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『三国志』巻四十五 季漢輔臣賛 1

『全訳三国志』に基づき、季漢輔臣賛のみに事績が見えるものを整理。
『季漢輔臣賛』は、書名。蜀漢の楊戯の撰。延熙四(二四一)年に諸葛亮をはじめとする季漢の臣下を称えるために著された。陳寿は楊戯の『季漢輔臣賛』を蜀書の最後に引用することで、蜀の正式な国名が季漢であったことを伝えている。p12

戲以延熙四年著季漢輔臣贊、其所頌述、今多載于蜀書、是以記之於左。自此之後卒者、則不追諡、故或有應見稱紀而不在乎篇者也。其戲之所贊而今不作傳者、余皆注疏本末於其辭下、可以觕知其髣髴云爾。

楊戯は、延熙四(二四一)年に季漢輔臣賛を著した。(楊戯が)頌述(称述、称賛)した者たちは、いま(陳寿が)多く蜀書に載せた。そのため、以下に(陳寿が楊戯の賛を引用して)記す。著されて以後に(二四一年より遅く)亡くなった者は、美事が書かれていない。楊戯が賛美した(季漢輔臣賛に著した)が、しかし陳寿が列伝を作らなかった者は、(陳寿が)履歴を注記した。

昔文王歌德、武王歌興、夫命世之主、樹身行道、非唯一時、亦由開基植緒、光于來世者也。自我中漢之末、王綱棄柄、雄豪並起、役殷難結、生人塗地。於是世主感而慮之、初自燕・代則仁聲洽著、行自齊、魯則英風播流、寄業荊、郢則臣主歸心、顧援吳・越則賢愚賴風、奮威巴・蜀則萬里肅震、厲師庸・漢則元寇斂迹、故能承高祖之始兆、復皇漢之宗祀也。然而姦凶懟險、天征未加、猶孟津之翔師、復須戰於鳴條也。天祿有終、奄忽不豫。雖攝歸一統、萬國合從者、當時儁乂扶攜翼戴、明德之所懷致也、蓋濟濟有可觀焉。遂乃並述休風、動于後聽。其辭曰、

劉備の賛美を始めるためのイントロ。
・周の文王は『詩経』周頌 維天之命に徳を歌われた(文王歌德)
・周の武王は『詩経』周頌 執競に勃興を歌われた(武王歌興)
・姦凶な曹魏と陰険な孫呉(姦凶・懟險)にまだ天誅を加えなかったのは、周の武王が殷を征伐する機運が熟さないとして孟津で軍を返し、鳴條で戦ったことに近い(猶孟津之翔師、復須戰於鳴條也)

佐藤:燕・代に起兵し、斉・魯で英風を広げ、荊・郢で心を寄せられ、呉・越と同盟して頼られ、巴・蜀に基礎を築き、庸・漢で侵略を撃退した。もはや劉備は、実質的に天下統一に準ずる功績を立てている。たしかに後漢のほぼ全土に徳を延べています。
佐藤:「庸・漢」とあるが、上庸の「庸」ですよね。『三国志』でも『季漢輔臣賛』のなかにしかない。春秋の旧国名?益州中南部が「巴・蜀」で、北部を対句にするために「庸・漢」というのを作った?
@darql さま:「庸」は春秋時代に秦・巴・楚の三国の板挟みにあって滅びた国ですね。後の上庸の地です。王莽の新の部牧制でも、その地域に「庸部牧」が置かれました。古の梁州、漢代の益州を表わす言葉として「益庸岷梁」という言い方があります。なので「庸漢」はおっしゃる通り、益北の上庸・漢中地域ですね。


皇帝遺植、爰滋八方、別自中山、靈精是鍾、順期挺生、傑起龍驤。始于燕、代、伯豫君荊、吳、越憑賴、望風請盟、挾巴跨蜀、庸漢以并。乾坤復秩、宗祀惟寧、躡基履迹、播德芳聲。華夏思美、西伯其音、開慶來世、歷載攸興。贊昭烈皇帝

昭烈皇帝(劉備)を讃える。中華はその美を思い、西伯(周の文王)がまた訪れたように(華夏思美、西伯其音)、国家樹立の幸いを未来に開き、歴代にわたる季漢を起こした(開慶來世、歷載攸興)。

曹操・孫権を討伐できなかったのではなく、生かしておいてやったんだぞと。



忠武英高、獻策江濱、攀吳連蜀、權我世真。受遺阿衡、整武齊文、敷陳德教、理物移風、賢愚競心、僉忘其身。誕靜邦內、四裔以綏、屢臨敵庭、實耀其威、研精大國、恨於未夷。贊諸葛丞相

諸葛丞相(諸葛亮)を讃える。諸葛亮は、わが季漢が世の真の国家であることを明確にした(我が世の真を権(と)る)。大国の領土を削り取ったが、平定できなかったことは残念であった(大国を研精するも、未だ夷(たいら)げざるを怨む)。


司徒清風、是咨是臧、識愛人倫、孔音鏘鏘。贊許司徒

司徒(許靖)を讃える。許靖は、清らかな風格をもち、人々をはかり比べ、人物を愛して評価し、大いなる名声が響きわたった。

佐藤:地獄のような無内容でありまして、ぼくらが卒業や退職の色紙を書くときに、なんのエピソードも思い浮かばなかったこときの定型文に似ている。わるい意味で典型的な名士。



關・張赳赳、出身匡世、扶翼攜上、雄壯虎烈。藩屏左右、翻飛電發、濟于艱難、贊主洪業、侔迹韓・耿、齊聲雙德。交待無禮、並致姦慝、悼惟輕慮、隕身匡國。贊關雲長、張益德

関羽・張飛を讃える。関羽・張飛は、(劉邦を助けた)韓信と、(劉秀を助けた)耿(こう)弇(えん)に等しい。しかし士の待遇に礼がなく(交待に禮(れい)無く)、ともに凶事を招いた。この軽率さにより、死亡し(身を隕(お)とし)国の領土を欠いた(國を匡(か)く)ことを悼む。

