読書 > 柿沼陽平『劉備と諸葛亮_カネ勘定の『三国志』』を読む

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『劉備と諸葛亮』序章~三章_劉備

柿沼陽平先生の『劉備と諸葛亮』(文春新書、二〇一八)読んでます。おもしろいです!本をなくしても復元できるレベルまで、メモを取ってます。なくしたら、もう1冊買えばいいですが、それくらいおもしろいということです。

言うまでもありませんが、ここが「インターネット上」なので、余計なことを敢えて書いておきますと、抜粋箇所の選択は、ぼくなりの恣意的なものです。もとの本の重要なことがモレている、もとの本の「おもしろい」ところがモレている、ということもあります。抜粋ですから、任意で省略しています。文の趣旨が変わらぬように注意したつもりですが、歪めてしまっているかも知れません。ぼくが誤読していることも、あるでしょう。皆さまは、ご自身で本をお手にとって(というのは婉曲表現で、できるならば購入して)、お確かめください。ぼくは、著者および出版社と、なんの利害関係もないです。これを載せることで、本の売り上げを落とそうとは思ってないですし、ぎゃくに宣伝しようとも思っていません。ただ、自分にとっておもしろい本があったから、メモを取りました、あとから自分で読むためです。……って、この説明は、要るんですかね。


三国志の世界へ_p11

『三国志』は、西暦二九〇年頃には手抄本(手書きの写本)で出回っていたらしく、内容に定評があった。
夏侯湛は『魏書』を作成中であったが、破り捨てたという。夏侯湛は、夏侯淵を曾祖父にもち、司馬氏の親戚でもあった。曹魏の歴史に詳しく、関連史料を容易に閲覧しうる立場にいたが、敗北感を抱いたのである。柿沼p15

夏侯湛が『魏書』を破棄したのは他で読んだことありますけど、『三国志』のどこが優れていたんですかね。いやべつに、陳寿の編纂がダメとか、そう言いたいのではなく、『魏志』の部分のどこに圧倒的な優位性があったのだろうと。
夏侯湛の文章は、『魏晋世語』を参照。夏侯湛が、陳寿に劣ると思ったのは、文章それ自体なのか、歴史書という書物の文体というか、構成の作り方、史実や先行史料との距離の取り方なのか。これは、ぼくの課題!

諸葛亮は憧憬や敬慕の対象となった。梁の元帝に仕えた陸法和は、白帝城(劉備の亡くなった場所)の近くで蜀漢の鏃を発見し、「諸葛孔明は名将というべきだ。私はそれをこの目で見た」といい、唐の詩聖杜甫は「とこしえに英雄に涙を流させることとなった」と慨嘆した。柿沼p18

劉備や諸葛亮が直面したのは、価値判断のむずかしい問題であった。たとえば、ブレーキが壊れて暴走する路面電車の運転手のようなものである。左に作業員が五人、左に最愛の家族が一人。どちらに進んでも人を殺す。柿沼p19

サンデルの『これからの正義』の比喩ですねー、これ。

劉備と諸葛亮の蜜月関係はじつは表面的で、背後には権力をめぐるせめぎあいがあった(渡邉二〇〇四)。劉備や諸葛亮の人物像に懐疑の目を向ける論者は、古来皆無ではないものの(渡邉二〇〇四)、そうした議論は長らく等閑視されてきた。柿沼p19

……等閑視されてきた!


落日の漢帝国

西羌の台頭が、漢帝国崩壊の時代背景となった。前漢末期から後漢時代の平均気温は現在とほぼ同じで、魏晋時代に寒冷化が進んだ(竺一九七二)。牧畜と農耕を両立させた西羌は、家畜の育成のため、温暖な後漢領内へ移住せざるを得なくなり、漢人と生活空間が重複。軋轢が生じるようになった。柿沼p27
対羌戦争の被害は、長安以西にとどまらず、より広範に及んだ。西暦六〇年代には西羌の酋長である滇零が天子を自称するまでの勢力になった。皇甫規・張奐・段熲が活躍し、侵攻を防いだものの、戦争費によって国庫が枯渇。戸籍登録を逃れ、人口は最盛期の十分の一近くにまで落ち込んだ。柿沼p28

後漢は人口減少(税収減少)と支出増加に対応すべく、倹約重視、人件費削減、臨時徴税、官位や爵位の売却、諸侯からの借金さえした。死刑囚は絹織物を納めれば死刑を免れ、銭も増鋳した(柿沼二〇一八A)。
犯罪の規範意識の低下、金銭至上主義の横行、財政規律の弛緩を招き、後漢を揺るがした。柿沼p29

後漢は、一度に二~三級の爵位を賜与し、賜与は章帝期に集中した。民間人は八級までしかのぼれず、章帝期の民は、のきなみ八級(公乗)をもち、民間における爵の序列化機能は低下した。
より高爵を望む民は、九級以上を購入するしかなくなり、政府の戦費捻出をたすけ、貨幣需要を増大させる一因となった。柿沼p32

銭が増鋳され、財政規律の低下を助長した。銭は対羌戦争に参加した軍人の褒賞とされ、軍人と民に経済的格差を生んだ。
民は税金を銭で支払わねばならず、生産物(農作物や織物)を商人に売却し、銭を準備せねばならず、買い叩かれて没落した。官吏や軍人と民との格差が、後漢末の混乱の根底。柿沼p33。
清流派士人の経済基盤をよくみると、多くが有力地主層であった。貧乏農家の目には、清流も濁流も同じ穴の狢に映ったかもしれない。
ますます生活が苦しくなった貧農は、新興宗教を精神的な支柱とした。あたかも、強盗とスリと詐欺のなかから、詐欺を選んだ(頼った)ようなものである。柿沼p34

漢は国家財政と帝室財政があり、税金は割り振られた。国家財政は、軍事費などの公的資金(加藤一九五二)。前漢の武帝が対匈奴戦争のため、帝室財政の多くを国家財政に移管。霊帝はこれに不満のようで、官位・爵位の売却益をすべて帝室財政に組み込み、改革の資金源にしたが、私的蓄財に映った。柿沼p39

柿沼先生の『劉備と諸葛亮』p37は、小見出しが「漢帝国をとりもどす―霊帝の夢」。あるキャッチフレーズを意識した遊びでしょう。思い当たるところがある場合、両者の類似点を探すと楽しいのかも知れないです。っていうか、あと数十年かけて人口が減るならば、すでに日本は崩壊過程に入ったようです笑


後漢時代、数十人もしくは数百人単位のムラで暮らし、ムラは「聚」「廬」「落」「丘」と呼ばれ、行政上は「里」に編成された。
ムラは土壁に囲まれたものがあった。郡城や県城内のムラは、里に区分けされた。里は相互に隣接したが、そこでもあいだに土壁があり、監門(門番)がいた。里を複数たばねたものを「郷」、郷の行政府の管轄する区域を「郷部」という。
郷を複数たばねたものを「県」、県をたばねて「郡」。
郡・県の治所は、いずれかの郷に設置された。県の治所がある郷を「都郷」、ない郷を「離郷」。
都郷は高めの城壁があり、県城とよばれた。郡の治所があれば、郡城とよばれた。県城内には複数の里があり、城外にも複数の里が散在していた。
後漢末、戸籍を逃れた人が山奥に逃れて、自衛組織をつくることもあり、「塢」などとよばれた。柿沼p42

劉備の生い立ち_p49

地方下級公務員は、掾史にはじまり、督郵もしくは主簿、五官掾、そして功曹へと昇進するが、みな下級公務員のなかでの序列。これを越え、地方上級公務員や中央省庁勤務職に昇進するには、あらたに孝廉の資格を得る必要があった。資格を得た者は、はじめの郎中(皇帝側近官)になり、経験を積む。柿沼p55

劉備の祖父劉雄は、並大抵の人物でない。孝廉に推挙され、東郡范県の県令になっており、エリートコースの典型。後漢中期の涿郡は人口六十万で、孝廉は毎年三名。末期は人口が減少し、孝廉も十年に一回となり、難易度が上がったが(『潜夫論』実辺篇)、劉雄はそれをパスした。柿沼p56

劉備の面倒は叔父がみた。劉備は、母子二人で生活をしていない。里内の親族同士や婦人同士で資金を供出し、相互扶助する習慣があり(柿沼二〇一五B)、劉備も恩恵を被った。孟達は、劉備の叔父(劉子敬)の名を避けたが、これは孟達のおべっかぶりと、劉備から叔父への変わらぬ敬愛を示す。柿沼p58

公孫瓚や劉備の就学期間は、盧植が九江太守をやめてから、廬江太守に就任するまでのあいだで、長くとも数ヵ月にすぎない。劉備は盧植を訪問した経験がある程度にすぎない(饒二〇一六)。劉備は洛陽で儒学を学んだ牽招と「刎頸の交」を結んだが(津田二〇一三)、盧植との関係は濃厚ではない。柿沼p61

