孫呉 > 滕胤・孫峻・孫綝・濮陽興伝

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劉繇と通婚した貴公子:滕胤伝

滕耽・滕冑が、劉繇を頼る

滕胤、字承嗣、北海劇人也。伯父耽、父冑、与劉繇、州里通家。以世擾乱、渡江、依繇。孫権為車騎将軍、拝耽、右司馬。以寛厚称、早卒、無嗣。冑、善属文。権待以賓礼、軍国書疏、常令損益潤色之。亦不幸短命。

滕胤は、字を承嗣といい、北海の劇県のひと。伯父の滕耽・父の滕冑は、劉繇と、州里(同郷)であり、通婚した。

北海の国の治所は劇県。『魏志』武帝紀 建安三年に見える。
劉繇は、東莱の牟平の人。北海と同じく青州に属する。ゆえに「州里」という。ぼくは思う。孫呉には、劉繇つながりで所属した人がおおい。いちど劉繇を頼り、劉繇が袁術・孫策に敗れたので、孫呉に属したと。そう考えると、孫呉が北来名士を吸収した要因のひとつは、一時的にでも劉繇が揚州刺史・牧であったこと。劉繇の求心力がなければ、みんな南渡しなかった。
転じて、劉繇が、袁術にとって、かなり協力なライバルだったと分かる。

世が擾乱すると、渡江して劉繇を頼った。孫権が車騎将軍になると、滕耽を右司馬に拝した。寛厚を以て称せられ、早くに卒し、嗣なし。滕冑は、属文を善くす。孫権は、賓礼で待し、軍国の書疏は、つねに滕冑に損益・潤色させた。滕冑もまた、不幸にして短命であった。

北海滕氏は、劉繇と通婚する家柄なので、劉繇の配下にいた。成り行きで、孫権の配下になった、滕胤の父世代は、文化資本によって孫権のブレーンとなったが、ブレーンの一員を出なかった。際立った重臣とは言えない。そこから、滕胤の登場です。


完璧なる白面の貴公子

権為呉王、追録旧恩、封胤都亭侯。少有節操、美容儀〔一〕。
〔一〕呉書曰、胤年十二、而孤単立、能治身厲行。為人白晳、威儀可観。毎正朔朝賀脩勤、在位大臣見者、無不歎賞。

孫権が呉王になると、旧恩を追録し、滕胤を都亭侯に封じた。 滕胤は、少くして節操あり、容儀が美かった。
『呉書』によると、滕胤が12歳のとき父を失って、1人となったが、身を治めて修養に励んだ。人となりは白晳(色白)で、威儀は観るべきものがあった。正朔ごとに朝賀に出席し、在位の大臣が会うと、みな歎賞した。

弱冠尚公主。年三十、起家為丹楊太守、徙呉郡、会稽、所在見称〔二〕。
〔二〕呉書曰、胤上表陳及時宜、及民間優劣、多所匡弼。権以胤故、増重公主之賜、屡加存問。胤毎聴辞訟、断罪法、察言観色、務尽情理。人有窮寃悲苦之言、対之流涕。

弱冠のとき公主をめとる。30歳で起家して、丹楊太守となり、呉郡・会稽に移り、任地で称賛された。

孫奐伝によると、滕胤・呂拠は、どちらも孫壱の妹をめとった。

『呉書』によると、滕胤は上表して、発言は時宜や、民間の優劣に及び、多くが匡弼となる(政策を改め正すのに役立つ)意見であった。孫権は滕胤が故なので(旧知なので? 実績があるから?)、(滕胤の妻である)公主に対する賜与を、増やし重ね、しばしば訪問して話をした。滕胤は辞訟を聴くごとに、罪法を断じ、言を察し色を観て(発言と様子を観察し)、務めて情理を尽した。窮寃・悲苦の言があれば、向き合って流涕してあげた。

劉繇の姻戚であり、白面のルックスに威儀が加わり、公主をめとって孫権に特別扱いされ、しかも政治も裁判も情理を尽くしたものだった。完璧すぎる。


孫権に遺詔をもらう

太元元年、権寝疾、詣都、留、為太常。与諸葛恪等、俱受遺詔輔政。孫亮即位、加衛将軍。恪将悉衆伐魏。胤諫恪曰「君、以喪代之際、受伊霍之託、入安本朝、出摧強敵、名声振於海内、天下莫不震動、万姓之心冀得蒙君而息。今、猥以労役之後、興師出征、民疲力屈、遠主有備。若、攻城不克、野略無獲、是、喪前労而招後責也。不如、案甲息師、観隙而動。且、兵者大事、事以衆済。衆苟不悦、君独安之」恪曰「諸云不可者、皆不見計算、懐居苟安者也。而子復以為然、吾何望焉。夫、以曹芳闇劣、而政在私門、彼之臣民、固有離心。今吾、因国家之資、藉戦勝之威。則何往而不克哉」以胤為都下督、掌統留事。

太元元年、孫権が危篤になると、滕胤は都に至り、留められて太常となった。諸葛恪らとともに、遺詔を受けて輔政することに。孫亮が即位すると、衛将軍を加えられた。諸葛恪は、全軍をひきいて伐魏した。滕胤は諸葛恪を諫めた。
「きみは、孫権が崩じるとき、伊尹・霍光のような遺託を与えられた。入りては本朝を安んじ、出でては強敵を摧き、名声は海内に振ひ、天下 震動せざるなし。万姓の心 冀はくは君を蒙りて息む(あなたのおかげで休息できる)ことを得んと。いま妄りに労役(孫権の山陵の造営・東関の土木工事)をした後に、出征すれば、民は疲れて力は屈し、遠主(魏の守将)は備へあり。もし攻城して勝てず、野戦で得るものがなければ、国力が疲弊します。慎重になるべきで、万民が望まないのに、あなたが1人で北伐したいだけです」

胡三省は、滕胤の発言を「深切にして著明」と評価する。
諸葛恪は、理想に燃えて(まるで諸葛亮のように)北伐に積極的であった。滕胤は、孫権の死後、内政を優先せよと言った。こちらのほうが、常識的・保守的というか、現状維持をスライドするのが、万民の願いであった。

諸葛恪「北伐に反対する者たちは、みな判断力がなく、現状に甘んじたいだけ。しかし、あなたも反対ならば、私は誰に(理解者となることを)望んだらいいのだろう。曹芳は闇劣で、政治は私門(司馬氏)にあり、かの臣民は、とっくに心が離れている。いま私は国家の資産をつかい、戦勝の勢いを借りようと思っている。北伐して勝てないことがあろうか」と。滕胤を都下督とし、留事を掌統させた。

都下督は、呉が設置した。


胤、白日接賓客、夜省文書、或通暁不寐〔一〕。 〔一〕呉書曰、胤寵任弥高、接士愈勤、表奏書疏、皆自経意、不以委下。

滕胤は、白日(昼)に賓客と接し、夜に文書を省て、あるいは通暁(徹夜)して眠らなかった。
『呉書』によると、滕胤の寵任はいよいよ高い。滕胤が士に接することは、いよいよ励み、表・奏・書・疏は、いずれも意向を反映させ、部下に任せきりにしなかった。

何焯によると、滕胤


列伝のぶつ切り

銭大昭によると、この列伝は、完結しておらず、脱文が疑われる。あるいは、『史記』張耳・陳余・魏其・武安伝の体裁と同じともいう。
劉咸炘によると、曽? の説によると、滕胤伝・孫峻伝は、列伝が未完のように書かれており、『史記』のようである。この巻は、合伝(複数の人物の列伝を繋げたもの)なのに、後世の人が誤って(別の列伝であると判定し)、提行(改行)したのかも知れない。孫峻伝を孫静伝に付けなかった(血縁を優先して巻の配置を決めなかった)のも、司馬遷・班固のやり方をマネている。1707017

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諸葛恪を殺し、権限を盗んだ孫峻伝

ぼくは思う。孫峻・孫綝とか、呉を揺るがす大いなる権臣というような気がするが(気のせいかも知れない)、孫峻は38歳で死に、孫綝は28歳で殺された。どちらも、若いなー。逆に、フレッシュなイメージのある諸葛恪は、殺されたとき51歳。さすが、孫権に幼帝を任された重鎮。ボス感がある!

