両晋- > 金井之忠『唐代の史学思想』を読む

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1.唐代史学の成立

唐代史学における特異点としての『晋書』の性質について、その誕生に至るまでの史学の変遷、そして誕生後の史学の落ち着きどころまで含めて、総合的に学ぶ。金井之忠氏が一九四〇年に著した概説書に沿って確認する。
金井之忠『唐代の史学思想』(弘文堂書房、一九四〇年)一 五朝史と晋書 附南北史(1)より。

唐代史学の開始

唐の受禅した直後、武徳四(六二一)年、令孤徳棻は、高祖李淵に歴史の撰修をすすめた。梁・陳・斉は、文籍が残っているが、周・隋は遺闕している。あと数十年で、なにも分からなくなるのではと。武徳五年、詔して前代六朝の歴史を撰させることにした。
それまで、前朝の歴史を、つぎの時代に歴史家が個人として撰することが普通である。しかし南北朝にいたり、国家みずから国家の歴史を撰するようになった。梁の沈約『宋書』、北斉の魏収『魏書』らである。この傾向は、隋に大成された。史館が国家の組織のなかで独立し、勅撰書『斉史』が作られた。史学が学問として独立し、経学と並び存するようになった時代であった。

目録学から見た史学の独立

劉向・劉歆がつくった『七略』は目録学の祖。班固の『漢書』芸文志に、載せられている。『史記』や『楚漢春秋』は、六経の春秋のうちに分類され、史学は独立した一科をなしていなかった。
三国魏の秘書郎の鄭黙は、朝廷の蔵書目録「中経」をさだめ、秘書監の荀勗が「新簿」をつくった。乙部のなかに「史記旧事皇覧簿雑事」があるが、分類の理由や細部はともに不明。
宋の秘書丞の王倹が目録をつくり、「七志」を撰したが、史学は独立せず、なお経典志に分類されている。梁の阮孝緒は「七録」をつくり、「記伝録 史伝」があり、経学に対して独立した。

国家は、組織のなかで史書を撰修するようになり、史官の制が確立してくる。南朝宋の文帝は、貴族の子弟を教化するため四学を建て、史学は、経学・玄素学・文学と並んで、対等の地位を占める。
なぜ史学が(目録学・組織の両面で)国家によって確立したか。①分離した多くの王朝が各種の歴史をつくった、②王朝の興亡により、漢帝国のように、儒術主義で社会文化を拘束する力がない。③江南の漢族文明では、王朝の興亡と無関係に(貴族が)伝統をたもち、王室に力がないので、記録の性質を多種多様にした。④書物の材料となる紙が、一般に普及した。p5
これに加えて、
漢族文明において、『尚書』『詩経』『春秋』らがもはや歴史的な伝統とは考えられず、ただ古典としてのみ存することとなり、新たな歴史的伝統への要求が、史学に向かってなされた。また、複雑になりつつある国家社会が、実際の必要により、歴史的知識を要求した。

『隋書』経籍志と劉知幾『史通』

これらの集大成により、隋唐時代に渾然としてその統一的制度にあらわれた。国家組織のうえにおいて、完備する史官の制および修史の制度がつくられた。一般史学を重んじる風潮は、隋唐で完成された人材登用制度にも影響をおよぼし、一史三史(史記・漢書・後漢書)らの科が出てくる。

◆『隋書』経籍志
具体的には、いかなる史書があったか。『隋書』経籍志でみる。
開皇三年、秘書監の牛弘が、上表して異本の調査を請願した。国家が書物を絹で買い上げたので、経籍が集まった。史部は、
①『史記』『漢書』をついで陳寿『三国志』以来、これにならい一王朝の歴史が数十家に至った。②古史『左伝』の流れをひく編年体。晋の時代、戦国魏の襄王の冢から出た「紀年」もこの形。歴史の古い形。③雑史。紀伝体・編年体ではなく、学者が見聞するところを記して遺亡に備えたもの。④覇史。五胡十六国の諸国の歴史。⑤起居注。後漢末および晋朝以来、近侍の臣が帝王の言動を記した。晋のとき得た、汲冢書の「穆天子伝」もこれ。周のとき内史が記した。⑥旧事篇。歴朝の品式章程の故事旧事。⑦職官篇。歴代の官曹名品。⑧儀注篇。⑨刑法篇。⑩雑伝、漢の劉向の「列仙」「列士」「列女伝」や、後漢の光武帝が故郷の南陽のひとを表章するために作らせた『南陽風俗伝』など。⑪地理記。⑫簿録篇、目録の書。

