-後漢 > 『後漢紀』献帝紀を読む

全章
開閉

『後漢紀』巻三十_建安六~十一年

建安六年

『范書』は、「六年春(三)〔二〕月丁卯朔,日有食之」とあるが、『袁紀』はこの日食を記していない。ぎゃくに『范書』献帝紀は、この年の記事は、日食しかない。以下は、『陳志』と照合することになる。

春三月、曹操以袁紹新敗、欲悉軍以征劉表、以問尚書令荀彧曰。彧曰:「今紹之敗、其眾離心、宜因而遂定;而欲遠背兗豫、南軍江漢。夫困獸猶鬥、況在紹乎?若收紹其餘燼承虛以出、則公之事去矣。」

春三月、曹操は袁紹を破ったばかりで、劉表を征伐しようとした。尚書令の荀彧が、袁紹を優先せよと言った。

『陳志』荀彧伝に、「今紹敗、其衆離心。宜乗其困、遂定之。而背兗豫、遠師江漢。若紹収其餘燼、承虚以出人後、則公事去矣」とあり、出典と思われるが、『袁紀』の「夫困獸猶鬥、況在紹乎」は、荀彧伝にない。追いつめられた獣ですら闘う(『左氏伝』の言葉)のに、まして袁紹が闘わないことがありましょうか。『左氏伝』に拠り、袁宏が付け足したか。


四月、曹操将兵於河上。八月辛卯、侍中郗慮、尚書令荀彧、司隸校尉鐘繇侍講於内。冬十一月、曹操征劉備。備奔劉表、屯新野。

四月、曹操が黄河を遡る。『陳志』武帝紀に、「六年夏四月、揚兵河上、撃紹倉亭軍、破之」とあることに拠る。
八月辛卯、侍中の郗慮・尚書令の荀彧・司隷校尉の鍾繇が、内宮で侍講した。これが正史のどこに対応するのか不明
冬十一月、曹操が劉備を討伐し、劉備は劉表に逃げた。『陳志』武帝紀だと、「九月、公還許。紹之未破也、使劉備略汝南……」とあり、九月に許に帰った後だと分かるだけ。先主伝は、年月の表記がない。

建安七年

夏五月庚戌、袁紹発病死。
初、紹有三子:譚、熙、尚。譚長而惠、尚少而美。紹妻愛尚、数稱其才。紹 以奇其貌、欲以為後、乃出譚為青州刺史。沮授諫曰:「世稱一兔走衢、萬人逐之、一人獲之、貪者悉止、分定故也。且平均以賢、德均則卜、古之制也。願上推先代成敗之誡、下思逐兔分定之義。」紹曰:「孤欲令三子各據一州、以觀其能。」授出曰:「禍其始此矣。」

袁紹の命日は、『范書』献帝紀に「七年夏五月庚戌,袁紹薨」とあり、一致する。

袁紹の命日は、『後漢紀』も『范書』献帝紀も、建安七年夏五月庚戌とするが、『後漢紀』が「発病死(病を発して薨ず)」とあるが、『范書』は「薨ず」だけ。『後漢紀』のほうが、袁紹の最期について詳しいのか、ただ悪意?でニュアンスを加えただけか。

沮授が、ウサギの話をする。これは、『陳志』袁紹伝 注引『九州春秋』と同じ。

及紹未命而死、其別駕審配、護軍逢紀宿以驕侈、為譚所疾、於是紀外順紹妻、内慮私害、乃矯〔紹〕(詔)遺命、奉尚為嗣。譚至不得立、自稱車騎将軍。由是有隙、譚軍黎陽。九月、曹操征譚、尚。

袁譚と袁紹の死後の争いも、独自記事はなさそう。
九月、曹操が袁譚・袁尚を攻撃したことは、『陳志』武帝紀に、「秋九月、公征之、連戦。譚尚数敗退、固守」とある。

越嶲男子化為婦人。周群曰:「将有易代之事者。」

『范書』献帝紀に、「是歲,越巂男子化為女子」とあるから、男子が女子に化したことは、共通している。周羣によるコメントは、『続漢書』五行志五に、「七年,越巂有男化為女子。時周羣上言,哀帝時亦有此異,將有易代之事。至二十五年,獻帝封于山陽」とある。『続漢書』を関連づけた袁宏の編集はえらい。

建安八年

春、操破譚、尚。秋七月、曹操上言:「守尚書令荀彧自在臣營、參同計畫、周旋征伐、毎皆克捷、奇策密謀、悉皆共決。及彧在台、常私書往来、大小同策、詩美腹心、伝貴廟勝〔一〕、勛業之定、彧之功也。而臣前後獨荷異寵、心所不安。彧与臣事通功並、 宜進封賞、以勸後進者。」於是封彧為萬歳亭侯〔二〕。
〔一〕孫子兵法計篇曰:「夫未戰而廟算勝者、得算多也。未戰而廟算不勝者、得算少也。多算勝、少算不勝、而況於無算乎?吾以此觀之、勝負易見矣。」 〔二〕盧弼曰:「胡三省曰:『九域志、鄭州有萬歳亭。彧所封也。』潘眉曰:『太平寰宇記九、新鄭漢舊縣、屬河南郡、有萬歳亭、後漢荀彧封萬歳亭侯於此。』弼按:韓浩封萬歳亭侯、見武紀建安十八年注。彧第六子顗、亦封萬歳亭侯、見晋書荀顗伝。」

正月、曹操が袁譚・袁尚を破ったことは、『陳志』武帝紀に、「八年春三月、攻其郭乃出戦、撃大破之、譚尚夜遁」とあり、月が一致しない。『范書』献帝紀は、とくに記述がない。
七月に曹操が上言し、荀彧の功績をほめ、万歳亭侯に封建されたという。
『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀に見えない。『陳志』荀彧伝に、「八年太祖録彧前後功、表封彧為万歳亭侯」とあるから、曹操が荀彧をほめ、万歳亭侯に封じられたことはあるが、上言は見えない。荀彧伝 注引『彧別伝』に上言が見え、「周游征伐」、「彧之功也」などは一致するが、全体的には一致していない。荀彧伝で荀彧が死んだ後、『彧別伝』に「奇策密謀不得尽聞也」と、「奇策密謀」の語は見えるが、出典というほどではない。

『荀彧別伝』は、ちくま訳8巻の解説では、「おそらく魏の人の作であろう」と、そっけない。詳細不明の書物なのだろうが、袁宏『後漢紀』に、かなり積極的に取り入れられている。取り入れの力の入り方からすると、袁宏は、『荀彧別伝』の論調・雰囲気にかなりシンパシーがあったように思える。


八月、曹操征劉表、軍次西平。譚、尚爭冀州。九月、公卿迎氣北郊、始用八佾〔一〕。冬十月、曹操至黎陽。
〔一〕範書獻帝紀作「冬十月己巳 」。又疑袁紀「始」下脫「複」字。範書及続漢祭祀志注引獻帝起居注均有「複」字。

武帝紀に、「八月、公征劉表、軍西平。公之去鄴而南也、譚尚争冀州」とあり、曹操が西平に進軍したことが、袁紹の遺子が争ったキッカケとされている。
九月、公卿は北郊で迎気し、はじめて八佾をやったと。
『范書』献帝紀は、「冬十月己巳,公卿初迎冬於北郊,總章始復備八佾舞」と、九月でなく、十月己巳のこととし、また「復」の字が多い。校勘によると、『続漢書』祭祀志 注引『献帝起居注』にも「復」があるから、補うべき。

十月、曹操が黎陽に至ったのは、『陳志』武帝紀に、「冬十月、到黎陽、為子整与譚結婚」とあるが、だいぶ曹操の動き(袁氏との戦い)が省略されている。
『范書』献帝紀は、この歳の最後に、「初置司直官,督中都官」とあり、『袁紀』は足りない。

建安九年

夏四月、操抜邯鄲。秋八月、曹操破鄴。袁尚、熙奔匈奴。辛巳、封蕭何後為安眾侯。

曹操は、四月に邯鄲を、八月に鄴を破ったと。『陳志』武帝紀に、「夏四月、留曹洪攻鄴、公自将撃楷、破之而還。尚将沮鵠守邯鄲、又撃抜之。……八月、審配兄子栄夜開所守城東門内兵。配逆戦、敗、生禽配、斬之、鄴定」とあるから、一致してはいるが、『袁紀』はかなり情報が少ない。
八月辛巳、蕭何の子孫を、安衆侯とした。正史との繋がりを見つけられなかった。