諸葛恪を殺害し、執政となる

孫峻、字子遠、孫堅弟静之曾孫也。静生暠。暠生恭、為散騎侍郎。恭生峻。少便弓馬、精果胆決。孫権末、徙武衛都尉、為侍中。権臨薨、受遺輔政、領武衛将軍、故典宿衛、封都郷侯。既誅諸葛恪、遷丞相大将軍、督中外諸軍事、仮節、進封富春侯。

孫峻は、字を子遠といい、孫堅の弟の孫静の曾孫である。孫静は孫暠を生み、孫暠は孫恭を生み、散騎侍郎となる。孫恭は孫峻を生んだ。若きとき弓馬に便し、精果・胆決たり。孫権末、武衛都尉に徙り、侍中となる。

たくさんいる皇族の1人。まだ、輔政への道筋は見えない。

孫権が死ぬとき、遺を受けて輔政し、武衛将軍を領し、ゆえに宿衛を典り、

序列において、決してトップレベルの高位高官ではない。しかし、宿衛を掌るというのは、クーデターなどを実現しやすい、おいしい? ポジションではある。

都郷侯に封じられた。諸葛恪を誅すると、丞相・大将軍に遷り、督中外諸軍事、仮節となった。

孫峻が執政者になった理由は、諸葛恪の殺害。それに尽きそう。
孫権の末年、武衛都尉・侍中で、抜群の要職でなく、宗室の代表でもない(だれが代表なのかは、要検討)。孫権の遺詔を受けたとあるが、諸葛恪・滕胤らとセット。根拠なく史料を覆すのはダメですが、遺詔のメンバーであったことは、遡及的な制作と思われる。諸葛恪の殺害という、稀有なクーデターを起こすまでは、孫峻は、その他大勢だったのでは。傍系だし、若いし。
孫権が遺詔を託した諸葛恪・滕胤は、以前から信頼が厚いのが史料が分かる。孫峻は、宗室には違いないが、宗室のリーダー格とは思えない。孫権が(異姓に簒奪を恐れて?)遺詔に宗室を混ぜるとしても、敢えて孫峻が選ばれる理由が見えない。ただ、弓馬がうまかった、くらいしか逸話がない。やはり、諸葛恪の殺害でにわかに偉くなり、孫峻政権の正当性を作るため、遺詔の話が加上されたかと。
孫峻・孫綝が行使した権力って、諸葛恪からの丸パクリ。皇帝交替のタイミングに権限を拡大したり、昇進や兼務をくり返して権臣ポジションを作ったり、宗室や封建の制度をいじって利権を呼び込んだり…、そういう、王莽・曹操タイプの苦労をしたとすれば、孫呉では諸葛恪。座して食らったのが、二孫(孫峻・孫綝)。

進んで富春侯に封じられた。

本県(本貫の県)に封じられた。富春は、孫堅伝に見える。
呉郡呉県の爵位(呉侯)は、孫権の系統が持っている。これは、呉朝の国名の由来でもある。いっぽう、孫氏の本貫地の爵位は、孫峻のほうで確保して、権威づける。すぐれたアイディア。


滕胤、以恪子竦妻父、辞位。峻曰「鯀禹、罪不相及。滕侯何為。」峻胤、雖内不沾洽、而外相包容。進胤爵高密侯、共事如前〔一〕。
〔一〕呉録曰、羣臣上奏、共推峻為太尉、議胤為司徒。時有媚峻者、以為大統宜在公族、若滕胤為亜公、声名素重、衆心所附、不可貳也。乃表以峻為丞相、又不置御史大夫、士人皆失望矣。

滕胤は、諸葛恪の子である諸葛竦の妻の父であるから、(諸葛恪に連坐して)官位を辞した。孫峻「鯀・禹は、父子の罪が及ばなかった。滕侯にも、どうして及ぶものか」

舜は、鯀の失敗を罪としたが、鯀の子である禹には、その罪を及ぼさずに、禹を抜擢した。つまり、諸葛恪は罪人だが、諸葛竦は罪人ではなく、ましてその妻の父(岳父)である滕胤は、罪人ではないと。

孫峻・滕胤は、内面では打ち解けていなかったが、外形では尊重しあった。滕胤の爵位を、高密侯に進め、ともに政治をするのは以前と同じ。

高密は、『魏志』王修伝に見える。高密は、北海に属し、このとき魏領であるから、虚封である。
ぼくは思う。孫峻は、諸葛恪の殺害しか、執政の正当性がない。宗室であるだけでは、トップにいられない。だから、諸葛恪と同レベルの名士で、孫権から信頼された、滕胤を必要とした。滕胤も、諸葛恪のように、孫峻に殺されたらイヤだ。滕胤が、諸葛恪との血縁を理由に、辞職を申し出たことから、そういう発想があることは分かる。だから、孫峻と距離を探りながら、しかし政権には協力して、保身をはかるしかない。


『呉録』によると、群臣は上奏し、ともに孫峻を推して太尉とし、滕胤を司徒にせよといった。ときに孫峻に媚びる者は、大統のためには公族がつくべきで、もし滕胤が公に次げば(孫峻の次位となれば)、声名は素より重いから、衆心が集まり、ナンバー2に止まらないとした。そこで上表して孫峻を丞相とし、御史大夫を置くな(滕胤を三公に並べるな)といった。士人はみな失望した。

胡三省によると、漢朝は秦制をうけ、御史大夫をおき、丞相の副とし、衆事をおさめさせた。いま孫峻が孫峻が丞相となり、御史大夫を置かなければ、呉国の政治を孫峻だけが専らにすることとなり、ゆえに国人は失望した。
ぼくは思う。孫峻は、バブルで権力を持っているだけで、実績・人脈・名声・才能など、すべて足りない。順当にするなら、滕胤が宰相になるべき。ゆえに、孫峻に媚びた者が、滕胤を警戒している。


2回にわたって、殺されかける

峻素無重名、驕矜険害、多所刑殺、百姓囂然。又、姦乱宮人、与公主魯班私通。五鳳元年、呉侯英、謀殺峻。英事泄死。

孫峻には重名がなく、驕矜で険害、多く刑殺したから、百姓は囂然と騒いだ。さらに宮人を姦乱し、孫魯班と私通した。

康発祥はいう。孫峻は、孫権の従孫である。魯班と私通したのは、子がおばと通じたようなものである。

五鳳元年、呉侯の孫英が、孫峻を殺害しようとしたが、もれて孫英が死んだ。

孫英は、孫登の子である。孫英が死んだことは、孫登伝にも見える。司馬の桓慮は、孫峻を殺して孫英を立てようとして、桓慮も死んだ。『呉歴』に見える。
ぼくは思う。孫英が代わりの候補となるから、孫峻は、「宗室権力」と言えるのだろう。しかし、孫魯班と私通しているのだから、血縁はかなり無視して振る舞っている。孫呉は、孫権・諸葛恪を失って、スキマから、孫峻のような小物が出てきたような感じ。


二年、魏将毌丘倹、文欽、以衆叛、与魏人戦於楽嘉。峻、帥驃騎将軍呂拠、左将軍留賛、襲寿春。会欽敗降、軍還〔二〕。

五鳳二年、魏将の毌丘倹・文欽は、兵をひきいて叛した。魏人と楽嘉で戦った。孫峻は、驃騎将軍の呂拠・左将軍の留賛をひきい、寿春を襲った。たまたま文欽が(魏に)敗れて降ったから、軍は還った〔二〕。

楽嘉は、『魏志』高貴郷公紀 正元二年にある。この戦いについては、孫亮伝の五鳳二年にある。

〔二〕注引『呉書』の載せる留賛伝は、このページの下に切り出す。

是歳、蜀使来聘。将軍孫儀、孫邵、綝恂等、欲因会殺峻。事泄、儀等自殺、死者数十人。并及公主魯育。

この歳、蜀使がきた。将軍の孫儀・孫邵・綝恂らは、外交の会見の席で、孫峻を殺そうとした。

孫亮伝 五鳳二年秋七月、将軍の孫儀・張怡・林恂らは、孫峻の殺害を謀り、発覚した。孫儀は自殺し、林恂らは伏辜した(罪に服した)とある。
『通鑑』もまた、孫儀・張怡・林恂に作る。この孫峻伝に見える「孫邵・綝恂」は、誤りであろう。李龍官・趙一清も、同じように指摘するという。

発覚して、孫儀らは自殺し、死者は数十人である。罪は、公主の孫魯育にまで及んだ(孫峻は、孫魯育を殺害した)。

孫魯育は、朱公主のこと。朱拠に嫁いだ。康発祥によると、孫峻は孫魯班(孫魯育の姉)と私通しており、魯班がそしって、魯育を殺させたという。列伝のなかで、事実が仄めかされるだけで、罪の実際は分からない。


文欽を助け、伐魏を試みる

峻欲城広陵。朝臣、知其不可城、而畏之莫敢言。唯滕胤諫止、不従。而、功竟不就。

孫峻は、広陵に築城しようとした。

孫亮伝によると、衛尉の馮朝に、広陵で築城させた。
けっきょく権臣が地位を固めるのは、外征をして、戦果を挙げることだけ。北伐が好きな諸葛恪を殺害し、政権をにぎった孫峻だが、進む方向はけっきょく同じ。バリエーションなし。文欽に、へんに期待させられ、孫峻は後戻りができなくなった。

朝臣は、そこに築城できないことを知っていたが、孫峻を畏れて、反対できなかった。ただ滕胤だけが諫止したが、孫峻はゴリ押しした。築城は失敗した。

其明年、文欽説峻征魏。峻、使欽与呂拠、車騎劉纂、鎮南朱異、前将軍唐咨、自江都、入淮泗、以図青徐。峻、与胤、至石頭、因餞之、領従者百許人、入拠営。拠御軍斉整、峻悪之、称心痛去。遂夢、為諸葛恪所撃、恐懼、発病死。時年三十八。以後事、付綝。

その翌年、

ふつうなら太平元年と書けば良いが、太平への改元は十月である。正確には「五鳳三年」であるが、分かりにくいので、このように書き方になったという。

文欽が孫峻に征魏を説いた。孫峻は、文欽と呂拠・車騎将軍の劉纂・鎮南将軍の朱異・前将軍の唐咨を使わして、江都から淮泗に入り、

江都は、孫策伝に見える。胡三省によると、江都県は広陵郡に属し、これは邗溝から淮水に入り、淮水から泗水に入ったのである。

青州・徐州をねらった。

胡三省によると、魏の青州は、斉・済南・楽安・城陽・東莱を統べる。魏の徐州は、下邳・彭城・東海・琅邪・東莞・東安・広陵・臨淮を統べる。盧弼によると、魏の青州は、北海も含むから、胡三省はモレている。魏の徐州には、臨淮がなく、胡三省は『晋書』地理志に引きずられて誤っている。しかし『晋書』臨淮郡のところには、魏代に存在しない(後漢の章帝が下邳に合わせ、太康元年に再び立てた)とあるから、胡三省の見落としである。