◆劉知幾『史通』
『隋書』経籍志が整理された約七十年後、劉知幾が『史通』で史書を分類する。正史(経籍志の①正史と②古史)を重視し、国家の修史をあくまで主張する。正史以外の史籍は、『史通』雑述篇に述べており、これらは実録を伝え、史の闕を補うことができる点もあるが、鄙言偏見がおおい。しかし史を志すものは、これらにも一応は通じなければいけないと。

史書の分類は、『隋書』経籍志→『史通』の流れ。


『隋書』経籍志に比べると、『史通』が述べる書物は、範囲がはるかに狭く、分類が細かい。これは劉知幾が正史を重く考えたためだが、なお『隋書』経籍志が編せられた唐初の史学と、劉知幾の時代の史学との差異は認めねばならない。
秦漢帝国の統一が破れたのち、史学は複雑に発達したが、隋唐帝国により一定の方向をもった。経籍志が正史の目を新たに建て、『史通』がこれを強調したのは、その傾向のあらわれ。史学は、この方向に対して純粋性をもとめ、その範囲をせばめ、理論を発展させるために、分類の目が次第に細密になった

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2.五朝史と五代史志

唐代における正史の編纂

令孤徳棻の上議により、武徳五年、詔が発せられ、「魏史」「周史」「隋史」、「梁史」「斉史」「陳史」をそれぞれ撰修することになった。しかし、国家が安定しておらず、失敗した。
太宗の貞観三年、ふたたび着手し、中書に秘書内省をおいて修史をさせ、「魏書」を除いた五朝の歴史を貞観十年に完成させた。これを「五朝史」という。これらの書は、なお書志に欠いていたので、高宗の顕慶元年、長孫無忌らは「五代史志」を撰して提出した。これは、『隋書』に附されている
これにて、唐帝国の史学は、前朝の歴史の撰修を完成させた。史学の根本と認められた正史は(それを体現した具体的な史書の作成により)、唐代史学の特質をひとまず提示した。

唐修『梁書』の特質

『梁書』の内容を細述し、五朝史全般の特質を考える。

『梁書』を代表させて、五朝史を説明しているというのは、この本の独特の方法。清の趙翼が『梁書』を評したものに従い、分析されてゆく。ここに掲げられている五朝史の傾向は『晋書』に継承され、欠点が克服されていくというのが、金井氏の文脈。

魏徴・姚思廉が、勅を奉じて撰した。魏徴は、監修し一部の論賛を参定しただけで、おもに姚思廉が作成した。

『梁書』は、姚思廉が父の姚察の著作にもとづいて作ったので、梁の国家の史官が編纂した国史をもとにした。列伝は、まず歴官、つぎに事績、おわりに飾終の詔をのせており、国史の体例である。
国史に記録のなかった人物には、『梁書』列伝に記載が欠けている。梁の国史の立場から列伝を立てなかった人物や、梁末にあって史館が記録をつくる暇がなく、つぎの陳に敵対したひとは、重要な人物であっても列伝がない。これを趙翼は大いなる欠陥としている。これは『南史』で補っている。

編次の体例(構成・編成)が不当である。梁の武帝の兄弟九人の伝を、武帝が即位したとき存命であり王に封建された五人と、すでに死去していた四人に分けている。これは、武帝の時代に撰する国史では意味があるが、後世には不要な区分である。
諸王と功臣の伝に、没後の加恩修終の詔を載せているが、これは国史の体例であり、正史ならば省くべきでった。しかも詔は、ほとんど同一である。
不要な止足伝があり、必要な方技伝がない。止足は、官吏としての出処進退に積極的でなかっただけで、良吏伝に入れるか、立伝が不要なものばかり。他方、梁は方技伝でつたえるべき人物が多かったはず。
金井氏が思うに、唐代史学の特色は、国史の精備にあったが、唐初の史学は(まだ)完成の途上にあった(立伝の不備がめだつ)。

『梁書』の本紀は、後梁を載せていない。西魏に降り、附庸(属国)として梁の名脈を続けた国である。もとの梁と反対の立場にあり、正統と認められなかった。
列伝第一として、皇后伝がある。これは、『後漢書』皇后本紀を改め、『宋書』が皇后を列伝の始めに置いた形式を次いだもの。以下の正史は、このかたちを次ぐ。

