読書 > 2018年12月に以降に読んだ本メモ

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仲野えみこ『劉備徳子は静かに暮らしたい』

劉備徳子をまとめて買いました。読むのです!

『劉備徳子』読んでます。孫権(が転生した女子)は、関羽(が転生した男子)が苦手。理由は関羽に婚姻を断られたからだそうですが、周瑜(が転生した男子)は、その事情を知らず、なぜなら周瑜は婚姻で揉める前に死んでいたからだそうです。死亡時点まで記憶があるなら、関羽は孫権に殺されてますが。


『劉備徳子』に孔明(が転生した男子)が登場したとき、周瑜(が転生…以下略)は死に際に「天はなぜ周瑜を生みながら…」と言ったことを思い出し、司馬懿は、死せる諸葛に走らされたことを思い出してます。やはり死ぬまでの記憶があるにも拘わらず、関羽と張飛は、徳子さんを取りあっているんですね。


『パリピ孔明』の孔明は、五丈原の最晩年から21世紀日本に転生します。蜀が滅亡したことは知らず、歴史年表を見てショックを受けていました。転生ものは、老年までの記憶を持ちつつ、中身はおじさんだが、死後の歴史は知らず、活動し(マンガにし)やすい年齢(10代後半~20代)に転生するらしいです。

のちに三国志学会で、原作者の四葉先生から、転生後の孔明の年齢は、とくに決まっていないというコメントがありました。

現代人が過去にタイムスリップすると時間軸が狂うのは主人公だけです。『パリピ孔明』では時間軸が狂ったのは孔明だけ。『劉備徳子』では転生すると、史実では生年が違い(史実で年齢差があった)、没年が違う(見てきた歴史の範囲が異なる)人々が、同じ学校の生徒になる。時間軸がぐねんぐねんです。

『劉備徳子』さんは、本当はこっそり人助けをしたいんですけど、曹操が許してくれないので、カモフラージュのために、地味めで活動内容が少ない「園芸同好会」を結成するんです。人助けの対象として"献帝"が隠されており、許都滞在の史実がもとになってるんですが、意外と園芸ネタでお話が展開します!

『劉備徳子は静かに暮らしたい』読了。最新刊は今年3月発売なので、完結は最近だったんですね。平和な日本に転生したのだから「静かに暮らしたい」。劉備は、関羽が死にかけると、我を忘れて孫権の首を絞める。いいやダメなんだ、旧怨を乗り越えて「静かに暮らしたい」んだという重いタイトルでした。200815


派生して、陳宮論

スマホゲームFGO?で陳宮が話題、本日のトレンド入りしていますが、『劉備徳子』のラスボスも陳宮でした。曹操が作った生徒会の秩序、劉備が作った園芸同好会の桃園を壊しにくる。陳宮の「曹操の命を助けて後悔した」は『演義』の「ためにする」逸話でしたが、二転三転するとラスボスにもなれる属性。

趙雲は、史料や物語の編者それぞれのニーズにより、列伝本文→『趙雲別伝』→『三国演義』→KOEIのゲーム、と進化します。陳宮も同様に、正史本文ではそれほど大きな役割を持っていないが、『三国演義』の都合で曹操の命を助けたことをキッカケに、後世の作品やゲームで進化したタイプのキャラですね。
ある単独の史料や物語の編者のニーズだけで、特定の人物を超人化、特別扱いのキャラに高めた場合、嘘くさくなるし、あんまり面白くない。他方、趙雲や陳宮のように、偶然が積み重なって、さまざまな編者のニーズが塗り重ねられて、偶発的に成長していくのって面白いですね。200815

追加して呂布のこと

『劉備徳子』の1巻のおまけに「本編には全く出てこない」として、呂布の転生者が現れるんですが、最終刊では、物語を終わらせるために敵として登場します。おそらく作者自身ですら予期せぬキャラのリサイクル。連載に特有の、伏線ではなかったものを伏線だったことにする、という技法でしょうか。


なお、20年12月に公開される映画『新解釈三國志』では、おそらく赤壁の戦いが題材になるようですが、呂布が復活しています。呂布は、活躍時期が合致しませんが、外せないキャラクターのようです。201014

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竹内真彦『最強の男 三国志を知るために』

竹内先生の本、ようやく届きました!読むのです!


