蜀漢 > 李厳の兵糧運搬(漢中→祁山)

全章
開閉

『後漢書』虞詡伝より、輸送経路開拓

『華陽国志』劉後主志を読んでいたら、正史『三国志』にない独自記述がありました。任乃強校注によると、『華陽国志』のみに見える史料という理解です。

建興九年の記事です。

九年春、丞相亮復出圍祁山。始以木牛運。參軍王平守南圍。司馬宣王拒亮、張郃拒平。亮慮糧運不繼、設三策告都護李平曰:「上計斷其後道。中計與之持久。下計還住黃土。時宣王等糧亦盡、盛夏雨水。平恐漕運不給、書白亮宜振旅」。


このとき兵糧を運んだのは、任乃強によると、後漢の虞詡が切り開いた道であると。漢中より祁山に軍糧を運ぶには、沮県よりたち、水路で下弁に至る。
……任乃強が何に基づいて説明しているのか、『後漢書』を確認する。

『後漢書』列伝四十八 虞詡伝より

※『資治通鑑』では巻四十九 孝殤皇帝元初二年(乙卯,公元一一五年)に載せるが、『資治通鑑考異』によって年代が検討されている。
岩波版(吉川忠夫先生の訓読と注釈)に基づく。

後羌寇武都,鄧太后以詡有將帥之略,遷武都太守,引見嘉德殿,厚加賞賜。……先是運道艱險,舟車不通,驢馬負載,僦五致一。詡乃自將吏士,案行川谷,自沮至下辯數十里中,皆燒石翦木,開漕船道,以人僦直雇借傭者,於是水運通利,歲省四千餘萬。詡始到郡,戶裁盈萬。及綏聚荒餘,招還流散,二三年閒,遂增至四萬餘戶。鹽米豐賤,十倍於前。坐法免。

後に羌の武都〈郡治は下弁〉に寇するや、鄧太后〈和熹鄧皇后〉は〈虞〉詡には將帥の略有るを以て、武都太守に遷し、嘉德殿に引見して、厚く賞賜を加ふ。……是より先 運道〈物資輸送路〉は艱險にして舟車 通ぜず、驢馬 負載し、僦(しゆう)〈運賃〉は五にして一を致すのみ〈五石の運賃で一石しか運べない、価格が五倍〉。詡 乃ち自ら吏士を將ゐて、川谷を案行し〈調査して回り〉、沮(しよ)〈陝西省略陽の東〉自り下辯〈甘粛省の成県の西〉に至るまで數十里、皆 石を燒き木を翦りて〈李賢注に工事内容が見える〉、漕船の道を開き、人の僦(しゆう)直(ちよく)を以て〈運賃を転用して〉傭者を雇借す〈労働者を雇用する〉。是に於いて水運は通利し、歲ごとに四千餘萬を省く。詡の始めて郡に到るや、戶 裁(わづ)かに萬に盈(み)てるのみなりしも、荒餘を綏(やす)んじ聚め、流散を招還するに及びて、二三年の閒に、遂に增して四萬餘戶に至る。鹽と米は豐かにして賤(やす)きこと、前に十倍す〈李賢注に経済政策の結果を載せる〉。法に坐して免ぜらる。

運賃が五倍であった。
運賃が高いのは、船や車のような道具が使えず、馬や驢馬が運ぶから。所要時間が長いため、ひとの拘束時間が長く、驢馬の餌代がかかる、危険で負荷の高い仕事なので請け手が少なければ、価格が高止まりする(ほかの運送仕事との比較競合)。
運んでいるのは、塩や米のような生活必需品。ひとが生きている限り、一定量の消費をする。輸送コストが高いと、食品の価格に上乗せされる。消費量は一定だが価格が上がれば、武都郡で養える人口が増えない。人口が少ないと守備力が下がり、羌族からの攻撃にもさらされる。負のスパイラル。