九月、孔融が上書する。

九月、太中大夫孔融上書曰:「臣聞先〔王〕分九圻、以遠及近。春秋内諸夏而外夷狄。詩云: 『封(邦)畿千里、惟民所止。』〔一〕故曰天子之居、必以眾大言之〔二〕。周室既衰、六国力征授賂、割裂諸夏。鎬京之制、商邑之度、歷載彌久、遂以暗昧。秦兼天下、政不遵舊、革□五等〔三〕、埽滅侯甸、築城萬里、濱海立門、欲以六合為一區、五服為一家、關衛不要、遂使陳項作難、家庭〔臨淵〕〔四〕、擊柝不救〔五〕。聖漢因循、未之匡改、猶依古 法。潁川、南陽、陳留、上党、三河近郡、不封爵諸侯。臣愚以為千里国内、可略從周官六郷、六遂之文、分取北郡、皆令屬司隸校尉、以正王賦、以崇帝室。役自 近以寬遠〔六〕、繇華貢獻〔七〕、外薄四海、揆文舊武、各有典書。」帝從之。
〔一〕見詩商頌玄鳥。原文「封」 作「邦」。漢人避高祖諱而改、宏因之。〔二〕桓公九年公羊伝曰:「京師者何?天子之居也。京者何?大也。師者何?眾也。天子之居、必以眾大之辞言之。」 〔三〕礼記王制曰:「王者之制祿爵、公侯伯子男凡五等。諸侯之上大夫卿、下大夫、上士、中士、下士凡五等。」孔疏、孟子、孫疏文字均異、此不並録。此非三代貴族等級制之實、僅是理想之制。 〔四〕黄本、全後漢文均作「臨海 」、蔣本疑其訛而闕之。陳璞曰:「四字疑訛。」今按此当指詩「如臨深淵」之意、「海」当作「淵」、故補入。 〔五〕 易系辞下曰:「重門系柝、以待暴客、蓋取諸豫。」系柝者、值夜打更、以防不豫者也。〔六〕「役」、蔣本闕、黄本作「 投」。今據全後漢文補入。〔七〕此句疑訛、他書均無。

校勘が、『全後漢文』としか比較できていないように、『范書』孔融伝とも対応しない。ほかに見えないなら、貴重な上言である。

戊辰、以司空曹操領冀州牧。或說操曰:「宜複古制、置九州、則所制者広大、天下服矣。」操将從之、荀彧言於操曰:「冀州求公領牧、以要民心、甚善。至於分改九州、竊有疑焉。若是、冀州当取河東、馮翊、扶風、西河、並、幽之地、所奪者眾。前日公破袁尚、擒審配、海内震駭、人人自恐不保其土地、守其 兵眾也。今〔使〕(便)分屬冀州〔一〕、将皆動心。且人多說關右将士以〔閉關〕(動心)之計、今聞此、必以為次第見奪、一旦生変、有(善守)〔守善〕者、轉相脅為非、則袁尚得寬其死、而袁譚懐貳、劉表遂保江漢之間、天下未易圖也。願公引兵先定河北、然後修複舊京、南臨荊州、責王貢之不入、則天 下咸知其意、人人自安。天下大定、乃議古制。」操曰:「微足下、失之者多矣。」遂寢九州之議。

『范書』献帝紀に、「九年秋八月戊寅,曹操大破袁尚,平冀州,自領冀州牧」とある。曹操が冀州牧になったのを、『袁紀』は九月戊辰とし、『范書』献帝紀は八月戊寅とする。
あるひとが曹操に九州制を丁原し、荀彧がこれに反対するのは、『陳志』荀彧伝の本文に見える。校勘は、荀彧伝と行えばよい。

十月、有星孛於東井。分涼州四郡為梁州〔一〕。
〔一〕此事不見他書。按興平元年紀文分河西四郡為雍州、此恐重出而致誤、当刪。

『范書』献帝紀に、「冬十月,有星孛于東井」とあるから、一致している。
涼州の四郡を梁州としたとあるが、校勘によると、涼州はすでに興平元(一九四)年雍州に変わっているから、一文ごと削るべきとされる。

『范書』献帝紀に、「十二月,賜三公已下金帛各有差。自是三年一賜,以為常制」とあるが、『袁紀』には見えない。

建安十年

春正月、曹操攻袁譚於南皮、大破斬之。丁丑〔一〕、增封操萬三千戶、平幽、冀之功也。
〔一〕正月乙巳朔、無丁丑、疑有訛。

『范書』献帝紀は、「十年春正月,曹操破袁譚於青州,斬之」とあり、正月に袁譚を斬ったことは同じ。場所が南皮であることは、別に史料で補われるべき。
丁丑は、正月に含まれないため、誤りが疑われるという。曹操の増邑は、『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀に見えない。

八月、侍中荀悅撰政治得失、名曰申監〔一〕。既成而奏之曰:……。悅字仲豫、潁川人也。少有才理、兼綜儒史。是時曹公專政、天子端拱而已。上既好文章、頗有才意、以漢書為繁、使悅刪取其要、為漢紀三十篇。

八月、荀悦が『申鑑』を著したという。『范書』献帝紀には見えない。『申鑑』からの引用があるが、ここでは省く。

『范書』献帝紀は、「夏四月,黑山賊張燕率眾降。秋九月,賜百官尤貧者金帛各有差」とあるが、どちらも『袁紀』と一致しない。

冬十一月、並州刺史高幹反。

十一月、高幹が反したことは、『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀に見えない。武帝紀は、十一月と明記せずに、「乃以州叛、執上党太守、挙兵守壺関口」と、反乱の事実のみを書く。
『袁紀』も完成度が高くなく、高幹が同年四月に降伏したことを書かず、いきなり十一月に反したと唐突に言っている。降伏を書かず、反乱だけを詳しく時期を特定するのは、バランスが悪い。

建安十一年

〔春〕正月、有星孛於北斗。占曰:「人主易位。 」曹操征高幹、斬之。

『范書』献帝紀に、「十一年春正月,有星孛于北斗」とある。記録されている、天体現象は同じ。
『続漢書』天文志下に、「十一年正月,星孛于北斗,首在斗中,尾貫紫宮,及北辰。占曰:「彗星掃太微宮,人主易位。」其後魏文帝受禪」とあり、この天体現象とその解釈まで揃っている。『袁紀』は、『続漢書』をかなり参考にしている確定してよいでしょう。

己丑〔一〕、增封操並前三萬戶、食柘城、陽夏四縣、比鄧禹、吳漢故事。
〔一〕 正月己亥朔、無己丑。疑系乙丑之誤。

正月に己丑はなく、乙丑ではないかという。この論功行賞は、『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀に見えない。曹操の論功行賞については、『袁紀』がいちばん詳しいように見える。

『范書』献帝紀は、「三月,曹操破高幹於并州,獲之」とし、李賢注引『典論』に、「上洛都尉王琰敗之,追斬其首」とあるが、『袁紀』はスルーしている。

秋七月、武威太守張猛殺(敘)〔雍〕州刺史邯鄲商〔一〕。
〔一〕 原誤作「商邯」、據範書、通鑒逕改。又範書獻帝紀「敘州」作「雍州」。按興平元年、分敘州河西四郡置雍州、武威屬河西四郡、当以範書為是。

七月、武威太守の張猛が、雍州刺史の邯鄲商を殺した。
『范書』献帝紀に、「秋七月,武威太守張猛殺雍州刺史邯鄲商」とあるから、七月に張猛が刺史を殺したことは、確認できる。『范書』を正しいとして、字を訂正していいだろう。

『范書』献帝紀に、藩国再編があり、「是歲,立故琅邪王容子熙為琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟(陰)〔北〕、平原八國皆除」とあるが、『袁紀』はスルーしている。180603

閉じる

『後漢紀』巻三十_建安十二・十三年

建安十二年春夏

春,曹操上表曰:「昔袁紹入郊甸,戰於官渡,時兵少糧盡,圖欲還許。荀彧乃建進討之規,遂摧大逆,覆取其 眾。此彧睹勝敗之機,略不(出世)〔世出〕。紹既破敗,臣糧亦盡,以為河北未易圖也,欲南討劉表。(或)〔彧〕複止臣,陳其得失。臣用反(於是)〔旆〕,於是遂平四州。向使 臣退於官渡,紹必鼓行而前;遂征劉表,則河北延其凶計。彧之二策,以(立)〔亡〕為存,以禍為福,臣所不及也。是故先帝貴指縱之功,薄搏獲之賞;古人尚帷幄之 規,下攻拔之捷。原其績效,足享高爵,而海內未喻其狀,所受不侔其功,臣誠惜之。乞重平議,增疇戶邑。」(或)〔彧〕深辭讓。操報之曰:「君之策謀,非但所表 二事而已,前後謙衝,欲慕魯連先生乎?此聖人達節者所(以)〔不〕貴也。昔介子推有言:『竊人之財,猶謂之盜。』況君密謀安眾,先於孤 者以百數乎?以二事相還而複辭,何(敢)〔取〕謙亮多邪?」

『陳志』荀彧伝 注引『彧別伝』に、「昔袁紹侵入郊甸,戰於官渡……」とあり、それに基づいている。テキストの異同は多いが、「史実」において、別のことが記述されているのではない。評価・検討すべきは、『彧別伝』をあえて拾ったことである。

『陳志』武帝紀は、「十二年春二月、公自淳于還鄴。丁酉、令曰、……。於是大封功臣二十餘人、皆為列侯、其餘各以次受封、及復死事之孤、軽重各有差」と、二月に論功行賞して、曹操の功臣を列侯にしている。
『袁紀』には、この記事がない。つぎの荀彧の論功行賞だけを強調する。出典は、『陳志』荀彧伝 注引『彧別伝』なので、アンバランスな強調に思える。

