国志』陳留王紀は、曹奐が移動したことの記述がモレている。正月四日である。

二月辛卯、特赦諸在益土者。庚申、葬明元郭后。

二月は、辛卯(28)朔で、そのまま、辛卯は二月一日。
庚申(57)、は、二月三十日。疑義なし。

二月の補足。『三国志集解』によると、『通鑑』は、二月丙辰(53)、曹奐が洛陽に戻ったとあり、『三国志』陳留王紀に記述がモレていると。二月二十六日。

鍾会・鄧艾が蜀漢を平定すると、司馬昭が曹奐を連れ出して、洛陽から長安に行き(景元五年正月乙丑=四日)、長安から洛陽に還っている(二月丙辰=二十六日)。『三国志』陳留王紀は、曹奐の移動を、丸ごと書きモレている。ダメじゃん、本紀なのに。起居どころか、政治・軍事的に重要な移動なのに。


三月丁丑、以司空王祥為太尉、征北将軍何曾為司徒、尚書左僕射荀顗為司空。己卯、進晋公爵為王、封十郡并前二十。丁亥、封劉禅為安楽公。

三月は、辛酉(58)朔なので、丁丑(74)は、三月十七日。己卯(76)は、三月十九日。丁亥(84)は、三月二十七日。疑義なし。

夏五月庚申、相国晋王奏復五等爵。甲戌、改年。癸未、追命舞陽宣文侯為晋宣王、舞陽忠武侯為晋景王。

五月は、庚申(57)朔なので、庚申はそのまま五月一日。甲戌(71)は、五月十五日。癸未(80)は、五月二十四日。疑義なし。
庚申(五月一日)の五等爵に、『三国志集解』は注釈がある。
『晋書』文帝紀は、五等爵を七月の後ろに置き、異なる。『通鑑』は、五月庚申、晋王が五等爵を上奏したとある(陳留王紀に従っている)。

八月庚寅、命中撫軍司馬炎副貳相国事。以同魯公拝後之義。癸巳詔……。癸卯、以衛将軍司馬望為驃騎将軍。九月戊午、以中撫軍司馬炎為撫軍大将軍。辛未、詔曰……。

八月は、戊子(25)朔なので、庚寅(27)は、八月三日。癸巳(30)は、八月六日。疑義なし。
癸卯(40)は、八月十六日。九月は、戊午(55)朔なので、九月一日。

『三国志』三少帝紀は、朔(一日)の表記がザツ。日食の時期は、「某月朔」とだけ書き、日付の干支を表記しない。暦が分かってれば、干支は補えるのに。なお、『晋書』『宋書』は補ってある。逆に、日付の干支の表記があるとき、その干支が朔に当たるにも拘わらず、「朔」と書いてない。これら手抜きは、一度や二度ではない。

辛未(68)は、九月十四日。疑義なし。

冬十月丁亥、詔曰……。丙午、命撫軍大将軍新昌郷侯炎、為晋世子。

十月は、丁亥(24)朔なので、丁亥は十月一日。丙午(43)は、十月二十日。

咸煕二年

二年春二月甲辰、朐忍県、獲霊亀以献。帰之于相国府。庚戌、以虎賁張脩……

二月は、丙戌(23)朔なので、甲辰(41)は、二月十九日。庚戌(47)は、二月二十五日。

五月詔曰……癸未、大赦。

五月は、甲寅(51)朔なので、癸未(80)は、五月三十日。疑義なし。

秋八月辛卯、相国晋王薨。壬辰、晋太子炎、紹封襲位。……九月乙未、大赦。戊午、司徒何曾為晋丞相。癸亥、以驃騎将軍司馬望為司徒、征東大将軍石苞為驃騎将軍、征南大将軍陳騫為車騎将軍。乙亥、葬晋文王。

八月は、癸未(20)朔なので、辛卯(28)は、八月九日。壬辰(29)は、八月十日。疑義なし。
九月は、壬子(49)朔なので、大赦をした乙未(32)は、同月に収まらない。『三国志集解』は指摘なし。ちくま訳は「?」とし、訳注で「乙卯(52)(四日)の誤りか」という。