佐藤:関羽・張飛は、準え方がちょっと期待と違って、劉邦の臣ふたりか、劉秀の臣ふたりに当てはめてほしいが、そうはなっていない。二人とも礼に欠いて軽率で、命や国土を失ったと、いっしょくたにされている。やや残念。


驃騎奮起、連橫合從、首事三秦、保據河、潼。宗計於朝、或異或同、敵以乘釁、家破軍亡。乖道反德、託鳳攀龍。贊馬孟起

驃騎将軍(馬超孟起)を讃える。馬超は、振る舞いは朝廷を基軸としながら(計を朝に宗するも)、あるいは離叛しあるいは同盟したので(或いは異に或いは同(とも)にすれば)敵に隙を乗じられ、一族も軍隊も滅んだ。道に乖(そむ)き徳に反したが、最後は先主に身を託した。

佐藤:馬超が劉備に帰順する前の行動は、全面的に非難の対象。『三国演義』が馬氏を善玉にするために腐心するが、ここでは前半生を悪と認定することで矛盾を回避。



翼侯良謀、料世興衰、委質于主、是訓是諮、暫思經算、覩事知機。贊法孝直
軍師美至、雅氣曄曄、致命明主、忠情發臆、惟此義宗、亡身報德。贊龐士元
將軍敦壯、摧峰登難、立功立事、于時之幹。贊黃漢升

翼侯(法正孝直)を讃える。法正は、世の盛衰(劉璋の衰退)を検知した。軍師(龐統士元)を讃える。龐統は、美の至りで、風雅な気質が輝き、身を失って(命と引き換えに)徳に報いた。将軍(黄忠漢升)を讃える。黄忠は、敵の峰(ほこ)を摧(くだ)いた(夏侯淵を撃った)。20200430

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『三国志』巻四十五 季漢輔臣賛 2

掌軍清節、亢然恆常、讜言惟司、民思其綱。贊董幼宰
安遠彊志、允休允烈、輕財果壯、當難不惑、以少禦多、殊方保業。贊鄧孔山
孔山名方、南郡人也。以荊州從事隨先主入蜀。蜀既定、為犍為屬國都尉、因易郡名、為朱提太守、遷為安遠將軍、庲降都督、住南昌縣。章武二年卒。失其行事、故不為傳。

掌軍将軍(董和幼宰)を讃える。董和は、讜言(直言)を行った。安遠将軍(鄧方孔山)を讃える。鄧方は、少数で多数を防ぎ、殊方(異民族の地域)で仕事を続けた。

鄧方伝

鄧方は、字を孔山といい、荊州南郡のひと。荊州從事として先主に随って入蜀した。蜀を平定すると、犍為屬國都尉となる。郡名変更にともない、朱提太守となった。遷って安遠將軍・庲降都督となり、南昌縣に駐屯した。章武二(二二二)年に卒した。


揚威才幹、欷歔文武、當官理任、衎衎辯舉、圖殖財施、有義有敍。贊費賓伯
賓伯名觀、江夏鄳人也。劉璋母、觀之族姑、璋又以女妻觀。觀建安十八年參李嚴軍、拒先主於緜竹、與嚴俱降、先主既定益州、拜為裨將軍、後為巴郡太守、江州都督、建興元年封都亭侯、加振威將軍。觀為人善於交接。都護李嚴性自矜高、護軍輔匡等年位與嚴相次、而嚴不與親褻;觀年少嚴二十餘歲、而與嚴通狎如時輩云。年三十七卒。失其行事、故不為傳。

揚威掌軍(費觀賓伯)を讃える。費観は、職務にあたり、衎衎として辯舉す(楽しげに処理をした)。財産を増やし、義と敍(限度、節度)があった。

費観伝(費觀伝)

費観は、字を賓伯、江夏郡鄳県のひと。劉璋の母は、費観の族姑(おば)。劉璋も娘を費観の妻とした。建安十八年、李嚴の軍に参じ、劉備を緜竹で防いだが、李厳とともに降った。益州が平定されると、裨將軍になった。のちに巴郡太守・江州都督となり、建興元(二二三)年、都亭侯に封建され、振威將軍を加えられた。交際を得意とした。都護の李嚴は生来プライドが高く、護軍の輔匡らは年位(年齢や官位)が李厳のすぐ下であっても、親しくなかった。費観は二十歳以上も下だが、同輩のように打ち解けた。三十七歳で卒した。


屯騎主舊、固節不移、既就初命、盡心世規、軍資所恃、是辨是裨。贊王文儀
尚書清尚、勅行整身、抗志存義、味覽典文、倚其高風、好侔古人。贊劉子初
安漢雍容、或婚或賓、見禮當時、是謂循臣。贊麋子仲

屯騎校尉(王連文儀)を讃える。王連は、旧主劉璋のために心変わりせず、北伐の兵站を補給した。尚書(劉巴子初)を讃える。劉巴は、古典を味読し、好尚を古人と等しくした。安漢将軍(麋竺子仲)を讃える。麋竺は、劉備の姻族であり賓客であり、循臣といえる。


少府修慎、鴻臚明真、諫議隱行、儒林天文。宣班大化、或首或林。贊王元泰、何彥英、杜輔國、周仲直
王元泰名謀、漢嘉人也。有容止操行。劉璋時、為巴郡太守、還為州治中從事。先主定益州、領牧、以為別駕。先主為漢中王、用荊楚宿士零陵賴恭為太常、南陽黃柱為光祿勳、謀為少府;建興初、賜爵關內侯、後代賴恭為太常。恭、柱、謀皆失其行事、故不為傳。恭子厷、為丞相西曹令史、隨諸葛亮於漢中、早夭、亮甚惜之、與留府長史參軍張裔、蔣琬書曰、令史失賴厷、掾屬喪楊顒、為朝中損益多矣。顒亦荊州人也。後大將軍蔣琬問張休曰、漢嘉前輩有王元泰、今誰繼者。休對曰、至於元泰、州里無繼、況鄙郡乎。其見重如此〔一〕。

