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猇亭の戦い(夷陵の戦い)

武昌への遷都

黄初二年四月、劉備は皇帝に即位した。
同年、孫権は公安から鄂に都をうつして、鄂を武昌に改めて、武昌城を築いた。けだし孫権は荊州を取って関羽を滅ぼしたのち、つねに劉備の東撃をおそれており、しばらく武昌を都にして、劉備に備えたのであろう。

呉軍のそなえ

黄初二年=蜀の章武元年六月、劉備は出兵して、孫権を東征しようとした。車騎将軍の張飛は、閬中から、江州にいって兵を合わせようとし、部下に殺害された。張飛の首は、孫権に届けられた。孫権は、一面では諸葛瑾を派遣して結ぼうとし、もう一面ではつぎの作戦を練っていた。

孫権が、矛盾した働きかけをしているの、おもしろいですね!

鎮西将軍・右護軍の陸遜を、大都督・仮節とし、朱然らを督させた。呉軍の編成は、つぎのとおりである。

◆固陵郡(建平郡)方面:
孫権は、巫県・秭帰・興山・信陵・沙渠の5県を固陵郡とし、のちに建平郡に改めた。
振威将軍・領固陵太守の潘璋が、諸軍を督して、秭帰を鎮守した。将軍の陸議が、巫県を守った。将軍の李異が、巴山を守る。郎中の劉阿が、興山を守る。

先主伝:吳將陸議、李異、劉阿等屯巫、秭歸。


◆夷陵方面:
右護軍・鎮西将軍の陸遜が夷陵を守る。将軍の宋謙が水軍を督して枝江に屯す。安東中郎将の孫桓は、万人をひきいて夷道に屯する。

すぐ上で、巫県を守ったという「陸議」とは、別人でいいのか。


◆南郡方面:
虎威将軍の朱然が江陵を守る。偏将軍・領永昌太守の韓当が助ける。

◆当陽方面:
建武将軍・領廬江太守の徐盛が、当陽を守る。

◆公安方面:
綏南将軍・領南郡太守の諸葛瑾が公安を守る。建忠郎将の駱統が3千をひきいて、孱陵に屯する。興業都尉の周胤(周瑜の次子)は、千人を率いて公安に屯する。

◆武陵・長沙方面:
武陵郡都尉の鮮于旦と、平武将軍の歩隲が1万人を督して、長沙に屯する。
その他の将士は、孫権に従って武昌におり、各方面の支援に備えた。

巫県・秭帰の攻略

劉備が東征しようとすると、諸葛亮が諫めたが聞き入れられず、成都に留まって太子を輔けて国を守った(『御批通鑑輯覧』巻二十八)。趙雲も反対したため、江州に留められた。法正伝によると、諸葛亮は「法正が生きていればなあ」と言った。

諸葛亮・趙雲は、劉備の東征に反対したから、後方に残されたという解釈。


劉備はみずから4万余人をひきい、張南を前部とし、馮習を大督とし、趙融・廖淳・傳彤をそれぞれ別督とした。杜路・劉寧らは中領軍の呉班・将軍の陳式にしたがう。侍中の関興を中監軍とし、尚書令の劉巴、侍中の張紹・馬良、太常の頼恭、光禄勲の黄柱、少府の王謀、大鴻臚の何宗、太中大夫の宗璋、益州従事祭酒の程畿、従事の王甫・李朝らは、みな劉備に従って出征した。
劉備は、諸軍を督して、白帝から出撃し、呉軍が守る巫県・秭帰を攻めた。呉将の陸議・李異・劉阿らは、巫県と秭帰を守っていたが、蜀の呉班・馮習らに破られた。劉備は白帝城から前進して、秭帰に駐屯した。あわせて、秭帰から、東進を続けた。
ここにおいて、偏将軍の黄権が劉備に、「長江を下ったら危ない」といった。黄初三年二月、黄権を鎮北将軍として、江北軍を督して、魏軍を拒がせた。