ちくま訳の訂正は、直接的な根拠はないが、「九月」という表記と、次の記事が「戊午」「癸亥」が、とくに問題なく九月に収まることから、「乙」の字を活かし、「未」を「卯」にかってに置き換えている。ちなみに、「乙未」を正しいとすると、十月十四日になってしまう。

戊午(55)は、九月七日。癸亥(60)は、九月十二日。乙亥(72)は、九月二十四日。疑義なし。これらの安定性から、やはり、大赦をした乙未だけが、浮いてしまう。

『通鑑考異』によると、『晋書』文帝紀は、司馬昭を葬ったのを、癸酉(70)とする。乙亥(72)とする『三国志』よりも、二日早い。『通鑑』は、『三国志』に従うと。
厳衍『通鑑補』によると、乙未(32)から乙亥(72)まで、四十一日ある。乙未の大赦から、乙亥の埋葬までを、同じ九月に収めることができないとする。

乙未(32)が、誤りと思われる(上記参照)。厳衍のように、乙未(32)の大赦を基準として、乙亥(72)の埋葬を怪しむことは、意味がない。厳衍の口ぶりから、九月朔がいつかを知らず、ただ、干支の間隔を論じているに過ぎない。見る価値がない。


閏月庚辰、康居大宛献名馬、帰于相国府、以顕懐万国致遠之勲。十二月壬戌、天禄永終。暦数在晋。詔羣公卿士、具儀設壇于南郊。使使者奉皇帝璽綬冊、禅位于晋嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。

閏月は、閏十一月辛巳(18)朔なので、庚辰(17)は、閏十一月に収まらない。ちくま訳は、「?」で済ませている。「庚辰」を正しいとするならば、「十一月庚辰(三十日)晦」である。すると、「閏」を削って「十一」にすれば良い。

十二月は、庚戌(47)朔なので、壬戌(59)は、十二月十三日。

『三国志』の魏晋革命の記事は、「十二月壬戌、天禄永終。暦数在晋。詔羣公卿士、具儀設壇于南郊。使使者奉皇帝璽綬冊、禅位于晋嗣王、如漢魏故事」だけで簡単すぎ。1ツイートに引用しても、字数が余りまくる。陳寿が、魏に愛なきゆえか、政治的都合か。漢魏革命は、冊書の引用があり、もう少し長い。

甲子(61)は、十二月十五日。疑義なし。

『宋書』礼志三によると、咸煕二年十二月甲子、鄭沖が策書を持って……と。甲子の日付は、『三国志』陳留王紀と同じ。
『晋書』武帝紀によると、泰始元(咸煕二)年、十二月丁卯、曹奐を陳留王に封建し、己巳、天子の旌旗の使用を許可したと。丁卯(64)は、十二月十八日。己巳(66)は、十二月二十日。どちらも十二月に収まる。180510

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『晋書』本紀_日付考(宣帝~武帝初)

『晋書』本紀のうち、魏代に係わる日付を検討。

嘉平元年

嘉平元年春正月甲午,天子謁高平陵,爽兄弟皆從。是日,太白襲月。

『三国志』に、「嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵」とあり、甲午とするのは同じ。嘉平元年正月は、己丑(26)朔なので、甲午(31)は、正月六日。

『晋書』宣帝紀で、初めて日付が明記されるのは、曹爽排除(正始の変)。皇帝に関わる事件のみ日付を記す、という筆法の傾向があるなら、正始の変は、司馬氏が皇帝となる(魏晋革命の)端緒。筆法の規定などなく、「日付が特定可能で、かつ記録に値するのは皇帝に関わる事件である」という実態が先か。


嘉平三年

夏四月,帝自帥中軍,汎舟沿流,九日而到甘城。

移動に九日かかったというだけで、日付の記事ではない。

秋八月戊寅,崩於京師,時年七十三。

秋八月は、甲戌(11)朔なので、戊寅(15)は、八月五日。『三国志』に「戊寅、太傅司馬宣王薨」とあり、戊寅に作るから、一致する。

九月庚申,葬于河陰。

九月は、癸卯(40)朔なので、庚申(57)は、九月十八日。

ここから、『晋書』巻二 景帝紀

正元元年

秋九月甲戌,太后下令曰:「皇帝春秋已長……

九月は、九月丙辰(53)朔なので、甲戌(71)は、九月十九日。
『三国志』斉王紀に、「秋九月大将軍司馬景王、将謀廃帝、以聞皇太后。甲戌、太后令曰」とあり、九月甲戌に、郭太后の詔を引き出したのは、整合している。