〔一〕襄陽記曰:楊顒字子昭,楊儀宗人也。入蜀,為巴郡太守,丞相諸葛亮主簿。亮嘗自校簿書,顒直入諫曰:「為治有體,上下不可相侵,請為明公以作家譬之。今有人使奴執耕稼,婢典炊爨,雞主司晨,犬主吠盜,牛負重載,馬涉遠路,私業無曠,所求皆足,雍容高枕,飲食而已,忽一旦盡欲以身親其役,不復付任,勞其體力,為此碎務,形疲神困,終無一成。豈其智之不如奴婢雞狗哉?失為家主之法也。是故古人稱坐而論道謂之三公,作而行之謂之士大夫。故邴吉不問橫道死人而憂牛喘,陳平不肯知錢穀之數,云自有主者,彼誠達於位分之體也。今明公為治,乃躬自校簿書,流汗竟日,不亦勞乎!」亮謝之。後為東曹屬典選舉。顒死,亮垂泣三日。

何彥英名宗、蜀郡郫人也。事廣漢任安學、精究安術、與杜瓊同師而名問過之。劉璋時、為犍為太守。先主定益州、領牧、辟為從事祭酒。後援引圖、讖、勸先主即尊號。踐阼之後、遷為大鴻臚。建興中卒。失其行事、故不為傳。子雙、字漢偶。滑稽談笑、有淳于髠、東方朔之風。為雙柏長。早卒。

少府(王謀元泰)は、身を修め慎んだ。大鴻臚(何宗彥英)は、明晰で誠実。諫議大夫(杜微輔國)は、隠者として生きた。儒林校尉(周羣仲直)は、天文に明るい。(劉備の事業の)中心や取り巻きになった。

王謀伝

王謀は、字を元泰。漢嘉郡のひと。劉璋のとき巴郡太守となり、還って州治中從事になる。劉備が益州牧を領すと、別駕となる。漢中王に即位すると、荊楚の宿士(名族)である零陵の賴恭を太常とし、南陽の黃柱を光祿勳とし、王謀を少府とした。建興初(二二三~)、關內侯を賜い、のちに賴恭に代わって太常となる。後年、大将軍の蔣琬が張休に、「漢嘉郡の先輩に王元泰(王謀)がいるが、今日では誰が匹敵するか」と質問した。張休は、「王元泰ほどの者は、益州全体でもおらず、ましてわが郡(漢嘉郡)で見つけるのは無理です」と答えた。かように王謀は尊重された。

黄柱伝(黃柱伝)

黄柱は、南陽郡のひと。漢中王になると、荊州の名族であるため光禄勲となった。

頼恭伝(賴恭伝)・附頼厷伝(賴恭伝)

頼恭は、零陵郡のひと。漢中王になると、荊州の名族であるため太常となった。
頼(らい)厷(こう)(賴厷)は、頼恭の子。丞相西曹令史となり、諸葛亮に随い漢中に行ったが夭折。亮はこれを惜しみ、留府長史參軍の張裔・蔣琬に書簡を送り、「令史では賴厷、掾屬では楊顒を喪った。朝廷の大きな損失だ」と告げた(頼厷は西曹令史、楊顒は東曹属)。

楊顒伝

楊顒は、字を子昭。楊儀の宗族(楊儀は襄陽のひと)。蜀に入ると巴郡太守となり、丞相諸葛亮の主簿になった。亮が自ら帳簿を点検していると、直ちに諫めて感謝された(言説は巻四十五 注引『襄陽記』参照)。のちに東曹属となり、選挙を管掌した。楊顒が死ぬと、亮は三日間泣いた。亮が部下の死を惜しんで、「令史の頼厷・掾属の楊顒の夭折は、朝廷の損失だ」と述べ、頼厷と並称された(頼厷は西曹令史、楊顒は東曹属)。

何宗伝・附何雙伝(何双伝)

何宗は、字を彥英(彦英)。蜀郡郫県のひと。廣漢郡の任安につかえて学び、任安の学術を究めた。杜瓊と同じ師に学んだが、名声は杜瓊を超えた。劉璋のとき、犍為太守となる。劉備が益州牧を領すると、辟して從事祭酒とした。のちに圖讖を援引し(政治的要請に応えるため引用し)、劉備に皇帝即位を勧めた。即位後、遷って大鴻臚となる。建興中(二二三~二三七)に卒した。
何雙は、何宗の子。字を漢偶。滑稽(機知に富み諧謔を交えて)談笑するさまは、淳于髠・東方朔のようであった。雙柏の県長となったが、早くに亡くなった。


車騎高勁、惟其泛愛、以弱制彊、不陷危墜。贊吳子遠
子遠名壹、陳留人也。隨劉焉入蜀。劉璋時、為中郎將、將兵拒先主於涪、詣降。先主定益州、以壹為護軍討逆將軍、納壹妹為夫人。章武元年、為關中都督。建興八年、與魏延入南安界、破魏將費瑤、徙亭侯、進封高陽鄉侯、遷左將軍。十二年、丞相亮卒、以壹督漢中、車騎將軍、假節、領雍州刺史、進封濟陽侯。十五年卒。失其行事、故不為傳。壹族弟班、字元雄、大將軍何進官屬吳匡之子也。以豪俠稱、官位常與壹相亞。先主時、為領軍。後主世、稍遷至驃騎將軍、假節、封緜竹侯。

車騎将軍(呉懿子遠)を讃える。呉懿は博愛であり、弱により強を制し、危機に陥らなかった。

呉懿伝(呉壱伝・呉壹伝)

