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劉歆の三統暦(『王莽』より)

渡邉義浩『改革者の孤独 王莽』
2.古文学と劉歆

暦の正しさと音楽

劉歆の三統暦は、経学の正しさを、天文の運行と音律の普遍性により合理的に証明しようとした。
暦制は、国家の正統性を支える重要な手段の一つであった。清の時憲暦にいたるまで、五十種類以上のもの暦法が考案された。前漢から後漢にかけても、顓頊暦・太初暦・三統暦・後漢四分暦が施行された。

一年を三六五日と四分の一とする暦法の総称を、四分暦という。
戦国四分暦は、暦の起算点である暦元をいつに設定するか、によって区別した。秦の始皇帝の顓頊暦は、前三三六年の立春朔甲寅を暦元とする四分暦であった。
顓頊暦は、冬至の前月である十月を歳首とする。閏月は歳末、つまり九月のつぎに「後九月」として設置された。前漢はこれを継承した。

武帝は、受命改制思想に基づき、太初暦を制定した。革命が成就した証として、暦法の改革を行うべしとする思想。受命改制思想は、終始五徳説と、相互補完の関係である。
さらに、受命改制思想と終始五徳説は、三正説とも呼応する。三正説は、正月を何月に設定するかにより、孟春の月(一月)を正月とする夏正、季冬の月(夏正十二月)を正月とする殷正、仲冬の月(夏正十一月)を正月とする周正に、それぞれの国家が位置づけられる、という思想である。

夏→殷→周と、時代がくだった王朝を冠するごとに、一月→十二月→十一月と遡る。

儒教の理想とする、夏・殷・周の三代のいずれかに、その後の国家は位置づけられるべきとされた。

武帝は、三正説においては夏正、終始五徳説においては土徳に則って、太初暦を採用した。

中国における天文・暦法理論の特徴は、太陽・月・五惑星の運行までを計算できる、天体暦としての性格をもつ。
太初暦では、法数は、音律を基準として定められた。

法数は、日数などで端数をつかうとき、分母に使う数と理解すればいいと思います。

十二の絶対音高からなる音律の基準である、もっとも低音の黄鐘は、律管の長さが九寸(20.7センチメートル)であった。そのため太初暦は、九を自乗した「八一」を法数とする。このように、音律にもとづいて暦の定数を定めることを、律暦思想という。

太陰太陽暦では、一定の周期で閏月を設けないと、朔望月とじっさいの季節のあいだにズレが生じる。四分暦でも太初暦でも、それを回避するため、一九年に七回の閏月を挿入していた。これを章法という。
一九年七閏法、西欧暦でいうメトン周期。

四分暦における一朔望月(一ヵ月)は、
(365日+1/4日)×19年÷(12ヵ月×19年+7閏月)
=29日+499/940日(29.53085日)

律暦思想による太初暦における一朔望月は、
=29日+43/81日(29.53086日)

この端数の分母である八一を法数とすることが、太初暦の最大の特徴。「八十一分暦」と呼ばれる理由である。
現行暦(21世紀の科学)によると、29.53059日が正しい。

渡邉先生は触れていないけれど、四分暦から太初暦へは、改悪であった。というのが、藪内清先生の指摘。


三統暦と経学

劉歆の三統暦は、音律が保障する暦法の正しさにより、天の運行に加えて、経書の正しさを証明しようとした。
三統暦は、法数らを太初暦から踏襲する。三統暦は、月食の予測や、五惑星の運行を計算できるにようになっている。

そうだっけ??

暦学的には、太初暦より、数段の進歩を遂げている。

それよりも特筆すべきは、三統暦が、さまざまな数値・観念を経書と積極的に結合したところにある。

堀池信夫によれば、そもそも三統は、「一元三統 四千六百十七年」という、暦法上の字句である。一元(4617年)とは、暦のすべての数値がもとにもどる歳。それは一統(1539年)を3回くり返した、三統(1539*3=4617)により実現する。
9つある月の軌道(?)が、一巡してもとにもどる9年に、メトン周期である1章19年を掛け算した、171年が小終である。これを9回くり返した、9*19*9=1539年が大終であり、暦の大周期が完了する。これが一統である。
一統を3回くり返すと、一元4617年となり、すべてが元にもどる。

それと同時に、三統は、夏・殷・周三代の正朔である、人統・地統・天統を意味している。正朔とは、正月(年の初め)と、朔日(月の初め)のことで、暦のこと。
夏正は、建寅の月(孟春、一月)を正月とし、これを人統という。殷正は、建丑の月(季冬、夏正の十二月)を正月とし、これを地統という。周正は、建子の月(仲冬、夏正の十一月)を正月とし、これを天統という。