黄初三年二月というのは、『通鑑』に拠っているが、『通鑑』は何に拠ったのか。黄権の諫めている内容に照らして、劉備の川下りがこのタイミングだから、ということか。すると、蜀軍が、巫県・秭帰を破った時期を特定しないと、黄権が諫めて、北に配備された時期も決まらない。


劉備が荊州人士の帰順を待つ

武陵郡は、蛮夷の聚落があり、五谿蛮と呼ばれていた(『水経注』沅水)。劉備は、かつて荊州にいたとき、黔安郡を設置し、蛮夷に恩沢をほどこしていた。ゆえに蛮族は、劉備が秭帰に至ったと聞き、使者を派遣して、蜀軍に志願した。

劉備と五谿蛮の、かつてからの関係を指摘している!

劉備は、侍中の馬良に金錦をかつがせて、佷山から武陵に入って、金帛・官爵をあたえた。武陵諸県の民夷は、呉に叛いて蜀に味方した。劉備は、荊州と旧縁があるから、蛮夷だけでなく、荊州人士も自分に味方してくると考えた。
こうして劉備は、秭帰の東北の山沿いに、長江に臨む城をつくり(『水経注』江水)そこで、荊州人士の帰順を待った。
しかし、荊州は劉備に対して、失望しており、久しく帰順の声が届かない。劉備も、荊州人士に失望した。

『水経注』江水のみが伝える、劉備が築いたという城の記述から、劉備が荊州に自発的な帰順を期待したことを描き出した。黄権の警告を聞き入れ、長江を下ることには慎重だったと分かる。
『水経注』長江:(秭帰)縣城東北依山即坂,周迴二里,高一丈五尺,南臨大江,古老相傳,謂之劉備城,蓋備征吳所築也。

失望した劉備は、呉班・陳式に命じて、水軍をひきいて秭帰から、流れにのって夷陵を攻撃させた。呉の鎮西将軍・領宜都太守の陸遜は、堅守して、城外に出て戦うのを許さない。呉・蜀の水軍は、対峙するかたち。

劉備は、鎮北将軍の黄権に、江北の諸軍を督して、夷山(夷陵の北)に進出させ、臨沮と当陽のあいだに到達させ、北は曹魏をふせぎ、南は当陽を監した。
さらに将軍の張南を先鋒とし、秭帰の南岸から陸路をゆかせ、夷道に進攻した。呉の安東将軍の孫桓(孫河の子、孫権の族弟)は、蜀の先鋒を夷道の北で迎撃したが、張南に破られて、退いて夷道城を守った。張南は、夷道城を包囲した。

劉備が猇亭にすすむ

この月(何月?)劉備は各路から有利に攻め進み、秭帰から長江をわたって東にゆく。山截によって、数十の軍屯をつくり、猇亭に達した。諸葛瑾が、蜀との和解に失敗して帰ると、八月、魏に称臣した。

魏に称臣したのは、黄初二年八月。さっき黄権は、黄初三年二月、北に向かったとあり、時系列が逆転した。「この月」というのが、よく分からない。

曹丕は、孫権に呉王・九錫を与えた。曹丕が大貝などを求めると、孫権は「瓦石を惜しむな」といった。『御批通鑑輯覧』巻二十八によると、これを章武二年(黄初三年)八月の記事とする。
曹丕は、孫権を荊州牧とした。荊州の江北を郢州とし(孫権の領土から除き)、孫権は不快だったが敢えて言わず。曹丕は、劉備が秭帰から猇亭の7百余里に布陣していると聞いて、「劉備は戦さを知らない」と言った(文帝紀)。

正月から六月まで、決戦せず

陸遜は大都督として、配下に戦わせない。諸将は、孫桓が夷道で包囲されており、公族なので急ぎ救いたいが、陸遜は「私は書生だが、主上に命令を受けている」といって命令を変えない。陸遜伝。
蜀はさきに呉班に数千人で平地に立営して、戦いを挑ませた。呉将は戦いたいが、陸遜はいなした。