なぜ、呂布なのか?
竹内真彦先生の『最強の男』は、なぜ呂布が最強と見なされるのか?なぜ張飛らと戦う相手が呂布なのか?なぜ貂蝉の相手役(夫婦円満物語の夫役)が呂布なのか?……と、呂布の「なぜ」を、解決するどころか、どんどん広げていきます。


物語の引用部分の書体、かっこいいです。そして、定番の誤変換…。


竹内真彦『最強の男』の後漢州地図。ものすごく大きな地図だけど、五原、太原、下邳が示され、とくに断られてないけど、呂布専用です。

竹内真彦『最強の男』は、ミステリー小説の謎解きに似ています。三国志がなぜ、今日のわれわれの見える形になったのか?を、問いを立てながら説いてます。よくある(単調な)解説書じゃなくて、本文自体が謎解きなんですよ。探偵(著者)が言い淀んだり、留保を付けたり、思考プロセスも刻まれてます。

皆さん、気づきましたか。『最強の男』の巻末、おくづけ?の竹内先生の著者略歴で、「主催する三国志研究会(全国版)は一般からの参加も歓迎」って、お誘いして下さってるんですね(笑)
著者略歴としては、「破格」ですよね。201011

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岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』

岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』読んでます。
理念と現実の綱引き。岡本氏によると、理念こと儒教は中国の土俗観念であり、現実(≒経済)を阻害するものという見取り図。
理念をかけて戦いがちな英雄よりも、グローバリゼーションで最適化された庶民の世界が支持されているように見えます。

研究に着手する以前に、研究者自身の世界の見方というのが先にあります。理念に殉じた英雄を好きなのか、多国間(地域間)の分業と交易を支持するかにより、たとえば諸葛孔明は、前者では、読み解く対象となる。後者では、趨勢に逆らうもの、現実が見えていないもの、ということで一瞬で無視されて終わります。

「諸葛孔明が山を越えて、長安周辺を占領しようと息巻いていたようですが、仮に占領したところで、得られるものは多くなかったと思います」と。岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』61ページ


グローバリゼーションと、それを理念としたグローバリズムがあり、リーマンショックで一度、ご破算というのが今日の流れだと思うんです。国境を高くしましょうってのが、疫病により加速しがち(良いか悪いかは議論しません)。
今日どのような研究の視覚、前提を持つか?です。

八百屋には野菜を求め、魚屋には魚を求めるべきで、
『世界史とつなげて学ぶ中国全史』というタイトル設定の時点で、世界から中国を分断し固有化しようとするもの(儒教)はローカルな邪魔物でしかなくて、経済圏の拡大に益するものはポジティブに書かれるに決まってますよね。

権力とは何か?(支配の)理念とは何か?っていうと、放置しておくと自ずとはそうならないものを、強制力を持って変化させる作用です。
市場の差配、成り行きに任せておいたら、好ましい状況ができるだろう派からすると、ほんと邪魔物なんです。が、市場への信頼感は落ちてますよね近年は。

研究の手法(史料批判など)は、科学的であれ、客観的であれ、っていう訓練、自己陶冶をしてきたと思うんですけど、研究の前提、ものの見方って、けっきょくは恣意的になるし、恣意的じゃなきゃ面白くないんです。
市場経済に、世界がややウンザリした今日、どんな研究になるのかなと思ったり。

おびの、「驚くほど仕事に効く知識が満載」の謎も解けてくるわけで、今日のビジネス現場は、よしあしは別として、ゼニカネのゲームの延長戦なので、ゼニカネ目線から再編集した中国全史は、ゲームに益する…ということかという。好き嫌いはさておき、ゲームは強制参加の側面が強いですからね。

なんやかんや言うとりますが、土地も農具も持ってないのに、月曜朝から読書して過ごせるのは、市場のルールに乗っかった結果です。微妙なところです。

「政治史は述べません。民間・経済から乖離した政治とは、単なる派閥争いで、コップの中の嵐に過ぎません。当事者はマジメでしょうが、周囲はどうでもよろしい」と。
岡本隆司氏が明王朝について述べている部分ですが、三国志も当てはまるようで、劉も曹も司馬も、何でも良さそうで、とくに記述はないです!
三国志は、唯一曹操が、民間の各所で行われた屯田を、「政府の資格で、大々的に模倣」した人として、名を記すに値するだけで、劉備も孫権も曹爽も司馬炎も出てこない。西晋の統一も、実態を無視した一時的なゴリ押し(「方向性に無理があった」)であり、案の定長続きしないじゃないかという筆致です。