三月癸丑〔一〕,增封守尚書令彧戶一千,並前二千戶。操欲表彧為三公,彧使荀攸申讓,至於十數,乃止。是時〔二〕「曹公世子聰明尊雋,宜選天下賢哲以師保之,輔成(王)〔至〕德。及征行軍,宜以為副貳,使漸明御軍用〔兵〕之道。」操從之。
〔一〕是月壬戌朔,無癸丑,疑有訛。〔二〕其下有脫文,且不詳語者為何人。

三月癸丑、荀彧の戸数を増した。『范書』献帝紀には、この記事がない。『范書』荀彧伝は、曹操の上表を載せて(典拠は『彧別伝』と思われる)、「於是增封千戶,并前二千戶」とするだけで、月日の表記がない。
荀彧の増邑の日付は、『袁紀』だけが伝える情報である。ただし、この月には癸丑がないという問題はある。
『陳志』荀彧伝 注引『彧別伝』に、「彧使荀攸深譲、至于十数、太祖乃止」とあり、十数回ことわったとある。

〔二〕に脱文が疑われるという。正史に対応する表現は見当たらない。曹操の子に、よき指導役をつけて、遠征するときは副官として教育させよと行っている。

『後漢紀』建安十二年、荀彧が増邑を断った(『彧別伝』に拠る)記事のつぎに、曹操の世子に、天下の賢哲を輔佐としてつけ、行軍するときは副官として随行して、世子を指導させよという提案がある。前後に脱文が疑われ、だれの提案か、だれが輔佐に選ばれたか分からず、正史にも関連する記述が見当たらない。このとき採用された指導係が分かれば、繋がりが言えるか。


建安十二年秋冬

秋八月,曹操登白狼山,與匈奴(冒頓)〔蹋頓〕戰,大破斬之。袁尚、熙奔遼東,太守公孫康斬尚、熙首送京師。

八月、曹操が白狼山で冒頓と戦ったと。『范書』献帝紀に、「十二年秋八月,曹操大破烏桓於柳城,斬其蹋頓」とあり、八月に曹操が蹋頓を破ったのは一致する。『范書』は「其」字があり、蹋頓が烏桓に属するが、『袁紀』は蹋頓を匈奴としている。
『范書』献帝紀は、「十一月,遼東太守公孫康殺袁尚、袁熙」とする。袁尚が死んだのを、『袁紀』は八月の記事に繋いでしまったが、遼東への移動時間が必要だし、『范書』献帝紀のように、十一月のほうが妥当に思われる。

『陳志』武帝紀によると、「八月、登白狼山……九月公引兵自柳城還、康即斬尚煕及速僕丸等、伝其首」とある。八月に白狼山で戦い、九月に袁尚の首た届いたという。また異説の登場。
白狼山は、『袁紀』・『范書』献帝紀と一致しているが、袁尚の死は、『袁紀』で八月(これは誤りだろう)、『陳志』は九月、『范書』は十一月という違いがある。

乙酉〔一〕,封操三子為列侯,操不受。
〔一〕八月庚寅朔,無乙酉。疑乃九月事。

曹操の三子を列侯に上げようとし、曹操が辞退した。『袁紀』の書きぶりだと、八月乙酉に見え、それはこの月にないと。袁尚の死の記事が、八月に繋げて置かれ、連動してズレて見えたと思われる。
列侯のことは、書きぶりからすると、袁尚の子が片付いたことに対する、曹操への褒賞である。『袁紀』に見える「乙酉」を重んじるならば、九月か十一月である。『陳志』のように九月に袁尚が片付いたならば九月、『范書』のように十一月に片付いたなら十一月とすべき。

20 冬十月,星孛于鶉尾。乙酉〔一〕,濟南王斌為黃巾所殺。 22 〔一〕範書獻帝紀「乙酉」作「乙巳」,「斌」作「贇」。按十月己丑朔,無乙酉,當以範書為是。

天体現象は、『范書』献帝紀に「冬十月辛卯,有星孛于鶉尾」とあり、『范書』のほうが日付が詳しい。

日付表記のない天体現象の記事が、どうして生まれるのか不明。人間の出来事は、複数日にわたったり、情報不足で確定できないことがあるが、天体現象なんて、ピンポイントの日付で起きるだろうに。

黄巾に済南王が殺害されたことは、『范書』献帝紀に「乙巳,黃巾賊殺濟南王贇」とある。この月は、乙巳があって乙酉がないから、『范書』献帝紀が正しいという。殺された王の名は、「贇」と「斌」の違いがある。

劉備屯新野,荊州豪傑歸者日眾。琅邪陽都人諸葛亮,字孔明,躬耕隴畝,好為梁甫吟。……

ここから、諸葛亮が劉備に隆中対をさずける記事。はぶく。

建安十三年

春正月癸未、司徒趙溫請置丞相〔一〕。
〔一〕範書獻帝紀作「司徒趙溫免 」。陳璞據以疑袁紀有訛。按三国志武帝紀曰:「十三年春正月、漢罷三公官、置丞相、御史大夫。夏六月、以公為丞相。」據此疑溫下脫「免」字、「丞相」下脫 「御史大夫」四字。又其後恐脫「夏六月、罷三公官、置丞相、御史大夫。癸巳、以曹操為丞相」等句、下接郗慮為御史大夫事、方与事理合。

正月癸未、司徒の趙温が、丞相の設置を請うたという。
『袁紀』は、建安十三年正月に司徒趙温が丞相設置を請い、八月に郗慮が御史大夫となる。『范書』献帝紀は、正月に司徒趙温を罷免し、六月に丞相・御史大夫を置き、六月に曹操が丞相、八月に郗慮が御史大夫となる。『陳志』武帝紀は、正月に丞相・御史大夫を置き、六月に曹操が丞相となる。みんな違う。

校勘が指摘するように、『袁紀』が、御史大夫の設置を書きモレているのは、確かでしょう。
しかし、趙温の 司徒趙温は、『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀では、丞相設置のために三公が廃止され、この時期に罷免された(だけの)人。他方、『袁紀』によると、司徒趙温が丞相設置(三公廃止)を請うたとある。「請」は誤記かも知れないし、本心は史料から決められず(正反対の結論が出せて、しかも両方とも検証不能)、趙温が政治的に強要されたかも知れず、また、複雑で屈折した王朝論の持ち主だった可能性もある。

三公を廃止して、丞相に権限を集約することが、後漢再建の方策だった(と趙温が考えていた)とも言え、後漢滅亡の道案内だったとも言える。曹操への阿諛とも言えるし、曹操への牽制とも言える。ニュアンスの違う記述があって、『袁紀』はおもしろいですね、以上のことは言えない。我田引水は禁止。


秋七月、曹操征劉表。八月丁未、光祿大夫郗慮為御史大夫。初、操以穀少禁酒。太中大夫孔融以為不可、与操相覆疏、因以不合意。時中州略平、惟有吳、蜀。融曰:「文德以来之」操聞之怒、以為怨誹浮華、乃令軍諮祭酒路粹傅致其罪。壬子、太中大夫孔融下獄誅、妻子皆棄市。

『范書』献帝紀に、「秋七月,曹操南征劉表。八月丁未,光祿勳郗慮為御史大夫」とあるから、七月の劉表征伐と、八月丁未の郗慮任命は一致している。
太中大夫の孔融の殺害を、『范書』献帝紀・『袁紀』とも、八月壬子としている。『范書』献帝紀は、「夷其族」とするが、同じです。
「文徳以来之」は、『論語』が出典と。
ここから続く孔融伝と、袁宏のコメントは検証をはぶく。

赤壁の戦い

『范書』献帝紀は、「是月,劉表卒,少子琮立,琮以荊州降操」とし、「是月」は、八月の孔融を殺した月のこと。『袁紀』は、孔融殺害からの孔融伝と、袁宏のコメントが長々と挟まっていたが、「作中の時制」が八月のままだとしたら、つぎの「劉表病死」を八月としており、『范書』と一致している。
『范書』献帝紀は、「冬十月癸未朔,日有食之。曹操以舟師伐孫權,權將周瑜敗之於烏林、赤壁」と、十月癸未の日食のあと、曹操の敗戦を伝えており、月日の表記が、はなはだ心許ない。

劉表病死。少子琮領荊州。九月、劉琮降曹操。劉備率眾南行、曹操以精騎追之、及於当陽。備与諸葛亮等数十騎(邪)〔斜〕趣漢津〔一〕。徐庶母見獲、庶辞備而指其心曰:「本与将軍共圖王霸之業、以此方寸之地也。今失老母、方寸辞矣、無益於事、請從此辞。」遂詣曹操。
〔一〕三国志先主伝「邪」作「斜 」。按漢書司馬相如伝曰:「邪与肅慎為鄰。」注「讀為斜。謂東北接也。」袁紀此「邪」、亦当讀如「斜」 。時備東奔漢津、遇關羽、遂得渡沔水而至夏口。

