孫呉 > 『建康実録』テキスト分析(~建安中期)

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『建康実録』孫堅・孫策の時代

『建康実録』の本文および自注(許嵩が自ら付けた注釈)を、緑色で表示します。出典の検討のために、ぼくが引いたほかの史料を、青色で表示しています。

孫堅より以前

太祖大皇帝姓孫氏,諱權,字仲謀,吴郡富春人也。其先出自周武王母弟衞康叔之後,武公子惠孫曾耳為衞上卿,因以孫為氏。春秋時孫武為吴王闔閭將因家於吴,帝乃孫武之後也。

孫権は、周武王の母弟の衛康叔の子孫であり、武公の子である恵と、孫である曾耳は、衛の上卿となり、これにより「孫」を氏とした。春秋時代の孫武は、呉王闔閭の将となり、呉に居住した。

『後漢書』列伝六十八 宦者 孫程伝の李賢注に、「東觀記曰:「北新城人,衛康叔之冑孫林父之後」とあった。衛康叔の子孫を、孫氏が称するというのは、ときどき見られたのか。張忱石(『建康実録』の点校者)は、『三国志』『史記』に見えないことだと書いていた。


祖鍾。父堅。
案,祥瑞志:鍾家於富春,早失父,幼與母居,性至孝。遭歲荒,儉以種瓜自業。忽有三少年詣鍾乞瓜,鍾厚待之。三人曰:「此山下善,可葬,當出天子。君望山下百步許,顧見我等去,卽可葬處也。」鍾去三四十步便返顧,見三人並成白鶴飛去。鍾記之,後死葬其地。地在縣城東,塚上常有光怪,雲氣五色,上屬於天。及堅母孕堅,夢腸出繞吴閶門。以告鄰母,母曰:「此夢安知非吉祥也。」)

祥瑞志によると、孫鍾が瓜をうえて自業とした。3人の少年に瓜をあげたら、天子の予兆を知らされた。少年は「白鶴」になって飛び去った。ホワイトカラー瑞祥なので、魏が滅びたあと(赤→黄を継ぐもの)と、孫呉の王朝が自己認識したあとに成立した話か。

『宋書』巻二十七 符瑞志上に、似た逸話が見える。

孫堅之祖名鍾,家在吳郡富春,獨與母居。性至孝。遭歲荒,以種瓜為業。忽有三少年詣鍾乞瓜,鍾厚待之。三人謂鍾曰:「此山下善,可作冢,葬之,當出天子。君可下山百步許,顧見我去,即可葬也。」鍾去三十步,便反顧,見三人並乘白鶴飛去。鍾死,即葬其地。地在縣城東,冢上數有光怪,雲氣五色上屬天,衍數里。父老相謂此非凡氣,孫氏其興矣。堅母任堅,夢腸出繞吳昌門。以告鄰母,鄰母曰:「安知非吉祥也。」昌門,吳郭門也。

『宋書』では、孫堅の「祖」が孫鍾であり、『建康実録』の「父」と異なる。3人の少年に、孫鍾を葬るべき地(葬ったら子孫が天子になるよ)を教わる。『宋書』では、案内された場所で「三十歩」ゆき、死後に葬られる。『建康実録』では、「三四十歩」ゆくし、教わった場所を「記之」して、死後に遺族に葬ってもらえるように備える。『建康実録』のほうが詳しい。
一方で、『宋書』のほうが詳しいこともある。孫鍾を葬った塚上(冢上)の五気が、天まで届くことは共通だが、『宋書』では「衍数里」と描写が詳しく、父老がきちんと「孫氏が興るぞ」とウワサしあってくれる。
孫堅の母が妊娠したとき、腸が、『宋書』は「呉昌門」に巻きつき、『建康実録』は「呉閶門」に巻きつく。

許嵩は、沈約『宋書』ではなく、裴子野『宋略』を見たという。しかし『宋略』は、簡潔にまとめた全二十巻の本らしい。つまり、「孫鍾の逸話は、『宋書』でなく『宋略』に基づくから、このように情報の過不足がある」と、言えるとは限らない。『宋略』に孫鍾の逸話があったとは考えにくい。
『建康実録』は、地理に強いので、呉昌門に関する伝承をひろったか。

ちなみに『三国志』孫堅伝 注引『呉書』は、

呉書曰、堅世仕呉、家於富春、葬於城東。冢上数有光怪、雲気五色、上属于天、曼延数里。衆皆往観視。父老相謂曰「是非凡気、孫氏其興矣。」及母懐姙堅、夢腸出繞呉閶門、寤而懼之、以告鄰母。鄰母曰「安知非吉徴也。」堅生、容貌不凡、性闊達、好奇節。

とある。塚が城東にあることは既成事実として書かれる。上で『建康実録』と『宋書』は、孫氏の塚の場所を決めるエピソードだった。過去の経緯に遡って史実を記録しているのか、「城東にある」という事実を受けて、後出しでエピソードをくっつけたのかは不明。
『呉書』では、「あやしいひかり」が数里に渡って蔓延したようなので、これは『宋書』に近い。さっき指摘したように、『建康実録』には、「あやしいひかり」の及んだ範囲が書いてない。

『呉書』では、「呉閶門」に腸が巻きつく。『三国志集解』孫堅伝に引く趙一清の説によると、「呉閶門」と「呉昌門」は通用するようなので、これを根拠として、テキストの異同を論じることは実りがない。

『呉書』と『宋書』符瑞志が近く、『建康実録』が引いた「瑞祥志」だけが、テキストの系統? が異なる可能性がある。不明とせざるを得ない。ともあれ、『建康実録』の出典は、『宋書』符瑞志と、安易に決まらないことは確認できた。内容が似てても、「許嵩が、『宋書』を見ながら書いた」とは限らない。『宋書』符瑞志=『建康実録』所引 瑞祥志とは限らない。

再説。孫堅の祖先の話。『建康実録』は「瑞祥志」をひき、孫権の「祖」が孫鍾で、父が孫堅とする。沈約『宋書』巻二十七 符瑞志上に、孫堅の「祖」を孫鍾とする。「祖」字は、2世代前の意味と、それ以上前の意味があるから、単純に対立しないが、不可解。記述にも、微妙に差異がある。
許嵩が『建康実録』を編纂するとき、南朝宋は、沈約『宋書』よりも裴子野『宋略』に依ったという。ちなみに、裴子野は裴松之の孫の孫。同じ唐代の劉知幾も『宋略』のほうが上とコメントあり。
『宋書』に目を通したことは確実だが、それほど強く、『宋書』に依ったとは思えない。南朝宋の歴史を書いた『宋略』には、孫鍾の逸話はなかっただろう。すると、出典が分からなくなる。孫鍾の逸話を、単純に「許嵩が『宋書』符瑞志を見て書いた」と決められない気がする。符瑞志と祥瑞志は、巻名も違うし。


孫堅伝

堅生,容貌奇異,

孫堅が「容貌は奇異たり」であったのは、『宋書』符瑞志に、「堅生、而容貌奇異」とあり、完全に一致。さっきの呉昌門の直後にあるテキスト。『三国志』孫堅伝に引く『呉書』は、「堅生、容貌不凡、性闊達、好奇節」と、容貌だけでなく、性質まで解説している。

推測すると、韋昭『呉書』がルーツであり、そこには孫鍾の逸話もあった。しかし陳寿は、孫呉の天命を抹消するために、孫鍾の逸話を省いてしまった。曹操が、あまり世代を遡れないから、バランスを取るためでもあるか。裴松之も「史学」的な立場から、瑞祥までは拾わなかった。
沈約は、陳寿・裴松之が捨てた韋昭『呉書』を見て、『宋書』符瑞志を書いた。許嵩は、『宋書』符瑞志を節略しながら引用した。だから、『宋書』が持っていた、孫堅から孫鍾への世代のギャップが圧縮されたり(孫堅の父が孫鍾に見えることに)、あやしいひかりが数里にわたって見えたことが省略された。
一方、真実味を持たせるためか、孫鍾が歩いた距離を、『宋書』の「三十里」から、許嵩が「三四十里」にした。これなら、べつに出典がなくても書けることである。

仕漢為破虜將軍﹑長沙太守。霊帝末,董卓作亂,堅乃自長沙舉兵討卓,破卓軍於陽夏。長驅入洛,修祭漢陵廟,屯軍城南。甄官井上見五色氣,使人入井,得漢傳國璽。文曰「受命于天,既壽永昌」。方圓四寸,上紐交五龍,龍一角缺。
(案,後漢記云:初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者投于井中。其缺者,是漢元后為王莽逼脱,擲璽於地而損之也。)

董卓の乱以前に、破虜将軍・長沙太守になったとするが、これは誤り。長沙太守は正しいが、破虜将軍は、『三国志』孫堅伝に「前到魯陽、与袁術相見。術、表堅行破虜将軍、領豫州刺吏」とある。長沙太守と同時ではないし、「霊帝末」より後のこと。

というのは、自分で気づいたけど、校勘記が指摘ずみだった。

董卓を「陽夏」で破ったのは誤りで、「陽人」とすべき。
伝国璽については、孫堅伝に引く『呉書』に、

呉書曰、堅入洛、掃除漢宗廟、祠以太牢。堅軍城南、甄官井上、旦有五色気、挙軍驚怪、莫有敢汲。堅令人入井、探得漢伝国璽、文曰「受命于天、既寿永昌」、方圜四寸、上紐交五龍、上一角缺。初、黄門張譲等作乱、劫天子出奔、左右分散、掌璽者以投井中。

とある。「城南」に屯したことも、『呉書』から拾える。
許嵩の自注に「後漢記」から引いたとある。字が違うけど、袁宏『後漢紀』を見たが、見つけられず。『後漢書』志三十 輿服志下の劉昭注に、『呉書』を引いて、

吳書曰:「漢室之亂,天子北詣河上,六璽不自隨,掌璽者投井中。孫堅北討董卓,頓軍城南,官署有井,每旦有五色氣從井出。堅使人浚得傳國璽。其文曰『受命于天,既壽永昌』。方圍四寸,上有紐文槃五龍,瑨七寸管,龍上一角缺。」

とある。同じように、『後漢書』袁術伝にも、韋昭『呉書』からの引用があるが、同じに内容。許嵩は「後漢記」とするが、范曄『後漢書』袁術伝 李賢注引 韋昭『呉書』か、司馬彪『続漢書』輿服志下 劉昭注引『呉書』とすべきか。

後征劉表於荊州,為江夏太守黃祖伏兵殺之於峴山,兄子賁於堅喪還葬曲阿,収其衆帰袁術於淮南。
(案,英雄記與此說不同,云堅以漢初平四年正月七日,討劉表,為表將呂公引兵縁山向堅,堅尋山討公,公兵士下石,中堅,應時死。別傳云:堅攻荊州,刺史劉表使江夏太守黃祖拒於楚﹑鄧閒,祖使將士伏射殺堅於峴山中,二錄差爾。堅字文臺,少為縣吏,年十七,與父鍾並載經錢塘匏里,遇海賊胡玉刦南人物,於匏里岸上分之。堅望之而啟父曰:「彼可取。」因登岸,遂指揮處分似部領。番賊見大驚,將有軍衆,遂散走。堅獨追一騎,収財物而還。)

