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赤上裕幸『もしもあの時の社会学』

赤上裕幸『もしもあの時の社会学』を抜粋していきます。
事実に反する結果を仮想(想定)するので、反実仮想と呼ばれる。心理学では、上向きの反実仮想と、下向きの反実仮想が確認にされている。下向きの~は、失敗による苦しみを感為なし、「今」の大切さを気づかせる。
分析哲学では「可能世界」という。可能世界は、現実世界と対等な存在とされる。

人文科学・社会科学では、実験室で作業できないため、反実仮想が代役として機能する余地がある。だが歴史学者は、歴史のイフに否定的。反証可能性を持たないため。教育でも敬遠されてきた。
E.H.カー『歴史とは何か』は、歴史のイフを「サロンの余興」といい、清水幾多郎は「未練学派」という。歴史が本来いかに、の解明すら困難なのに、イフに取り組むのは蛇足。カー曰く、物事が起きた後、なぜ起こったかを正確に説明するのが歴史家の役目。
カーは、単なる偶然の事象(偶然的原因)と、因果関係が明確で他の事例にも応用可能な事象(合理的原因)を区別する。レーニンの死は偶然的原因による。だが、1918年に暗殺未遂に遭い、死期を早めたと言われる。カーは偶然的・合理的を明確に区別できず、後年、レーニンが長生きしたらを論じている。

歴史のイフは、歴史の原因を探究するとき用いられる。出来事は一度きり。反実仮想は、因果関係の推定を可能とする有効な方法。カーの言うように「歴史の研究は原因の研究」であれば、歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行っていることになる。必要条件を明らかにし、その重要度を決めている。
歴史のイフに着目することは、当時の人々が想像した「未来」にわれわれの関心を導く。歴史の当事者たちが思い描いた未来像、「歴史のなかの未来」を検討対象とし、この視点が21世紀にかけて登場してきた反実仮想の研究が取り組んできた新機軸。イイネ!!

クラーク『夢遊病者たち』曰く、1914年、戦前の事の成り行きのなかには、実際には起こらなかった別の結果を示唆するベクトルがいくつか存在した。現実ほどひどくない未来の種が宿っていた。「未来の種」を潰したことに対する、広い意味での戦争責任を問おうとした。
大川勇曰く、「可能性感覚」は、現にあるものを別様でもあり得るものと見なし、現実の背後に可能性として潜在する無数の世界を呼び起こすことによって、現実という固定した枠組みからの超出をうながす意識感覚ないしは思考能力のこと。

「あり得たかも知れない過去」は、想像上の「過去」であって実際の過去ではない。しかし、それが影響を与えるのは、われわれの現実感覚に対してである。「今」という瞬間は、そのようにならなかった可能性を残しており、存在したかも知れない数限りない「可能な今」のただ一つの表象にすぎない。
ファガーソン曰く、当時の人々は、「あり得るかも知れない未来」を1つ以上想定している。結果、実現したシナリオ以外は全て外れだが、事前にどれ実現するか分からない。ならば、当時の人々が想定していた(と記録に残っている)未来像は、どれに対しても等しい重要性を持って接しなければならない。実現したシナリオが、他の実現しなかったシナリオを期せずして次々と消し去ってしまったと考える歴史家は、「それが本来いかにあったか」という観点から過去を捉えることはできない。

「過去時点で想定されたが、実現しなかったシナリオ」まで目を配って初めて、過去がトータルで判明する。

反実仮想とランケ史学は「食い合わせ」が悪いものと思いきや、ファガーソンは、「それが本来いかにあったか」を理解するため、「それが本来いかにして起こらなかったか」の理解が重要だと訴えた。
当時の後悔、思考、葛藤、試行錯誤、幻の差し手まで考慮に入れ、歴史をより客観的に再構成できる。

歴史は話者の主観的な「物語」だという主張(物語理論)が力を持つ。歴史叙述における「物語」の再発見によって、「もうひとつの物語」を追究する反実仮想への拒否感は和らいだ。

以上、赤上裕幸『もしもあの時の社会学』の序章を抜粋してきました。理論的な幹は、序章で言い尽くされているので、抜粋はいったんは満足しました。いちおう三国志のアカウントなので、こんどは、三国志に引きつけて考えてみます。181216

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堀内淳一『北朝社会における南朝文化の受容』

堀内淳一氏の『北朝社会における南朝文化の受容_外交使節と亡命者の影響』東方書店2018の序章を、読むというか、書き写していきます。
著者による先行研究のまとめ・問題関心は、研究の動向を知り、本の内容を理解するために、とても重要ですし、しかもコンパクトにまとまってます。

華北は、北魏が北涼を滅ぼした439年でひとまずの統一。江南では420年に劉裕が禅譲を受けた。華北と華南に二つ(時期によっては三つ)の政権が並立。北朝から出た隋が、陳を581年に併合するまで150年近く続いた。漢代・隋唐と異なり、分裂がこの時代の特徴。
南北朝は、建国の経緯、文化・民族が異なる。南朝は、永嘉の乱を逃れた華北漢族と、江南の在地豪族の連合政権。江南地域を開発。北朝は大興安嶺の北部にいた騎馬民族の拓跋氏が華北に進出。他の五胡十六国を併合して統一。桑原隲蔵「歴史上より観たる南北支那」