九月、劉琮が曹操に降り、曹操が当陽で追いついた。
『陳志』武帝紀に、「八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。九月公到新野、琮遂降、備走夏口」とあり、八月の劉表の病死、九月の劉琮の降伏、曹操の追跡が八月であり、『陳志』と一致している。
徐庶が曹操のところに行くのは、『陳志』諸葛亮伝。

操既有荊州水軍十萬、将順流東伐、吳人振恐、議者咸勸孫権迎操。周瑜曰:「不然。操雖讬名漢相、其實漢賊。将軍以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據 江東、地方数千里、精兵足用、英豪楽業、尚当橫行天下、為漢除殘去害。況操自送死、何迎之有?瑜得精兵三萬、保為将軍破之。」権曰:「老賊欲廢漢天子自立 久矣、徒忌二袁、劉表与孤耳。今数雄巳滅、唯孤存。孤与老賊勢不兩立、君言当擊、甚与孤合、此天以君授孤也。」

『陳志』周瑜伝に、曹操が九月に劉琮に降伏され、「数十万」で押しよせたとき、周瑜が曹操を「漢賊」と批判したとある。「此天以君授孤也」という孫権の締めのセリフも、周瑜伝である。

劉備至夏口、諸葛亮謂備曰:「事急矣、請求救於孫将軍。」時権軍於柴桑、備使亮說権曰:「海内喪辞……権大悅、即遣周瑜将水軍三萬、隨亮詣備、並力拒操。

諸葛亮が使者となり、孫権を開戦に導くところは、諸葛亮伝に基づいて記述されている。

成立順序が、『陳志』→『袁紀』→『范書』だから、「『袁紀』のなかにある『陳志』と同じ表現は、『陳志』に基づいたもの」と言える。これはラク。ここで、周瑜伝・諸葛亮伝に基づいて書かれている。不審な点があれば、周瑜伝・諸葛亮伝に基づいて、修正案を示すことができる。
反対に、『袁紀』のなかに『范書』と同じ表現があっても、「『范書』が『袁紀』に基づいたか、『袁紀』と『范書』に共通の祖先がある」と言わざるを得ず、スッキリしない。
『後漢紀』における『三国志』の利用は、いけるんではないか。


冬十月癸未〔一〕日有蝕之。
〔一〕疑「癸未」下脫「朔」字。

日食の日付は、『范書』献帝紀と同じ。疑いなし。

十二月壬午、徴前将軍馬騰為衛尉。
是月、曹操与周瑜戰於赤壁、操師大敗。

十二月壬午、馬騰が衛尉になったことは、『范書』献帝紀・『陳志』武帝紀に見えない。独自記述かも知れない。

『資治通鑑』は、建安十三年、七月の記事の前に、「曹操將征荊州,使張既說騰,令釋部曲還朝,騰許之」とある。前に書いた論文で、本当にこの位置でよいのか、「征荊州」に引っ張られ過ぎではないか、と言ったが、馬騰が建安十三年十二月に、徴されたのであれば、『資治通鑑』は妥当か。


この月(十二月)、曹操が赤壁で敗れたという。武帝紀は、「十二月、孫権為備攻合肥。……公至赤壁与備戦、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還」と、十二月に繋げて置かれているので、『陳志』の認識も十二月であろうか。

おまけ。これを作りながら考えたこと(時事ネタ)。
過不足なく表現できたらベストだが、発信形式や媒体によって制約される。言葉を尽くして真意を伝えられたら…と願っても、それは誰かにとっては、「とても付き合いきれない過剰」かも知れず。「ちっとも説明が足りないぞ」という批判もあり得ますが、本当にそれは、発信者の越度でしょうか。
読者によって過不足は変わるし、読者が独自に想定する「他の読者」によっても判定が変わる。新書もネットも。学術論文・学術書は、発信形式や媒体、想定すべき読者層がルール化されている。正確さや説得力をルールに沿って議論可能。でも共通了解されたルールがないところでは、批判も反論も、批判に対する批判も成り立ちにくいし、まして意見の変化が期待できる場ではないと思います(それでいいのです)。

閉じる

『後漢紀』巻三十_建安十四~十八年

つくり終わってから気づきましたけど、『范書』献帝紀とすべきところを、『范書』霊帝紀と書いてしまってます。読み変えてください(むちゃなお願い)

建安十四年

劉備以孫権行車騎将軍、備自領荊州、屯公安。七月、曹操征孫権。
冬十月晦、日有蝕之〔一〕
〔一〕冬十月、荊州有地震、見範書。諸書是月皆不言有地震、恐系前文「冬十月癸未、日有蝕之」之重出而致誤。

劉備が孫権を行車騎将軍とし、劉備が自ら荊州を領したとする。「互薦」と明示されていないが、『陳志』呉主伝に、「劉備表権行車騎将軍、領徐州牧。備領荊州牧、屯公安」とあり、これを節略したと思われる。
『陳志』武帝紀に、「秋七月、自渦入淮出肥水、軍合肥」とある。武帝紀を節略したのだろう。

武帝紀は、十月の日食を伝えていない。『陳志』武帝紀には、本紀としての機能に欠陥があるから、袁宏はもっぱらこれに拠ることができない。
『范書』霊帝紀も、十月の日食が見えない。
校勘によると、この冬十月、『范書』霊帝紀は、地震があったとある(十四年冬十月,荊州地震)。諸書は、この月に地震があったとしないから、前文(霊帝紀_建安十三年)の「冬十月癸未朔,日有食之」に関係する文が、繋ぐべきものが、建安十四年と取り違えられ、重複して出てきたかも知れない。

十月みそかの日食は、『范書』霊帝紀とは照合できず、霊帝紀の地震の記事にも不備が疑われ、これだけでは、『袁紀』も『范書』も、どちらも同様に確定しない。


建安十五年

春二月乙巳、日有蝕之〔一〕。
〔一〕「乙巳」下当有「朔」字。

『范書』霊帝紀に、「十五年春二月乙巳朔,日有食之」とあり、「朔」を補うことができる。

建安十六年

春正月辛巳、以曹操世子丕為五官中郎将、副丞相。三月、馬超、韓遂反。
秋七月、操徴超、遂、大破之。是歳、劉備入益州。

『范書』霊帝紀は、曹丕を五官中郎将・副丞相にした記事がない。
『陳志』文帝紀は、「建安十六年、為五官中郎将・副丞相」とし、月日の表記がない。『陳志』武帝紀には、「十六年春正月天子命公世子丕為五官中郎将、置官属、為丞相副」と、日付がない。同注引『魏書』に、「庚辰、天子報」とある。
庚辰(武帝紀 注引『魏書』)の翌日が、辛巳(『袁紀』当該箇所)という、出来事の順序である。

この部分から、王沈『魏書』に庚辰の日付があるにも関わらず、陳寿がそれを省略して、武帝紀を記述したことが判明する。


『范書』霊帝紀に、「十六年秋九月庚戌,曹操與韓遂、馬超戰於渭南,遂等大敗,關西平。是歲,趙王赦薨」と、曹操が韓遂・馬超を破ったことと、趙王の劉赦が薨去したことがある。
『袁紀』は、曹操が馬超を破ったのを、(九月ではなく)七月とする。『陳志』武帝紀は、「秋七月公西征。……九月、進軍渡渭」とあって、どちらの月も見える。七月は、曹操が出発した月なので、撃破を九月とする『范書』のほうが優れている。
趙王の薨去は、『袁紀』がスルーしている。

建安十七年

春正月、加曹操入朝不趨、劍履上殿、贊拝不名。夏五月癸未〔一〕、誅衛尉馬騰、超之父也〔二〕。六月庚寅晦、日有蝕之。
〔一〕 五月壬辰朔、無癸未、疑有訛。〔二〕初学記巻十引袁紀曰:「長楽衛尉馬騰、其長八尺、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。」亦見御覧巻三七七。今本脫之。

正月、曹操が入朝不趨などの特権を得たが、『范書』霊帝紀は、出来事を載せていない。
『陳志』武帝紀は、「十七年春正月、公還鄴。天子命公賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿、如蕭何故事」と、すなおに一致している。

五月癸未、馬騰を誅殺した。校勘によると、五月には壬辰朔なので、この月に癸未はない。ところが、『范書』霊帝紀は、「十七年夏五月癸未,誅衞尉馬騰,夷三族」とあり、懲りずに、同じく五月癸未とする。

『後漢書朔閏表』によると、校勘の指摘どおり、五月は壬辰朔なので、癸未は同月に含まれない。『袁紀』と『范書』の共通の祖先に誤りがあったのか、『范書』が『袁紀』を無批判に踏襲したか。この事例だけでは、どちらも同様に可能性がある。

校勘によると、『初学記』巻十 注引『袁紀』は、馬騰の外見や性質を描写し、『太平御覧』巻三七七も同じというが、現行『袁紀』からは脱落していると。

六月庚寅みそかの日食は、『范書』霊帝紀に、「六月庚寅晦,日有食之」とあって、同じである。

秋七月庚戌、立皇子臨為濟陰王〔一〕懿為山陽王、邈為濟北王、敦為東海王〔二〕。
〔一〕範書獻帝紀作「秋九月」、又「臨」作「熙」。〔二〕廿二史考異曰:「按:東海王祇以建安五年薨、子羨嗣。魏受禪始除。不應別封皇子、当是北海之訛。」錢說是。