「大々的に模倣した」だけというのも、やや貶められているように感じます。


粗い議論なのは分かりますが、ぼくは、歴史上の人物が好きだし、興味があるようです。 ていうか、固有名詞なしの経済の分析ならば、今日時点をやったほうが材料が多いですし、取引環境が整ってるから、単純に儲けられるって思っちゃうんです。証券会社のニュース、面白く読めますし。2010012

岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』読了。直接は名が出てこないですが、リカードの「自由貿易」「比較優位」で読み解く中国史という印象でした。広大な土地だから、気候も文化も異なる。それを強引に縫い合わせる権力にはムリがあり、地域ごとに最適化して運営するのが適切だという話。201013

おまけ:
開封っていう都市があります。宋代には首都になり、『水滸伝』にも出てきたはず。しかし漢代~魏晋の脳だと、開封って全然重要な都市じゃなく、陳留郡?っていう程度の認識なんです。なぜかといえば、隋代に黄河と長江を繋いだ運河の荷物の積み下ろし場なんですね。そりゃ漢代には見えないわけです。

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赤上裕幸『もしもあの時の社会学』

赤上裕幸『もしもあの時の社会学』を抜粋していきます。
事実に反する結果を仮想(想定)するので、反実仮想と呼ばれる。心理学では、上向きの反実仮想と、下向きの反実仮想が確認にされている。下向きの~は、失敗による苦しみを感為なし、「今」の大切さを気づかせる。
分析哲学では「可能世界」という。可能世界は、現実世界と対等な存在とされる。

人文科学・社会科学では、実験室で作業できないため、反実仮想が代役として機能する余地がある。だが歴史学者は、歴史のイフに否定的。反証可能性を持たないため。教育でも敬遠されてきた。
E.H.カー『歴史とは何か』は、歴史のイフを「サロンの余興」といい、清水幾多郎は「未練学派」という。歴史が本来いかに、の解明すら困難なのに、イフに取り組むのは蛇足。カー曰く、物事が起きた後、なぜ起こったかを正確に説明するのが歴史家の役目。
カーは、単なる偶然の事象(偶然的原因)と、因果関係が明確で他の事例にも応用可能な事象(合理的原因)を区別する。レーニンの死は偶然的原因による。だが、1918年に暗殺未遂に遭い、死期を早めたと言われる。カーは偶然的・合理的を明確に区別できず、後年、レーニンが長生きしたらを論じている。

歴史のイフは、歴史の原因を探究するとき用いられる。出来事は一度きり。反実仮想は、因果関係の推定を可能とする有効な方法。カーの言うように「歴史の研究は原因の研究」であれば、歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行っていることになる。必要条件を明らかにし、その重要度を決めている。
歴史のイフに着目することは、当時の人々が想像した「未来」にわれわれの関心を導く。歴史の当事者たちが思い描いた未来像、「歴史のなかの未来」を検討対象とし、この視点が21世紀にかけて登場してきた反実仮想の研究が取り組んできた新機軸。イイネ!!

クラーク『夢遊病者たち』曰く、1914年、戦前の事の成り行きのなかには、実際には起こらなかった別の結果を示唆するベクトルがいくつか存在した。現実ほどひどくない未来の種が宿っていた。「未来の種」を潰したことに対する、広い意味での戦争責任を問おうとした。
大川勇曰く、「可能性感覚」は、現にあるものを別様でもあり得るものと見なし、現実の背後に可能性として潜在する無数の世界を呼び起こすことによって、現実という固定した枠組みからの超出をうながす意識感覚ないしは思考能力のこと。