孫堅は、江夏太守の黄祖によって、峴山で殺された。
『三国志』孫堅伝は、峴山までは共通する。

初平三年。術、使堅征荊州、撃劉表。表、遣黄祖逆於樊鄧之間。堅、撃破之、追渡漢水、遂囲襄陽。単馬行峴山、為祖軍士所射殺。

『建康実録』は、孫堅を殺した黄祖を江夏太守とするが、この段階では、『三国志』で確認できない。

「江夏太守」黄祖が現れるのは、建安四年以降である。
孫奮伝:時策已平吳、會二郡,賁與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖,軍旋,聞繇病死,過定豫章,上賁領太守,
周瑜伝:十一年,督孫瑜等討麻、保二屯,梟其渠帥,囚俘萬餘口,還備(官亭)〔宮亭〕。江夏太守黃祖遣將鄧龍將兵數千人入柴桑,瑜追討擊,生虜龍送吳。
そもそも、もしも黄祖がすでに江夏太守だったら、どうして孫堅との戦いに出てきたのか、不審である。おそらく、この時点では、劉表の勢力は江夏まで浸透しておらず、190年代を通じて、じわじわ江夏まで伸張し、黄祖を配置したのではないか。


許嵩は自注で、『英雄記』・「別伝」では、孫堅の死に方が違うことをいう。孫堅伝 注引『英雄記』と、裴松之が「又云」として引いているのを「別伝」と言い換えている。

英雄記曰、堅以初平四年正月七日死。又云。劉表将呂公将兵縁山向堅、堅軽騎尋山討公。公兵下石。中堅頭、応時脳出物故。其不同如此也。

『建康実録』は、裴松之注の齟齬を解消する情報を持ち出してはこない。
しかし、たまたま? この自注のなかで、孫鍾が孫堅の父と認識していることが判明する。『宋書』符瑞志では、孫鍾は「孫堅の祖」であったから、許嵩が符瑞を、誤って節略していることが確定する

中華書局は、「堅字文台、少為県吏」というのを、許嵩による自注として、小さな字にする。しかし、文の体裁からすれば、「自注でなく、没年の直後に挿入された人物小伝」と見るべきである。大きな文字に作るのが、内容からすると正しいだろう。
孫堅が、海賊の「海賊胡玉」を退治した記事があるが、これは『三国志』孫堅伝の本文。許嵩は「南人物」が海賊に襲われたとする。しかし、校勘記が示すとおり、孫堅伝では「賈人」が襲われたとあるから、同じ意味&近い字形なら、「商人物」に作るべきである。

堅生四子:策﹑權﹑翊﹑匡。
(案,志林:孫堅生五子:策﹑權﹑翊﹑匡,吴氏所生,仁卽庶子)

孫堅伝は、「堅四子、策、権、翊、匡」とし、同注引『志林』は、「志林曰、堅有五子。策、権、翊、匡、呉氏所生。少子朗、庶生也、一名仁」とするが、『志林』のほうは、自注に参考までに載るだけ。
校勘記によると、自注は「志」に作るものを、「志林」に改めたという。「戯子」に作るものを、「庶子」に改めたという。どちらも、ありがとうございます。

孫策伝_袁術の配下として

『建康実録』中華書局本では、上の孫堅の子に続いて、孫策の事績を自注(小さな文字)とする。しかし、内容に照らせば、明らかに本文と思われるため、ここでは、区切りを変えた。
『建康実録』本文は、孫堅の死から、孫策の死まで飛ぶ。2つの編纂意思(歴史観)が働いたと思われる。まず、①孫堅-孫権という相続。孫策は「寄り道」であり、呉の歴史の本分ではない。つぎに、②袁術の関与の否定。董卓と戦ったことを書いても、袁術と結んだことは自注のなかに格下げさせてある。

策時年十七,父亡後、

孫策が十七歳のとき、父が亡くなった。これは、孫策伝 注引『呉録』に、後年に孫策が上表して、「臣年十七、喪失所怙」と言ったことを流用したものだろう。つまり、特定の史料を引用するのではなく、『呉録』から情報を得て、地の文に置換するという、史学的? 手続が踏まれているのである。

『資治通鑑』も、同じ『呉録』の上表から、年月の情報を拾っていた。


孫策伝 裴松之注は、『呉録』に見える孫策の年齢を疑っている。

本傳云孫堅以初平三年卒、策以建安五年卒、策死時年二十六、計堅之亡、策應十八、而此表云十七、則爲不符。張璠漢紀及吳歷並以堅初平二年死、此爲是而本傳誤也。

建安十五年に孫策が死んだとき、26歳なのだから、孫堅が死んだとき、孫策は18歳であると。
『建康実録』は、孫堅の没年を特定することを回避して、史料の列記に留めた。しかし、孫策の年齢を『呉録』から引くことで、『建康実録』における孫堅の没年を、初平二年と確定させたことになる。

往見廣陵人張紘,諮世務事,言雪先君之恥於黄祖,詞切意正,涕泣橫流。紘心奇之,助成其事。

孫策が、張紘のもとを尋ねたことは、孫策伝 注引『呉歴』による。

呉歴曰、初策在江都時、張紘有母喪。策数詣紘、咨以世務、曰「方今漢祚中微、天下擾攘、英雄儁傑各擁衆営私、未有能扶危済乱者也。先君与袁氏共破董卓、功業未遂、卒為黄祖所害。策雖暗稚、窃有微志、欲従袁揚州求先君餘兵、就舅氏於丹楊、収合流散、東拠呉会、報讐雪恥、為朝廷外藩。君以為何如。」紘答曰「既素空劣、方居衰絰之中、無以奉賛盛略。」策曰「君高名播越、遠近懐帰。今日事計、決之於君、何得不紆慮啓告、副其高山之望。若微志得展、血讐得報、此乃君之勲力、策心所望也。」因涕泣横流、顔色不変。紘見策忠壮内発、辞令慷慨、感其志言、……

これは、『呉歴』の節略なので、中身の検証はしなくてよい。

策因委以母及諸弟,徑往壽春見袁術,垂涕而言:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君同盟結好於南陽,不幸遇難,勳業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君察其深誠。」術甚異之,以其父衆千人配焉,

孫策は、母と弟を残して、寿春で袁術にまみえて、兵の返却をもとめた。これも、孫策伝 注引『呉歴』による。

呉歴曰、……江表伝曰、策径到寿春見袁術、涕泣而言曰「亡父昔従長沙入討董卓、与明使君会於南陽、同盟結好。不幸遇難、勲業不終。策感惟先人旧恩、欲自憑結、願明使君垂察其誠。」術甚貴異之、然未肯還其父兵。術謂策曰「孤始用貴舅為丹楊太守、賢従伯陽為都尉、彼精兵之地、可還依召募。」策遂詣丹楊依舅、得数百人、而為涇県大帥祖郎所襲、幾至危殆。於是復往見術、術以堅餘兵千餘人還策。

「父衆千人を配」したことは、『呉録』の「堅餘兵千餘人を以て還す」の節略であろう。なるべく同じ意味のまま、字数を削っている。

表為漢折衝校尉,使破廬江太守陸康,時漢獻帝興平元年也。

孫策が折衝校尉になったのは、孫策伝に、「術表策為折衝校尉、行殄寇将軍、兵財千餘、騎数十匹、賓客願従者数百人」とある。『建康実録』は、折衝校尉になってから、廬江太守の陸康を破り、これが献帝の興平元(194)年とする。
陸康の攻撃が、興平元年であることは、『資治通鑑』も同じで、ぼくも検討済。しかし、校勘記が言うように、折衝校尉となったのは、陸康を倒した後。許嵩が節略・圧縮しすぎて、前後関係がおかしく見えている。

折衝校尉→陸康撃破→行殄寇将軍というステップを、許嵩が「創作」した。このように、許嵩なりの「出典に誤りがあるはずだから、オレが合理的に直してやるよ」という独善的な処理の極致が、孫権が呉王に2回即位することである。どこかに出典があるわけではないが、「そんなはずない」から、記述を変更してしまう。近代(に限らず)歴史学の立場としては、フェアとは言えない。臆断ですよ。


明年冬,術以策為殄寇將軍。初,袁術表策舅吴景為丹楊太守,及術據壽春,而揚州刺史劉繇走,渡江,遂逐景,奔歷陽。策因諮術征繇,領兵千餘,騎數十疋,賓客樂從者數百人,興平二年十二月発自壽陽,比至歴陽,衆已五六千

明年冬=興平二(195)年冬、袁術によって殄寇将軍となる。

『三国志』孫策伝は、折衝校尉・行殄寇将軍と任命されていた。校尉として、将軍を兼ねた(「行」)と思われるが、許嵩は、年をまたいだ昇進と捉えて、『建康実録』を作っている。行殄寇将軍の直後に繋がっている、兵千余人を領し、賓客が数百人いたことも、孫策伝の続きである。

孫策伝:術表策為折衝校尉、行殄寇将軍、兵財千餘、騎数十匹、賓客願従者数百人。比至歴陽、衆五六千。策母、先自曲阿徙於歴陽。策、又徙母阜陵、渡江、転闘、所向皆破、莫敢当其鋒。而軍令整粛、百姓懐之」

『建康実録』は、連続した孫策伝のあいだに、文を挿入する。呉景を丹陽太守とし、袁術は寿春に依り、劉繇が渡江して呉景を駆逐して、(孫策伝に従って解釈するなら、劉繇が呉景を)歴陽に奔らせたとする。孫策が、呉景の救援に行ったという説明を、許嵩なりに加えている。

『建康実録』によると、孫策は、興平二年十二月、寿陽を発して歴陽に到り、兵は五-六千である。孫策伝に「衆五六千」とあるから、出典はこれであろう。しかし、「寿陽」と「興平二年十二月」は、どこから来たのか。

孫策伝 注引『呉録』:興平二年十二月二十日、於吳郡曲阿得袁術所呈表、以臣行殄寇將軍。至被詔書、乃知詐擅。

のちに孫策が、献帝に上表したとき、「興平二年十二月二十日、袁術によって行殄寇将軍にしてもらった」とある。許嵩が拾ってきた年月は、これであろう。つまり、孫策伝に、袁術から行殄寇将軍にしてもらい、すぐに歴陽に向かうことから、任命の日付を、劉繇戦への進発の日付とイコールと見なしたのである。

記述のツブの粗さを揃えるために、「二十日」という日付までは省かれた。もしくは、任命は二十日だけど、進発までは日付が分からない(同日と限らない)と考えて、日付を省いたのだろうか。

「寿陽」というのは、寿春の誤りだろう。特定の典拠によらず、許嵩なりに状況を説明しようとして、ミスったと思われる。

濟於橫江,大破劉繇牛渚營,追敗繇于曲阿,轉鬭千里,郡縣歸伏。

長江を、横江にて渡り、牛渚で劉繇を破って、曲阿に追い払った。「横江」は、孫策伝にて、樊能・于麋と戦った場所。孫策伝 注引『江表伝』に、「策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧谷、戰具,是歲興平二年也」とあり、「牛渚」の出典は、これである。
すなわち、『呉録』によると興平二年十二月二十日に行殄寇将軍に任命されており、『江表伝』に興平二年に牛渚で劉繇を破ったということは、十二月のうちに将軍任命→劉繇撃破まで完了したはずで、それなら劉繇撃破も十二月だよねと。