癸巳,天子詔曰:「朕聞創業之君,必須股肱之臣……

癸巳は、十月八日。『晋書』は、上の「九月甲戌」のあと、「十月」と断ることなく、「癸巳」と続けるが、「癸巳」の上に、「十月」二字を補うべき。
『三国志』は、「十月……癸巳仮大将軍司馬景王、黄鉞、入朝不趨、奏事不名、剣履上殿」とあり、癸巳が十月と明記されている。司馬師に、黄鉞などを与えようとしたのは、内容が一致。『晋書』の「十月」を補うべきと確定する。

日付のことは、『晋書斠注』で触れておらず。


正元二年

二月……戊午,帝統中軍步騎十餘萬以征之。……甲申,次于㶏橋。

二月、毌丘倹・文欽が……。

『魏志』高貴郷公紀によると、毌丘倹らの起兵は、正月十二日乙丑。毌丘倹伝 注引 文欽が郭淮に与えた書によると、「閏正月十六日に起兵した」という。高貴郷公紀は、閏正月己亥(十六日)、文欽を楽嘉で破り、閏正月甲辰(二十一日)、毌丘倹の首を斬ったとする。文欽・毌丘倹は、二月より前に片付いている。『晋書』景帝紀が、「二月」に繋ぐのは誤り。

二月は、癸丑(50)朔なので、戊午(55)は、二月六日。

中華書局本によると、毌丘倹は、二月よりも前に片付いている。沈家本『三国志瑣言』によると、「戊午(55)」は、「戊寅(15)」の誤りである(戊寅だと、正月二十五日)。毌丘倹は、正月十二日乙丑に起兵し(高貴郷公紀)、司馬師は正月二十五日戊寅に出征したと考えれば、整合する。

中華書局本が支持している、戊午を戊寅に改める説は、根拠がない。「戊」の字を保存して、時系列が壊れない日付に当てはめただけで、それ以外に理由がない。


㶏橋にやどったという、甲申(81)は、二月三十二日(三月二日)、二月に収まらない。処置が必要である。

中華書局本によると、甲申は、閏正月一日である。㶏橋にやどり、司馬師が死んだのは、すべて閏月の間のこと。「甲申」の上に、下文「閏月」を移すべき。『通鑑』七十六も、そうしていると。

閏正月一日が甲申で、二月に甲申はなく、三月二日に甲申がくる。今回は、閏正月一日とみるべき。

閏月疾篤,使文帝總統諸軍。辛亥,崩于許昌,時年四十八。二月,帝之喪至自許昌,

閏正月は、甲申(21)朔なので、辛亥(48)は、閏正月二十八日。

『魏志』は、「閏月己亥破欽于楽嘉、欽遁走遂奔呉。甲辰、安風淮津都尉斬倹、伝首京都。壬子、復特赦淮南士民諸為倹欽所詿誤者。……司馬景王薨于許昌」とする。

閏月己亥十六日、文欽を破った。甲辰二十一日、毌丘倹の首が京都に届けられた。壬子二十九日、淮南の民を許した。『晋書』によると、その前日の二十八日辛亥に、司馬師が薨じたと。
上で、『魏志』を検討したときに確認済のこと。

ここから文帝紀。

甘露元年

秋八月庚申,加假黃鉞,增封三縣。

八月は、乙巳(42)朔なので、庚申(57)は、八月十六日。

『魏志』は、「八月庚午、命大将軍司馬文王、加号大都督奏事不名、仮黄鉞」と、庚午(二十六日)とする。
『三国志集解』によると、『晋書』志によると、四月庚戌に、冠をたまわり、八月庚午二十六日に、加号されたとあり、『晋書』のほうが詳しいという。
文帝紀の「庚申」十六日は、さらに新しい情報。「庚申」も「庚午」も、八月に収まってしまうのが、困ったところ。