「あり得たかも知れない過去」は、想像上の「過去」であって実際の過去ではない。しかし、それが影響を与えるのは、われわれの現実感覚に対してである。「今」という瞬間は、そのようにならなかった可能性を残しており、存在したかも知れない数限りない「可能な今」のただ一つの表象にすぎない。
ファガーソン曰く、当時の人々は、「あり得るかも知れない未来」を1つ以上想定している。結果、実現したシナリオ以外は全て外れだが、事前にどれ実現するか分からない。ならば、当時の人々が想定していた(と記録に残っている)未来像は、どれに対しても等しい重要性を持って接しなければならない。実現したシナリオが、他の実現しなかったシナリオを期せずして次々と消し去ってしまったと考える歴史家は、「それが本来いかにあったか」という観点から過去を捉えることはできない。

「過去時点で想定されたが、実現しなかったシナリオ」まで目を配って初めて、過去がトータルで判明する。

反実仮想とランケ史学は「食い合わせ」が悪いものと思いきや、ファガーソンは、「それが本来いかにあったか」を理解するため、「それが本来いかにして起こらなかったか」の理解が重要だと訴えた。
当時の後悔、思考、葛藤、試行錯誤、幻の差し手まで考慮に入れ、歴史をより客観的に再構成できる。

歴史は話者の主観的な「物語」だという主張(物語理論)が力を持つ。歴史叙述における「物語」の再発見によって、「もうひとつの物語」を追究する反実仮想への拒否感は和らいだ。

以上、赤上裕幸『もしもあの時の社会学』の序章を抜粋してきました。理論的な幹は、序章で言い尽くされているので、抜粋はいったんは満足しました。いちおう三国志のアカウントなので、こんどは、三国志に引きつけて考えてみます。181216

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堀内淳一『北朝社会における南朝文化の受容』

堀内淳一氏の『北朝社会における南朝文化の受容_外交使節と亡命者の影響』東方書店2018の序章を、読むというか、書き写していきます。
著者による先行研究のまとめ・問題関心は、研究の動向を知り、本の内容を理解するために、とても重要ですし、しかもコンパクトにまとまってます。

華北は、北魏が北涼を滅ぼした439年でひとまずの統一。江南では420年に劉裕が禅譲を受けた。華北と華南に二つ(時期によっては三つ)の政権が並立。北朝から出た隋が、陳を581年に併合するまで150年近く続いた。漢代・隋唐と異なり、分裂がこの時代の特徴。
南北朝は、建国の経緯、文化・民族が異なる。南朝は、永嘉の乱を逃れた華北漢族と、江南の在地豪族の連合政権。江南地域を開発。北朝は大興安嶺の北部にいた騎馬民族の拓跋氏が華北に進出。他の五胡十六国を併合して統一。桑原隲蔵「歴史上より観たる南北支那」

後漢末から唐初にかけ、300年にわたり政治・民族・文化的に分裂。唐以降、近代に至るまで(南宋150年間をのぞき)大分裂期は再現されない。なぜこの時代だけ分裂が長期継続し、隋代に再統一できたか。イイネ!!
漢と唐に、文化・伝統の断絶がある。南朝は、漢・曹魏・西晋を継ぐ。隋唐は、北朝が源流。

北魏-隋唐の源流は、モンゴル高原東部に由来する遊牧民族。華北を征服し、永嘉の乱以降も華北に残る漢人貴族を加え、胡漢融合を成立させた。 隋が陳を征服したが、「南朝的な漢魏以来の文化が、北朝の胡漢融合から生まれた文化に征服された」とは見なせない。隋唐は漢代の文化からも多くを継承した。
胡族に由来する北朝に、どのように漢代と共通する社会的・文化的要素が入ったか。従来の北朝研究は、北朝の歴史的特質を明らかにすることを目的とした。だが一方、漢から唐にかけて成立した東アジア世界の「中国文化」が、胡族国家から出発した北朝でどのように展開したが、把握する試みもある。

西嶋定生は「五胡十六国と東晋、南北朝時代をへて、長期にわたり多核現象を呈するが、「東アジア世界」が顕在化するのはこの時期」という。日本・朝鮮半島・モンゴル高原・チベット高原まで、周辺国家の独立、新しい国際秩序の形成をもたらした。
北朝における南朝の影響は、政権間の交流にとどまらず、民族的・文化的に異なった王朝が、交流によってより普遍的な「世界帝国」の成立へと至る契機であり、東アジア世界規模で観れば、その後の漢字文化圏が広がっていく東アジア文化の原型となるものであった。イイネ!!