念のために朔閏表を確認したが、興平二年には「閏十二月」がないため、許嵩の推測は正しかったことが確定する。


遂東破嚴白虎於會稽,白虎走,義士許昭匿之。程普請討昭,策曰:「有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」遂捨昭引軍屠東冶,白虎降,殺之。改置官吏,鎭於會稽。

つぎに孫策は、厳白虎を会稽で撃ったとする。『三国志』では、

孫策伝:吳人嚴白虎等、衆各萬餘人、處處屯聚。吳景等、欲先擊破虎等乃至會稽。策曰「虎等羣盜、非有大志。此成禽耳」遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。

呉郡の厳白虎が、抵抗する。呉景が、「さきに呉郡の厳白虎を撃ってから、会稽にいこう」というが、孫策は「群盗は、大志がないから、ほっとけ。いつでも捕らえることができる」といい、厳白虎を捨ておき、会稽・東冶に向かう。
一方で『建康実録』は(呉景の言うとおり)さきに厳白虎を攻撃してから、東冶に向かう。厳白虎を攻撃したとき、エピソードが挟まれる。 孫策に攻撃された厳白虎は、義士の許昭に匿われた。程普が許昭を撃てと言うと、孫策が、「旧君に義があって、旧友に誠があるのは、丈夫の志である」といって、許昭をすておき(攻撃先を転じて)東冶をほふる。
許昭のことは、孫策伝 注引『呉録』が出典である。

『呉録』:策自討虎,虎高壘堅守,使其弟輿請和。許之。輿請獨與策會面約。既會,策引白刃斫席,輿體動,策笑曰:「聞卿能坐躍,剿捷不常,聊戲卿耳!」輿曰:「我見刃乃然。」策知其無能也,乃以手戟投之,立死。輿有勇力,虎眾以其死也,甚懼。進攻破之。虎奔餘杭,投許昭於虜中。程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」乃舍之。

つまり『三国志』では、厳白虎を攻撃せずに、会稽に向かう。『建康実録』では、厳白虎を攻撃し、許昭に逃げこむ所まで追いこんでから、それを放置して、会稽に向かう。結末の整合は取れているから、「許嵩が、『三国志』が節略した中間プロセスを拾った」という説も成り立ちます。

孫策伝に引く『呉録』によると、弟の厳輿を孫策に殺されたので、厳白虎は、余杭(呉郡、のちに呉興郡に改編)に逃げて、虜中で許昭に投じたという。つまり、『三国志』裴注では、厳白虎を放置→会稽平定→呉郡の厳白虎撃破→許昭を頼った厳白虎を放置。『建康実録』では、厳白虎を攻撃→許昭を頼った厳白虎を放置→会稽平定、という順序である。


破太史慈於涇口,復任之。以舅吴景復領丹楊太守。南討豫章﹑廬陵定之。

会稽太守の王朗と戦ったことは、『建康実録』ではスルーされる。太史慈との戦いは、もう少し後と思われる。呉景が丹陽太守となり、豫章・廬陵を平定したというのは、孫策伝による要約に従ったためだろう。孫策伝は、建安元年ごろ、六郡をひきいて独立したように記す。袁術が「僭号」する文の直前である。

孫策伝:盡更置長吏、策自領會稽太守、復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守。

しかし、年代が正しくない。豫章を平定するのは、建安四(199)年のことである。当然ながら、豫章を分割するのも、それ以後である。つまり『建康実録』は、孫策伝にザツな要約である、「六郡をひきいて袁術から決別した」という歴史像に、まんまと巻きこまれたのである。
その証拠に、『建康実録』の次の文は、袁術の僭号である。孫策伝を背骨として使いながら、記述に肉付けしていくから、このように、おかしなことになる。
『建康実録』は、このあと、孫策軍が豫章・廬陵を平定した記事がある。『三国志』に依拠するあまり、『建康実録』のなかで、矛盾が発生している。ただし、この矛盾は、『三国志』にすでに見える矛盾である。許嵩は、史料批判が足りなかった。

孫策伝_袁術からの自立

時袁術將僭大號於江北,策乃使張紘為書絕之,自領會稽太守,以張昭﹑張紘等為腹心謀主。遂調時節貢賦於漢,曹操乃表策為討逆將軍,封吴侯。策雖外見受官,內懐三分之計。

袁術が「江北」で「大号を僭」したとは、許嵩による説明。孫策が張紘に絶縁状を書かせたのは、孫策伝に「時、袁術僭號。策以書責而絕之。曹公、表策爲討逆將軍、封爲吳侯」とあるのを受けたもの。起草者は、張紘もしくは張昭であると、裴松之注にあるから、許嵩が補った。
『建康実録』の「調時節貢賦於漢」は、許嵩なりの説明。同じことは、孫策伝とその注に見えるが、一字一句が照合できるわけじゃない。大切なのは、許嵩にとっての孫策政権は、漢朝の忠臣であること。この主張は、韋昭『呉書』あたりと一致するため、それに基づいた『三国志』孫策伝とも、うまく整合する。
『建康実録』は、これに加えて、「策雖外見受官,内懐三分之計」と、独自解釈を付する。これは、孫策伝を読んでも、出て来ない解釈である。というか、この時点で、どこと「三分」するのか。ともあれ、許嵩の歴史観を見るには、いい「駄文」です。

及袁術敗死,其部曲將家屬歸廬江太守劉勳。策既定江東,遂引兵與周瑜西渡,襲皖城,大破劉勳於廬江,取袁術乘輿百工器物而歸,以李術為廬江太守,守皖。

袁術が死ぬと、部曲・家属は、廬江太守の劉勲をたよった。これは、『三国志』に整合する。しかし、その次が怪しい。孫策は、周瑜と合流して、皖城を襲って(袁術勢力を吸収した)劉勲を大破したとする。一気に、袁術の死後(建安四年)に飛んでいる。

『三国志』周瑜伝によると、周瑜と孫策が合流するのは、まず劉繇を倒すときである。このときの協力行動は、『建康実録』では無視された。
周瑜伝:瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之。會策將東渡,到曆陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策。策大喜曰:「吾得卿,諧也。」遂從攻橫江、當利,皆拔之。

『三国志』では、袁術の死後に、周瑜が再登場する。

孫策伝 注引『江表伝』:時策西討黃祖、行及石城、聞勳輕身詣海昏、便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳、自與周瑜率二萬人步襲皖城、卽克之、得術百工及鼓吹部曲三萬餘人、幷術、勳妻子。表用汝南李術爲廬江太守、給兵三千人以守皖、皆徙所得人東詣吳。

『建康実録』が「西渡」としたが、「西」字は、黄祖を撃つための軍事行動である。その道中、皖城を襲った。李術を廬江太守にしたのも、『建康実録』と『江表伝』が整合する。

初,荊州刺史劉表使黃祖子射來救劉勳,策轉破射於西塞之水,而追殺其將劉虎﹑韓晞於沙羡縣,

これより先、荊州刺史(荊州牧が正しい)は、黄祖の子・黄射に、劉勲を救援させた。

孫策伝 注引『江表伝』:賁、輔又於彭澤破勳。勳走入楚江、從尋陽步上到置馬亭、聞策等已克皖、乃投西塞。至沂、築壘自守、告急於劉表、求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻、大破勳。勳與偕北歸曹公、射亦遁走。策收得勳兵二千餘人、船千艘、遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千、來爲黃祖前鋒。策與戰、大破之。

『建康実録』は、「これより先」というから、咎めることができないが(でも編年体としては減点要素ですけど)、たしかに劉表は、黄射を派遣していた。西塞で戦ったこと、劉虎・韓晞も、『江表伝』と整合する。『江表伝』では「大いに破る」とだけ記すが、『建康実録』は「追いて殺す」とする。

『建康実録』によると、「追いて殺す」のは、沙羨県である。『三国志』呉主伝に、「建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙羡」とあるが、許嵩はこれを踏まえたか。いや、つぎの『呉録』が出典と気づきました。

さらに出典を探すと、孫策伝 裴松之注に、沙羨県の戦いがある。

呉録載策表曰「臣討黄祖、以十二月八日到祖所屯沙羨県。劉表遣将助祖、並来趣臣。臣以十一日平旦部所領江夏太守行建威中郎将周瑜、領桂陽太守行征虜中郎将呂範、領零陵太守行蕩寇中郎将程普、行奉業校尉孫権、行先登校尉韓当、行武鋒校尉黄蓋等同時俱進。身跨馬櫟陳、手撃急鼓、以斉戦勢。吏士奮激、踊躍百倍、心精意果、各競用命。越渡重塹、迅疾若飛。火放上風、兵激煙下、弓弩並発、流矢雨集、日加辰時、祖乃潰爛。鋒刃所截、猋火所焚、前無生寇、惟祖迸走。獲其妻息男女七人、斬虎・(狼)・韓晞已下二万餘級、其赴水溺者一万餘口、船六千餘艘、財物山積。雖表未禽、祖宿狡猾、為表腹心、出作爪牙、表之鴟張、以祖気息、而祖家属部曲、掃地無餘、表孤特之虜、成鬼行尸。誠皆聖朝神武遠振、臣討有罪、得効微勤。」

建安四年十二月、沙羨県で黄祖と戦った。呉主伝と対応するように、「行奉業校尉孫権」も参戦している。そして、「虎・晞を斬る」とある。これが、張虎・韓晞を斬った証拠である。『建康実録』が「追いて殺す」に作ったのは、「惟祖迸走」した黄祖軍にさらにダメージを加え、「張虎・韓晞を斬った」とあることを、許嵩なりにまとめたものであった。

還定豫章,走華歆。以従兄賁領豫章太守,留賁弟輔將兵住南昌,策謂賁曰:「僮芝自署廬陵太守,兄今據豫章,是扼其咽喉而守其門戸也。但當伺其形便,因令國儀杖兵而進,一舉可定矣。」(案,江表傳:後孫賁聞僮芝病,卽如策計,引周瑜上巴丘,外為形勢,遂與其弟輔進廬陵而據之。)

『建康実録』によると、黄射・劉虎を撃って、返す刀で? 豫章太守の華歆をやぶった。このたび(建安四年)、荊州からの帰り道にて、孫策が華歆を降伏させたのは、『三国志』と整合する。孫奮を豫章太守としたのも、宜しい。

『建康実録』に僮芝という人物が出てくるので、検索してみた。

太史慈伝 注引『江表伝』:慈從豫章還,議者乃始服。慈見策曰:「華子魚良德也,然非籌略才,無他方規,自守而已。又丹楊僮芝自擅廬陵,詐言被詔書為太守。鄱陽民帥別立宗部,阻兵守界,不受子魚所遣長吏,言『我以別立郡,須漢遣真太守來,當迎之耳』。子魚不但不能諧廬陵、鄱陽,近自海昬有上繚壁,有五六千家相結聚作宗伍,惟輸租布於郡耳,發召一人遂不可得,子魚亦覩視之而已。」策拊掌大笑,(仍)〔乃〕有兼并之志矣。頃之,遂定豫章。

孫奮伝 注引『江表伝』:時丹楊僮芝 自署廬陵太守,策留賁弟輔領兵住南昌,策謂賁曰:「兄今據豫章,是扼僮芝咽喉而守其門戶矣。但當伺其形便,因令國儀杖兵而進,使公瑾為作勢援,一舉可定也。」後賁聞芝病,即如策計。周瑜到巴兵,輔遂得進據廬陵。