呉懿は、字を子遠、陳留郡のひと。劉焉に随い蜀に入り、劉璋のとき中郎將となる。兵をひきいて劉備を涪で防ぎ、来降した。益州が平定されると、護軍・討逆將軍となり、呉懿の妹を劉備の夫人とした。章武元(二二一)年、關中都督となる。建興八(二三〇)年、魏延とともに南安郡の境界に入り、魏將の費瑤を破り、亭侯に徙り(徙亭侯)、進んで高陽鄉侯に封建され、左將軍に遷った。建興十二(二三四)年、諸葛亮が卒すると、呉懿を漢中都督とし(督漢中)、車騎將軍・假節とし、雍州刺史を兼ね(領)させた。進んで濟陽侯に封建された。建興十五(二三七)年、卒した。

呉班伝

呉班は、呉懿の族弟で、字は元雄。大將軍何進の官屬である吳匡(呉匡)の子。豪俠により称えられ、官位がつねに呉懿に次いだ。劉備のとき領軍となり、劉禅のとき、やや遷って驃騎將軍・假節に至り、緜竹侯に封建された。


安漢宰南、奮擊舊鄉、翦除蕪穢、惟刑以張、廣遷蠻、濮、國用用彊。贊李德昂
輔漢惟聰、既機且惠、因言遠思、切問近對、贊時休美、和我業世。贊張君嗣
鎮北敏思、籌畫有方、導師禳穢、遂事成章。偏任東隅、末命不祥、哀悲本志、放流殊疆。贊黃公衡
越騎惟忠、厲志自祗、職于內外、念公忘私。贊楊季休

安漢将軍(李恢德昂、李恢徳昂)を讃える。李恢は、南方の長官となり、故郷の悪逆者を排除し、蠻・濮(蛮族・濮族)を移住させた。輔漢将軍(張裔君嗣)を讃える。張裔は、(諸葛亮が主催した時代を)賛美し(朝廷を)和合させた。鎮北将軍(黃權、黃公衡、黄権、黄公衡)を讃える。東隅(長江北岸)に単独で任じられ、本来の志を遂げることができなかった。越騎校尉(楊洪季休)を讃える。楊洪は私心を忘れた。

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『三国志』巻四十五 季漢輔臣賛 3

征南厚重、征西忠克、統時選士、猛將之烈。贊趙子龍、陳叔至
叔至名到、汝南人也。自豫州隨先主、名位常亞趙雲、俱以忠勇稱。建興初、官至永安都督、征西將軍、封亭侯。

征南将軍(趙雲子龍)と征西将軍(陳到叔至)を讃える。趙雲は重厚、陳到は忠誠であり、猛将のはげしさがあった。

陳到伝

陳到は、字を叔至、汝南のひと。豫州より劉備に随い、名位はつねに趙雲に次ぎ、ともに忠勇を称えられた。建興初(二二三~)、官位は永安都督・征西將軍に至り、亭侯に封建された。


鎮南粗強、監軍尚篤、並豫戎任、任自封裔。贊輔元弼、劉南和
輔元弼名匡、襄陽人也。隨先主入蜀。益州既定、為巴郡太守。建興中、徙鎮南、為右將軍、封中鄉侯。劉南和名邕、義陽人也。隨先主入蜀。益州既定、為江陽太守。建興中、稍遷至監軍後將軍、賜爵關內侯、卒。子式嗣。少子武、有文、與樊建齊名、官亦至尚書。

鎮南将軍(輔匡元弼)と監軍(劉邕南和を讃える。輔匡は荒っぽく、劉邕は篤実で、ともに任務に成功し、子孫が封建された。

輔匡伝

輔匡は、字を元弼、襄陽のひと。先主に随い入蜀し、益州が定まると巴郡太守となる。建興中(二二三~二三七)、鎮南将軍に徙り、右將軍となり中鄉侯に封ぜられた。陳寿の記述が見えないが、楊戯の賛から推すに子孫が爵位(中郷侯)を継承した。

劉邕伝

劉邕は、字を南和、義陽のひと。先主に随い入蜀し、益州が定まると江陽太守となる。建興中(二二三~二三七)、やや遷って監軍・後將軍に至り、關內侯を賜って卒す。

附劉式伝・劉武伝

劉式は、劉邕の子。関内侯を嗣いだ。劉武は、劉邕の少子であり、劉式の弟か。文才があり、樊建と名を斉しくし、官もまた(樊建と並んで?)尚書に至った。なお樊建は、諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令になっている。


司農性才、敷述允章、藻麗辭理、斐斐有光。贊秦子勑
正方受遺、豫聞後綱、不陳不僉、造此異端、斥逐當時、任業以喪。贊李正方
文長剛粗、臨難受命、折衝外禦、鎮保國境。不協不和、忘節言亂、疾終惜始、實惟厥性。贊魏文長
威公狷狹、取異眾人;閑則及理、逼則傷侵、舍順入凶、大易之云。贊楊威公

大司農(秦宓子勑)を讃える。秦宓は、上奏が明確で、華麗な文章は意味が通っていた。李厳正方を讃える。李厳は遺命を受けたが、不陳不僉(述べず共にせず)排斥されて業績を失った。魏延文長を讃える。魏延は粗野だが、国境(漢中)を鎮守した。ひとと協調せず残念な結果に終わったが、本性に根ざした行動であった。楊儀威公を讃える。楊儀は狷介な変わり者で、平静なときは理に基づいたが、切迫すると人を傷つけた。これは大易(大いなる『周易』)の言うとおりである。


季常良實、文經勤類、士元言規、處仁聞計、孔休、文祥、或才或臧、播播述志、楚之蘭芳。贊馬季常、衞文經、韓士元、張處仁、殷孔林、習文祥
文經、士元、皆失其名實、行事、郡縣。處仁本名存、南陽人也。以荊州從事隨先主入蜀、南次至雒、以為廣漢太守。存素不服龐統、統中矢卒、先主發言嘉歎、存曰、「統雖盡忠可惜、然違大雅之義。」先主怒曰、「統殺身成仁、更為非也?」免存官。頃之、病卒。失其行事、故不為傳。
孔休名觀、為荊州主簿別駕從事、見先主傳。失其郡縣。文祥名禎、襄陽人也。隨先主入蜀、歷雒、郫令、(南)廣漢太守。失其行事。子忠、官至尚書郎。〔一〕