張世平・蘇双が劉備に大金を貸した。劉備は競馬が趣味なので、その関係で出会ったのではないか。公孫瓚がすでに涿県の県令なので、その弟分である点に配慮して、劉備が投資された。盧植門下の肩書きも。
関羽の「亡命」は、前漢初期に「罪名が確定していながらも逃亡中」が原義(保科二〇〇六)。柿沼p63
劉備は、張世平らの融資を受けることではじめて関羽・張飛をスカウトできた。劉備と関羽・張飛のあいだには、夢のない話だが、もともと金銭関係が介在していた。仲良くなるのは、あくまでも、そのあとのことである。柿沼p64

史料を総合すると、劉備は鄒靖らの軍に加わって黄巾(胡人をふくむ)と戦い、追撃中に敵軍に包囲された。しかし、涿県令の公孫瓚の助力によって鄒靖と劉備は助け出された。根拠史料が魚豢の作なので、貶められた可能性がある。結果的には、いきなり安喜県令になっており、戦績をあげたかも。柿沼p65
劉備の美談。飢民が略奪すると、暴徒から民を守り、経済的に恩恵を与えたと。だが恩恵を施せるならば、県の倉庫に備蓄があったということ。劉備は暴動が起きる段階まで、備蓄食糧を出し惜しんだ。暴徒の主体は飢民で、暴徒は商人・豪族を狙ったのならば、劉備が守ったのは商人・豪族のほう。柿沼p66

劉備が董卓討伐に加わる、洛陽で曹操に出会ったとする史料があるが疑わしい(方一九九五)。功績も行くあてもなく、公孫瓚に駈け込み、別部司馬に。県令・校尉よりも下位の軍官で、軍と食糧を供給され、日常的に配下の練兵・人数把握にあたる(柿沼二〇一二)県内の警備隊長。キャリアダウン。柿沼p67

初平二年、青州刺史田楷の別部司馬となった劉備は、袁紹との戦いで軍功。同年七月頃、公孫瓚の推薦で、平原相。平原はちょうど、公孫瓚・袁紹の中間地帯であり、対袁紹の防波堤。初平二年、盧植が袁紹の軍師になっており、公孫瓚・劉備は師匠と対立した。柿沼p68
孔融は董卓と衝突し、三十八歳で(一九一年)黄巾残党の多い北海国に飛ばされ、学校建設に尽力。六年後(一九七年頃)劉備の上表で青州刺史に。劉備の平原相の在任期間(一九一~一九四)と始年が一致し、孔融・劉備は公孫瓚派の青州刺史田楷に従っていた。孔融は一九六年、袁譚に攻撃された。柿沼p69

本来の陶謙は、曹操が恐れる兵力を有したが、徐州には瑕疵があった。笮融に、広陵・下邳・彭城の食糧輸送を委ね、笮融が税収で仏事を営み、経済基盤が脆弱であった(任一九九二)。三郡の人口比は州内で大きく、陶謙の減収は無視できない。また陶謙は士人を弾圧し、許劭らに離叛された。柿沼p70
陶謙は、田楷・劉備に助けを求めた。曹操・袁紹は友好関係にあり、公孫瓚と対立したので、田楷・劉備・陶謙は、反曹操・反袁紹で意気投合した。田楷は青州を留守にできないから、劉備は徐州にとどまり曹操を防ぐ役目を担えた。劉備は、劉虞を殺害して盧植と対立した公孫瓚を嫌ったという説も。柿沼p70

一九四年、劉備は徐州牧に。州長官は、州内の軍事・司法・民政の実務や郡県の税収を管掌し、州の税収は群雄の継続的な経済基盤たりえた。劉備ははじめて独立した経済的・軍事的基盤を有した。袁紹や曹操は、対袁術包囲網を優先したため、劉備の牧就任を追認せざるを得なかった。柿沼p71
徐州士人(孔融・陳羣・陳登ら)が劉備の牧就任を後押し。劉備は盧植に師事したという肩書きで、陳紀(陳羣の父)や鄭玄との知己を得た。陳紀は鄭玄を朝廷に招聘しようとした。鄭玄は盧植の兄弟弟子で、盧植を媒介につながりうる。鄭玄の弟子の孫乾も劉備に仕えた。
孔融は鄭玄を敬慕し、鄭玄の子の鄭益は孔融のもとで働く。劉備は孔融を青州刺史にすべく動き、強い信頼。陳羣は、父陳紀が袁術に抜擢された経緯から袁術を支持したが、劉備支持に転じた。陳登も、従祖父の陳球が馬融と同じく、盧植と鄭玄の師(吉川一九八七)で、陳登の学風が鄭玄に近く、劉備を支持。
陳登は陳紀・孔融・劉備を尊敬していると周囲に述べており、個人的にも劉備を支持。陳羣は馬に載せられないほどデブとして当時有名(『琱玉集』肥人篇)。飢民の味方を謳う劉備は、名門出身の肥えた陳羣の支持を得たのであり、皮肉なことである。柿沼p73

※劉備は飢民でなく富裕層の味方ということ。


麋竺は徐州有数の金持ち、小作人一万。既得権益を守るため劉備を支持したが、賭けは外れて呂布に基盤を奪われた。だが劉備を支え続け、奴僕二千人・金銀貨幣を提供。
劉備の妻子が呂布に捕らわれると、甘夫人が取り仕切る奥に、妹を加えた(麋夫人)。統率が不得意だが、もっとも愛された。柿沼p75
朐県鬱州島の島民は、麋竺の農奴の子孫。牛欄村も、麋竺の荘園・牧場。住民は、麋竺を「麋郎」として祭り、嫁を神前で見せないと祟る(『太平寰宇記』海州東海県条『水経注』)。神様扱いされるほど大金持ち。建安元年、曹操が劉備勢力を切り崩すため、奴隷主の麋竺をエイ郡太守に推薦。柿沼p77

群雄割拠_p79

漢代の法律は、将軍レベルが最前線で敵兵の首を取ることを禁じ(久保田一九八八)、曹操もその行動を批難(『魏武軍令』)。武将同士の一騎討ちは軍法違反。重要なのは、毎年、膨大な収入(戦争資金)を合法的に確保すること。略奪して天下を目指せば挫折している。柿沼p81
群雄は漢代の納税制度を継承し、民の合意を得た。県令が徴収した税金はまず郡太守に集められるので、郡太守も独立的に動けたが、州長官は郡太守を鎮圧しうる兵力を持つので、郡太守単体では物足りない。巨大な南陽郡の太守は州長官と互角だが例外的。州長官となり、合法的に税金を集めないと。柿沼p81

呂布の敗因は、経済的基盤を確保できなかった点。徐州牧となるが、州内は一丸でない。隠然たる力の豪族臧覇は味方したが(田二〇〇四)、広陵太守陳登は裏切った。曹操は複数州を支配し、兵力は呂布の二倍(『孫子』謀攻篇)。人口に税収・兵力が比例するため、曹操に滅ぼされたのは当然。柿沼p87

袁術は名門ゆえ一番よい地域を得た。南陽・寿春はいずれも黄河流域と長江流域の結び目で、八方に通ずる貿易地。ほかの群雄が飢饉に苦しむなか、富と食糧を保有。余剰食糧を餌に呂布を取り込む。蒲や田螺・蝸牛を食糧とし、無為無策ではない。呂布・金尚、公孫瓚・黒山・於夫羅に求心力を発揮。柿沼p89
群雄には汝南袁氏のコネで就職した者がおり、袁術に頭があがらず。廬江周氏・江東孫氏は、袁術家との結びつきを代々重んじた。袁燿の娘は孫奮に嫁ぐ。韋昭『呉書』は孫策を後漢の忠臣とみなす史書なので、袁術と絶縁した孫氏像は後付け。
袁氏の家学「易」は革命思想を含むため、いち早く皇帝を自称。柿沼p90

袁紹が治めた冀州は重装歩兵百万・穀物十年分とされるが、実態は五万人~十万人。勃海太守の印綬を公孫範に献上して懐柔を試みるが、範は勃海兵を率いて敵対。公孫瓚が青・冀・兗州刺史を任命。董卓集団は、冀州牧台寿(壺寿)を送りこみ、黒山・白波の于毒・白繞・眭固や於夫羅が台寿に加勢。柿沼p92
袁紹の経済基盤も完全でない。冀州周辺は寒波がおしよせ、川は結氷し、地面は凍てつく。グローバルな寒冷化+戦乱で、農業収入が低下。袁紹の配下は桑の実を食べ、袁尚配下の李孚は韮を植えて救荒食に。袁氏政権の敗因は官渡敗戦でなく、後継者が分裂し、四州の税収を統括できなくなったから。柿沼p95

初平三年四月、兗州に侵入した青州黄巾は、同年冬に曹操に降伏。土地面積や人口統計を駆使して経済史的に分析すると、兵三十余万・男女百余万は誇張で、実数は十分の一程度。だが当時、三万余人の兵を得ることは、一州に匹敵する軍事力の入手にほかならず(柿沼二〇一八A)台頭に一役かった。柿沼p97
屯田は曹操「個人」の財政基盤。建安元年正月以前の毛玠の提言をふまえ、羽林監の棗祗・騎都尉の韓浩(ともに宮殿護衛官)の議論を経て、屯田制を開始。韓浩を中央軍の護軍(武官のひとつ)とした。韓浩の提案は、曹操軍の監督下で働かせる屯田。許昌付近で青州黄巾を働かせ、次年度から普及。柿沼p99