太史慈伝注によると、太史慈が孫策に、「丹陽の僮芝が、豫章太守の華歆を蔑ろにして、廬陵で太守を気取っています」と、豫章の攻略を進言する。孫奮伝注によると、丹陽の僮芝が廬陵太守を自称したので、孫奮の弟の孫輔を南昌にとどめ、僮芝の病気に乗じて攻撃した。
この『建康実録』は、孫奮伝に引く『江表伝』が典拠である。許嵩は自注にて、僮芝の病気について補う。

中華書局本の扱いでは、孫策の事績は、すべて自注のなかに埋没する。ゆえに、「『江表伝』を案ずるに」というのは、自注の自注として、二階層で埋没してる。

校勘記によると、僮芝が「廬江太守」を自署したとあるのを、「廬陵」に改めたという。ありがとうございます。

孫策伝_孫策の死

時曹操既扼袁紹而不能禁,因與策為好,以弟女配策小弟匡,復為子章取策從兄賁女為夫人。

曹操が袁紹と対立するので、曹操の弟の娘を孫匡にめあわせ、曹彰は孫奮の娘を夫人とした。校勘記に、「章」は「彰」のこととあるが、これは『三国志』から引き継がれた字の揺れなので、ここでは問題としない。

建安五年四月,廣陵太守陳登治射陽,陰遣閒使以印綬與嚴白虎餘黨,於會稽圖取策。策密知之,討登,至丹徒。聞曹操與袁紹相拒於官渡,將欲謀渡江迎獻帝。

建安五年「四月」、陳登が厳白虎らに印綬をバラまいて、「会稽を」孫策から奪おうとした。「四月」というのは、『三国志』に見えない情報。また「会稽」を狙ったのも、『三国志』に見えない。

孫策伝 注引『江表伝』:廣陵太守陳登治射陽、登卽瑀之從兄子也。策前西征、登陰復遣閒使、以印綬與嚴白虎餘黨、圖爲後害、以報瑀見破之辱。策歸、復討登。軍到丹徒、須待運糧。策性好獵、將步騎數出。策驅馳逐鹿、所乘馬精駿、從騎絕不能及。初、吳郡太守許貢上表於漢帝曰……

孫策伝に引く『江表伝』では、「四月」が見えない。

孫策伝 注引 虞喜『志林』に、「喜推考桓王之薨、建安五年四月四日。是時曹、袁相攻、未有勝負」と、孫策の死を四月とする。これに基づいて「十月」を取材し、しかし日付までは決まらないから、「四日」を消したか。しかし、孫策の死が四月四日なら、陳登の介入は、それ以前と考えたほうが適切だろう。タイムラグがあるから。

『江表伝』は、「後害を為さんと図る」とあるだけで、「会稽を孫策より取らんと図る」という、『建康実録』のような具体的な記述はない。
上で厳白虎は、義士の許昭に匿ってもらった。 孫策はこれを知ると、陳登を討つために、丹徒にきた。丹徒も『江表伝』に見える。軍糧を待つためにここに来たとある、『江表伝』のほうが詳しい。

校勘記によると、原文「丹陽」を、「丹徒」に改めたという。ありがとうございます。


『建康実録』では、孫策が、曹操が官渡で戦うと聞いて、献帝を迎えようと(なんの脈絡もなく)思い立ったように記す。これは、孫策伝の「建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將」によるもの。つまり、『江表伝』だけに依れば、孫策の軍事行動は陳登の討伐。しかし、孫策伝も捨てがたいので、丹徒にいるくせに、献帝を狙ったとする。これは、編纂意図・内容の異なる史料を、強引に接続した弊害である。

初,吴郡太守許貢見策英傑,乃表「策勇蓋天下,驍雄似項羽,請朝廷徵入,不然必為後患」。策微知,使人遮得其表,而召貢責之,令武士絞殺。及此兵屯江上,因出獵,馬駿,去從騎遠,為貢客許昭伏刺之,傷面。

許嵩は一転して、「初め」と遡る。これは、陳登の戦いを書いた『江表伝』に依るもの。

初、吳郡太守許貢上表於漢帝曰「孫策驍雄、與項籍相似、宜加貴寵、召還京邑。若被詔不得不還、若放於外必作世患。」策候吏得貢表、以示策。策請貢相見、以責讓貢。貢辭無表、策卽令武士絞殺之。貢奴客潛民間、欲爲貢報讐。獵日、卒有三人卽貢客也。策問「爾等何人?」答云「是韓當兵、在此射鹿耳。」策曰「當兵吾皆識之、未嘗見汝等。」因射一人、應弦而倒。餘二人怖急、便舉弓射策、中頰。後騎尋至、皆刺殺之。

呉郡太守の許貢が、献帝に上表して、項羽に似た孫策を警戒せよと言ったのは、『江表伝』に基づく。孫策が許貢を怨んで、武士に考察させたのも、『江表伝』に対応する。
『建康実録』によると、許貢の客である許昭に、このとき(丹徒で猟をしたとき)孫策は顔を傷つけられる。『江表伝』では、許貢の客の3人(名は不明)によって、孫策は、ほおに矢が命中する。許嵩が、節略しながら『江表伝』を引いたと思われる。

『建康実録』の編者は許嵩。『三国志』で、義士の許昭は、厳白虎を匿ったところで、退場する。しかし『建康実録』では、許昭が、呉郡太守の許貢の客として登場し、孫策の顔面を傷つける。許嵩(編者)が、許貢(亡き呉郡太守)と、許昭(義士で、孫策を暗殺)との関係を、どのように想定したのか分からないが、許姓の活躍がめだつ。


時瑯琊道士于吉有道術,往來吴中,言事多驗,諸將委策拜吉三分之二,策惡之。既至丹徒,責其水旱事,誅吉。自後毎獨坐,常見吉在左右。及許昭所傷,治瘡方差,策性剛,取鏡照面,見所傷瘡,乃怒曰:「大丈夫將建功業,而令面如此!」遂擲鏡大叫,瘡裂而死,時年二十六。
(案,捜神記:既殺于吉,毎照鏡,見吉在其中,顧而不見,如是再三。因擲鏡大叫,瘡裂,須臾而死也。)

琅邪の于吉とある。孫策伝に引く『江表伝』は、于吉の本貫を記さない。同注引『志林』により、琅邪の人と分かる。諸将の「三分の二」が于吉を支持したのは、孫策伝に引く『江表伝』である。『建康実録』は、孫策が、丹徒に到ると、水旱のことで于吉を責めたとする。『江表伝』では、于吉と孫策のトラブルが、駐屯先の丹徒のことと決まらない。むしろ、孫策の母が出てくるので、『建康実録』にあるような丹徒のことではないと思われる。

丹徒で水旱がらみの祈祷でモメるのは、『捜神記』のようです。そりゃあ、『江表伝』から復元できないわけだ。

鏡を見て、「こんな顔になっては」と叫んで、26歳で死んだ。『捜神記』によると、鏡のなかに于吉が映ったので、叫んだという。「こんな顔になっては」は、出典どこだっけ。読んだことがある話ですが。

以後事付弟權,託長史張昭﹑張紘輔佐之,臨終顧謂權曰:「舉江東之衆,決機於兩陣之閒,與天下争衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心,以保江東,我不如卿。」言終而卒。

孫策が、張昭・張紘に遺言する。孫策伝と比較する。

孫策伝:創甚、請張昭等、謂曰「中国方乱。夫、以呉越之衆三江之固、足以観成敗。公等、善相吾弟」呼権、佩以印綬、謂曰「挙江東之衆、決機於両陳之間、与天下争衡、卿不如我。挙賢任能、各尽其心、以保江東、我不知卿」至夜卒、時年二十六。

孫策伝では、張昭のみに遺言するが、『建康実録』では、張紘も登場する。これは、「孫策の重臣は、この2名だから、張紘も遺託されたはず」という思い込みによるものだろうから、採用できない。孫策の遺言は、孫策伝と同じだった。

權臨喪未及息,張昭謂權曰:「夫為人後者,貴能負荷先軌,克昌堂構,以成勳業。方今天下鼎沸,犲狼滿道,此寧哭時,猶開門待盜,未為仁也。」乃改權服,扶上馬,使出巡行軍伍。
(案,江表記:堅為下邳丞,生權,廣額大口,目有精光,堅異之,以必有大貴。隨兄策征伐,毎立奇謀,策顧權謂衆,曰:「此眞諸君將軍也。」)

落ちこむ孫権に、張昭がガンバレという。張昭伝・孫権伝と比較してみる。

張昭伝。權悲感未視事,昭謂權曰:「夫為人後者,能負荷先軌,克昌堂構,以成勳業也。方今天下鼎沸,羣盜滿山,孝廉何得寢伏哀戚,肆匹夫之情哉?」乃身自扶權上馬,陳兵而出,然後眾心知有所歸。

孫権伝:権、哭未及息。策長史張昭、謂権曰「孝廉、此寧哭時邪。且、周公立法而伯禽不師。非違父、時不得行也〔一〕。況今姦宄競逐、豺狼満道。乃、欲哀親戚顧礼制、是猶開門而揖盜。未可以為仁也」乃、改易権服、扶令上馬、使出巡軍。

前半が張昭伝、後半が呉主伝に依るもの。張昭伝の「群盗 山に満ち」をキッカケに、呉主伝「豺狼 満ちに満ち」に出典が切り替わっている。孫権を乗馬させたのは、張昭伝。『建康実録』は、「軍伍を巡行」させたとあるが、これは呉主伝のほうに近いか。ただし、「軍伍」の語は、『三国志』には見えない。170624

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『建康実録』建安五年~十年

◆建安五年

是時吴始有會稽﹑吴郡﹑丹楊﹑豫章﹑廬陵等郡,深嶮之地猶未盡從,而天下英豪布在州郡,賓客之士以安危去就為意,未有君臣之固。權既統事,以周瑜﹑程普﹑呂範等為爪牙,將軍魯肅﹑諸葛瑾﹑步騭﹑陸遜為腹心賓客,招延英俊而分部諸將,鎭撫山越,討不從命。使太史慈鎭海昏,韓當﹑周泰﹑呂蒙為劇縣長。

『建康実録』は、「呉は始めて有つ」とするが、呉主伝には「呉は」の主語がない。『建康実録』は、すでに「呉」という主体があるという前提の記述になっている。

呉主伝:是時、惟有会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵。然、深険之地猶未尽従。而天下英豪布在州郡、賓旅寄寓之士、以安危去就為意、未有君臣之固。張昭、周瑜等謂、権可与共成大業故委心而服事焉。曹公、表権為討虜将軍、領会稽太守。屯呉、使丞、之郡行文書事。待張昭以師傅之礼、而周瑜、程普、呂範等、為将率。招延俊秀聘求名士、魯粛、諸葛瑾等、始為賓客。分部諸将鎮撫山越、討不従命。

会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬陵という郡のリストは同じ。「君臣の固」がないのも同じ。周瑜・程普・呂範・魯粛・諸葛瑾を孫権が使ったのは、『建康実録』は呉主伝どおり。一方、『建康実録』は、歩隲・陸遜を呉主伝に追加している。すなわち、呉主伝が「賓客」としたのは、魯粛・諸葛瑾のみを「賓客」としたが、『建康実録』は「賓客」に、歩隲・陸遜を追加したのである。