〔一〕襄陽記曰、習禎有風流、善談論、名亞龐統、而在馬良之右。子忠、亦有名。忠子隆、為步兵校尉、掌校祕書。

馬良季常は誠実で、衞文經(衛文経、名は未詳)は勤勉、韓士元(名は未詳)は言葉が正しく、張存處仁(張処仁)は計略を聞き、殷観孔休・習禎文祥は、才があって優れ、楚の地方の芳蘭であった。

衛文経・韓士元

衛文経・韓士元は、どちらも名と事績と本籍地が分からない。

張存伝

張存は、字を處仁といい、南陽のひと。荊州從事として先主に随い入蜀し、南にむかい雒に至り、廣漢太守となる。張存は龐統を尊重せず、龐統が矢に当たり戦死すると、「龐統は盡忠で惜しむべきですが、大雅の義から外れていました」と言った。劉備が怒り、「龐統は身を殺して仁を成したのに、なぜ否定するのか」と言い、張存を免官した。しばらくして病没した。

殷観伝(殷觀伝)

殷観(殷觀)は、字を孔休。荊州主簿、別駕從事となった(先主伝)。出身の郡県は不明。

習禎伝(習禎伝)・附習忠伝・習隆伝

習禎は、字を文祥、襄陽のひと。先主に随い入蜀し、雒令、郫令、廣漢太守を歴任した。『襄陽記』によると、風流があって談論を得意とした。名声は龐統の次、馬良より上。
習忠は、習禎の子であり、官位は尚書郎に至った。『襄陽記』によると、習忠の子は習隆といい、歩兵校尉となり、宮中の書籍の校勘を掌った。


國山休風、永南耽思;盛衡、承伯、言藏言時;孫德果銳、偉南篤常;德緒、義彊、志壯氣剛。濟濟脩志、蜀之芬香。贊王國山、李永南、馬盛衡、馬承伯、李孫德、李偉南、龔德緒、王義彊

國山名甫、廣漢郪人也。好人流言議。劉璋時、為州書佐。先主定蜀後、為緜竹令、還為荊州議曹從事。隨先主征吳、軍敗於秭歸、遇害。子祐、有父風、官至尚書右選郎。
永南名邵、廣漢郪人也。先主定蜀後、為州書佐部從事。建興元年、丞相亮辟為西曹掾。亮南征、留邵為治中從事、是歲卒〔一〕。

〔一〕華陽國志曰:邵兄邈,字漢南,劉璋時為牛鞞長。先主領牧,為從事,正旦命行酒,得進見,讓先主曰:「振威以將軍宗室肺腑,委以討賊,元功未效,先寇而滅;邈以將軍之取鄙州,甚為不宜也。」先主曰:「知其不宜,何以不助之?」邈曰:「匪不敢也,力不足耳。」有司將殺之,諸葛亮為請,得免。久之,為犍為太守、丞相參軍、安漢將軍。建興六年,亮西征。馬謖在前敗績,亮將殺之,邈諫以「秦赦孟明,用伯西戎,楚誅子玉,二世不競」,失亮意,還蜀。十二年,亮卒,後主素服發哀三日,邈上疏曰:「呂祿、霍、禹未必懷反叛之心,孝宣不好為殺臣之君,直以臣懼其偪,主畏其威,故姦萌生。亮身杖彊兵,狼顧虎視,五大不在邊,臣常危之。今亮殞沒,蓋宗族得全,西戎靜息,大小為慶。」後主怒,下獄誅之。

盛衡名勳、承伯名齊、皆巴西閬中人也。勳、劉璋時為州書佐、先主定蜀、辟為左將軍屬、後轉州別駕從事、卒。齊為太守張飛功曹。飛貢之先主、為尚書郎。建興中、從事丞相掾、遷廣漢太守、復為(飛)參軍。亮卒、為尚書。勳、齊皆以才幹自顯見;歸信於州黨、不如姚伷。伷字子緒、亦閬中人。先主定益州後、為功曹書佐。建興元年、為廣漢太守。丞相亮北駐漢中、辟為掾。並進文武之士、亮稱曰、「忠益者莫大於進人、進人者各務其所尚;今姚掾並存剛柔、以廣文武之用、可謂博雅矣、願諸掾各希此事、以屬其望。」遷為參軍。亮卒、稍遷為尚書僕射。時人服其真誠篤粹。延熙五年卒、在作贊之後。
孫德名福、梓潼涪人也。先主定益州後、為書佐、西充國長、成都令。建興元年、徙巴西太守、為江州督、楊威將軍、入為尚書僕射、封平陽亭侯。延熙初、大將軍蔣琬出征漢中、福以前監軍領司馬、卒〔二〕。

〔二〕益部耆舊雜記曰:諸葛亮於武功病篤,後主遣福省侍,遂因諮以國家大計。福往具宣聖旨,聽亮所言,至別去數日,忽馳思未盡其意,遂卻騎馳還見亮。亮語福曰:「孤知君還意。近日言語,雖彌日有所不盡,更來一決耳。君所問者,公琰其宜也。」福謝:「前實失不諮請公,如公百年後,誰可任大事者?故輒還耳。乞復請,蔣琬之後,誰可任者?」亮曰:「文偉可以繼之。」又復問其次,亮不答。福還,奉使稱旨。福為人精識果銳,敏於從政。子驤,字叔龍,亦有名,官至尚書郎、廣漢太守。

偉南名朝、永南兄。郡功曹、舉孝廉、臨邛令、入為別駕從事。隨先主東征吳、章武二年卒於永安〔三〕。

〔三〕益部耆舊雜記曰:朝又有一弟,早亡,各有才望,時人號之李氏三龍。華陽國志曰:羣下上先主為漢中王;其文,朝所造也。臣松之案耆舊所記,以朝、邵及早亡者為三龍。邈之狂直,不得在此數。