後漢末から唐初にかけ、300年にわたり政治・民族・文化的に分裂。唐以降、近代に至るまで(南宋150年間をのぞき)大分裂期は再現されない。なぜこの時代だけ分裂が長期継続し、隋代に再統一できたか。イイネ!!
漢と唐に、文化・伝統の断絶がある。南朝は、漢・曹魏・西晋を継ぐ。隋唐は、北朝が源流。

北魏-隋唐の源流は、モンゴル高原東部に由来する遊牧民族。華北を征服し、永嘉の乱以降も華北に残る漢人貴族を加え、胡漢融合を成立させた。 隋が陳を征服したが、「南朝的な漢魏以来の文化が、北朝の胡漢融合から生まれた文化に征服された」とは見なせない。隋唐は漢代の文化からも多くを継承した。
胡族に由来する北朝に、どのように漢代と共通する社会的・文化的要素が入ったか。従来の北朝研究は、北朝の歴史的特質を明らかにすることを目的とした。だが一方、漢から唐にかけて成立した東アジア世界の「中国文化」が、胡族国家から出発した北朝でどのように展開したが、把握する試みもある。

西嶋定生は「五胡十六国と東晋、南北朝時代をへて、長期にわたり多核現象を呈するが、「東アジア世界」が顕在化するのはこの時期」という。日本・朝鮮半島・モンゴル高原・チベット高原まで、周辺国家の独立、新しい国際秩序の形成をもたらした。
北朝における南朝の影響は、政権間の交流にとどまらず、民族的・文化的に異なった王朝が、交流によってより普遍的な「世界帝国」の成立へと至る契機であり、東アジア世界規模で観れば、その後の漢字文化圏が広がっていく東アジア文化の原型となるものであった。イイネ!!

西嶋定生は南北朝を区別せず、広義の「中国」という。実際は、自国を「中国」と見なし、南朝にとっての北朝、北朝にとっての南朝は「中国の外」とした。平勢隆郎は、春秋戦国から漢代に至る「八紘」「中国」を検討し、始皇帝以前から存在した「中領域」と、前漢武帝以降の「大領域」が併存したという。
南朝・北朝ともに独自の「中国」があったことを前提に。

西嶋『中国古代国家と東アジア世界』、平勢『「八紘」とは何か』の2章、「八紘」論と「封建」論。272-275p。
メモ:中国という語句の意味・範囲に注意


戸川貴行『東晋南朝における伝統の創造』によると、中原王朝の伝統は西晋末に喪失。南朝は国家儀礼を喪失。しかし儀礼の次第が失われても、北方士人は南朝を「衣冠礼楽」があると見なし、北朝と比較すれば、後漢から多くが継承されていたと言って差し支えない。←堀内氏の指摘
川本芳昭は、北魏の成立と発展を、東アジア全域の国家形成と比較。北魏の「漢化政策」は胡族の漢族化でなく、胡漢融合による新しい中国人の創造の一部。同様の文化的融合は、辺縁の諸地域で同様に進展。中国内外への人の移動による。『魏晋南北朝時代の民族問題』『東アジア古代における諸民族と国家』

南北朝交流と「世界帝国」成立は、陳寅恪。隋唐の文物制度の源流に、河西地域で温存されていた漢魏文化の他、南朝からの影響があった。北魏孝文帝471-499のブレーン王粛が南朝から亡命したことを強調。孝文帝の改革に、南朝出身の崔光らが参与し、礼儀・職官に影響を与えた。
陳寅恪の重点は、西魏・北周の文化が、永嘉の乱以来、河西地域に保存され、隋唐に継承されたこと。河西を強調するが、南朝からの影響は自明とし、文物制度の伝わる過程を詳しく検討していない。

牟発松が、漢代~唐代の変化を「社会の国家化」という。後漢から魏晋南北朝の貴族の出現は、郷里社会の秩序維持を担ってきた豪族層の影響力を、国家が後を追って制度化した結果。後漢末以降の変化が北朝に伝わり、隋唐の制度に受け継がれるとする。これは唐長孺「唐朝の南朝化」を遡って説明したもの。
牟発松は「唐代の南朝化傾向」の源流を孝文帝の改革に求め、外交使節・亡命者による南朝文化の遷移に注目。南朝の先進文化を北朝が吸収し、東魏・北斉のときは文化的水準の差はわずか。南朝の王融のように、北魏に文化を伝えることで武力を用いず北朝を統一しようという意図があったのが証拠。
牟発松は、北魏孝武帝ら知識人が南朝文化を積極的に取り入れた結果、南朝に追いつき、隋唐に引き継がれたとする。北朝の後進性が前提。

宮崎市定は、北朝の九品中正制度は、南朝の制度に由来し、孝文帝期に南朝から、知識・制度が遷移したと。北魏の官制が、王粛・劉昶ら亡命者によって改革された。晋宋革命のとき司馬休之ら、孝文帝期に南斉宗室が亡命した事例等から、南朝からの貴族流入があった。ただし時期により影響は小さかった。
吉川忠夫は、典籍の流通に注目。文学は、南朝が凌駕。「隋による統一を待たず、南北の交流は面識のない個人の間で、開けつつあった」。

