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出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記

田中智行先生の言及で知った、宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(フォレスト出版、2020年)を読んでます。
出版業界が厳しいのか、出版社や編集者が悪辣なのか、宮崎先生の世渡りが不器用なのか判断がつかない…前半を読んだ感想です。翻訳という営為自体で「儲ける」は難しそう。研究や活動全体との繋げ方次第か。

「「関わってはならないひと」にはそれなりの兆候がある。…そんな人間には最初から関わるべきではなかったのだ」という部分が、宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』の最大の学び。
肩書き等にまどわされると、リカバリの時間・労力・精神とそれらを換算しうる金銭的なマイナスは甚大。
宮崎先生も苦しんでおられましたが、安く見積もって、大人の労力は1日2万円。たとえば、まる5日を注げば2万円×5日で10万円の持ち出し。その間、他のことができないし、自分にとって予想外のことに激怒をくり返したら精神が乱れ、恐らく寿命が縮む。交通費や電話代みたいな(客観的に示して請求しうる)「実費」とは別の「持ち出し」が発生します。関わるべきでない人に関わると。
宮崎先生は、その精神的な「持ち出し」によって、廃業してしまわれました。

(文学作品やビジネス書の)翻訳は完全受注生産だし、品質の明確な基準がない。発注した側は、作業をしてもらった(させた)責任があるから「品質以下なので受け取り拒否」は難しい。反対に、宮崎先生みたいに請けた側からみれば、一度は翻訳を受納された後、「誤訳のチェックに手間(編集費)がかかったので報酬を削る」と言われても容認できまいし。
宮崎先生の本から思考実験。たとえば、翻訳報酬15万円だとして、「誤訳が多くて編集費を要したから、5万円を引き報酬は10万円」というのが、宮崎先生が直面した出版社の言い分でした。

これを、印税率引き下げの理由として(実態がないにも関わらず)こじつけるなら、ひどいと思いますが、ほんとうに誤訳が多かった場合、出版社としては、どうしたらよかったんだろう…と、想像力を膨らませてみます。

誤訳が多すぎて、手直し(編集費)が実際に100万円かかったら、出版社は逆に、報酬の全額返却をもとめ、くわえて翻訳者に85万円を請求できるか。さすがに無理でしょう。出版社は、発注者選定の誤り、提出された翻訳を拒否しなかった(受け取り段階で弾かなかった)という失敗がある。出版社は、自分の失敗による損失をこうむるしかない。失敗したひとが、損をする。善悪とは無関係の、ビジネスのロジックです。

@Archer12521163 さんはいう。産業翻訳だと品質基準は各社ごとにありますし、チェッカーがそれに従っているかチェックします。翻訳者のレーティングにも繋がりますし、次回以降その人に発注するかどうかの判断にも影響してきます。
クライアント→翻訳会社→翻訳者が受注の流れで、納品はこの逆になるわけですね。クライアントとしては誰が翻訳者であろうが翻訳会社の翻訳として評価するわけですし、信頼と次回以降の受注のためにも必要経費を出してチェックするわけです。

これをぼくなりに理解すると、
品質基準を設ける、チェッカーを設けるというのは、どちらも、翻訳の依頼側が負担するコストというわけですね。
コストには違いありませんが、泥沼の修正とか、いちど受領したのち、大量の誤訳を見つけて提示し、「もはやどっちが訳しているか分からない」という地獄を回避するための必要経費という感じですね。勉強になります。 泥沼化した場合、単純に誤訳を訂正するだけではありません。それが誤訳であることの挙証責任を果たしながら、翻訳者に内容・感情の両面をフォローしつつ説明するのは、ものすごいコストです。

教えて頂いた産業翻訳の場合ですと、
「クライアントは誰が翻訳者であろうが翻訳会社の翻訳として評価する」。クライアントが自社にチェック機関がないにせよ…、翻訳会社からクライアントへの請求代金には、「翻訳会社が翻訳者を査定し、翻訳を確認したコスト等」が加算されているはずです。あいだに翻訳会社が入るにせよ、入らないにせよ、けっきょくクライアントは、翻訳をチェックするコストを負担しているわけです。
全体の構造が見えてきました。
翻訳を依頼するという行為は、ジレンマをかかえています。「自分で翻訳できないから、翻訳する」ものの、何らかのかたちで、翻訳の品質を保証するコストを負担する必要がある。産業翻訳の場合は、翻訳会社という別の会社にお金を払っている、ということを学べました。

宮崎先生は、「旧訳がある本の新訳を依頼する出版社」に、①(新訳の依頼をしてくるからには)作品自体を理解してるはず、②新訳の価値を理解してほしい、という期待を持っています。すごくよく分かるんですが、①旧訳が読みにくいけど、なんとなく面白そう?かな?というレベルで依頼は行われるでしょうし、②新訳の価値(旧訳との差分)を理解する能力・時間あるなら、翻訳を依頼する必要がないというジレンマがあります。価値を理解するためには、自分でも原典すべてに当たり直し、旧訳と、新たに納品された新訳と、さらに自分なりの(出版社なりの)訳の三者を突合する必要があります。

「①旧訳が読みやすくて、作品自体の価値がよく分かった」ならば、新訳を依頼しません。また、自分で訳の良し悪しを判定する能力・時間があれば、自分でやります。②は、不可避で永遠の「片思い」です。

翻訳の受発注は、擦れ違いが残り続けるのですが、「文の理解、内容・品質とも、新訳者に一任する(発注者は預かり知らない)」という状況を作るために、翻訳を依頼するわけです。そのために、お金を払うんです。
しかし、依頼者側が品質保証のコストを負担する、というのは、上で確認したことですから、たとえば、新訳を依頼したひとが、旧訳をコピペして提出してくるなど、通常は思いもよらないわけですが…、そのチェックも、依頼者が負うべきコストと捉えざるを得ません。翻訳の受発注って、かなり危険な橋なんですね。

宮崎先生は、翻訳の5分の1が完成する都度、出版社に提出して内容や品質の確認を期待してました。仕事の進め方としては完璧なはずですが、出版社には、良し悪しを判定できる能力や時間がない(だから翻訳を発注している)。とりあえず受領の御礼だけ&リップサービスをしておくか…というのが、構造的に、出版社の対応の限界という気もします。
翻訳を小刻みに送っている翻訳者から見れば、「翻訳を受領した責任」を、出版社に各時点で期待するし、じっさいにその責任も(法的にではなく、ビジネスを円滑に進めるための実践として)あるでしょう。擦れ違いの構造が見落とされている、もしくは、擦れ違いを埋めるために、それほどのコストをかけられないときに、不幸な事故が起こるようです。

ともあれ、何日も、何週間も、何ヶ月も、音沙汰なしで放置した(と感じさせた)のは、ビジネスとして良くないと思いますけど…。それは、出版社とか、翻訳とか、そういう業態や商品・サービスの種類や内容と関係ないことです。などと考えながら、新春の読書を楽しみました。210110

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