甘露二年

二年夏五月辛未,鎮東大將軍諸葛誕殺揚州刺史樂綝,以淮南作亂……

五月は、辛未(08)朔なので、辛未は五月一日。

『魏志』は、「五月辛未、帝幸辟雍。乙亥、諸葛誕不就徴、発兵反、殺揚州刺史楽綝」とあり、諸葛誕が反乱したのは、五月辛未(08)一日でなく、五月乙亥(12)五日としている。


七月……甲戌、帝進軍丘頭。

七月は、庚午(07)朔なので、甲戌(11)は、八月五日。『魏志』には、この日付が載っていない。

甘露三年

三年春正月壬寅,誕、欽等出攻長圍,諸軍逆擊,走之。……二月乙酉,攻而拔之,斬誕,夷三族。

正月は、丙申(33)朔なので、壬寅(39)は、正月七日。二月は、丙寅(03)朔なので、乙酉(22)は、二月二十日。『魏志』は、甘露三年正月・二月の日付がある記事がないため、『晋書』独自である。

景元元年

五月戊子夜、……天子崩。……(庚寅)〔戊申〕、帝奏曰、……

五月は、癸未(20)朔なので、戊子(25)は、五月六日。戊申(45)は、五月二十六日。
曹髦が崩御したのは、『魏志』によると、五月七日癸丑。前日の夜から、日付をまたいでの出来事なので、整合する。
つぎの司馬昭の上奏が複雑だが、解決している。『魏志』によると、五月庚寅(27)八日、司馬昭が曹髦の埋葬について提案し、五月戊申(45)二十六日、成済の処分について提案している。一方、『晋書』文帝紀が、庚寅に司馬昭が行ったとする上奏は、成済の処分に関する内容。
『晋書』文帝紀が、成済の処分について提言した記事を置くならば、庚寅八日ではなく、戊申二十六日とすべき。

中華書局本によると、各本は「庚寅(27)」に作るが、中華書局本は「戊申(45)」とするという。中華書局本に引く『晋書斠注』によると、『魏志』は、「庚寅」を「戊申」に作る。『魏志』の庚寅は、高貴郷公を葬ることを上奏した日であって、この『晋書』文帝紀の上奏(成済の処分)と一致しないから、(文帝)紀は誤りである。中華書局本は、この指摘に従って「庚寅」を「戊申」に改めると。

整理して再説。
『魏志』高貴郷公紀 甘露五年は、五月庚寅八日、司馬昭が曹髦の埋葬を提言し、五月戊申二十六日、成済の処分について提案したとする。『晋書』文帝紀だと、五月庚寅の上奏は、成済の処分の件。中華書局本『晋書』の校勘は、『魏志』を支持し、上奏の内容から、庚寅を戊申に改めるべきとする。『魏志』から『晋書』への加工ミスが疑われる案件。

六月、改元。丙辰、晋公に封じられ、固譲す。

六月は、癸丑(50)朔なので、丙辰(53)は、六月四日。『魏志』に、「景元元年夏六月丙辰、進大将軍司馬文王位為相国、封晋公」とあるから、丙辰に封建未遂があったのは、整合する。

景元二年

秋八月甲寅、高柔が相国の印綬を届けた。

秋八月は、丙子(13)朔なので、甲寅(51)は、八月に収まらない。
中華書局本の校勘も、同じことをいい、解決せず放置。

『魏志』も「甲寅、復命大将軍進爵晋公、加位相国、備礼崇錫、一如前詔。又固辞乃止」とあり、未解決であった。『晋書』も『魏志』も、どちらも「甲寅」というが、困ったことです。


景元四年

春二月丁丑,天子復命帝如前,又固讓。

二月は、丁丑朔なので、二月一日。『魏志』には、この二月丁丑の辞退は、「二月」とするだけで、日付が書かれていない。

咸煕元年

咸熙元年春正月,檻車徵艾。乙丑,帝奉天子西征,次于長安。……丙辰,帝至自長安。三月己卯,進帝爵為王,增封并前二十郡。

正月は、壬戌(59)朔だから、乙丑(62)は、正月四日。丙辰(53)は、正月に収まらない。中華書局本の校勘は、指摘するに留まっている。
三月は、辛酉(58)朔だから、己卯(76)なので、三月十九日。