『建康実録』は、「英俊を招延し」とある。これは呉主伝で、魯粛・諸葛瑾の前にあった文。文の順序を入れ替えているが、影響がない。おそらく、呉主伝 建安七年の記事を、むりに『建康実録』建安五年に繋ぐための、インチキ処理。
山越を鎮撫したメンバーを、『建康実録』は伝える。これは、呉主伝の現在(建安五年)になく、建安七年から借りてきている。

呉主伝:七年権母、呉氏薨。八年権、西伐黄祖。破其舟軍、惟城未克、而山寇、復動。還過豫章、使呂範平鄱陽会稽、程普討楽安、太史慈領海昏。韓当、周泰、呂蒙等、為劇県令長。

『建康実録』は、太史慈が海昏を鎮撫したとピンポイントに詳しく書く。韓当・周泰・呂蒙は「劇県長」になったと触れるだけ(韓当・周泰・呂蒙に任地の県名がないことは、呉主伝 建安七年に同じ)。
呉主伝 建安七年は、呂範が鄱陽・会稽を平定したとあるが、『建康実録』建安七年の記事がそもそもなく、ザツに建安五年に繋ぐ。呉主伝にある、程普が楽安を平定したことも、『建康実録』は省く。なぜ太史慈と海昏の組み合わせだけを、2年も前倒しして書いたのか不明。

建安六年春,策所置廬江太守李術聞策死,遂不從命,乃與權書曰:「有德見歸,無德見叛,不應還。」權怒,自征之,梟首,屠其城,徙其部曲二萬人從東渡江。

『建康実録』は、李術の叛乱を建安六春年とするが、根拠がない。というか、呉主伝 建安五年に、裴松之注『江表伝』の記事である。呉主伝には、建安六年の記事がない。すなわち、順序として、李術の事績を伝える『江表伝』は、建安五年の記事の後にあり、建安七年の記事の前にある。だから許嵩が、建安六年に違いないと思ったと推測できる。

江表伝曰、初策表用李術為廬江太守、策亡之後、術不肯事権、而多納其亡叛。権移書求索、術報曰「有徳見帰、無徳見叛、不応復還。」権大怒、乃以状白曹公曰「厳刺史昔為公所用、又是州挙将、而李術凶悪、軽犯漢制、残害州司、肆其無道、宜速誅滅、以懲醜類。今欲討之、進為国朝掃除鯨鯢、退為挙将報塞怨讐、此天下達義、夙夜所甘心。術必懼誅、復詭説求救。明公所居、阿衡之任、海内所瞻、願敕執事、勿復聴受。」是歳挙兵攻術於皖城。術閉門自守、求救於曹公。曹公不救。糧食乏尽、婦女或丸泥而呑之。遂屠其城、梟術首、徙其部曲三万餘人。

『江表伝』では、孫策の死後のこととして、書いてある。孫策の死は、建安五年四月と扱われているから、李術の叛乱が、建安五年中であってもおかしくない。許嵩が、建安六年とするだけでなく、「春」とまで特定する理由はなぜか。ナゾです。

校勘記によると、『江表伝』は李術の部曲を三万余人に作るが、『建康実録』は二万人に作る。そうですね。


◆建安七年
呉主伝によると、「七年権母、呉氏薨」と、建安七年に孫権の母が死ぬ。しかし『三国志集解』呉主伝は、呉氏の没年について、異なる史料をあげる。

巻五十 呉夫人伝 注引『志林』:按会稽貢挙簿、建安十二年到十三年闕、無挙者、云府君遭憂、此則呉后以十二年薨也。八年九年皆有貢挙、斯甚分明。

会稽の貢挙簿にブランクがあることから、孫権の母の死は建安十二年であろうと。『建康実録』は、後ろに「十二年,太夫人吴氏薨,合葬高陵」とあるから、呉主伝を鵜呑みにせず、呉夫人伝 注引『志林』の史料批判を踏まえ、編纂されたことが分かる。まあ、騒ぐような処理ではありません。

『三国志』呉夫人伝の本文は、「建安七年,臨薨,引見張昭等,屬以後事,合葬高陵」とある。陳寿の認識では、あくまでも建安七年に、呉夫人が死んでいる。許嵩は、陳寿を退けて、『志林』の考察(記録ではなく、ただの考察)を信用して、地の文に取りこんだ。


◆建安八年

呉主伝:八年権、西伐黄祖。破其舟軍、惟城未克、而山寇、復動。還過豫章、使呂範平鄱陽会稽、程普討楽安、太史慈領海昏。韓当、周泰、呂蒙等、為劇県令長。

呉主伝によると、建安八年、黄祖を討伐するが、勝たずに帰ってきた。『建康実録』は、これは省く。この帰り道に、呂範が鄱陽を、程普が楽安を、(これだけは上で見たように)太史慈が海昏を平定する。
どうやら『建康実録』は、建安八年の戦いを(どうせ黄祖に勝てないから)圧縮した。そのときの軍事行動や地方長官の任命を、建安五年の、孫権の配下の人物列挙のところに、くっつけてしまった。

八年,以弟翊代吴景領丹楊太守。

『建康実録』によると、建安八年、孫権の弟の孫翊が、呉景に代わって丹陽太守となった。『三国志』呉夫人伝に、「八年,景卒官,子奮授兵為將,封新亭侯,卒」と、建安八年、呉景が死んだとある。つまり許嵩は、呉主伝だけでなく、きちんと呉夫人伝に目を配って、編年体の史料を正しく作ったのである。
さっき呉夫人伝 注引『志林』を信用していたように、少なくとも呉夫人伝は、注意ぶかく見ていたことだけは、確定できる。

◆建安九年

九年,大會僚屬,以事誅沈友。友字子正,呉人也。弱冠好學,博聞明贍,善文詞,多有口辯,時人以友筆妙﹑舌妙﹑刀妙,三妙過人。權至吴,徵禮之,共論王霸大畧・當世之務。友性忠謇,立朝正色,為衆所毀。權亦以終不為己用,故殺之。

呉主伝:九年権弟、丹楊太守翊、為左右所害。以従兄瑜、代翊〔一〕。
〔一〕呉録曰、是時権大会官寮、沈友有所是非、令人扶出、謂曰「人言卿欲反。」友知不得脱、乃曰「主上在許、有無君之心者、可謂非反乎。」遂殺之。友字子正、呉郡人。年十一、華歆行風俗、見而異之、因呼曰「沈郎、可登車語乎。」友逡巡却曰「君子講好、会宴以礼、今仁義陵遅、聖道漸壊、先生銜命、将以裨補先王之教、整斉風俗、而軽脱威儀、猶負薪救火、無乃更崇其熾乎。」歆慚曰「自桓、霊以来、雖多英彦、未有幼童若此者。」弱冠博学、多所貫綜、善属文辞。兼好武事、注孫子兵法。又辯於口、毎所至、衆人皆默然、莫与為対、咸言其筆之妙、舌之妙、刀之妙、三者皆過絶於人。権以礼聘、既至、論王霸之略・当時之務、権斂容敬焉。陳荊州宜并之計、納之。正色立朝、清議峻厲、為庸臣所譖、誣以謀反。権亦以終不為己用、故害之、時年二十九。

呉主伝は、建安九年、(建安八年に呉景に代わって)丹陽太守となった孫翊が、殺害されたとあり、孫瑜がこれに代わったという。『建康実録』は、さっき孫翊が丹陽太守になったことには触れるのに、孫翊の最期には触れない。
いや、そうでなく、『建康実録』建安十年の記事のあとに、「是の歳」と繋いで、孫翊の殺害を記す。1年、ズレている。

呉主伝の建安九年に、裴注『呉録』があって、「是の時」孫権が沈友を殺したという。つまり、沈友の殺害が、建安九年であることは、裴松之まかせである。『呉録』のなかに、建安九年を特定できる記述はない。
『建康実録』は、同年の孫翊の殺害はスルーして(誤って建安十年に繋いで)、しかし、沈友の殺害は拾ってくる。沈友伝に、「三妙は人に過ぐ」とあるが、これは『呉録』から拾える範囲の情報。その他の事績も、『呉録』に収まっている。

◆建安十年

十年春,往椒丘,使都尉賀齊討上饒,分置建平縣。

『建康実録』によると、建安十年、都尉の賀斉が上饒を討って、建平県を置いた。

呉主伝:十年権使賀斉、討上饒。分為、建平県。
賀斉伝:拜爲平東校尉。十年、轉討上饒、分以爲建平縣。

呉主伝・賀斉伝から拾えないのは、「春」という季節と、「往椒丘」という行動である。「椒丘」という、分かりやすすぎる固有名詞があり、孫策の時代の記録はヒットするのだが、建安十年の事と結びつかない。

是歲,丹楊都尉嬀覽﹑郡丞戴員等與邊洪謀殺太守孫翊,翊妻徐密與翊親近孫高﹑傅嬰等謀覽﹑員,伏刃殺之,盡誅其黨,以覽﹑員首祭翊墓。

『建康実録』によると、十年の記事に「是の歳」と繋ぎ、孫翊が殺されたとする。しかし呉主伝によると、建安九年のことである。
孫韶伝にこの事件が見える。『建康実録』では、媯覧を丹陽都尉、戴員を郡丞とする。『建康実録』の「丹陽都尉」は、孫韶伝では「大都督」である。許嵩が、大都督がおかしいと独自に考え、丹陽都尉に直したと思われる。戴員の郡丞は、『建康実録』と孫韶伝で一致する。『三国志集解』孫韶伝は、媯覧の大都督のところに、とくに注釈はない。

巻五十一 孫韶伝:初、孫権殺呉郡太守盛憲〔一〕。憲故孝廉媯覧、戴員、亡匿山中。孫翊為丹楊、皆礼致之。覧、為大都督督兵。員、為郡丞。及翊遇害、河馳赴宛陵、責怒覧員、以不能全権、令使姦変得施。二人議曰「伯海、与将軍疎遠、而責我乃耳。討虜、若来、吾属無遺矣」遂、殺河。使人北迎揚州刺史劉馥令住歴陽、以丹楊応之。会翊帳下徐元、孫高、傅嬰等、殺覧員〔二〕。

『建康実録』は、媯覧・戴員とともに、辺洪が出てくる。辺洪の名は、孫韶伝 注引『呉歴』に見える。孫高・傅嬰の名も、同じ『呉歴』に見える。媯覧らの首を、孫翊の妻の徐氏が墓に祭ったことも、『呉歴』に収まる。

孫韶伝 注引『呉歴』:媯覧・戴員親近辺洪等、数為翊所困、常欲叛逆、因呉主出征、遂其姦計。……徐潜使所親信語翊親近旧将孫高・傅嬰等、説「覧已虜略婢妾、今又欲見偪、所以外許之者、欲安其意以免禍耳。欲立微計、願二君哀救。」……高、嬰俱出、共得殺覧、餘人即就外殺員。夫人乃還縗絰、奉覧、員首以祭翊墓。挙軍震駭、以為神異。呉主続至、悉族誅覧、員餘党、擢高、嬰為牙門、其餘皆加賜金帛、殊其門戸。

