孫呉 > 呉王となる孫権に関するまとめ

全章
開閉

末期の曹操と、孫権の関係

呉主伝を背骨に、関係情報を補う。建安二十四年から、孫権が皇帝になるまでの史料を、できるだけ整理します。派生して、魯粛の死後、孫権がどのような状況にあったのかも、概観しておく。『三国志集解』は、『集解』とのみ記します。

魯粛の死により? 曹操に協調

単刀会が行われたのは、建安二十年。呉蜀の国境線が引かれたということは、貸し借りのような関係が解消され、別集団として正式に分化したことを意味する。
この頃の戦略を、呂蒙が、いかに語っていたか。

◆呂蒙伝

巻五十四 呂蒙伝:魯粛卒、蒙西屯陸口。粛軍人馬万餘、尽以属蒙。又拝漢昌太守、食下雋、劉陽、漢昌、州陵。与関羽、分土接境。知羽驍雄有并兼心、且居国上流、其勢難久。初、魯粛等以為、曹公尚存禍難始搆、宜相輔協、与之同仇、不可失也。蒙乃密陳計策曰「今、征虜守南郡。潘璋住白帝。蒋欽将游兵万人、循江上下、応敵所在。蒙、為国家、前拠襄陽。如此、何憂於操、何頼於羽。且、羽君臣、矜其詐力、所在反覆、不可以腹心待也。今羽所以未便東向者、以至尊聖明、蒙等尚存也。今不於彊壮時図之、一旦僵仆、欲復陳力、其可得邪」権深納其策。

魯粛が(建安二十二年)に卒すると、呂蒙は陸口に屯して、漢昌太守を拝し、周瑜・魯粛の奉邑を継いだ。関羽が上流で国境を接し、併呑の意思があるため、困難な状況であった。
はじめ魯粛は、曹操に対抗するため、関羽を必要とした。だが呂蒙は、ひそかに孫権に言った。「いま征虜将軍の孫皎に南郡を守らせ、潘璋が白帝に留まらせ、蒋欽が遊軍として長江を上下させ、敵の位置に対応させなさい。私は国家のために、進んで(曹仁を駆逐して)襄陽に拠りましょう。そうすれば、なぜ曹操を憂う必要がありますか。なぜ関羽に頼る必要がありますか。いま関羽が攻めこんでこないのは、私がいるからです。いま(孫権・呂蒙が揃っており、関羽に恐れられているうちに)襄陽を攻めねば、いつ攻めることができますか」と。

『集解』呂蒙伝に引く何焯の説によると、荊州を奪うのが呂蒙の本謀であるが、この語は怪しい。進んで襄陽に拠るというが、これは荊州(江陵)を取ってから、襄陽・樊城に向かうということか。もし、白帝に蜀軍がいれば、潘璋はどうやって進軍するのか。このとき、呂蒙はまだ40歳を越えたばかりで、死期を仄めかして焦るには、早すぎる。
同じく李安渓の説によると、人によって(魯粛と呂蒙は)見識がこのように異なるのである。もし孫権が、専ら割拠して、(王や皇帝の)号を盗みたければ、呂蒙のやっていることは、(魯粛よりも)忠なのである。
同じく韓慕廬の説によると、魯粛は長江の守りを疎かにしたのではなく、一時も曹操の脅威を忘れなかったのである(関羽を上流に置いたのは、わざとである)。呂蒙は、近視眼的である。もし、呉蜀の兵端が開かれれば、曹氏が簒奪して、孫権が屈服せざるを得なくなる。呂蒙の言い分は、国を誤らせた。


呂蒙伝:又聊復与論取徐州意、蒙対曰「今操遠在河北、新破諸袁、撫集幽冀、未暇東顧。徐土守兵、聞不足言、往自可克。然、地勢陸通、驍騎所騁。至尊今日得徐州、操後旬必来争、雖以七八万人守之、猶当懐憂。不如、取羽、全拠長江、形勢益張」権尤以此言為当。及蒙代粛、初至陸口、外倍修恩厚、与羽結好。

孫権は、(荊州よりも)徐州を優先して取りに行く議論をした。『集解』呂蒙伝に引く胡三省の説によると、広陵より北は、徐州である。
呂蒙は答えて、「曹操は遠く河北にいて、新たに袁紹の遺児らを破り、幽州・冀州を撫集したばかり。東を顧みる余裕がない。

『集解』呂蒙伝に引く何焯の説によると、袁尚・袁煕が死んだのは、魯粛の死の10年前の、建安十二年である。しかし、ここで呂蒙は、「撫集したばかり」という。なぜ、こんなギャップがあるのか。呂蒙がこの計略を述べたのは、魯粛の生前であるためである。陳寿の記述順が良くない。
同じく周寿昌の説によると、このとき曹操は居巣におり、遠く河北ではない。敵国の情報が正しく伝わらないにせよ、幽州・冀州は久しく定まっているのは、周知である。

徐州の兵(の備えのなさは)言うに及ばず、行けば勝てる。しかし、曹操の勢力圏と陸続きなので、騎兵が来ることができる。(曹操から奪った後に)7-8万で徐州を守っても、曹操の奪回を防ぐには、心許ない。

胡三省によると、呂蒙は呉軍の兵力をはかり、北上して中原で争うには、足らないと考えた。車騎の地(戦車・騎馬の活躍する地域)では、南方の兵が不利である。

関羽を捕らえ、長江の全域を制圧したほうが、勢力の伸張には有利です」と。
孫権は、呂蒙の言をもっともとした。呂蒙が魯粛に代わると、外では関羽に、それまで以上に手厚く接して、関羽と同盟関係を固めた。

呂蒙は潜在的に、(のちに関羽がやるように)襄陽・樊城を攻撃したかった。しかし、関羽がいる限り、かんたんには実現しない。代わりに関羽に攻略させる(いわゆる「借刀」)という発想はなく、それでは関羽が強くなりすぎると考えていた。
あくまでも、孫権軍の兵力のみで戦うつもり。攻撃して、天下を争うため、どこまで曹操を押し上げられるか。そのプロセスとして、徐州攻略の実現性をカウントしている。
同時に、防御して、長江の制水権を確保するため、いかに劉備軍をどけられるか、という二面作戦である。
有効性はさておき、呂蒙のほうが、魯粛よりも、シンプルである。それで、孫権の領土を拡げられるならば、苦労はない。しかし、事実はそんなに簡単に運ばず、建安二十二年、孫権は、曹操との停戦(名目上は服従)をする。

◆呉主伝

呉主伝:二十一年冬、曹公次于居巣、遂攻濡須。二十二年春、権令都尉徐詳、詣曹公請降。公、報使脩好。誓重結婚。

孫権は、建安二十二年、曹操に降伏を申し出て、曹操は受諾し、(更なる)婚姻を結ぶことを約束した。『集解』呉主伝は、すでに曹操と孫権は姻戚関係にあり、それは孫策伝に見えるとする。ただし、このタイミングで、曹操・孫権が新たに婚姻したことは、確認できない。

魯粛の没年は、建安二十二年と、魯粛伝に書いてある。しかし、季節が分からない。前年の建安二十一年冬まで、孫権は居巣で曹操と戦ったが、二十二年春、孫権は曹操に降伏を申し入れている。魯粛の死により、劉備の有効活用の路線がついえたと考えると、魯粛の死は、建安二十二年春ではないか。

孫権の降伏が、どこまで本気なのか、まだ曹操が知ることはできない。その信憑性を、まっさきに検証・感知したのが、つぎに挙げる温恢であり、「曹操から見た孫権」の捉え方の転換点は、建安二十四年秋ごろにあると思われる。
口先だけじゃなくて、利害に照らしても確かに味方だから、信じられると。利害が一致してるなら、口先はどうあれ、味方と分かる。こちらのほうが大事。

建安二十四年、孫権が関羽を攻撃する前から、あらかじめ、孫権が曹操の同盟勢力であると、双方に充分な合意があったのではない。関羽が脅威であると共有することによって初めて、、孫権が関羽を攻めることを通じて、、孫権と曹操は、名実ともに協調の勢力になった。そういう意味で、「劉備・関羽という一強」に対抗するため、曹操・孫権が手を結んだのが、まさに建安二十四年である。

関羽は、曹操・孫権という敵が居ることに気づかずに、軍事行動を起こしたのではない。関羽が軍事行動を起こすことで、曹操・孫権が、利害関係および状況認識を共有するに至った。


孫権が合肥を攻める?

◆温恢伝
『集解』呉主伝によると、巻十五 温恢伝に、孫権が建安二十四年、曹操を攻めた記事がある。盧弼によると、孫権は、2年前に曹操にくだり、このとき曹操のために功績を立てようとしているから、合肥を攻めたとは考えられない。境界で小競り合いがあったか、温恢伝が功績を誇張したため、おかしくなったとする。孫権は、建安二十四年、合肥を攻めてないのである。
念のために、温恢伝を見ておく。

温恢伝:入為丞相主簿、出為揚州刺史。太祖曰「甚欲使卿在親近。顧以為、不如此州事大。故書云『股肱良哉、庶事康哉』得無当得蒋済為治中邪」時済、見為丹楊太守。乃遣済還州。又語張遼、楽進等曰「揚州刺史暁達軍事、動静与共咨議。」

まだ孫権が曹操と敵対していたころ、温恢は、揚州刺史となった。曹操は、『尚書』益稷篇を引き、丹陽太守の蒋済を、揚州刺史の温恢の別駕とした。また曹操は、張遼・楽進に、揚州の軍事については、温恢と議論するように命じた。『集解』温恢伝によると、張遼はこのとき、合肥に屯している。

巻十七 張遼伝に、「建安二十一年太祖復征孫権、到合肥。循行遼戦処、歎息者良久、乃増遼兵。多留諸軍、徙屯居巣」とある。孫権が、建安二十二年に曹操に降るまで、曹操と孫権は緊張関係にあった。そのとき、温恢を揚州刺史とし、張遼・楽進に軍を率いさせた。建安二十二年、孫権が服従すると、張遼を居巣に移したようである。居巣は、武帝紀 建安二十二年にある。
巻十七 楽進伝に、「後従征孫権、仮進節。太祖還、留進与張遼李典、屯合肥」とあり、張遼とともに合肥に屯したことを確認できるが、楽進は、建安二十三年に薨じたとある。ゆえに楽進は、これ以降、関与してこない。


温恢伝:建安二十四年、孫権攻合肥。是時諸州皆屯戍。恢謂兗州刺史裴潜、曰「此間雖有賊、不足憂。而畏征南方有変。今水生、而子孝県軍無有遠備。関羽、驍鋭乗利而進、必将為患」於是有樊城之事。詔書、召潜及豫州刺史呂貢等、潜等緩之。

建安二十四年、孫権が合肥を攻めた。『集解』温恢伝は、これを否定するが、孫権の来襲が伝えられ、温恢がその信憑性やリスクを吟味したと考えられる。陳寿がニュアンスを省いたため、誤記のように見えるだけであろう。
温恢は、兗州刺史の裴潜に言った。「賊(孫権)が来ても、心配ない。しかし、征南将軍の曹仁に、事変があるのが心配である。いま(漢水が)増水しているが、曹仁は遠くの備えがない。関羽がこの機に乗ずれば、危険である」と。ちょうど、樊城が関羽に攻められた。(関羽に対応するため)詔書があって、兗州刺史の裴潜・豫州刺史の呂貢を召した。

兗州刺史の裴潜は、兗州が戦線から遠いので、揚州刺史のもとにいた。おもな脅威が、孫権の合肥攻めでなく、関羽の襄陽攻めに移った。是に伴い、揚州刺史の温恢が任された地の重要度が下がっている。曹操が死ぬと、温恢は侍中となり、中央に引っこむ。曹丕が温恢を引っこめたという事実そのものが、孫権の警戒レベルが下がったことを意味する。
巻二十三 裴潜伝によると、代郡太守となった裴潜が、中央にもどると、烏丸が叛いて、曹彰による討伐が行われた。裴潜伝に、「潜出為沛国相、遷兗州刺史。太祖次摩陂、歎其軍陳斉整、特加賞賜」とある。曹操が摩陂に来るのは、関羽を迎撃するためのとき。つまり、裴潜の兗州軍は、関羽に曹仁の襄陽を抜かれた後、関羽を迎撃するため、曹操軍と合流していた。裴潜伝は、曹操の生前の記事は、ここで終わっている。関羽が孫権に背後を衝かれたので、戦う必要がなくなった。

裴潜は(召された理由が分からず、もしくは、関羽の脅威を小さく見積もって)ゆっくり異動した。

温恢伝:恢密語潜曰「此必襄陽之急、欲赴之也。所以、不為急会者不欲驚動遠衆。一二日必有密書促卿進道。張遼等又将被召、遼等素知王意。後召前至、卿受其責矣」潜受其言、置輜重、更為軽裝速発。果被促令。遼等尋各見召、如恢所策。

温恢はひそかに、裴潜に「これは、きっと襄陽のピンチに対応するための召集である。急いで集まれと命じないのは、軍勢を動揺させたくないためである。数日のうちに、必ず密書で、早く来いと催促があるはず。張遼も召されるだろう。張遼は、曹操の意図を理解できる。先に召された裴潜よりも、後に召された張遼のほうが、先に到着するようなことがあれば、裴潜は叱責されるぞ」

揚州にとって「援軍」である兗州軍だけでなく、揚州の守将として、もっとも頼れる張遼ですら、揚州から剥がされた。曹操が、孫権の脅威をほぼゼロと見なし、一方、関羽の脅威をかなり重いと見た結果である。

こうして裴潜は、輜重をおいて、軽装で急いで向かった。果たして、督促の命令がきた。張遼らも召され、温恢の考えたとおりだった。
つぎに、もとは温恢とともに孫権に備えたが、裴潜と同じく、関羽の防御のために駆り出された、張遼伝を見ておく。

◆張遼伝

巻十七 張遼伝:関羽囲曹仁於樊。会権称藩、召遼及諸軍悉還救仁。遼未至、徐晃已破関羽、仁囲解。遼与太祖会摩陂。遼軍至、太祖乗輦出労之。還、屯陳郡。文帝即王位、転前将軍〔一〕。分封兄汎及一子列侯。孫権復叛、遣遼還屯合肥、進遼爵都郷侯。
〔一〕魏書曰、王賜遼帛千匹、穀万斛。

張遼伝によると、関羽が曹仁を樊城を囲んだとき、ちょうど孫権が称藩してきた。(温恢伝にあったように、建安二十四年秋、孫権の脅威が去ったので)張遼および諸軍を召して、曹仁を救いに行かせた。張遼が到着する前に、すでに徐晃が関羽を破って、曹仁の包囲は解けた。張遼は、曹操と摩陂で会した。張遼軍が至ると、曹操はみずから出てねぎらった。還って陳郡に屯した。