高コストで運搬をしていると、高い運賃で請け負うものは一時的に潤うかも知れない。市場原理が適切に働いていれば、その価格が不当とは言えない。政府が価格規制する場合もあるが、後漢の場合、政府が価格を強制的に押さえ込むことはしていなかったようだ。
武都太守の虞詡から見ると、郡全体の利益ではない。高く設定されていた運賃をいちど預かり、運送経路の整備をおこなう。インフラ投資である。すると、運送コストが下がる。運賃が下がると請けていたひとは、一回の輸送での収入は減るが、物流が活発化する。
塩や米といった生活必需品のコストが下がり、郡の人口が増え、流浪していたひとも定住できた。200505

『中国歴史地図集 秦・西漢・東漢時期』中国地図出版社
沮県から武都の郡治(下弁)まで。祁山は、武都の北。


閉じる

李厳の言い逃れ(華陽国志・李厳伝)

(建興九年)二三一年、李厳は兵糧輸送を滞らせ、諸葛亮の北伐を断念するという事件が起きた。その史料を読んでおく。

華陽国志 劉後主志

平懼亮以運不見責、欲殺督運領岑述。驚問亮何故來還。又表後主言亮偽退。亮怒。亮怒、表廢平為民、徙梓潼。奪平子豐兵、以為從事中郎、與長史蔣琬共知居府事。

華陽国志は「辦」に作る本もあるが「辨」とする本も。『全訳三国志』李厳伝では「辦」に作る。

平 亮に運の辦(つと)めざるを以て責めらるるを懼れ、督運領の岑述を殺さんと欲す。驚きて亮に何故に來還すと問ふ。又 後主に表して亮 偽りて退けりと言ふ。亮 怒る。

任乃強によると、李厳の辯明には、『三国志』李厳伝との食い違いがある。なにか根拠があって書いたのであろうと。佐藤が比較すると、「督運領の岑述を殺害しようとした」は華陽国志に独自の記事。岑述は、『三国志』巻四十一 楊洪伝に司塩校尉として見えるが、李厳配下として現れるのは華陽国志のみ。

李厳は、岑述を「とかげの尻尾切り」することにより、事態を切り抜けようとした。しかし通用しなかった。「驚」以降は意味不明であるが、これは『三国志』李厳伝を要約したものと思われる。華陽国志のみを熟読する価値は少ない。

三国志 李厳伝

九年春、亮軍祁山。平、催督運事。秋夏之際、値天霖雨、運糧不継。平、遣參軍狐忠、督軍成藩、喻指呼亮来還。亮承以退軍。平、聞軍退、乃更陽驚、説「軍糧饒足、何以便帰」欲以解己不辦之責、顕亮不進之愆也。又、表後主、説「軍、偽退、欲以誘賊与戦」亮、具出其前後手筆書疏本末、平違錯章灼。平、辞窮情竭、首謝罪負。

(建興)九年春、亮 祁山に軍す。平 運事を催督す。秋夏の際、天の霖雨に值ひ、運糧 繼(つづ)かず。平 參軍の狐忠・督軍の成藩を遣はして〈後主の〉指を喻(つ)げ、亮を呼びて來還せしむ。亮 承て以て軍を退く。平 軍の退くを聞き、乃ち更に陽(いつ)はり驚き、軍糧 饒り足るに、何を以て便ち歸ると說く。以て己が辦(つと)めざるの責を解き、亮が進まざるの愆を顯らかにせんと欲すればなり。又 後主に表して、軍は偽り退き、以て賊を誘ひて與に戰はんと欲すと説く。亮 具さに其の前後の手筆の書疏の本末を出さば、平の違錯 章灼たり。平 辭に窮し情に竭(つ)き、罪負を首謝す。

「指」が劉禅の意思であったというのは、胡三省の注釈であり、『全訳三国志』もこれを取る。諸葛亮を呼び戻すことができる権限があるのは皇帝劉禅だけだから。李厳の「指」であれば、諸葛亮は撤退する必要がない。
このように、李厳が最初に準備したロジックが、「撤退命令が不適切であった」とし、劉禅犯人説を落としどころにしようとした。

劉禅が間違えたのだから、劉禅に従って撤退した諸葛亮は悪くない。もし諸葛亮が、劉禅の意思に逆らって突撃したら、それは勅命違反となり、簒奪が疑われる。

劉禅犯人説が成り立たない(蜀漢朝廷で支持されない)と分かると、諸葛亮の撤退行動に合理的な理由を付けようとした。つまり、諸葛亮は劉禅の不適切な命令に従いながらも、張郃を倒すという戦功を立てた。アウフヘーベンに成功したのだと。こうすれば、劉禅もまた免責され、さらに前段階にあった、もちろん李厳の兵糧問題もチャラになる。