西嶋定生は南北朝を区別せず、広義の「中国」という。実際は、自国を「中国」と見なし、南朝にとっての北朝、北朝にとっての南朝は「中国の外」とした。平勢隆郎は、春秋戦国から漢代に至る「八紘」「中国」を検討し、始皇帝以前から存在した「中領域」と、前漢武帝以降の「大領域」が併存したという。
南朝・北朝ともに独自の「中国」があったことを前提に。

西嶋『中国古代国家と東アジア世界』、平勢『「八紘」とは何か』の2章、「八紘」論と「封建」論。272-275p。
メモ:中国という語句の意味・範囲に注意


戸川貴行『東晋南朝における伝統の創造』によると、中原王朝の伝統は西晋末に喪失。南朝は国家儀礼を喪失。しかし儀礼の次第が失われても、北方士人は南朝を「衣冠礼楽」があると見なし、北朝と比較すれば、後漢から多くが継承されていたと言って差し支えない。←堀内氏の指摘
川本芳昭は、北魏の成立と発展を、東アジア全域の国家形成と比較。北魏の「漢化政策」は胡族の漢族化でなく、胡漢融合による新しい中国人の創造の一部。同様の文化的融合は、辺縁の諸地域で同様に進展。中国内外への人の移動による。『魏晋南北朝時代の民族問題』『東アジア古代における諸民族と国家』

南北朝交流と「世界帝国」成立は、陳寅恪。隋唐の文物制度の源流に、河西地域で温存されていた漢魏文化の他、南朝からの影響があった。北魏孝文帝471-499のブレーン王粛が南朝から亡命したことを強調。孝文帝の改革に、南朝出身の崔光らが参与し、礼儀・職官に影響を与えた。
陳寅恪の重点は、西魏・北周の文化が、永嘉の乱以来、河西地域に保存され、隋唐に継承されたこと。河西を強調するが、南朝からの影響は自明とし、文物制度の伝わる過程を詳しく検討していない。

牟発松が、漢代~唐代の変化を「社会の国家化」という。後漢から魏晋南北朝の貴族の出現は、郷里社会の秩序維持を担ってきた豪族層の影響力を、国家が後を追って制度化した結果。後漢末以降の変化が北朝に伝わり、隋唐の制度に受け継がれるとする。これは唐長孺「唐朝の南朝化」を遡って説明したもの。
牟発松は「唐代の南朝化傾向」の源流を孝文帝の改革に求め、外交使節・亡命者による南朝文化の遷移に注目。南朝の先進文化を北朝が吸収し、東魏・北斉のときは文化的水準の差はわずか。南朝の王融のように、北魏に文化を伝えることで武力を用いず北朝を統一しようという意図があったのが証拠。
牟発松は、北魏孝武帝ら知識人が南朝文化を積極的に取り入れた結果、南朝に追いつき、隋唐に引き継がれたとする。北朝の後進性が前提。

宮崎市定は、北朝の九品中正制度は、南朝の制度に由来し、孝文帝期に南朝から、知識・制度が遷移したと。北魏の官制が、王粛・劉昶ら亡命者によって改革された。晋宋革命のとき司馬休之ら、孝文帝期に南斉宗室が亡命した事例等から、南朝からの貴族流入があった。ただし時期により影響は小さかった。
吉川忠夫は、典籍の流通に注目。文学は、南朝が凌駕。「隋による統一を待たず、南北の交流は面識のない個人の間で、開けつつあった」。

南朝からの流入は、外交使節・亡命者がもたらした。交通・通信が未発達だと、国境を越えた人間に注目すべき。だが政治・地勢の理由で、移動が制限され、戦時だけでなく平時も往来を禁じた。国境線はなく、広大な無人地帯が広がっていた。陳金鳳『魏晋南北朝中間地帯研究』天津古籍出版社2005
南北朝どちらの支配も及ばぬ地域は、少数民族「蛮」がおり、犯罪者・逃亡農民・反乱の指導者が流入。緩衝地帯と化した。国の支援なく国境を越えるのは危険。北村一仁氏の各論文。
史料は、逃亡農民・犯罪者が国境を越えたこと、商人の密貿易など、民間の人的移動を記す。東晋成立期、華北から南方に大量に逃れ、江南開発の原動力となり、北朝に対抗する軍事力の源泉となった。時代が下ると南への流入は減るが、北魏の華北統一まで継続的に存在した。