『集解』張遼伝はいう。郡国志によると、豫州の陳国である。呉増僅の説によると、『元和志』に、漢末に陳王寵が袁紹に殺され(袁術の誤りですね)国を除かれ、郡を置かれた。

曹丕が(魏王に)即位すると、前将軍に転じて、兄と子を列侯に分封してもらった。孫権が再び叛くと、合肥に屯して、都郷侯に進んだ。つまり曹丕は、孫権が臣従するうちは張遼を内地に置き、孫権が反乱すると合肥に置く。分かりやすいスイッチである。

張遼伝によると、孫権は、曹丕が魏王の期間(建安二十五年=延康元年正月~十月)、再び叛いたようである。孫権と曹氏との関係に着目して、張遼伝を先まで読んでおく。

張遼伝:給遼母輿車、及兵馬送遼家詣屯。敕遼母至導従出迎。所督諸軍将吏、皆羅拝道側、観者栄之。文帝践阼、封晋陽侯、増邑千戸、并前二千六百戸。黄初二年、遼朝洛陽宮。文帝引遼会建始殿、親問破呉意状。帝歎息顧左右曰「此亦古之召虎也」為起第舍又特為遼母作殿。以遼所従破呉軍応募歩卒、皆為虎賁。孫権復称藩。遼還屯雍丘、得疾。

張遼伝に従えば、(建安二十四年秋)関羽が曹仁を囲むと、(同年冬)張遼を摩陂に呼ぶ。(建安二十五年正月)曹操が薨じ、曹丕が魏王となり、孫権が叛いたとして張遼を合肥に置いた。張遼の母に輿車をあたえ、兵馬に送らせ、任地に張遼の家族をゆかせた。張遼の母を出迎えさせ、配下の諸軍の長吏は、道路にならんで迎え、見た者は(曹丕による張遼の厚遇を)ほまれとした。

「魏公卿上尊号奏」は、第17位に、使持節・前将軍・都郷侯の張遼が見える。張遼伝で、曹操末に前将軍となっており、革命に際して晋陽侯になったとあるから、「魏公卿上尊号奏」と張遼伝は整合して宜しい。

(同年十月)曹丕が践阼したとき、張遼は晋陽侯となる。翌年の黄初二年、文帝と洛陽の建始殿で、文帝みずから、張遼に呉の撃破について質問した。文帝は歎息して、「いにしえの召虎だ」と言った。

召虎は、『集解』張遼伝によると、邵虎・召虎に作る。ちくま訳によると、周宣王を助けて南方を討伐した、召穆公のこと。

ふたたび、孫権が(劉備に荊州に攻めこまれて)称藩した。張遼は、雍丘に(引っこんで)屯して、病気になった。孫権がふたたび叛すと、張遼を船に乗らせ、曹休とともに海陵に至り、長江に臨んだ。

『集解』張遼伝にひく趙一清の説によると、孫権の服従・離反は、ここでくり返されていない。前後に何度も出てくるから、陳寿が整理し損ねたのである。

たしかに孫権の動きは分かりにくいが、張遼の待遇と、駐屯地の記述からすると、曹丕が魏王の期間に、孫権が叛いたのは確かである。夷陵の戦いのとき、孫権が曹丕に称藩していたのと、劉備に勝利した後、一貫して曹丕に敵対したことから考えると、張遼伝に不審なところはない。

『集解』張遼伝にひく沈家本の説によると、呉主伝に、建安二十二年春、都尉の徐詳を遣わし、曹操に降った。二十五年春正月、魏王が曹操から曹丕に代わった。同年秋、(呉主伝によると)魏将の梅敷は、張倹を孫権に遣わして、使者を送るように求め、南陽・陰県・サン県・筑陽・山都・中盧の5県の民5千戸を(呉から魏に)来附させた。黄初二年、孫権は称藩して、于禁を還した。黄武元年、魏は侍中の辛毗・尚書の桓階を(孫権に)遣わし、盟誓して任子を徴そうとしたが、孫権が受けなかった。秋九月、曹休・張遼・臧覇が洞口に出たと。張遼伝にあるように、従属と離反のくり返しは、確かにあったのである。
引き続き沈家本の説によると、曹仁伝に、曹丕が魏王となると、孫権は陳邵を襄陽に拠らせたから、曹丕が曹仁にこれを討たせている。曹仁・徐晃は、陳邵を破り、ついに襄陽に入った。孫権伝に引く『魏略』に載せる魏の三公の上奏によると、先帝(曹操)の死に漬けこみ、孫権が襄陽を奪ったとある。また、同じく『魏略』が載せる、孫権が魏王に与えた文書に、「先王以権推誠已験、軍当引還、故除合肥之守、著南北之信、令権長駆不復後顧。近得守将周泰、全琮等白事、過月六日、有馬歩七百、径到横江、又督将馬和復将四百人進到居巣、琮等聞有兵馬渡江、視之、為兵馬所撃、臨時交鋒、大相殺傷」とある。魏と呉が、曹操の死後に、交戦したのは事実である。

以上からまとめると、孫権が関羽を荊州から駆逐した後、(関羽が攻めていた)襄陽の帰属をめぐって、建安二十五年(延康元年・黄初元年)、孫権と曹操(が死んだから曹丕)との抗争が起きていた。

ちょうど呂蒙が死んだが、呂蒙の当初の戦略が、形をあけて実現しそうである。関羽を厄介ばらいして、襄陽を孫権が奪うのが、呂蒙の戦略であった(呂蒙伝)。孫権の行動は、ある意味で、一貫した戦略に乗っている。「関羽を裏切った」、「曹操を裏切った」というのは、蜀や魏からの「一方的な評価」と言うこともできる。

曹丕は、革命に先立ち、孫権から使者を出すように求めていた。孫権は、仕方なく? 使者を出したが(文帝紀)、あくまで孫権は屈服しなかった。翌年(黄初二年)、劉備が荊州に攻めこむにあたって、軍事上の要請から(魏蜀を同時に敵に回すは、さすがにムリなので)孫権は曹丕に屈服して、呉王に封じられた。

揚州方面を任された、温恢・張遼の列伝から、先走って、孫権と曹氏の関係を見てしまったが、もと(建安二十四年)に戻って、孫権の動きを確認する。170520

閉じる

建安二十四年:孫権が関羽を討伐する

呉主伝

呉主伝:二十四年、関羽囲曹仁於襄陽。曹公遣左将軍于禁、救之。会漢水暴起、羽以舟兵、尽虜禁等歩騎三万、送江陵。惟城未抜。権、内憚羽、外欲以為己功。牋与曹公、乞、以討羽自効。曹公、且欲使羽与権相持以闘之、駅伝権書、使曹仁以弩射示羽。羽、猶豫、不能去。

建安二十四年、関羽が曹仁を襄陽で囲んだ。曹操は、左将軍の于禁に救わせたが、漢水が溢れ、関羽の水軍が、于禁の歩騎3万を生け捕って、江陵に贈った。襄陽が抜かれる前に、孫権は、内では関羽をはばかり、外では(曹操に対する)功績を立てようとして曹操に参戦を申し出た。曹操は、関羽と孫権を戦わせたいため、駅伝をつかって伝え、曹仁にこれを連絡した。曹仁から関羽に、孫権の参戦を伝える文書を射こませた。しかし関羽は、襄陽で曹仁を攻め続けている。

射こませたのは、董昭の策であり、董昭伝に見える。胡三省によると、関羽は孫権の文書を見ても、江陵・公安の守りが固く、孫権に抜かれるとは思っていない。ここで撤退したら、前の功績がなくなると思い、包囲戦を続けた。


呉主伝:閏月、権征羽、先遣呂蒙襲公安、獲将軍士仁。蒙到南郡、南郡太守麋芳、以城降。蒙、拠江陵、撫其老弱、釈于禁之囚。

閏月、孫権は関羽を征伐し、さきに呂蒙を派遣して公安を襲わせ、将軍の士仁を捕らえた。

趙一清によると、『集古録』に載せる鍾繇の法帖は、曹操が関羽をを破った勝利を賀する表である。その後書に、建安二十四年閏月九日、南蕃の東武亭侯の鍾繇がたてまつるとある。集賢校理の孫思恭は暦学にくわしく、孫思恭に問うたところ、建安二十四年の閏月はいつかと聞けば、閏十月であるという。『三国志』に載せる時月は簡略であるが、孫思恭の考察に整合する。武帝紀では、この十月に洛陽に還ったとあり、その後に孫権が関羽の討伐を報告する。呉主伝によると、閏月に孫権が関羽を撃ったとする。閏十月とする、孫思恭の説に合う。すると、鍾繇はなぜ、閏十月に先に戦勝を祝えたのか。この上表が、本物であるか疑わしい。
盧弼によると、『通鑑』は十月に作る。ぼくは補う。『通鑑』は、この歳に「閏十月」の表記がない。

呂蒙が南郡に到ると、南郡太守の麋芳は降った。呂蒙は、江陵に拠り、老弱を撫して、于禁の囚を解放した。

士仁は公安を守っており、呂蒙は虞翻に説得して降させた。呂蒙伝に引く『呉書』。


陸遜、別取宜都、獲秭帰、枝江、夷道、還屯夷陵、守峽口以備蜀。関羽、還当陽、西、保麦城。権使、誘之。羽、偽降、立幡旗為象人於城上、因遁走。兵皆解散、尚十餘騎。権、先使朱然潘璋、断其径路。十二月、璋司馬馬忠、獲羽及其子平、都督趙累等、於章郷。遂定荊州。是歳大疫、尽除荊州民租税。曹公、表権為驃騎将軍、仮節、領荊州牧、封南昌侯。権、遣校尉梁寓、奉貢于漢。及令王惇、市馬。又遣朱光等、帰〔一〕。 〔一〕魏略曰、梁寓字孔儒、呉人也。権遣寓観望曹公、曹公因以為掾、尋遣還南。

陸遜は、分かれて宜都・秭帰・枝江・夷道を得て、夷陵に還って屯し、峽口を守って劉備に備えた。

宜都郡は、夷道を治所とする。先主伝 章武二年に詳しい。秭帰は、劉璋伝に見える。枝江は、董和伝に見える。いずれも『蜀志』に既出である。
夷陵は、文帝紀 黄初三年に見える。峽口は、胡三省によると、西陵峽口である。『宜都記』に見え、三峡の一つ。

関羽は当陽(先主伝 建安十三年)に還り、西にむかって麦城に保した。孫権は関羽を誘わせ、関羽は偽って降った。関羽は麦城に幡旗を立て、人がいるように見せかけ、遁走した。兵は解散し、なお(通鑑では、わずかに)十余騎。孫権は、さきに朱然・潘璋に、退路を断たせた。
十二月、潘璋の司馬の馬忠(同名異人あり)が、関羽・関平と、都督の趙累を章郷で捕らえた。ついに荊州の全土を、呉が領有した。この歳、荊州で大疫があり、荊州の民の租税をすべて免除した。
曹操は、上表して孫権を驃騎将軍、仮節、領荊州牧とし、南昌侯とした。孫権は、校尉の梁寓を、漢朝に奉貢させた。呉主伝 注引『魏略』によると、梁寓は、あざなを孔儒。呉郡のひと。孫権は、梁寓を曹操に観望させ、曹操はこれを掾として、しばらくして南に還らせた。
孫権は、王惇に馬を購入させた。さらに朱光らを派遣し、帰って来させた。

王惇のことは、三嗣主伝 太平元年に見える。
朱光は、建安十九年、孫権が皖城で捕らえた者。朱光を使わして于禁を使わさないのは、于禁が曹操に重視されていると知るから。ゆえに、曹操が死んでから帰した。のちに孫権が曹丕に文書を送っており、呉主伝 黄武元年 注引『魏略』にこれが見える。孫権はこのとき、上書して曹操に称臣し、天命を称説した。武帝紀 建安二十四年 注引『魏略』に見える。下でやった。


◆王惇伝

孫亮伝 太平元年:十一月以綝為大将軍、仮節、封永康侯。孫憲、与将軍王惇、謀殺綝。事覚、綝殺惇、迫憲令自殺。十二月、使五官中郎将刁玄、告乱于蜀。

太平元(256) 年十一月、孫綝を大将軍とした。孫憲は、将軍の王惇とともに、孫綝を謀殺しようとした。発覚して、孫綝は王惇を殺し、孫憲に自殺を迫った。十二月、五官中郎将の刁玄が、蜀に乱を告げた。

刁玄は、孫晧伝 建衡三年に見える。……呉主伝 盧弼注に従って、三嗣主伝を見たが、とくに王惇について情報が増えず、孫綝を謀殺しようとして、失敗したという情報が増えただけ。『三国志集解』は、とくに王惇について注記していない。


武帝紀

武帝紀:五月、引軍還長安。秋七月、以夫人卞氏為王后。遣于禁助曹仁撃関羽。八月漢水溢、潅禁軍、軍没、羽獲禁遂囲仁。使徐晃救之。

建安二十四年五月、曹操は(漢中を放棄して)長安に還った。七月、卞氏を王后とし、于禁を派遣した。八月、于禁軍は漢水におぼれて、関羽に捕らわれた。徐晃を救いに行かせた。九月、相国の鍾繇が、魏諷に座した。魏諷のことは、孫権と関係ないので、当面は措く。

『集解』武帝紀によると、于禁伝・満寵伝・関羽伝・『通鑑』により、状況が分かるとする。『通鑑』の元ネタは、徐晃伝・『晋書』宣帝紀・蒋済伝を含む。武帝紀は、情報が少ないため、それぞれの列伝で補う。


九月、相国鍾繇、坐西曹掾魏諷反、免〔一〕。
〔一〕世語曰、諷字子京、沛人、有惑衆才、傾動鄴都、鍾繇由是辟焉。大軍未反、諷潜結徒党、又与長楽衛尉陳禕謀襲鄴。未及期、禕懼、告之太子、誅諷、坐死者数十人。王昶家誡曰「済陰魏諷」、而此云沛人、未詳。

九月、相国の鍾繇が、(胡三省によると、相国府の)西曹掾である魏諷に連坐して罷免された。『世語』によると、魏諷は沛国のひと。惑衆の才があり、鄴都を傾動する才があったから、鍾繇は辟した。大軍が(漢中を征伐して)まだ鄴都に還らぬうちに、ひそかに徒党を結び、長楽衛尉の陳禕とともに鄴都を襲おうとした。