孫峻は滕胤とともに、石頭に至り、そこで餞別し、

石頭は、孫権伝 建安十六年にある。

従者1百人ばかりを率い、呂拠の軍営に入った。呂拠の軍の統御は、斉整としている。孫峻はこれをにくみ、胸が痛いといった。夢を見て、諸葛恪に殴られた。恐懼し、発病して死んだ。38歳だった。後事を孫綝に付託した。170717

なぜ、孫峻が呂拠の統御ぶりを悪んだのか。あとで呂拠についても読む。

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滕胤・呂拠を殺し、孫亮を廃した孫綝伝

呂拠を排除する

孫綝、字子通、与峻同祖。綝父綽、為安民都尉。綝、始為偏将軍、及峻死、為侍中武衛将軍、領中外諸軍事、代知朝政。呂拠、聞之大恐、与諸督将連名、共表薦、滕胤為丞相。綝、更以胤為大司馬、代呂岱駐武昌。

孫綝は、字を子通といい、孫峻と祖父が同じ。孫綝の父は孫綽で、安民都尉(一人、呉が置く)となる。孫綝は、はじめ偏将軍となる。孫峻が死ぬと、侍中・武衛将軍、領中外諸軍事となり、代わりに朝政を知ろした。

武衛将軍は、孫峻が孫権末期に「武衛都尉」だったことに関連するか。しかし、孫峻が死ぬまで、孫綝は偏将軍に過ぎなかったのだから、やはり、人柄・実績・名声などに基づく就任ではない。

呂拠は、これを聞いて大いに恐れ、

盧弼によると、大いに「怒り」とすべき。呂拠伝によると、太平元年、軍をひきいて魏を侵した。いまだ淮水に及ばず、孫峻が死に、従弟の孫綝が代わったと聞いた。呂拠は大いに怒り、軍を引いて還り、孫綝を廃そうとしたと。『通鑑』は、「呂拠は孫綝が孫峻に代わって輔政すると聞いて、大いに怒った」とある。やはり「怒った」が正しい。

諸々の督将と連名し、ともに上表して、滕胤を丞相に薦めた。孫綝は、あらためて滕胤を大司馬とし、呂岱に代えて武昌に駐らせた。

滕胤は、武昌に追い出され、孫綝の立場は安泰になった。滕胤は、劉繇と婚姻し、公主をめとり、孫権の遺詔を諸葛恪とともに受けた。孫峻が諸葛恪を殺害してゲリラ的に執政者となり、軍中で孫峻が死ぬと、孫綝がゲリラ的に後継者となった。孫峻の地位からして、内実の裏づけがないから、同じく裏づけのない孫綝でも務まる。こうして孫呉は、皇帝は幼く、執政者は愚かだが、保身の陰謀だけは長けており、国家が萎縮していく。
滕胤は、名臣たちのホープとして生き続けるから、この巻の列伝で、滕胤伝がぶつ切れのような書き方になった。


拠、引兵還、使人報胤、欲共廃綝。綝聞之、遣従兄慮、将兵逆拠於江都。使中使、敕文欽、劉纂、唐咨等、合衆撃拠。遣侍中左将軍華融、中書丞丁晏、告胤取拠、并喻胤宜速去意。胤、自以禍、反、因留融晏、勒兵自衛。召典軍楊崇、将軍孫咨、告以綝為乱、迫融等使有書難綝。綝、不聴、表言、胤反。

呂拠は、兵を引いて還り、人をやって滕胤に連絡し、ともに孫綝を廃そうとした。孫綝はこれを聞き、従兄の孫慮(正しくは孫憲)を遣わし、兵をひきいて呂拠を江都で迎え撃った。

銭大昕によると、下文に「孫峻の従弟の孫慮」とある。けだし孫慮は、孫峻の従弟であって、孫綝の従兄であり、同一人物である。三嗣主伝は「孫憲」に作るが、字形が似てるから混同され、「孫憲」が正しいであろう。孫権の次子に、建昌侯の孫慮がいるから、孫峻の従弟が同名ということはあるまい。『官本攷證』および趙一清も同じ、『通鑑』も「孫憲」に作る。

中使を使わし、文欽・劉纂・唐咨らに敕して、兵を合わせて呂拠を撃たせる。侍中・左将軍の華融・中書丞の丁晏は、

胡三省によると、魏晋の制では、中書に丞はない。この中書丞は、呉が置いたもの。

滕胤に「呂拠を捕らえるのだ」と告げ、あわせて滕胤に、速く去るように諭した。滕胤は、禍いが迫っているので、引き返し、華融・丁晏を留めて(軟禁して)、兵を勒して自衛した。典軍の楊崇・将軍の孫咨を召して、孫綝が乱をなしたと告げ、華融らにせまって文書を作って孫綝を難詰した。孫綝は聴かず、上表して「滕胤が反した」と言った。

諸葛亮の死後も、魏延が反しただの、いや楊儀が反しただの、ガキの喧嘩が行われた。国家から人物がいなくなると、こういうことが起きる。この場合は、順当にいけば、執政の資格がない孫綝が、執政者になるべき呂拠を恐れて、暴発したかたち。


許将軍劉丞以封爵、使率兵騎、急攻囲胤。胤、又劫融等、使詐詔、発兵。融等不従。胤、皆殺之〔一〕。

孫綝は、将軍の劉丞に封爵を与えることを許し(約束し)、兵騎をひきいて、急ぎ攻めて滕胤を囲ませた。滕胤は、華融らを脅して、詔を詐らせ(皇帝の命令だとして)兵を発そうとした。華融らは従わない。滕胤は華融ら(丁晏も)を殺した。

◆華融伝(裴松之注)

〔一〕文士伝曰、華融字徳蕤、広陵江都人。祖父避乱、居山陰蕊山下。時皇象亦寓居山陰、呉郡張温来就象学、欲得所舍。或告温曰「蕊山下有華徳蕤者、雖年少、美有令志、可舍也。」温遂止融家、朝夕談講。俄而温為選部尚書、乃擢融為太子庶子、遂知名顕達。融子諝、黄門郎、与融并見害。次子譚、以才辯称、晋秘書監。

『文士伝』によると、華融は、字を徳蕤といい、広陵の江都の人。祖父が乱を避け、山陰の蕊山のもとに居した。ときに江都の皇象もまた山陰に寓居した。

皇象のことは、趙達伝 注引『呉録』にある。皇象は、江都の人で、華融と同県。

呉郡の張温が来て、皇象に学問を習うため、住居を探した。あるひとが張温に、「蕊山のもとに華徳蕤なる者がいる。年は若いが、令志があり、住まわしてくれるはず」と。張温は華融の家に泊まり、朝夕に談講した。にわかに張温が選部尚書となり、華融を太子庶子に抜擢し、ついに名を知られて顕達した。華融の子の華諝は、黄門郎となり、華融とともに(滕胤に)殺害された。次子の華譚は、才辯をもって称せられ、晋で秘書監となった。

趙一清はいう。『晋書』華譚伝によると、祖父の華融は、呉の左将軍・録尚書事。父の華諝は、呉の黄門郎である。この裴注『文士伝』によると、華譚は華融の次子であり、『晋書』と異なる。盧弼によると、「次子の華譚」は、「華諝の子の華譚」とすべきで、そうすれば『晋書』と合う。ワカンネ


胤顔色不変、談笑若常。或勧胤、引兵至蒼龍門、将士見公出、必皆委綝、就公。時夜已半、胤、恃与拠期、又難挙兵向宮。乃約令部典、説、呂侯以在近道。故、皆為胤尽死、無離散者。時、大風、比暁、拠不至。綝、兵大会、遂殺胤及将士数十人、夷胤三族〔二〕。
〔二〕臣松之以為孫綝雖凶虐、与滕胤宿無嫌隙、胤若且順綝意、出鎮武昌、豈徒免当時之禍、仍将永保元吉、而犯機觸害、自取夷滅、悲夫。

滕胤の顔色は変わらず(華融・丁晏を殺したのに)いつもどおり談笑した。あるひとが滕胤に、「兵をひきいて蒼龍門(建業宮の東門)にいけ。将士は、あなたが出てくるのを見れば、みな必ず孫綝を捨て、あなたに就く」といった。ときに夜半をすぎ、滕胤は、呂拠と落ちあうのを期待し、また宮殿に向けて兵を挙げるのは(皇帝に敵対することとなり)難しいので、部曲に号令し、「呂侯が近くまで来ている」と伝えた。ゆえに、みな滕胤のために死力を尽くすつもりで、だれも離散しない。ときに大風がふき、暁ごろになっても、呂拠は到着しなかった。孫綝は、兵を集め、ついに滕胤および将士数十人を殺し、滕胤を夷三族とした。

孫峻は諸葛恪を殺害し、孫綝は滕胤を殺害することで、在地基盤・名声・官僚としての実績などを無視して、執政者になった。クーデターにより、席次を飛び越えたのが同じ。孫峻から孫綝は、「従兄弟による順当な権力継承」ではなく、呂拠や、群臣が丞相に推薦する滕胤の殺害により、暴力を媒介にして、初めて可能になった。