事件の内容に、不審なところはない。どうして『建康実録』が、それほど複雑ではない史実の繋年を誤ったか。許嵩の作業に、どのような欠点があったか、シンプルな例から特定できたら、有益と思われる。170627

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『建康実録』建安十一年~十二年

◆建安十一年

十一年,建昌都尉太史慈卒。

『建康実録』によると、建安十一年、太史慈が卒した。呉主伝には、太史慈の死の記事がない。

呉主伝:十年権使賀斉、討上饒。分為、建平県。十二年、西征黄祖、虜其人民而還。

巻四十一 太史慈伝に、「年四十一、建安十一年卒」とある。許嵩が、太史慈伝と照合して、きちんと没年を拾ったことになる。没年を重視して、人物伝を挿入するタイミングを狙っていた可能性がある。
『建康実録』はこれをキッカケに、やや長く太史慈伝への移る。

◆太史慈伝

慈字子義,東萊黃人。少好學,仕郡奏曹史。會郡與州有隟,曲直以先聞者善。時州章已去,郡守甚恐,求可使者。慈年二十一,選行,懐郡章,晨夜取道,到洛陽,詣公車門,見州吏,紿而取章,因得毀之。說吏與俱亡,出城,潛還通郡章。慈由是知名,既而避州隟之遼東。

出身地・年齢・官職など、太史慈伝と差異なし。

北海相孔融聞名義之,饋其家,問訊老母。及黃巾賊圍孔融,母急召慈還,令救融。慈單行徑至都昌,伺隟入見融,言老母感遇之意,請以求外援,無損府君之兵以却賊。因而開城詭習馬射,伺賊之懈,便突圍出,求救於劉備,以解都昌之圍而還,啟其母,母曰:「我喜汝有以報孔北海也。」

北海相の孔融、都昌の地名も、太史慈伝と同じ。母のセリフは、太史慈伝で、「我喜汝有以報孔北海也」となっており、同文である。

後揚州刺史劉繇渡江,慈隨之曲阿,會孫策討繇,慈單騎出候,卒遇策於神亭,策從韓當﹑宋謙﹑黃蓋等一十三騎。慈便前獨鬭,正與策對。策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪,會兩家兵來乃解。

太史慈伝は、劉繇が太史慈を「大将軍」にしたとあるが、許嵩は省く。太史慈伝は、「時、独与一騎、卒遇策」とあるが、『建康実録』は、「慈單騎出候,卒遇策」とする。ただの節略だろう。
韓当・宋謙・黄蓋ら13騎だったのも、太史慈伝と一致。「両家の兵」という表現も、同じである。

與繇俱奔豫章,道自蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守,立屯府於涇縣。尋為策所破,執之,捉其手曰:「寧識神亭時也,若卿爾時得我何如?」慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「天下之事,當與卿共之。」拜門下都督,從還吴,遷折衝中郞將,深委任之,毎與計議。

豫章・蕪湖に逃げて丹陽太守を称し、涇県にいたことは、太史慈伝に同じ。孫策に捕らえられた。太史慈伝は「門下督」となり、『建康実録』は「門下都督」となる。単純な許嵩のミスと思われる。折衝中郎将になったのは、太史慈伝と同じ。

聞劉繇死於豫章,士衆萬餘人,未有所附。策謂慈曰:「劉牧往責吾為袁氏攻廬江,其意頗猥,理恕不足。何者?先君手下兵數千人,盡在公路。孤志在立事,不得不屈意在公路,求索故兵,再往纔得千餘人,乃令孤攻廬江,爾時事勢,不得不為行。但其後不遵臣節,自棄作邪僭事,諫之不從。丈夫義交,苟有大故,不得不離,孤初交公路及絕之本末如此。今劉公喪亡,恨不及其生與論辯之。且兒子在豫章,不知華子魚待遇何如,其部曲復依隨之否?卿則州人,昔又從事,誠能往視兒子,並致孤意於部曲。部曲樂來者便與俱來,不樂者且安慰之,幷觀子魚所牧御方規,視廬江・鄱陽之民親附之否?卿手下兵,所將多少,自由意。」慈對曰:「慈有不赦之罪,將軍量同桓﹑文,待遇過望。古人報生以死,其於盡節,沒而後已。今此使行,不宜多兵,數十人,自足往還。」

太史慈伝 注引『江表伝』に、「劉牧往責吾為袁氏攻廬江」や「尽在公路許」とあり、ほぼ同文である。「不知華子魚待遇何如」や「視廬陵、鄱陽人民」も、『江表伝』と同文である。異なる書物である太史慈伝と『江表伝』を接続しただけ。このブロックは、主に『江表伝』であった。

左右聞策使慈,皆密諫慈難測,遣之非計。策曰:「諸君語皆非也,孤料詳矣。太史子義雖勇烈,非縱橫人也。其心有士謨,義重然諾,一意許知己,死生不相負,諸君勿憂之。」自出餞於閶門,把腕別曰:「何時當還?」答曰:「不過六十日。」如期歸吿,於策曰:「子魚非籌略之才,但自守而已,今廬陵﹑鄱陽皆不受子魚之命,海昬上獠,約有六千餘家,結聚作宗伍,惟輸租布於郡爾,發召一民不可得。」策撫掌大笑,遂有幷兼之心。乃拜慈為建昌都尉,治於海昬焉,督諸將以拒劉表從子磐。

『建康実録』の「皆密諫慈難測」は、太史慈伝の「左右皆曰、慈必北去不還……」、同注引『江表伝』の「策初遣慈、議者紛紜、謂慈未可信」を、許嵩が節略して置換したもの。
孫策が太史慈を評して信じたのは、太史慈伝 注引『江表伝』。六十日という期限は、太史慈伝に「不過六十日」とある。建昌都尉と海昏県は、太史慈伝が出典。劉磐も太史慈伝が出典。

慈身長七尺七寸,美鬚髯,猨臂善射,弦不虛發。嘗從策討麻保,賊於屯裏縁樓上行罵,以手持樓棼,慈引弓射之,矢貫手著棼,圍外萬人莫不稱善。曹操聞其名,遣書以篋封之,慈發省無所道,但貯當歸。及權統事,以慈能制劉磐,專委南方之事。卒,時年四十二。

太史慈の個人的な説明。身長は、太史慈伝に同じ。麻保・裏楼も同じ。曹操から「当帰」をもらうのも同じ。「劉磐を制した」のは、太史慈伝と同じ。享年は、太史慈伝は四十一とし、『建康実録』は四十二とするが、正誤判定は不能。

太史慈が二十一歳のときのエピソードが上にあるが、それが何年のことなのか、特定できる情報がない。

『建康実録』太史慈の小伝に、史料的価値がないことが確認できた。そのわりには、太史慈伝から引いている分量が、アンバランスに長い。張昭・陸遜のレベル。許嵩が、太史慈を重視したことは分かった。

◆建安十二年=呉夫人伝

十二年,太夫人吴氏薨,合葬高陵。
夫人吴郡錢塘人,早失父母,與弟景居,孫堅聞其才貌,求而娉之。夫人初孕策,夢月入懐,既而生策。及權在孕,又夢日入懐,以吿堅。堅曰:「日月,陰陽之精,極貴之象,吾子孫其興乎!」

呉夫人が建安十二年に死んだのは、呉夫人伝 注引『志林』の考察に従った結果。呉主伝・呉夫人伝は、建安七年に死んだとする。普通に従うのが、自然な処理ではないかと思いますけど。年号に無頓着そうに見える『建康実録』ですが、敢えてのテキトーではなく、いちおうは精確を目指したらしい(←失礼)

陳寿よりも、裴松之やその引用史料による史料批判に従うことは、司馬光がふつうにやっていること。

呉夫人伝によると、もとは呉県の人で、銭唐に徙ったという。それを、『建康実録』は「呉郡の銭唐県の人」と、ザツにまとめてしまう。月と日をはらむのは、呉夫人伝 注引『捜神記』である。『建康実録』は、ほぼ無批判&無節操に、裴松之の史料を本文に取りこむように見える。司馬光『資治通鑑』が、神秘系の話を、かなり注意深く排除したのと、対照的である。もしくは、唐代史学と宋代史学のギャップを、読みとっていいのだろうか。
いや、『建康実録』は、孫呉の天命について思いを馳せるから、こういう神秘的エピソードは、積極的な採取の対象なのかも知れない。

後堅薨,夫人家於舒,撫育孤幼,嚴於母訓。及策統衆,夫人助治軍國,至多補益。

孫堅の死後、舒県に住んだとする。しかし周瑜伝に、「初,孫堅興義兵討董卓,徙家於舒」とある。孫堅の死ではなく、孫堅の長沙赴任のタイミングで、舒県に行った。孫堅の死後は、曲阿に住んだようである。
『建康実録』の「撫育孤幼,厳於母訓」は、おそらく許嵩による説明。「母訓」という表現は、唐宋の史料ばかりヒットする。おそらく、魏晋の表現ではない。少なくとも、正史においては。
呉夫人伝に、「及権少年統業、夫人助治軍国、甚有補益」とある。呉夫人が「軍国を治むるを助く」のは、呉夫人伝では孫権期だが、『建康実録』では孫策期である。すぐあとに、孫策の政治について、呉夫人が口を出すエピソードがある。だから許嵩は、「孫権期でなく、孫策期から、政治に関与してるよな」と考えて、改変したと思われる。

(案,吴書:堅漢初平四年薨。興平元年,策見袁術。計堅亡時,策年十六也。)

許嵩の自注に、「『呉書』を案ずるに、孫堅が死んだのは初平四(193)年である。興平元(194)年、孫策は袁術にまみえた。数えると、孫堅が死んだとき、孫策は十六歳であった」とある。
上で許嵩は、「策時年十七,父亡後」と、孫策が十七歳のとき、父が死んだと書く。つまり、『建康実録』の本文と自注とで、孫堅の没年が1年ズレている。許嵩なりの結論は、どっちやねん!という話ですよ。
少なくとも言えるのは、許嵩は、孫堅の没年が分からなかった!ということ。しかし、史料批判の公正なプロセスを踏んで、「不明である」と言うのではなく、前後で食い違うことを書いて、シレッと脱稿している。

策功曹魏滕有罪,將欲殺之。時左右憂恐,計無所出。夫人乃倚大井,召策曰:「汝新造江南,其事未集,方當優賢禮士,捨過錄功。功曹在公盡規,汝今殺之,他人明日皆叛汝矣。吾不忍見汝禍及,當先投此井。」策大驚,遽釋滕罪。夫人智略事多如此,存下甚得衆心。臨薨,引見張昭﹑張紘等,屬以後事。

魏滕は、巻六十三 呉範伝に、「(呉範)素与魏滕」と、呉範・魏滕が仲が良く、その裴松之注に、「初亦迕策、幾殆、頼太妃救得免、語見妃嬪伝」と、魏滕が孫策に殺されかけたことが、妃嬪伝にあると裴松之が教えてくれる。

呉主伝 注引『会稽典録』:策功曹魏騰、以迕意見譴、将殺之、士大夫憂恐、計無所出。夫人乃倚大井而謂策曰「汝新造江南、其事未集、方当優賢礼士、捨過録功。魏功曹在公尽規、汝今日殺之、則明日人皆叛汝。吾不忍見禍之及、当先投此井中耳。」策大驚、遽釈騰。夫人智略権譎、類皆如此。