蕭常『続漢書』によると、魏諷はひそかに義勇の士と結び、長楽衛尉の陳褘・列侯の張泉らと鄴都を襲って曹操を誅そうと謀った。

決起の前、陳禕が曹丕に告げ、魏諷を誅した。坐して死した者は数十人。

『後漢紀』によると、丞相掾の魏諷は、曹操を誅そうとした。鍾繇の属官でなく、曹操の属官になっており、鍾繇の属官とする胡三省の理解と異なる。『通鑑』によると、連坐して死んだのは数千人で、どちらが正しいか未詳。
『三国志』劉廙伝によると、劉廙の弟の劉偉は、魏諷に引かれたが、曹操は故事を参照して、「叔向は弟の虎に連坐しなかった」といい、劉廙を赦して不問とした。王粲伝によると、王粲の二子は、魏諷に引かれて誅され、後嗣が絶えた。鍾繇伝に引く『博物記』にも見える。
『三国志』尹黙伝によると、宋忠子の子も魏諷とともに誅された。蕭常『続漢書』によると、宋忠は、あざな仲子といい、南陽の人。子が魏諷とともに曹操を誅そうとして、父子ともに殺害された。
『三国志』劉表伝に引く『傅子』によると、傅巽は魏諷の反乱を見抜いた。劉繇伝に引く『傅子』によると、劉曄も一見して、魏諷の反乱を見抜いた。張繍伝によると、子の張泉は、魏諷に連坐した。毋丘倹伝に引く『魏書』によると、文欽は、魏諷と話し合ったとして、下獄された。

王昶『家誡』によると、魏諷を済陰の人とする。ここでは沛国の人という。未詳。

『晋書』鄭袤伝によると、済陰の魏諷は、相国の掾となった。鄭袤と同郡の任覧は、魏諷と交際したが、鄭袤は「魏諷は奸雄だから、付き合うな」と遠ざけるように勧めた。
盧弼の説によると、魏諷は忠烈・才智であるが、失敗したから、史書で貶められた。


冬十月、軍還洛陽〔一〕。孫権遣使上書、以討関羽自効。王自洛陽南征羽、未至、晃攻羽破之、羽走、仁囲解。王軍摩陂〔二〕。 〔一〕曹瞞伝曰、王更脩治北部尉廨、令過于旧。

冬十月、軍は洛陽に還った。

何焯曰く、陸機『弔魏武文』・『諸葛武侯正義』によると、曹操は漢中で亡くなった。盧弼曰く、『諸葛武侯正義』は、諸葛亮伝に引く『諸葛亮集』に見える。
すると、関羽討伐の功績により、孫権に官爵を授けた主体は、曹操でなくなる。孫権から帝位を勧められ、それを断ったとき、曹操はすでに死亡してたことになる。陸機・諸葛亮による発言だから、曹操を貶めている可能性があり、なんとも言えない。

『曹瞞伝』によると、曹操は、北部尉廨を修繕した。
孫権は使者をおくって上書し、関羽の討伐を自らの功績とアピールした。曹操は洛陽から関羽を南征したが、到着する前、徐晃が関羽を攻め、破った。曹仁の囲みが解けた。曹操は摩陂(潁川の郟県)に行軍した。

魏の青龍元年、摩陂に龍があらわれ、龍陂と改名された。

『魏略』によると、孫権は上書して称臣し、天命を称えて説いた。

盧弼曰く、孫堅が董卓を討伐し、孫策は袁術が僭号すると絶交し、許都をねらった。それなのに孫権は、首を孟徳にかたむけ、称臣して媚びた。父兄に恥ずべき行為であると。ぼくは思う。孫堅・孫策の史書での現れ方と、孫権のこの行為に一貫性がない。盧弼の妥当性はともかく、これを確認できれば充分である。


〔二〕魏略曰、孫権上書称臣、称説天命。王以権書示外曰「是児欲踞吾著爐火上邪。」侍中陳羣、尚書桓階奏曰「漢自安帝已来、政去公室、国統数絶、至於今者、唯有名号、尺土一民、皆非漢有、期運久已尽、暦数久已終、非適今日也。是以桓、霊之間、諸明図緯者、皆言『漢行気尽、黄家当興』。殿下応期、十分天下而有其九、以服事漢、羣生注望、遐邇怨歎、是故孫権在遠称臣、此天人之応、異気斉声。臣愚以為虞、夏不以謙辞、殷、周不吝誅放、畏天知命、無所与譲也。」

魏王は、孫権の書を外に示して、「この児は、火徳によって王となった漢王朝の上に、私を加えようとしてる」と言った。胡三省によると、曹操が孫権の書を示したのは、衆心に観せたかったから。
侍中の陳羣・尚書の桓階が上奏した。「安帝より、政治は公室を去り、国統はしばしば絶えた。今に至ると、名号があるだけで、土地も人民も、少しも漢の所有ではない。期運は久しく尽きており、歴数は久しく終わっており、今日に始まったことではない。桓霊の間、図緯に明るい者は、『漢の行気は尽き、黄家が興るだろう』という。殿下は期に当たり、天下の十分の九を有する。

盧弼によると、これは実態を反映していない。蜀が益州を有し、呉は荊州・揚州・交州・広州を有する。あるいは呉が称臣したので、益州だけが服従しておらず、ゆえに十分の九と言ったのか。ぼくは思う。孫権の称臣によって、「十分の九」という表現が可能になったところがポイント。

十分の九を領有するのに、いまだに漢に服事するから、みなが魏に期待して(漢魏革命を待っており)、ゆえに孫権も遠くから称臣した。これは天人の応であり、気は異なれど声は斉しい。

「天人の応」といったとき、「天」はすでに運命論的・決定論的なものだが、もう1つの要素である「人」は、具体的には孫権である。漢魏革命にとって、孫権の服従は、必要条件としてカウントされていることに注意。

私たちが考えますに、虞舜・夏禹は(不必要に)謙譲せず、殷・周は誅放をおしまなかったのは、天を畏れ命を知ったからである。

魏氏春秋曰、夏侯惇謂王曰「天下咸知漢祚已尽、異代方起。自古已来、能除民害為百姓所帰者、即民主也。今殿下即戎三十餘年、功徳著於黎庶、為天下所依帰、応天順民、復何疑哉。」王曰「『施于有政、是亦為政』。若天命在吾、吾為周文王矣。」曹瞞伝及世語並云桓階勧王正位、夏侯惇以為宜先滅蜀、蜀亡則呉服、二方既定、然後遵舜、禹之軌、王従之。及至王薨、惇追恨前言、発病卒。孫盛評曰、夏侯惇恥為漢官、求受魏印、桓階方惇、有義直之節。考其伝記、世語為妄矣。

『魏氏春秋』によると、夏侯惇は、「天下のみなが漢祚が尽きたと知り、代をまたがり言われてきた。民の害を除く者は、百姓に帰順され、民の主となる。殿下は、三十余年の軍功があり、功徳は人民に理解され、天下に依帰されている。天に応じて民に順ひ、どうして疑うのか」と。曹操は、孔子の言葉を引き、もし天命があるなら、周文王になろうと言った。

夏侯惇が言っても言わなくても、ぼくは構わないのだが、満を持して漢魏革命をするには、「民の主」になることが必要と観念されていることが重要である。

『曹瞞伝』および『世語』は、桓階が曹操に王位を勧めると、夏侯惇は、「先に蜀を滅ぼせ。蜀が亡べば、呉は服する。二方を平定してから、舜・禹を踏襲せよ」と言った。魏王はこれに従ったと。魏王が薨ずると、夏侯惇は前言を後悔して、発病して卒したと。孫盛の評によると、夏侯惇は、漢官であることを恥じ、魏印を欲したのだから、『曹瞞伝』・『世語』は実際を伝えていないと。

二十五年春正月、至洛陽。権撃斬羽、伝其首。庚子、王崩于洛陽、年六十六。

建安二十五年正月、(摩陂から)洛陽に至る。孫権は、関羽を撃って斬り、首を届けた。

物語では、「劉備の怨みを、曹操に向けるため」とも言われるが、実際は、関羽の討伐は、曹操に捧げるための功績であることを、行動によって確定したのであろう。


巻十七 于禁伝

建安二十四年、太祖在長安、使曹仁討関羽於樊、又遣禁助仁。秋、大霖雨、漢水溢、平地水数丈、禁等七軍皆没。禁与諸将登高望水、無所回避。羽乗大船就攻禁等、禁遂降、惟龐悳不屈節而死。

建安二十四年、曹操が長安におり、曹仁に関羽を樊城で討たせ、さらに于禁を派遣して曹仁を助けさせた。秋、漢水が溢れ、于禁の七軍が水没した。于禁と諸将は高みに登って水を見たが、避けられない。関羽は大船に乗って于禁を攻撃した。于禁は降ったが、龐徳は節に屈せずに死んだ。

趙一清の説によると、趙儼伝に、曹操が荊州を征すると、趙儼を章陵太守とし、うつって都督・護軍した。于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の七軍を護した。けだし(章陵太守の治所である)襄陽を重鎮として、ゆえにとくに兵を重くして、ここを守ったのであろう。のちに張遼が(合肥に)移され、兵は于禁に会わせられた。このとき関羽に降った「七軍」は、于禁の配下であり、朱霊らも配下であろう。
『晋書』宣帝紀によると、荊州刺史の胡脩・南郷太守の傅方は、于禁が水没すると、彼らも関羽に降ったという。


太祖聞之、哀歎者久之、曰「吾知禁三十年。何意、臨危処難反不如龐悳邪」会孫権禽羽、獲其衆、禁復在呉。文帝践阼、権称藩、遣禁還。帝引見禁、鬚髪皓白、形容顦顇、泣涕頓首。帝慰諭以荀林父、孟明視故事〔一〕、拝為安遠将軍。欲遣使呉、先令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋画関羽戦克、龐悳憤怒、禁降服之状。禁見、慚恚発病薨。子圭嗣封益寿亭侯。諡禁曰厲侯。 〔一〕魏書載制曰「昔荀林父敗績于邲、孟明喪師於殽、秦、晋不替、使復其位。其後晋獲狄土、秦霸西戎、區區小国、猶尚若斯、而況万乗乎。樊城之敗、水災暴至、非戦之咎、其復禁等官。」

曹操はこれを聞いて、哀歎すること久し。「吾は于禁を知って三十年。どうして危難に臨んで、龐徳に及ばなかったのか」と。

沈家本によると、曹操が兗州を領したとき、于禁は都伯となった。曹操が兗州を領したのは、初平三年であり、この建安二十四年までに、二十八年である。三十年というのは、概算である。

ちょうど孫権が関羽を捕らえると、于禁もまた呉にいた。文帝が践阼すると、孫権は称藩し、于禁を派遣して還した。文帝は于禁に引見すると、髪も髭も白く、憔悴して、涕泣して頓首した。文帝は、荀林父・孟明視の故事になぞらえて、慰め諭した。その内容は、注引『魏書』の載せる制書。胡三省にのよると、晋の大夫の荀林父は、楚と戦って敗れたが、晋景公に再び用いられ、赤狄を取るという戦功があった。秦の大夫の孟明は、晋に捕らわれたが、秦穆弘は再び用い、西戎に覇となった。
文帝は、于禁を安遠将軍とし、呉への使者にしようとした。

安遠将軍は、胡三省によると前例がない。洪飴孫によると、第三品。趙一清によると、『太平御覧』巻685は、文帝が于禁に与えた詔を載せる。「むかし漢高祖は衣を脱いで韓信に着せ、光武帝は綬を解いて李忠に帯びさせた。人主が功労をねぎらったのである。いま、遠游冠を将軍に与える」とある。

呉に使者に行く前に、(鄴城の西の)高陵に詣でさせた。そこの陵屋に描かれた絵を見て、于禁発病して死んだ。『三国志集解』によると、これは、帝王の賞罰とは言えないそうな。

晩年の于禁の使い道は、「呉への使者」だったことに注意。


巻十四 董昭伝

及関羽囲曹仁於樊、孫権遣使辞以「遣兵西上、欲掩取羽。江陵公安累重、羽失二城、必自奔走。樊軍之囲、不救自解。乞密不漏、令羽有備」太祖詰羣臣。羣臣咸言宜当密之。昭曰「軍事尚権、期於合宜。宜応権以密、而内露之。羽聞権上、若還自護、囲則速解、便獲其利。可使両賊相対銜持、坐待其弊。秘而不露、使権得志、非計之上。又、囲中将吏不知有救、計糧怖懼、儻有他意、為難不小。露之為便。且羽為人彊梁、自恃二城守固、必不速退」太祖曰「善」即敕救将徐晃、以権書射著囲裏及羽屯中。囲裏聞之、志気百倍。羽果猶豫。権軍至、得其二城、羽乃破敗。

関羽が樊城を囲むと、

胡三省によると、樊城は襄陽の東にあり、北は漢水に臨む。

孫権は使者を遣って曹操に言う。「兵を派遣して西上し、関羽を捕らえたい。江陵・公安を失えば、関羽はきっと撤退する。樊城の軍(曹仁)の囲いは、救わなくても自ずと解ける。秘密にして漏らさず、関羽に防備をさせないようにしてくれ」と。曹操は群臣に問えば、群臣はみな秘密にしろという。董昭のみが、秘密にするなと言った。「軍事は権をとうとび、期は時宜にあう。孫権には秘密にすると請けあい、しかし公表せよ。関羽が孫権の西上を聞き、(江陵・公安を)守ろうとすれば、樊城の包囲は解けて、メリットがある。もし、関羽と孫権が対決すれば、その疲弊を待て。

董昭の言は、もっぱら軍事行動のことであり、政治の色合いは少ない。

もし孫権の要望どおり、関羽に告げねば、孫権に志を得させる。ベストではない。また囲まれている将吏が、救援があることを知らねば、(兵糧も減ってゆき)防戦に耐えられない。関羽は自信があるから、孫権が攻めてくると聞いても、すぐには包囲を解かないだろう(関羽と孫権を戦わせることができるだろう)と。

何焯の説によると、もし孫権の計略が行われなければ、関羽は樊城をぬき、許都・洛陽が瓦解し、呂蒙もまた阻まれたであろう。董昭の計略は、周到と言うべきと。つまり、孫権の接近を告げて、樊城の内部を励まし、許都・洛陽に関羽軍が到来するのを防いだ。かつ、関羽を意地になって樊城に貼り付けることで、呂蒙による、公安・江陵の攻略を可能にさせた。

曹操は、徐晃に樊城を救わせ、孫権の文書を、樊城内・関羽軍のなかに射させた。樊城内は士気が高まり、関羽はそれでも包囲を続けた。孫権軍が至ると、江陵・公安を得て、関羽軍は敗れた。

胡三省はいう。関羽は孫権の文書を(徐晃に射込まれて)見たが、江陵・公安の守りが固く、すぐに孫権が抜けないと考えた。また、漢水の溢れを利用して、必ず樊城を落とせると考えた。包囲を解けば、これまでの功績が失われると考え、(孫権軍を放置して)樊城に残った。