曹操は司空・兗州牧を兼ねるが、実質的な財源は兗州の財源のみ。複数州の税収を一括回収する行政単位は存在せず、配下の州長官を通じて支配するしかない。制度上、曹操が突出した権力がない。そこで青州黄巾を郡県民にもどさず、あえて司空直属の屯田に再編し、独自の財源とした。柿沼p99
屯田は民を故郷から離して、許昌へ強制移住させるため、逃亡者が多い。袁渙の意見に従い、希望者のみ採用。許昌付近の屯田で穀物百万石を貯蔵。豊かな土地で一万人が働いた年間収穫量にあたり、軍勢一万人の二十ヵ月の食糧に相当。これが補給ボンベとなり、覇権確立を支えた。柿沼p99

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『劉備と諸葛亮』四章~八章_諸葛亮

諸葛亮の登場_p101

諸葛玄の首は劉繇に届けられた。諸葛亮にとって劉繇は叔父の仇。劉表や袁術は、諸葛玄を見殺しにしたも同然で、これが劉表支配下の荊州に留まりながら仕官しなかった心理的一因。他人にいいように操られて死んだ従父への悲憤と反発があって、「梁父吟」をうたって策謀家として生きる決意をした。柿沼p107
建安初期、諸葛亮は荊州学派の司馬徽あたりに弟子入り。司馬徽は、後漢の少傅(皇太子の教育係)であったとも(敦煌文書)。荊州学派は宋忠が筆頭で、劉表をパトロンに『後定五経章句』を編纂し、流行の鄭玄学に対抗。鄭玄は周礼・礼記・儀礼を軸とするが、荊州学は左氏伝が軸(加賀一九六四)柿沼p108

諸葛亮の夢は、晏子・管仲・楽毅。いずれも故郷の斉地方の人物。晏子は策謀家、管仲は経済政策、楽毅は燕の将軍。君主や儒者でなく、策謀・法・戦争で天下を左右するのが目標。儒家経典に飽き足らず、『管子』牧民篇「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という経済思想が心に響く。柿沼p110

明代『天中記』所引 習鑿歯『襄陽伝』に「漢末は蔡氏の最盛期。蔡諷は姉を太尉張温に嫁がせ、長女を黄承彦の妻とし、末娘を劉表の後妻とした。末娘は蔡茂に姉にあたる」とある。佚文だから信憑性が高い。劉表の後妻蔡氏は劉琮を生んだ可能性があり、『後漢書』をみると劉琮は後妻蔡氏の姪をめとった。
すると①黄承彦に娘が二人おり、一人が劉琮に、一人が諸葛亮に嫁いだ可能性と、②蔡瑁の娘が劉琮に嫁いだ可能性と、③蔡諷に娘がもう一人おり、その娘が劉琮に嫁いだ可能性の三つが浮上する。③を念頭に作図すると(諸葛亮の妻を蔡氏長女の娘と仮定)、黄承彦を通じて諸葛亮は蔡氏とつながる。柿沼p114

いくら劉備が人材を欲しても、諸葛亮が無名ならば、三度も足を運ぶか。現実には、まだ何も成し遂げていない。
足を運んだ理由は、荊州きっての閨閥に属し、荊州学派で学んだ経験を持ち、士人司馬徽と任侠(信義に則り、禍いや貧窮から救うために不法行為を厭わない)徐庶の推薦があったから。柿沼p116

二十代の三国志読者が、何も為せない現状に不満をもち、自分にとっての「劉備」が訪れるのを待ってしまいますが、諦めるべきです。諸葛亮は、エリートの官僚家出身、移住先で全国・地域で最高クラスの名門と婚姻し、一流の学問にふれ、社会的に存在感のある友人が多い。自己投影しても虚しいだけです。
@aIoMUgJ94Yz4arf さんはいう。大体が、そのまま40代50代になり、諸葛亮欲しいとか言い出すので、大丈夫です。


劉表は大酒飲みで、酔いつぶれた客の顔を針で刺し、本当に酔っているか確かめた伝説がある(楽資『九州記』)。ある件で正論を吐いた士人の劉望之を殺害したことがあり、望之の弟の劉廙は逃亡した。劉廙は司馬徽にかわいがられた人で、諸葛亮の兄弟子。龐統も劉表に仕えず、周瑜に仕えた。柿沼p117
隆中対の目標は、「天下三分」ではない。曹操を打倒し、献帝を洛陽に戻すこと。荊州・益州に着目すべきというのは、孫権に仕える魯粛・沈友・甘寧も説くところで、突飛ではない。益州・荊州が突出した人口を抱えており、道理のある戦略(内藤一八九七)。柿沼p119

沈友の説ってなんだっけ。


若き劉表は、すぐにでも帝位に手が届くと思っていた。曹操が献帝を奉戴すると、職貢(中央朝廷に送るべき税金)を治めず、郊外で天地を祭る。孔融は「劉表が列侯を殺し、勅命を拒み、職貢を盗む」と上表し、荀彧は「河北平定後、洛陽を修復し、劉表の職貢未納を責めよ」と進言している。柿沼p121
『蔡中郎集』に載せる「劉鎮南碑」によると、御史中丞の鍾繇(一九六年頃の官位)によって、献帝から「鼓吹」「大車」を拝受し、「伯父」と尊称された。存命の功臣に鼓吹(オーケストラ部隊)を与えるのは、よほどのこと(増田一九七五)。鼓吹は、杜夔・孟曜に命じた自作自演かもしれない。柿沼p122

劉表は南陽郡に攻めこみ、北方への野心を棄てきれずにいたが、建安十三年七月、配下の王粲が曹操のもとに赴いているので、劉表が死ぬ前に帰順を申し出ていた可能性がある(松本一九九五)。九月、劉琮は後見役の蔡瑁とともに降伏。蔡瑁は曹操と同期の孝廉であるため、身の安全を期待できた。柿沼p124
劉琮降伏を、劉備は劉表の弔問から帰るところ、樊城で知った。樊城は、新野(劉備の居城)の南、襄陽(劉琮の居城)のすぐ北。劉備は激怒したが、使者が荊州学派の代表的士人の宋忠なので、怒りにまかせて斬ることができない。面罵して逃げただけ。柿沼p125

諸葛亮は劉琦への助言を拒んだ。血縁関係がなく、むしろ諸葛亮夫人の実家は蔡氏につながるため、劉琦を助けて蔡氏を敵に回すことを避けたかった。だが劉琦たっての願いで、諸葛亮は適切に助言。この経緯もあり、劉琦は劉備を受け入れる。柿沼p125

樊城南門を出た劉備は、劉表の墓で涙を流す(典略)。敵国曹魏の魚豢でさえ感銘を受けて特記せざるを得なかった。劉備が「人たらし」とされるゆえん。諸葛亮が襄陽攻撃を助言し、劉琮はおびえるばかり。ただし城内に味方がいても、千人程度で天下の名城襄陽を陥せない。故事に脚色がある。柿沼p126

南郡当陽県に到着すると、劉備の逃避行は十余万人に。「仁君」の一証であるが、現実的な二点を無視できない。①江陵(南郡の郡治)は健在で、劉備に賭ける人々も起死回生を期待した。②荊州は劉琮派・劉琦派に別れ、劉琦は夏口(江夏郡)にいた。追随者には、劉琦派もいた可能性が高い。柿沼p127

劉備が民の追随を許したが、曹操に追いつかれることを事前に承知していた。
援助を求める人を援助する(追随を許す)ことで、更なる不幸に陥れる(曹操に殺される)場合、それでも援助すべきか。劉備を貶めず、一方的に美化もせず、正義論の素材として考えることも、劉備研究の醍醐味のひとつ。柿沼p128

本の先を未読ですが、「援助した相手を、更なる不幸に陥れる」は、蜀漢のスローガンにも通じる。漢王朝の復興を目指すと、旧漢(天下)で戦乱が深刻化する。その場合、復興を試みるべきか否か…という正義論。柿沼先生の提示する「劉備研究」の視角としての「正義論」がそこに結びつくのか楽しみ。
……読後に追記。漢室再興の是非の話はありませんでした。
@Golden_hamster さんはいう。三国志のいわゆる長坂の戦いは、民を守るという意味では劉備と同じように曹操も試されていると言える。劉備を捕捉するために民を蹂躙するかどうか、という事。なお最終的に民を連行して屯田民にした。

劉備は曹操に追いつかれ、二人の娘も捕らえられた。張飛は橋を切り落とした後、「死を賭して戦おうぞ」と叫んだ。切り落としたあとなので、曹操軍はたんに渡河できなかったようにも見えるが、それを指摘するのは野暮というもの。柿沼p129

劉備の娘二人が捕らえられたんでしたっけ。


蜀漢建国への道_p135

赤壁後、曹操は揚州に官吏を置いて屯田を開設し、孫権の実効支配を受けていた揚州に圧力をかける。曹操に降っていた劉表の元部下は、劉琦・劉備に寝返り、廬江郡の雷緒らも劉備に帰順。劉琦が病死すると、劉備が荊州牧となり、二〇九年、呂範の勧めでそれを孫権が献帝に上表(建康実録)した。柿沼p137

