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『後漢紀』巻二十三_建寧元(168)年_春夏

この作業を始めるにあたって

袁宏『後漢紀』は、袁宏その人や、『後漢紀』自体を研究する場合を除いては、後漢の史実を知る手掛かりとして、価値があります。

自明かも知れないことでも、厳密に考えたいので、わざわざ文書化しています。

『後漢紀』は、その文字数が范曄『後漢書』よりも少ないことから、『後漢書』の記述内容の検証に使われるか、遺漏を補うという読まれ方をすると思います。

袁宏『後漢紀』の今日的位置に照らすと、

今日的位置というのは、今日まで残存して利用できる主な史料が、正史として認定された、范曄『後漢書』と陳寿『三国志』がメインであり、『後漢紀』が、いきおい脇役にならざるを得ない状況のことです。

范曄『後漢書』や陳寿『三国志』と比較しながら、違う出来事を記録していないか、同じ出来事を違って記録していないか、といった差異の検証が、最初に行われるべきであると思います。
やがて発展的に、袁宏の思想的特性や、利用されたであろう原史料の特徴を言うにも、前提として、この作業は必須です。原史料にアクセスできない以上、今日まで残存しているテキストのネットワークを点検するしかありません。

袁宏のことを検討するには、袁宏自身が歴史を批評した文章(『後漢紀』のなかに登場する)を読むという正攻法と、袁宏の史料の編纂結果に反映された(であろう)思想を汲み取るという、間接的な手法があります。
後者を間接的と書きましたが、本来であれば、後者が先で、前者が後であるべきです。「著者あとがき」から、著者の意図を汲み尽くせるとし、本編をろくに読まないのは、良くありません。本編の背後にながれる考え方を洞察し、その参考までに、「著者あとがき」を見るべきでしょう。そっちのほうが、手間がかかりますけど。


極論すれば、袁宏『後漢紀』の内容の真実性(実際に出来事がどうであったか、それを袁宏が正しく書き留めているか)の検討は、後回しにすることができます(後回しにすることが、検討手順として有効と考えられます)。ひたすら、范曄『後漢書』と陳寿『三国志』と比較することが優先です。このことからしか、何も始まらないと思います。
『後漢紀』が、范曄『後漢書』(范書)の李賢注、陳寿『三国志』(陳志)の裴松之注などの、既成の注釈を補うだけで精一杯、というレベルの小ネタ本なのか。もしくは、それ自身を軸として読める書物なのか。
もちろん、
『後漢紀』全体として評価するならば、それ自身を軸として読むべき貴重な資料であることは、疑いがありません。とくに『後漢紀』の価値は、光武帝紀で判定すべきでしょう。しかし今回は、あくまで三国志ファンの目線から、後漢末の記事の読み甲斐に着目して、検討してみます。

建寧元年春

春正月己亥、上徴至、大将軍竇武持節迎于夏門亭。庚子、即皇帝位。

建寧は、一六八~一七二。
建寧元年正月己亥、霊帝が徴されて至り、大将軍の竇武が持節して夏門亭で(霊帝を)迎えた。庚子、皇帝の位に即いた。

『范書』霊帝紀に、「建寧元年春正月壬午、城門校尉竇武為大將軍。己亥、帝到夏門亭、使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中。庚子、即皇帝位、年十二」とあり、日付と内容が一致し、『范書』のほうが情報が多い。


以太尉陳蕃為太傅、(以)〔与大〕将軍竇武(為)〔及〕司徒胡広録尚書事。

太尉の陳蕃を太傅とし、大将軍の竇武および司徒の胡広とともに録尚書事とした。もしくは、尚書の事を録させた。

『范書』霊帝紀に、「以前太尉陳蕃為太傅、與竇武及司徒胡廣參錄尚書事」とある。『袁紀』は、ここで竇武の官職を再び書こうとして、「大」の一字を落とした。すぐ上で『袁紀』が「大将軍」と言っているから、省いたか。『范書』は、「録尚書事に参ぜしむ」とし、『袁紀』は「録尚書事とす」とあり、『袁紀』のほうが「参」一字が少ない。


詔曰:「太傅陳蕃輔弼先帝、出納為允、謇諤之節、宣於本朝。朕初踐祚、親授策命、忠篤之性、老而彌純。其封蕃為高陽侯」。固讓不受、章十餘上乃許。

詔して、「太傅の陳蕃は、先帝を補弼した……高陽侯に封建する」と。固辞して受けなかったが、十余たび断ったので、許されて、封建が辞められた。

『范書』列伝五十六 陳蕃伝に、「靈帝即位、竇太后復優詔蕃曰、……太傅陳蕃,輔弼先帝,出内累年。忠孝之美,德冠本朝;謇愕之操,華首彌固。今封蕃高陽鄉侯,食邑三百戶。」蕃上疏讓曰、……。竇太后不許,蕃復固讓,章前後十上,竟不受封」とある。
霊帝が即位すると、竇太后は、桓帝崩御後の朝廷を支えた功績から、陳蕃を「高陽郷侯」に封建しようとしたが、陳蕃は前後十回の辞退をしたと。『范書』の「高陽郷侯」と、『袁紀』の「高陽侯」は同じもの。『范書』は、封建の主体を「竇太后」と明記し、『袁紀』は単に「詔」とするのみ。
封建の詔は、『范書』陳蕃伝のほうが長く、断りの上書は『范書』陳蕃伝のみが載せる。共通する文が見えるから、『袁紀』のほうが、原史料?を節略していると言えよう。
なお、『范書』陳蕃伝に「霊帝が即位すると」と、トリガーを明示しており、『袁紀』がここに置くのは正しいが、『范書』霊帝紀には、記事がない。


(三月辛丑)〔二月辛酉〕、葬孝桓皇帝於宣陵。

三月辛丑 二月辛酉、桓帝を宣陵に葬った。

『范書』霊帝紀は、「二月辛酉、葬孝桓皇帝于宣陵、廟曰威宗」と、二月辛酉に作る。三月は己卯(16)が朔で、三月辛丑(38)は同月内にあり得る。しかし下に庚午(07)とあるが、同月内ではあり得ない。二月は己酉が朔(46)で、辛酉(58)は二月十三日となり、庚午(07)は、二月二十二日となる。庚午の記事が後ろにあり、庚午の記事を正しいとすれば、『袁紀』を退け、『范書』を正しいとすべきである。


庚午、大赦天下〔一〕。賜男子爵、孝悌、力田帛各有差。

庚午、天下を大赦した。爵位などを賜与した。

『袁紀』は、三月庚午とするが、三月に庚午はないため、二月庚午(二十二日)と理解する。
『范書』霊帝紀に、「庚午、謁高廟。辛未、謁世祖廟。大赦天下。賜民爵及帛各有差」とある。大赦を、『范書』は辛未(08)とし、二月二十三日。『袁紀』は庚午(07)とし、二月二十二日。一日の差で、どちらが正しいか未詳。
賜与する相手は、『袁紀』のほうが「孝悌・力田」が多い。『范書』の節略か。


建寧元年夏

夏四月甲午、追尊祖解瀆亭侯淑為孝元皇帝、考嗣侯萇為孝仁皇帝〔二〕、妃董姬為慎園貴人。 夏四月甲午、

『范書』霊帝紀に、「閏月甲午,追尊皇祖為孝元皇,夫人夏氏為孝元皇后,考為孝仁皇,夫人董氏為慎園貴人。」とあり、閏月甲午とする。 『朔閏考』によると、閏月は戊申(45)朔であり、甲午(31)は閏月に収まらない。この年、穀雨(二十四気の一つ)丁未(44)は、三月みそかで、小満(二十四気の一つ)戊寅(15)は四月ついたち。つまり、閏三月がある。『楊統碑』に三月癸丑(50)とあるが、〔閏〕三月六日とすべきであり、碑文は「閏」が省かれている。甲午(31)は四月十七日なので、『范書』が誤り、『袁紀』が正しいかも知れない。

霊帝は祖父の劉淑を「孝元皇帝」、父の劉萇を「孝仁皇帝」と追尊し、(父の)妃の董姫を慎園貴人とした。

『范書』霊帝紀は、「孝元皇」・「孝仁皇」とするが、節略であって、『袁紀』のほうが正式であろう。


戊辰〔一〕、以長楽衛尉王暢為司空。

戊辰、長楽衛尉の王暢を司空とした。

四月は、戊寅(15)が朔なので、戊辰(5)が同月に収まらない。
『范書』霊帝紀は、「夏四月戊辰、太尉周景薨。司空宣酆免、長楽衛尉王暢為司空」と、四月戊寅に、王暢が司空となったという記事は、『袁紀』と同じ。
銭大昭は、『袁紀』・『范書』とも誤っているから、誤りは『范書』に始まるものではないとする。ただし、代替案となる日付は提示されていない。


五月丁未朔、日有蝕之。六月癸巳、録定策功、封竇武、曹節等十一人為列侯。

五月丁未朔、日食があった。

『范書』霊帝紀に、「五月丁未朔,日有食之」とあって同じ。

六月己巳、霊帝を即位させた功績により、竇武・曹節ら十一人を列侯とした。

六月己巳の記事そのものが『范書』霊帝紀にない。
『范書』列伝五十九 竇武伝に、「帝既立,論定策功,更封武為聞喜侯;子機渭陽侯,拜侍中;兄子紹鄠侯,遷步兵校尉;紹弟靖西鄉侯,為侍中,監羽林左騎」と、霊帝が即位した後、竇武を聞喜侯にし、一族の官爵を高めたとあるが、封建の日付も、「十一人」の表記もない。『袁紀』の独自情報である。
『後漢書』列伝六十八 宦者 曹節伝に、「及即位,以定策封長安鄉侯,六百戸」とあり、やはり曹節の封建の事実を記しているが、日付も「十一人」の表記もない。


建寧元年秋

八月、司空王暢以災異策罷、宗正劉寵為司空。
八月、司空の王暢を災異によって罷免し、宗正の劉寵を司空とした。

『范書』霊帝紀に、「八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空」とあり、一致する。罷免の理由が書いてある点が、『范書』霊帝紀よりも『袁紀』が詳しい。しかし、『范書』王暢伝に、「建寧元年,遷司空,數月,以水災策免」と、水災により罷免されたとあるから、『范書』全体では、『袁紀』よりも多くの情報が拾える。