劉備は、平原に軍営をつくっても呉軍を誘えないから、伏兵8千を、谷のなかから出した。陸遜は諸将に、「諸君に呉班攻撃を許さなかったのは、蜀軍に計略があると分かっていたからだ」といい、宋謙に蜀軍の後ろから、5屯を攻撃させ、蜀将を斬って帰還させた。諸将は、よっやく陸遜の命令に従うようになった。

呉主伝に、「黃武元年春正月,陸遜部將軍宋謙等攻蜀五屯,皆破之,斬其將」とある。黄武元年=黄初三年=章武二年の正月、宋謙がちょっと蜀軍を破ったという。黄武改元はこの年だが、乾象暦の採用は翌年なので、

孫権は陸遜に、「なぜ夷陵で動かないのか」と質問した。陸遜は上疏して、「夷陵は要害で、国の関所です。得やすいが、失いやすい。ここを失えば、一郡を失うだけでなく、荊州が危うくなる……」と。
黄初三年は、正月から六月末まで、決戦せず。

この期間、孫桓は包囲されっぱなし。宋謙が、ちょっと小手調べをしただけ。


劉備の敗走

閏六月、陸遜は進攻するという。諸将は、「劉備は5-6百里も深入りし、7-8ヵ月も対峙して、敵の守りが固まってしまった」とクレーム。陸遜は、兵卒に茅を持たせ、諸軍を同時に進攻させた。虎威将軍の朱然は、はじめに蜀軍の前鋒をやぶり、蜀軍の退路を遮断した。振威将軍の潘璋は、蜀軍の護軍の馮習を斬った。偏将軍の韓当と朱然は、蜀軍を涿郷で撃ち、おおいに破った。綏南商軍の諸葛瑾・建忠郎将の駱統・興業都尉の周胤もまた、孱陵より猇亭に進撃し、陸遜とともに蜀の大軍を猇亭で破った。
呉軍の主力は、一斉に猇亭に集まり、蜀軍の40余営を破った。蜀将の張南らは戦死し、沙摩柯が陣没し、杜路・劉寧は呉に降った。劉備は、馬鞍山に登り、自衛した。陸遜は四面から包囲し、1日1夜で死者は万を数え、降伏は数万。劉備は軽騎で囲みを突破し、西北に逃げた(陸遜伝)。

呉の安東中郎将の孫桓は、夷道で包囲されていた。呉軍が蜀軍を押し返すのを見て、奮戦し、陸遜に会うことができた。孫桓は、劉備が長江の南岸から蜀に還ると考え、命令を顧みずに、自分で追いかけた。劉備は、石門山に至ると、孫桓にきつく追撃され、軍需品を焼いて道路を塞いだ。劉備は「陸遜に負けちゃった」と恥じた。
逃げてきた兵を収容し、巫県の南に退いた。

不意に孫桓は呉の軽兵1百余人をひきい、連夜、西進し、劉備の前に現れた。夔道という狭いところで、土をくずして道をうめ、劉備を追いこんだ。劉備はやむをえず、馬を棄てて、山を越えた。ちょうど翊軍将軍の趙雲が江州から迎えにきたから、孫桓は撤退を始め、劉備は逃げることができた。「かつて呉の城に行ったとき、孫桓はガキだったのに、いま孫桓に殺されかけた」と悔しがった。

劉備は歩いて白帝城に至り、はじめて鎮北将軍の黄権が、魏に降ったと知った。侍中の馬良が、歩隲に攻め殺されたと知った。傳彤は殿軍となり、呉軍に捕えられ斬られたと知った。従事祭酒の程畿は、「軍中にあって逃げたことがない」と言って、死んだ。

呉軍の停戦

孫権は武昌におり、陸遜が勝ったと聞いて、みずから陸遜や諸将を労いにいこうとした。孫権は、陸遜を将軍とした。
徐盛・潘璋・宋謙らは、前鋒の李異・劉阿らが蜀軍を追跡して、白帝城の南山に至っているから、「劉備を捕らえられます」と上表した。
孫権は、陸遜・朱然・駱統らに質問した。彼らは、曹丕が攻めてくるから、劉備を攻めるなと言った。孫権は、劉阿らを召して、還って巫県を守らせた。