閉じる

孫呉をめぐる文帝期の魏臣

巻十四 董昭伝;征呉に消極的な魏将

文帝即王位、拝昭将作大匠。及践阼、遷大鴻臚、進封右郷侯。二年、分邑百戸、賜昭弟訪爵関内侯、徙昭為侍中。三年、征東大将軍曹休臨江在洞浦口、自表「願将鋭卒虎歩江南。因敵取資、事必克捷。若其無臣、不須為念」帝恐休便渡江、駅馬詔止。時昭侍側、因曰「窃見陛下有憂色、独以休済江故乎。今者渡江、人情所難。就休有此志、勢不独行、当須諸将。臧霸等既富且貴、無復他望。但欲終其天年、保守禄祚而已。何肯乗危自投死地以求徼倖。苟霸等不進、休意自沮。臣恐陛下雖有敕渡之詔、猶必沉吟、未便従命也」是後無幾、暴風吹賊船、悉詣休等営下。斬首獲生、賊遂迸散。詔敕諸軍促渡。軍未時進、賊救船遂至。

文帝が魏王となると、董昭は将作大匠となった。

将作大匠は、崔琰伝に見える。趙一清の説によると、『漢書』百官公卿表に、将作少府があり、秦官で、景帝が将作大匠に改名し、一名、秩二千石。盧弼の説によると、魏公卿上尊号奏では「督軍御史・将作大匠・千秋亭たる臣昭」と見える。

文帝が魏帝となると、大鴻臚に遷り、右郷侯に進む。黄武二年、弟の董訪を関内侯とし、董昭は侍中に徙す。

蘇則伝に、蘇則が侍中となったとき、董昭が同僚となり、董昭が蘇則のひざを枕にするのを拒絶したという。

黄武三年、征東大将軍の曹休が長江に臨み、洞浦口(曹休伝に見ゆ)にいて、曹休が上表した。「私が呉を攻撃したい。もしも私が無くなっても(もしも私が失敗しても)心配はご無用です」と。

原文は「もし其れ臣無くとも、須くために念ずべからず」である。
銭大昭・梁商鉅は、「もし其れ成ること無くとも(遠征に失敗しても)」の意味だとする。周寿昌はこれに反対し、曹休は仮鉞して遠征に当たっており、遠征に失敗したら、敗戦の責任を負うから、心配がないはずがない。曹休の上表は、かならず曲折・省略があって、わざと意味を分かりにくくしている曹休は、諸将の協力が得られないから、自分が単独で突っこみ、孫権に敗れることを仄めかしている。

文帝は曹休が(成算なく?)渡江することを恐れ、駅馬で詔を伝えて止めた。ときに董昭は文帝のそばに侍り、「陛下に憂色がありますが、曹休だけが渡江するからですか。いま渡江するのは、心情的に難しい。曹休に志があっても、軍勢は単独で行けず、諸将を待つべきです。臧覇らは富貴で、いま以上を望まず、現状維持をして寿命を迎えたがっており、危険をおかして渡江をしたがらない。もし臧覇らが進まなければ、曹休の意思はくじける。陛下が渡江の詔を出しても、みな消極的で、詔に従わないことを恐れます」と。

征呉に対して、魏将がすごく消極的なのに、びっくりした!

いくばくもなく、にわかに暴風が呉の軍船に吹き、曹休の営下に引き寄せられた。斬首・生け捕りをし、呉軍は散った。詔勅により、諸軍の渡江を催促したが、魏軍が進む前に、呉の救援の船が到着した(消極的なために、戦果が少なかった)。

大駕幸宛、征南大将軍夏侯尚等攻江陵、未抜。時江水浅狹、尚欲乗船将歩騎入渚中安屯、作浮橋、南北往来。議者多以為城必可抜。昭上疏曰「武皇帝、智勇過人而用兵畏敵、不敢軽之若此也。夫兵好進悪退、常然之数。平地無険、猶尚艱難。就当深入、還道宜利。兵有進退、不可如意。今屯渚中、至深也。浮橋而済、至危也。一道而行、至狹也。三者兵家所忌、而今行之。賊頻攻橋、誤有漏失、渚中精鋭非魏之有、将転化為呉矣。臣私慼之忘寝与食、而議者怡然不以為憂、豈不惑哉。加江水向長、一旦暴増、何以防禦。就不破賊、尚当自完。奈何乗危、不以為懼。事将危矣、惟陛下察之」帝悟昭言、即詔尚等促出。賊両頭並前、官兵一道引去、不時得泄。将軍石建、高遷僅得自免。軍出旬日、江水暴長。帝曰「君論此事、何其審也。正使張陳当之、何以復加」五年、徙封成都郷侯、拝太常。其年、徙光禄大夫給事中。従大駕東征、七年還、拝太僕。明帝即位、進爵楽平侯、邑千戸、転衛尉。分邑百戸、賜一子爵関内侯。

大駕が宛城(南陽の郡治)にゆく。征南大将軍の夏侯尚らは、江陵を攻めるが、抜けない。ときに江水が浅く狭く、夏侯尚は渚中に安屯し、浮橋を作って、南北で往来していた。議者の多くは、江陵を抜けると考えた。董昭は上疏して、「曹操ですら、平地でも警戒をした。浮橋だけで繋がり、敵地に軍営を設けるのは、危険なこと」と。文帝は、「的確な指摘。張良・陳平でも付け加えることがない」といった。

董昭が、夏侯尚の軽々しい深入りを諫めたのは、純粋に軍事的な見地。

黄初五年、成都郷侯となり、太常を拝した。同年、光禄大夫・給事中に徙る。曹丕の東征に従い、黄初七年に(征呉から)還り、太僕を拝した。(黄初七年に文帝が崩じ)明帝が即位すると、衛尉に転じた。

巻十八 臧覇伝;曹丕に軍権を剥奪される

董昭伝に出てきた、征呉に消極的な、晩年の臧覇伝のみを。

後権乞降、太祖還、留霸与夏侯惇等屯居巣。文帝即王位、遷鎮東将軍、進爵武安郷侯、都督青州諸軍事。及践阼、進封開陽侯、徙封良成侯。与曹休討呉賊、破呂範於洞浦、徴為執金吾、位特進。毎有軍事、帝常咨訪焉〔一〕。明帝即位、増邑五百、并前三千五百戸。薨、諡曰威侯。

のちに孫権が降伏を乞うと、曹操は(濡須から)還り、臧覇を夏侯惇とともに居巣に留めた。文帝が魏王に即位すると、臧覇は鎮東将軍となり、都督青州諸軍事。臧覇の名は、魏公卿上尊号奏に見える。
文帝が魏帝になると、臧覇は、開陽侯、良成侯となる。曹休とともに呉賊を討ち、呂範を洞浦で破った。胡三省によると、洞浦は、歴陽の江辺にあるという。徵されて執金吾となり、位は特進。軍事のあるたび、文帝に諮問を受けた。明帝が即位すると、奉邑を増やされ、やがて薨じて、威侯と謚された。正始四年、臧覇は太祖の廟庭に祭られたとさ。

〔一〕魏略曰、霸一名奴寇。孫観名嬰子。呉敦名黯奴。尹礼名盧児。建安二十四年、霸遣別軍在洛。会太祖崩、霸所部及青州兵、以為天下将乱、皆鳴鼓擅去。文帝即位、以曹休都督青、徐、霸謂休曰「国家未肯聴霸耳。若仮霸歩騎万人、必能横行江表。」休言之於帝、帝疑霸軍前擅去、今意壮乃爾。遂東巡、因霸来朝而奪其兵。

『魏略』によると、建安二十四年、臧覇は別軍を使わして洛陽にいた。曹操が崩ずると、臧覇の部する青州兵は、去った。文帝が即位すると、曹休を「都督青・徐州」とした。

曹操の時代、臧覇は青州兵を任されて、重要な地位にいた。曹丕に代替わりすると、青州兵は解散してしまい、曹休に都督青州の地位を奪われた。董昭伝に見えるように、臧覇が平定戦のモチベーションが下がり理由は、このあたりにあるかも。

臧覇は曹休に、「国家(文帝)は、まだ私を許していない。

漢・魏において、天子を「国家」とよぶ。『范書』馮異伝に用法がある。

もし私に歩騎1万人を貸してくれたら、必ずほしいままに江表を行けるだろう」と。曹休はこれを文帝に言った。文帝は、まえに臧覇がほしいままに青州兵を去らせたのに、兵を欲しがった意図を疑った。文帝が東巡したとき、臧覇が来朝すると、臧覇の兵を奪った。

盧弼の説によると、臧覇はもとは亡命者であり、曹操がすでに死に、顧みて忌む所がなくなったので、(魏から兵を掠める)心が生じた。曹丕が臧覇から兵を奪ったが、理由のないことではない。ぼくは思う。董昭が、「臧覇は、現状の富貴に甘んじて、征呉には消極的」と言ったのは、婉曲表現だったかも知れない。


巻二十五 辛毗伝;二度目以降の征呉に反対

文帝践阼、遷侍中、賜爵関内侯。時議、改正朔。毗以「魏氏遵舜禹之統、応天順民。至於湯武以戦伐定天下、乃改正朔。孔子曰「行夏之時」左氏伝曰「夏数為得天正」何必期於相反。帝善而従之。

文帝が践阼すると、辛毗は侍中に遷った。

侍中の辛毗は、禅代衆事に見える。『太平御覧』巻227・巻688に引く『魏略』に、侍中の辛毗が見える。『三国志』鮑勛伝で、侍中の辛毗が、鮑勛の助命を乞う。

ときに正朔を改めることを議した。辛毗「魏氏は、舜禹の統に遵い(舜も禹も禅譲を受諾した前例)、天に応じて民にしたがった。殷湯王・周武王は、戦勝して天下を平定してから、正朔を改めた。孔子は、「夏の時を行え」といい、『左氏伝』に「夏数は天正を得ると為す」とある。どうして(天下を平定する前に)正朔を改める必要があるか。つまり、漢代から現在まで用いられている夏正・夏数は、孔子の言と『左氏伝』に合致しているじゃないかと。文帝は従った。

帝欲徙冀州士家十万戸、実河南。時連蝗民饑、羣司以為不可、而帝意甚盛。毗与朝臣俱求見、帝知其欲諫、作色以見之、皆莫敢言。毗曰「陛下欲徙士家。其計安出。」帝曰「卿謂我徙之非邪」毗曰「誠以為非也」帝曰「吾不与卿共議也」毗曰「陛下、不以臣不肖、置之左右、廁之謀議之官。安得不与臣議邪。臣所言非私也、乃社稷之慮也、安得怒臣」帝不答、起入内。毗随而引其裾、帝遂奮衣不還、良久乃出、曰「佐治、卿持我何太急邪」毗曰「今徙、既失民心、又無以食也」帝遂徙其半。嘗従帝射雉、帝曰「射雉楽哉」毗曰「於陛下甚楽、而於羣下甚苦」帝默然、後遂為之稀出。

文帝は、冀州の士家十万戸を、河南に移住させたい。胡三省によると、洛陽を造営するためである。ときに蝗害つづきで民は飢えており、群臣はダメだと思うが、文帝はやる気。辛毗は朝臣とともに謁見を求めたが、文帝は、諫められると知り、怒って謁見した。群臣は何も言えない。文帝「どうせ反対に来たんでしょ。辛毗と話す気はないからね」と。辛毗「私は不肖ですが、侍中は左右にいて、謀議をする役割です。私は、社稷のために発言しようとしているのに、なぜ怒るんですか」と。胡三省によれば、侍中は、周代の常伯の任で、左右にいて天子の欠点を補う官職。
文帝は答えず、立って内に入ったが、辛毗は付いていって裾を引いた。やっと聞く耳を持った文帝に、辛毗は「いま徙せば、民心を失い、食糧も無くなる」と。文帝は、移住者数を半分にした。辛毗は、文帝の射雉を諫めて、文帝はやらなくなった。

上軍大将軍曹真征朱然于江陵、毗行軍師。還、封広平亭侯。帝欲大興軍征呉、毗諫曰「呉楚之民、険而難禦。道隆後服、道洿先叛。自古患之、非徒今也。今陛下祚有海内、夫不賓者其能久乎。昔尉佗、称帝。子陽、僭号、歴年未幾或臣或誅。何則、違逆之道不久全、而大徳無所不服也。方今天下新定、土広、民稀。夫、廟算而後出軍、猶臨事而懼。況今廟算有闕、而欲用之。臣誠未見其利也。先帝屡起鋭師、臨江而旋。今六軍不増於故而復循之、此未易也。今日之計莫若、脩范蠡之養民、法管仲之寄政、則充国之屯田、明仲尼之懐遠。十年之中、彊壮未老、童齔勝戦、兆民知義、将士思奮。然後用之則役不再挙矣」帝曰「如卿意、更当以虜遺子孫邪」毗対曰「昔周文王以紂遺武王、唯知時也。苟時未可、容得已乎」帝竟伐呉、至江而還。

(黄初三年)上軍大将軍の曹真が、江陵で朱然を征すると、辛毗は軍師となった。ふたたび文帝がおおいに征呉の軍を興そうとした。辛毗は諫めた。「呉楚の民は、険しい地形で守っている。道が隆盛すれば、のちに服従し、道が衰退すれば、さきに反乱する。むかしからこれを患い、今だけではない。今 陛下の祚 海内に有らば、夫れ賓せざる者は其れ能く久しきや。昔(前漢初)尉佗は称帝し、(後漢初)子陽(公孫述)は僭号するも、年を歴て未だ幾ばくもなく、或いは臣となり或いは誅せらる。何すれば則ち、違逆の道 久しく全うせず、而して大徳 服せざる所無きなり。

尉佗・公孫述が、臣従したり自滅したりしたように、孫権も自滅するだろうと。曹丕が、徳政に努めれば、このような結果に落ちつくから、短期間に連続して平定戦をやることに反対している。

方今 天下 新たに定まり、土は広けれども、民は稀なり。夫れ廟算して後に出軍するも、猶ほ事に臨みて懼る。況んや今 廟算 闕有るも、而るに之を用ひんと欲す。臣 誠に未だ其の利を見ざるなり。先帝 屡々鋭師を起こし、江に臨みて旋る。今 六軍は故よりも増さずして復た之に循るは、此れ未だ易からざるなり。今日の計は、脩は范蠡の養民、法は管仲の寄政、則は充国の屯田、明は仲尼の懐遠の若きもの莫し。十年の中、彊壮 未だ老いず、童齔 戦に勝り、兆民 義を知り、将士 奮を思ふ。然る後、之を用ひれば則ち役 再び挙げざるなり」と。

いちどは、黄初三年に江陵を攻めたが、失敗した。この失敗を受けて、辛毗は、十年以内に平呉をすればいい、いまゴリ押ししても成功しない、という現実的な判断を語っている。「曹操でもムリだったんだから」は、説得力を有する。これが、諸葛亮の死後の蜀においては、「諸葛亮でもムリだったんだから」という、同型の議論として、外征の反対派に使われていく。