◆王暢伝;別に検討する。

暢字叔茂、太尉龔之子也。初、暢為南陽太守、設禁令、明賞罰。太守下車之後、而故犯法者、發屋伐樹、塞井移灶〔一〕。豪強戰慄、晏開早閉。功曹 張敞諫曰:「蓋聞諸經典、殷湯開三面之網、而四方歸仁;武王除炮烙之刑、而天下咸服。高祖創業、約法三章;孝文寬刑、號稱太宗。若夫卓茂、文翁之徒、皆去 嚴刻、務崇溫和。夫明哲之君、網漏吞舟之魚、然後三光明於上、民物和於下。愚謂舜舉皋陶、不仁者遠〔二〕;隨會為政、晉盜奔秦〔三〕。治民在德、不在於 刑。」 暢於是崇寬慎刑、旌賢表德。
〔一〕 疑「移」系「夷」之誤。〔二〕 出論語顏淵。
〔三〕 宣公十六年左傳曰:「晉侯以黻冕命士會将中軍、且為太傅。於是晉國之盜逃奔於秦。」「士會」即「隨會」也。

暢以郡俗奢富、欲約己以矯之、乃衣大布、坐羊皮、車廄馬羸弊〔一〕、而不改之。同郡劉表、時年十七、從暢受學、進諫曰:「蓋聞奢不僭上、儉不逼 下〔二〕、守道行禮、貴處可否之間。清不暴鱗、濁不污泥、蘧伯玉恥獨為君子。府君不希孔門之明訓〔三〕、而慕夷齊之末操〔四〕、無乃皎然自貴於世。」暢答曰:「昔公儀休在魯、拔園葵、去織婦;孫叔敖相楚、其子披裘刈薪〔五〕。夫以約失之者鮮矣〔六〕!聞伯夷之風者、貪夫廉、懦夫有立志〔七〕。雖以不德、敢慕高風、且以矯俗也。」
〔一〕疑「車」系衍文。
〔二〕禮記雜記下曰:「君子上不僭上、下不逼下。」
〔三〕黃本及範書均作「孔聖」、蔣本乃依南監本作「孔門」。
〔四〕李賢曰:「論語:孔子曰『 奢則不遜、儉則固』言仲尼得奢儉之中、而夷齊飢死、是其末操也。」孔子語見述而、其意本在奢則僭上、儉失禮耳。与其僭上而不遜、不若儉之但失禮耳。
〔五〕並見史記。前者乃循吏傳、後者乃滑稽傳也。
〔六〕見論語里仁。〔七〕見孟子萬章章句下。


『范書』霊帝紀では、つぎに「九月(丁)〔辛〕亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武」と、九月に曹節が、陳蕃・竇武を殺害した記事が続く。『袁紀』では、王暢伝からシームレスに、当時の政治状況を記すが、陳蕃殺害の状況説明が始まったと見るべきと思われる。

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『後漢紀』巻二十三_陳蕃・竇武の決起

陳蕃・竇武の宦官排除計画

太后新摂政、政之巨細、多委陳蕃・竇武、同心戮力、以奨王室、徴用天下名士参政事。於是天下英雋、知其風指、莫不人人延頸、(相)〔想〕望太平。

竇太后が、陳蕃・竇武に政治を委任し、天下から期待されたという。個別的な史実の記述でないので、袁宏の地の文かと思ったが、陳蕃伝と同じである。共通の原典があり、『袁紀』が兄、『范書』陳蕃伝が弟、という関係か。

陳蕃伝:及后臨朝,故委用於蕃。蕃與后父大將軍竇武,同心盡力,徴用名賢,共參政事,天下之士,莫不延頸想望太平。


其後中常侍曹節与上乳母趙嬈、求諂於太后、太后信之。数出詔命、有所封拝。蕃・武毎諫、不許。

中常侍の曹節と、その乳母が、竇太后臨朝に関与するので、陳蕃・竇武が諫めたことは、陳蕃伝に見える。

陳蕃伝:而帝乳母趙嬈、旦夕在太后側,中常侍曹節、王甫等與共交搆,諂事太后。太后信之,數出詔命,有所封拜,及其支類,多行貪虐。蕃常疾之,志誅中官,會竇武亦有謀。

陳蕃・竇武が、曹節らの関与を苦々しく思っていたことが、陳蕃伝の流れ。『袁紀』は、日食の事件を記し、陳蕃の台詞があるが、出典が竇武伝に移る。『范書』は、竇武伝・陳蕃伝はセットであり、往来して史実を復元すべきである。

会有日蝕之変、蕃謂武曰、「昔蕭望之為石顕所殺、李・杜禍及妻子〔一〕。有一石顕、望之尚為之死、況数十人耶?趙夫人旦夕辞政、其患最甚。蕃以餘年、請為将軍除之〔二〕。因災之変、以除佞臣、誰曰不可!」武亦謀之、深納蕃言、乃言之於太后曰:「故事、内官但典門戶、給事左右而已。今乃參政事、貴顕朝廷、父子兄弟、並在列位、天下匈匈、多以為患、今可悉除之」。太后曰:「此皆天所生、漢元以来、世世用事、国之舊典、何可廢也?但誅其惡耳。」武性詳重、疑而未決。

『袁紀』には記述がないが、五月の日食(竇武伝)。
〔一〕の李・杜は、李固・杜喬を指し、校勘によると、『范書』竇武伝は「李・杜」の上に「近者」の二字があり、『袁紀』の不足とする。 〔二〕「余年」は、竇武伝は「八十之年」に作る。老齢なので、残りの寿命を、宦官排除に使い切りたいという。

竇武伝:會五月日食,蕃復說武曰:「昔蕭望之困一石顯,近者李、杜諸公禍及妻子,況今石顯數十輩乎!蕃以八十之年,欲為將軍除害,今可且因日食,斥罷宦官,以塞天變。又趙夫人及女尚書,旦夕亂太后,急宜退絕。惟將軍慮焉。」武乃白太后曰:「故事,黃門、常侍但當給事省内,典門戶,主近署財物耳。今乃使與政事而任權重,子弟布列,專為貪暴。天下匈匈,正以此故。宜悉誅廢,以清朝廷。」太后曰:「漢来故事世有,但當誅其有罪,豈可盡廢邪?」時中常侍管霸頗有才略,專制省内。武先白誅霸及中常侍蘇康等,竟死。武復數白誅曹節等,太后冘豫未忍,故事久不發。

竇太后は、宦官の排除に懐疑的。『袁紀』は「漢元以来」、『范書』は「漢来故事」、宦官は常設されたという。竇武が決断できなかった、結末は同じ。竇太后の意見表明、竇武の迷いの記事として、史実は収まる。ただし、その台詞の指す所や、分かりやすさが異なっている。

是時太白犯上将星、又入太微〔一〕。侍中劉瑜素善天文、与蕃書曰:「星辰錯辞、不利大臣。前所謀者、事宜速断之。」蕃、武得書、将発。於是以(㝢)〔瑀〕為司隸校尉、劉佑為河南尹。武奏收中常侍曹節、長楽食監王甫等、使侍中劉瑜内其奏。

校勘によると、〔一〕は『通鑑』は『袁紀』と同じに作るが、『范書』竇武伝は「太白犯房左驂、上将星入太微」に作るが、竇武伝の誤りが疑われるという。

校勘:『晋書』天文志によると、房四星は、第一星上将であり、太微は、天子の庭。『范書』標点本の断句が誤り。『続漢書』天文志もまた、太微に入ったのを太白とし、上将星ではないと分かる。

『袁紀』は「侍中の劉瑜」とあり、『范書』竇武伝は「劉瑜は天官であり」とある。劉瑜の官職を、『袁紀』は整合的に拾えているか、要確認。この天体現象が、竇武・陳蕃に不利であるため、宦官排除を急いだというのは、竇武伝と同じ。

『范書』竇武伝:至八月,太白出西方。劉瑜素善天官,惡之,上書皇太后曰:「太白犯房左驂,上將星入太微,其占宮門當閉,將相不利,姦人在主傍。願急防之。」又與武、蕃書,以星辰錯繆,不利大臣,宜速斷大計。武、蕃得書將発,於是以朱㝢為司隸校尉,劉祐為河南尹,虞祁為洛陽令。武乃奏免黃門令魏彪,以所親小黃門山冰代之。使冰奏素狡猾尤無狀者長樂尚書鄭䬃,送北寺獄。蕃謂武曰:「此曹子便當收殺,何復考為!」武不從,令冰與尹勳、侍御史祝瑨雜考䬃,辭連及曹節、王甫。勳、冰即奏收節等,使劉瑜內奏。

朱瑀・劉佑に首都圏の要職を与えて、宦官排除を急ぎ断行したことも、竇武伝の続きである。朱氏の名は、『范書』を正として修正すべき。
竇武伝は、計画の推移を描いているが、『袁紀』は、竇武伝の経緯をやや省略する。曹節・王甫を告発するに至り、劉瑜に内奏させたのは、竇武伝の範囲に収まる。

謀頗洩漏、節等及竊発瑜奏、且知其事、節曰:「前先帝宮人嫁、武父子載取之、各且十餘人、此大罪也。身自不正、何以正人!」 中黄門朱(㝢)〔瑀〕曰、「其中放縱者罪當誅耳、我曹何罪!」乃与等輩十餘人結誅武等。是夜矯詔以王甫為黄門令、持節誅尚書令尹勛、因共脅太后取璽綬。

曹節が、劉瑜のもたらす上奏を知って先手を打つ。長くなるので引用しないが、竇武伝に、王甫が黄門令となって尹勲を投獄して殺害し、竇太后の璽書を引き出したとある。
『袁紀』はこの事件を、竇武伝よりも簡潔に書いている。これ結論。180516

陳蕃・竇武が宦官に敗北した事件は、『後漢書』陳蕃伝・竇武伝のほうが、袁宏『後漢紀』よりも、詳しい史実にアクセスできる(『後漢紀』独自史実はない)。しかし、登場人物の台詞表現がけっこう違う。録音ができないから、史家の良心(分かりやすく、正しく、カッコよく)が生み出した誤差かと思う。