戦後の政局

黄初三年九月、魏は、侍中の辛毗・尚書の桓階を派遣して、孫権と盟誓して、任子を取ろうとしたが、孫権は固辞した。
ときに魏は、烏桓・鮮卑の平定を終えており、曹丕は呉を討伐しようとした。劉曄が諫め、賈詡も反対した。
征東大将軍の曹休・前督軍の張遼・鎮東将軍の臧覇は洞口から出て……魏呉が戦った。

同時に孫権は、揚越の蛮夷および、荊州の桂陽・零陵の蛮夷に反乱された。内外が危機に陥った孫権は、魏使の浩周に謝って、許してもらった。だが、孫権は黄武と改元し、魏と決戦に。曹丕は十一月に宛県に至る。
孫権は、太中大夫の鄭泉を蜀に派遣した。蜀は、太中大夫の宗瑋に応答させ、国交が回復した。

黄初四年二月、曹仁が濡須を攻めて敗れ、三月、夏侯尚が江陵を囲んだが下せず、曹丕は撤退した。劉曄・賈詡の言うとおりにしないから、曹丕は失敗したのである。
黄初四年(章武三年)三月、劉備は永安で亡くなった。180707

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第四次 諸葛亮の北伐

『中国歴代戦争史』中信出版社_第4冊_216p
諸葛亮 第四次進攻(祁山を囲攻する戦い)

蒋琬に代え、李厳が後方を担当

太和五年春二月、諸葛亮は、新発明の木牛を試用した。嘉陵より江水で西にゆき漢水にゆくルートと、渭水から天水にゆくルートで運搬した。祁山の北、天水の南にゆき、二つの水路から兵糧を供給しようとした。

本に読点がなく、どこで切るのか自信がないので、原文を載せます。「以連運自嘉陵江上游之西漢水与渭水上游之天水両河路」とある。

諸葛亮はみずから八万余をひきい、漢中から祁山を攻めた。同時に木牛による輸送を開始し、さらに使者を西の羌族、北の鮮卑族に入れ、連携して魏を包囲しようとした。
辺境の異民族の動員は、劉禅がときの魏文帝にむけて露布した文に見える。涼州各国の使者は、蜀の節度を受け、もし蜀軍が北伐したら、先駆けになるとある。

『三国志』後主伝 建興五(227)年 裴松之注『諸葛亮集』のこと。「涼州諸国王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十餘人詣受節度、大軍北出、便欲率将兵馬、奮戈先駆」とある。

これまでの四度の北伐は、兵員の編成、軍糧の補給は、すべて丞相府長史の蒋琬が責任者であった。今回は、新たな運送法であり、李厳(李平)に中督護として署丞相府事を兼ねさせ、人員と軍糧の補充を担当させた。

司馬懿が祁山にむかう

このとき、魏将の賈嗣・魏平は、祁山を守っていた。前将軍の費曜が上邽を守る。征蜀将軍の戴陵・建威将軍の郭淮は隴西を守る。車騎将軍の張郃・大司馬の曹真は、長安を守る。
曹真は、蜀軍がすでに祁山を囲んだと聞き、声西撃東の計ではないかと考え、各地に守りを分散させ、兵を移動し集中させられなかった。
ちょうど曹真は病気になったので、明帝は南陽に駐屯する司馬懿を入朝させ、告げて、「西方の事は、君でなければ任せられぬ」と言った。司馬懿は長安に入り、曹真に代えて、都督雍・涼二州諸軍事として、車騎将軍の張郃より以下の諸将を統領させ、蜀軍を防いだ。
魏臣のなかで司馬懿を適任と思わぬ者は、建議して、「諸葛亮の軍は輜重がない。糧食は必ず続かない。攻撃せずとも自滅するから、兵を労するな。ただ上邽の生麦を刈り取って、賊軍の食糧を奪えば、自ずと撤退するだろう」と言った。
曹叡は、諸葛亮に別に計略があると考え(上邽での現地調達だのみでないと思い)、この意見を聞かず、かえって司馬懿に増兵し、西進して攻撃させた。