組織が大きな目標を達成できなかったときの責任の所在をめぐる問題。諸葛亮は馬謖を斬って詫びたが、李厳は最初、同様に岑述を斬って詫びようとした。諸葛亮は、その措置を認めなかった。

李厳が「岑述を斬って収めましょう」と言ったのは、正史には載っていないこと。諸葛亮政権=蜀漢の公式見解=正史の元ネタの立場からは、都合が悪かったのだろう。

李厳の詭弁は、一見すると見苦しいが、これ自体は必ずしも悪手ではない。李厳自身、官職を失っているが、子の李豊が要職に残っている(李厳伝)。李厳も復職の機会を待っていた。諸葛亮は、李氏の協力を得なければ、北伐を為し得ないということには(しぶしぶにせよ)合意していた。
限られた人材、とくに上層部の人材を保存しながら、李厳・諸葛亮・劉禅を免責する、「三方良し」のロジックをひねり出したのが李厳であった。李厳の弁明は、本人の保身のためであるかも知れないが、「国家のため」であったとも言えるのではないか。ただし諸葛亮が、李厳との「共犯関係」になるのを拒み、李厳のアイディアは採用されなかったが。200506

閉じる

李厳・廖立の再雇用問題

巻四十 李厳伝

乃ち平を廢して民と為し、梓潼郡に徙す。(建興)十二年、平 亮の卒するを聞き、病を發して死す。平 常に亮の當に自ら補復せんことを冀ふも、後人 能はざるを策(はか)り、故に以て激憤するなり。

巻四十 廖立伝

於に是て立を廢して民と為し、汶山郡に徙す。立 躬ら妻子を率ゐ、耕殖して自ら守る。諸葛亮の卒するを聞くや、垂泣して歎じて曰く、「吾 終に左袵と為らん」と。後に監軍の姜維 偏軍を率ゐて汶山を經、立に詣り、立の意氣 衰へず、言論 自若たりと稱す。立 遂に徙所に終はる。妻子は蜀に還る。

李厳・廖立は、諸葛亮さえ生きていれば復帰のチャンスがあったと期待していた。丞相がいたら国家と組織が膨張し、おのずとポストが増えて活躍ができる。蜀漢組織が現状サイズに固定化されるなら、活躍のない場がないわけで。今日、年収は就職する業種>会社>本人の能力によって決まるというのと同じ。
李厳・廖立は「余ってしまった」が、これ以外にも不遇を嘆いた臣はいた。
蜀臣たちは、諸葛亮の北伐後半に内紛を起こし、諸葛亮の死後に不満が噴出して淘汰が起こる。実態は1州政府だが、官僚組織や心意気は統一王朝に準え、皆に昇進期待を持たせたが、膨張し損ねた。その歪みが出たように感じる。官僚たちの期待に反してポストが不足している。夢を見させた副作用。諸葛亮死後の悲劇と申せましょうか、というお話でした。200507

閉じる

諸葛亮の怨み言/裏出師の表より



『三国志』巻四十 李厳伝

(建興)八(二三〇)年、驃騎将軍に遷る。曹真 三道より漢川に向はんと欲するを以て、亮 厳に命じて二万人を将ゐて漢中に赴かしむ。亮 厳の子たる豊を表して江州都督と為し、軍を督し(一)、厳の後事を典らしむ。亮 明年 当に軍を出さんとするを以て、厳に命じて中都護を以て府事(二)を署せしむ。厳 名を改め平と為す。

(一)『三国志集解』に引く胡三省は、江州都督督軍と官名として読む。『華陽国志』巻七 劉後主志には、「(諸葛)亮 乃ち厳に中都護を加へ、厳の子たる豊を以て江州都督と為す」とある。
(二)府事は、『三国志集解』に引く胡三省の解釈によれば、ここでは漢中留府の府事か。