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『後漢紀』巻二十三_陳蕃・竇武の敗北

陳蕃・竇武が敗北する顛末が、上で書かれてきた。日付つきの編年体記事には、ここから復帰する。しかし、『范書』霊帝紀よりも、『袁紀』は詳しい状態が続く。

九月、陳蕃・竇武の敗北

九月辛亥〔一〕、請帝御前殿、召公卿百官、易拝司隸校尉、河南尹、遣中謁者分守南、北宮。節稱詔收大将軍竇武、武不受詔。与子紹将北宮二千人屯洛陽都亭。

〔一〕辛亥は、『范書』は丁亥に作る。『通鑑考異』によると、長暦で、この年は九月乙已朔であり、丁亥はないから、『袁紀』に従うと。

『范書』霊帝紀は、「九月(丁)〔辛〕亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武及尚書令尹勳、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。皇太后遷于南宮。司徒胡廣為太傅,錄尚書事。司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空」

『范書』霊帝紀を引いたが、『後漢紀』のほうが情報が多い。『范書』では、竇武伝・陳蕃伝に振り分けられた政争の詳細を、『後漢紀』が編年体のなかに吸収している。竇武側の兵の動員は、竇武伝に見える。

『范書』竇武伝に、「曹節聞之,驚起,……召尚書官屬,脅以白刃,使作詔板。拜王甫為黃門令,持節至北寺獄收尹勳、山冰。冰疑,不受詔,甫格殺之。遂害勳,出鄭䬃。還共劫太后,奪璽書。令中謁者守南宮,閉門,絕複道。使鄭䬃等持節,及侍御史、謁者捕收武等。武不受詔,馳入步兵營,與紹共射殺使者。召會北軍五校士數千人屯都亭下」とある。

洛陽の都亭のもとに、竇武の子(『范書』竇武伝では、兄の子)である竇紹が兵を集めた。『袁紀』では「北宮二千人」、『范書』竇武伝では「北軍五校士数千人」である。
記述内容(記録された出来事)は近いが、同系統のテキストに基づくとは思えない。袁宏は、編年体のなかに、なにかの歴史書(謝承や司馬彪など)の竇武・陳蕃の伝記を補って、事件の描写を厚くした。他方、范曄は、袁宏とはべつの歴史書に基づき、竇武伝・陳蕃伝を書いた……といったところか。

『袁紀』に記す事件の詳細は、ここから陳蕃のターン。

太傅陳蕃聞起兵、将官屬諸生八十餘人到承明門。使者不内曰:「公未被詔召、何得勒兵入宮?」蕃曰:「趙鞅專兵向宮、以逐君側之惡。春秋義之」。有使者出開門〔一〕、蕃到尚書門、正色曰:「大将軍竇武忠以衛国、黄門・常侍無道、欲誣忠良邪?」黄門王甫曰:「先帝新棄天下、山陵未成、武有何功?兄弟父子並封三侯、又設楽飲宴、多取掖庭宮人、旬日之間、資財巨萬。大臣如此、是為道邪?公為宰輔、苟相阿黨、複何求賊?」使劍士收蕃。蕃聲逾厲、辞氣不撓、遂送蕃北寺獄〔二〕。

陳蕃が捕縛されるところ。
〔一〕『范書』は、「突入承明門」に作り、『通鑑』は『范書』に従ったという。
『袁紀』で陳蕃は「黄門・常侍は無道」、『范書』で「黄門は反逆す」といい、どちらも「竇武は忠で国を衛っている」という。内容は同じで、言葉がちょっと違う。王甫なりに陳蕃に反論し、竇武は一門を三侯に封建し、遊んでいるだけだと。

『范書』陳蕃伝:及事泄,曹節等矯詔誅武等。蕃時年七十餘,聞難作,將官屬諸生八十餘人,並拔刃突入承明門,攘臂呼曰:「大將軍忠以衛國,黄門反逆,何云竇氏不道邪?」王甫時出,與蕃相迕,適聞其言,而讓蕃曰:「先帝新弃天下,山陵未成,竇武何功,兄弟父子,一門三侯?又多取掖庭宮人,作樂飲讌,旬月之閒,貲財億計。大臣若此,是為道邪?公為棟梁,枉橈阿黨,復焉求賊!」遂令收蕃。蕃拔劒叱甫,甫兵不敢近,乃益人圍之數十重,遂執蕃送黃門北寺獄

陳蕃に威圧されて、王甫らは怯んだが、陳蕃を(黄門)北寺獄に入れた。
王甫と陳蕃の応酬は、内容は似ているが、テキスト水準では別系統という気がする。袁宏か范曄か、その前段階の第三者かが、記述内容を保存しつつ、より的確な文になるようリライトしたと考えざるを得ない。テキストは随所で表面的に違うが、記述内容が多く共通しているから、出典が異なる、とまでは言えない。

〔二〕『御覧』巻三五二引『漢南記』曰:「陳蕃等欲除諸黄門、謀洩、閽寺之黨於宮中詐稱驚、雲外有反者。蕃奔入宮、小黄門朱宇逆以戟刺蕃。」範書作「蕃拔劍叱甫、甫兵不敢近。乃益人圍之数十重、遂執蕃送獄」。通鑒從袁紀。
『太平御覧』に引く『漢南記』によると、小黄門の朱宇という人が、陳蕃を刺した。

『范書』は、陳蕃が剣を抜いて王甫をたじろがせるが、袁宏『後漢紀』は「蕃聲逾厲、辞氣不撓」に作るに留まり、范曄のほうが派手である。

竇武・陳蕃の事件は、范曄と袁宏の記録する事実はほぼ共通だが、字面がけっこう違う。范曄が原史料をなぞり、リライトしていないか。史実を「創造」まではしないが、ニュアンスを操作して、宦官の邪悪さ、陳蕃のかっこよさを演出した。
范曄は思想を練りこみ、完成度を上げたおかげで、読みやすい代わりに、史料の不整合から垣間見える(かも知れない)、彼らが利用した元史料の痕跡や、割り切れない現実とかが消えてしまっている印象。『後漢紀』の不備から、何か見つけたい。


陳蕃の最期のつぎは、竇武の一族の最期のターン。

節又稱詔、以少府周静行車騎将軍〔一〕、与匈奴中郎将張奐、王甫持節共以討武等、与武陳兵於闕下。武令其軍曰:「黄門、常侍反逆無道、何尽隨之反乎?先降有重賞。」〔二〕中官執勢久、士皆畏之、於是(免)武兵数十人者各為部、帰於甫軍、自旦至食時、兵降且尽。武自殺、紹等走、靖等皆斬〔三〕、紹弟機、親族賓客悉誅之。蕃亦被害、妻子徙日南。皇太后遷於雲台

竇武の最期は、だいたい竇武伝に重なる。
行車騎将軍となった人を、〔一〕『范書』は「周静」を「周靖」に作る。『袁紀』は下文で「靖」に作っており、竇紹の弟のこと。

『范書』竇武伝:詔以少府周靖行車騎將軍,加節,與護匈奴中郎將張奐率五營士討武。夜漏盡,王甫將虎賁、羽林、廐騶、都候、劒戟士,合千餘人,出屯朱雀掖門,與奐等合。明旦悉軍闕下,與武對陳。甫兵漸盛,使其士大呼武軍曰:「竇武反,汝皆禁兵,當宿衞宮省,何故隨反者乎?先降有賞!」營府素畏服中官,於是武軍稍稍歸甫。自旦至食時,兵降略盡。武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首洛陽都亭。收捕宗親、賓客、姻屬,悉誅之,及劉瑜、馮述,皆夷其族。徙武家屬日南,遷太后於雲臺

『袁紀』校勘は、〔二〕「武令」について、「甫令」に作る本もあるという。しかし、「黄門・常侍」を糾弾しているから、竇武の行動として「武令」がいいだろう。〔三〕『范書』では、竇武・竇紹が自殺したが、竇靖が斬られたことは、『袁紀』だけが伝える。
竇太后の移動も、共通している。

於是自公卿以下、嘗為蕃、武所挙、皆免官禁錮。

『袁紀』は、事件の始末として、陳蕃・竇武に推挙された人材が、すべて免官・禁錮されたとする。『范書』竇武伝は、そこまでカバーしていない。

◆陳蕃伝

蕃字仲挙、汝南平輿人。初、袁(閎)〔閬〕為郡功曹、挙蕃以自代曰:「陳蕃有匡弼之才、不可久屈、宜以礼致之。」於是為郡功曹、挙賢良方 正皆不就。桓帝初招延俊乂、徴拝為議郎、起署為尚書、稍遷九卿。初為豫章太守、獨設一榻以候徐孺子、餘人不得而接〔一〕。其高簡亮正皆此類也。
〔一〕 世說新語德行篇注引袁紀曰:「蕃在豫章、為稚獨設一榻、去則懸之、見礼如此。 」古人引書多以己意改竄、於此可見。

陳蕃伝については、やるなら後日。

竇武・陳蕃の敗北後

事件の記事が終わり、本格的に編年形式が再開されている。

丙辰、司徒胡広為太傅、録尚書事。司空劉寵為司徒。

『范書』霊帝紀に、九月、陳蕃の事件のあとに、「司徒胡廣為太傅,錄尚書事。司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空」とあり、胡広が太傅となり、劉寵が司徒になったことはある。日付表記は『袁紀』のほうが詳しい。
九月は、乙巳(42)朔である(上記参照)。丙辰(53)は、九月十二日。
『袁紀』は、劉寵が辞めた司空のあとを、だれが継いだか分からない。范曄が、三公の異動を網羅的に記録したという、編集作業のあとが見える。後任が許栩と分かることは、范曄の付加価値です。袁宏は、ズボラですね。

◆劉寵伝

寵字祖榮、東萊牟平人。初為会稽太守、正身率下、郡中大治。徴入為将作大匠。山陰縣有数老父、年各八十餘、居若邪山下、去郡十里。聞寵當還、相 率共往送寵、人齎百錢。寵見老父曰:「何乃自苦来邪?」 對曰:「山谷鄙老〔一〕、生来嘗到郡縣。他時吏発〔二〕、不去民間、或狗吠竟夕、民不得安。自明府下車以来、吏稀至民間、狗不夜吠。老值聖化、今聞當見 棄、故自力来送。」寵曰:「吾何能及公〔言〕邪?甚勤苦父老。」為選一大錢受之。故会稽號為「取一錢」〔三〕、其清如此。薄衣服、弊車馬、其与人交 恂恂然。在朝廷正色、不可干以私、閉門静居、不接賓客、教誨子孫而已。故進不見惡、退無謗言。
〔一〕 範書作「山谷鄙生」。王補曰:「鄙生字、範書凡数数見、然承上文『山民願樸、乃有白首不入市井者』、則袁紀為合。」〔二〕 発、発求、即徴斂也。〔三〕範書作「號寵為『一錢太守 』」。