裴松之が考えるに、孫綝は凶虐であったが、滕胤とは宿怨があったのではない。滕胤がもし孫綝の意向に従い、武昌に出鎮したら、どうしてムダに禍いを受けることがあろうか。自ら族殺を招き寄せたようなもので、悲しいね。

孫綝の執政

綝遷大将軍、仮節、封永寧侯。負貴、倨傲、多行無礼。初、峻従弟慮、与誅諸葛恪之謀。峻、厚之、至右将軍、無難督、授節蓋、平九官事。綝、遇慮薄於峻時。慮怒、与将軍王惇、謀殺綝。綝、殺惇。慮、服薬死。

孫綝が大将軍に遷り、仮節、永寧侯に封じられた。

銭大昕によると、三嗣主伝は「永康侯」に作り、三嗣主伝のほうが誤りである。同時に、張布が永康侯だからである。盧弼によると、永寧は、虞翻伝に見え、永康は孫休伝 永年五年にある。

貴たるに負ひ、倨傲たり。多く無礼を行ふ。はじめ孫峻の従弟の孫慮(正しくは孫憲)は、諸葛恪の殺害の謀略に参加した。孫峻はこれを厚遇し、右将軍・無難督に至り、節蓋を授け、九官事を平させた。

九官は、九卿のこと。魏の明帝の太和二年、呉朱が建業に還り、尚書・九卿を武昌に留めたとある。「節蓋を授けた」というのは、陳寿の原文の誤りだろう。

孫綝は、孫峻の執政期に、孫慮を軽んじたことがある。孫慮は怒り、将軍の王惇とともに、孫綝を殺そうとした。孫綝は王惇を殺した。孫慮は、服毒して死んだ。孫休伝 太平元年にも見える事件である。

諸葛誕との連携

孫綝伝というより、呉の本紀に入れるべき記述。

魏大将軍諸葛誕、挙寿春叛、保城請降。呉遣文欽、唐咨、全端、全懌等、帥三万人。救之。魏鎮南将軍王基、囲誕。欽等突囲入城。魏、悉中外軍二十餘万、増誕之囲。朱異、帥三万人屯安豊城、為文欽勢。

諸葛誕が寿春で魏に叛き、城を保って(呉に)降を請う。呉は、文欽・唐咨・全端・全懌ら、三万人を遣わして救う。魏の鎮南将軍の王基が、諸葛誕を囲い、文欽らは囲に突して入城した。

諸葛誕伝によると、鎮南将軍の王基が至り、諸軍を督して寿春を囲むが、未だ合せず。唐咨・文欽らは、城の東北より山に因り険に乗じ、突撃して入城できた。

魏は中外の軍20餘万で、諸葛誕の囲みを増やす。

大将軍の司馬昭は、内外の諸軍26万を督して、淮水に臨んでこれを討つ。王基と安東将軍の陳騫らに四面から囲ませ、表裏をさらに重ねた。

朱異は3万人をひきい、安豊城に屯し、文欽を(外から)援護する。

安豊は、斉王芳紀 嘉平五年に見える。胡三省によると、安豊県は、官は廬江郡に属し、魏は分けて安豊郡に属させた。


魏兗州刺史州泰、拒異於陽淵。異、敗退、為泰所追、死傷二千人。綝、於是大発卒出、屯鑊里、復遣異率将軍丁奉、黎斐等、五万人攻魏。留輜重於都陸。異、屯黎漿、

魏の兗州刺史の州泰は、朱異を陽淵で防ぐ。

『水経』巻三十二 決水に、「決水又北,右會陽泉水,水受決水,東北流逕陽泉縣故城東,故陽泉郷也。漢獻帝中,封太尉黃琬為侯國。又西北流,左入決水,謂之陽泉口也」とあり、『三国志集解』に引く胡三省注は、これに情報を補う。趙一清によると、『方輿紀要』巻二十一に、陽淵は、陽泉である。満寵伝に見える。陽宜口である。謝鍾英によると、『水経注』では施水は支津は下り注いで陽淵となり、その値は芍陂の東南であり、安豊の兵勢と相接しない。周泰が屯した陽淵は、いまの霍丘の東、寿州の西である。

朱異は敗退し、周泰に追われ、死傷すること2千人。孫綝が大軍を発し、鑊里に屯し、ふたたび朱異に将軍の丁奉・黎斐ら5万をひきいさせ、魏を攻めた。輜重を都陸に留めた。朱異は、黎漿に屯し、

钁里は、孫亮伝 太平二年に見える。
胡三省によると、『水経注』に博郷県があり、王莽が楊陸に改めた。泄水がここから出る。北のかた芍陂を過ぎ、西北のかた淮水に入る。つまり、都陸は楊陸のことか。『晋紀』によると、戸陸は黎漿の南にある。謝鍾英によると、都陸は、寿州の芍陂の東南にある。
黎漿は、諸葛誕伝に見える。


遣将軍任度、張震等、募勇敢六千人、於屯西六里、為浮橋、夜渡、築偃月塁。為魏監軍石苞及州泰所破、軍却退、就高。異、復作車箱囲、趣五木城。苞泰攻異、異敗帰。而魏太山太守胡烈、以奇兵五千、詭道襲都陸、尽焚異資糧。綝、授兵三万人、使異死戦、異不従。綝、斬之於鑊里、而遣弟恩、救。会誕敗、引還。綝、既不能抜出誕、而喪敗士衆、自戮名将。莫不怨之。

(朱異は)将軍の任度・張震らを派遣し、勇敢な6千人を募り、西6里に屯し、浮橋をつくり、夜に渡り、偃月塁を築いた。魏の監軍の石苞および州泰に破られ、軍は却退し、高みに就いた。朱異は、ふたたび車箱を作って囲み、五木城に趣く。石苞・周泰は朱異を攻め、朱異は敗れて帰った。魏の太山太守の胡烈は、奇兵5千で、道を詭して都陸を襲い、尽く朱異の資糧を焚いた。

『晋書』文帝紀によると、朱異の残兵は食糧がないから、葛葉を食べて逃げた。

孫綝は兵3万人を授け、朱異に死戦させようとしたが、朱異は従わず。孫綝は、朱異を鑊里で斬った。弟の朱恩を遣わし(諸葛誕を)救おうとした。たまたま諸葛誕が敗れたから、引き還した。孫綝は、すでに諸葛誕を抜き出せず、士衆を喪敗し、自ら名将を戮したから、みなから怨まれた。孫亮伝 太平二年および朱異伝 注引『呉書』に整合する。

朱異を斬ったのは、どういう心境・事情か。掘り下げるべき。


孫亮を廃位する

これも、孫綝伝よりは、孫亮伝に入れるべき内容か。

綝以孫亮始親政事、多所難問、甚懼。還建業、称疾、不朝。築室于朱雀橋南、使弟威遠将軍拠、入蒼龍宿衛。弟武衛将軍恩、偏将軍幹、長水校尉闓、分屯諸営、欲以専朝自固。亮、内嫌綝、乃推魯育見殺本末。責怒、虎林督朱熊、熊弟外部督朱損、不匡正孫峻。乃令丁奉、殺熊於虎林、殺損於建業。綝入諫、不従。亮、遂与公主魯班、太常全尚、将軍劉承、議誅綝。亮妃、綝従姊女也、以其謀告綝。綝、率衆夜襲全尚、遣弟恩、殺劉承於蒼龍門外。遂、囲宮〔一〕。<

孫綝は、孫亮が親政を始めると、多く難詰され、ひどく懼れた。建業に還ると、疾と称して、朝せず。室を朱雀橋の南に築き、弟の威遠将軍の孫拠を使わし、蒼龍に入って宿衛させた。

『方輿紀要』によると、朱雀橋は、いまの江寧府の聚宝門の内の鎮淮橋のこと。
『通鑑』は「蒼龍」の下に「門」字があり、蒼龍門とする。

弟の武衛将軍の孫恩・偏将軍の孫幹・長水校尉の孫闓は、諸営に分屯し、朝政を専らにして権勢を(孫綝の兄弟で)固めようとした。孫亮は、内では孫綝をきらい、しかも孫魯育(朱公主)が(孫峻に)殺された本末を調査した。
孫亮は、虎林督の朱熊と、朱熊の弟である外部督の朱損が、孫峻を匡正しなかったことを、責めて怒った。丁奉に朱熊を虎林で殺させ、朱損を建業で殺させた。

虎林は、孫権伝 太元二年にある。胡三省によると、呉の外部督は、建業の外で督兵した。

孫綝は入りて諫めたが、孫亮は従わず。孫亮は、ついに公主魯班・太常の全尚・将軍の劉承(正しくは劉丞)とともに、孫綝の誅殺を議した。孫亮の妃は、孫綝の従姉女である。孫綝に密告した。

注引『江表伝』によると、孫亮は、こんなに同時にみんなに相談せず、全紀に相談する。どちらが正しいのか、裴松之注や『三国志集解』は意見が割れている。

孫綝は、兵をひきいて全尚を夜襲し、弟の孫恩を派遣し、劉承を蒼龍門外で殺した。ついに宮を囲んだ。

〔一〕江表伝曰、亮召全尚息黄門侍郎紀密謀、曰「孫綝専勢、軽小於孤。孤見敕之、使速上岸、為唐咨等作援、而留湖中、不上岸一歩。又委罪朱異、擅殺功臣、不先表聞。築第橋南、不復朝見。此為自在、無復所畏、不可久忍。今規取之、卿父作中軍都督、使密厳整士馬、孤当自出臨橋、帥宿衛虎騎、左右無難一時囲之。作版詔敕綝所領皆解散、不得挙手、正爾自得之。卿去、但当使密耳。卿宣詔語卿父、勿令卿母知之、女人既不暁大事、且綝同堂姊、邂逅泄漏、誤孤非小也。」