文帝は「子孫に外敵を残すのか」と。辛毗は答えて、「周文王は、殷紂王の討伐を、子の武王の代に残したが、それは時を知るから。時が満ちてないなら、仕方ないでしょ」と。文帝はそれでも伐呉をして、長江に至り(戦果なく)還ってきた。

孫資・劉放に対する、辛毗の反発については省く。つぎに、諸葛亮・孫権の脅威があるのに、建設をやる曹叡を諫めた記事がある。「二虜未滅而治宮室、直諫者立名之時也」と、呉蜀の残存を意識せよという。

巻十四 劉曄伝;呉の称藩を認めない

曹丕が、孟達の降伏を歓迎した後、

黄初元年、以曄為侍中、賜爵関内侯。詔問羣臣、令料劉備当為関羽出報呉不。衆議咸云「蜀、小国耳。名将唯羽。羽死軍破、国内憂懼。無縁復出」曄独曰「蜀雖狹弱、而備之謀欲以威武自彊。勢必用衆、以示其有餘。且関羽与備義為君臣、恩猶父子。羽死不能為興軍報敵、於終始之分不足」後備果出兵撃呉。呉悉国応之、而遣使称藩。朝臣皆賀、独曄曰「呉絶在江漢之表、無内臣之心久矣。陛下雖斉徳有虞、然醜虜之性未有所感。因難求臣、必難信也。彼必外迫内困然後発此使耳。可因其窮襲而取之。夫一日縦敵、数世之患。不可不察也」備軍敗退、呉礼敬転廃。

黄初元年、劉曄は侍中となり、関内侯。侍中としての劉曄は、禅代衆事に見え、鮑勛伝において、侍中の劉曄が鮑勛を助命する。
詔して群臣に、劉備は関羽の報復のため、呉に出兵するか聞いた。衆議は「蜀は小国で、名将は関羽だけ。関羽が死ねば、国内は憂懼して、もう出られない」と言った。劉曄だけが、「劉備は、威武をもって自らを強く(見せよう)と謀っている。軍勢を動員して、余力のあることを示すだろう。しかも関羽と劉備は、義は君臣だが、恩は父子である。関羽が死んで、報復の軍を興さねば、この関係を証明できない」と。果たして、劉備は呉を攻めた。
孫権が称藩すると、朝臣はみな賀したが、劉曄だけが、「呉は絶ちて江漢の表に在り、内臣の心無きこと久し。陛下 徳は有虞に斉しきと雖も、然るに醜虜の性 未だ感ずる所有らず。因りて臣たるを求むるは難く、必ず信じ難きなり。彼 必ず外は迫られ内は困して、然る後 此の使を発するのみ。其の窮に因りて襲ひて之を取る可し。夫れ一日に敵を縦にせば、数世の患なり」と。劉備が敗退すると、呉の礼敬は、すぐに廃された。

曹丕が称藩を受け入れたことが、非合理的であるという史料。イイネ!


帝欲興衆伐之、曄以為「彼新得志、上下斉心。而阻帯江湖、必難倉卒」帝不聴〔一〕。五年幸広陵泗口、命荊揚州諸軍並進。会羣臣、問「権当自来不。」咸曰「陛下親征、権恐怖、必挙国而応。又不敢以大衆委之臣下、必自将而来」曄曰「彼謂、陛下欲以万乗之重牽己而超越江湖者在於別将、必勒兵待事、未有進退也」大駕停住積日、権果不至。帝乃旋師、云「卿策之是也。当念為吾滅二賊。不可但知其情而已。」

文帝が、軍勢を起こして呉を撃とうとすると、劉曄は、「彼は新たに志を得て、上下 心を斉しくす。而も江湖に阻帯し、必ず倉卒し難し」と反対した。文帝は聞かず、黄初五年、広陵の泗口にゆき、

泗口は、三国魏では、徐州の広陵郡の淮陰県に属する。淮陰県は、前漢は臨淮郡、後漢は下邳郡に属した。三国魏は、広陵を郡治とした。

荊州・揚州の諸軍に同時進攻を命じた。群臣に会して、文帝は「孫権は自ら来るか」と聞く。みな「陛下が親征すれば、孫権は恐怖し、必ず国をあげて応ずる」と、(空想的な追従を)言った。劉曄のみ、「彼 謂はく、陛下 万乗の重を以て己を牽かんと欲せども、江湖を超越する者は別将に在り(曹丕が渡江しないから)必ず兵を勒して事を待たんと図る。未だ進退有らざるなり」と、孫権が降伏するとは限らないと言った。

何焯は、辛毗の言を評して、「これは兵を知り異を見たものではない。孫権・曹丕を深く知っても、このように審らかでないコメントをしてしまった」としている。ぼくが推測するに、何焯は、辛毗が「曹丕が自ら渡江すれば、孫権は降伏する」という前提を有しているから、これを批判したのだろう。しかし、曹丕が渡江しないという前提があるなら、曹丕の機嫌を損ねぬためには、こう言うしかない。

大駕がとどまること積日、果たして孫権は至らなかった。曹丕は軍を還し、辛毗に「きみの策は正しかった。吾のために二賊を滅ぼす策を考えてくれ。状況分析が正しいだけでなく(結果出せる解決策を出せ)」といった。

〔一〕傅子曰、孫権遣使求降、帝以問曄。曄対曰「権無故求降、必内有急。権前襲殺関羽、取荊州四郡、備怒、必大興師伐之。外有彊寇、衆心不安、又恐中国承其釁而伐之、故委地求降、一以却中国之兵、二則仮中国之援、以彊其衆而疑敵人。権善用兵、見策知変、其計必出於此。今天下三分、中国十有其八。呉、蜀各保一州、阻山依水、有急相救、此小国之利也。今還自相攻、天亡之也。宜大興師、径渡江襲其内。蜀攻其外、我襲其内、呉之亡不出旬月矣。呉亡則蜀孤。若割呉半、蜀固不能久存、況蜀得其外、我得其内乎。」

『傅子』によると、黄初二年、孫権が使者をやって降ったとき、文帝は劉曄に問う。劉曄「孫権は理由なく降った。必ず国内に緊急のことがある。孫権は関羽を殺し、荊州四郡(南郡・零陵・宜都・武陵)を奪った。劉備が怒って、大軍を興すはず。蜀と魏に同時に攻められたくないから、領土を捨てて降伏を求めた。魏の救援を仮りて、呉軍を勇気づけ、蜀軍を欺くつもりである。

胡三省は、劉曄のこの分析を、孫権の情報をねじまげたものとする。

いま天下は三分され、中国(魏)は十分の八を有する。呉蜀は一州ずつのみを保ち、地形にたのみ、危機には救いあう。これは小国の利である。いま魏軍が呉を攻めるのは、天が呉を滅ぼすことである。渡江して内部(揚州)を襲え。蜀は外部(荊州)を攻め、魏が内部(揚州)を攻めれば、呉の滅亡はすぐである。呉が亡べば、蜀は単独となる。もし呉の半分を(蜀が)奪っても、蜀は存続できない。ましてや、蜀は呉の外部(荊州)を得て、魏は呉の内部(揚州)を得るのだから(魏の戦利のほうが大きく、魏蜀の戦いを完全に優勢に運べる)。

帝曰「人称臣降而伐之、疑天下欲来者心、必以為懼、其殆不可。孤何不且受呉降、而襲蜀之後乎。」対曰「蜀遠呉近、又聞中国伐之、便還軍、不能止也。今備已怒、故興兵撃呉、聞我伐呉、知呉必亡、必喜而進与我争割呉地、必不改計抑怒救呉、必然之勢也。」帝不聴、遂受呉降、即拝権為呉王。

『傅子』の続き。文帝「人が称臣して降ったのに伐てば、天下の(魏に降り)来たい者は、みな懼れちまう。呉の降伏を受け、蜀の後ろを襲うのがいい」と。劉曄「蜀は遠く呉は近い。魏がこれ(蜀?)を伐つと聞けば、軍を還して止めることができない。いま劉備は怒って撃呉の兵を興した。魏が呉を伐つと聞けば、呉の滅亡を知り、必ず喜んで呉地を分割するはずで、計を改めて怒りを抑え、劉備が呉を救うはずがない」と。文帝は劉曄に従わず、孫権を呉王に封じた。

胡三省の説によると、もし魏が劉曄の言を用いれば、呉はほぼ滅亡だった。何焯の説によると、劉曄の計略は正しいが、もし蜀が外部(荊州)を得れば、長江の上流を征圧し、劉備は漢の支属だから、天下を震わせる。曹丕が劉備に敵うだろうか。ゆえに董昭は、呉蜀を潰し合わせるのを良策と考えた。曹丕は、天下の(魏に降り)来たい者のことを意識したが、呉の他には蜀があるのみなのに、だれを対象にしたのか。
ぼくは思う。曹丕が想定した「来たい者」は、何焯の説のように、具体的な劉備や孫権ではなく、もっと理念に偏重した、天子の徳に惹かれる者のことだろう。何焯は、「占夢の如し」と批判するが、理念とはそういうものである。


曄又進曰「不可。先帝征伐、天下兼其八、威震海内、陛下受禅即真、徳合天地、声暨四遠、此実然之勢、非卑臣頌言也。権雖有雄才、故漢驃騎将軍南昌侯耳、官軽勢卑。士民有畏中国心、不可彊迫与成所謀也。不得已受其降、可進其将軍号、封十万戸侯、不可即以為王也。夫王位、去天子一階耳、其礼秩服御相乱也。彼直為侯、江南士民未有君臣之義也。我信其偽降、就封殖之、崇其位号、定其君臣、是為虎傅翼也。権既受王位、却蜀兵之後、外尽礼事中国、使其国内皆聞之、内為無礼以怒陛下。陛下赫然発怒、興兵討之、乃徐告其民曰、『我委身事中国、不愛珍貨重宝、随時貢献、不敢失臣礼也、無故伐我、必欲残我国家、俘我民人子女以為僮隷僕妾。』呉民無縁不信其言也。信其言而感怒、上下同心、戦加十倍矣。」

『傅子』続き。劉曄「呉王に封じてはダメ。曹操が征伐し、天下の八割を合わせた。陛下が受禅して真(皇帝)になり、徳は天地に合い、声は四遠に及んだ。これは実態であり、文飾ではない。孫権は雄才があるが、もと漢の驃騎将軍・南昌侯で、官は軽く勢は卑しい。士民は魏を畏れるから、(孫権が)強迫して、謀を成すことができない。

胡三省はいう。驃騎将軍・南昌侯は、曹操が漢を挟んで命じたもの。ぼくは思う。漢魏革命した後は、孫権の官爵は「故」になってしまうのか。すると孫権は、無位無爵のようなもの。というか、孫権に限らず、呉蜀では、漢魏革命によって、漢の官爵が失効した(と魏側から主張され得る)から、群臣みな無位無爵なのね。劉備が、慌てて皇帝になった理由は、そこにあるのかも。

やむを得ず孫権の降伏を受けるなら、将軍号を進めればよく、十万戸侯に封じればいい。王にするな。王位は、天子から一階の差があるだけ。礼秩・服御は、天子と紛らわしい。

胡三省はいう。前漢の景帝・武帝以後、藩王は削られ、京師と同じ礼制を使わせなくした。曹操が魏王になってから、九錫を加え、礼秩・服御は、天子と紛らわしい(相ひ乱る)ようになった。ぼくは思う。孫権は、漢代の諸王になったのでなく、後漢末の魏王と同じになるというのが、劉曄の認識。もしも、漢代の諸王と同じであれば、実効権力がなく、なんの脅威もない。

孫権をただ侯の爵位にすれば、江南の士民は君臣の義を有さない。もし孫権の偽降を信じて、王爵を与え、位号を高めれば、君臣の関係が定まり、虎に翼を付けるようなもの。孫権が王位になれば、蜀を撃退した後、外は魏に礼もて仕え、国内にこれを聞かせるが、内では無礼もて陛下を怒らせるだろう。

胡三省はいう。このチャンスを失って呉を伐たなかった。もし降伏を受け入れたら、爵位は王・侯にしても同じことで、(けっきょく魏の討伐を免れた)孫権は、どうして皇帝になれないことがあっただろうか(いずれにせよ皇帝権力の獲得に向かっただろう)。
ぼくは思う。史実を知っている後年の編者が、創作したようにも見える。しかし、『傅子』が成立したのも晋代。晋代の観念が反映されていると理解しても、まだ充分に、「当時」の実態を読み解くことが可能だろう。

陛下が怒って、孫権を討伐すれば、おもむろに民に告げるはずだ。「私は身を捨てて魏に仕え、珍宝を惜しまずに奉献し、臣節を行った。しかし、理由なく討伐された。魏がこの国を滅ぼして、呉の人民を奴隷にするつもりだ」と。呉の民はそれを信じて、戦力が十倍になる。と。

又不従。遂即拝権為呉王。権将陸議大敗劉備、殺其兵八万餘人、備僅以身免。権外礼愈卑、而内行不順、果如曄言。

『傅子』続き。曹丕は劉曄に従わず、孫権を呉王とした。陸遜が劉備を破ると、蜀兵8万余人を殺し、劉備はにげた。孫権は外では礼はいよいよ卑しくし、内では行は従わず、劉曄に言うとおりになった。

呉主伝に、孫権は夷陵の戦いの年内は従ったが、年が変わると使者が絶えたという。つまり、劉備を撃破した瞬間に、魏から「独立」したのではなく、魏の臣であるという名目を、できるだけ長く使った。できれば、「魏のほうから討伐を仕掛けてきた」という体裁を作りたかった。恩・讐を、競いあって、ぶつけあっている。

閉じる

建安二十五年・黄初二年

建安二十五年

二十五年春正月、曹公薨。太子丕、代為丞相魏王、改年為延康。秋、魏将梅敷、使張倹求見撫納。南陽、陰、酇、筑陽〔一〕、山都、中盧、五県民五千家来附。冬、魏嗣王称尊号、改元為黄初。

建安二十五年正月、曹操が薨じ、曹丕が丞相・魏王となり、延康と改元した。

周寿昌によると、陳寿は武帝紀で、曹操の死を「崩」と書いたが、これは『魏志』のなかだから。『蜀志』は曹操の死を書かず、同年の劉備の即位を書くだけ。ここに曹操の死を「薨ず」と書くのは、曹操を漢臣として扱い、呉と同列に扱うため。つまり、『魏志』でゆがめて「崩」と書いてしまったが、陳寿の本意は「薨」であると。勘ぐりすぎでは。