劉寵伝は、やるならば後日。

封曹節十八人為列侯、討陳、竇之功也。

曹節ら十八人が、陳武・竇武を討伐した功績によって、列侯に封じられたという。『范書』霊帝紀にはない。
『范書』曹節伝によると、曹節は淯陽侯となり、王甫は爵位は記述がなく、共闘した、朱瑀・共普・張亮に増邑などがあり、その他十一人が関内侯になったという。

『范書』宦者 曹節伝:節遷長樂衞尉,封育陽侯,增邑三千戶;甫遷中常侍,黃門令如故;瑀封都鄉侯,千五百戶;普、亮等五人各三百戶;餘十一人皆為關內侯,歲食租二千斛。

『袁紀』が「十八人を列侯にした」は、要約しすぎた疑惑があろうか。

建寧元年冬

十月甲辰晦、日有蝕之。
鮮卑犯幽州、殺略吏民。自此以後、無歳不犯塞。

『范書』霊帝紀は、甲辰晦の日食は同じだが、これを受けて恩赦したことは、『范書』が詳しい。『范書』は、十一月の太尉交代を記すが、『袁紀』にない。

『范書』霊帝紀:冬十月甲辰晦,日有食之。令天下繫囚罪未決入縑贖,各有差。十一月,太尉劉矩免,太僕沛國聞人襲為太尉。十二月,鮮卑及濊貊寇幽并二州。

『袁紀』は鮮卑が幽州を犯したとのみ言うが、『范書』は「十二月」と特定し、濊貊も加わり、并州も犯されたとし、侵略の規模が大きい。

陳・竇之誅、海内冤之。曹節善招礼名賢、以衛其罪。乃言於帝、就拝姜肱為犍為太守、韋著為東海相。詔書迫切、肱浮海遁逃、卒不屈去。著不得已、遂解巾臨郡、為政任威刑、妻子放恣、為受罰家所告、(輪)〔論〕輸左校。刑(音)〔竟〕帰郷里、為奸人所殺。

陳蕃・竇武が冤罪とされ、世論の批判をかわすため、曹節が明賢を招いた。招かれたのは、姜肱と韋著である。

『范書』独行 向栩伝に、「又與彭城姜肱、京兆韋著並徵,栩不應」と並称されているが、曹節に登用された話ではない。
『范書』列伝四十三 姜肱伝に、「中常侍曹節等專執朝事,新誅太傅陳蕃、大將軍竇武,欲借寵賢德,以釋眾望,乃白徵肱為太守。肱得詔,乃私告其友曰:「吾以虛獲實,遂藉聲價。明明在上,猶當固其本志,況今政在閹豎,夫何為哉!」乃隱身遯命,遠浮海濱。再以玄纁聘,不就。即拜太中大夫,詔書至門,肱使家人對云「久病就醫」。遂羸服閒行,竄伏青州界中,賣卜給食。召命得斷,家亦不知其處,歷年乃還。年七十七,熹平二年終于家。弟子陳留劉操追慕肱德,共刊石頌之。」とある。

『范書』姜肱伝によると、宦官曹節が、陳蕃・竇武を殺害した批判をかわすため、姜肱を太守にしようとした(犍為太守とまで特定していない)が、海路に逃げたとある。内容は共通するが、テキストは別系統か。

姜肱と韋著は、セットになるようで、『范書』徐稺伝に、「延熹二年,尚書令陳蕃、僕射胡廣等上疏薦稺等曰……「伏見處士豫章徐稺、彭城姜肱、汝南袁閎、京兆韋著、潁川李曇,德行純備,著于人聽。」と、生前の陳蕃が、姜肱・韋著をセットで推薦したことがあった。

姜肱の名前で『范書』にヒットするのは、もう限界。任命したのが犍為太守であったというのは、以上の文脈では見つけられなかった。
もうひとりの韋著は、『范書』列伝十六 韋彪伝に列伝が附属しており、そこに関連する記述がある。

『范書』韋彪伝 附韋著伝:靈帝即位,中常侍曹節以陳蕃、竇氏既誅,海內多怨,欲借寵時賢以為名,白帝就家拜著東海相。詔書逼切,不得已,解巾之郡。政任威刑,為受罰者所奏,坐論輸左校。又後妻憍恣亂政,以之失名,竟歸,為姦人所害,隱者恥之。

曹節の差配で、韋著が東海相に任命されたこと、その結末は、こちらは韋著伝と一致し、同系統のテキストと考えられる。180518

曹操の祖父曹騰が明賢を登用したことは、プラス評価される。曹節(曹騰の血縁ではない)は、陳蕃・竇武を殺害した直後、批判をかわすため、姜肱・韋著を太守・国相に登用(両名は陳蕃に推薦された履歴あり)。批判をかわすためとは、袁宏・范曄の地の文での推定(邪推?)ですが、明賢の政治利用です。
宦官だって、当世の評判を検知できる。政治のために、人材登用・評価をすることだってあるでしょう。登用が受諾されるか、拒絶されるかは、複合的な要因があるが(当時の王朝の趨勢、登用者の評判、登用された側の性格や事情)。曹騰は清流にも人脈が連なるが、曹節は単なる濁流!という決めつけは出来まい。


『袁紀』と『范書』のこと

『范書』と『袁紀』のテキスト比較は、近親相姦した親族集団の、子世代たちと、孫世代たちの顔を比較するに等しい。一人一人(テキストの各部分)を比べると、概ね顔は似ている。だが、乱交しているから、厳密な父子関係は未詳。
ある二人のペアは、親子かも知れないし(袁紀が親)、おじ・おいかも知れない。年の離れた兄弟かも知れない。共通の祖父を持つかも知れないし、曾祖父まで遡らないと血が直結しないかも知れない。ついうっかり、他人の子が紛れこんでいる可能性も、否定できない。180518

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『後漢紀』巻二十三_建寧二(169)年

建寧二年春夏

春正月丁丑、大赦天下。迎慎〔園〕(国)董貴人幸南宮嘉德殿。

この年は、甲辰朔なので、丁丑はないそう。『范書』霊帝紀は、大赦を「正月丁丑」に作り、『袁紀』と同じ。どこにも正解がない。

二月己巳、尊董貴人為孝(文)〔仁〕皇后。後置永〔楽〕宮、如匽貴人之礼。貴人、河間人。配解瀆侯萇、生帝。後兄子重為五官中郎将〔三〕。

『范書』は、三月乙巳に作る。二月は癸酉朔なので、少なくとも己巳はないという。『范書』と蔡邕『独断』に基づき、董貴人の謚号を改めるべき。
董貴人は河間の人で、董重が五官中郎将になったというのは、『范書』霊帝紀に見えない。『范書』皇后紀に、衛尉の脩侯(脩は県名)として登場し、驃騎将軍になったというが、五官中郎将ではない。董重の官歴が、異なるかも知れない。

『范書』に省略があるという言い方もできる。


夏四月壬辰、青蛇見御座殿軒。癸巳、大風折木。詔群臣各上封事、靡有所諱。

『范書』は、青蛇のことを載せない。四月癸巳の気候異常は、『范書』のほうが「雨雹」が多く、『通鑑』は両方を載録したと。

『范書』霊帝紀:夏四月癸巳,大風,雨雹。詔公卿以下各上封事。

群臣に意見提出を求めた。『范書』霊帝紀は、意見を引用しないが、『袁紀』は列伝がないので、適宜、脱線する。

議郎謝弼上疏曰:「蓋聞蛇者、女子之祥也。皇太后幽隔空宮、愁感天心所致(于)〔也〕。皇太后定策帷幄、援立陛下、雖父兄不軌、非皇太后之罪。陛下當以其 誅滅之故、特加慰釋之念、而反隔絕、靡有朝問之礼、大虧孝道、不可以示四方。昔周襄王不能事母、夷狄交侵、天命去之、遂陵遲不複興。礼:為人後者為 之子。今以孝桓皇帝為父、豈得不以皇太后為母哉!援神契曰:「天子行孝、四夷和平。』方今邊境斥候、兵革蜂起、非孝無以濟之。願陛下上以堯舜為法、下以襄 王為戒、無令皇太后憂愁於北宮。一旦有霧露之疾〔一〕、陛下當何面目以見天下乎?」

『范書』列伝四十七 謝弼伝に、「時青蛇見前殿,大風拔木,詔公卿以下陳得失。弼上封事曰」と意見書が引かれている。

謝弼伝:臣又聞「惟虺惟蛇,女子之祥」。伏惟皇太后定策宮闥,援立聖明,書云:「父子兄弟,罪不相及。」竇氏之誅,豈宜咎延太后?幽隔空宮,愁感天心,如有霧露之疾,陛下當何面目以見天下?昔周襄王不能敬事其母,戎狄遂至交侵。……

周襄王の故事を引くのも同じだが、文の順序が、『袁紀』と『范書』で、盛んに入れ替わっている。范曄がリライトしたのだろうか。順序は異なるが、材料は共通。『援神契』という緯書は、どちらでも使用されている。

電子テキストで引いた注に、〔一〕「霧露」一詞出史記淮南厲王伝袁盎諫文帝之語中、本指受風寒一類的疾病、此乃但有不幸之意。とある。

謝弼の結末は、謝弼伝によると「左右惡其言,出為廣陵府丞。去官歸家」と、この意見のせいで左遷される。『袁紀』も同じことを伝えるが、その前に、同じ気候以上を受けた意見具申を引用する。張奐の意見である。

又匈奴中郎将張奐上書曰:「臣聞風〔為〕(以)號令、動物通氣。木者、火之本、相須乃明。蛇者屈伸、隱顕似龍。順至為休徴、逆来為災殃。 故大将軍竇武忠肅恭儉、有援立之功。太傅陳蕃敦方抗直、夙夜匪懈。一旦被誅、天下驚怛、海内嘿嘿、莫不哀心。昔周公既薨、成王葬不具礼、天乃大風、偃木折 樹。成王発書感悟、備礼改葬、天乃立反風、其木樹尽起〔一〕。今宜改葬蕃、武、選其家屬、諸被禁錮、一宜蠲除、則災変可消、升平可致也。」