『江表伝』によると、孫亮は全尚の息子である黄門侍郎の全紀を召して密謀した。「孫綝は勢を専らにし、孤を軽小(幼少として軽視)する。(諸葛誕の戦いのとき)孤が命令し、速やかに岸に上り、唐咨らを救援せよと言ったが、湖中に留まって、岸に一歩も上らなかった。また朱異をかってに有罪とし、ほしいままに功臣を殺し、先に上表で断りを入れなかった。第を橋の南に築き、もう朝見しない。自由にやりすぎて(君主を無視し)、もう畏れることがないようで、久しくは見過ごせない。いま孫綝を捕らえようと計画している。きみの父は中軍の都督なので、

全紀の父は衛将軍で、胡三省によると、衛将軍は中軍を督する。

ひそかに士馬を厳整せよ。私は自ら出て(朱雀)橋に臨み、宿衛の虎騎・左右の無難をひきい、一斉に孫綝を囲む。

胡三省によると、呉には左右無難督があり、無難の営兵を督する。

版詔をつくって、孫綝の領する兵を解散させる。手を挙げられず(抵抗できず)私の言うとおりになるはずだ。きみが行って、ひそかに伝達し決行させよ。きみはこの詔を父に伝え、母には知らせるな。女人は大事が理解できず、しかも孫綝と同堂の姉(孫綝と祖父が同じ?)なので、会えば漏らしてしまう」と。

(江表伝つづき)紀承詔、以告尚、尚無遠慮、以語紀母。母使人密語綝。綝夜発厳兵廃亮、比明、兵已囲宮。亮大怒、上馬、帯鞬執弓欲出、曰「孤大皇帝之適子、在位已五年、誰敢不従者。」侍中近臣及乳母共牽攀止之、乃不得出、歎咤二日不食、罵其妻曰「爾父憒憒、敗我大事。」又呼紀、紀曰「臣父奉詔不謹、負上、無面目復見。」因自殺。孫盛曰、亮伝称亮少聡慧、勢当先与紀謀、不先令妻知也。江表伝説漏泄有由、於事為詳矣。

全紀は詔を承け、全尚に告げた。全尚は思慮もなく、全紀の母(全尚の妻=孫綝の姉)に語った。全紀の母は、ひそかに孫綝に告げた。孫綝は因るに厳兵を発して孫亮を廃する。明ごろ、兵はすでに宮殿を囲む。孫亮は大怒し、上馬し、鞬(弓矢の器を収める袋)を帯びて弓を執り、出ようとして、「われは大皇帝の適子(嫡子)であり、在位することすでに5年、だれが敢えて従わないものか」と。侍中・近臣および乳母は、ともに引きつれ、すがりついて止めた。進発できず、歎息して2日食べなかった。
孫亮は、その妻(全皇后)を罵って、「きみの父は憒憒(悶悶)として(妻である全紀の母に打ち明けてしまい)、わが大事を敗れさせた」と。また孫亮は、全紀を呼んで(とがめた)。全紀「わが父が詔を奉りながら謹まず、主上にそむいた。顔向けできない」と自殺した。
孫盛によると、孫亮伝に「孫亮は若くして聡慧」とあるから、さきに全紀に相談したはずで、先に妻に知らせなかったに違いない。『江表伝』のように作戦が漏泄したほうが、整合性が有り、事実を詳らかに伝えていよう。

林国賛によると、孫亮の妃は、全尚の娘である。本伝によれば、孫亮の密謀をもらしたのは、全尚の娘(孫亮の妃)であるが、注引『江表伝』によれば全尚の妻(孫綝の姉)である。妃嬪伝によれば、この計画がもれると、全尚の娘(孫亮の妃)は、孫亮とともに廃位され、全尚の家属はおおむね逼り殺された。もし漏らしたのが全尚の妻(孫綝の姉)であり、全尚の娘(孫亮の妃)でないなら、孫綝はなぜ彼を殺して此を釈くこと(全尚の娘を生かすこと?)を肯んじたか。ゆえに、(漏泄したのが)全尚の娘(孫亮の妃)であるというのも、また疑わしく、父母と天子孫亮が共謀しているのを知らなかったことになる。そうでなければ、父母が共謀しているのを見て、これを漏らして、父母が殺害され、彼女自身も天子とともに廃されたのだから、大愚である。孫盛は『江表伝』を採用し、本伝を退けるが、見識がないと言えよう、と。
盧弼はいう。全尚の妻は、孫峻の姉である(朱夫人伝)。孫亮の妃は、全尚の娘である。『江表伝』は誤りである(『江表伝』を支持した孫盛も誤りである)。
錯綜しており、よく分かりません、、宿題。


孫亮を廃して、孫休を立てる

使光禄勲孟宗、告廟廃亮、召羣司、議曰「少帝、荒病昏乱、不可以処大位。承宗廟、以告先帝、廃之。諸君若有不同者、下異議」皆震怖、曰「唯将軍令」綝、遣中書郎李崇、奪亮璽綬。以亮罪状、班告遠近。尚書桓彝、不肯署名、綝怒殺之〔二〕。
〔二〕漢晋春秋曰、彝、魏尚書令階之弟。呉録曰、晋武帝問薛瑩呉之名臣、瑩対称彝有忠貞之節。

(孫綝は)光禄勲の孟宗をして、廟に孫亮を廃することを告げさせ、

何焯によると、孟宗は大節なく孫綝に加担しており、(曹髦を裏切った、魏の)王祥と同じである。

群司を召し、議して「少帝は、荒病で昏乱であり、大位に処ることができない。宗廟を承け、以て先帝に告げ、これを廃する。諸君のなかで、もしも同意しないものがあれば、異議を下せ」と。みな震怖し、「ただ将軍の言うとおりに」と。孫綝は、中書郎の李崇をつかわし、孫亮の璽綬を奪った。孫亮の罪状を、遠近に班告した。尚書の桓彝は、孫亮の罪状に同意署名せず、孫綝が怒ってこれを殺した。
『漢晋春秋』によると、桓彞は、魏の尚書令の桓階の弟である。
『呉録』によると、晋武帝が薛瑩に呉の名臣について問うと、薛綜はこたえて、桓彞を「忠貞の節あり」と称えた。

趙一清によると、『困学紀聞』によると、孫呉に桓彞がおり、東晋にも桓彞がいた。同姓同名の忠臣である。


典軍施正、勧綝徴立琅邪王休、綝従之。遣宗正、楷奉書於休曰「綝以薄才、見授大任、不能輔導。陛下、頃月以来、多所造立、親近劉承、悦於美色、発吏民婦女、料其好者、留於宮内。取兵子弟十八已下三千餘人、習之苑中、連日続夜、大小呼嗟、敗壊蔵中矛戟五千餘枚、以作戯具。

典軍の施正は、孫綝に「(孫亮を廃して)徴して琅邪王休を立てよ」という。孫綝はこれに従い、宗正の孫楷を派遣して、孫休に文書を奉った。「わたくし孫綝は薄才なのに、大任を授かり、輔導できない。陛下は、月ごろ多くのことを(親政して)開始し、劉承を親近し、美色を悦び、吏民の婦女を発し、その良き者を見繕い、宮内に留める。兵の子弟の18歳以下3千余人をあつめ、苑中で軍事演習することが、連日連夜である。大小(貴賎)が歎息するには、蔵中の矛戟5千余枚を敗壊し、戯具の制作に充てていると。

孫綝は、「私の指導が悪いから、孫綝は、なんの役にも立たない少年兵の訓練や、武器や防具の制作に、宮中の貴重な財産を浪費している」と言っている。実態は、孫亮が孫綝に対抗するため、自らの手足となる軍隊を作っていることに、批判・牽制を加えている。しかし、孫綝が死んだとき、28歳だったのだから、孫亮・孫綝とも、どちらも幼く若い。少年兵といっても、孫綝とそれほど年齢が離れているわけではない。


(孫綝の言葉つづき)朱拠、先帝旧臣、子男熊損、皆承父之基、以忠義自立。昔殺小主、自是、大主所創。帝、不復精其本末、便殺熊損、諫不見用。諸下莫不側息。帝於宮中、作小船三百餘艘、成以金銀、師工昼夜不息。太常全尚、累世受恩、不能督諸宗親、而全端等、委城就魏。尚、位過重、曾無一言以諫陛下、而与敵往来、使伝国消息、懼必傾危社稷。推案旧典、運集大王。輒以今月二十七日、擒尚斬承。以帝為会稽王、遣楷奉迎。百寮喁喁、立住道側。」

朱拠は、先帝の旧臣であり、息子の朱熊・朱損は、どちらも父の素質を受けつぎ、忠義によって自ら立った。かつて、小主を殺し、これより、大主が創めたことでした。??