荊州牧の劉備は、まず資金集め。新野で諸葛亮と出会ったころ、劉備は諸葛亮を連帯保証人として保券(借金証文)をつくり、南陽郡の有力者の晁氏から借金をした(明・楊時偉『諸葛忠武書』)。後世史料であるが、政治的イデオロギーを帯びず、否定には及ばない。劉備が経済的信用に欠いた記事。柿沼p138
荊州牧の劉備は、無戸籍民を再登録したが、ほとんど民に尽くしていない。軍団の維持と強化を最優先した。新野時代の劉備は晁氏の融資を軍事費に充てた。赤壁後、零陵・桂陽・長沙を得たが、諸葛亮はそれを統治して賦税を軍実(軍事費)とした。インフラ整備は優先されず。柿沼p139

劉璋が益州牧なのに対し、張魯は漢寧太守(漢中太守)に過ぎない。劉璋は張魯の上官で、劉璋は張魯を圧倒できそう。しかし当時の漢寧郡は人口が多く、成都を上回るほど。張魯は宗教政権として漢寧を固守するのみで、対外進出のつもりはないとも言われる(大淵一九九一)が、劉璋は怖れた。柿沼p142
劉璋は劉備を援助し、三万余人と資材が豊富。劉備は白水関・葭萌関で恩徳を施した。物財を与えるという意味。与えた物財は、劉璋から提供されたもののはず。これは劉璋に対する不義で、自分本位の人気取りにすぎない。与えた相手は貧民と限らず、地元世論を代表する豪族であった可能性がある。柿沼p145
劉備は劉璋に対し、契約不履行で図々しく、理不尽きわまりない。仁・義・民のためと言えない。蜀漢正統論を掲げる朱熹でさえ説明がつかず、「劉璋をだまして蜀を奪ったことは、劉備の策謀であり、諸葛亮の意思とは違っていたか」(『朱子語類』巻一三六)と、諸葛亮だけでも救い出そうとする。柿沼p147

劉備が成都攻略した十ヶ月後の二一五年三月、曹操は張魯討伐へ。別動隊を武都郡に向かわせ、自らは陳倉道に進み、散関(道の北側入口)を経て「秋胡行」を吟じた。『漢魏六朝一百三家集』。散関付近は難所つづき。漢中盆地西側に陽平関の要害があり、張魯城の地名が残る。柿沼p149

要害の地名は、著者の名前と同じ!


夏侯淵は、長安以西の山地で三十年以上独立している河首平漢王国を滅ぼす。国王と丞相以下、官僚制度を有したらしく、混乱を避けた人が山奥に築いた小国。武都郡(下弁)の氐・羌を攻撃し、穀物十万石以上を没収して曹操本体に合流。柿沼p149
巴中に逃亡した張魯を曹洪が追撃し、二一五年十一月五日、曹丕に手紙を送った。以前に手紙で張魯を撃破したことを伝え、九月二十日に曹丕から返信がきており、再返信したもの(『文選』)。率直で機知に富んだ筆致で書かれる。のちに曹洪・曹丕は仲が悪化するが、当時は仲がよかったか。柿沼p150

荀彧は孫権の配下に、漢中での大勝利を喧伝(『文選』所収)。
張魯は、異民族の巴夷王の朴胡やソウ邑侯の杜カクに降伏を促し、それを手みやげとして、自らも二一五年十一月に曹操に降ったという(王二〇一五)。「孫権を裏切って降伏しないと、張魯の二の舞になる」という荀彧の脅し。柿沼p152

劉備は、劉璋個人の財産は返還し、益州の財を部下に放出。二一四年夏、成都入城のとき酒宴を開き、諸葛亮・法正・関羽・張飛に黄金125キロなどを賜与。倉庫を開放し、兵士に持って行かせた。左将軍未満の官職しか賜与できない劉備は、物財で報いるしかない。政権運営やインフラ整備は後回し。柿沼p153
倉庫を開放した劉備は、翌月以降の衣食に困り、穀物・絹織物だけ返させた。官吏・軍隊の給与になるものだから。麻織物、銅・鉄も重要だが、喫緊ではない。
蜀漢滅亡時の備蓄は、金銀二千斤ずつで、国として少なすぎ。金銀は決済手段。東南アジア・チベットとの貿易の規模を過大評価できない。柿沼p154

劉備が放出した銭とは青銅貨幣で、漢代以来の五銖銭。軍功褒賞制度は、軍功に対して一般的に銭を与える仕組み(柿沼二〇一一)。蜀漢の財政安定のため、劉巴が名目貨幣「直百五銖銭」鋳造を提案(原材料や鋳造費は近いが額面が百倍)。官設市場のみで流通させ、商人による受取拒否を禁じた。柿沼p157
劉備の古参臣下は名目貨幣に反対しなかった。倉庫から銭を持ち出した軍功受益階層であり、曹操との決戦前に揉めず。成都周辺は地元民が占め、古参は地主になれないため軍功を上げ続けるしかない。趙雲が古参の地主化に制約を課す。①老後安泰による引退を防ぎ(張飛など)、②益州士人の既得権を保護するため。柿沼p160

張飛は「死ぬの早すぎ!」と惜しまれるが、その遥か以前に、劉備軍を離脱する可能性があった。柿沼先生の新書だと、入蜀の時点で六十歳前後。「益州の土地を与え、経済的に保障すれば、老齢を理由に引退するかも」と疑われ得た。軍功を立て続けなければ自活できない状況!に追いこみ、張飛の引退を牽制したと。牽制範囲は、張飛に代表される劉備軍の初期メンバーか。

劉巴は額面百倍の「直百五銖銭」鋳造に先立ち、諸物価安定を提案したが手法は不明。
通貨膨張インフレ・物価高騰を招来し、官設市場以外で流通すると経済が混乱する。前漢・新・後漢でも類似政策が実施され、みな失敗。軍需物資回収(民から穀・絹を買い上げ)が優先で、民間経済をリスクに晒す。柿沼p158

経済活性のため、政府が仕事を増やしたり(公共事業でカネを使う)、直接的にカネを増やしたり(追加発行、高額貨幣を造る、量的緩和政策)。仕事やカネを増やすことの当否と有効性は、今日でも正解がないそうです。魏明帝の公共事業、蜀の劉巴の直百五銖銭を、確定的に評価できなくて当然な気がする。
劉巴の高額貨幣政策による副作用のコントロールは、具体的手法が不明だそう。魏明帝の経済?政策は、同時代の学者官僚には浪費に見えたのは確実だし(諫言が残っている)、魏の滅亡と結びつけたくなる「誘惑」も分かる。でも、劉巴・明帝をきちんと評価できれば、今日の経済問題も解決しているはずで、簡単じゃない。


劉巴の貨幣発行は、益州地主(旧劉璋配下)と、軍功受益者(古参)の不満をかわす。一番得をしたのが劉備政権、一番損をしたのが一般の民。銭の流通量が増加すると、民が蓄積してきた五銖銭は価値が下がる。民は、直百五銖銭を差し出されては物資を徴発され、事情もわからず従属を強制された。柿沼p160

劉備・諸葛亮の漢室再興のスローガンが、本当に天下の士人・民の願いをかなえるものなら、だまし討ちで益州を奪い、ワケの分かっていない益州の民から搾取して、軍事最優先の思想統制国家を作るのではなく、クラウドファンディングすればいいのに。どなたか、漢室再興のファンド作ってください。


漢中王から皇帝へ_p161

劉備は成都から白水関まで、伝舎と亭障(郵便施設と狼煙台)を四百余つくり、曹操の南下に備えた。民の疲弊はおかまいなし。定軍山付近は、現在でもまきびし・鏃・鉄刀が出土する。
曹魏支配下の武都郡に呉蘭・雷銅を派遣したが全滅。羌族が暮らす地域で一筋縄でない。諸葛亮の北伐までお預け。柿沼p163

曹操は漢中へ侵攻。褒谷道を通過して、石門付近の褒水沿いの巨石の植えに「コン雪」と刻み、墨痕が残る。コンコンと流れ、岩に当たって雪のように散る水流の意。曹操は食糧輸送の困難さゆえに、劉備と決戦せずに撤退。劉備は、民はいないが、膨大な農地と住居跡が残された漢中盆地を得た。柿沼p164

劉備は漢中王と同時に、後漢の大司馬をも自称。劉璋の推薦で、行大司馬・領司隷校尉(大司馬の代行・司隷校尉を兼任)だったので、正式な大司馬への昇進。王位があれば、大司馬でなくとも、王国内の実質的な兵権を掌握しうる。大司馬自称の理由は、中華全土の軍事権の宣言と、光武帝の踏襲。光武帝は、皇帝になる前、大司馬であった。柿沼p166
劉備は王となり、古参の功臣に高い官職を発行できるように。王への推薦文にあるように、従来、平西将軍の馬超が最高位であったが、馬超の官職を貶さぬまま、関羽らをより高位に任命できた。反面、配下の人数と俸禄がふくれ、支出が増大して増税が不可避であったはず。史書に内実は明記されず。柿沼p168

呂蒙は商人に扮して荊州に入りこんだ。荊州が揚州と密接的な経済的関係を有し、じっさいに両州のあいだを多くの商人が往来した事実があった。さもなくば関羽出陣中の重要な時期に、荊州留守組が江東からの商人を受け入れるはずがない。ここでも経済関係が時代を動かした。柿沼p171