謝弼に続き、張奐が意見を述べた。『范書』張奐伝でも、范曄が地の文で状況を説明し、この上書を載せている。竇武・陳蕃の名誉回復を唱えた。

『范書』張奐伝:明年夏,青蛇見於御坐軒前,又大風雨雹,霹靂拔樹,詔使百僚各言災應。奐上疏曰:「臣聞風為號令,動物通氣。木生於火,相須乃明。……

ちなみに、〔一〕は『尚書大伝』が出典だと。

天子雖知奐言是、然迫於節等、不得從之。中官惡謝弼、出為〔広〕陵府丞。郡縣承旨、以他罪死獄中。

張奐伝の結末は、「天子深納奐言,以問諸黃門常侍,左右皆惡之,帝不得自從」と、黄門常侍に慮り、霊帝は聞き入れなかったという。謝弼が、広陵府丞になったのは、謝弼伝と同じ(上記)。謝弼の死も、謝弼伝に見える。

『范書』謝弼伝:中常侍曹節從子紹為東郡太守,忿疾於弼,遂以它罪收考掠按,死獄中,時人悼傷焉。初平二年,司隸校尉趙謙訟弼忠節,求報其怨〔魂〕,乃收紹斬之。

中常侍の曹節の従子である曹紹は、東郡太守となると、謝弼を他罪にかこつけて殺した。初平二年、司隷校尉の趙謙が、曹紹を斬って報仇してくれたと。

◆張奐伝

張奐字然明、敦煌酒泉人。少与安定皇甫規俱顕當世、而奐又与規善。初、奐為梁冀所闢、冀被誅、奐廢錮。眾人莫敢為言、唯規数薦奐。由是為武威太 守、度遼将軍、幽、並清淨、吏民歌之。徴拝大司農、賜錢二十萬、除家一人為郎。奐譲不受、願徙戶華陰。舊制:邊民不得内徙。唯奐因功得聴、故奐始為弘農人。
建寧初、奐新至未除、会陳、竇之事。中常侍曹節等承制、使奐率五營士圍武。武自殺、蕃下獄死、義士以此非奐。然素立清節、當可否之間、雖強禦不 敢奪也。後以黨事免官禁錮。河東太守董卓慕其名、使兄遺奐縑百匹。奐不受、知卓有奸凶之心、遂与絕。至於朋友之饋、雖車馬不辞也。時被黨錮者、多不守静、 或徙或死、唯奐杜門不出、養徒著書矣〔一〕。

張奐伝は、やるなら後日。

六月、司徒劉寵為太尉。

『范書』霊帝紀のほうが、三公の異動が網羅的。『袁紀』は、三公の異動を網羅する意図がない。(袁宏の考える)主要人物の移動をカバーしようか……というレベルか。六月に、劉寵が太尉になったことは、『袁紀』と『范書』で違いはない。

五月,太尉聞人襲罷,司空許栩免。六月,司徒劉寵為太尉,太常許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。


建寧二年秋冬

九月、江夏丹陽蠻夷反。

『范書』霊帝紀は、七月に先零羌を破った記事があるが、『袁紀』は見えない。
九月に江夏の蛮夷が叛乱したことは、『范書』と共通だが、丹陽の蛮夷も叛乱したことは、『袁紀』にしか見えない。丹陽の蛮夷として括られてしまったのは、陳夤(陳寅)と思われ、『范書』は「山越」と区別している。

『范書』霊帝紀:秋七月,破羌將軍段熲大破先零羌於射虎塞外谷,東羌悉平。九月,江夏蠻叛,州郡討平之。丹陽山越賊圍太守陳夤,夤擊破之。


ここで『袁紀』は、党錮の禁がひどくなる。
『范書』霊帝紀にも、関連する記事があるが、書き方が異なる。『范書』は、十月丁亥、侯覧がきっかけを作って、党人の範囲を拡大させた。

『范書』霊帝紀:冬十月丁亥,中常侍侯覽諷有司奏前司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺、司隸校尉朱(瑀)〔㝢〕、潁川太守巴肅、沛相荀(翌)〔昱〕、河內太守魏朗、山陽太守翟超皆為鉤黨,下獄,死者百餘人,妻子徙邊,諸附從者錮及五屬。制詔州郡大舉鉤黨,於是天下豪桀及儒學行義者,一切結為黨人。

李賢注に、「事具劉淑・李膺伝」とあるように、范曄は、李膺伝にも散らして、党錮事件を記述した。袁宏は、道1本で説明するから、以下のようになる。

李膺等以赦獲免、而党人之名書在王府、詔書毎下、輒伸党人之禁。陳、竇当朝後、親而用之、皆勤王政而尽心力、抜忠賢而疾邪佞。陳・竇已誅、中官逾專威勢、既息陳・竇之党、又懼善人謀己、乃諷有司奏「諸鉤党者、請下州郡考治」。時上年十四、問節等曰:「何以為鉤党?」対曰:「鉤党者、即党人也。」上曰:「党人何用為而誅之邪?」対曰:「皆相挙群輩、欲為不軌。」上曰:「党人而為不軌、不軌欲如何?」対曰:「欲圖社稷。」(帝)〔上〕乃可其奏。

陳蕃・竇武がいなくなり、宦官が権勢を強める。霊帝が曹節に、党錮について質問し、十四歳の霊帝は、丸めこまれてしまったと。宦官の狡猾さと、霊帝の悪い意味でのピュアさを、「見てきたように」伝える逸話。袁宏が参考にした歴史書にあった逸話だろうが、後世のバイアスを感じる。
『范書』のなかで、対応する記述が見つけられなかった。党錮vs宦者は、范曄ががんばって編集したことなので、簡単に比較できない。

於是故司空王暢、太常趙典、大司〔農〕(空)劉佑、長楽少府李膺、太僕杜密、尚書荀緄、朱宇、魏朗、侍中劉淑、劉瑜、左中郎将丁栩、潁川太守巴肅、沛相荀昱〔一〕、議郎劉儒、故掾範滂、皆下獄誅、皆民望也。其餘死者百餘人。天下聞之、莫不垂泣。

上に引いた『范書』霊帝紀では、虞放・杜密・李膺・朱(瑀)〔㝢〕・巴肅・荀(翌)〔昱〕・魏朗・翟超が禁錮された。『袁紀』は、これよりも人名が多い。『范書』党錮伝と、あわせれば、『范書』霊帝紀は、人名を補えるかも知れない。

范曄が、なにを霊帝紀に書き(時代の主流と係わりを持つと見なし)、なにを党錮伝に書いたのか、という散らし方に興味が向く。

沛相荀氏の名前〔一〕は、『范書』党錮伝は「荀翌」、荀淑伝は「荀昱」に作り、『袁紀』は「荀昱」に作るという。翌は昱の本字らしい。
袁宏は、「天下聞之、莫不垂泣」とするが、歴史観ありきの記述であり、世論調査のレポートではない。先行する歴史書に、こういう「党錮の禁に対して、絶望する空気」の文が、あったと思われる。

◆袁宏のコメント

袁宏曰:「夫稱至治者、非貴其無辞、貴萬物得所、而不失其情也。言善教者、非貴其無害、貴性理不傷、性命咸遂也。故治之興、所以道通群心、 在乎萬物之生也。古之聖人、知其如此、故作為名教、平章天下。天下既寧、萬物之生全也。保生遂性、久而安之。故名教之益、萬物之情大也。当其治隆、則資教 以全生;及其不足、則立身以重教。然則教也者、存亡之所由也。夫道衰則教虧、幸免同乎苟生;教重則道存、滅身不為徒死、所以固名教也。污隆者、世時之盛衰 也。所以〔政〕辞而治理不尽、世弊而教道不絕者、任教之人存也。夫稱誠而動、以理為心、此情存乎名教者也。内不忘己以為身、此利名教者也。情於名教者少、 故道深於千載;利名教者眾、故道顕於当年。蓋濃薄之誠異、而遠近之義殊也。體統而觀、斯利名教之所取也。


◆逮捕される党人たち
袁宏のコメントを挟んで、李膺の結末。

郷人謂李膺曰:「可逃之乎?」膺嘆曰:「事不辞難、罪不逃刑、臣之節也。吾年已七十、禍自己招、複可避乎!」

『范書』で李膺は、年齢を「すでに六十」と自己申告しており、『袁紀』よりも若い。

『范書』李膺伝:後張儉事起,收捕鉤黨,鄉人謂膺曰:「可去矣。」對曰:「事不辭難,罪不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之?」乃詣詔獄。考死,妻子徙邊,門生、故吏及其父兄,並被禁錮。


詔書至汝南、督郵吳道悲泣不忍出〔一〕、縣中不知所為。範滂聞之曰:「督郵何泣哉?此必為吾也」。徑詣縣獄。縣令郭揖見滂曰:「天下大矣、子何為在此!」滂曰:「何敢彰罪於君、使禍及老母。」滂与母訣曰:「滂承順教訓、不能保全其身、得下奉亡君於九 泉、亦其願也。」母曰:「爾得李、杜齊名、吾複何恨!」

『范書』党錮 范滂伝にもある、范滂がは逮捕される話。范滂伝のなかで、「建寧二年」と断って、李膺に巻きこまれたことと、それを母が誇りに思ったことがある。

『范書』范滂伝:建寧二年,遂大誅黨人,詔下急捕滂等。督郵吳導至縣,抱詔書,閉傳舍,伏牀而泣。滂聞之,曰:「必為我也。」即自詣獄。縣令郭揖大驚,出解印綬,引與俱亡。曰:「天下大矣,子何為在此?」滂曰:「滂死則禍塞,何敢以罪累君,又令老母流離乎!」其母就與之訣。滂白母曰:「仲博孝敬,足以供養,滂從龍舒君歸黃泉,存亡各得其所。惟大人割不可忍之恩,勿增感戚。」母曰:「汝今得與李、杜齊名,死亦何恨!既有令名,復求壽考,可兼得乎?」