『三国志集解』は、小主・大主に注釈なし。ちくま訳は、朱熊・朱損が、小主(朱公主)を殺したのは、大主(全公主)の企てに従ったまでのことでした、と。

皇帝は、実態をきちんと精査せず、朱損・朱熊を殺し、(助命を願う)諫言を用いませんでした。諸下は、ため息をつかぬ者がいません。皇帝は宮中において、小船300餘艘をつくり、金銀でかざり、師工は昼夜に休まず。
太常の全尚は、累世に恩を受けるが、諸々の宗親を督せず、しかも全端らは、城を捨てて魏に就きました。全尚は(器量に対して)位が重すぎ、かつて一言も陛下を諫めたことがなく、敵(魏)と往来し、国の消息を伝えます。(全氏のせいで)必ずや社稷が傾危することを懼れます。旧典を推案するに、運は大王(孫休)に集っています。今月二十七日、全尚を捕らえ、(孫亮が親近する)劉承を斬ります。皇帝を会稽王とし、孫楷を派遣して奉迎します。百寮は喁喁とし(孫休を仰ぎ慕って)道に立ち止まっています」といった。

孫綝の兄弟が絶頂をきわめる

綝、遣将軍孫耽、送亮之国、徙尚於零陵、遷公主於豫章。綝意弥溢、侮慢民神、遂焼大橋頭伍子胥廟、又壊浮屠祠、斬道人。

孫綝は、将軍の孫耽を遣わし、孫亮を送って国にゆかせた。全尚を零陵に徙し、全公主を豫章に遷した。孫綝の意はいよいよ増長し、民神を侮慢し、ついに大橋頭の伍子胥廟を焼き、

『史記』伍子胥列伝に、呉人が憐れみ、祠を江上に立てた、とある。『三国志集解』孫綝伝に引く『呉地記』に、伍子胥廟のことがある。晋代に至り、会稽太守の麋豹が、廟を呉の郭東門の内道の南に移し、いまもそこに存在する、とある。

さらに浮屠祠を壊わし、道人を斬った。

何焯によると、仏教僧が赤烏期までに到来していた証拠である。笮融は丹陽の人であり、意はその煽る所であると。梁商鉅によると、『法苑玉林』舎利篇によると、孫権の赤烏四年、外国の沙門である康僧会が江表に初めて到達して、仏像をつくって仏道をおこない、呉人はこれを妖異と捉えた。孫権は康僧会をめし、仏道にはどんな霊があるのか聞いた。遺骨の仏舎利を得たので、孫権は建初寺を就くって、その地名を仏陀里と改めた。孫綝が壊したのは、この建初寺である。また、孫晧が仏法を排除するため、仏塔を焼いたというが、孫晧の事績として見えないから、孫綝の所行であろうと。


休既即位、称草莽臣、詣闕上書曰「臣伏自省、才非幹国、因縁肺腑、位極人臣。傷錦敗駕、罪負彰露、尋愆惟闕、夙夜憂懼。臣聞、天命棐諶、必就有徳。是以、幽厲失度、周宣中興。陛下聖徳、纂承大統、宜得良輔、以協雍煕。雖尭之盛、猶求稷契之佐、以協明聖之徳。古人有言、陳力就列、不能者止。臣、雖自展竭、無益庶政、謹上印綬節鉞、退還田里、以避賢路」休、引見慰喻。

孫休が即位すると(孫綝が)草莽の臣と称して、闕に詣で上書し、

何焯によると、劉宗周が南渡したとき、上書して「草莽の臣」と号した。これより、史書には見えなくなる言葉である。

「私は才覚がないのに、肺腑(宗族)なので、位は人臣を極めました。錦を傷つけ駕を敗り、

『左伝』の子産・子皮の会話に、「美錦」の用例がある。『范書』劉玄伝に、「敗材傷錦」の用例がある。『晋書』庾冰伝に、「敗駕之駟」の用例がある。

聞けば天命は誠を輔け、必ず有徳に就くそうです。

「棐」は「輔」で、「諶」は「誠」の意味なので、抄訳に反映した。

ゆえに、周の幽王・厲王は度を失い、周の宣王は中興した。

張宗泰によると、幽王は宣王よりも後代だから、文の順がおかしい。ぼくは思う。度を失った暗君を、さきに引き合いに出したのだから、必ずしもおかしくはない。

陛下は聖徳で、大統を継承した。よき輔臣を得て、尽力させなさい。尭は名君でしたが、それでも稷・契による輔佐を求めて、徳を輝かせました。古人は、『力ある者は官位にならび、無能な(力なき)者は止まれ』といいます。私は無能ですから、謹んで印綬・節鉞を返上し、退いて田里に還り、賢者が登用されて活躍する道を開けようと思います」と。

又下詔曰「朕以不徳、守潘于外、値茲際会、羣公卿士、暨于朕躬、以奉宗廟。朕用憮然、若渉淵冰。大将軍、忠計内発、扶危定傾、安康社稷、功勲赫然。昔、漢孝宣践阼、霍光尊顕。褒徳賞功、古今之通義也。其、以大将軍、為丞相、荊州牧、食五県」

孫休は、引見してねぎらい、詔を下した。「朕は不徳であり、外藩であったが、時期にめぐりあい、群臣に推戴され、宗廟を奉ることになった。淵を渡るように、心細い。大将軍の孫綝は、忠計は内より発し(忠心に基づいて廃立を行い)、危を扶けて傾を定め、社稷を安康し、功績は明確である。むかし前漢の宣帝が即位すると、霍光は高位になった。(即位を斡旋した功臣への)褒賞を厚くするのは、古今の通義である。大将軍を、丞相・荊州牧とし、5県を食ませる」と。

胡三省によると、孫綝は大将軍に遷り、永寧侯に封じられた。いま孫休を立てた功績により、増邑されたのである。


恩、為御史大夫、衛将軍。拠、右将軍。皆県侯。幹、雑号将軍、亭侯。闓、亦封亭侯。綝一門五侯、皆典禁兵、権傾人主。自呉国朝臣、未嘗有也。

孫恩は、御史大夫・衛将軍となった。孫拠は、右将軍となった。みな県侯となった。孫幹は、雑号将軍・亭侯となった。孫闓もまた、亭侯に封じられた。孫綝の一門は5侯を輩出し、みな禁兵を典り、権勢は人主(孫休)を傾けた。呉国の朝臣では、前例のないことである。

孫休が、孫綝の殺害を思いつく

綝、奉牛酒、詣休。休、不受。齎詣左将軍張布。酒酣、出怨、言曰「初、廃少主時、多勧吾、自為之者。吾、以陛下賢明、故迎之。帝、非我不立。今、上礼見拒、是与凡臣無異。当復改図耳」布、以言聞休。休、銜之、恐其有変、数加賞賜。又、復加恩、侍中、与綝分省文書。

孫綝が牛酒を奉って、孫休を訪れた。孫休は受けない。孫綝は(孫休に贈るはずの牛酒を)持って左将軍の張布を訪れた。酒が酣になり、孫綝が怨みを言った。「孫亮を廃したとき、孫休を推薦したのは私だ。孫休が賢明だと思ったから、迎えたのだ。しかし孫休は、私を尊重しない(牛酒を拒絶した)。礼をたてまつって、しかしそれを拒まれるなら、凡百の臣下と変わらない(特別扱いをしてくれない)。ふたたび廃立しちゃおうか」と。

胡三省によると、孫綝は、張布が孫休に信頼されているから(賄賂のつもりで)牛酒をもって訪れた(賄賂を使い回した)。しかし、孫綝は凶愚であるから、酒席で失言して、一族の滅亡を招いた。

張布はこれを孫休にチクった。孫休は事変を恐れ、しばしば賞賜を加えた。さらに、孫綝の弟の孫恩に侍中を加え、孫綝と文章(決裁権限)を分掌させた。

三公に侍中を加えることで、権限を増す。このページの下の濮陽興伝にも見える。
ぼくは思う。孫休は「孫綝の牛酒を拒む」という仕方で、じつに効果的に敵意を表現したわけだが、敵意を表現することが、果たして良かったのか疑問。その反省を踏まえたのか、こんどは、たっぷり贈物をするという戦略で、かえって孫綝を干上がらせる。後漢の梁冀は、朝廷で手が付けられなくなると、特権をたっぷり付与された。似てる。


或有告、綝懐怨侮上欲図反者。休、執以付綝、綝殺之。由是愈懼、因孟宗、求出屯武昌。休、許焉。尽敕、所督中営精兵万餘人、皆令裝載、所取武庫兵器、咸令給与〔一〕。将軍魏邈、説休曰「綝居外、必有変」武衛士施朔、又告「綝欲反、有徴」休、密問張布。布、与丁奉、謀於会殺綝。
〔一〕呉歴曰、綝求中書両郎、典知荊州諸軍事、主者奏中書不応外出、休特聴之、其所請求、一皆給与。

あるひとが、孫綝は怨みを懐き、孫休を侮って、謀反を図ると告げた。孫休は、この密告者を捕らえて、孫綝に引き渡した。孫綝はこれを殺した。

孫休は、孫綝にプレッシャーをかけたのである。「通常なら、密告を受けたら、それを秘密にして、孫綝の殺害を試みるものでしょ。しかし、この孫休は、孫綝を少しも疑っていないから、こうやって密告者を引き渡すのだよ。よもや、密告者の言い分が、正解ではあるまいね」と、告げている。
孫休は、国家拡大には不適任かも知れないけど、箱庭のなかでの威信争いには、センスを発揮するのかも知れない。だから、孫亮が敗れた、孫峻・孫綝ラインに、孫休が勝つことができた。蜀が滅びたら、びびって死んだけど。

孫綝はいよいよ(孫休との対立の熾烈化を)懼れ、孟宗を使わし、出て武昌に屯することを求めた。孫休は許し、督する所の中営の精兵1万餘人に、すべて水軍の装備をさせ、使っている武庫・兵器をすべて持って行かせた。