臣下(曹操)の死による年号変更は古来類例をみないが、魏王朝創始計画の出鼻を挫くためともいわれる。小革命=改元を断行し、大革命=王朝交替を未然に防止し、改元の権限がなお献帝側にあることを明示し、先手で延康(小康状態を引き延ばす)へ改元したと(宮崎一九五六)。柿沼p172
劉備が皇帝になれば、官吏の数と到達可能な官位(と給与)の上限も向上する。例えば漢中王に丞相は置けない。国号は漢(三国雑事)。後漢の後継者を自任するため、制度・慣行を継承すべきだが全貌は不明。碩学蔡邕しか全貌を知らず、書籍も完備せず、断片の手抄本くらいしかない。柿沼p177

許慈・胡潜・孟光・来敏が制度を整えたが、学派や経典によって見解が相違する。許慈は鄭玄学を学び、古銭は祖先祭祀に詳しいが、両者は対立。来敏は『左氏伝』、孟光は『公羊伝』を重視して論争。尹黙・李譔は荊州学派、譙周は蜀学の図讖。一枚岩でなかった。柿沼p178

法整備は諸葛亮・法正ら。鍾繇が「肉刑を復活すると、蜀漢の民に残虐だと警戒される」と言っており、蜀漢は肉刑なき漢律を継承したと分かる。漢代は体系的法典がなく、詔=令が保管・蓄積され、規範的効力をもつ箇所が「律」と呼ばれた(廣瀬二〇一〇)。蜀科も非体系的(冨谷二〇一六)。柿沼p179

二二一年七月、劉備が孫権を討伐開始。夏期の出兵は、兵法上の禁忌。諸葛亮の第一次北伐のとき、明帝が出兵を検討したが、鍾毓は猛暑期の皇帝による出兵は避けるべきと主張している。車騎将軍に昇進し、長女が劉禅に嫁いだばかりの張飛を失い、うだるような暑さのなか、幸先の悪い出陣。柿沼p180
巫県付近から夷道付近のルートに陣営を連ね、黄金や絹織物をバラまいて異民族を味方とし、馮習・張南に陸遜を攻撃させた。劉備は馬鞍山で疲弊し、避暑せざるを得ない。水陸両面の攻撃態勢から、歩兵主体に切り替え。夷道を抜ければ平原のため、野戦に備えた。西への退却が困難に。柿沼p183

きっと戦況描写のポイントは、異民族に黄金や絹織物をバラまくところ。


南征_p187

二二三年、酋長の雍闓と高定(高定元・定元)が反乱。雍闓による有形無形の恩恵と、盟誓にもとづく信頼関係が雲南地方に行き届く。益州太守正昂が殺され、後任の張裔は呉流し。反乱は劉璋の死に起因し、子の劉センが旗頭に。雍闓は劉焉・璋の余風を慕っており、劉備の人徳のなさがにじみ出る。柿沼p189

『演義』の南蛮は、奇抜な服の蛮族。木鹿(トルクメニスタンに位置する都市のメルブ)や烏戈(烏弋の誤り、アレクサンドリア)のように、遠方の地名の音訳が含まれる。『演義』は孟獲がユーラシア全域を支配したと暗示し、一網打尽にした諸葛亮の偉大さを引き立てた(柿沼二〇一八B)。柿沼p192

南蛮西南夷は、同じ自然環境のもとで、同一の集団意識や習俗を共有する集団ではなかった。孟獲も、西都南方の諸種族の一部をひきいたにすぎず、周辺諸種族と国家を形成したわけではない。西都以南は、邛都夷・夜郎・滇・昆明夷・嶲・サク都の六種族に大別される。柿沼p193
漢嘉郡・越嶲郡に嶲と総称される諸種族がおり、郡をまたぐ大種族はなく、酋長の高定がいた。雲南省西南に昆明夷がおり、従来、漢人が入ったことはなく、諸葛亮と友好関係を結び、哀牢王経由で間接的統治を試みただけ。成都の西と西北の山岳に、汶山夷・白馬羌がおり、諸葛亮でなく張嶷が征服。柿沼p194

諸葛亮が西南夷を捨て置くべきでないと言った理由は、①南方がまつろわぬままで北伐すれば危険。②西南夷は物産の宝庫。塩・鉄・耕牛・軍馬・金・銀・犀皮があり、漢嘉郡の黄金・朱提郡の銀も有名で、北伐の財源となる。兵員を補充することも可能。③心服させるため、諸葛亮が直接交渉すべき。柿沼p195

223年4月に劉備死去、同年10月に蜀呉同盟、224年に魏呉戦争。この時期に南征しなかった理由は、①夷陵で水陸両軍の輜重を失った、②劉備の三年喪が225年4月までで、225年春の南征開始の時期に一致。劉備は遺詔で三日で喪服を脱げと言ったが。③塩府校尉の王連が反対。南征は王連の病死後。柿沼p197
塩府校尉(塩業や製鉄を司る)は、巴蜀の特産品の塩を管理。塩鉄支配は漢代に重視され、塩の規格・価格・販売を管理する王連は、蜀漢の「財布」をにぎる。財政を潤す反面、民間経済に負担。「軍需をよく補給し、民を疲弊させた」と評価。王連は財源のためには南征を不要とし、諸葛亮の風土病を怖れた。柿沼p197

225年、諸葛亮は漢帝国由来の鼓吹曲で、南征に出発。打楽器と吹奏楽器による合奏形式の特別な歌曲。皇帝出御に演奏する荘厳なメロディで、諸葛亮は特例として前後二部の鼓吹隊で出陣することを許された(増田一九七五)。伶人(専門の演奏隊)は前後二部に分かれ、四十人程度。柿沼p198
魏・呉も漢代の鼓吹曲十八曲をつぎ、歌詞をかえて自国の雄渾さを歌う。蜀漢の鼓吹曲は、魏・呉とメロディは同じで歌詞が異なり、漢代以来のものを継承(劉邦の偉業に始まる)。諸葛亮の最初の目標は雍闓。雍闓は孟獲に命じ、蜀漢が難題をふっかけたと偽り、益州・越嶲・牂牁・永昌を反乱軍に。柿沼p199

孫呉の後ろ盾を失った反乱軍は、高定が雍闓を殺し、孟獲が反乱主に。諸葛亮は高定を斬り、孟獲を七たび赦す。『三国志』にみえず『華陽国志』にみえる故事。地理・歴史・人物にかんする「ふるさと自慢」の書であるが、信憑性は低くない。諸葛亮本隊の南下は、せいぜい滇池・昆明付近までか。柿沼p200
近年、保山市や西昌市の墓からセン(レンガ)が出土。蜀漢の紀年である「延熙」二字がみえる。諸葛亮がじかに赴いたかはともかく、蜀漢の影響ははるか遠方の大理盆地以西まで達した。柿沼p200

塩鉄・金銀は南蛮西南夷の既得権益で、承諾を得ねば確保できない。課税・徴兵をする必要もある。蜀末に劉禅の逃亡計画が断念されたように、南蛮西南夷に重荷を背負わせた。ただし諸葛亮の南征後、大規模な反乱が減ったのも事実。「生かさず殺さず」で物的・人的資源を搾取する仕組みを作った。柿沼p201
南蛮西南夷は血縁関係を重視。漢人が彼らを服従させるには、婚姻を結ぶか、擬制的な血縁関係を結ぶべき。関係を継続するには、さらに有形・無形の贈与をし、盟誓に基づく信頼関係を築かねば。将軍を派遣して鎮圧するだけでなく、諸葛亮が武威を示し、直接ほどこして盟誓を結ぶ必要があった。柿沼p201

孟獲ら反乱の指導者を赦す。夷人の精鋭部隊と一万余家を成都に移住させ、五部に分けて一致団結を防ぐ。昆明付近の弱体化と、成都付近の強化となる、強幹弱枝政策。
地元に残った弱小な人々を、実力者(大姓)にふりわけ、その部曲(従属集団)とした。大姓に黄金・絹織物を上納させ、大姓には、服従せぬ夷人と婚姻させ、血縁関係に基づいて山間部に点在する村を管轄させた。
有力種族の中心人物を、官吏として代々抜擢し、彼らを通じて人的・物的資源を管理させた。また庲降都督を設置して統治させた。諸葛亮の大義は、物的・人的犠牲を必要とし、南蛮西南夷は土台を担わされた。柿沼p203

諸葛亮の人的・物的徴発を受けた南蛮西南夷の苦しみは歴史書になく、忘れられた。数百年後、本土で諸葛亮が神格化されると、皮肉にも諸葛亮を崇める。祖先が支配されたことを嬉々と語る。木鹿大王や金環三結といった『演義』の登場人物を、祖先と見なす種族も登場する(柿沼二〇一八B)柿沼p203