七月庚戌、皇子を封建した。

『范書』霊帝紀は、「九月庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王,𨘷為濟北王,敦為東海王」とする。

済陰王の名は、『袁紀』は劉臨に作り、『范書』は劉熙に作る。
『廿二史考異』によると、東海王は、建安五年から後漢末まで劉羨と判明しているので、別の皇子を、かさねて東海王に封建したとは考えにくいとし、銭大昕は「東海王」を「北海王」に改めるべきとする。『袁紀』も『范書』も同じく誤りとしている。

建安十七年、献帝の皇子が郡王に封建されたが、『袁紀』は七月庚戌とし、七月二十日。『范書』霊帝紀は九月庚戌とし、九月二十一日。「庚戌」が一致しているので、これは確定している。袁宏・范曄が別の根拠に基づいて、月を特定したのだろうか。同じ干支だが、二ヵ月(約六十日)で一巡するから、干支の順序から片方を却下することができない。二ヵ月の差というのは、稀有なおもしろい例。

建安十六年の曹操の馬超討伐は、前述のように、『袁紀』が『范書』霊帝紀より二ヵ月早い。建安十七年の皇子封建も、『袁紀』が『范書』霊帝紀より二ヵ月早い。偶然なのか。まとめて年表のテーブルがズレたかも、と考えたくなるが、前後に、出来事の月が一致する記事もあるため、まとめてズレたとは決められない。


冬十月、曹操征孫権。侍中、尚書令荀彧勞軍於譙。
初、董(紹)〔昭〕等謂曹操宜進爵(郡)〔国〕公、九錫備物、以彰殊勛、密以語彧。彧曰:「曹公本興義兵、以匡朝寧国、秉忠貞之誠、守退譲之實。君之愛人以 (礼)〔徳〕〔一〕、不宜如此。」操由是心不平之。是行也、操請彧勞軍、因留彧、以侍中、光祿大夫持節監丞相軍事。次壽春、彧以憂死。
〔一〕礼記檀弓載曾子語曰:「君子之愛人也以德。」三国志及範書「礼」均作「德」、故據以改。

冬十月、荀彧が譙県に行ったとあるが、『范書』霊帝紀は、荀彧のことを書いていない。『范書』荀彧伝は、「遂以彧為侍中、光祿大夫,持節,參丞相軍事。至濡須」とあるから、共通の事実を書いているが、テキストは別系統。
荀彧について、袁宏と范曄は、それぞれ独自にまとめた。

ここでは省いたが、袁宏は荀彧について論じている。


『陳志』荀彧伝に、「太祖本興義兵以匡朝寧国、秉忠貞之誠、守退譲之実。君子愛人以徳、不宜如此」とあるから、『袁紀』の荀彧のセリフは、『陳志』荀彧伝に基づいている。
『陳志』荀彧伝は、「太祖由是心不能平。会征孫権、表請彧労軍于譙。因輒留彧、以侍中光禄大夫持節、參丞相軍事。太祖軍至濡須、彧疾、留寿春。以憂薨、時年五十」とある。曹操が「不平」であり、荀彧が「憂」死したことも、『陳志』荀彧伝に基づいている。

『范書』献帝紀は、建安十七年の最後に、「冬十二月,星孛于五諸侯」とあるが、『袁紀』はこの記事がモレている。

建安十八年

春二月庚寅、省幽州、並州、以其郡国並屬冀州;省司隸校尉、以其郡国分屬豫州、〔冀州、雍州〕;省梁州、以其郡国並屬〔雍〕(冀)州〔一〕。

二月庚寅、州を再編しているが、『范書』献帝紀は、「十八年春正月庚寅,復禹貢九州」とする。まず、月がちがう。庚寅は、正月三日なので、『范書』のほうが正しそう。もしくは、『続漢志』注引『献帝起居注』は、州の再編を三月としているらしく、三月ならば、三月四日である。
また、「禹貢の九州に復す」でまとめてしまった『范書』のほうが、スマートである。

『范書』献帝紀 注引『献帝春秋』、『続漢志』注引『献帝起居注』にも記述があり、それに基づくと、上のように、「冀州・雍州」を加え、「冀州」を「雍州」に改めるべきと判明するらしい。この問題の検討は、やるとしても、場所を改めて。


夏五月丙申、天子使御史大夫□慮持節策命曹操為公曰:「朕以不德、少遭憫凶、越在西土、遷在唐、衛。当此之時、殆若綴旒〔三〕、宗廟乏祀、社稷無位;群凶覬覦、分裂諸夏、率土之民〔四〕、朕無獲焉、即我高祖之命将墜於地。朕用夙興假寐、振悼于厥心、曰:『惟考惟祖、股肱先正、其孰恤 朕躬〔五〕?』乃誘天衷〔六〕、誕育丞相、保乂我皇家、弘濟于艱難、朕實賴之。今将授君典礼、其敬聴朕命。

『范書』献帝紀は、「夏五月丙申,曹操自立為魏公,加九錫」とする。日付は、五月丙申で同じである。
『陳志』武帝紀も、五月丙申として、「五月丙申、天子使御史大夫郗慮持節、策命公為魏公曰、朕以不徳、少遭愍凶、越在西土、遷於唐衛……」と載せる。

建安十八年、曹操を魏公とする策書(冊書)は、『三国志』武帝紀が載録したものを、袁宏が引用していると思われる。内容の吟味、典拠探し、袁宏による加筆・修正箇所などは、『全訳三国志』武帝紀の校勘・補注によって判明するはずなので、興味深いけれど今日はやりません。


六月己巳、徒趙王珪為博陵王。

『范書』献帝紀は、月日を明示せず、「徙趙王珪為博陵王」とする。『袁紀』は、六月己巳(十四日)としており、詳しい。

『范書』献帝紀は、「大雨水」、「是歲、歲星・鎮星・熒惑俱入太微。彭城王和薨」とあるが、『袁紀』はモレている。
天候異常・天体異常・藩王の死など、いずれも本紀(年代記)に載せるべきこと。網羅性においては、范曄の仕事のほうが優れている。180529

『後漢紀』の検証もそうですけど、范曄『後漢書』の霊帝紀や献帝紀が、どのような記事づくりをしているか、『後漢紀』と比較しながら通覧することになり、発見がおおい。范曄は、網羅性において優れている。

閉じる

『後漢紀』巻三十_建安十九~二十三年

つくり終わってから気づきましたけど、『范書』献帝紀とすべきところを、『范書』霊帝紀と書いてしまってます。読み変えてください(むちゃなお願い)

建安十九(二一四)年

春三月癸未、改授魏公金璽、赤黻、遠游冠。
夏五月、劉備克成都、遂有益州。

春三月癸未、魏公に金璽などを授けた。『范書』霊帝紀には、記事がない。
『陳志』武帝紀に、「三月、天子使魏公位在諸侯王上、改授金璽・赤紱・遠遊冠」とあり、同注引『献帝起居注』に、「使左中郎将楊宣、亭侯裴茂持節、印授之」とある。
武帝紀と月は一致するが、癸未の日付は『陳志』に見えない。魏公に与えたものは、「赤黻」と「赤紱」が異なる。

五月、劉備が成都で勝ったことは、『范書』霊帝紀に、「五月,雨水。劉備破劉璋,據益州。冬十月……」とある。霊帝紀が、劉備が益州で勝ったことを、五月に繋いでいるのか不明。しかし『袁紀』は、五月と確定させている。
『陳志』先主伝は、「夏」としか伝えていない。

諸葛亮為股肱、乃峻刑法、自君子小人、咸懐怨嘆、法正諫曰:「昔高祖入關、約法三章、秦民知德。今君假借威力、跨有一州、初有其国、未重惠撫; 且客主之義、宜相降下。願緩刑弛禁、以慰其望。」亮曰: 「君知其一、未知其二。秦以無道、政苛民怨、一夫掉臂、天下土崩、高祖因之、以成帝業。劉璋暗弱、自〔焉〕(是)已来、有累世之恩、支柱羈縻、示相承奉、德政不修、威刑不肅。寵之以位、位極則賤;順之以恩、恩竭則慢。所以致弊、實由此也。吾今先威以法、法行則知恩;限之以爵、爵加則知榮。恩榮並濟、 上下有節。為治之要、於此為著」

『陳志』諸葛亮伝 注引『蜀記』によると、金城の郭沖が諸葛亮をほめる論拠として、五箇条が載り、それに司馬駿(司馬懿の子)が納得したという。「其一事曰、亮刑法峻急、刻剝百姓、自君子小人咸懐怨歎、法正諫曰「昔高祖入関、約法三章、秦民知徳、今君仮借威力、跨拠一州……」と、郭沖が諸葛亮の美点としてあげたという。