司馬懿が長安に到着すると、兵を督して西にゆき祁山を救おうとした。車騎将軍の張郃は、建議して、「諸葛亮は、一部を率いて祁山に出てきたが、残りが漢中にいる。別に意図があるのではないか。大軍が祁山に向かっては、後方が心配である。兵を、雍零(陝西省鳳翔県)・郿県に残して、後鎮とせよ」と言った。
司馬懿は、「前軍のみで諸葛亮に対処できるなら、将軍の言うとおり。さもなくば、楚が鯨布に捕らわれたのと同じとなる」と言った。

司馬懿は、諸軍を率いて、隃麋(漢代の県)に進み、西のかた隴山を越え、兵は上邽に出た。その後、費曜・戴陵に上邽を守らせ、みずから張郃らを督して南進し、祁山を救った。
『三国志』諸葛亮伝 注引『漢晋春秋』、『晋書』宣帝紀より。

司馬懿がすれ違い、上邽を失う

諸葛亮は、司馬懿・張郃が、精鋭を尽くして遠来し、その目的が祁山を救うことにあると知り、「致人而不致人于人」の状況を作るべく、実を避けて虚を撃とうと、兵三万を分け、みずから率いて、司馬懿・張郃の軍と、路を違え(すれ違うようにし)、上邽を攻めた。
ときに建威将軍・雍州刺史の郭淮は、すでに司馬懿の軍令を奉じ、狄道より前進し、祁山を救いに来ていた。郭淮は、途中で、司馬懿・張郃の大軍が祁山に向かったと知り、しかるに諸葛亮が兵を分けて、北のかた上邽を攻めていると知り、急ぎ人を派遣して、上邽の守将である費曜と連絡し、蜀軍を挟撃することを約束した。
だが交戦すると、郭淮軍・費曜軍は、蜀軍に破られた。

司馬懿が祁山に到着しようというとき、郭淮と費曜の敗報を聞いた。祁山のもう一人の守将である魏平が、祁山から囲みを突破して(蜀軍の包囲の)後ろに出たのを(司馬懿が)拾いあげ、すぐに軍を還して上邽を救いにゆく。ここにおいて祁山は、蜀軍に包囲された。

司馬懿は上邽にもどる途中、すでに上邽を失ったと知り、上邽の東山に拠り、兵を領して険地に拠って守りとした。諸葛亮は、上邽から軍を移してこれを攻めたが、司馬懿は堅守して出なかった。
諸葛亮は、軍隊に上邽付近の麦を刈り取らせたが、司馬懿は堅守して、戦わなかった。諸葛亮が上邽の麦をすべて刈り取ると、軍を南に移した。

司馬懿は追跡した。張郃が献策し、「彼ら(蜀)は遠来して迎え撃とうとしているが、(魏と)戦おうとしても戦えねば、必ず、「わが(蜀の)利は戦わないことにあり、長計によってこれを制圧しよう」と(現状を正当化して)言うだろう。しかも祁山は、(魏の)大軍が近くにいれば、士気は安定する。(魏は)ここ(上邽そばの険地)に留まって駐屯すべきです。分けて奇兵とし、蜀軍の後ろに出ることを示しましょう。(司馬懿が言うように本隊が)進撃しても敢えて(蜀に)迫らねば、(祁山の)民望を失うでしょう。いま、諸葛亮は軍糧が少ないため、おのずと去るでしょう」と言った。

司馬懿は従わず、蜀軍を追撃して、西城に至った。西城は、漢代の県で、魏では隴西郡に属して西県といい、鹵県にも作られる。諸葛亮は、軍を返して戦おうとしたが、司馬懿が急に退き、軍を率いて山に登り、営を掘って自守した。