(建興)九(二三一)年、……是に於て亮 平を表して曰く、「……臣 当に北出せんとし、平の兵を得て以て漢中を鎮ぜしめんと欲するも、平 難を縦横に窮め、来意有る無し。而も五郡を以て巴州刺史と為るを求む。去年 臣 西征せんと欲し、平をして漢中を主督せしめんと欲するも、平 司馬懿ら開府し辟召するを説く。臣 平の鄙情 行の際に因り臣に偪りて利を取らんと欲するを知るや、是を以て、平の子たる豊を表して江州を督主せしめ、其の遇を隆崇して、以て一時の務を取る」

『華陽国志』巻七 劉後主志

(建興)八年……秋、魏の大将軍たる司馬宣王は西城由り、征西・車騎将軍の張郃は子午由り、大司馬の曹真は斜谷由り、三道より将に漢中を攻めんとす。丞相の亮 成固・〔赤阪〕に軍し、表して江州都護の李厳を驃騎将軍に進め、二万人を将ゐて漢中に赴かしむ。厳 初め五郡を以て巴州と為さんことを求む。書もて亮に告げ、魏の大臣たる陳羣・司馬懿 並びに開府するを言ふ。亮 乃ち厳に中都護を加ふ(一)。厳の子たる豊を以て江州都督と為す。
→ 陳羣の名が出てくるのは諸葛亮の文に「司馬懿ら」とあったから。

『資治通鑑』における李厳

黄初七年(建興四年):漢丞相亮欲出軍漢中,前將軍李嚴當知後事,移屯江州,留護軍陳到駐永安,而統屬於嚴。
太和四年(建興八年):漢の丞相たる亮 魏兵の至るを聞き、成固・赤板に次りて以て之を待つ。李厳を召して二万人を将ゐて漢中に赴かしめ、厳の子たる豊を表して江州都督と為し、軍を督し、厳の後事を典らしむ。

李厳伝では驃騎将軍に進んでいるが『通鑑』世界では前将軍のまま

太和五年(建興九年)春:漢の丞相たる亮 李厳に命じて中都護を以て府事を署せしむ。厳 名を平に更む。亮 諸軍を帥ゐて入寇し、祁山を囲み、木牛を以て運ぶ。
同年八月の条:是に於いて亮 平の前後過悪を表し、免官す。

李厳についてのコメント

おさっち氏:李厳は、劉表の元で郡や県の長を歴任し劉璋の元へ行ってもすぐに重用され、劉備に降っても賊の討伐や江州都督としての統治ぶりからして家柄が良さそうな上に軍事・事務に長け、名も実も備わったオールマイティな人ですね。孔明の李豊への言葉から、李厳の失敗の後も再起用を考えていた程の人なのかなと。蜀科を伊籍と一緒に練り上げ、孟達や雍ガイに対する調略の交渉とか、築城や灌漑とか、さらにオールマイティさを見せつけられただけでした。権勢も非常にありそう。財務的な才能があったとか?
佐藤:劉備が諸葛亮をひろった荊州北部、南陽の出身者ですし、劉備は劉表・劉璋の後継政権として人材を可能な限り引き継いでいますから、この前歴はマイナスにならず、むしろプラス。諸葛亮に負ける理由が見当たらないです。劉備との個人的関係?

閉じる

楊儀をもてあます

楊儀伝より

①楊儀 字は威公、襄陽の人なり。……先主 與に語りて軍國の計策・政治の得失を論じ、大いに之を悅ぶ。……
②亮 數〻軍を出だすや、儀 常に分部(ぶんぶ)を規畫し、糧穀を籌度(ちゆうたく)するに、思慮を稽(とど)めず、斯れ須つこと便(ただ)ちに了(おは)る。軍戎の節度、辦(べん)を儀に取る。亮 深く儀の才幹(さいかん)を惜む。……