袁宏は、裴松之よりも前のひとなので、裴松之を引用したと言うことはできない。

『三国志集解』諸葛亮伝に引く沈家本の説によると、二『唐志』に、郭沖『諸葛亮隠没五事』一巻が見える。裴松之は、王隠『蜀記』に基づくと書き始めながら、出典の移動を明示することなく、郭沖の唱えた五事をを引用しているので、分かりにくい。二『唐志』は、後世のひとが『蜀記』を見て、「郭沖にそのような著作があったはずだ……」と推定・復元し、志に登録してしまったのかも知れないと。
ともあれ、王隠『晋書』に載せる郭沖の説なのか、郭沖『諸葛亮隠没五事』からの直接引用なのか分からないが、袁宏は郭沖が諸葛亮を賛美するためにあげた、法正との逸話を、劉備の平蜀の記事のところに突っこんだ。

まとめ。『後漢紀』巻三十_建安十九年は、劉備の平蜀の記事に繋ぎ、諸葛亮と法正の論争を載せる。これは『三国志』諸葛亮伝 裴松之注の記事と同じ。だが裴松之の書きぶりは、王隠『蜀記』の引用か、郭沖の著作の引用か、出典があいまい(『唐志』に郭沖『諸葛亮隠没五事』がある)。袁宏がどっちを見たかも不明。


冬十一月丁卯、皇后伏氏廢、非上意也。曹操使人收後、後被発徙跣而出。上謂御史大夫 郗慮曰:「郗公、天下寧有是乎!」後見殺之日、後父完及宗族死者百有餘人。

『范書』霊帝紀に、「十一月丁卯,曹操殺皇后伏氏,滅其族及二皇子」とある。十一月丁卯の日付は同じ。『范書』伏皇后紀と繋げると、同じ情報量である。

建安二十(二一五)年

春正月、立皇後曹氏、操女也。初操以二女為貴人、大貴人立為皇后。三月、曹操征張魯。秋七月、魯遂降。

『袁紀』は、曹操の娘の立后を「正月」とだけ作るが、『范書』霊帝紀は、「二十年春正月甲子,立貴人曹氏為皇后」と、日付まで詳しい。

曹操が三月に出発し、七月に張魯を降したことは、『陳志』武帝紀で分かる。

建安後半になると、袁宏『後漢紀』も范曄『後漢書』も、陳寿『三国志』の武帝紀・先主伝を利用せざるを得なくなる。「共通の出典」である『三国志』が残っており、編集の差が追えるのは、貴重な題材かも知れない。『三国志』をどのように取捨選択したかによって、献帝期(後漢)に対する袁宏・范曄の認識が見えてくるか。

『范書』は、曹操が三月に出発したことを記さず、七月の戦果だけを載せる(秋七月,曹操破漢中,張魯降)。『袁紀』は、曹操の出発から追いつづける。

建安二十一(二一六)年

春正月己丑〔一〕、封魏公子六人為列侯。
〔一〕正月辛丑朔、無己丑、疑系乙丑之訛。

『袁紀』によると、春正月己丑、曹操の六子を列侯にしたと、日付つきで伝える。列侯になった六子ってだれか。『范書』霊帝紀は、この正月の記事が丸ごとない。『陳志』武帝紀にもそんな記事がない。
ちなみに同月、己丑は来ないらしいが。

夏四月甲午、進魏公爵為王〔一〕。五月己亥朔、日有蝕之。
〔一〕 範書獻帝紀作「曹操自進號魏王」。又魏志武帝紀作「夏五月」、未知孰是。

曹操が魏王になった。『袁紀』は四月甲午、『范書』も四月甲午とするが、『陳志』武帝紀は、「夏五月天子進公爵為魏王」とする。
四月甲午は、二十五日。曹操が三譲プロセスを踏んでいるうちに、五月になってしまったのだろう。後漢から見たら、封建は四月甲午(最初の詔)。曹魏の視点から見たら、受封は五月のことと考えれば、整合する。
范曄が「自ら」とするのは、范曄の歴史観に基づく。

五月己亥朔の日食は、『范書』霊帝紀と同じ。
『范書』霊帝紀に、「秋七月,匈奴南單于來朝。是歲、曹操殺琅邪王熙,國除」とあるが、いずれも『袁紀』にない。匈奴の来朝と、曹操による琅邪王殺害は、袁宏が載せていない。

曹操による「簒奪」プロセスを暴露する!というモチベーションがある范曄。それほど曹操に悪感情がないのか、もしくは単純に史実をひろい損ねた袁宏。という対比だろうか。


建安二十二(二一七)年

夏四月、命魏王建天子旌旗、出警入蹕。冬十月、命魏王冕、有十二旒〔一〕、乘金根車、設五時副車。是歳大疫。
〔一〕 疑当作「十有二旒」。

四月、曹操に天子の旌旗などを与えたことは、『范書』霊帝紀にない。十月、十二旒などを与えたことも、『范書』霊帝紀にない。范曄は、必ず『三国志』を見ているだろうが、『范書』は、曹操への特権付与を落とす。
『陳志』武帝紀に、「夏四月、天子命王設天子旌旗、出入称警蹕」とあり、「冬十月、天子命王冕十有二旒、乗金根車駕六馬、設五時副車」とあることから、袁宏が、武帝紀を利用したと分かる。

『范書』は、「二十二年夏六月,丞相軍師華歆為御史大夫。冬,有星孛于東北。」と、華歆を(後漢の)御史大夫とし、冬に星孛が現れたことを載せる。他方、袁宏は載せていない。

范曄が、『袁紀』を丸写しして霊帝紀を作り、それでヨシとしたのではないことは、確実である(そらそうか)。

『陳志』武帝紀に、「六月、以軍師華歆為御史大夫」とある。華歆が御史大夫になったことを、袁宏は見ているが採用せず、范曄が採用したことが分かる。

『范書』霊帝紀は、「是歲大疫」とあり、『袁紀』と一致している。范曄が、『袁紀』をそのまま借りてきた可能性がある。
『陳志』武帝紀に、この歳の大疫のことは載っていない。

『三国志』武帝紀は、天体現象や日付など、「本紀」なら載せるべきであろうことが載っていない(文帝紀・明帝紀は載せる)。曹操が皇帝でないことを、体例でも表現しようとしたと窺われる。陳寿はひそかに、『三国志』武帝紀を補完する、別に書かれるべき「献帝の本紀」を念頭に置いていたのかも。
もしくは、すでに陳寿の時代に存在する、「献帝の本紀」を含む特定の歴史書(後世に成立する范曄『後漢書』とは別のもの)が、かれの手許にあり、さかんに参照したかも知れない。もしくは、陳寿自身が、後漢の歴史書を書いて、『三国志』と補完させようと考えていたと妄想すると、楽しい。すると、先主伝との関係はどうなるのか、云々。


建安二十三(二一八)年

春正月甲子、太醫令吉平、少府耿熙等謀誅曹操〔一〕発覺伏誅。
〔一〕 三国志武帝紀作「太醫令吉本 与少府耿紀」。注引三輔決録亦同。範書「耿熙」亦作「耿紀」、然「吉本」作「吉□」。注曰:「□或作平。」与袁紀同。盧弼曰:「按常林伝注引魏略、鄧艾伝 注引世語、均作『吉本』。或魏臣避文帝諱、改□為本。陳志仍其舊文也。」今按袁紀「耿熙」当作「耿紀 」、「吉平」当作「吉□」。

春正月甲子、吉平・耿熙らが、曹操を誅殺しようとした。『范書』霊帝紀は、「二十三年春正月甲子,少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族」に作り、耿紀・韋晃がやったことになっている。
『袁紀』は耿「熙」に作り、『范書』は耿「紀」に作る。
吉平・吉本のことも、べつにいいや。

三月、有星孛於東井〔一〕。
〔一〕範書獻帝紀作「孛於東方」 。続漢天文志曰:「孛星晨見東方二十餘日、夕出西方、犯歷五車、東井、五諸侯、文昌、軒轅、后妃、太微、鋒炎指帝坐。」

『范書』霊帝紀は、「三月,有星孛于東方」に作る。「井」と「方」の差異は、校勘で示されているとおりなので、深入りしない。180529

閉じる

『後漢紀』巻三十_建安二十四・二十五年

建安二十四年春夏

(三)〔二〕壬子晦、日有蝕之。夏五月、劉備取漢中。

『范書』献帝紀は「二月」に作り、『続漢書』五行志も二月という。三月は三月癸丑朔であり、壬子がないため、袁紀の誤りという。
劉備が五月に漢中を取ったのは、『范書』献帝紀と同じ。成立順序からして、范曄が『袁紀』を見て、シンプルさを評価して流用したと考えるべきか。

袁宏『後漢紀』は、范曄『後漢書』や裴松之よりも早い。記述が共通するとき、「袁宏が、范曄・裴松之を参照した」とは言えない。袁宏が見て、范曄・裴松之も見た原史料があり、偶然同じ記述を作った(または、范曄・裴松之が、袁宏を参照した)とすべき。正史を起点とするクセがあるので不思議な感じ。