德緒名祿、巴西安漢人也。先主定益州、為郡從事牙門將。建興三年、為越嶲太守、隨丞相亮南征、為蠻夷所害、時年三十一。弟衡、景耀中為領軍。義彊名士、廣漢郪人、國山從兄也。從先主入蜀後、舉孝廉、為符節長、遷牙門將、出為宕渠太守、徙在犍為。會丞相亮南征、轉為益州太守、將南行、為蠻夷所害。

王甫國山(国山)は風格があり、李邵永南は考えが深い。馬勳(馬勲)盛衡・馬齊(馬斉)承伯は、胸中を語り時勢を論じた。李伏孫德(孫徳)は果断気鋭で、李朝偉南は志が篤くてブレない。龔祿(龔禄)德緒(徳緒)・王士義彊は、勇壮で剛気だった。これらは多士済々であり、蜀のよき香りであった。

王甫伝・附王祐伝・附王士伝

王甫は、字を國山(国山)、廣漢郪(し)県のひと。劉劭のとき、益州の書佐となる。先主が蜀を定めると緜竹令となり、帰って荊州の議曹從事となる。先主に随い征呉し、秭帰で敗北すると殺害された。子の王祐は、父の面影があり、官位は尚書右選郎に至った。
王甫の従兄は王士。字を義彊(義強)、郪県のひと。先主に従い入蜀した後、孝廉に察挙され、符節長となり牙門將に遷り、出て宕渠太守となり徙って犍為太守となった。諸葛亮が南征するに際して益州太守に転じ、南に行こうとしたが、蛮夷に殺害された。

李邵伝

李邵は、字を永南、廣漢郪(し)県のひと。先主が蜀を定めると、益州の書佐、部從事となった。建興元(二二三)年、丞相諸葛亮が辟して西曹掾とした。諸葛亮が南征すると、李邵を留めて治中從事とした。同年内(二二三)に卒した。

李邈伝(注引『華陽国志』)

李邵の兄は、李邈といい、字を漢南。劉璋のとき牛(ぎゆう)鞞(ひ)長となった。先主が益州牧を領(兼任)すると、從事とした。正月元日に劉備と謁見し、劉璋討伐について諍いが生じた。担当官が殺そうとしたが、諸葛亮が助命した。しばらくして犍為太守となり、丞相府參軍・安漢將軍となった。建興六(二二八)年、諸葛亮が馬謖を殺そうとすると、李邈が「秦が孟明を赦し、西戎の伯(覇者)となった。楚は子玉を誅し、二代にわたり振るわなかった」と諫めた。亮の考えと異なり、蜀に還された。諸葛亮の死後、亮に大権を委任していたことの潜在的脅威を劉禅に説き、下獄され誅された。

李朝伝

※李邈・李邵・李朝が兄弟のため順序を入れ替えて載せた
李朝は、字を偉南といい、李永南(李邵)の兄であり、廣漢郪(し)県のひと。広漢郡の功曹となり、孝廉に察挙され、臨邛令となった。(成都に)入って別駕從事となった。先主に随い征呉し、章武二(二二二)年、永安で卒した。
『益部耆舊雜記』によると李朝には、もう一人弟がいたが、早くに死に、三人(李邵・李朝・早世の弟)はいずれも才望があり、「李氏の三龍」と号された。『華陽国志』によると、先主を漢中王に推戴する文は李朝が書いた。裴松之が考えるに、「李氏の三龍」には李邈は狂直(狂ったように率直)なので数に入らぬだろう。

馬勲伝(馬勳伝)

馬勳は、字を盛衡、巴西閬中のひと。劉璋のとき益州の書佐となり、先主が蜀を定めると、辟して左將軍屬となし、のちに転じて益州の別駕從事となったが、卒した。馬勳・馬齊は才能により自ずと出世したが、益州内での信任は姚伷に及ばなかった。

馬斉伝(馬齊伝)

馬齊は、字を承伯、巴西閬中のひと。巴西太守の張飛の功曹(功曹史?)となった。張飛が先主に貢士として送り、先主は尚書郎とした。建興中(二二三~二三七)、從事、丞相掾となった。廣漢太守に遷り、また參軍となった。諸葛亮が卒すると、尚書となった。馬勳・馬齊は才能により自ずと出世したが、益州内での信任は姚伷に及ばなかった。

姚伷伝

姚伷は、字を子緒、巴西閬中のひと。先主が益州を定めると、功曹、書佐となった。建興元(二二三)年、廣漢太守となった。丞相亮が漢に駐屯すると、辟して掾とした。文武の士をどちらも推薦し、諸葛亮に称えられた。「人を推薦するよりも忠益なことはない。推薦された者は、応えるように努力する。いま姚掾(丞相掾の姚伷)は、剛柔をあわせ持ち、ひろく文武の有用な人材を広く推薦した。博雅といえよう。諸々の掾たちも、姚伷のように励め」と。遷って參軍となった。諸葛亮が卒すると、やや遷って尚書僕射となった。同時代のひとは誠実と篤実に服した。延熙五(二四二)年、卒した。楊戯が季漢輔臣賛を作った後のことである(から陳寿が補った)。

李福伝・附李驤伝

李福は、字を孫德(孫徳)、梓潼涪県のひと。先主が益州を定めると、書佐、西充國長、成都令となった。建興元(二二三)年、巴西太守に徙り、江州都督・楊威將軍となった。朝廷に入り尚書僕射となり、平陽亭侯に封ぜられた。延熙初(二三八~)、大將軍の蔣琬が漢中に出征すると、李福は前監軍として司馬を領したが、卒した。『益部耆舊雜記』によると、諸葛亮が病気が重くなると、李福に後継者について告げた(省略)。李福の人となりは精密で決断力があり、政治を行うに敏捷であった。李福の子は李驤といい、字を叔龍といい、官位は尚書郎、廣漢太守に至った。