③琬 遂に尚書令・益州刺史と為る。儀 至り、拜して中軍師と為るも、統領(とうりよう)する所無く、從容たるのみ。……自ら惟(おも)ふに年宦 琬に先んじ、才能 之に踰ゆ。
④ 是に於て怨(えん)憤(ふん)は聲色に形(あら)はれ、歎(たん)咤(た)の音は五內より發す。……又〈費〉禕に語りて曰く、「往者(さきごろ) 丞相 亡(ぼう)沒(ぼつ)の際、吾 若し軍を舉げて以て魏氏に就かば、世に處(お)りて寧ろ當(まさ)に落(らく)度(たく)すること此の如きや。人をして追(つい)悔(かい)せしめども、復た及ぶ可からず」と。禕 密かに其の言を表す。〈翌〉十三年、儀を廢して民と為し、漢嘉郡に徙す。儀 徙(し)所(しよ)に至るや、復た上書して誹謗す。辭指(じし) 激切(げきせつ)なれば、遂に郡に下して儀を收(とら)へしむ。儀 自殺し、其の妻子は蜀に還る。

① 戦略を語る、馬謖と違い劉備からの評価が高い
② 労劇、事務ができる → 諸葛亮タイプ
④ 活躍の場がない、魏にいけば出世できたと当人が思っている。

楊儀が受刑するきっかけになった、④に魏に降っていれば……というのは、怨みによる余計な一言ではあるが、そういう発想は成り立っている。蜀の悲劇性について言い当てている。真理の一片を付いている。
蜀の楊儀は魏延と争い、年下で格下の蒋琬に負けて腐った。だが生前の劉備と国家や軍事の戦略について語って評価され、諸葛亮が企画した出兵の軍隊や兵糧の手配は楊儀が行った。個人的能力は保証つき。もし蜀が荊州を失わないか雍州を得るかで組織が拡大しポストがあれば、活躍したのではないか。

蜀書十(三国志巻四十)はしくじり列伝。廖立・李厳・楊儀ら。陳寿が付けた評は、「身から出たさび」ですが、分析が浅くないか。ひとの成果は所属する組織によって成果の上限が決まる。蜀がもう少し大きな国ならば、彼らはポストを得られたのではないか。蜀は爆発的な力を秘め、活かしきれなかっただけでは。
関羽が荊州を失い、諸葛亮が雍州を得られなかったダメージは散々論じられてきたけど、人材活用の面でもダメージが大きい。蜀は、高官を徙刑(周辺地域への移住刑)に処しすぎ。国土が増えずポストが増えず、天下統一のために集めた人材がダブついて持て余した。人格や私怨ではなく、組織論的な問題。200508

「皇帝を自称した益州牧」に終始してしまった蜀漢政権が、大粒の人材を活用できなかったという、一連の分析の落としどころは、蜀が勝ち進むシミュレーション小説を書きたい、というところに落ち着きます。5年前にそんな本を書いたことがありますが、出来が良くなかったので、いまの力でやり直したい。


おさっち氏:楊儀は優秀なロジスティクス屋のイメージです。何度も行われた北伐の軍隊の編成と物資の手配輸送を行うという困難なタスクをやり遂げた能力はすごいなと。蒋琬費褘との権力闘争に敗れたのでしょうね。孔明が本当に楊儀でなく蒋琬に継がせたかったかどうかは、わずかながら疑問の余地があるかなと。

閉じる

蜀漢の支配した涼州

佐藤:『通鑑』241年、蒋琬が「姜維を涼州刺史にせよ」といった上言があり、胡三省注に「といっても蜀の涼州は、武都・陰平の二郡しかないけどね」とある。この時代まで、武都・陰平は、蜀の領土のままなんでしたっけ。諸葛亮が死んで魏に取り返されていない?

@osacchi_basstrb(以下「おさっち氏」):廖化が陰平太守を務めて、雍州に攻め込んでいますね(郭淮伝)。あと蜀滅亡時に武興督の蒋舒が魏に投降しています。あと氐王の符健が蜀に帰順しようとして失敗してますね(張嶷伝)。僕が見つけられたのはこれくらいなので、やや蜀寄りの緩衝地帯でしょうか。
佐藤:やっぱり、スッキリしませんよね…。「蜀寄りの緩衝地帯」なるほど。人口をごっそり移してしまったりするので、漢代の区画で、陣取りゲームのように思い浮かべるのは、あまり上手くないのかも知れません。