北伐_p205

出師の表は、独裁者としての横顔が見える。臣下が劉禅に仕えるのは劉禅個人の徳を慕うからでないと「上から目線」。勝手に法律をいじくることを諫める。宮中内政を郭攸之らに一任し、独りで判断するな。諸葛亮自身は謹厳実直と自画自賛し、あくまで先帝劉備の恩徳ためで、劉禅は二の次。柿沼p210
出師の表は劉禅に、遺言に従えと釘を刺した。現代日本人にはありえる諫言に見えるが、当時の皇帝は全てに決定権があり、諸葛亮の言説は踏みこんだもの。従順な忠臣というより、劉備への「忠」を掲げ、君主劉禅の行動を掣肘し、独裁をいとわぬ臣下(渡邉一九九八)。柿沼p212

絹織物(蜀錦)は特産品で曹操も欲した。「錦官」を設け、民間製造者と商人とを統制下におき、絹織物の生産・貿易を担わせた(佐藤一九七七)。曹魏や孫呉にも輸出され、大きな貿易黒字をあげ、政治的な駆け引きの道具にもされた。柿沼p212

南中諸郡は賦税と兵役が課せられ、益州本土の経済的負担が減った。益州出身者は、曹魏に恨みがなく、中原進出を望まぬが、彼らが北伐に反対しなかった理由は負担の軽さ(渡邉二〇〇四)。出師の表で、南方平定と益州疲弊を言う。南征の利益は民の生活に諫言されず、もっぱら北伐の軍資金。柿沼p213

隆中対のもくろみでは、益州・荊州を確保して内政に取り組み、孫呉と提携すれば、曹魏に匹敵する国力を期待できた。人口比・領土比は圧倒的で、内政に従事しても時間の経過で国力差が広がる一方。その点は二二八年の後出師の表で指摘され、偽作の疑いもあるが、魏晋期の作とは確実で、実情を反映。p214

後出師の表の真偽問題は、諸葛亮自身が書いたかという問題に置き換えられる。提出された時期の記述と内容の整合性なども問題になるか。結論は出ないかも知れない。でも、「魏晋期における、蜀の政治や国力の認識を反映しているテキスト」とまで引けば、史料として依拠しうるか。距離の設定の仕方次第。

人口統計を使うと、蜀漢の兵は十万。輜重部隊を抜くと、実戦部隊はせいぜい数万。ほかに四万の官吏。
労役者の多くは月単位で交代する輪番制なので、常時稼働した人数でない(廣瀬二〇一〇)。官吏も正規(員吏)と非正規(非員吏)の別がある(楊二〇一五、宮宅二〇一二)。

蜀の戸籍登録人口は百万前後。これは地主の申告値で、より多くが地主の支配下にいたが。中央政府は、百万の人口・十万の兵卒・四万の官吏を抱え、この数値を基盤に財政運営。総人口の六、七人に一人が官吏や兵卒。現代中国でいえば二億に相当し、率直に異常と言わざるをえない。
前漢は総人口五千万に対し、官吏十二~十三万、労役一五〇万、兵役七十万~八十万が常時働いたが、それと比較しても多い。兵数には予備役も含まれる(常備兵が更に減る)。蜀漢にも輪番制はあったが、連年の対外遠征で六万~八万が派兵され、最盛期には十万。毎年、総人口の十分の一以上の兵士を動員。
魏の司馬懿の軍が三十万に達するとき、蜀では更(輪番制)で十分の二が休養し、現有は八万。交替時期が到来し、諸葛亮は輪番制を遵守しようとしたが、兵士は誠実さに打たれて戦場に残り、魏に大勝したという。諸葛亮を熱烈に支持した西晋の郭沖の記録だが、皮肉にも蜀のブラックぶりを示唆。柿沼p215

外征時は略奪するにしても、平時は屯田政策で戦争費用を捻出。最前線基地の漢中は、十五万人の成年男女。督農(監督官)のもと、毎年六百万斛以上を生産(斛=20L)。兵士十万の一年分の食糧(衣料費がわりに支払われる穀物を含む)で、兵士一人あたり毎日1.64斗(斗=2L)が支給された。
益州や南中の物産に加え、一年以上の軍糧準備期間を置けば、次年度に大規模な軍事遠征が可能となる。また事前に一年以上の準備期間がない場合、敵地の屯田・略奪が不可欠。敵地で屯田するなら、春の播種期前に出陣すべきで、五丈原は二月に漢中を出発。略奪は収穫後の冬で、陳倉包囲戦が該当。柿沼p217

諸葛亮は北伐時にたびたび戦略を変更した。魏の領土を削りとれないとき、民や周辺蛮族を拉致して漢中に移植し、国内の戦意高揚を図った。周辺住民の拉致は、のちに蜀将姜維も行い、原住民に相当な負担をかけたが、諸葛亮・姜維は北伐の財源確保に必死であった。柿沼p217

◆二三九年の北伐
経済史と地政学から北伐を説明。漢中と長安のあいだに秦嶺山脈。乾燥地帯(華北)と湿潤地帯(華中・華南)の境界線。秦嶺=淮河線。
第一次北伐は祁山道を選ぶ。趙雲・鄧芝を陽動とし、褒谷道から郿を狙うと喧伝。曹真はだまされて郿に布陣。諸葛亮の主力は障害もなく祁山道から、要衝祁山に到達。
祁山道は目的地の長安からもっとも遠い道を選んだ。一部の史料にたよって全体を類推しようとすれば、諸葛亮の意図がつかめない。諸葛亮は、魏軍との正面衝突を避け、つねに相手方の兵力分散化を目論んだと分かる。柿沼p219

祁山道を選ぶ背景には、二二七年の劉禅の詔がある。涼州の諸国王が派遣した支富は、月支(中央アジアのパミール高原西側にすむ遊牧民の大月氏)の商人をひきい、康植は康国(サマルカンド)の軍団をひきい、涼州に散在する西域商人集団を統括。蜀とも提携を図る(森安二〇〇七)。サマルカンドから援軍はこないので、涼州に散在する中央アジア系の人びとが蜀漢に加勢したということ。安定郡に月支城があり、この時期に曹魏にそむいたため、彼らの居場所はこのあたりか。諸葛亮は西方に迂回し、支富や康植の援軍を得やすい涼州方面に進出した。柿沼p221

孟達が優柔不断なので、諸葛亮がわざと曹魏側に漏洩し、反乱に仕向けたとも。呉と連携して孟達をサポート。呉に派兵依頼(石亭の戦い)。諸葛亮は、反復常なき孟達を葬ろうとしたとも言われるが、魏の注意が西域諸国・孫呉・孟達にさかれると、蜀にさく兵力が減少し、局地戦で凌駕する可能性が出る。
ランチェスター第二法則(連弩のように、複数の的を攻撃できる場合)は、大軍は寡兵より少ない犠牲で、寡兵を壊滅できる。自軍を分散させず、相手を分散させ、局地戦で各個撃破するのが望ましい。孫子にも見える。だから諸葛亮は祁山を選び、祁山における蜀軍は魏軍を上回った。柿沼p222

孟達が司馬懿に敗れ、呉は魏を破って帰還したが、西羌と西域集団の軍勢は味方で、諸葛の計画の内。祁山は、合肥・襄陽とならぶ魏の重要防衛拠点。祁山城は、東西に走る二筋の山脈にはさまれた平原に屹立、これを陥とさねば進めず。祁山堡の南南東1.5キロの山上(観陣堡)に布陣、祁山を睥睨して攻撃。祁山に出ると、南安・天水・安定が降伏。秦嶺以北は、蜀の攻撃を予想せず。魏の中央も、辛毗・孫資は注意をはらったが、荊州に司馬懿を配したのみで、長安以西の守りは不充分。西域諸国が来寇する可能性もあり、三郡は勝てないと判断。西羌が跋扈し、魏とトラブルを起こしていた地域。柿沼p224
南安郡は、早々に蜀兵(南安に降伏を促しにきた者)と連携し、左隣の隴西郡を攻めた。隴西郡以西の枹罕県では、西羌の唐テイが蜀漢の味方に。

街亭の所在は所説あり。隴城鎮あたり(徐二〇〇〇)か、祁山付近(孫二〇一七)とされ、後説の祁山付近の可能性が高い。理由は4つ。
①諸葛亮の本営は街亭から数里とされ(『袁子正論』)、一里は500メートル。②祁山から上邽郡は240里あり(『水経注』漾水)、隴城鎮は上邽郡のさらに東北にある。③魏の上邽郡城は陥落しておらず、蜀軍が飛び越えて隴城鎮に出られない。④街亭=隴城鎮の説は、後世の史料に基づく。
即断を避け、新旧両説(新は祁山、旧は隴城鎮)の可能性を念頭におく。対する魏は、明帝が猛暑の出陣を避け、季節外れの大水・旱魃、洛陽宮殿の修築費がかさみ、苦境。柿沼p225

馬謖伝によると、馬謖は先鋒。つまり最終目標は街亭より先にある。奇しくも、隴城鎮も祁山も、意味は異なるが大きな戦略的意味をもつ。長安を狙うには、祁山から上邽を抜け、東進するのが一番早い。陳倉渭水の道。現に、魏軍はこの道を使用し、隘路ながら軍隊も通過できた(徐二〇〇〇)。柿沼p226
迂回路から魏軍を分散させるなら、陳倉渭水道の北側に、六盤山脈を抜けることができる隴山道がある(道沿いに隴城鎮)。蜀に帰順した安定郡は六盤山脈の東にあり、祁山から安定郡に向かうにも隴城鎮の通過は必須。ゆえに蜀が上邽を越えたら、つぎに隴城を確保しにいく可能性が高い。柿沼p227