胡三省によると、中営兵は、中軍である。呉人が装船することを、装載という。また、孫綝は兵を随えて武昌にいき、車船で人員・器物を運んだから「載」といった。
盧弼はいう。孫休はすこぶる屈伸(屈従できる)。曹髦・孫亮より優れている。

将軍の魏邈は、孫休に、「孫綝が外にいたら、必ず変を起こす」と。武衛士の施朔も、「孫綝の謀反は、徴証がある」と。

胡三省によると、「武衛士」は、武衛の士である。あっ、そう。ぼくは補う。『建康実録』は武衛将軍としており、誤り。

孫休は、張布に問う。張布と丁奉は、孫綝の殺害を計画した。
『呉歴』によると、孫綝は中書の両郎(左右郎の権限)を求め、荊州の諸軍事を典知したいと言った。担当官が上奏して、「中書(の権限の保有者)は外に居てはならない」といったが、孫休は特別にすべて言うとおりにした。

孫綝が殺害される

永安元年十二月丁卯。建業中謡言、明会有変。綝聞之、不悦。夜大風発木揚沙、綝益恐。戊辰、腊会、綝称疾。休、彊起之、使者十餘輩。綝、不得已、将入、衆止焉。綝曰「国家屡有命、不可辞。可豫整兵、令府内起火。因是可得速還」遂入。尋而火起、

永安元年十二月丁卯、建業中に謡言があり、明(明日の)会に変ありと。

胡三省によると「会」は、明日の臘会のこと。呉は土徳をもって王となったので、辰を臘としている。

孫綝は悦ばず。夜に大いに風がふき木を発し沙を揚げ、孫綝はますます恐れた。戊辰の臘会のとき、病気といって欠席した。孫休は、むりに起こして、使者10余で連れてきた。孫綝はやむなく宮殿に入ろうとすると、みな止めた。孫休「国家(孫休)がなんども命令をよこした。断れない。あらかじめ兵を待機させる。府内で火を起こせ。そうすれば(辞去の理由がついて)速やかに還れる」と。尋いで、火が起きた。

胡三省によると、「尋」は「時を継いで」の意味。ついで。


綝求出、休曰「外兵自多、不足煩丞相也」綝起離席。奉布、目左右縛之。綝叩首曰「願徙交州」休曰「卿、何以不徙滕胤呂拠。」綝復曰「願没為官奴」休曰「何不以胤拠為奴乎。」遂斬之。以綝首、令其衆曰「諸与綝同謀皆、赦」放仗者五千人。

孫綝が退出を求めた。孫休「外は兵が多い。丞相が(消火活動に)煩うことはない」と、引き留めた。孫綝は立って席を離れた。丁奉・張布は、左右に目配せして、孫綝を縛った。孫綝は叩首し「交州に徙して」、孫休「卿はなぜ、滕胤・呂拠を(交州に)徙さなかった(殺した)のか」、孫綝「身分を官奴に落としてください」、孫休「なぜ滕胤・呂拠を官奴に落とさなかったのか」。ついに孫綝を斬った。

皇帝孫休のなかでは、孫綝の罪は、滕胤・呂拠を殺したところにある。孫休が、滕胤・呂拠に懐いていた期待を考えるのは、楽しそう。
趙一清によると、『還冤記』によると、徐光がかつて孫綝の門を通り過ぎたとき、慌てて走りさった。理由を聞かれると、「孫綝の居所は、血なまぐさくて耐えられない」と。孫綝が聞いて、徐光の首を斬ったが、血が出ない。孫綝が孫亮を廃して孫休を立て、(廃立を孫権に報告するため)陵に拝そうと、車に乗ると、傾いた。顧みると、徐光が松柏の上にいて、指さして笑っていた。孫綝は侍従に聞いたが、徐光が見えた者はいなかった。その直後に、孫休は孫綝を誅した。

孫綝の首をかかげ、孫綝の軍勢に「孫綝と謀を同じくした者は、みな赦す」と。仗(武器)を捨てた者は、5千人。

闓、乗船欲北降、追殺之。夷三族。発孫峻棺、取其印綬、斲其木而埋之。以殺魯育等、故也。

孫闓は、乗船して北降しようとしたが、追いついて殺され、夷三族。

胡三省によると、孫綝の諸弟は、孫拠・孫恩・孫幹がいた。けだし彼らはすでに誅され、孫闓だけが、曹魏への逃亡を試みたのである。

孫峻の棺をあばき、印綬を没収した、その木を斲って(棺の木を削って薄くして)埋めた。孫魯育を殺した罪があるからである。

胡三省によると、古くは棺の木材の厚さには基準がある。削って薄くしたのは、被葬者(孫綝)を貶めるためである。


綝死時、年二十八。休、恥与峻綝同族、特除其属籍、称之曰、故峻、故綝云。休又下詔曰「諸葛恪、滕胤、呂拠、蓋以無罪為峻、綝兄弟所見残害。可為痛心。促皆改葬、各為祭奠。其、罹恪等事、見遠徙者、一切召還。」

孫綝が死んだとき、28歳。

孫綝は、王朝に対するビジョンがなかったように見える。ただ、生き残りのために、権力闘争をせざるを得ず、多くの人材を巻きこんで、王朝を疲弊させたという印象。なんでこんな、ハタ迷惑なゲームを始めたかといえば、孫峻の権力を継承してしまったためだろう。王朝・孫綝にとっての不幸は、その初期条件で決まっていた。

孫休は、孫綝・孫峻と同族であることを恥じ、特別に属籍から除いて、「故峻」「故綝」といった。孫休は詔を下して、「諸葛恪・滕胤・呂拠は、けだし無罪なのに、孫峻・孫綝の兄弟(ほんとは従兄弟)に殺害された。心が痛む。速やかに改葬し、それぞれ祭奠せよ。諸葛恪らに巻きこまれ、遠徙された者は、すべて召還せよ」と。170719

孫権の遺詔をされた、名士の諸葛恪・滕胤が「表」におり、孫綝・孫峻が「ウラ」にいる。孫峻は、万能すぎる諸葛恪(蜀の諸葛亮の万能に近い)から、王朝を守ろうとした。そのあたりは、「無力な幼帝に代わって、権臣を打倒した」のだから、皇帝の身内として、体制を守ろうとした感じがする。
しかし、その後は、孫峻・孫綝こそ、タチの悪い権臣となった。彼らは孫権の子孫ではないので、皇帝即位の権利がない。その意味で、「藩屏」の機能を期待するのは、微妙にムリ。権臣のやることは1つで、外征によって功績をつくること。淮南三叛という呼び水もあったが、孫峻・孫綝は伐魏に取り憑かれた。魏の司馬氏も、呉蜀への攻撃に傾いたので、同じである。陣没した司馬師と孫峻は、似ているかも。司馬昭もまた、孫綝のように宮廷で殺害されるリスクが高かった。比較で分かってくる。
かりに蜀で、劉備の一族か、もしくは劉封が健在なら、万能の諸葛亮に反発した可能性がある。そのサンプルが、孫峻・孫綝だと思う。諸葛亮は、劉封をきっちり殺すが、それが劉禅のためなのか、諸葛亮自身のためだったのか。結果的には、後者の色が濃いことが、呉と比較すると分かる。

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丹陽の湖田の開拓をしくじった、濮陽興伝

濮陽興伝は短いので、関連する列伝等からも文を引く。

父の濮陽逸伝

濮陽興、字子元、陳留人也。父逸、漢末避乱江東、官至長沙太守〔一〕。
〔一〕逸事見陸瑁伝。

濮陽興は、字を子元といい、陳留の人。

胡三省によると、濮陽は邑を姓としたもの。『陳留風俗伝』によると、官には長沙太守の濮陽逸がいたと。

父の濮陽逸は、漢末に乱を江東に避け、官は長沙太守に至る。裴松之によると、濮陽逸の事績は、陸瑁伝にも見える。

◆巻五十七 陸瑁伝

陸瑁、字子璋、丞相遜弟也。少好学、篤義。陳国陳融、陳留濮陽逸、沛郡蒋纂、広陵袁迪等、皆単貧有志。就瑁遊処、瑁、割少、分甘、与同豊約。

陸瑁は、陸遜の弟である。陳国の陳融・陳留の濮陽逸・沛郡の蒋纂・広陵の袁迪らは、貧しいが志がある。彼らが陸瑁のところに来ると、少ない財物・甘い物を分けあい、豊かさを共有したという。『三国志集解』陸瑁伝によると、濮陽逸は後ろに伝ありと、濮陽興伝にリンクを貼る。

濮陽逸は、陸遜の弟と同年代であろう。すると、濮陽逸が長沙太守になったのは、長沙を劉表・曹魏と奪いあった時期ではなく、孫呉の範囲は安定支配が成立した後と思われる。


濮陽興伝

興少有士名、孫権時除上虞令、稍遷至尚書左曹。以五官中郎将、使蜀、還為会稽太守。時、琅邪王休、居会稽。興、深与相結。

濮陽興は若くして士名あり、孫権は時に上虞令に除し、尚書左曹に至る。

上虞県は、孫策伝に見ゆ。盧弼によると、呉の尚書には左曹があった。というか、情報量が増えてない注釈だな。

五官中郎将として、蜀漢への使者となり、還って会稽太守となる。ときに、琅邪王の孫休は、(会稽王として)会稽にいた。濮陽興は深く相い結んだ。

濮陽興が会稽太守となったことは、虞翻伝に引く『会稽典録』に見える。


◆虞翻伝 注引『会稽典録』

会稽典録曰、孫亮時、有山陰朱育、少好奇字、凡所特達、依体象類、造作異字千名以上。仕郡門下書佐。太守濮陽興正旦宴見掾吏、言次、問「太守昔聞朱潁川問士於鄭召公、韓呉郡問士於劉聖博、王景興問士於虞仲翔、嘗見鄭、劉二答而未覩仲翔対也。欽聞国賢、思覩盛美有日矣、書佐寧識之乎。」……府君曰「皆海内之英也。吾聞秦始皇二十五年、以呉越地為会稽郡、治呉。漢封諸侯王、以何年復為郡、而分治於此。」……府君称善。是歳、呉之太平三年、歳在丁丑。育後仕朝、常在台閣、為東観令、遥拝清河太守、加位侍中、推刺占射、文芸多通。