おさっち氏:日本の戦国時代で毛利と織田に挟まれた宇喜多・別所とか、大勢力と大勢力の間の土地って小さな豪族がそのまま残されたりするじゃないですか。曹操と孫権の間にいた陳蘭・雷緒とか。上庸の孟達とか。そんな感じだったのかなぁと想像します。
佐藤:日本の場合は、両属的な外交によって、生き残っていくイメージ。隴西地方の場合は、わざわざそこを征服し、維持するにはコストが掛かりすぎるので、放置されちゃうイメージです。陳蘭・雷緒は放置ですけど、孟達は地理的に切迫しているので、立ち回りがド派手でした。好きです孟達。

@HAMLABI3594(以下「松浦氏」):武都も陰平も益州なんじゃないかなぁ。
おさっち氏:蜀は益州扱いですよね。魏は涼州か益州かどっち扱いだったのでしょうね?楊阜や韋誕が武都太守に任命されているようです。あと魏の益州刺史も全然いなくて、定軍山で死んだ趙顒のあとは師纂・鍾会までいないっぽいです。西晋は武都と陰平は秦州のようです。
松浦氏:晋書は「魏文帝即位分河西為涼州分隴右為【秦州】改京兆尹為太守馮翊扶風各除左右仍以三輔屬司隸」と書きますが、これは「魏文帝即位分河西為涼州分隴右為【雍州】改京兆尹為太守馮翊扶風各除左右仍以三輔屬司隸」の誤りでしょう。隴西郡が雍州ならば武都も陰平も雍州ですね。

『中国歴史地図集』景耀五(二六二)年

三国時代は、ひとつの漢王朝が分裂した時代。互いに支配の正統性を言い立て、自分こそが漢王朝の後継者だと言い張る。もっとも直接的に対立が現れ、可視化されるのは、領土争いである。
蜀には涼州刺史がおり、馬超・魏延・姜維である。馬超は、蜀の章武元(二二一)年、劉備が皇帝になったときに涼州牧に任命されたが、翌年(二二二)に馬超が死去。魏延が、諸葛亮の北伐開始にあたり、蜀の建興五(二二八)年、涼州刺史に任命された。解任の記事がないため、建興十二(二三四)年、魏延が死去するまでこの肩書きを維持したと考えられる。つぎに、姜維が、蜀の延熙六(二四三)年、涼州刺史となった。姜維の官職は変動するが、兼務が維持されているなら、姜維は蜀滅亡まで生存しているので、王朝の最後までかれが蜀の涼州刺史であったのだろうか。
『通鑑』巻七十四 正始二(二四一)年に、蒋琬が姜維を涼州刺史に任命すべきことを上言し、後主劉禅が承認を与えたという文がある(出典は巻四十四 蒋琬伝)。こに胡三省注が付され、「涼州之地、蜀惟得武都・陰平二郡而已」とある。つまり、姜維が統治するべき涼州は、武都・陰平の二郡しかなかった。漢王朝の涼州刺史に比べると、範囲が著しく狭かったと言いたいようである。
しかし胡三省の注釈がそもそも無効であり、諸葛亮が獲得した後、蜀ではこの二郡が益州として認識されていた。魏延は後半、この二郡への支配権を行使したのではなく、益州牧の諸葛亮がこの二郡への統治権を持っていた。

後主伝:(建興)七(二二九)年春、亮遣陳式、攻武都陰平、遂克定二郡。

蜀の涼州刺史は、終始、その地方を攻めるという国家的スローガンを、肩書きによって表現したものに過ぎなかった。

馬超伝:章武元年、遷驃騎將軍、領涼州牧、進封斄鄉侯。……二年卒,時年四十七。
魏延伝:建興元年、封都亭侯。五年、諸葛亮駐漢中、更以延為督前部・領丞相司馬・涼州刺史。
姜維伝:延熙元年、隨大將軍蔣琬住漢中。琬既遷大司馬、以維為司馬、數率偏軍西入。六年、遷鎮西大將軍・領涼州刺史。