以上の街亭=隴城鎮説に対し、街亭=祁山説の場合は、諸葛亮は魏軍の籠もる祁山を攻撃しており、そこに援軍が到着されては困る。先鋒として馬謖を派遣し、援軍を防がせたと考えられる。

どちらの説も、戦略的には有効である。趙雲・鄧芝の陽動が成功すれば、街亭を通過できたかも知れない。これにも情報が漏れたよう。
寡兵ゆえに敗北が許されて当然であるが、戦後に降格されており、漏れが関わっていた可能性がある。趙雲とぶつかった魏軍は蜀軍より少ないとの記録もあり、曹真は陽動に気づいていたふしがある。柿沼p228

魏は馬謖軍を察知し、張郃五万を向け、馬謖軍を凌駕。諸葛亮の計算ミスで、馬謖は寡兵で防ぐ計略が求められた。すでに蜀は使者を遣って南安郡を降し、南安は隴西を攻撃。隴西太守遊楚は抵抗したが、遊楚によると、馬謖があと数十日ねばれば、上邽軍以西の地域全体が蜀になびく可能性があった。柿沼p229
諸葛亮は馬謖を斬罪とした。柳城の高翔や、蜀にくみした西羌の唐テイも、雍州刺史の郭淮に各個撃破され、南安郡も涼州刺史の徐邈に奪取された。

街亭経由で張郃が南下。正面衝突では犠牲が大きすぎ、もはや安定は救えず、南安派兵の余裕もない。曹真の漢中侵攻の怖れも。魏軍分散に失敗し、全軍撤退。
祁山道沿いに西県の住民一千余家を漢中に拉致し、趙雲らも褒谷旧道の賛同を焼き払い、追撃を阻止して格好を付けた。だが、孟達を失い、西域・西羌の期待に応えられず、奇襲をしくじった。
二二九年十二月、大月氏王の波調が魏に入朝して王に冊封されるなど、西域は魏に味方し始めた。柿沼p230

◆二三九年十二月の北伐
諸葛瑾と文通して、陳倉道を通過。郝昭の陳倉城を落とせず、二十余日後、曹真が費耀を救援に送り、諸葛亮は撤退。張郃によると、撤退の原因は食糧不足。陳倉は、名のとおり穀倉を擁し、十二月には莫大な収穫物が貯蔵されていたはず。柿沼p231

陳倉での略奪が前提ならば、手持ちの食糧は少なかったか。

陳倉攻撃の1ヵ月後、漢中西方の陰平・武都を攻略。陳倉と無関係とも、陳倉を陽動とした一連の北伐とも。攻略準備には数ヵ月を要し、陳倉戦の期間中に軍隊を召集する必要があるため、一連とみるべき。ただし、陳倉は貯蔵食糧の獲得が目的で、陰平・武都は漢中の守りが目的なので、別の戦いとも言える。

武都・陰平は、白馬羌がおり、曹操の漢中攻略以来、魏に服属。少数で山地にいる白馬羌は、蜀の脅威ではないが、北伐中に手薄な漢中盆地を侵攻されたらな厄介。白馬羌は冬の寒さを避け、下山して蜀で賃労働しており、漢中の地理に詳しい。北伐二連敗の諸葛亮は、白馬羌に勝ってメンツを回復。柿沼p232

◆二三一年の北伐
二三一年二月は祁山道を選択。長安以西には備蓄食糧が少ないので、郭淮は西羌を説き伏せ、食糧と輸送用労役者を捻出させた。蜀は木牛で運搬したが、夏から秋の長雨で食糧輸送に障害が出て撤退。諸葛亮に次ぐ権力者である李厳は、戦後に責任逃れして失脚した。p233
司馬懿が前線にたち、費曜・戴陵に上邽を守らせ、全軍で祁山へ。
今回の決戦の記述は、史料ごとに異なる。
『漢晋春秋』は、蜀が魏の将軍を破り、上邽の麦を刈り、上邽の東で司馬懿と遭遇。司馬懿が籠城すると、諸葛が祁山に退く。司馬懿が追撃すると、諸葛が大勝し、首級三千など。
王沈『魏書』は、上邽の麦を魏が刈り取り、蜀は輜重部隊がなく、上邽の麦も得られず、祁山に撤退。『晋書』でも、蜀は上邽の麦を得られず、さらに司馬懿が闇夜に、祁山から撤退した諸葛亮を追撃し、一万以上の蜀兵の首級を得た。戦果報告はかくも曖昧、誇張した可能性がある。柿沼p234
司馬懿側の戦果報告はとくに曖昧。諸葛は街亭敗戦で降格したが、今回の責任は李厳に帰された。諸葛が大敗したとは思えない。
『漢晋春秋』にも疑問あり。二月に出陣し、当初は漢中からの食糧に頼り、さらに上邽で麦を収穫。食糧難でない可能性がある。李厳が、任務を怠ったか疑わしい。李厳に食糧輸送を委ねたのは諸葛。周囲もいぶかる人事。李厳は、江州(永安)に巨大な城・精兵を有し、漢中に赴くことを嫌がった。李厳は最後まで罪の意識をもたず、食糧難はないと言った。諸葛と李厳が対立して(田二〇〇四)、諸葛が李厳を嵌めたかも。江州軍閥は解体、諸葛の独裁が強まる。柿沼p236

◆二三四年の北伐
二三四年四月、諸葛は歩隲と文通して連携を図り、褒谷道を選択。『晋書』は司馬懿が、諸葛が野戦を挑むこと、次の北伐が三年後と見抜いていたとする。三年のブランクは、食糧事情。褒谷道は、趙雲・鄧芝が陽動で通り、桟道を破壊した道。桟道を補修し、奇襲の形で五丈原に出陣。柿沼p237
当面は流馬で輸送し、五丈原で屯田。食糧運搬には牛を用いるが、農耕に必須な貴重品なので、牛車は農閑期に限られる。だが木牛・流馬は人力車で(王二〇一五)、農繁期にも食糧輸送できる。

魏将は渭水北岸に布陣を主張したが、司馬懿は民の食糧が渭水南岸に蓄積されているため、南岸に布陣=背水の陣。司馬懿「諸葛が勇者なら、武功方面に向かい、山脈沿いに東進する」と。諸葛が武功に行けば、司馬懿は南下して糧道を断つか、東進を食いとめるしかなく、背水の陣で死闘せざるを得ない。
諸葛が虎歩(精鋭部隊)を斜谷東方の高台に展開して守備を固め、みずから五丈原に。司馬懿は、諸葛に死闘の覚悟がないと察知。司馬懿は、周当を陽遂(五丈原の東)に、胡遵・郭淮を北原(五丈原の北)に派遣。諸葛は南中出身の孟琰を斜谷の東(武功水の東)に進めるが、進撃は止まる(水経注)。柿沼p238

諸葛は素輿(飾りのない輿)・葛巾(フェルトの巾)・毛扇で指揮(東晋の裴啓『語林』)。諸葛は日に三、四升(0.6~0.8L)の粟。刑徒さえ六升以上を食べていたのに。
二三四年八月、屯田の収穫が近づくさなか、諸葛が陣没。楊儀は褒谷道から退却。楊儀が軍を反転させると、魏軍は追撃を停止。柿沼p239
軍事物資を放置して逃走する蜀軍をみて、ふたたび司馬懿が追撃。道沿いにトゲのある植物が繁茂していたので、兵士に木靴を履かせてトゲを付着させ、そのうえで馬を歩かせるという慎重さ。司馬懿は赤崖まで追撃して退却。諸葛の北伐は終わった。柿沼p240

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読みながら考えたこと

土地や生産手段でも、学識や文化教養でも、持てる者と持たざる者のあいだには、絶望的な断絶がある。持てる者は、持たざる者の心や幸福を無視し、己の利のために利用する。持てる者が、断絶の存在を暴露したりしない。なぜなら、断絶があることを持たざる者に気づかせるのは、持てる者にとって得策でないから。持たざる者は、持てる者に自分を投影して満足し、断絶に気づこうとしない。
例外的に、(良識もしくは、なんらかの目的をもつ)持てる者の一部が、持たざる者に向けて、「断絶がありますよ」と注意喚起する。この注意喚起は、トータルでは、持てる者階級の利益を損なうにも関わらず。
劉備や諸葛亮を自己都合で英雄視する、持てる階級。劉備や諸葛亮に己を投影する、持たざる階級。そういう見通しをもって、劉備と諸葛亮の実像を注意喚起する本がある…という構図。

持たざる階級が、「持てる連中が、われわれを欺いている」と遠吠えしても、説得力なし。持てる階級が、自身の属する文化圏の特性や、既得権益を隠さずに言及し、断絶・分断の存在を知らしめ、持たざる階級に気づきを促すのだけが有効。この一方通行は「不公平」ですが、そういうものだから仕方がない。