『会稽典録』によると、孫亮のとき、山陰県の朱育がおり、異字を1千以上つくった。

『隋書』経籍志によると、梁には『異字』2巻があり、朱育の撰だが、亡したと。姚振宗によると、『広韻』『玉篇』は、『異字苑』の引用がある。馬国翰は、朱異の著作について詳しく述べ、朱育のあざなが嗣卿と推測する。はぶく。
潘眉によると、朱育は字を嗣卿といい、『唐書』藝文志に見える。官は侍中・東観令に至り、『会稽典録』に見える。奇字を好み、『幼学篇』を表す。『爰歴』・『博学』の流を蓋うもので、『梁七録』に見える。……など、はぶく。朱育のことは、鍾離牧伝 注引『会稽典録』にも見える。

会稽郡に仕えて門下書佐となった。太守の濮陽興は、正旦の宴のとき、掾吏にまみえて、問うた。「私はむかし、朱潁川(朱寵)が人士について鄭召公に問い、

『范書』鄧隲伝によると、朱寵は鄧隲の府に辟され、潁川太守に遷った。袁宏『後漢紀』によると、朱寵は正月祭酒の宴で、功曹吏の鄭凱に人士について質問した。受け答えは、『後漢紀』参照。系統によると、鄭凱は字を召公といい、『会稽典録』に見える。

韓呉郡は人士について劉聖博に問うた。

『三国志集解』虞翻伝によると、未詳!!

王景興(王朗)は人士を虞仲翔(虞翻)に問うた。かつて、鄭凱・劉某の応答について見たことがあるが、虞翻の応答を見たことがない。虞翻の応答を知っている者がいたら、教えてほしい」と。これに朱育が答えたが、それは別にやるとして、教わった濮陽興は、「みな海内の英である」と受けてから、「秦始皇の二十五年、呉越の地を会稽郡とし、呉県を治所とした。漢は諸侯王を封じ、何年に郡にもどって、呉郡と会稽を分けたのか」と、会稽郡の歴史を聞いた。朱育が答えると、太守の濮陽興はそれを善しとした。これは、太平三(257)年・丁丑の歳のことであった。朱育は、のちに朝廷に仕え、つねに台閣におり、東観令となった。清河太守を遥拝し、侍中を加えられた。占いや射的? をやり、文芸は多くに通じたと。
この濮陽興は、虞翻の情報収集をする聞き手として登場した。

◆ふたたび濮陽興伝

及休即位、徴興為太常衛将軍、平軍国事、封外黄侯。永安三年、都尉厳密、建丹楊湖田、作浦里塘。詔、百官会議、咸以為、用功多而田不保成。唯興以為、可成。遂、会諸兵民就作。功傭之費、不可勝数、士卒死亡、或自賊殺、百姓大怨之。

孫休が即位すると、濮陽興を徴して太常・衛将軍とし、軍国の事を平せしめ、外黄侯に封じた。

平軍国事は、ここに初めて現れるという。
『郡国志』によると、兗州の陳留郡の外黄県である。『范書』爰延伝によると、爰延は陳留の外黄の人。県令は礼もて爰延に請い、廷掾とした。濮陽潜は主簿となった。このように(濮陽興伝には出身県がないが)濮陽氏は外黄の人であり、けだし本県に封じられた。

永安三年、都尉の厳密は、丹楊の湖田を建て、浦里塘を作ろうと提起した。詔して百官に会議させた。みな「労力ばかり多いが、田は保全・完成できない」と。ただ濮陽興だけが「できる」と考えた。諸々の兵民を集めて(治水工事をして)開墾させた。労力の投入は膨大であり、士卒は死亡するか、自ら賊になったり死んだりした。百姓はおおいに(濮陽興を)怨んだ。

浦里塘は、孫休伝 永安三年に見える。
国土・耕地の拡大策は、ちょっと権力を持つと、自らの地位を確固たるものにするために、着手しがち。諸葛恪の北伐しかり。しかし、濮陽興は完全なる失敗。だから、器量でないのに執政して、、と言われてしまう。


興、遷為丞相。与休寵臣左将軍張布、共相表裹。邦内失望。七年七月、休薨。左典軍万彧、素与烏程侯孫晧善、乃勧興布。於是、興布廃休適子、而迎立晧。晧既践阼、加興侍郎、領青州牧。俄彧、譖興布、追悔前事。十一年朔入朝、晧因収興布。徙広州、道追殺之、夷三族。

濮陽興が丞相に遷った(孫休伝 永安五年)。孫休の寵臣である左将軍の張布と、ともに表裏となった(張布は宮省をつかさどり、濮陽興は軍国をつかさどる)。国内は失望した。永安七年七月、孫休が薨じた。左典軍の万彧は、烏程侯の孫晧と仲が良い。万彧が、濮陽興・張布に、孫晧を皇帝に薦めた。ここにおいて、孫休の適子(嫡子)を廃して、迎えて孫晧を立てた。孫晧が践阼すると、濮陽興に侍郎を加え、青州牧を領させた。

宋本は「侍郎」を「侍中」に作る。沈欽韓によると、濮陽興はすでに丞相なので、侍中を加官したのであり、侍郎は誤りとする。李慈銘によると、侍中が正しい。この巻で、孫綝の弟の孫恩を御史大夫とし、復た侍中を加ふ、とあるから、同じことをした。丞相と御史大夫の両府は、官の高さは相つぐが(上下に大きな差がないが)、侍中を加えることで、内職を兼ね、親臣となる。六朝の三公は、必ず侍中を加える。これは、その濫觴(始まり)であると。

にわかに、万彧は、濮陽興・張布をそしり、「彼らは(孫晧を即位させたのを)後悔している」と行った。十一月朔に入朝すると、孫晧は濮陽興・張布を捕らえ、広州に徙し、道中で殺して夷三族とした。

孫晧は張布の娘を納れていた。何姫伝に引く『江表伝』に見える。


『三国志』巻六十四・『呉書』十九の評

評曰、諸葛恪、才気幹略、邦人所称。然驕且吝、周公無観、況在於恪。矜己陵人、能無敗乎。若躬行所与陸遜及弟融之書、則悔吝不至、何尤禍之有哉。滕胤、厲脩士操、遵蹈規矩。而孫峻之時猶保其貴、必危之理也。峻綝、凶豎盈溢、固無足論者。濮陽興、身居宰輔、慮不経国、協張布之邪、納万彧之説。誅夷其宜矣。

陳寿の評に曰く、諸葛恪は優れた人物であったが、驕ったのがよくなかった。周公ですら、驕ったらダメになったろうに、まして諸葛恪では。もし、陸遜・諸葛融に送った手紙を実践していれば、殺されなかったろうに。滕胤は、孫峻の執政期まで、高位に残ってしまったから、危うくなった。孫峻・孫綝は、論外。濮陽興は、宰相になったくせに、思慮が国家経営に及ばず、張布・万彧に同調してしまったから、夷三族になっても仕方ないのであると。170719

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附 留賛伝(作成中)

孫峻伝 注引『呉書』に、留賛伝が見える。切り出した。

〔二〕呉書曰、留賛字正明、会稽長山人。少為郡吏、与黄巾賊帥呉桓戦、手斬得桓。賛一足被創、遂屈不伸。然性烈、好読兵書及三史、毎覧古良将戦攻之勢、輒対書独歎、因呼諸近親謂曰「今天下擾乱、英豪並起、歴観前世、富貴非有常人、而我屈躄在閭巷之間、存亡無以異。今欲割引吾足、幸不死而足申、幾復見用、死則已矣。」親戚皆難之。有間、賛乃以刀自割其筋、血流滂沱、気絶良久。家人驚怖、亦以既爾、遂引申其足。足申創愈、以得蹉歩。淩統聞之、請与相見、甚奇之、乃表薦賛、遂被試用。累有戦功、稍遷屯騎校尉。時事得失、毎常規諫、好直言不阿旨、権以此憚之。諸葛恪征東興、賛為前部、合戦先陥陳、大敗魏師、遷左将軍。孫峻征淮南、授賛節、拝左護軍。未至寿春、道路病発、峻令賛将車重先還。魏将蒋班以歩騎四千追賛。賛病困、不能整陳、知必敗、乃解曲蓋印綬付弟子以帰、曰「吾自為将、破敵搴旗、未嘗負敗。今病困兵羸、衆寡不敵、汝速去矣、俱死無益於国、適所以快敵耳。」弟子不肯受、抜刀欲斫之、乃去。初、賛為将、臨敵必先被髪叫天、因抗音而歌、左右応之、畢乃進戦、戦無不克。及敗、歎曰「吾戦有常術、今病困若此、固命也。」遂被害、時年七十三、衆庶痛惜焉。二子略、平、並為大将。

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