『会稽典録』によると、孫策の功曹の魏滕は、孫策に殺されそうになった。『建康実録』は「罪有り」がその原因とするが、『会稽典録』はその説明すらない。呉夫人が、井戸のそばで自殺をはかり、孫策を制止したのは、『会稽典録』のとおり。
呉夫人の賢さを、『会稽典録』は「夫人智略権譎、類皆如此」とするが、『建康実録』は「夫人智略事多如此,存下甚得衆心」とする。下の支持を集めていた、賢母であると、許嵩が盛っているのである。

呉夫人が薨去のとき、張紘・張昭に後事を託したとある。しかし、呉夫人伝では、張紘は託されておらず、張昭だけである。張紘・張昭をペアにしたい、許嵩なりの独自の歴史観であろう。

◆再び建安十二年

秋,鄱陽有山賊彭虎等聚黨數萬,使將軍董襲討之。襲身長八尺,武力絕人,聲發若雷,賊帥望旗散走。

『建康実録』は、建安十二年秋、山賊の彭虎を、将軍の董襲が討ったとする。しかし、呉主伝には、この記事がない。

巻五十五 董襲伝:策薨、權年少、初統事。太妃憂之、引見張昭及襲等、問……。鄱陽賊、彭虎等衆數萬人。襲、與淩統、步騭、蔣欽、各別分討。襲所向輒破、虎等望見旌旗、便散走。旬日盡平、拜威越校尉、遷偏將軍。建安十三年、權討黃祖。

董襲伝によると、彭虎の討伐は触れられているが、歳も季節も記載がない。しかし、孫策の死→呉夫人と董襲の会話→彭虎の叛乱→建安十三年、という順序があることに気づく。もしも許嵩が、陳寿を変更して、呉夫人の死を(建安七年から)建安十二年に変更するならば、呉夫人の死と、建安十三年のあいだにこの記事を置かねばならない。つまり、呉夫人の死を遅らせたことで、董襲のエピソードを置く位置を、むりに狭めてしまったのである。
そういうわけで、この記事が建安十二年にある説明はついたが、「秋」とする理由がない。許嵩が「秋」という情報を、どこから得ていたのか、不明である。

許嵩は、まだ董襲が死んでいないのに(董襲の死は、建安二十一年の濡須の戦い)、彼について、「襲身長八尺,武力絕人,聲發若雷,賊帥望旗散走」という、人物小伝のような記述を載せる。
董襲伝の冒頭に、「長八尺、武力過人」と董襲を説明するから、これが出典。声が雷みたいで、山賊をビビらせたのは、地味に出典が不明である。董襲伝では、「山賊は董襲の旌旗を見ると、それだけで逃げた」とあるだけで、声に驚いたとは書いてない。董昭伝 裴注に、「謝承後漢書稱襲志節慷慨、武毅英烈」とある。謝承『後漢書』あたりに、声の描写があったのだろうか。推測の域を出ません。170627

「妖怪博士」井上円了は、ちまたに流布した、怪異現象を分類した。科学では解明不能な「真怪」、実際に発生するが科学で説明がつく「仮怪」、誤認による「誤怪」、人為的に引き起こされた「偽怪」とし、「真怪」を際立たせた。
『建康実録』の怪しげなテキストも、分類できる。正史にない史実を伝えていそうな「真史」、編纂プロセスを論証可能な「仮史」、編者の誤認による「誤史」、編者がわざとやった「偽史」に分類することができる。というか、分類する(笑)そして、「真史」を1つでも拾うことが出来たら、かなりの成果ではないか。

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建安十三年~十六年

建安十三年

十三年春,征黃祖於江夏,屠其城邑,生獲祖,梟首於軍門,虜其男女數萬口而歸。分歙置始新﹑新定﹑黎陽﹑休陽,以六縣為新都郡。

『建康実録』によると、建安十三年春に、黄祖を生け捕る。「春」は、呉主伝に見える。「梟首」した場所が「軍門」というのも、筆の勢いだろう。数万口の捕虜も、同じ。
黄祖との戦いの詳細は、許嵩が節略している。

呉主伝:十三年春権、復征黄祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、尽鋭攻之、遂屠其城。祖、挺身亡走、騎士馮則、追梟其首。虜其男女数万口。是歳、使賀斉、討黟歙。分歙、為始新・新定〔一〕、犂陽・休陽県〔二〕。以六県為新都郡。

歙県を分けて、新都郡を置いたことも、呉主伝と差異がない。校勘記によると、『建康実録』は「始新」を「始所」に作るが、改めたという。ありがとうございます。

秋,曹操征劉表於荊州,時表已死,子琮舉荊州降。時劉備自袁紹南連劉表在荊州,操既平荊土,因追破備,備走當陽。

曹操が荊州を南征したのが、「秋」であることは、呉主伝に見えない。武帝紀に、「秋七月、公南征劉表。八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。九月公到新野、琮遂降、備走夏口」と、秋七月、曹操が南征を開始して、八月に劉表が死んだとある。
『建康実録』は、劉表「已に」死すとあるが、呉主伝にも武帝紀にも見えない。
劉備が、「ときに劉備 袁紹より? 南のかた劉表と連なり」とあるが、意味不明(というか、期間を不当に圧縮しすぎ)なので、無視。

操乃多修船舫,遺書於權曰:「今治水軍八十萬衆,方與將軍會獵於吴。」權得書,召示羣臣,張昭等議皆勸迎之,魯肅竊諫不可。時命周瑜使鄱陽,行途未遠,請追瑜,任以軍事。權召瑜,瑜還,意與肅同。

曹操から孫権への手紙は、呉主伝 注引『江表伝』。

江表伝載曹公与権書曰「近者奉辞伐罪、旄麾南指、劉琮束手。今治水軍八十万衆、方与将軍会猟於呉。」権得書以示羣臣、莫不嚮震失色。

張昭らが曹操を迎え、魯粛のみが、、というのは、呉主伝の書き換え。

權廷論未能決,因起入,周瑜趨後,密說權曰:「今拒操,破之必矣。若破操,天下可鼎峙而立,荊州上流當吴有也。」權許之,乃密使魯肅上往觀舋。肅至,遇備已敗,遂便止,傳權意見備於當陽長坂,切陳成敗事勢,將合謀以拒操。權始自吴遷於京口而鎭之。

周瑜が、「もし曹操を破れば、天下に鼎峙して立つことができ、荊州の上流は呉の領土になる」という。陳寿 三嗣主伝 評に、「漢氏乞盟、遂躋天号、鼎峙而立」とある。「鼎峙而立」は、許嵩が自分で書いた文と思われる。そのとき、直接か間接か分からないが、陳寿による評と同じ語彙を使った。
「荊州上流」は、『三国志』のなかにヒットしない。やはり、許嵩なりに周瑜の言い分を、書き換えたのである。特定の史料に依るよりは、おおまかなストーリーを、ダイジェストで伝えるという意識が窺われる。

魯粛が孫権に、当陽・長阪で劉備と会ったことと、その時勢をしきりに説いて、、とか、やはり許嵩による要約である。孫権が呉郡から「京口」遷って鎮したとあるが、そもそも『三国志』には「京口」の語がない。
赤壁の戦いは、特定の史料に依って書くというよりは、許嵩のなかに既存のイメージがあり、けっこう独自に書いている。ただし、イメージを形成するため、『三国志』を読んだと思われ、『三国志』を逸脱した新情報が書きこまれてはいない。

(案,地志:吴大帝親自吴遷朱方,築京城,南面西面各開一門,卽今潤州城也。因京峴立名,號為京鎭,在建業之北,因為京口。或云漢時已有京口,未詳。案,史記:秦始皇三十七年,東渡江,使赭衣三千鑿朱方京峴山東南隴,因名丹徒。今潤州見有徒見浦,卽始皇將徒人過此浦,因名焉。)

『地志』によると、孫権は呉から朱方にうつり、京城を築いた。京峴(山)にちなんで名を立て、「京鎮」と号した。建業の北にあり、よって「京口」といった。漢代にすでに「京口」と言ったともいい、(孫権が設定したのか、それ以前からあるのか)未詳である。『史記』によると、始皇帝のとき、あかい服の人夫たちが、朱方の京峴山の東南の隴をうがったので、「丹徒(あかい人たち)」という。
許嵩の自注に見えるように、孫権が「京口」に遷ったとするのは、『三国志』に依らず、許嵩なりの見解を持って書いたこと。
しかし、「だからどうした」の水準を超えてこない。

備乃使諸葛亮詣權,權乃使周瑜﹑程普將兵二萬隨亮與備南拒操,權自將中軍一萬繼之。瑜以黃蓋為先鋒,取艨衝鬭艦數十艘,實以薪草,灌以魚膏,裹以幃幙,上建旌旗龍幡。前遣書報曹操,紿其欲降。時東南風急,因取草艦最著前,繫走舸於後,中江舉帆俱前,操軍士皆延頸觀望。去北軍二里餘,同時火發,火烈風猛,船往如箭,悉燒北船,延及岸上營落,飛埃張天。瑜率輕銳雷鼓同進,大破曹操軍於赤壁江口。

黄蓋の家計のことは、『三国志』周瑜伝から大きく出ない。「去北軍二里餘」「雷鼓大進」という具体的な数字は、周瑜伝 注引『江表伝』に見える。
『資治通鑑』も、赤壁の戦いの経過は、かなり散漫に出典を行き来して、本文を書いていた。いろいろな列伝に記述が散っているのと、編年体の史書の編者を、あたかも軍記物の作者かのようにする、出来事そのものの魅力があるのでしょう。

操走,僅獲免,北歸,留曹仁守江陵。瑜與程普等追破仁軍於南郡,瑜為流矢中其右脇,瘡甚,臥。仁乃勒兵逼,瑜乃自起輿行軍陣閒,仁聞収軍,退走。權以瑜領南郡,鎭江陵。

曹仁の撤退は、『三国志』では、建安十四年のことである。強引に、同年中に押しこんでいるのは、許嵩のソコツである。

周瑜伝は、「後に」を挟んで、結末を、「仁、由是遂退。権、拝瑜偏将軍、領南郡太守」と記す。呉主伝により、これが翌年のことと分かる。
呉主伝:十四年。瑜、仁、相守歳餘所殺傷甚衆。仁、委城走。権、以瑜為南郡太守。ほーら、建安十四年です。

周瑜の負傷は、周瑜伝に「瑜、親跨馬擽陳、会流矢中右脅、瘡甚、便還」とある。右脇にヒットしたことは、『三国志』に基づいている。

建安十四年

十四年,權居京口,劉備詣京口見權,求荊州。周瑜聞之,密上書諫留備處於吴,莫遣還。時彭沢太守呂範進說權曰:「劉備雖窮迫見歸,得雨非池中物,請及今困留之。」權不納,遙表漢以備為荊州牧,使治公安。

『建康実録』によると、建安十四年、孫権が京口におり、劉備が京口にきて孫権にまみえ、荊州を求めた。周瑜が、劉備を呉に留め、行かせるなという。彭沢太守の呂範も、「劉備が雨を得たら、池中のものでなくなる」と警戒を呼びかけた。