『三国志』先主伝は、建安二十四年に「夏、曹公果引軍還、先主遂有漢中」とあり、五月とは書いていない。武帝紀は、「五月、引軍還長安」と、五月と判明するが、劉備を主語にしている『范書』の元ネタとしては、しっくりこない。
袁宏が、『三国志』武帝紀に基づき、劉備を主語に置き換え、この文を書いた。范曄がこれを踏襲したと思われる。あいだの別の本があったかも知れないが、現存するテキストの範囲で復元するとこうなる。

建安二十四年秋

秋八月、諸葛亮等上言曰:「唐堯至聖而四凶在朝、周成仁賢而四国作難、高后稱制而諸呂竊命、孝昭幼衝而上官逆謀、皆憑〔藉〕世寵、(藉)履国威權、窮凶極辞、社稷幾危。非大舜、周公、朱虛、博陸、則不能擒凶討逆、扶危定傾。伏惟陛下誕姿聖德、統理萬邦、而遭 家運不造之難。董卓首辞、蕩覆京畿;曹操階禍、竊執天衡;皇后太子、(鳩)〔鴆〕殺見害、剝畏天下、殘毀民物。久令陛下蒙塵幽處、人神無位、遏絕王命、厭昧皇極、欲佻神器。左将軍領司隸校尉豫、荊、益等州牧宜城亭侯備、授朝爵秩、念在輸力、以□国難。睹其機兆、赫然発憤、与車騎将軍董承 謀共誅操、将安国静難、克寧舊都。会承不密、令操游魂遂得長惡、殘泯海内。臣等毎懼王室大有閻楽之禍、小有定安之変、夙夜惴惴、戰慄累息。

八月は、『范書』献帝紀は「秋七月庚子、劉備自称漢中王」に作るから、時期がズレている。袁宏が八月としたが、范曄は別の史料を見て、「七月庚子」と作り、月を改めるだけでなく、日付を補ったことになる。『三国志』先主伝は、「秋、羣下……」と、月すら示さず、諸葛亮らの上言を載せる。
先主伝は、時期の記述に不備がある。しかし文面は、先主伝に基づき、袁宏が書いたと思われる。『全訳三国志』で、先主伝の校勘がされれば、テキストの検討は十分。「藉」字の位置は、陳璞校記の指摘だそう。

昔在虞書、敦序九族。周監二代、封建同姓、詩著其義、歷載長久。漢興之初、割裂疆土、尊王子弟、是以卒折諸呂之難、而成太宗之基。 亮等以備肺腑枝葉、宗子蕃翰、心存国家、念在弭辞。自備破收漢中、海内英雄望風蟻附、而爵號不顕、九錫未加、非所以鎮衛社稷、光照萬世。奉辞在外、 詔命断絕。昔西河太守梁統等值漢中興、限於河山、位同權均、不能相率、咸推竇融以為元帥、卒立績效、摧破隗囂。今社稷之難、甚於隴蜀、操外吞天下、内殘群 僚、朝廷有蕭牆之危、而禦侮未立、可〔為〕(謂)寒心。臣等輒依舊典、立備為漢中王、拝大司馬、董齊六軍、糾合同盟、埽滅凶逆。以漢中、巴、蜀、広 漢、犍為為国、所置依漢初立諸侯王故典。夫權宜之制、苟利国家、專之可也。然後功成事立、臣等退伏矯罪、雖死無恨。」
遂於〔沔〕(江)陽設壇場、御王冠於劉備。

引き続き、『三国志』先主伝に基づく。先主伝は、「遂於沔陽設壇場、陳兵列衆、羣臣陪位。読奏訖、御王冠於先主」とあり、袁宏がこれを節略している。

備上言曰:「臣以具臣之才、荷上将之任、董督三軍、奉辞於外、不能除寇静難、以匡王室、久使陛下聖教陵遲、六合否而不泰、惟憂反側、疢如疾首。曩者董卓造為辞階、自是之後、群凶縱橫、殘剝海内。賴陛下聖德威靈、人神同應、或忠義奮討、或上天降罰、暴逆並殪、以漸冰消。惟獨曹操久未梟除、 侵擅国〔權〕(威)、恣心極辞。臣等昔与車騎将軍董承同謀討操、機事不密、承見陷害。臣播越失據、忠義不果。遂得使操窮凶極逆、主後戮殺、皇子鳩 害。雖糾合同盟、念在奮力、懦弱不武、歷年無效。常恐殞歿、孤負国恩、假寐永嘆、夕惕若厲。
今臣群僚以為昔在虞書、敦敘九族、庶明厲翼、五帝以来、此道不廢。周監二代、建諸姬姓、實賴晋、鄭夾輔之福高祖龍興、尊王子弟、大啟九国、卒斬諸呂、以安大宗。今操惡直醜正、寔繁有徒、包藏禍心、篡逆巳顕。既王室微弱、帝族無位、斟酌古式、依假權宜、上臣大司馬、漢中王。所獲 已過、不宜複忝高位、以重罪謗。群臣見逼、迫以大義、追惟寇賊不梟、国難未已、宗廟傾危、社稷将墮、誠臣深憂之責。若應權通変、以寧聖主、雖越水火、所不 敢辞。常慮於懐、以防後悔。輒順眾議、拝授印璽、以崇国威。仰惟爵高寵厚、俯思自效、憂深責重、驚悸累息、如臨於穀。輒将率六軍、順時撲討、以寧社稷、以報萬分。」

先主伝に、「先主上言漢帝曰」と始まる文の引用である。先主伝のほうが先なので、そちらに史料的価値がある。袁宏の付加価値があるとすれば、先主伝のテキストを、より美しく正しく直したことか。

『范書』献帝紀は、この歳のことを、「八月,漢水溢。冬十一月,孫權取荊州」と、シンプルに記すだけである。『袁紀』は、漢水叛乱と、孫権の関羽攻略を記さない代わりに、魏諷の叛乱を記すという特徴がある。袁宏が捉えた後漢末期と、范曄の捉えた後漢末期が異なるというサンプル。
袁宏は、魏諷の叛乱を、「漢王朝の断末魔」として、積極的に評価していたように見える。范曄は、魏諷のことは切り捨てた。

魏諷の反乱

九月、丞相掾魏諷謀誅曹操、発覺伏誅。諷有威名、潛結義士、坐死者数千人。

『三国志』武帝紀 注引『世語』によると、「数十人」に作るという。『通鑑』は「数千人」に作るという。
武帝紀に、「九月、相国鍾繇、坐西曹掾魏諷反、免」とある。武帝紀としては、相国鍾繇の免官こそが、本紀で取り上げるべき事実であった。袁宏は「丞相掾」に作り、武帝紀は「西曹掾」に作っている。

建安二十五年

春正月庚子、魏王曹操薨、謚曰武王。

曹操の薨去した日は、『三国志』武帝紀に同じ。

壬寅、詔曰:「魏太子丕:昔皇天(拠)〔授〕乃顕考以冀我皇家、遂攘〔除〕群凶、戡定九州、弘功茂績、光於宇宙、朕用垂拱(三)〔二〕十有餘載。天不憖遺一老、永保餘一人、早世潛神、哀 悼切傷。丕奕世宣明、宜秉文武、紹熙前緒。今使使持節御史大夫華歆奉策詔、授丕丞相印綬、魏王璽黻、領冀州牧。方今外有遺慮、遐夷未賓、旗鼓尚在邊境、乾 戈不得韜刃、斯乃播揚洪烈、立功垂名之秋也。豈得修諒暗之禮、究曾、閔之志哉?甚敬服朕命、抑弭憂懐、旁祇厥序、時亮(天)〔庶〕工、以稱朕意。於戲、 可不勉乎!」

曹丕に魏王を継承させる詔は、『三国志』文帝紀 注引『袁紀』に載っており、こちらが出典。正月壬寅(二十五日)という日付は、裴松之注にないから、ここでしか分からない情報。
テキストは、文帝紀 裴松之注を見ながら校勘される。残念ながら、裴松之注のほうが精度が高いので、置き換えてもいいほど。

二月丁未朔、日有蝕之。

この日食は、『三国志』文帝紀になく、『范書』献帝紀と同じ。

冬十月乙卯、詔曰:「朕在位三十有二載、遭天下蕩覆、幸頼宗廟之靈、危而復存。然瞻仰天文、俯察民心、炎精之数既終、行運在乎曹氏。是以前王既 樹神武之績、今王又光裕明德以應其期、是歷数昭明、亦可知矣。夫(人)〔道〕之行、天下為公、選賢与能、故唐堯不私於厥子、而名播於無窮。朕羨而慕 之、今其追踵堯典、禪位於魏王。」

文帝紀 注引『袁紀』に、「朕在位三十有二載」と始まる。この詔が、十月乙卯であることは、裴松之注に見えない。乙卯の日付をもつ詔は、文帝紀 注引『献帝伝』では、別の詔が置かれていたり、問題が多い。
文帝紀 裴松之注が、『献帝伝』の膨大なテキストに陥る前に、この『袁紀』の禅詔が置かれているので、これで充分な気がする。テキストの訂正箇所の十二字は、『礼記』礼運が典拠なので、修正が可能である。