魏軍が出撃し、魏延に敗れる

将軍の賈栩・魏平らは、しばしば出て戦いたいと言うが、すべて却下された。諸将は、「公は蜀を虎のように恐れ、天下に笑われている」という。司馬懿が気に病んで、諸将に質問すると、諸将はみな出撃したい。
司馬懿はやむを得ず、五月十日に出撃した。まず車騎将軍の張郃に別軍をつけて奇兵とし(提言に従い)、蜀軍の後方の無当監の何平を攻撃させた。司馬懿はみずから中道より、蜀軍の大営を攻めた。
諸葛亮は、魏延・高翔・呉班らに迎撃させ、魏軍は大敗した。蜀軍は、甲首三千などを得た。司馬懿は、もどって軍営を守った。

張郃は、何平の南囲(祁山の南を囲む兵屯)を攻撃したが、何平は堅守して動かず。張郃は勝てず、司馬懿軍が敗れたと聞いて、退き去った。

両軍が対峙してから、諸葛亮はしばしば戦いを求めたが、司馬懿は壁を堅くして出なかった。『三国志』諸葛亮伝、『晋書』宣帝紀による。
『晋書』宣帝紀は、「蜀軍を撃破した」とあるが、誤りである。西晋の陳寿は『三国志』諸葛亮伝で、兵糧が尽きたから去ったとあり、勝敗が正しく認識されていた。東晋の習鑿歯は『漢晋春秋』で、蜀軍の戦果が多かったとし、司馬懿が大敗して軍営を守ったとあるから、司馬懿が敗れたことは明白である。

諸葛の撤退、張郃の死

この年の夏から秋は、長雨が降った。蜀の驃騎将軍・中都護、護署丞相府事の李平(李厳)は、兵糧の運搬が続かず、参軍の馬忠・督軍の成藩を、西城の諸葛亮の陣中に送り、劉禅の意思として、諸葛亮を漢中に呼び戻した。諸葛亮は、李平の詐りと知らず、兵を分けて埋伏させ、追っ手を防いだ。その後、ゆっくりと軍を撤退させた。
司馬懿は、諸葛亮が撤退すると聞き、急ぎ張郃に追撃をさせた。張郃は、「軍法では、城を包囲したら、必ず脱出できる路を作るものです。帰還する軍を追ってはならぬとされます。なぜ今、追撃するのですか」と聞いた。
司馬懿は、「蜀軍は、兵糧が尽きたから撤退する。彼らは必ず懼れ急いでいるから、追えば大きな戦果が得られるはずだ」といい、張郃に追わせた。
張郃は、万騎をひきいて木門山(甘粛省の西和県の東南)に到達した。諸葛亮は軍を返して攻撃した。張郃の軍は、ひとたび退くと、蜀の伏兵が一斉に挟撃し、万弩が斉射され、張郃は右膝に矢を受けて死亡した。

李厳を梓潼に徙して民とする

諸葛亮が漢中から帰ると、上表して理由を質問した。李平は劉禅の御前で、いつわって懼れ、「軍糧は充足していたのに、なぜ帰還したのですか」と言った。督運の岑述を殺して、自分の罪をごまかそうとした。また上奏し、「軍を偽って撤退させ、敵軍を誘い出そうとしたのだ」と言った。
丞相の諸葛亮のみが、李平の奸偽を見抜き、李平が作った文書を照合し、矛盾を指摘した。李平は、釈明できずに、罪を詫びた。李平の官爵を削り、梓潼郡に徙して民とし、子の李豊を中郎将・参軍事とした。
魏の明帝は、車騎将軍の張郃の戦死を聞き、大いに懼れ、臨朝して、「まだ蜀を平定していないが、張郃が死んだ。どうしよう」と歎いた。けだし張郃は、西の国境の名将であった。
『三国志』巻十三 張郃伝 注引『魏略』、『三国志』巻四十李厳伝より。

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