秋、魏将の梅敷は、張倹を使わして、撫納してほしいと求めた。南陽の陰県・酇県・筑陽・山都と、(南郡の)中盧の5県の民5千家が来附した。

『一統志』によると、陰県・酇県・筑陽は、三国魏の南郷郡に属し、山都・中盧は、三国魏の襄陽郡に属した。

冬、魏の嗣王が尊号を称し、改元して黄初とした。

黄初二年、呉王に封建される

二年四月、劉備称帝於蜀〔二〕。権、自公安、都鄂、改名武昌。以武昌、下雉、尋陽、陽新、柴桑、沙羨、六県為武昌郡。五月建業言、甘露降。八月、城武昌。下令諸将曰……。
〔一〕筑音逐。〔二〕魏略曰、権聞魏文帝受禅而劉備称帝、乃呼問知星者、己分野中星気何如、遂有僭意。而以位次尚少、無以威衆、又欲先卑而後踞之、為卑則可以仮寵、後踞則必致討、致討然後可以怒衆、衆怒然後可以自大、故深絶蜀而専事魏。

二年四月、劉備が蜀で称帝した。

李清植曰く、曹丕を「嗣王」と書いて、「尊号を称す」としたのは、魏王は漢の王(正統な地位)である一方で、魏の皇帝は僭称であることを示すため。劉備は名を記して(漢中王と記さず)、称帝と書いたが、書法が前後で一致しない。云々。まあいいや。

『魏略』によると、孫権は、曹丕が受禅し、劉備が称帝したと聞いて、知星者を呼んで、「わが分野中の星気はどうだ」と聞き、ついに僭意をもった。しかし、位次がなお少なく、威が多くないから、さきに魏帝にへりくだって、魏の権威を借りて(位次を高め)、あとで傲慢になれば、魏帝から討伐を受けるから、(魏軍の脅威を利用して)士気を高めれば、君主権力を拡大できると考え、蜀と絶って魏に仕えた。

唐庚によると、このとき蜀に攻められたから、魏に仕えた。魏からも攻撃されることを恐れたからである。呉は孫権で三代目で、自立するだけの権勢があるのに、なぜ封爵を受けたのか。もしも、魏帝の命令に従わねば、魏軍に討伐の理由を与える。その後に防戦をすれば、有利に戦える。云々。
盧弼は、これを指示しながら、蜀から攻められたのは翌年と指摘する。
林国賛によると、孫権が2回にわたり、魏に称臣したのは、1回目は荊州を(魏軍と協力して)襲うため、2回目は猇亭の劉備軍を防ぐためである。最後に魏軍が長江にきたとき、哀を乞うたのは、山越の内憂があったからである。山越を平定すると、孫権は僭号した。なぜ衆を怒らせる(魏軍の脅威をカンフル剤にして、求心力を高める)と考えることがあろうか(山越で説明が尽くせるのである)。

孫権は、公安より移って鄂に都し、鄂を武昌と改名した。武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨の6県を武昌郡とした。

武昌について、『三国志集解』呉主伝を参照。

五月、建業で甘露が降ったと言った。八月、武昌に城きずいた。胡三省によると、すでに石頭に城きずき、さらに武昌に城きずいた。これは、呉人が長江を保つ根本となった。

石頭が、それほど重要な拠点だったのか。


自魏文帝践阼、権使命称藩、及遣于禁等還。十一月、策命権曰「蓋、聖王之法、以徳設爵、以功制禄。労大者禄厚、徳盛者礼豊。故、叔旦有夾輔之勲、太公有鷹揚之功、並啓土宇、并受備物、所以表章元功。殊異賢哲也。近、漢高祖受命之初、分裂膏腴以王八姓、斯則前世之懿事、後王之元亀也。朕以不徳、承運革命、君臨万国、秉統天機、思斉先代、坐而待旦。惟君、天資忠亮、命世作佐、深覩暦数、達見廃興、遠遣行人、浮于潜漢〔三〕、望風影附、抗疏称藩。兼納纖絺南方之貢、普遣諸将来還本朝。忠粛内発、款誠外昭、信著金石、義蓋山河。朕甚嘉焉。
〔三〕禹貢曰、沱、潜既道、注曰「水自江出為沱、漢為潜。」

魏文帝が皇帝になると、孫権は称藩して于禁らを返還した。十一月、孫権に策命した。「聖王の法によると、徳には爵を、功には禄でむくいる。労が大きければ禄を厚くし、徳が盛んなら礼を豊かにする。ゆえに叔旦・太公望は、奉献された。漢高祖は八姓を王とした。

郝経によると、楚王の韓信、梁王の彭越、九江王の英布、韓王信、趙王の張耳、燕王の盧綰、長沙王の呉芮、越王の無諸のこと。

これは前代の良き前例であり、後代の規範である。朕は不徳だが天子となった。きみは歴数をみて、興廃について理解して、人を遣わし、使者が潜水・漢水をわたって、称藩してきた。南方の特産品をもって、来朝してきた。すばらしい。

今、封君為呉王。使使持節太常高平侯貞、授君璽綬、策書、金虎符第一至第五、左竹使符第一至第十、以大将軍使持節督交州、領荊州牧事。錫君、青土、苴以白茅。対揚朕命、以尹東夏。其上故驃騎将軍南昌侯印綬符策。今又、加君九錫。其、敬聴後命。以君綏安東南、綱紀江外、民夷安業、無或攜貳。是用錫君、大輅、戎輅各一、玄牡二駟。君、務財勧農倉庫盈積。是用錫君、袞冕之服、赤舄副焉。君、化民以徳礼教興行、是用錫君、軒県之楽。君、宣導休風懐柔百越、是用錫君、朱戸以居。君、運其才謀官方任賢、是用錫君、納陛以登。君、忠勇並奮清除姦慝、是用錫君、虎賁之士百人。君、振威陵邁、宣力荊南、梟滅凶醜、罪人斯得。是用錫君、鈇鉞各一。君、文和於内武信於外、是用錫君、彤弓一、彤矢百、玈弓十、玈矢千。君、以忠粛為基、恭倹為徳、是用錫君、秬鬯一卣、圭瓚副焉。欽哉、敬敷訓典、以服朕命、以勖相我国家、永終爾顕烈〔四〕」

いま呉王に封ずる。使持節・太常・高平侯の邢貞に、璽綬・策書・金虎符1~5、左竹使符1~10を届けさせる。大将軍・使持節・督交州・領荊州牧事とする。もとの驃騎将軍・南昌侯の印綬・符策を返還せよ。いま九錫を加える。云々。

銭大昭によると、この九錫文は、孫権が公孫淵に授けたものと同じ。魏臣の九錫のように、すべて軒県之楽・六佾之舞・虎賁之士三百人を授ける。何焯はいう。あえて魏朝の策命の文を、呉主伝に載せるのは、これを醜しとしたいからか。
盧弼はいう。曹瞞は九錫の文を作り、晋・宋・斉・梁・陳は、踏襲して改めず。……あるひとが言うには、三国は漢を奉り、呉は先に封を受けたが、ついに兼併を免れなかった。蜀は先に亡びたが、魏の封を受けなかった。小国(蜀)が割拠して、道義を守り抜けたのは、賢臣(諸葛亮)の輔佐があったから。
ぼくは思う。孫権が魏に称臣したことは、同時代の臣下や、後世の歴史家に批判される。なんとなくの美学から、批判するのではなく、孫権の政権がどのような構造で成り立っているか分析しないと。ただの感情論では、何も見えてこない。


〔四〕江表伝曰、権羣臣議、以為宜称上将軍九州伯、不応受魏封。権曰「九州伯、於古未聞也。昔沛公亦受項羽拝為漢王、此蓋時宜耳、復何損邪。」遂受之。孫盛曰「昔伯夷、叔斉不屈有周、魯仲連不為秦民。夫以匹夫之志、猶義不辱、況列国之君三分天下、而可二三其節、或臣或否乎。余観呉、蜀、咸称奉漢、至於漢代、莫能固秉臣節、君子是以知其不能克昌厥後、卒見呑於大国也。向使権従羣臣之議、終身称漢将、豈不義悲六合、仁感百世哉。」

『江表伝』はいう。孫権の群臣は議して、上将軍・九州伯と称して、魏の封を受けるなとした。

胡三省はいう。『王制』の九州は、その1州は天子の県であり、8州に8伯がいる。

孫権「九州伯は、古えに聞いたことがない。沛公が項羽の封建を受けて漢王となったが、けだし時宜である。どうして問題があろうか」と。孫盛はいう。伯夷・叔斉は、有周に屈せず、魯仲連は秦の民とならなかった。匹夫の志でも、義に恥じなかった。まして列国の君が天下を三分し、その節義の二三にして(ふらふらさせ)臣になったり、臣をやめたりして良いか。私(孫盛)が見るに、呉蜀はどちらも漢を奉ずるが、固く臣節を持つことができなかった。君子であれば、呉蜀が成功することなく、大国(魏晋)に併呑されると見るのである。もし孫権が群臣の議に従い、死ぬまで漢将を称せば、不義が六合を悲しませたであろうか。仁は百世まで感応したのにね。

何焯はいう。孫盛の意見は、蜀が漢代の臣節を、全うしなかったというのか。曹操と異なり(劉備が)漢を裏切ったというのか。大司馬・漢中王の号は、人心を繋ぐためのもので、ないことはなく(人心を繋ぐための便宜であり、漢への裏切りではなく)、危機に因って自らほしいままにしたのは異なる。←何焯は劉備を、漢臣と評価する。


是歳、劉備帥軍来伐。至巫山、秭帰、使使誘導武陵蛮夷、仮与印伝、許之封賞。於是、諸県及五谿民皆反為蜀。権、以陸遜為督、督朱然潘璋等、以拒之。遣都尉趙咨、使魏。魏帝問曰「呉王、何等主也」咨対曰「聡明仁智、雄略之主也」帝問其状、咨曰「納魯粛於凡品、是其聡也。抜呂蒙於行陳、是其明也。獲于禁而不害、是其仁也。取荊州而兵不血刃、是其智也。拠三州虎視於天下、是其雄也。屈身於陛下、是其略也〔五〕」
〔五〕呉書曰、咨字徳度、南陽人、博聞多識、応対辯捷、権為呉王、擢中大夫、使魏。魏文帝善之、嘲咨曰「呉王頗知学乎。」答曰「呉王浮江万艘、帯甲百万、任賢使能、志存経略、雖有餘間、博覧書伝歴史、藉採奇異、不効諸生尋章摘句而已。」帝曰「呉可征不。」咨対曰「大国有征伐之兵、小国有備禦之固。」又曰「呉難魏不。」咨曰「帯甲百万、江、漢為池、何難之有。」又曰「呉如大夫者幾人。」咨曰「聡明特達者八九十人、如臣之比、車載斗量、不可勝数。」咨頻載使北、[魏]人敬異。権聞而嘉之、拝騎都尉。咨言曰「観北方終不能守盟、今日之計、朝廷承漢四百之際、応東南之運、宜改年号、正服色、以応天順民。」権納之。

この歳、劉備軍がきた。巫山・秭帰に至ると、使者をつかわして、武陵の蛮夷を誘導し、印伝を仮し与え、これを封賞することを許した。ここにおいて、諸県および五谿の民は、みな蜀についた。陸遜に朱然・潘璋を督させ、これを防いだ。
都尉の趙咨を、魏に使わせた。魏帝が、孫権について質問した。趙咨は、人材登用の長所と、「三州を領有して、天下を虎視するのが雄で、しかし魏帝に身を屈したのが略である」と言った。

銭大昭によると、『魏志』司馬朗伝にも、趙咨がおり、河内の温県のひと。あざなは徳度 君初である。同名異人であるが、本貫・あざなとも異なる。
『通鑑輯覧』によると、この問答は、使者が自ら記して報告したものか。優れたものであっても、信頼しがたい。ぼくは思う。趙咨の問答は、魏を圧倒しているが、呉を賛美するためのものであり、このときの力関係からすれば、趙咨は、曹丕をやっつけてはいけない。『通鑑輯覧』の言うとおりかも。

『呉書』によると、趙咨は、孫権が呉王となると、中大夫となり、魏に使者となった。文化・軍事の両面で、呉は魏に劣らないことを証明した。帰国してから、孫権は騎都尉とした。趙咨「北方は盟約を守り続けることができない。いまこそ、朝廷は漢朝百年の終焉にあたり、東南の運に応じ、年号を改め、服色を正し、天に応じて民に順ふべきだ」と言った。

趙咨が、どのタイミングで、孫権に称帝を勧めたか、分からない。魏から帰国してすぐに勧めたという保証はない。史料にかなりの時系列の圧縮が、疑われるからです。


孫登を任子に出さない

帝欲封権子登。権、以登年幼、上書辞封。重遣西曹掾沈珩、陳謝、并献方物〔六〕。
〔六〕呉書曰、珩字仲山、呉郡人、少綜経芸、尤善春秋内、外伝。権以珩有智謀、能専対、乃使至魏。魏文帝問曰「呉嫌魏東向乎。」珩曰「不嫌。」曰「何以。」曰「信恃旧盟、言帰于好、是以不嫌。若魏渝盟、自有豫備。」又問「聞太子当来、寧然乎。」珩曰「臣在東朝、朝不坐、宴不与、若此之議、無所聞也。」文帝善之、乃引珩自近、談語終日。珩随事響応、無所屈服。珩還言曰「臣密參侍中劉曄、数為賊設姦計、終不久慤。臣聞兵家旧論、不恃敵之不我犯、恃我之不可犯、今為朝廷慮之。且当省息他役、惟務農桑以広軍資。脩繕舟車、増作戦具、令皆兼盈。撫養兵民、使各得其所。攬延英俊、奨勵将士、則天下可図矣。」以奉使有称、封永安郷侯、官至少府。

魏帝は孫登を封じたいが、孫権は幼いから辞退した。重ねて西曹掾の沈珩を使わし、陳謝して方物を献じた。
『呉書』によると、沈珩は呉郡のひとで『春秋』内伝・外伝に詳しい。文帝に「呉は魏が東向(東征)するのを嫌わない。信は旧盟を恃み、言は好に帰す。是を以て嫌はず。若し魏は盟を渝ゆれば、自ら豫備有り」と。

魏が同盟(というか呉の服従)を守るように、プレッシャーをかけている。もしも魏が呉を攻めるなら、魏が呉を裏切ったことになり、魏が呉に借りを作る。そういうプレッシャーである。

文帝が孫登が来るか聞けば、沈珩は「呉朝に出席しないから分からない(『礼記』檀弓の尹商陽の言に依る)」と受け流す。沈珩は帰国すると、孫権に「侍中の劉曄は、しばしば賊(魏帝)のために姦計を設け、久しく平穏ではいられません。兵家の旧論によると、敵が攻めて来ないことを恃むのでなく、敵が攻められない(ほど防御が固い)ことに恃むべきです。勧農を優先して軍資を蓄え、船艦・武器を準備すれば、天下を図れるでしょう」と。

魏から帰った呉臣は、みな「そのうち魏が攻めてくる」と答える。これは、曹丕だけが呉の称臣を歓迎しているが、魏臣の大半が、征呉を望んでいるからだろう。しかし、呉には、呉から侵攻する理由はない。魏が攻めてくることに備える。理由は2つ。①敵の攻撃を防いだ方が、戦費がかからず、勝率が高い。②呉から魏を攻める名目がない。

使者を務めて称えられ、永安郷侯となり、官位は少府に至る。

趙一清の引く『御覧』820に引く『笑林』によると、沈珩の弟の沈峻は、あざなはを叔山、誉があって性は倹である。張温が蜀への使者となると、沈峻にあいさつをした。沈峻は、入内して久しく、張温に向かって、「向択一端布、欲以送卿、而無粗者」と言った。張温はその顕非を能くすることを嘉した。?