正史や出土する墓誌から分かるのは貴族の移動。貴族は、支配階層、知識人、文化の担い手、外交政策の決定者、在地の有力者。森三樹三郎『六朝士大夫の精神』。
北朝の貴族は、後漢末以来、郷里社会の民望を背景に、郷里社会を越えた広域の婚姻関係、相互評価のネットワークをもつ自立性の高い存在。川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』
堀内氏は、久しく華北に生活基盤をおき、郷里社会に影響力を保持している貴族だけでなく、郷里との繋がりが希薄で、王朝から庇護を受けた南朝からの亡命者も含めて「北朝貴族」として扱う。

貴族が国境を越える方法は、外交使節として国のバックアップを受けること。「聘使」「使者」「使節」と現れる。堀内氏は、派遣された集団全体を「使節」、中心的人物(正使・副使)を「使者」とする。使節全体と個人に関わる場合を分ける必要があるため。
南北朝間の外交使節は、史料だけでも200例をこえ、1年に1往復の割合。外交交渉、交易、文化交流。外交使節は、趙翼ら歴史学者の関心を引き、岡崎文夫・室町栄夫が言及したが、文章・学問に着目したが、趙翼の内容を出ない。
外交使節が公的に派遣される。黎虎は漢~唐の外交の官僚制度を検討。魏晋南北朝の外交機構は、外交事務を扱う鴻臚寺と、外交政務を扱う尚書主客曹の2系統がある。それに中書省や門下省が関与して複雑。黎虎は外交政策の決定過程に主眼があり、交流には重きをおかず。
逯耀東が1960sに、使者の選考過程・役割・交渉の実態・交易を研究。梁満倉は通使の記録から、南朝の北朝観が蛮夷から対等の国へと変化するとし、王友敏は使節の儀礼を復元。
後藤勝が正使と『資治通鑑』から、使者の役割を①政治外交の問題解決、②文化交流、③物資を非公式に入手する機会と整理。

蔡宗憲がまとめ、外交使節や応接官の選定方法、移動ルート、所要日数、外交での交渉と振る舞いを明らかにした。だが、「外交使節が具体的にどうか」と「外交使節がどんな影響を与えたか」は異なる。北朝貴族社会をどのように変容させたかを議論しないと、漢から唐への変遷が分からない。

「私的」越境として、王粛らの亡命がある。王朝交替・政権闘争で身の危険がある皇族・貴族は、北魏で優遇された。東晋皇族の司馬氏、南朝第一の琅邪王氏が逃れた。長期滞在、北朝貴族との交友、制度・文物の改変に関わった。亡命者の研究は、孝武帝期の王粛・劉昶がおおい。
王永平が、亡命者の類型と、北朝における待遇に言及。亡命者の制度面での研究は、佐久間吉也が北魏の客礼を扱ったのみ。族譜研究の対象となり、守屋美都雄の太原王氏、矢野主税の河東裴氏、王大良の刁氏の通婚の研究がある。北朝からの亡命者は、榎本あゆち。南朝の貴族社会や軍隊に、北族的要素あり。
岩本篤志は、南朝からの亡命者である徐之才が、東魏から北斉への禅譲過程で果たした役割を論じた。

堀内氏は、南北朝対立が明確となった劉宋成立420年~隋の統一589年まで、北朝貴族社会が南朝との人の往来から受けた影響を考察する。文化・制度だけでなく、使者・亡命者の北朝内での立場を検討し、北朝における南朝観の変遷を追う。隋唐は、いずれも北朝から。北朝が南朝をどう認識していたかが重要。
使者・亡命者のほか、例外的な人の移動は、軍隊による移住の強制。人口不足なので、都市を攻めて強制移住させた。1回目は469年、北魏が淮北を劉宋から奪い、平城(大同市)に移された。平斉戸と呼ばれ、厳しく管理された。554年、西魏が、梁の都の江陵を攻め落とし、王褒・顔之推が長安に移された。

…などと抜粋しました。181219

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