〔一〕『范書』は、「吳道」作を「吳導」に作る。

三君八雋之死、郭泰私為之慟曰〔一〕:「『人之云亡、邦国殄瘁』、漢室滅矣。未知『瞻烏爰止、於誰之屋』。」

党人が逮捕され、郭泰が歎いた。党錮の禁の波及に関する、人々の反応が羅列されているところ。
〔一〕『通鑑考異』によると、『范書』で郭泰は、「陳・竇」が敗北したことを歎いており、『袁紀』で郭泰は「三君・八俊」のために歎くという差異がある。

『范書』郭太伝:建寧元年,太傅陳蕃、大將軍竇武為閹人所害,林宗哭之於野,慟。既而歎曰:「『人之云亡,邦國殄瘁』。『瞻烏爰止,不知于誰之屋』耳。」

『范書』は、建寧元年、陳蕃・竇武が敗北したことを受けている。『袁紀』は、翌年の建寧二年、党錮の禁が拡大したことを受けている。
郭泰が、時流に歎いたという史実が先にあって、それを、袁宏・范曄が、自分がイメージしやすいほうに結合させたか。

もしも范曄が、陳蕃・竇武の敗北をとくに残念がっているから、郭泰の歎く対象を三君・八俊から移し替えた……と言えたら素晴らしいが。


長すぎる郭泰伝ら

ここから郭泰伝があり、『袁紀』の編年に挿入されている。長すぎるので、後日やる。郭泰が、袁宏にとって重要人物であることは分かる。続いて、仇香伝・黄憲伝・陳寔伝などが並んでいる。党錮の範囲拡大にインスパイアされて、関係する人物の列伝が載っている。
いまのテーマは、編年体を見ることだから、省く。
党人は、范曄が「特別編集」をやって、体例とか、列伝構成の重複とか、ミスをしているようですが、それだけ「整理しにくい」事件でした。政治の主流と関係ない、在野の逸話の羅列だから、まとめにくい。後漢王朝にとっての事件の功罪を定めるのが難しい。魏晋というか、六朝貴族のルーツと見ることもできるから、ムゲに扱えない。

建寧二年の記事のこり

陳寔・陳紀伝のあとに、オマケのような記述がある。
しかし、『范書』霊帝紀にあって、『袁紀』でカバーし損ねている霊帝紀は、「(庚子)〔戊戌〕晦,日有食之。十一月,太尉劉寵免,太僕郭禧為太尉。鮮卑寇并州。是歲,長樂太僕曹節為車騎將軍,百餘日罷」です。まるまる、脱落している。郭泰伝に、熱中している場合ではないのです。

是歳、爵號乳母趙嬈為平氏君。

霊帝の乳母に「平氏氏」の号が与えられた。「平氏君」で検索しても、正史は、『晋書』顧和伝に「惟漢靈帝以乳母趙嬈為平氏君,此末代之私恩,非先代之令典」とあるけど、『後漢書』はヒットしなかった。「平氏」で検索しても、県名と分かるが、趙嬈を封建したことは見えない。「趙嬈」で検索しても見つからず。探し方が悪いかも。見つけたら、修正します。180519

『後漢紀』を「読む」としても、いろんな方法がある。校勘・訓読し、事柄を説明して現代語訳するのが正面攻略に違いないでしょう。しかし、すでに『全訳後漢書』があるのだから、活用することを考える。范曄との異同をつかみ、差異部分に着目して分析してみるのも、「読む」には違いない。范曄『後漢書』→袁宏『後漢紀』の成立順ではないから、読み方は複雑です。袁宏は、范曄の元ネタのひとつには違いないが、范曄はそれ以外も見ている。両書の違いを指摘することは、范曄の編纂の周到さを知るには有効だが、「袁宏を読む」ことには使えない。やっぱ複雑。

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『後漢紀』巻二十三_建寧三年~五年

建寧三(一七〇)年

春、河内婦食夫、河南夫食婦。冬、濟南盜賊群起。冬十月、大鴻臚喬玄為司空〔一〕。
〔一〕 範書靈帝紀作「八月、大鴻臚橋玄為司空」、袁紀此條恐当移於上條前。又下文「 喬」亦作「橋」。按橋本作喬、二字通。

『范書』は、夫婦の食いあいを「正月」として、月が詳しい。『范書』は、三月丙寅晦の日食の記事が多い。共通のテキストの祖先があり、『袁紀』が省き過ぎ、『范書』が比較的多くを保存したか。

『范書』霊帝紀:三年春正月,河內人婦食夫,河南人夫食婦。三月丙寅晦,日有食之。

三公の異動は、『袁紀』が誤りと思われ、『范書』で読むべき。

夏四月,太尉郭禧罷,太中大夫聞人襲為太尉。秋七月,司空劉囂罷。八月,大鴻臚橋玄為司空。九月,執金吾董寵下獄死。

盗賊のことも、『范書』のほうが詳しく、東平陵が攻撃されたと分かる。建寧三年は、『袁紀』は、見るべきものがない。反対に、范曄の作業精度の高さが分かる。

建寧四(一七一)年

春正月甲子、帝加元服、大赦天下。二月癸卯、地震、河水清。三月辛酉朔、日有蝕之。太尉劉寵、司空喬玄以災異策罷〔一〕。
〔一〕範書靈帝紀作「太尉聞人襲免、太僕李咸為太尉」、又「司徒許訓免、司空橋玄為司徒」。

元服・大赦・地震・日食は、『范書』霊帝紀と同じ。三公の異動は、『范書』のほうが優れている。『袁紀』を見なくてよいのでは。

夏四月、河東地裂十二處、各長十餘里〔一〕。
〔一〕範書靈帝紀作五月事。又続漢五行志亦作五月、且言「裂合長十里百七十步、広者三十餘步、深不見底」。

『袁紀』が四月に作る地割れを、『范書』霊帝紀は五月に作ると。『続志』も五月に作るから、五月だろう。いずれも『袁紀』が劣る。

『范書』霊帝紀:五月,河東地裂,雨雹,山水暴出。


秋七月癸丑、立皇后宋氏。宋隱〔后〕之從孫也〔一〕。以選入掖庭、立為皇后。父為執金吾〔二〕、封不期侯〔三〕。
〔一〕範書皇后紀作「肅宗宋貴人〔父〕之從曾孫也」。又御覧巻一三七引続漢書作「貴人之從孫」、与袁紀同。宋貴人被章德竇后誣陷而死。安帝立、追尊其為敬隱皇后。則袁紀「宋隱」下恐脫「後」字、範書作「從曾孫」、誤。〔二〕範書「豐」作「酆」。〔三〕範書皇后紀作「不其郷侯」。不其、西漢時屬琅邪郡、為縣名。東漢時省並、屬東萊郡、為侯国。袁紀「期」当作「其」。

『范書』霊帝紀も、七月癸丑、霊帝の宋皇后が立つ。宋皇后の血筋は、『范書』でも誤りが疑われ、『袁紀』のほうが正しい場合もありそう。皇后の父の名と、封地の名も一致しないと。宋皇后のことは『范書』が混乱しており、『袁紀』に価値あり。

建寧四年冬は、『范書』霊帝紀は、「冬、鮮卑寇并州」しかない。年月日は、『袁紀』の独自記事に見える。なぜ霊帝紀は、記事が少ないか。『范書』は、皇后もまた本紀としたから、時系列が皇后紀に散らかっている。皇后紀と合わせて読むことで、同じ史実を拾うことができる。

冬十月戊午〔一〕、上率群臣朝皇太后於雲台。初、太后有援立之功、竇氏雖誅、上心知之、故率群臣俱朝焉。
〔一〕 是月戊子朔、無戊午。或系九月之誤。

群臣が皇太后と雲台で朝見したとある。十月戊午という日付は、暦に合わないよう。『范書』は、霊帝紀ではなく竇皇后紀に、関連記事が見える。

『范書』竇皇后紀:竇氏雖誅,帝猶以太后有援立之功,建寧四年十月朔,率羣臣朝于南宮,親饋上壽。黃門令董萌因此數為太后訴怨,帝深納之,供養資奉有加於前。中常侍曹節、王甫疾萌附助太后,誣以謗訕永樂宮,萌坐下獄死。

皇后紀によると、十月朔に南宮で朝見した。竇武は敗れてしまったが、霊帝を援立した恩があるから、竇太后は立場を保ったというのは、皇后紀と整合する。

黄門令董萌因上意、数為太后〔訴怨〕〔一〕、上深納之、供給致養、毎過於〔前〕(別)〔二〕。於是曹節、〔王〕(皇)甫共疾萌、以「親附竇后、謗訕永楽〔宮〕」、萌下獄死。
〔一〕據範書補。蔣本闕、黄本僅作「怨」。〔二〕前、別形近而訛、今正之。

董萌のことは、上に引用した『范書』皇后紀と同じ。
もともと、竇武の敗北後の竇太后について、記録が残っていた。袁宏は、竇太后が朝見を受けた十月の記事に繋げて、「初」と遡り、董萌のことを書いた。范曄は、皇后紀に割り振った。いずれも妥当な処理と感じられる。

つぎの建寧五年は、三月に改元するから、三月までを「(建寧)五年」として扱い、三月からを「熹平元年」として扱っている。だから、この年の記事は、三月で区切れる。
『范書』霊帝紀は、この年の春は、「熹平元年春三月壬戌,太傅胡廣薨」しかない。つまり、正月・二月は、『范書』霊帝紀に対応する記事がないということ。

建寧五(一七二)年

春正月、車駕上原陵、諸侯王、公(王)〔主〕及外戚家婦女、郡国計吏、匈奴單于、西域三十六国侍子皆会焉、如会殿之儀、礼楽闋、百官受賜爵、計吏以次向殿前、上先帝御座、具言俗善惡、民所疾苦。

霊帝が原陵(光武帝陵)を訪れ、国内外の代表がここに集まったと。『范書』霊帝紀にないから、どこと比べたらよいか。

司徒掾蔡邕慨然嘆曰:「聞古不墓祭、而上陵之礼如此其備也。察其本意、乃知孝明皇帝至孝惻隱、不易奪也。」或曰:「本意云何?」対曰:「西京之時、其礼 不可得而聞也。光武〔即〕世〔一〕、始葬於此。明帝嗣位逾年、群臣朝正、感先帝不複見此礼、乃率公卿百僚、就陵而朝焉、蓋事亡如事存之意也。与先帝有瓜葛之親、男女畢会、郡計吏各向神坐而言、庶幾先帝魂神聞聴之也。今者、日月久遠、非其時人、但見其礼、不知其哀、煩而不省者、先帝孝思之心者也。」
〔一〕據続漢礼儀志注引謝承書補。