龔祿伝(龔禄伝)・附龔衡伝

龔禄は、字を德緒(徳緒)、巴西安漢のひと。先主が益州を定めると、巴西郡の從事、牙門將となった。建興三(二二五)年、越嶲太守となり、丞相亮に随って南征し、蛮夷に殺害された。三十一歳だった。龔禄の弟は、龔衡という。景耀中(二五八~二六三)、領軍となった。

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『三国志』巻四十五 季漢輔臣賛 4

休元輕寇、損時致害、文進奮身、同此顛沛、患生一人、至於弘大。贊馮休元、張文進
休元名習、南郡人。隨先主入蜀。先主東征吳、習為領軍、統諸軍、大敗於猇亭。
文進名南、亦自荊州隨先主入蜀、領兵從先主征吳、與習俱死。時又有義陽傅肜、先主退軍、斷後拒戰、兵人死盡、吳將語肜令降、肜罵曰、「吳狗!何有漢將軍降者!」遂戰死。拜子僉為左中郎、後為關中都督、景耀六年、又臨危授命。論者嘉其父子奕世忠義〔一〕。

〔一〕蜀記載晉武帝詔曰、蜀將軍傅僉,前在關城,身拒官軍,致死不顧。僉父肜,復為劉備戰亡。天下之善一也,豈由彼此以為異。僉息著・募,後沒入奚官,免為庶人。

馮習休元と張南文進を讃える。馮習は敵を軽んじて害を招き、張南は奮戦したが落命した。災難は一身に生じ拡大した。

馮習伝

馮習は、字を休元、南郡のひと。(荊州より)先主に随い入蜀。先主が東征するとき、馮習を領軍とし、諸軍を統率させたが、猇亭で大敗した。

張南伝

張南は、字を文進、荊州より先主に随い入蜀し、兵を率いて東征したが、馮習とともに死んだ。

傅肜伝・附傅僉伝

傅肜は、義陽のひと。先主が(東征から)撤退するとき、後ろを断って殿軍となり、兵が全滅した。呉将に投降を勧告されると、「呉狗め。漢の将軍に降服する者がいようか」と罵って戦死した。子の傅僉は左中郎となり、後に關中都督となる。景耀六(二六三)年、父と同様に国難に命を捧げた。論者は父子の忠義を称えた。『蜀記』に載せる西晋武帝の詔によると、傅肜・傅僉を称え、傅僉の子である傅著・傅募を庶人に引き上げた。傅氏兄弟は蜀の滅亡後、奚官(馬を養う官、『晋書』職官志)管轄下の奴隷となっていた。


江陽剛烈、立節明君、兵合遇寇、不屈其身、單夫隻役、隕命於軍。贊程季然
季然名畿、巴西閬中人也。劉璋時為漢昌長。縣有賨人、種類剛猛、昔高祖以定關中。巴西太守龐羲以天下擾亂、郡宜有武衞、頗招合部曲。有讒於璋、說羲欲叛者、璋陰疑之。羲聞、甚懼、將謀自守、遣畿子郁宣旨、索兵自助。畿報曰、「郡合部曲、本不為叛、雖有交搆、要在盡誠;若必以懼、遂懷異志、非畿之所聞。」并敕郁曰、「我受州恩、當為州牧盡節。汝為郡吏、當為太守效力、不得以吾故有異志也。」羲使人告畿曰、「爾子在郡、不從太守、家將及禍!」畿曰、「昔樂羊為將、飲子之羹、非父子無恩、大義然也。今雖復羹子、吾必飲之。」羲知畿必不為己、厚陳謝於璋以致無咎。璋聞之、遷畿江陽太守。先主領益州牧、辟為從事祭酒。後隨先主征吳、遇大軍敗績、泝江而還、或告之曰、「後追已至、解船輕去、乃可以免。」畿曰、「吾在軍、未曾為敵走、況從天子而見危哉!」追人遂及畿船、畿身執戟戰、敵船有覆者。眾大至、共擊之、乃死。
公弘後生、卓爾奇精、夭命二十、悼恨未呈。贊程公弘
公弘、名祁、季然之子也。

江陽(太守の程畿季然)を賛ず。程畿は節義を明君に立て、孤軍奮闘して落命した。

程畿伝・附程祁伝

程畿は、字を季然、巴西閬中のひと。劉璋のとき漢昌長となる。縣に賨(そう)人(板楯蛮)がおり、むかし高祖は剛猛な種族を用いて関中を平定した。巴西太守の龐羲が、巴西郡を武装するべく、賨人を部曲(私兵)を糾合し編成した。これを知って、劉璋に龐羲を讒言した者がおり、程畿とその子である程郁が取り持った(詳細は省略)。劉璋は、程畿を江陽太守に遷した。先主が益州牧を領すると、辟召して從事祭酒とした。先主に随い征呉し、敗れて江水を遡って撤退するとき、「追いつかれます。船を解いて軽くして去れば、逃げ切れます」と告げた。程畿は「吾は軍にあり、いまだ敵から逃げたことがない。ましてや天子(劉備)に従っているのに、危ういも何もあるか」と行った。敵軍に追い付かれると、自ら戟をとって戦い、敵船を覆した。大勢が袋だたきにして程畿を殺した。
程畿の子は、程祁といい、字は公弘。程祁は、若輩のときから卓越した精神力があったが、二十歳で夭逝した。


古之奔臣、禮有來偪、怨興司官、不顧大德。靡有匡救、倍成奔北、自絕于人、作笑二國。贊糜芳、士仁、郝普、潘濬
糜芳字子方、東海人也、為南郡太守。士仁字君義、廣陽人也、為將軍、住公安、統屬關羽;與羽有隙、叛迎孫權。郝普字子太、義陽人。先主自荊州入蜀、以普為零陵太守。為吳將呂蒙所譎、開城詣蒙。潘濬字承明、武陵人也。先主入蜀、以為荊州治中、典留州事、亦與關羽不穆。孫權襲羽、遂入吳。普至廷尉、濬至太常、封侯〔一〕。