『後漢書』だけが孤立しているというべきか。

雑伝を設けることについて。①孝行伝。②儒林伝。③文学伝。④処士伝。⑤止足伝(現存の正史では、『梁書』独自の項目)。

ここに『梁書』儒林伝序の翻訳がある。はぶく。『隋書』文学伝序の翻訳がある。はぶく。『梁書』止足伝の序文の翻訳がある。はぶく。魚豢『魏略』、謝霊運『晋書』にも、『宋書』にも止足伝があった。それを踏まえると。

⑥良吏伝。ただし『梁書』に酷吏伝はない。⑦諸夷伝。
⑧『梁書』には、豫章王綜らの列伝がある。梁の王族でありながら、敵国に内通したり、反逆して僭号を立てた。侯景伝もここにある。「反臣伝」という名称ができるのは、後代のこと。『漢書』王莽伝を模したもの。『宋書』二兇伝も最後にあり、『漢書』を継ぐものであった。

『梁書』にみえた五朝史の特質が、唐の文運の隆盛とともに発展し、その結果が『晋書』の史学を生んだ。

金井氏は、『梁書』のほかに、『陳書』『北斉書』『周書』について概観する。『周書』はとくに残闕がはなはだしく、李延寿『南北史』によって補った。魏徴ら『隋書』も作られたが、現行の本は『五代史志』を編入したもの。


五代史志の完成

五代史は、貞観十五年、干志寧・李淳風・章安仁・李延寿らに志を作らせた。高宗の顕慶元年、長孫無忌によって提出された。十志は、礼義・音楽・律暦・天文・五行・食貨・刑法・百官・地理・経籍。

『隋書』巻二十一 志第十六 天文下に、五代災変応として、日食の記事も含んでいた。『晋書』天文志も同じである。

王室の存続とは、あるていど無関係に述べられる。五朝を通じてその志を作ったのは、きわめてよい方法。
五代史志が、『隋書』に附されているのは不自然でなく、集大成が隋帝国を形成しているがためだろう。志目は問題とすべき点は少なく、前史の例にならうが、経籍志は、『漢書』芸文志の以後、はじめて立てられたもの。百官志・地理志は、すこぶるよくできていると言われている。

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3.御撰『晋書』の成立

御撰『晋書』の編纂

貞観二十年閏三月、修史所において、『晋書』を更撰させることになった。
條例(どのような形式や体裁で記すかのルール)をたてたのは、令孤徳棻・敬播・李安期・李懐儼である。臧栄緒『晋書』をもととした。
できあがり早々、評判がわるい。小説である、『語林』『世説』『捜神記』『幽明録』を採用したため。ゆえに、唐代に作られた李善『文選注』、徐堅『初学記』、白居易の『六帖』は、王隠・何法盛ら『晋書』を用いている。

太宗は、陸機・王羲之の論を書き、太宗の好みに影響をうけ、文章芸術のにおいが強くあらわれた。『晋書』雑伝において「文苑伝最佳」といわれる所以である。

『晋書』が作られた動機

唐以前の正史は、個人の手による。五朝史は史官の撰修であるが、実際を考えるに、個人の手に成った感が深い。『晋書』は、まったく修史所の撰であって、しかも官撰の正史たる特色がある。

なぜ『晋書』が、唐で編纂されたのか。『史通』古今正史篇は理由をあげるが、理由が明白でない。太宗も筆をとり、相当の熱意を示している。単なる文化的行蹟をほこるための帝王の一時的な思いつきとは解せない。
『史通』にいうように、晋代の歴史は粉々として並存していた。『隋書』経籍志、正史の目にあって『晋書』の数がもっとも多い。
すでに五朝史の撰修において、五朝の正史は、唐の国家によって決定されていた。ゆえに、赫々たる文化を誇る唐の国家は、五朝以前の歴史においても、正史の根本となるべき歴史を決定せんと欲したのではあるまいか

『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』とすでに前四史は決定されており、その後にくるのは、晋の歴史である。前四史をつぐべき『晋書』を編纂しようと欲したのだろう。これらは、太宗の修晋書詔に明らかに窺うことができる。

この詔において、沈約『宋書』を、前四史とともにはっきり根本となるべき正史として認めているのは、注意すべきところである。p36

名分論のうえから言えば、五朝は並存し、唐の国家に比せられない。隋は、唐建国の立場から、必ずしも道徳的に称揚できない。かくして、唐帝国の史学の盛を示すに足るべき国家は、晋以外に求められない。