長安に行く、長安から還る、という日付が『魏志』にモレていることは、上で指摘した。

三月己卯は、『魏志』に「己卯、進晋公爵為王、封十郡并前二十」とあり、同じである。

夏五月癸未,天子追加舞陽宣文侯為晉宣王,舞陽忠武侯為晉景王。……冬十月丁亥,奏遣吳人相國參軍徐劭、散騎常侍水曹屬孫彧使吳,喻孫晧以平蜀之事,致馬錦等物,以示威懷。丙午,天子命中撫軍新昌鄉侯炎為晉世子。

五月は、庚申(57)朔なので、癸未(70)は、五月十四日。司馬懿を「宣王」とした記事自体が、『魏志』にはない。
十月は、丁亥(24)朔なので、丁亥は十月一日。丙午(43)は、十月二十日。『魏志』にも、十月丁亥一日、丙午二十日の記事があり、整合している。

咸煕二年

二年春二月甲辰,朐䏰縣獻靈龜,歸於相府。……秋八月辛卯,帝崩于露寢,時年五十五。九月癸酉,葬崇陽陵,諡曰文王。

二月は、丙戌(23)朔なので、甲辰(41)は、二月十九日。『魏志』にも同じ記事がある。
八月は、癸未(20)朔なので、辛卯(28)は、八月九日。司馬昭の薨去した日は、『魏志』と同じ。九月は、壬子(49)朔なので、癸酉(70)は、九月二十二日。埋葬は、『魏志』とは日付に違いがあり、上記で検討したとおり。

ここから、『晋書』巻三 武帝紀。

八月辛卯,文帝崩,太子嗣相國、晉王位。

八月辛卯に、司馬昭が薨去したのは同じ。

九月戊午,以魏司徒何曾為丞相,……

九月は、壬子(49)朔なので、戊午(55)は、九月七日。『魏志』と同じ。

十一月,初置四護軍,以統城外諸軍。乙未,令諸郡中正以六條舉淹滯

十一月は、辛亥(48)朔なので、乙未(92)は、十一月に収まらない。十一月四十五日になってしまう。「十一月」、「乙未」が正しいとすれば、閏十一月十五日である。
中華書局本は、乙未の不整合について、触れていない。『魏志』は、この諸郡中正にかんする記事自体が存在しないため、比較できない。

咸煕二年、魏晋革命の前月(『晋書』武帝紀は十一月乙未とするが、閏十一月乙未が正しいか)、諸郡の中正に人材採用に関する命令が出ている。『晋書』武帝紀は日付入りで載せ、『三国志』陳留王紀は載せない。死にかけ魏王朝にとって人材採用は関係ないし、中正制度は司馬氏に掌握されたし、切ない。


泰始元年冬十二月丙寅,設壇于南郊,……丁卯,遣太僕劉原告于太廟。……戊辰,下詔大弘儉約,出御府珠玉玩好之物……。己巳,詔陳留王載天子旌旗……。乙亥,以安平王孚為太宰、假黃鉞、大都督中外諸軍事。

十二月は、庚戌(47)朔なので、丙寅(63)は、十二月十七日。丁卯(64)は、十二月十八日。戊辰(65)は、十二月十九日。己巳(66)は、十二月二十日。乙亥(72)は、十二月二十六日。
『魏志』のほうでは、十二月壬戌十三日、魏帝から最後の詔が出て、十二月甲子十五日、晋王に使者を遣わす。『晋書』は、その翌々日の十二月丙寅十七日、南郊に壇を設けたとある。『魏志』と『晋書』の境界線は、十二月十五日と十七日のあいだにある。180512

咸煕二年十二月は、『魏志』陳留王紀は、壬戌13日、禅譲の詔、甲子15日、晋王に使者を遣って終わる。『晋書』武帝紀は、丙寅17日、受禅を天に告げ、丁卯18日、太廟に告げ、以後、戊辰19日、己巳20日、己亥26日の記事がある。『魏志』『晋書』に日付の重複がなく、禅譲側・受禅側の視点の違いが際立つ。

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