夏→殷→周と、時代がくだった王朝を冠するごとに、一月→十二月→十一月と遡り、人統→地統→天統と昇っていく。

ちなみに、儒教を尊重しない秦は、建亥の月(初冬、夏正の十月)を正月とする。前漢もまた、武帝期に夏正と改めるまでは、十月を正月としていた。

さらに三統は、天・地・人の「三才」をつらぬく理法である。三才とは、戦国末の荀子の思想。有徳の聖人であれば、人は、天と地の働きのなかに、第三の存在として肩を並べることができる
董仲舒が、聖人(天子)の行動が、天地と関係しているという天人相関論を説き得たのは、荀子の三才思想にもとづく!
三統は、それをも支えている。

三と二の基本的数値の関係は、『周易』のいう、「参天両地」(奇数の135の3つを天にあてて、偶数の24の2つを地数とすることで、50本の筮竹によって占いが可能になるという考え方)により、
つまり天地より得たところの絶対的な数とも意味づけられていた。易の正しさも、三統暦により保証されていた。

このように劉歆は、礼経典をのぞくほとんどの経典を、三統暦の世界に配置し、経学の正しさを、律暦の正しさにより証明した。

王莽が心酔した儒教は、その正しさの根本を、天の運行と音律においていた。
劉歆が三統暦を完成した元始五(西暦五)年には、すでに王莽が政権を掌握していた。王莽は、三統暦に基づいて度量衡を定めた。クロキビの中ぐらいの粒を並べると、90粒で黄鐘の律管の長さ9寸にあたる。
度量衡をこれによって定めた。210504

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試論「諸葛亮ビーム攷」

「諸葛亮ビーム攷」って、いい考察記事になると思うんです。
3Dモデルの諸葛亮の、初登場時におけるゲーム環境(格闘ゲーム?)で見たら、どんな位置づけか。ビームを出す人物の特徴=キャラクター性と(戦闘における)機能。ゲームの難易度のバランス。まじめに論じたら、けっこういけません??

諸葛亮って、なんでビームが出るんですかね。キャラ的に、羽扇を持たせたい。槍や剣に比べるとリーチが短く、必然的に弱くなる。しかし、三国演義ベースの真・三國無双において、諸葛亮が弱いのは許されない。羽扇の切っ先(攻撃範囲)を広げるアイテムはあるが、たしか後発だし、インパクトがない。
諸葛亮は『三国演義』では、計略で勝つイメージだが、初期の真・三國無双(ぼくもやってました)は、ステージで複雑なイベントは少なく、効果も薄かった。原則として兵士を切り進むゲーム。リーチの短い羽扇でありながら、強くなければ…からのビーム? ゲーム史に詳しいかた、教えてください!!

水城洋臣(洋画劇場P)@Yankun1984 さま

『真・三國無双』以前の、格闘ゲーム『三國無双』の時点で、孔明先生ビーム撃ってたんですよね。なので掘り下げるべきは「リアル系武器格闘ゲームにおける飛び道具持ち」という文脈なんだと思います。

プレイ動画を案内していただきました。見ました。格闘ゲームの三國無双の諸葛亮って、羽扇が空振りが多いし、リーチの外からビームを出したら無敵そうなのに、そういうわけにはいかないみたいです。そもそも、強キャラという設定ではなさそう??格闘ゲームの三國無双は、やったことないからルールや操作性は分からないんですけど。


古上織蛍 @koueorihotaru さま

ビームは「魔法」なんでしょうね。『三国志演義』でも諸葛亮は魔法使いみたいな感じですし。テレビゲームで先行しているファンタジー世界のアクションRPGに無理やり三国志の英雄を当てはめると、諸葛亮は「魔法使い」という話になったんでしょう。

yiyushui @yiyushuiさま

真になるまえの「三国無双」がビーム技持ちだったと。
その前は知りませんが、英傑伝シリーズでも軍師系職業は特殊技(魔法使いスタイル)だったので軍師が戦場に出るゲーム中の扱い=特殊技の文脈はあるのかなあ、とは思いました。
諸葛亮は風起こしたり寿命伸ばそうとしたりするし、魔法使い感あるのでそこからの延伸かなーと思いました。
あと思い出したんですが、天地を喰らうのゲームがRPGだった気がします。未プレイでちょろっと実況見ただけなので確かなことは言えないんですが、RPGでの軍師の文脈は遡れるかもしれません。

竹内真彦 @TAKEUTIMasahikoさま

確認せずに記憶で書きます(笑)三国無双は基本「波動拳」持ちがいない本当の意味の「格闘」ゲームで、曹操と諸葛亮が隠しキャラ。無印のPSだったので容量の問題もあったはずで、レギュラーキャラとの「わかりやすい」差別化がビームだったのかな、と。(全然違ってたらすみません)

……以上のことを教えて頂きました。ありがとうございました。210508

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