御撰『晋書』の特徴

『晋書』の義例は、主として敬播によるが、現存せず、その細を知ることはできない。その特質を考えてみる。
新たに立てられた体として、忠義伝・返逆伝・載記がある。

◆載記
載記は、五胡の諸勢力を書き表すため。実際の歴史事実から生じたものであり、秩序だった歴史の書き方として評判がいい。
ただし唐は、蛮族出身を秘して、西涼武昭王の李暠に仮託している。
『晋書』は国家的見識をもって、正史の基準をつくり、名分を正すことを主要な目的としている。漢族文明の地で、外国が並存しているという記述法は、絶対に不可である。かくして、五胡をあるていど認め、その歴史を述べつつ、正統国家たる晋の立場を不合理にしないため、載記という新しい史体を立てた。
しかして西涼の歴史は、載記として取り扱わず、名臣伝のあと、雑記のまえに独伝を立てて、唐王室の始祖に敬意を表した。

唐初に文中子『中説』という儒家の書がある。正統論に関する思想がある。
一、西晋滅亡後、真の正統と認めるべき国家はなかった。北魏の孝文帝が、漢族文明の保護者として君臨することとなり、はじめて正統国家が生じた。
二、孝文帝は、中原に君臨し、諸制度をもうけた。出身は蛮族であっても、正統国家と認めることができる。
三、唐は漢族文明の発展のうえにあり、その点で北魏の孝文帝と同じ。蛮族出身であることは、正統国家であることを妨げない。天下統一に関しては、北魏よりはるかに唐のほうが正統国家であり、周・漢をつぐ。
これが唐初の士人の感情。
北魏によってなされた蛮漢の融和こそ、隋唐帝国の特色である。この思潮をたくみに史学のうえに顕したものこそ『晋書』の史学ではあるまいか。

◆忠義伝・叛逆伝
忠義・返逆の二伝は、唐の完成とともに、国家に対する忠節が強調された。忠節に対立するものとして、同時に、返逆の観念も完成した。これは(『梁書』を通じて金井氏が述べた)五朝史の史体の完成である。唐時代の考え方によって、晋の歴史を規定した。
南北朝時代、氏族の権力が強まったが、しだいに王権が強化された。その結果、『晋書』に忠義・反逆の二伝が作られた。

(漢代の歴史に親しんだものにとって、意外に感じられるが)王権の力が弱かった時代は、忠義・叛逆という二項対立により、際立った行動を検出し採録することが、馴染まなかった。

しかし、南北朝の伝統である家柄の思想は、まだ破棄されることなく、貴族制度の根本としての個人道徳の孝義は、『晋書』でなお雑伝の第一にあり、忠義はその次に置かれざるを得なかった。

忠義伝は、八王の乱で君主のために死んだとか、五胡に仕えるのを恥じて自殺したとか。人物の型は、『後漢書』独行伝に似ており、狂狷である。

狂狷(きょうけん)は、《「論語」子路から》いちずに理想に走り、自分の意思をまげないこと。

『論語』で、個人道徳の立場からほめられているが、『晋書』は国家道徳の立場から挙げている。地方の希望に反対して、朝廷権力を強引に行使したために傷害をこうむったというのは、漢代では酷吏伝に入れるべきような人物を、国家権力を重く考え、唐代では忠義伝にくわえる。
国家全体の立場に軸足があり、かえって叛逆伝にさえ入れるべき人物を、上官のために口争したことを称して忠義伝に入れるなど、内容と形式が不一致である。

『晋書』孝友伝・忠義伝を読みたいですね!


叛逆伝は、王敦・桓温らは、一大の名望家であり、かれらを叛逆者とするのは、当時の与論ではない。司馬懿を本紀第一に置くが、魏の歴史の立場からいえば、司馬懿はあきらかに晋の歴史における王敦・桓温と同じく、叛臣伝に列せられるべき人物である。
晋は、東西を通じて、まだ国家体制が十分に立っていない。その時代の歴史を撰するにあたり、唐の史臣は、すでに確立した唐の国家体制の観念をもって律した。されば、実際の歴史的事実と史体とのあいだに矛盾が生じ、食い違いができた。

唐代史学と『晋書』

引用者補足:『晋書』は、唐代史学が発達した、「時代の産物」であり、その最高峰における成果物である。

『晋書』の起例は、敬播の独創とされるが、かれはかつて顔師古・孔穎達のもとで『隋書』に参与したことがある。国史撰修に関係して、「高祖実録」「太宗実録」をつくった。また敬播は、『漢書』の学に精しく、房玄齢は、「陳寿の流」であるとして推称している。
このときは、『漢書』の学がおおいにおこり、劉伯荘・秦景通と弟の秦暐・劉訥言らが、『漢書』を研究して一時を風靡した。顔師古の『漢書』注は有名。