古の奔臣(逃亡者)は、やむなき事情があった。だが以下の四人は上官を怨み、君主の大徳を顧みなかった。国家を救わず功績もなく、見放されて二国に笑われた。

佐藤:蜀を裏切って呉に奔ったひとは、季漢輔臣賛(蒋琬政権のもとで作成)で「つるし上げ」を食らい「二国の笑いもの」とされる。麋芳・士仁・郝普・潘濬。結果的に呉蜀が同盟国となり、「二国」という世論形成の場が生じると、立つ瀬が無かったのだろう。魏という厳然たる外部に奔ったら、また違ったかも。

麋芳伝

糜芳は、字は子方、東海のひと。南郡太守となる。

士仁伝

士仁は、字は君義、廣陽のひと。將軍となり、公安に駐屯し、関羽配下であったが、対立して孫権軍を迎え入れた。

郝普伝

郝普は、字は子太、義陽のひと。先主が荊州から入蜀すると、郝普を零陵太守とし(て留守とし)た。呂蒙に欺かれて開城し降服した。呉で廷尉に至った。

潘濬伝

潘濬は、字は承明、武陵のひと。先主が入蜀すると、荊州の治中〔従事〕となり、留まって荊州の政事を掌った。関羽と不和。呉に入って太常に至り、諸侯に封建された。


以下、裴松之注が伝えている「その他の人たち」の事績。

〔一〕益部耆舊雜記載王嗣、常播、衞繼三人,皆劉氏王蜀時人,故錄于篇。王嗣字承宗,犍為資中人也。其先,延熙世以功德顯著。舉孝廉,稍遷西安圍督、汶山太守,加安遠將軍。綏集羌、胡,咸悉歸服,諸種素桀惡者皆來首降,嗣待以恩信,時北境得以寧靜。大將軍姜維每出北征,羌、胡出馬牛羊氊毦及義穀裨軍糧,國賴其資。遷鎮軍,故領郡。後從維北征,為流矢所傷,數月卒。戎夷會葬,贈送數千人,號呼涕泣。嗣為人美厚篤至,眾所愛信。嗣子及孫,羌、胡見之如骨肉,或結兄弟,恩至於此。常播字文平,蜀郡江原人也。播仕縣主簿功曹。縣長廣都朱游,建興十五年中被上官誣劾以逋沒官穀,當論重罪。播詣獄訟爭,身受數千杖,肌膚刻爛,毒痛慘至,更歷三獄,幽閉二年有餘。每將考掠,吏先驗問,播不答,言「但急行罰,無所多問」!辭終不撓,事遂分明。長免刑戮。時唯主簿楊玩亦證明其事,與播辭同。眾咸嘉播忘身為君,節義抗烈。舉孝廉,除郪長,年五十餘卒。書於舊德傳,後縣令潁川趙敦圖其像,贊頌之。衞繼字子業,漢嘉嚴道人也。兄弟五人。繼父為縣功曹。繼為兒時,與兄弟隨父游戲庭寺中,縣長蜀郡成都張君無子,數命功曹呼其子省弄,甚憐愛之。張因言宴之間,語功曹欲乞繼,功曹即許之,遂養為子。繼敏達夙成,學識通博,進仕州郡,歷職清顯。而其餘兄弟四人,各無堪當世者,父恆言己之將衰,張明府將盛也。時法禁以異姓為後,故復為衞氏。屢遷拜奉車都尉、大尚書,忠篤信厚,為眾所敬。鍾會之亂,遇害成都。

『益部耆旧雑記』は、王嗣・常播・衛継(衞繼)を載せるため裴松之が引く。いずれも、劉氏が蜀の王であった時代の人物。

王嗣伝

王嗣は、字は承宗、犍為資中のひと。祖先は、延熙期(二三八~二五七)、功徳により顕著であった。孝廉に察挙され、やや遷って西安圍督、汶山太守となり、安遠將軍を加えられた。羌族・胡族を帰服させ、北の国境が安寧となった。大將軍の姜維が北征するたび、(王嗣が味方に付けた)異民族が軍糧を差し出した(品目を省く)。鎮軍〔将軍〕に遷り、もとのように汶山太守を兼任した。姜維に従軍し、流矢を受けて数ヶ月で卒した。異民族が参列した。王嗣の子孫は、羌族・胡族から肉親のように扱われた。

常播伝

常播は、字を文平、蜀郡江原のひと。縣に仕えて、主簿、功曹となった。縣長である廣都の朱游が、建興十五(二三七)年、上官に誣告され、官の穀物を横領した重罪の容疑を着せられた。常播は(身代わりとなり)杖で打たれ、二年餘も幽閉されたが、証言が乱れず県長の冤罪を証明できた。ときに主簿の楊玩だけが、常播と同じ証言をしてくれた。孝廉に察挙され、郪県の長に叙任され、五十餘で卒した。この話しは『舊德傳(旧徳伝)』に記され、のちに縣令である潁川の趙敦はその姿を描き、贊頌を加えた。

衛継伝(衞繼伝)

衛継は、字を子業、漢嘉の嚴道のひと。兄弟は五人。衛継の父(名は未詳)は、縣の功曹であった。衛継が子供のとき、兄弟とともに父に随い庭寺(官舎)のなかで遊んだ。縣長である蜀郡成都の張君(名は未詳)は子がおらず、しばしば衛功曹(衛継の父)に子を呼ばせて可愛がった。張君は衛継を養子に欲し、衛功曹はその場で同意した。衛継は早熟で学識が広く、州郡に仕え、職を歴任し顕著となった。他の兄弟は世に通用する才覚がなく、父はつねに「うちは衰え、張君の家は栄える」と言っていた。異姓を後嗣とすることは禁じられており、衛継は衛氏に服した。しばしば遷って奉車都尉、大尚書を拝した。鍾會の乱のとき、成都で殺害された。200430

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