南朝からの流入は、外交使節・亡命者がもたらした。交通・通信が未発達だと、国境を越えた人間に注目すべき。だが政治・地勢の理由で、移動が制限され、戦時だけでなく平時も往来を禁じた。国境線はなく、広大な無人地帯が広がっていた。陳金鳳『魏晋南北朝中間地帯研究』天津古籍出版社2005
南北朝どちらの支配も及ばぬ地域は、少数民族「蛮」がおり、犯罪者・逃亡農民・反乱の指導者が流入。緩衝地帯と化した。国の支援なく国境を越えるのは危険。北村一仁氏の各論文。
史料は、逃亡農民・犯罪者が国境を越えたこと、商人の密貿易など、民間の人的移動を記す。東晋成立期、華北から南方に大量に逃れ、江南開発の原動力となり、北朝に対抗する軍事力の源泉となった。時代が下ると南への流入は減るが、北魏の華北統一まで継続的に存在した。

正史や出土する墓誌から分かるのは貴族の移動。貴族は、支配階層、知識人、文化の担い手、外交政策の決定者、在地の有力者。森三樹三郎『六朝士大夫の精神』。
北朝の貴族は、後漢末以来、郷里社会の民望を背景に、郷里社会を越えた広域の婚姻関係、相互評価のネットワークをもつ自立性の高い存在。川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』
堀内氏は、久しく華北に生活基盤をおき、郷里社会に影響力を保持している貴族だけでなく、郷里との繋がりが希薄で、王朝から庇護を受けた南朝からの亡命者も含めて「北朝貴族」として扱う。

貴族が国境を越える方法は、外交使節として国のバックアップを受けること。「聘使」「使者」「使節」と現れる。堀内氏は、派遣された集団全体を「使節」、中心的人物(正使・副使)を「使者」とする。使節全体と個人に関わる場合を分ける必要があるため。
南北朝間の外交使節は、史料だけでも200例をこえ、1年に1往復の割合。外交交渉、交易、文化交流。外交使節は、趙翼ら歴史学者の関心を引き、岡崎文夫・室町栄夫が言及したが、文章・学問に着目したが、趙翼の内容を出ない。
外交使節が公的に派遣される。黎虎は漢~唐の外交の官僚制度を検討。魏晋南北朝の外交機構は、外交事務を扱う鴻臚寺と、外交政務を扱う尚書主客曹の2系統がある。それに中書省や門下省が関与して複雑。黎虎は外交政策の決定過程に主眼があり、交流には重きをおかず。
逯耀東が1960sに、使者の選考過程・役割・交渉の実態・交易を研究。梁満倉は通使の記録から、南朝の北朝観が蛮夷から対等の国へと変化するとし、王友敏は使節の儀礼を復元。
後藤勝が正使と『資治通鑑』から、使者の役割を①政治外交の問題解決、②文化交流、③物資を非公式に入手する機会と整理。

蔡宗憲がまとめ、外交使節や応接官の選定方法、移動ルート、所要日数、外交での交渉と振る舞いを明らかにした。だが、「外交使節が具体的にどうか」と「外交使節がどんな影響を与えたか」は異なる。北朝貴族社会をどのように変容させたかを議論しないと、漢から唐への変遷が分からない。

「私的」越境として、王粛らの亡命がある。王朝交替・政権闘争で身の危険がある皇族・貴族は、北魏で優遇された。東晋皇族の司馬氏、南朝第一の琅邪王氏が逃れた。長期滞在、北朝貴族との交友、制度・文物の改変に関わった。亡命者の研究は、孝武帝期の王粛・劉昶がおおい。
王永平が、亡命者の類型と、北朝における待遇に言及。亡命者の制度面での研究は、佐久間吉也が北魏の客礼を扱ったのみ。族譜研究の対象となり、守屋美都雄の太原王氏、矢野主税の河東裴氏、王大良の刁氏の通婚の研究がある。北朝からの亡命者は、榎本あゆち。南朝の貴族社会や軍隊に、北族的要素あり。
岩本篤志は、南朝からの亡命者である徐之才が、東魏から北斉への禅譲過程で果たした役割を論じた。

堀内氏は、南北朝対立が明確となった劉宋成立420年~隋の統一589年まで、北朝貴族社会が南朝との人の往来から受けた影響を考察する。文化・制度だけでなく、使者・亡命者の北朝内での立場を検討し、北朝における南朝観の変遷を追う。隋唐は、いずれも北朝から。北朝が南朝をどう認識していたかが重要。
使者・亡命者のほか、例外的な人の移動は、軍隊による移住の強制。人口不足なので、都市を攻めて強制移住させた。1回目は469年、北魏が淮北を劉宋から奪い、平城(大同市)に移された。平斉戸と呼ばれ、厳しく管理された。554年、西魏が、梁の都の江陵を攻め落とし、王褒・顔之推が長安に移された。

…などと抜粋しました。181219

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