立登、為王太子〔七〕。
〔七〕江表伝曰、是歳魏文帝遣使求雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、瑇瑁、孔雀、翡翠、闘鴨、長鳴雞。羣臣奏曰「荊、揚二州、貢有常典、魏所求珍玩之物非礼也、宜勿与。」権曰「昔恵施尊斉為王、客難之曰『公之学去尊、今王斉、何其倒也。』恵子曰『有人於此、欲撃其愛子之頭、而石可以代之、子頭所重而石所軽也、以軽代重、何為不可乎。』方有事於西北、江表元元、恃主為命、非我愛子邪。彼所求者、於我瓦石耳、孤何惜焉。彼在諒闇之中、而所求若此、寧可与言礼哉。」皆具以与之。

孫登を立てて、王太子とした。

諸葛恪・張休・顧譚・陳表を中庶子として、これを四友といった。『通鑑』は、孫権が武昌の釣台で飲酒して、虞翻を撃とうとしたのを、この歳の事とする。
孫権が「中庶子」という官位を設けて、名臣の子弟を抱えこんだことも、釣台でムリな飲酒をできたことも、孫権が呉王になったがゆえ。

『江表伝』によると、文帝は珍宝を求めた。群臣「(禹が制定した九州には)荊州・揚州の二州は、奉貢する物に常典がある。魏帝の要求は、常典を越えたもの。奉献しなくていい」と。孫権は、『呂氏春秋』から、宋の恵施と、客である匡章の逸話から、そんなものは、くれてやれと言った。「西と北が有事となれば(蜀や魏と戦うことになれば)江表の民は、君主が命令することを恃む。私が子を惜しまないことがあろうか。魏帝が求める珍宝は、私にとっては瓦石である。惜しくない。文帝は諒闇の中なのに、こうやって要求してくる。文帝の礼について言えやしない」と。170602

孫登を魏に出さないのは、まるで孫権が、魏からの攻撃を誘っているかのよう。魏帝は、呉の降伏を受け入れねば、「ケチ」となる。だから、呉王・九錫を賜った。孫権は、これに報いて子を出さねば「ケチ」となる。それを回避するために、ルール外の珍宝については、盛大に贈って、「ケチ」加減を緩和する。しかし、それに怒って曹丕が攻めてこれば、曹丕のほうが、より「ケチ」となる。すると孫権は、目先の「ケチ」は回避できる。しかし、「魏からもらった呉王の地位を、借りパク」した状態は、アンバランスであり、ほかの手を考えるしかない。

閉じる

黄武元年~七年(作成中)

黄武元年

黄武元年春正月。陸遜、部将軍宋謙等、攻蜀五屯、皆破之、斬其将。三月鄱陽言、黄龍見。蜀軍、分拠険地、前後五十餘営。遜、随軽重、以兵応拒、自正月至閏月、大破之。臨陳所斬及投兵降首数万人。劉備奔走、僅以身免〔一〕。
〔一〕呉歴曰、権以使聘魏、具上破備獲印綬及首級、所得土地、並表将吏功勤宜加爵賞之意。文帝報使、致鼲子裘、明光鎧、騑馬、又以素書所作典論及詩賦与権。魏書載詔答曰「老虜辺窟、越険深入、曠日持久、内迫罷弊、外困智力、故見身於雞頭、分兵擬西陵、其計不過謂可転足前迹以搖動江東。根未著地、摧折其支、雖未刳備五臟、使身首分離、其所降誅、亦足使虜部衆兇懼。昔呉漢先焼荊門、後発夷陵、而子陽無所逃其死。来歙始襲略陽、文叔喜之、而知隗囂無所施其巧。今討此虜、正似其事、将軍勉建方略、務全独克。」

黄武元年、正月から閏六月までかけ、陸遜が劉備を破った。

魏の黄初三年、蜀の章武二年であり、孫権は41歳。改元は、この年内のことで、正月の時点では改元されていない。魏の黄初三年を使っていたはずだが、あとで魏と絶交したので、建安を使い続けていたことにした。胡三省によると、黄武の「黄」は、漢の火徳を受けて、土徳の色を使ったもの。
閏月を「閏六月」とするのは、『三国志集解』呉主伝に引く潘眉の説。

『呉歴』によると、孫権は使者を魏に送り、劉備の印綬・首級をとどけ、得た土地・将吏の功績を報告して、爵賞を加えてくれと言った。文帝は返礼した。『魏略』によると、文帝は、後漢初に呉漢が公孫述を追いつめ、来歙が隗囂を追いつめたことを引いて、孫権を賞賛した。『後漢書』呉漢伝・来歙伝に見えること。

初、権外託事魏、而誠心不款。魏乃遣侍中辛毗尚書桓階、往与盟誓、并徴任子。権、辞譲不受。

孫権は外は魏につかえると託したが、本心ではない。魏は侍中の辛毗・尚書の桓階に、いって盟誓をし、任子を連れて来させようとした。

巻二十二 桓階伝:文帝践阼、遷尚書令、封高郷亭侯、加侍中。階疾病、帝自臨省、謂曰「吾方託六尺之孤、寄天下之命於卿、勉之」徙封安楽郷侯、邑六百戸。又賜階三子爵関内侯。……後階疾篤、遣使者即拝太常、薨。帝為之流涕、諡曰貞侯。
桓階は、文帝が皇帝になると、すぐに病気になった。おそらく史実で、呉にいく命令も出なかったのだが、命令が出ても、呉にいく時間があったのか。桓階は、孫堅の死体を収容したひと。孫権にとっては、恩人である。

孫権は辞譲して受けなかった。

辛毗・桓階という、大物が派遣されたとしたら、それが最後通告である。辛毗伝・桓階伝に、呉に行ったという記述がない。辛毗・桓階が、断ったのかも知れないが、ともあれ、「魏のほうから手を出した」形となった。
沈家本の説によると、孫権は辞譲して受けないから、辛毗・桓階を派遣しようとしたが、行くには至らなかった。つぎの文帝の文書で、「これから行かせる」という表現があるから、まだ派遣していないのである。


秋九月、魏乃命曹休、張遼、臧霸、出洞口。曹仁、出濡須。曹真、夏侯尚、張郃、徐晃、囲南郡。権、遣呂範等督五軍、以舟軍拒休等。諸葛瑾、潘璋、楊粲、救南郡。朱桓、以濡須督拒仁。時、揚越蛮夷多未平集、内難未弭。故、権卑辞上書、求自改厲、

秋九月、魏が攻めた。ときに揚越の蛮夷が、まだ平集せず、国内が安定しないから、孫権は辞を低くして上書した。

戦いの経過は、いまは関心事でないので、はぶく。陳寿は、揚越の蛮夷が、、と因果関係を書いているが、信じる必要はない。これは、具体的な史実ではなく、時間的・地理的に離れた陳寿が、孫権の意図を推測しただけである。また、孫権の文だと、魏軍との戦いを回避する交渉のように見えるが、実際には、戦っている。
曹休伝・曹真伝・夏侯尚伝・曹仁伝・臧覇伝・董昭伝・呂範伝・張遼伝・王淩伝・賀斉伝・朱桓伝・諸葛瑾伝など。


「若罪在難除必不見置、当奉還土地民人、乞寄命交州以終餘年」文帝報曰「君生於擾攘之際、本有従横之志、降身奉国、以享茲祚。自君策名已来、貢献盈路、討備之功、国朝仰成。埋而掘之、古人之所恥〔一〕。朕之与君、大義已定、豈楽労師遠臨江漢。
〔一〕国語曰、狸埋之、狸掘之、是以無成功。

孫権「もしわが罪が除き難ければ、土地・民人を奉還し、交州で晩年を過ごします」と。文帝「きみは、身を降し国に奉り、享を以て茲に祚す。君の策名して自り已来、貢献は路に盈ち、備を討つの功、国朝 仰成す。『国語』によると、狸が埋めて狸が掘るのは、無意味だから、古人が恥じることである。

孫権が魏に降伏して、天下を平穏にしたにも拘わらず、孫権が魏に反乱して、天下を撹乱するのは、賢いことではない。裏を返せば、天下が平穏となるか否かは、孫権が主導権を持っていることを、曹丕が暴露している。

大義はすでに定まったのに、どうしてわざわざ遠征したいものか。

廊廟之議、王者所不得専。三公上君過失、皆有本末。朕以不明、雖有曾母投杼之疑、猶冀言者不信以為国福。故、先遣使者犒労、又遣尚書侍中、践脩前言以定任子。君遂設辞、不欲使進、議者怪之〔二〕。
〔二〕魏略載魏三公奏曰「臣聞枝大者披心、尾大者不掉、有国有家之所慎也。昔漢承秦弊、天下新定、大国之王、臣節未尽、以蕭、張之謀不備録之、至使六王前後反叛、已而伐之、戎車不輟。又文、景守成、忘戦戢役、驕縦呉、楚、養虺成蛇、既為社稷大憂、蓋前事之不忘、後事之師也。呉王孫権、幼豎小子、無尺寸之功、遭遇兵乱、因父兄之緒、少蒙翼卵昫伏之恩、長含鴟梟反逆之性、背棄天施、罪悪積大。復与関羽更相覘伺、逐利見便、挟為卑辞。先帝知権姦以求用、時以于禁敗於水災、等当討羽、因以委権。先帝委裘下席、権不尽心、誠在惻怛、欲因大喪、寡弱王室、希託董桃伝先帝令、乗未得報許、擅取襄陽、及見駆逐、乃更折節。邪辟之態、巧言如流、雖重駅累使、発遣禁等、内包隗囂顧望之姦、外欲緩誅、支仰蜀賊。聖朝含弘、既加不忍、優而赦之、与之更始、猥乃割地王之、使南面称孤、兼官累位、礼備九命、名馬百駟、以成其勢、光寵顕赫、古今無二。権為犬羊之姿、横被虎豹之文、不思靖力致死之節、以報無量不世之恩。臣毎見所下権前後章表、又以愚意採察権旨、自以阻帯江湖、負固不服、狃累世、詐偽成功、上有尉佗、英布之計、下誦伍被屈彊之辞、終非不侵不叛之臣。以為鼂錯不発削弱王侯之謀、則七国同衡、禍久而大。蒯通不決襲歴下之策、則田横自慮、罪深変重。臣謹考之周礼九伐之法、平権凶悪、逆節萌生、見罪十五。昔九黎乱徳、黄帝加誅。項羽罪十、漢祖不捨。権所犯罪釁明白、非仁恩所養、宇宙所容。臣請免権官、鴻臚削爵土、捕治罪。敢有不従、移兵進討、以明国典好悪之常、以静三州元元之苦。」其十五條、文多不載。

廊廟の議、王者 専らにするを得ざる所なり。三公 君の過失を上り、皆 本末有り。朕 不明を以て、孫権を信じたい気持ちがある。ゆえに、さきに使者をやって労をねぎらい、さらに尚書・侍中を使わし、約束どおり任子を定めようと思う。きみが辞退するなら、議者たちは怪しむ。

修辞もあろうが、曹丕ですら、「廊廟の議」を、自分の意見だけで制御することができない。きっと曹丕を除いて、「孫権は信頼できない」ということで、魏臣の意見は統一されていたのだろう。曹丕ひとりだけが、魏臣と異なることを言う。これは、曹丕の皇帝即位のときにも見られたこと。

『魏略』は魏の三公の上奏を載せる。孫権を追及する表現は、さておき、出来事を抜粋すると。孫権は、曹操の死に乗じて、董桃の伝に託して、許しを得ずに襄陽を掠め取り、駆逐されれば、ふたたび節を折った。

銭儀吉によると、董桃は未詳。ともあれ、曹操の死に乗じて、孫権が、襄陽を掠めた。さらに、魏軍に蹴散らされて、襄陽が魏の手に戻った。この事実は重い。

于禁を返還したのは、内では隗囂のような野心があるが、外では魏軍からの攻撃を緩めて、蜀軍を迎撃した。魏帝は、みだりに地を割いて、孫権を王とし、南面・称孤させ、官職・九錫の礼制をプラスして、孫権の権勢を高めてしまった。孫権の前後にわたる章表を見ると、孫権は江湖で防いで、尉佗・英布になろうとしている。前漢の呉楚七国の乱と同じことが起こる。孫権の官位を免じ、爵土を削り、罪を治め、兵で討伐せよ」と。三公があげた孫権の15の罪は、裴松之が省く。