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今日の社会は、社会的存在感の測定基準として、カネが(恐らく過剰に)重要視される。にも関わらず、三国志を理解するときは、正統性(スローガンの整合性)・武力や政治力(ゲーム的数値)・家柄や名声・肩書きの権限の範囲に着目しがちで、経済的基盤=カネという尺度が見落とされてきた気がします。
カネの詳細が史料にないと言うなら、柿沼先生の研究に拠れば分かることが多い。
というか、史料にない要素からの三国志読解は、他の尺度でやってるのに。「三国志を読むときくらい、カネの話を忘れたい」という現実逃避は成り立つが、カネに鋭敏なわれわれが、カネの観点を使わないのは感性の持ち腐れ。
「カネ勘定の『三国志』」という観点が、三国志読解の主流・流行になれば、経理職の会社員として、毎日カネの話ばっかりしているので、親和的だし嬉しいです。実生活で文化資本からは疎外されており、その潮流から三国志が説明されるのが、主流であるときは、ちょっと不得意でした(でもネット上での諸氏の、評判の浮き沈みと対照するのも楽しい)。

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柿沼先生の『劉備と諸葛亮』において、ライバルの曹操や司馬懿は、誤解を招くレッテルを貼れば、「善玉」扱い。曹操は経済政策を成功させ、司馬懿は民の食料庫を守るため自軍を背水に追いこみ、木靴で植物のトゲを除いて馬の蹄を守った。敢えて言及され、敢えて逸話が紹介されています。
曹操・司馬懿のようにカネが潤沢なら、民や兵を思いやる余裕がある。
劉備・諸葛亮は、いくら漢室再興の理想をうたいあげても、肝腎のカネがないと、民や兵を思いやることができない。民や兵、異民族を搾取して酷使する「ブラック」国家にならざるを得ない。国家財政と民間経済は敵対してしまうと。

「ブラック」国家の蜀漢と同じ悲劇は、今日の企業でも起きていないか点検したくなります。経営者が理念を掲げるのは結構。身の丈にあわぬ理念が、社員に失笑されて空文化されているうちは、むしろ健全。理念に邁進し、客先や仕入先に迷惑をかけ、社員をつぶし、法令違反をしてませんか?という話でしょうか。

『劉備と諸葛亮』のカネ観点からの三国志の歴史小説が書けそうです。主人公は益州出身者にして、劉璋、劉備、諸葛亮の時代を臣下として生き抜く。だんだん、理念先行で、カネが貧しく、被支配者の民も兵士も官吏も、経済生活にムリが出て、幸福度が下がっていく話。会社員にこそ、書ける話では。


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歴史家は「実際にどうであったか」と常に問うが、唯一解に到達できず、真実性の検証も困難。宗教家が「死後どうなるか」を常に問うが、生者同士では正解を出せないのと、構造的に同じです。歴史家は、自身が属する時代的文脈からは自由になれない。一般向け「商業誌」では、今日性の要請・制約が強まる。
歴史研究者である著者が、あとがきで「編集者の要望で、流行の切り口を意識せざるを得なかった」とか「やや行きすぎにも思われるが、図式化・単純化を避けられなかった」とか、弁明する一節を探すまでもない。すべての歴史叙述は、時代的な文脈のもとに置かれ、歴史家にとって当たり前のことだと思う。書くとしても、「言わずもがな」という感じだろうし、書かないとしても、そんなの当たり前だから、敢えて言わなくてもいいだろう、という判断が働いていると思う。
だから、上記のような弁明を見つけ、鬼の首を取ったように、「この本は、そういう俗的な偏向があるから、価値が損なわれている」と批判するのは的外れ。逆に、上記のような弁明がないからと、「著者は、『実際はどうであったか』という歴史叙述に成功したと自任しているようだ。傲慢だ」と批判するのも的外れ。

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カネ勘定の『三国志』をやるなら、劉備・諸葛亮の財源、被支配層の幸福度も興味ありますけど、彼らの政策が、GDPを増加させるか否かで「評価」してみるのも楽しそう。蜀漢のGDPは、諸葛亮によってすごく増加したはず。戦争は、疲弊者を出す反面で、経済を大きくする。「正義論」とは軸が異なる。
蜀としてのGDPそうですし、天下というか、旧後漢(のちの西晋)のトータルで見たとき、諸葛亮によって、GDPは増えたのか減ったのか、という功罪を見る。「功」「罪」という尺度でいいのか、という批判は想定されますけど、そういう視角の設定なので、受け入れてください、と言うしかないでしょう。

経営者の理念とカネ、労働者の幸福。これらは対立するか、協調しうるか。かんたんに答えは出ない、永遠のテーマです。
問題のありようが、会社ごとに(同じ会社でも、部署や立場ごとに)異なります。柿沼先生の『劉備と諸葛亮』は、蜀漢を現代的な問題に引きつける視点と、判断材料を提示している本です。当然、簡単に答えは出ません。それでいいのです。読後は、ぼくらが考えるターン。

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経営戦略としての諸葛亮の隆中対は、かなりマズイ。領土や外交、軍事はともあれ、「漢室再興」という前提は効率が最悪。
後漢の斜陽は理由なきことではないし、曹操の覇権確立を知っていて、あえて挑むのは歪んだ発想。例えば今日、町工場再建のため、ガラケー製造による市場制覇を計画するようなもの。
関係者を無用なリスクにさらし、取引先に厳しい交渉を仕掛け、ときに騙し、従業員は私生活を諦める。超人的な有能さと幸運があれば、市場で存在感を持てるかも知れない。しかし、既存の業界標準の大企業に正面から挑めば、成功確率が低く、犠牲も大きい。やる必要性はあるの?という問いが付きまとう。

『蒼天航路』で、諸葛亮の友達?の仙人?が、長阪で劉備に「お前が死んだら、天下が治まる」と言った。きっとその通りで、劉備が生き残ったせいで、いかに天下に弊害があったか…、より弊害の濃いところでは、蜀漢の支配下でいかに経済的負担が掛かったか、が明らかになったのです。柿沼先生の新書で。
ぼくらは、就職先を自由に選べる(少なくとも辞められる)。これは西洋?が勝ち取ってきた「特権」でしょうか。もしも事実上、辞める権利がない社会環境で、意欲あふれる社長が「レッドオーシャンを泳ぎ切る!」と目標をかかげ、滅私的な働き方を要求してきたら、それはもう悲劇です。まるで蜀漢。

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柿沼先生に導かれ、魏や蜀の皇帝を「経営者」として見た場合、なにが言えるか。
「全ての経営者は、従業員から搾取して事業をしているから悪質である」というのは極端だと思います。たしかに経営は、搾取というか、価値を偏在させないと成り立たないわけですが、それ自体を悪とすれば、集団による営みが成り立たない。
「魏も、蜀も、経営者には違いない。彼らのやっていることは、同じだ。同じように、被支配者を虐げているんだ」という話には、同意しかねます。
賃金水準が低く、労働負荷が高い会社の経営者が、単純に「悪」とは決めつけられません。でも、経営体力から大きく乖離した理念を掲げ、経営者がそれをマジで実現しようとすると、労働者がムリを強いられ、不幸になりやすい。蜀漢はその傾向が強いと思うので、柿沼先生の本は頷きながら読みました。

「会社がもうかってないんだから、きみの給料を増やせるわけがない。給料を増やしたければ、文句を言ってないで、きみが利益をもたらしたまえ。ただし、貢献の全額を還元はできないよ」と言われて、やる気が出る会社員は少ないと思いますが、経営者としては公正妥当な言い分。経営者が諸葛亮でも同じ。
それでも、北伐事業を可能にした諸葛亮はすごい、と一周まわって還ってくる。「志がすごい」ではなく、「理念先行の経営者として、ひどく独裁的に振る舞い、志を押し売りをしたが、その押し売りに成功した」ところがすごい。諸政策、仕組みづくりに加え、きっと人格・人望もすごい。

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隆中対が「マズイ」と書いた件について、掘り下げです。
漢室復興の看板は、政治的に正しく、ことに曹操に対抗するにはこの看板が必要です。しかし、名目や理念に傾きすぎると、経営が破綻しかねません。外食チェーンが「飢餓の撲滅」を掲げるが、食糧を無償で配りまくることはない。そんなことしたら、倒産します。理念を維持したまま、巧妙にずらしてゆく。
ずらし方の巧拙はありましたが、「理念を掲げてるから、エライ」でも、「理念が高邁ではないから、ダメ」でもない。

劉焉・劉表は、なしくずしで理念を換骨奪胎しようとした。漢魏革命は、理念と経営の折衷・止揚に成功している。蜀漢も、隆中対の当初の「献帝の救出」から、劉備の皇帝即位へと、外部環境に沿ってスライドさせたが、現実(国力の弱さ)との乖離は依然として大きく、達成活動はブラックになった。
現実において、ほぼ文句が付かなかったはずの袁術(新王朝を樹立するだけの第一人者としての国力があった)が、なぜか?爆死したので、理念(名分、正統性)と現実(理念に向けた経営)を整合させ、説明することへの要請が高まった。ゲームの難易度が上がった。「北伐をしない蜀漢は存在意義がない」とか、ステークホルダーから厳しいことを言われるようになった時代。
ぎゃくに、そのゲームを利用すれば、国力が劣っても、スローガンだけで国が存在できる時代、ということもできます。180526

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