乃告宗廟、使御史大夫張音奉皇帝璽綬、禪位於魏王曰:「咨爾魏王:昔者帝堯禪位於虞舜、舜亦以命禹、天命不於常、惟帰有德。漢道陵遲、世失其序、降及朕躬、大辞滋昏、群凶肆逆、宇宙傾覆。賴武王拯茲難於四方、惟清區夏、以〔保〕綬我宗廟、豈余一人獲乂、俾九服實受其賜。今王欽承前緒、光 於乃德、恢文武之大業、昭爾考之弘烈、皇天降瑞、人神告徴、誕惟亮採、師錫朕命、僉曰爾禮度克協於虞舜、用率我唐典、敬遜爾位。於戲!天之歷数在爾躬、允執其中、天祿永終;君其祇奉大化、饗茲萬国、以肅天道。」

『三国志』文帝紀の陳寿本文にある禅詔である。成立順序からして、袁宏が、『三国志』文帝紀を引用して、『後漢紀』の最後を作ったと考えてよいでしょう。

庚午、魏王即皇帝位、改年曰黄初。
魏帝既受禪、問尚書陳群曰:「朕應天順民、卿等以為何如?」群對曰「臣与華歆俱事漢朝、難欣聖化、義形於色。」

ここでは、庚午の日付。庚午と辛未の2つの日付があるのは、研究がある。
曹丕が陳羣に質問したことだけは、文帝紀ではない。華歆伝の裴注。

『三国志』華歆伝 注引『華嶠譜敍』文帝受禪,朝臣三公已下並受爵位;歆以形色忤時,徙為司徒,而不進爵。魏文帝久不懌,以問尚書令陳羣曰:「我應天受禪,百辟羣后,莫不人人悅喜,形于聲色,而相國及公獨有不怡者,何也?」羣起離席長跪曰:「臣與相國曾臣漢朝,心雖悅喜,義形其色,亦懼陛下實應且憎。」帝大悅,遂重異之。

袁宏のほうが、裴松之よりも早い。華氏の族譜から、このエピソードをピンポイントで抜粋するというのは、袁宏の特別な執念を感じる。

◆袁宏のコメント

袁宏曰:夫君位、萬物之所重、王道之至公。所重在德、則弘濟於仁義;至公無私、故変通極於代謝。是以古之聖人、知治辞盛衰有時而然也、故大 建名教、以統群生、本諸天人、而深其關鍵。以德相伝、則禪譲之道也;暴極則変、則革代之義也。廢興取与、各有其会、因時觀民、理尽而動。然後可以経綸丕 業、弘貫千載。是以有德之興、靡不由之;百姓与能、人鬼同謀、屬於蒼生之類、未有不蒙其澤者也。其政化遺惠、施及子孫、微而複隆、替而複興、豈無僻王賴前 哲以免〔一〕。及其亡也、刑罰淫濫、民不堪命。匹夫匹婦、莫不憔悴於虐政;忠義之徒、無由自效其誠。故天下囂然、新主之望、由茲而言。君理既尽、雖庸夫得 自絕於桀、紂;暴虐未極、縱文王不得擬議於南面、其理然也。
〔一〕疑文有脫誤。
漢自桓、靈。君道陵遲、朝綱雖替、虐不及民。雖宦豎乘間、竊弄權柄、然人君威尊、未有大去王室、世之忠賢、皆有寧本之心。若誅而正之、使各 率職、則二祖、明、章之業、複陳乎目前、雖曰微弱、亦可輔之。時獻帝幼衝、少遭凶辞、流離播越、罪不由己。故老後生未有過也。其上者悲而思之、人懐匡複之志。故助漢者協從、背劉者眾乖、此蓋民未忘義、異乎秦漢之勢。魏之討辞、實因斯資、旌旗所指、則以伐罪為名;爵賞所加、則以輔順為首。然則劉氏之德未泯、 忠義之徒未尽、何言其亡也?漢苟未亡、則魏不可取。今以不可取之實、而冒揖譲之名、因輔弼之功、而當代德之號、欲比德堯舜、豈不誣哉!


楊彪が魏の三公を固辞

初、魏王欲以楊彪為太尉、彪辞曰:「嘗已為漢三公、遭世衰辞、不能立尺寸之益、若復為魏氏之臣、於義既無所為、於国選亦不為榮也。」遂聴所守。

魏王は楊彪を魏の太尉としようとしたが、楊彪は固辞した。『三国志』文帝紀 注引『続漢書』に、類似の記事がある。

文帝紀 注引『続漢書』:続漢書曰、彪見漢祚将終、自以累世為三公、恥為魏臣、遂称足攣、不復行。積十余年、帝即王位、欲以為太尉、令近臣宣旨。彪辞曰、嘗以漢朝為三公、値世衰乱、不能立尺寸之益。若復為魏臣、於国之選、亦不為栄也。帝不奪其意。

漢の三公として功績がなかったから、受諾できないと。魏王曹丕がその志を尊重したということは、『続漢書』のほうが詳しい。

及魏受禪、乃下詔曰:「夫先王制幾杖之賜、所以賓禮黄耇、褒崇元老也。昔孔光・卓茂皆以淑徳高年、受此嘉錫。公故漢宰相、乃祖已来、世著忠賢。公年過七十、行不逾(距)〔矩〕、可謂老成人矣、所宜寵異、以彰舊德。其錫公延年杖及伏幾、延請之日、使杖入侍;又使著鹿皮帽冠。彪上章固譲、不聴。年八十四、以寿終。

すぐ上の文帝紀 注引『続漢書』の続きと繋がる。

文帝紀 注引『続漢書』:黄初四年、詔拝光禄大夫、秩中二千石。朝見位次三公、如孔光故事。彪上章固譲、帝不聴。又為門施行馬、致吏卒、以優崇之。年八十四、以六年薨。

詔の文面は、文帝紀 注引『魏書』がある。裴松之は、まず『魏書』を引き、つぎに上の『続漢書』を引いており、時系列になっていない(裴松之の使命は、関連史料を列挙することだから、内容が時系列でないことは責められない)。

文帝紀 注引『魏書』:魏書曰、己亥、公卿朝朔(日)〔旦〕、并引故漢太尉楊彪、待以客礼。詔曰、夫先王制几杖之賜、所以賓礼黄耇、褒崇元老也。昔孔光・卓茂皆以淑徳高年、受茲嘉錫。公故漢宰臣、乃祖已来、世著名節。年過七十、行不踰矩、可謂老成人矣。所宜寵異以章旧徳。其賜公延年杖及馮几。謁請之日、便使杖入。又可使著鹿皮冠。彪辞譲不聴、竟著布単衣・皮弁以見。

いずれも、『范書』楊彪伝ではないのがポイント。
東晋時代(裴松之がまとめ作業をする前)、陳寿が切り捨てた『続漢書』や『魏書』が別に存在し、まず東晋の袁宏がこれを繋げて『後漢紀』を作った。それとは別に、南朝宋の裴松之が、文帝紀の注釈として、切り貼り・列挙をした。

◆挿入された楊彪伝は、別に検討する。

彪字文先、幼習祖考之業、以孝義稱。自為公輔、值王室大辞、彪流離播越、経歷艱難、以身衛主、不失中正、天下以此重之。自震至彪、四世宰輔、皆 以儒素名德相承。秉・賜雖方節不及震、然其恭謹、孝友、篤誠、不忝前列也。有子曰修、少有俊才、而德業之風尽矣。至魏初、坐事誅。


後漢時代の終焉

〔十一月〕癸酉、魏以河内之山陽、封漢帝為山陽公、行漢正朔焉。明年、劉備自立為天子。

『三国志』文帝紀に「黄初元年十一月癸酉」とあることに基づき、「十一月」三字を補う。十一月一日である。
翌年の劉備の皇帝即位をもって終わることは、『袁紀』の歴史認識の反映である。記事の選択、突飛さは、それが特徴である。180517

『袁紀』佚文

以下、電子化計画に載っていたので佚文を貼る。
附録一:後漢紀佚文:
基字憲公、茲字季公、並為長史、聞固策免、並棄官亡帰巴漢。南鄭趙子賤為郡功曹、詔下郡殺固二子。太守知其枉、遇之甚寬、二人讬服藥夭、具棺器、欲因出逃。子賤畏法、敕吏驗實、就殺之。(『范書』李固伝注)/長楽衛尉馬騰、其長八尺、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。(『初学記』巻十九、『太平御覧』巻三七七)/崔駰詣竇憲、始及門、憲倒屣迎之、曰:「吾受詔交公、公何得薄哉?」(『太平御覧』巻四七四)/崔駰上書曰:「竊聞春陽発而倉庚鳴、秋風厲而蟋蟀吟、蓋氣使之然也。」(『太平御覧』巻九四九)/第五倫為司空、有人与倫千里馬者、倫雖不取、毎三公有所選挙、倫心不忘也、然亦終不用。(『太平御覧』巻二〇八)/種皓字景伯、父為定陶令、有財三千萬。父卒、皓皆以賑郷里貧賤者、其進趣名利者、皆不与交通。(『太平御覧』巻四七六)/韓卓字子助、陳留人。臘日奴竊食、祭先人。卓義其心、矜而免之。(歳華紀麗)

閉じる