謝承『後漢書』の建寧五年正月の記事が出典。これは、『続志』礼儀上の劉昭注で読むことができる。劉昭注が載録してくれなければ、『袁紀』だけが孤立的に伝えることになってしまい、来歴が不明になるところであった。180520

『続志』礼儀上 上陵の劉昭注に、「謝承書曰:「建寧五年正月,車駕上原陵,蔡邕為司徒掾,從公行,到陵,見其儀,愾然謂同坐者曰:『聞古不墓祭。朝廷有上陵之禮,始(為)〔謂〕可損。今見(威)〔其〕儀,察其本意,乃知孝明皇帝至孝惻隱,不可易舊。』或曰:『本意云何?』……」とある。


編年体、ときどき列伝

書きながら思ったこと。後漢紀や建康実録みたいに、基本は編年体で、ときに思い出したように列伝を突っこむスタイルって、ルーツは、なんですか。『春秋左氏伝』の左氏の伝を含む全体を、編者が本文でやっている感じ?紀伝体みたいな特殊な構成を使わねば、自ずと後漢紀みたいになるか。でも「自ずと」では説明にならない。

@rubu192rubui さんはいう。編年体で思い出したように列伝を突っ込むスタイル、ルーツは荀悦の前漢紀だと思われます〜 当たり前ですが(というより時系列的に考えて逆ですが)、非常に後漢紀とよく似ていて、紀に列伝が次々刺さり、霍光や災異周りは大幅カットされて簡略化されてますね。左氏伝の体を模したそうで、根源は春秋かと

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『後漢紀』巻三十_建安二十四・二十五年

建安二十四年春夏

(三)〔二〕壬子晦、日有蝕之。夏五月、劉備取漢中。

『范書』献帝紀は「二月」に作り、『続漢書』五行志も二月という。三月は三月癸丑朔であり、壬子がないため、袁紀の誤りという。
劉備が五月に漢中を取ったのは、『范書』献帝紀と同じ。成立順序からして、范曄が『袁紀』を見て、シンプルさを評価して流用したと考えるべきか。

袁宏『後漢紀』は、范曄『後漢書』や裴松之よりも早い。記述が共通するとき、「袁宏が、范曄・裴松之を参照した」とは言えない。袁宏が見て、范曄・裴松之も見た原史料があり、偶然同じ記述を作った(または、范曄・裴松之が、袁宏を参照した)とすべき。正史を起点とするクセがあるので不思議な感じ。

『三国志』先主伝は、建安二十四年に「夏、曹公果引軍還、先主遂有漢中」とあり、五月とは書いていない。武帝紀は、「五月、引軍還長安」と、五月と判明するが、劉備を主語にしている『范書』の元ネタとしては、しっくりこない。
袁宏が、『三国志』武帝紀に基づき、劉備を主語に置き換え、この文を書いた。范曄がこれを踏襲したと思われる。あいだの別の本があったかも知れないが、現存するテキストの範囲で復元するとこうなる。

建安二十四年秋

秋八月、諸葛亮等上言曰:「唐堯至聖而四凶在朝、周成仁賢而四国作難、高后稱制而諸呂竊命、孝昭幼衝而上官逆謀、皆憑〔藉〕世寵、(藉)履国威權、窮凶極辞、社稷幾危。非大舜、周公、朱虛、博陸、則不能擒凶討逆、扶危定傾。伏惟陛下誕姿聖德、統理萬邦、而遭 家運不造之難。董卓首辞、蕩覆京畿;曹操階禍、竊執天衡;皇后太子、(鳩)〔鴆〕殺見害、剝畏天下、殘毀民物。久令陛下蒙塵幽處、人神無位、遏絕王命、厭昧皇極、欲佻神器。左将軍領司隸校尉豫、荊、益等州牧宜城亭侯備、授朝爵秩、念在輸力、以□国難。睹其機兆、赫然発憤、与車騎将軍董承 謀共誅操、将安国静難、克寧舊都。会承不密、令操游魂遂得長惡、殘泯海内。臣等毎懼王室大有閻楽之禍、小有定安之変、夙夜惴惴、戰慄累息。

八月は、『范書』献帝紀は「秋七月庚子、劉備自称漢中王」に作るから、時期がズレている。袁宏が八月としたが、范曄は別の史料を見て、「七月庚子」と作り、月を改めるだけでなく、日付を補ったことになる。『三国志』先主伝は、「秋、羣下……」と、月すら示さず、諸葛亮らの上言を載せる。
先主伝は、時期の記述に不備がある。しかし文面は、先主伝に基づき、袁宏が書いたと思われる。『全訳三国志』で、先主伝の校勘がされれば、テキストの検討は十分。「藉」字の位置は、陳璞校記の指摘だそう。

昔在虞書、敦序九族。周監二代、封建同姓、詩著其義、歷載長久。漢興之初、割裂疆土、尊王子弟、是以卒折諸呂之難、而成太宗之基。 亮等以備肺腑枝葉、宗子蕃翰、心存国家、念在弭辞。自備破收漢中、海内英雄望風蟻附、而爵號不顕、九錫未加、非所以鎮衛社稷、光照萬世。奉辞在外、 詔命断絕。昔西河太守梁統等值漢中興、限於河山、位同權均、不能相率、咸推竇融以為元帥、卒立績效、摧破隗囂。今社稷之難、甚於隴蜀、操外吞天下、内殘群 僚、朝廷有蕭牆之危、而禦侮未立、可〔為〕(謂)寒心。臣等輒依舊典、立備為漢中王、拝大司馬、董齊六軍、糾合同盟、埽滅凶逆。以漢中、巴、蜀、広 漢、犍為為国、所置依漢初立諸侯王故典。夫權宜之制、苟利国家、專之可也。然後功成事立、臣等退伏矯罪、雖死無恨。」
遂於〔沔〕(江)陽設壇場、御王冠於劉備。

引き続き、『三国志』先主伝に基づく。先主伝は、「遂於沔陽設壇場、陳兵列衆、羣臣陪位。読奏訖、御王冠於先主」とあり、袁宏がこれを節略している。

備上言曰:「臣以具臣之才、荷上将之任、董督三軍、奉辞於外、不能除寇静難、以匡王室、久使陛下聖教陵遲、六合否而不泰、惟憂反側、疢如疾首。曩者董卓造為辞階、自是之後、群凶縱橫、殘剝海内。賴陛下聖德威靈、人神同應、或忠義奮討、或上天降罰、暴逆並殪、以漸冰消。惟獨曹操久未梟除、 侵擅国〔權〕(威)、恣心極辞。臣等昔与車騎将軍董承同謀討操、機事不密、承見陷害。臣播越失據、忠義不果。遂得使操窮凶極逆、主後戮殺、皇子鳩 害。雖糾合同盟、念在奮力、懦弱不武、歷年無效。常恐殞歿、孤負国恩、假寐永嘆、夕惕若厲。
今臣群僚以為昔在虞書、敦敘九族、庶明厲翼、五帝以来、此道不廢。周監二代、建諸姬姓、實賴晋、鄭夾輔之福高祖龍興、尊王子弟、大啟九国、卒斬諸呂、以安大宗。今操惡直醜正、寔繁有徒、包藏禍心、篡逆巳顕。既王室微弱、帝族無位、斟酌古式、依假權宜、上臣大司馬、漢中王。所獲 已過、不宜複忝高位、以重罪謗。群臣見逼、迫以大義、追惟寇賊不梟、国難未已、宗廟傾危、社稷将墮、誠臣深憂之責。若應權通変、以寧聖主、雖越水火、所不 敢辞。常慮於懐、以防後悔。輒順眾議、拝授印璽、以崇国威。仰惟爵高寵厚、俯思自效、憂深責重、驚悸累息、如臨於穀。輒将率六軍、順時撲討、以寧社稷、以報萬分。」

先主伝に、「先主上言漢帝曰」と始まる文の引用である。先主伝のほうが先なので、そちらに史料的価値がある。袁宏の付加価値があるとすれば、先主伝のテキストを、より美しく正しく直したことか。

『范書』献帝紀は、この歳のことを、「八月,漢水溢。冬十一月,孫權取荊州」と、シンプルに記すだけである。『袁紀』は、漢水叛乱と、孫権の関羽攻略を記さない代わりに、魏諷の叛乱を記すという特徴がある。袁宏が捉えた後漢末期と、范曄の捉えた後漢末期が異なるというサンプル。
袁宏は、魏諷の叛乱を、「漢王朝の断末魔」として、積極的に評価していたように見える。范曄は、魏諷のことは切り捨てた。

魏諷の反乱

九月、丞相掾魏諷謀誅曹操、発覺伏誅。諷有威名、潛結義士、坐死者数千人。

『三国志』武帝紀 注引『世語』によると、「数十人」に作るという。『通鑑』は「数千人」に作るという。
武帝紀に、「九月、相国鍾繇、坐西曹掾魏諷反、免」とある。武帝紀としては、相国鍾繇の免官こそが、本紀で取り上げるべき事実であった。袁宏は「丞相掾」に作り、武帝紀は「西曹掾」に作っている。

建安二十五年

春正月庚子、魏王曹操薨、謚曰武王。

曹操の薨去した日は、『三国志』武帝紀に同じ。

壬寅、詔曰:「魏太子丕:昔皇天(拠)〔授〕乃顕考以冀我皇家、遂攘〔除〕群凶、戡定九州、弘功茂績、光於宇宙、朕用垂拱(三)〔二〕十有餘載。天不憖遺一老、永保餘一人、早世潛神、哀 悼切傷。丕奕世宣明、宜秉文武、紹熙前緒。今使使持節御史大夫華歆奉策詔、授丕丞相印綬、魏王璽黻、領冀州牧。方今外有遺慮、遐夷未賓、旗鼓尚在邊境、乾 戈不得韜刃、斯乃播揚洪烈、立功垂名之秋也。豈得修諒暗之禮、究曾、閔之志哉?甚敬服朕命、抑弭憂懐、旁祇厥序、時亮(天)〔庶〕工、以稱朕意。於戲、 可不勉乎!」