又前、都尉浩周勧君遣子。乃実、朝臣交謀以此卜君。君果有辞、外引隗囂遣子不終、内喻宝融守忠而已。世殊時異、人各有心、浩周之還、口陳指麾、益令議者発明衆嫌。終始之本、無所拠仗、故遂俛仰従羣臣議。今省上事、款誠深至、心用慨然、悽愴動容。即日下詔、敕諸軍但深溝高塁不得妄進。若君必効忠節以解疑議、登身朝到夕召兵還。此言之誠、有如大江〔三〕」 〔三〕魏略曰、浩周字孔異、上党人。建安中仕為蕭令、至徐州刺史。後領護于禁軍、軍没、為関羽所得。権襲羽、並得周、甚礼之。及文帝即王位、権乃遣周、為牋魏王曰「昔討関羽、獲于将軍、即白先王、当発遣之。此乃奉款之心、不言而発。先王未深留意、而謂権中間復有異図、愚情慺慺、用未果決。遂値先王委離国祚、殿下承統、下情始通。公私契闊、未獲備挙、是令本誓未即昭顕。梁寓伝命、委曲周至、深知殿下以為意望。権之赤心、不敢有他、願垂明恕、保権所執。謹遣浩周、東里袞、至情至実、皆周等所具。」又曰「権本性空薄、文武不昭、昔承父兄成軍之緒、得為先王所見奨飾、遂因国恩、撫綏東土。而中間寡慮、庶事不明、畏威忘徳、以取重戻。先王恩仁、不忍遐棄、既釈其宿罪、且開明信。雖致命虜廷、梟獲関羽、功効浅薄、未報万一。事業未究、先王即世。殿下践阼、威仁流邁、私懼情願未蒙昭察。梁寓来到、具知殿下不遂疏遠、必欲撫録、追本先緒。権之得此、欣然踊躍、心開目明、不勝其慶。権世受寵遇、分義深篤、今日之事、永執一心、惟察慺慺、重垂含覆。」又曰「先王以権推誠已験、軍当引還、故除合肥之守、著南北之信、令権長駆不復後顧。近得守将周泰、全琮等白事、過月六日、有馬歩七百、径到横江、又督将馬和復将四百人進到居巣、琮等聞有兵馬渡江、視之、為兵馬所撃、臨時交鋒、大相殺傷。卒得此問、情用恐懼。権実在遠、不豫聞知、約敕無素、敢謝其罪。又聞張征東、朱横海今復還合肥、先王盟要、由来未久、且権自度未獲罪釁、不審今者何以発起、牽軍遠次。事業未訖、甫当為国討除賊備、重聞斯問、深使失図。凡遠人所恃、在於明信、願殿下克卒前分、開示坦然、使権誓命、得卒本規。凡所願言、周等所当伝也。」初東里袞為于禁軍司馬、前与周俱没、又俱還到、有詔皆見之。帝問周等、周以為権必臣服、而東里袞謂其不可必服。帝悦周言、以為有以知之。是歳冬、魏王受漢禅、遣使以権為呉王、詔使周与使者俱往。周既致詔命、時与権私宴、謂権曰「陛下未信王遣子入侍也、周以闔門百口明之。」権因字謂周曰「浩孔異、卿乃以挙家百口保我、我当何言邪。」遂流涕沾襟。及与周別、又指天為誓。周還之後、権不遣子而設辞、帝乃久留其使。到八月、権上書謝、又与周書曰「自道路開通、不忘脩意。既新奉国命、加知起居、仮帰河北、故使情問不獲果至。望想之労、曷云其已。孤以空闇、分信不昭、中間招罪、以取棄絶、幸蒙国恩、復見赦宥、喜乎与君克卒本図。伝不云乎、雖不能始、善終可也。」又曰「昔君之来、欲令遣子入侍、于時傾心歓以承命、徒以登年幼、欲仮年歳之間耳。而赤情未蒙昭信、遂見討責、常用慚怖。自頃国恩、復加開導、忘其前愆、取其後効、喜得因此尋竟本誓。前已有表具説遣子之意、想君仮還、已知之也。」又曰「今子当入侍、而未有耦、昔君念之、以為可上連綴宗室若夏侯氏、雖中間自棄、常奉戢在心。当垂宿念、為之先後、使獲攀龍附驥、永自固定。其為分恵、豈有量哉。如是欲遣孫長緒与小児俱入、奉行礼聘、成之在君。」又曰「小児年弱、加教訓不足、念当与別、為之緬然、父子恩情、豈有已邪。又欲遣張子布追輔護之。孤性無餘、凡所欲為、今尽宣露。惟恐赤心不先暢達、是以具為君説之、宜明所以。」於是詔曰「権前対浩周、自陳不敢自遠、楽委質長為外臣、又前後辞旨、頭尾撃地、此鼠子自知不能保爾許地也。又今与周書、請以十二月遣子、復欲遣孫長緒、張子布随子俱来、彼二人皆権股肱心腹也。又欲為子於京師求婦、此権無異心之明効也。」帝既信権甘言、且謂周為得其真、而権但華偽、竟無遣子意。自是之後、帝既彰権罪、周亦見疎遠、終身不用。 権遂改年、臨江拒守。冬十一月大風、範等兵溺死者数千、餘軍還江南。曹休、使臧霸以軽船五百敢死万人、襲攻徐陵、焼攻城車、殺略数千人。将軍全琮徐盛、追斬魏将尹盧、殺獲数百。十二月権、使太中大夫鄭泉、聘劉備于白帝、始復通也〔四〕。然猶与魏文帝相往来。至後年、乃絶。是歳、改夷陵為西陵。 〔四〕江表伝曰、権云「近得玄徳書、已深引咎、求復旧好。前所以名西為蜀者、以漢帝尚存故耳、今漢已廃、自可名為漢中王也。」呉書曰、鄭泉字文淵、陳郡人。博学有奇志、而性嗜酒、其間居毎曰「願得美酒満五百斛船、以四時甘脆置両頭、反覆没飲之、憊即住而啖肴膳。酒有斗升減、随即益之、不亦快乎。」権以為郎中。嘗与之言「卿好於衆中面諫、或失礼敬、寧畏龍鱗乎。」対曰「臣聞君明臣直、今値朝廷上下無諱、実恃洪恩、不畏龍鱗。」後侍讌、権乃怖之、使提出付有司促治罪。泉臨出屡顧、権呼還、笑曰「卿言不畏龍鱗、何以臨出而顧乎。」対曰「実侍恩覆、知無死憂、至当出閤、感惟威霊、不能不顧耳。」使蜀、劉備問曰「呉王何以不答吾書、得無以吾正名不宜乎。」泉曰「曹操父子陵轢漢室、終奪其位。殿下既為宗室、有維城之責、不荷戈執殳為海内率先、而於是自名、未合天下之議、是以寡君未復書耳。」備甚慚恧。泉臨卒、謂同類曰「必葬我陶家之側、庶百歳之後化而成土、幸見取為酒壺、実獲我心矣。」 二年春正月、曹真、分軍拠江陵中州。是月、城江夏山。改四分、用乾象暦〔一〕。三月曹仁、遣将軍常彫等、以兵五千、乗油船、晨渡濡須中州。仁子泰、因引軍急攻朱桓。桓兵拒之、遣将軍厳圭等、撃破彫等。是月、魏軍皆退。夏四月権羣臣、勧即尊号、権不許〔二〕。劉備薨于白帝〔三〕。五月曲阿言、甘露降。先是、戯口守将晋宗、殺将王直、以衆叛如魏。魏以為蘄春太守、数犯辺境。六月権、令将軍賀斉、督糜芳劉邵等、襲蘄春。邵等、生虜宗。冬十一月蜀使中郎将鄧芝、来聘〔四〕。 〔一〕江表伝曰、権推五徳之運、以為土行用未祖辰臘。志林曰、土行以辰臘、得其数矣。土盛於戌、而以未祖、其義非也。土生於未、故未為坤初。是以月令。建未之月、祀黄精於郊、祖用其盛。今祖用其始、豈応運乎。 〔二〕江表伝曰、権辞譲曰「漢家堙替、不能存救、亦何心而競乎。」羣臣称天命符瑞、固重以請。権未之許、而謂将相曰「往年孤以玄徳方向西鄙、故先命陸遜選衆以待之。聞北部分、欲以助孤、孤内嫌其有挟、若不受其拝、是相折辱而趣其速発、便当与西俱至、二処受敵、於孤為劇、故自抑按、就其封王。低屈之趣、諸君似未之尽、今故以此相解耳。」 〔三〕呉書曰、権遣立信都尉馮煕聘于蜀、弔備喪也。煕字子柔、潁川人、馮異之後也。権之為車騎、煕歴東曹掾、使蜀還、為中大夫。後使于魏、文帝問曰「呉王若欲脩宿好、宜当厲兵江関、県旍巴蜀、而聞復遣脩好、必有変故。」煕曰「臣聞西使直報問、且以観釁、非有謀也。」又曰「聞呉国比年災旱、人物彫損、以大夫之明、観之何如。」煕対曰「呉王体量聡明、善於任使、賦政施役、毎事必咨、教養賓旅、親賢愛士、賞不択怨仇、而罰必加有罪、臣下皆感恩懐徳、惟忠与義。帯甲百万、穀帛如山、稲田沃野、民無饑歳、所謂金城湯池、彊富之国也。以臣観之、軽重之分、未可量也。」帝不悦、以陳羣与煕同郡、使羣誘之、啗以重利。煕不為迴。送至摩陂、欲困苦之。後又召還、未至、煕懼見迫不従、必危身辱命、乃引刀自刺。御者覚之、不得死。権聞之、垂涕曰「此与蘇武何異。」竟死於魏。 〔四〕呉歴曰、蜀致馬二百匹、錦千端、及方物。自是之後、聘使往来以為常。呉亦致方土所出、以答其厚意焉。 三年夏、遣輔義中郎将張温、聘于蜀。秋八月、赦死罪。九月魏文帝、出広陵、望大江、曰「彼有人焉。未可図也」乃還〔一〕。 〔一〕干宝晋紀曰、魏文帝之在広陵、呉人大駭、乃臨江為疑城、自石頭至于江乗、車以木楨、衣以葦席、加采飾焉、一夕而成。魏人自江西望、甚憚之、遂退軍。権令趙達算之、曰「曹丕走矣、雖然、呉衰庚子歳。」権曰「幾何。」達屈指而計之、曰「五十八年。」権曰「今日之憂、不暇及遠、此子孫事也。」呉録曰、是歳蜀主又遣鄧芝来聘、重結盟好。権謂芝曰「山民作乱、江辺守兵多徹、慮曹丕乗空弄態、而反求和。議者以為内有不暇、幸来求和、於我有利、宜当与通、以自辨定。恐西州不能明孤赤心、用致嫌疑。孤土地辺外、間隙万端、而長江巨海、皆当防守。丕観釁而動、惟不見便、寧得忘此、復有他図。」 四年夏五月丞相孫邵、卒〔一〕。六月以太常顧雍、為丞相〔二〕。皖口言、木連理。冬十二月鄱陽賊彭綺、自称将軍、攻没諸県、衆数万人。是歳、地連震〔三〕。 〔一〕呉録曰、邵字長緒、北海人、長八尺。為孔融功曹、融称曰「廊廟才也」。従劉繇於江東。及権統事、数陳便宜、以為応納貢聘、権即従之。拝廬江太守、遷車騎長史。黄武初為丞相、威遠将軍、封陽羨侯。張温、暨豔奏其事、邵辞位請罪、権釈令復職、年六十三卒。 志林曰、呉之創基、邵為首相、史無其伝、窃常怪之。嘗問劉声叔。声叔、博物君子也、云「推其名位、自応立伝。項竣、(呉孚)[丁孚]時已有注記、此云与張恵恕不能。後韋氏作史、蓋恵恕之党、故不見書。」 〔二〕呉書曰、以尚書令陳化為太常。化字元耀、汝南人、博覧衆書、気幹剛毅、長七尺九寸、雅有威容。為郎中令使魏、魏文帝因酒酣、嘲問曰「呉、魏峙立、誰将平一海内者乎。」化対曰「易称帝出乎震、加聞先哲知命、旧説紫蓋黄旗、運在東南。」帝曰「昔文王以西伯王天下、豈復在東乎。」化曰「周之初基、太伯在東、是以文王能興於西。」帝笑、無以難、心奇其辞。使畢当還、礼送甚厚。権以化奉命光国、拝犍為太守、置官属。頃之、遷太常、兼尚書令。正色立朝、敕子弟廃田業、絶治産、仰官廩禄、不与百姓争利。妻早亡、化以古事為鑒、乃不復娶。権聞而貴之、以其年壮、敕宗正妻以宗室女、化固辞以疾、権不違其志。年出七十、乃上疏乞骸骨、遂爰居章安、卒於家。長子熾、字公煕、少有志操、能計算。衛将軍全琮表称熾任大将軍、赴召、道卒。 〔三〕呉録曰、是冬魏文帝至広陵、臨江観兵、兵有十餘万、旌旗弥数百里、有渡江之志。権厳設固守。時大寒冰、舟不得入江。帝見波濤洶涌、歎曰「嗟乎。固天所以隔南北也。」遂帰。孫韶又遣将高寿等率敢死之士五百人於径路夜要之、帝大驚、寿等獲副車羽蓋以還。 五年春、令曰「軍興日久、民離農畔、父子夫婦、不聴相卹、孤甚愍之。今、北虜縮竄、方外無事。其、下州郡有以寛息」是時、陸遜以所在少穀、表、令諸将増広農畝。権報曰「甚善。今、孤父子親自受田、車中八牛以為四耦。雖未及古人、亦欲与衆均等其労也」秋七月権聞、魏文帝崩、征江夏囲石陽、不克而還。蒼梧言、鳳皇見。分三郡悪地十県、置東安郡〔一〕、以全琮為太守、平討山越。冬十月陸遜、陳便宜、勧以施徳緩刑寛賦息調。又云「忠讜之言、不能極陳。求容小臣、数以利聞」権報曰「夫、法令之設、欲以遏悪防邪、儆戒未然也。焉得不有刑罰以威小人乎。此、為先令後誅、不欲使有犯者耳。君以為太重者、孤亦何利其然、但不得已而為之耳。今承来意。当重諮謀、務従其可。且、近臣有尽規之諫、親戚有補察之箴、所以匡君正主明忠信也。書載『予違、汝弼。汝、無面従』孤、豈不楽、忠言以自裨補邪。而云、不敢極陳。何得為忠讜哉。若小臣之中有可納用者、寧得以人廃言而不採択乎。但諂媚取容、雖闇、亦所明識也。至於発調者、徒以天下未定事以衆済。若徒守江東脩崇寛政、兵自足用復用多為。顧坐自守、可陋耳。若不豫調、恐臨時未可便用也。又、孤与君、分義特異栄戚実同。来表云、不敢随衆容身苟免。此、実甘心所望於君也」於是、令有司尽寫科條。使郎中褚逢、齎以就遜及諸葛瑾、意所不安令損益之。是歳、分交州置広州。俄、復旧〔二〕。 〔一〕呉録曰、郡治富春也。 〔二〕江表伝曰、権於武昌新裝大船、名為長安、試泛之釣台圻。時風大盛、谷利令柂工取樊口。権曰「当張頭取羅州。」利抜刀向柂工曰「不取樊口者斬。」工即転柂入樊口、風遂猛不可行、乃還。権曰「阿利畏水何怯也。」 利跪曰「大王万乗之主、軽於不測之淵、戯於猛浪之中、船楼裝高、邂逅顛危、奈社稷何。是以利輒敢以死争。」権於是貴重之、自此後不復名之、常呼曰谷。 六年春正月諸将、獲彭綺。閏月、韓当子綜、以其衆降魏。七年春三月封子慮、為建昌侯。罷東安郡。夏五月鄱陽太守周魴、偽叛、誘魏将曹休。秋八月権、至皖口。使将軍陸遜、督諸将、大破休於石亭。大司馬呂範、卒。是歳、改合浦為珠官郡〔一〕。 〔一〕江表伝曰、是歳将軍翟丹叛如魏。権恐諸将畏罪而亡、乃下令曰「自今諸将有重罪三、然後議。」

閉じる