呉主伝:十四年。瑜、仁、相守歳餘所殺傷甚衆。仁、委城走。権、以瑜為南郡太守。劉備、表権行車騎将軍、領徐州牧。備、領荊州牧、屯公安。

呉主伝は、『建康実録』が誤って建安十三年に編入した、江陵の決着のあと、孫権が劉備を荊州牧として公安に置いたという結論だけを記す。

周瑜伝:劉備、以左将軍領荊州牧、治公安。備、詣京見権。瑜上疏曰「劉備、以梟雄之姿、而有関羽張飛熊虎之将。必非久屈為人用者。愚謂大計、宜徙備、置呉、盛為築宮室、多其美女玩好、以娯其耳目。分此二人、各置一方、使如瑜者得挟、与攻戦、大事可定也。今猥割土地以資業之、聚此三人俱在疆埸、恐蛟龍得雲雨、終非池中物也」権、以曹公在北方、当広擥英雄。又恐、備難卒制、故不納。

『建康実録』が「京口」に作るが、『三国志』で孫権がいた場所は「京」一字である。許嵩は、周瑜伝の周瑜の語を、地の文に要約して置換したようである。
『建康実録』が呂範の語として、劉備が「池中のもの」でなくなるというが、これは周瑜伝の周瑜の語である。

巻五十六 呂範伝:曹公至赤壁、与周瑜等俱拒破之、拝裨将軍、領彭沢太守。以彭沢、柴桑、歴陽、為奉邑。劉備詣京見権、範密請、留備。

呂範伝によると、呂範もまた劉備を留めよと言ったとだけある。これを受けて『建康実録』は、周瑜のセリフを、呂範に奪わせたのである。

自餞備於江上,觀望久之,謂備曰:「孤與公埽清逋穢,迎帝定都,事寧之日,願與公乗舟遊滄海耳。」備對曰:「此亦備之志也。」

『建康実録』によると、孫権は自ら江上で見送り、劉備に、「あたなとともに皇帝を迎えて帝都を定めよう。それを達成したら、あなたと蒼海を航行しよう」という。劉備も「それは私の志でもある」と言ったという。
これは、『三国志』に出典が見当たらない。つぎに、許嵩の自注で、

(案,劉備傳:備既辭,謂左右曰:「孫車騎精爽周贍,其難為下,吾不得再見之矣。」遂日夜兼行,上公安也。)

許嵩は自注にて、劉備伝によると、劉備は孫権と別れたあと、左右に、「車騎将軍の孫権は、精爽周贍、ひとの下になる人物ではないから、再び会うことはできない」と語ったとする。これは、劉備伝=先主伝にはない表現である。

先主伝 裴松之注:山陽公載記曰、備還、謂左右曰「孫車騎長上短下、其難為下、吾不可以再見之。」乃昼夜兼行。臣松之案。魏書載劉備与孫権語、与蜀志述諸葛亮与権語正同。劉備未破魏軍之前、尚未与孫権相見、不得有此説。故知蜀志為是。

先主伝 注引『山陽公載記』によると、劉備は左右に、「車騎将軍の孫権は、上半身が長くて下半身が短く、ひとの下になる人物ではないから、再び会うことはできない」と言ったとある。
おそらく許嵩は、先主伝と、同注引『山陽公載記』を混同した。もしくは、裴松之注も含めて先主伝であるという理解であった。厳密性を欠く。
『山陽公載記』のなかで、劉備は孫権を形容して、「上半身が長く、下半身が短い」というが、『三国志集解』に引く康発祥の説によると、劉備は手が膝に届いたため、「上半身が長く、下半身が短い」は、劉備の外見でもあり、英雄は同じであると。許嵩はこれを格好悪いと考えたのか、劉備が孫権を形容した言葉を、かってに「精爽周贍」に変更している。歴史家は、そういう勝手なこと、したらダメだと思うけど。
裴松之によると、『魏書』が載せる劉備と孫権が語った語は、『蜀志』で諸葛亮と語った語と同じであると。しかし、劉備は、魏を破る前に孫権と会っていないから(孫権を評せるはずがなく)『魏書』は誤りであると。

裴松之は、どこの指摘か、ちょっと分からず、『三国志集解』も注釈が付いてない。ともあれ、『建康実録』の分析には影響しないので、この話は取り扱わない。


劉備が孫権を評した言葉は、先主伝 注引『山陽公載記』の変更と判明した。しかし、この『山陽公載記』を自注に引いたのは、「皇帝を迎えたら、一緒に船遊びしようね」という、劉備・孫権が志を共有した史料を、相対化するためである。
孫権・劉備が意気投合しているこの史料の出典が、分からない。なにか、別の史料を見た可能性を、払拭できないと言わざるを得ない。

時曹操聞權以荊州資劉備,大懼,方作書,不覺筆墜於地也。

曹操が筆を落としたのは、魯粛伝に、「曹公、聞権以土地業備、方作書、落筆於地」とあるのが出典。

建安十五年

十五年,分豫章置鄱陽郡;分長沙置漢昌郡,以魯肅為太守,治於陸口。以南中郎将步騭為交州刺史。

建安十五年、豫章を分けて鄱陽郡を置き、長沙を分けて漢昌郡を置き、魯粛を漢昌太守として、陸口に屯させた。
呉主伝に、「十五年、分豫章、為鄱陽郡。分長沙、為漢昌郡。以魯粛、為太守、屯陸口」と、ほぼ同文があるため、べつにいい。
同年、南中郎将の歩隲を交州刺史にしたことは、呉主伝に見えない。

巻五十二 歩隲伝:建安十五年、出領鄱陽太守。歳中、徙交州刺史、立武中郎将、領武射吏千人、便道南行。明年、追拝使持節、征南中郎将。劉表所置蒼梧太守呉巨、陰懐異心、外附、内違。騭、降意懐誘、請与相見、因斬、徇之、威声大震。士燮兄弟、相率供命。南土之賓、自此始也。

歩隲伝によると、建安十五年中に交州刺史となった。しかし、直前の官職は、鄱陽太守であり、さらにその前は、車騎将軍東曹掾である。もしくは、徐州牧の孫権に茂才の治中従事である。「南中郎将」はではない。許嵩が、誤って翌年の「征南中郎将」を引いてきた可能性があるが、デタラメである。

騭到,殺劉表所置蒼梧太守吴臣,以徇諸郡,表士燮交阯太守兼左將軍,南土賓服,自此始也。

歩隲が赴任すると、歩隲は、劉表が置いた蒼梧太守の呉巨を殺した。これは、歩隲伝で確認できることだが、許嵩が結末だけに節略している。歩隲が士燮を、交趾太守・兼左将軍としたのは、歩隲伝に見えない。歩隲伝では、士燮兄弟が服従したと書くだけである。

士燮伝:建安十五年孫権、遣歩騭、為交州刺史。騭到、燮率兄弟奉承節度。而呉巨、懐異心、騭斬之。権、加燮為左将軍。

士燮伝によると、この建安十五年、歩隲がきて、士燮に左将軍を加える。『建康実録』と「左将軍」が一致する。しかし、蒼梧太守となるのは、士燮伝の冒頭にあり、孫権と接点を持つ前である。孫権が、士燮の交阯太守を追認した、、くらいのことを、許嵩なりに書き表したようである。

是歲,偏將軍﹑南郡太守﹑都亭侯周瑜卒。

周瑜の死は、呉主伝にない。このことから『三国志』は、呉主伝を「呉の本紀」と扱う意図がうすく、原則として呉主伝には、孫権がらみしか書かないという方針が窺われる。ぎゃくに『建康実録』は、呉主伝だけに依拠せずに、「呉の本紀」を作ろうとする努力が見える。

周瑜伝との比較は、おいおいやります。
◆周瑜伝

瑜字公瑾,廬江舒城人。少有姿貌,與孫策同年。策父堅初起義兵討董卓,徙家於舒。瑜見策善相友待,推道南大宅舍之策,升堂拜母,有無與同。及策領父衆將東渡,至歷陽,瑜從父尚為丹楊太守,瑜往省之,策馳書報瑜,瑜將郷里數人候策。策大喜,遂共定江東諸郡。累遷至江夏太守。從征剋皖城,因得橋公二女,皆國色,策納大者,瑜納小者。(江表傳:策嘗從容戲瑜曰:「橋公二女雖流離,得吾二人為壻,亦足歡矣。」)
及權統事,太夫人勅權以兄事瑜,拜中護軍。時權位在將軍,諸賓客為禮尚簡,惟瑜獨盡敬而執臣節。性度恢廓,權甚委之。與張昭等共掌衆務,大小關之。
及鎭江陵,聞益州劉璋為張魯侵寇,乃自詣京說權:「進取蜀,得蜀,使魯肅固守其地,北與馬超結援。瑜與將軍還據襄陽,以蹙曹操,北方可圖。」權許之。瑜歸江陵,治行道病,卒於巴丘,時年三十六。權素服舉哀,流涕而言曰:「公瑾有王佐之才,今忽短命,孤何賴焉!」及喪還,自至蕪湖迎之,喪事費度,一為供給。著令曰:「故將軍周瑜賓客,皆不得問。」
瑜有二男一女,女配太子登。男脩,尚公主,拜駙馬都尉。(瑜少精意於音樂,雖三爵之後,其有闕誤,必知之,知之必顧。時人語曰:「曲有誤,周郞顧。」瑜常有恩信著于吴中,人皆呼為周郞也。案,江表傳:程普頗以年長數凌侮瑜,瑜折節容下之。普後自敬服,乃吿人曰:「與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉。」其謙讓服人如此。初,曹操聞周瑜年少有美才,謂可有說動之,乃密下揚州,遣九江蔣幹往見之。幹有容儀,以才辯見稱,獨步江﹑淮閒,莫與為對。乃布衣葛巾,自託私行詣瑜。瑜出迎之,立謂幹曰:「子翼良苦,遠涉江湖為曹氏作說客耶?」幹曰:「吾與足下州里,中閒別隔,遙聞芳烈,故來敘問,幷觀雅規,而云說客,無乃逆詐乎?」瑜曰:「吾雖不及夔﹑曠,聞絃賞音,足知曲也。」因延入,設酒食。畢,遣之,出就別館。後三日,瑜請幹與周觀營中,行視倉庫軍資器仗訖,還飲宴,示之侍者服飾珍玩之物,因謂幹曰:「凡丈夫處世,遇知己之主,外託君臣之義,内結骨肉之恩,言行計從,禍福共之,假使蘇﹑張更生,酈叟復存,吾猶撫其背而折其辭,豈足下幼生所能移乎?」幹但笑,終無所言。幹還,稱瑜雅量高智,非言辭所閒,魏人多之。瑜威聲既著,劉備﹑曹操互疑譖之。「瑜籌略萬人,英也。觀其器度廣大,恐不久為人臣。」曹操亦有書與權云:「赤壁値軍疾疫,燒船自退,橫使周瑜虛獲此名。」權終委信無別。)


建安十六年

十六年,權始自京口徙治秣陵。

建安十六年、孫権は、はじめて京口から秣陵に治所を移した。『建康実録』の主役である、建康=建業=秣陵にとって、画期となる出来事であるが、ドライな取扱である。
呉主伝に、「十六年。権、徙治秣陵。明年、城石頭。改秣陵為建業」とある。建安十六年、孫権が秣陵に移ったことが確認できるので、問題なし。170628

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