曹丕に魏王を継承させる詔は、『三国志』文帝紀 注引『袁紀』に載っており、こちらが出典。正月壬寅(二十五日)という日付は、裴松之注にないから、ここでしか分からない情報。
テキストは、文帝紀 裴松之注を見ながら校勘される。残念ながら、裴松之注のほうが精度が高いので、置き換えてもいいほど。

二月丁未朔、日有蝕之。

この日食は、『三国志』文帝紀になく、『范書』献帝紀と同じ。

冬十月乙卯、詔曰:「朕在位三十有二載、遭天下蕩覆、幸頼宗廟之靈、危而復存。然瞻仰天文、俯察民心、炎精之数既終、行運在乎曹氏。是以前王既 樹神武之績、今王又光裕明德以應其期、是歷数昭明、亦可知矣。夫(人)〔道〕之行、天下為公、選賢与能、故唐堯不私於厥子、而名播於無窮。朕羨而慕 之、今其追踵堯典、禪位於魏王。」

文帝紀 注引『袁紀』に、「朕在位三十有二載」と始まる。この詔が、十月乙卯であることは、裴松之注に見えない。乙卯の日付をもつ詔は、文帝紀 注引『献帝伝』では、別の詔が置かれていたり、問題が多い。
文帝紀 裴松之注が、『献帝伝』の膨大なテキストに陥る前に、この『袁紀』の禅詔が置かれているので、これで充分な気がする。テキストの訂正箇所の十二字は、『礼記』礼運が典拠なので、修正が可能である。

乃告宗廟、使御史大夫張音奉皇帝璽綬、禪位於魏王曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不於常、惟帰有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大辞滋昏、群凶肆逆、宇宙傾覆。賴武王拯茲難於四方、惟清區夏、以〔保〕綬我宗廟、豈余一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光 於乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈、皇天降瑞、人神告徴、誕惟亮採、師錫朕命、僉曰爾禮度克協於虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之歷数在爾躬、允執其中、天祿永終;君其祇奉大化、饗茲萬国、以肅天道。」

『三国志』文帝紀の陳寿本文にある禅詔である。成立順序からして、袁宏が、『三国志』文帝紀を引用して、『後漢紀』の最後を作ったと考えてよいでしょう。

庚午、魏王即皇帝位、改年曰黄初。
魏帝既受禪、問尚書陳群曰:「朕應天順民、卿等以為何如?」群對曰「臣与華歆俱事漢朝、難欣聖化、義形於色。」

ここでは、庚午の日付。庚午と辛未の2つの日付があるのは、研究がある。
曹丕が陳羣に質問したことだけは、文帝紀ではない。華歆伝の裴注。

『三国志』華歆伝 注引『華嶠譜敍』文帝受禪,朝臣三公已下並受爵位;歆以形色忤時,徙為司徒,而不進爵。魏文帝久不懌,以問尚書令陳羣曰:「我應天受禪,百辟羣后,莫不人人悅喜,形于聲色,而相國及公獨有不怡者,何也?」羣起離席長跪曰:「臣與相國曾臣漢朝,心雖悅喜,義形其色,亦懼陛下實應且憎。」帝大悅,遂重異之。

袁宏のほうが、裴松之よりも早い。華氏の族譜から、このエピソードをピンポイントで抜粋するというのは、袁宏の特別な執念を感じる。

◆袁宏のコメント

袁宏曰:夫君位、萬物之所重、王道之至公。所重在德、則弘濟於仁義;至公無私、故変通極於代謝。是以古之聖人、知治辞盛衰有時而然也、故大 建名教、以統群生、本諸天人、而深其關鍵。以德相伝、則禪譲之道也;暴極則変、則革代之義也。廢興取与、各有其会、因時觀民、理尽而動。然後可以経綸丕 業、弘貫千載。是以有德之興、靡不由之;百姓与能、人鬼同謀、屬於蒼生之類、未有不蒙其澤者也。其政化遺惠、施及子孫、微而複隆、替而複興、豈無僻王賴前 哲以免〔一〕。及其亡也、刑罰淫濫、民不堪命。匹夫匹婦、莫不憔悴於虐政;忠義之徒、無由自效其誠。故天下囂然、新主之望、由茲而言。君理既尽、雖庸夫得 自絕於桀、紂;暴虐未極、縱文王不得擬議於南面、其理然也。
〔一〕疑文有脫誤。
漢自桓、靈。君道陵遲、朝綱雖替、虐不及民。雖宦豎乘間、竊弄權柄、然人君威尊、未有大去王室、世之忠賢、皆有寧本之心。若誅而正之、使各 率職、則二祖、明、章之業、複陳乎目前、雖曰微弱、亦可輔之。時獻帝幼衝、少遭凶辞、流離播越、罪不由己。故老後生未有過也。其上者悲而思之、人懐匡複之志。故助漢者協從、背劉者眾乖、此蓋民未忘義、異乎秦漢之勢。魏之討辞、實因斯資、旌旗所指、則以伐罪為名;爵賞所加、則以輔順為首。然則劉氏之德未泯、 忠義之徒未尽、何言其亡也?漢苟未亡、則魏不可取。今以不可取之實、而冒揖譲之名、因輔弼之功、而當代德之號、欲比德堯舜、豈不誣哉!


楊彪が魏の三公を固辞

初、魏王欲以楊彪為太尉、彪辞曰:「嘗已為漢三公、遭世衰辞、不能立尺寸之益、若復為魏氏之臣、於義既無所為、於国選亦不為榮也。」遂聴所守。

魏王は楊彪を魏の太尉としようとしたが、楊彪は固辞した。『三国志』文帝紀 注引『続漢書』に、類似の記事がある。

文帝紀 注引『続漢書』:続漢書曰、彪見漢祚将終、自以累世為三公、恥為魏臣、遂称足攣、不復行。積十余年、帝即王位、欲以為太尉、令近臣宣旨。彪辞曰、嘗以漢朝為三公、値世衰乱、不能立尺寸之益。若復為魏臣、於国之選、亦不為栄也。帝不奪其意。

漢の三公として功績がなかったから、受諾できないと。魏王曹丕がその志を尊重したということは、『続漢書』のほうが詳しい。

及魏受禪、乃下詔曰:「夫先王制幾杖之賜、所以賓禮黄耇、褒崇元老也。昔孔光・卓茂皆以淑徳高年、受此嘉錫。公故漢宰相、乃祖已来、世著忠賢。公年過七十、行不逾(距)〔矩〕、可謂老成人矣、所宜寵異、以彰舊德。其錫公延年杖及伏幾、延請之日、使杖入侍;又使著鹿皮帽冠。彪上章固譲、不聴。年八十四、以寿終。

すぐ上の文帝紀 注引『続漢書』の続きと繋がる。

文帝紀 注引『続漢書』:黄初四年、詔拝光禄大夫、秩中二千石。朝見位次三公、如孔光故事。彪上章固譲、帝不聴。又為門施行馬、致吏卒、以優崇之。年八十四、以六年薨。

詔の文面は、文帝紀 注引『魏書』がある。裴松之は、まず『魏書』を引き、つぎに上の『続漢書』を引いており、時系列になっていない(裴松之の使命は、関連史料を列挙することだから、内容が時系列でないことは責められない)。

文帝紀 注引『魏書』:魏書曰、己亥、公卿朝朔(日)〔旦〕、并引故漢太尉楊彪、待以客礼。詔曰、夫先王制几杖之賜、所以賓礼黄耇、褒崇元老也。昔孔光・卓茂皆以淑徳高年、受茲嘉錫。公故漢宰臣、乃祖已来、世著名節。年過七十、行不踰矩、可謂老成人矣。所宜寵異以章旧徳。其賜公延年杖及馮几。謁請之日、便使杖入。又可使著鹿皮冠。彪辞譲不聴、竟著布単衣・皮弁以見。

いずれも、『范書』楊彪伝ではないのがポイント。
東晋時代(裴松之がまとめ作業をする前)、陳寿が切り捨てた『続漢書』や『魏書』が別に存在し、まず東晋の袁宏がこれを繋げて『後漢紀』を作った。それとは別に、南朝宋の裴松之が、文帝紀の注釈として、切り貼り・列挙をした。

◆挿入された楊彪伝は、別に検討する。

彪字文先、幼習祖考之業、以孝義稱。自為公輔、值王室大辞、彪流離播越、経歷艱難、以身衛主、不失中正、天下以此重之。自震至彪、四世宰輔、皆 以儒素名德相承。秉・賜雖方節不及震、然其恭謹、孝友、篤誠、不忝前列也。有子曰修、少有俊才、而德業之風尽矣。至魏初、坐事誅。


後漢時代の終焉

〔十一月〕癸酉、魏以河内之山陽、封漢帝為山陽公、行漢正朔焉。明年、劉備自立為天子。

『三国志』文帝紀に「黄初元年十一月癸酉」とあることに基づき、「十一月」三字を補う。十一月一日である。
翌年の劉備の皇帝即位をもって終わることは、『袁紀』の歴史認識の反映である。記事の選択、突飛さは、それが特徴である。180517

『袁紀』佚文

以下、電子化計画に載っていたので佚文を貼る。
附録一:後漢紀佚文:
基字憲公、茲字季公、並為長史、聞固策免、並棄官亡帰巴漢。南鄭趙子賤為郡功曹、詔下郡殺固二子。太守知其枉、遇之甚寬、二人讬服藥夭、具棺器、欲因出逃。子賤畏法、敕吏驗實、就殺之。(『范書』李固伝注)/長楽衛尉馬騰、其長八尺、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。(『初学記』巻十九、『太平御覧』巻三七七)/崔駰詣竇憲、始及門、憲倒屣迎之、曰:「吾受詔交公、公何得薄哉?」(『太平御覧』巻四七四)/崔駰上書曰:「竊聞春陽発而倉庚鳴、秋風厲而蟋蟀吟、蓋氣使之然也。」(『太平御覧』巻九四九)/第五倫為司空、有人与倫千里馬者、倫雖不取、毎三公有所選挙、倫心不忘也、然亦終不用。(『太平御覧』巻二〇八)/種皓字景伯、父為定陶令、有財三千萬。父卒、皓皆以賑郷里貧賤者、其進趣名利者、皆不与交通。(『太平御覧』巻四七六)/韓卓字子助、陳留人。臘日奴竊食、祭先人。卓義其心、矜而免之。(歳華紀麗)

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