武都・陰平は、蜀漢では「益州」である

ひとつ前の動画で、蜀の涼州長官についてお話しました。涼州長官とは、涼州牧もしくは涼州刺史という官職です。漢王朝の天下を13に分割し、その1つが涼州。その涼州の統治権をもつのが涼州長官です。
三国蜀における涼州長官は、馬超・魏延・姜維の3人がいます。3人とも有名・有力な武将であり、知名度が高いと思います。しかし、この3人の取り合わせが珍しい、おもしろいと思ったので、動画を作成しました。

蜀は涼州を支配しておらず、3人の任命は、いずれも国家的なスローガンだと説明しました。蜀の国土は、漢王朝にいう益州1つのみ。涼州には支配権が及んでいないのが実態でした。
しかし、厳密にいうと、蜀が、漢王朝の時代の涼州を、一部分だけ支配していたことがあります。
武都郡・陰平郡です。
後主伝に「(建興)七(二二九)年春、亮遣陳式、攻武都陰平、遂克定二郡」とある。諸葛亮伝にも同様の記述が見え、諸葛亮がさきの敗戦で丞相から降格し、右将軍になっていたが、二郡を獲得したという功績によって丞相に返り咲いたときのこと。恐らくこの後、蜀はこの領土を失っていない。蜀の北方領土とでもいうべき地帯です。敵国との境界線にあり、戦いが絶えず、維持管理が難しい地域です。
くり返しになりますが、武都・陰平は、漢代には涼州だった地域です。

べつの史料を見るんですが、
『通鑑』241年、蒋琬が「姜維を涼州刺史にせよ」といった上言があり、胡三省注に「といっても蜀の涼州は、武都・陰平の二郡しかないけどね」とある。つまり、姜維が管轄することができるのは、武都・陰平の二郡だけだという、冷静な指摘(ツッコミ)をしたかったのだろう。
この二郡は、蜀の支配が継続されていたし、漢王朝において涼州に属したのだから、胡三省の指摘は一見妥当に見える。

しかし蜀においては、武都・陰平は涼州ではなく、国土の本体である益州に併合されていた。つまり、涼州刺史となった姜維は、この二郡を統治・管理監督する権限を与えられていなかった。
これはイビツなことに思えます。なぜなら蜀は、漢王朝を引き継いだという建前の政権なので、領土が1州のみであるより、形だけでも2州(益州・涼州)が傘下にあるとしたほうが、威信が高まるのではないでしょうか。

それには、蜀の内情が関わっていると思われます。蜀の政権のトップは、益州長官の肩書きを持ちます。皇帝に即位する前の劉備が益州牧でしたし、諸葛亮も益州牧。その後継者である蒋琬も益州牧です。蒋琬は、前の動画で触れたように、姜維を涼州刺史に推薦した人物でした。
もしも、蜀にとっての北方領土を「涼州」と見なすと、政権トップのたなごころから溢れまして、管理の範囲から外れてしまうことになる。州長官という肩書きで、対等、横並びと見なすならば、益州の政権トップと、いま話題にしている涼州長官が並列になってしまう。

諸葛亮は魏延を涼州刺史にしましたが、魏延が諸葛亮と同格というのは、政権の役割分担、組織設計の点から認めることができません。蒋琬もまた、姜維を北西方面の攻略に駆り立てるために涼州刺史にしましたが、同格になることは望んでいない。
そういうわけで、漢王朝では涼州に属し、蜀の北方領土となった武都・陰平は、なぜか蜀では、涼州でなく益州に繰り入れられました。蜀の益州長官は、蜀の全土を管轄する絶大な権限を持ち、蜀の涼州長官は、支配地域がなく、空手形だけ切られ、攻略のスローガンを表現するためだけに、称号を預かったという形になりました。

蜀というのは、基本的には、漢の正統な継承者を自称していますから、なるべく漢王朝と同じにすることが「正義」とされます。この傾向を破って、行政区分、境界線を書き換えてでも、武都・陰平は、涼州でなく益州とされました。「2州を支配している」という体裁よりも、政権トップへの権力の集約を優先しました。

行政区分というのは、自然にできる境界線ではありません。きわめて人為的、恣意的、政治的に土地が区切られるものです。こうして、漢王朝のとき涼州に属した武都・陰平は、蜀の北方領土となるや、益州として取り扱われたのでした。蜀の涼州。ちょっと面白いテーマだと思います。200512

閉じる