『漢書』研究が盛んなのは、唐代経学の訓詁の風によるであろうが、南北朝以来からの動向の完成と理解すべきであり、この風潮のうちに、敬播が『晋書』の義例を立てたことは明白であろう。
すなわち、五朝史が南北朝以来の『漢書』研究の流れのうえに撰せられ、唐初の史学がこの(形式的に)完全なる統一国家の晋朝の歴史を改修するという流れに発展した。

「唐朝の考えた最強の歴史書」の題材が、雑然とした『晋書』の決定版づくり。


この史学が、純粋性を求めて史学理論のかたちにおいて発展したのが、劉知幾『史通』である。

その進化は、袋小路に入ったガラパゴス的な進化であったかも知れない。

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4.李延寿『南北史』とまとめ

『晋書』の完成後、『晋書』とは別のかたちで、『晋書』に続く南北朝の分裂期の歴史叙述に「決着」をつける動きがあった。すでに、五朝史は、『晋書』よりもさきに、唐帝国なりの決定版が完成している。唐帝国の史局が、屋上屋を架することは行われない。李延寿の父子が個人の事業として、統一的に歴史を捉えられる『南北史』をつくった。

李延寿『南北史』

統一国家でない五朝史は、厳密なる事実の歴史を書くことを第一目的とする場合、さまざまな不合理な問題がある。
南北の八朝の歴史は、その国家の立場により書かれている。南北朝の並存は、正統論のうえからは認められないため、いずれか一方は僭偽の国家とされ、その国家の歴史は十分に書かれない。かかる欠点は、五朝史はもちろん、(唐初以前に、唐の官撰に拠らず、一定水準の歴史書が完成していた)『宋書』『南斉書』『魏書』をふくむ八朝史に共通する。

太宗が『晋書』編纂を命じたとき、『宋書』は参照されるべき史書として(殿堂入りしたものとして)その名を挙げられていたことを想起せよ。


この欠点を補うため、李延寿は『南北史』を撰して、顕慶元(六五六)年に提出した。「南史」は、宋斉梁陳。「北史」は北魏、北斉、北周、隋。その自序によれば、かれの父の李大師は、南北がたがいに貶めあい、他国のことに事実と違うことを書くのを問題だと言っており、それを補うという。
李延寿は、貞観年間、五朝史を撰修するとき、顔師古・孔穎達のもとに『隋書』に加わり、『晋書』と『五代史志』に従って、十分な史料を得た。かくして、できあがった五朝史とそれ以前の歴史を比較して、『南北史』を編纂することを思い立ったという。
南北を対立させ、両朝の歴史を公平に書くというのは、正統論からは非難されるところである。しかし、現実の歴史のうえに立って、この史体を作ったことは、李大師の見識として評価されてよい。

李大師が個人として立て得た義例であり、国家の史官の立場としては(帝国の並存は)許されない。
『南北史』の唐代史学における特色は、紀伝体の通史として、『史記』以来の初めての正史(『南北史』は後世、正史と認められる)であるとともに、

いわゆる断代史ではない。

かつ、唐代官撰(国家に公認された)の正史のなかにおける唯一の私撰の歴史である点にある。
ゆえに、史官の史学をもっとも重要視する劉知幾から、この『南北史』が問題にされなかったのは、きわめて当然。李延寿は、これまでの正史に採られなかった遺佚をあつめ、その繁文を省いた。それらは成功したとされる。
宋代、八朝史を校訂したが、そのとき、八朝史の缼文は『南北史』で補われた。唐より宋にかけて、『南北史』が八朝史よりもはるかに読まれた。『南北史』を読めば、八朝史は読む必要がないとまでいわれた。今日にわかに承認できまいが。

『南北史』における、家伝の尊重

『南北史』に対してもっとも非難されるのは、列伝の一部。南朝では、王氏・謝氏。北朝では、崔氏・盧氏ら名家である。一族一家の伝としてまとめ、その煩雑な家伝を歴史の体のなかに入れてしまった。これは、北斉の魏収『魏書』の影響。
国家の人材抜擢と家柄の資格という問題。李延寿は、この問題を歴史のうえに扱った。

また李延寿は、家柄に関心をもち、唐王室の始祖とされる西涼武昭王の李暠より、自分に至るまでの歴史を自序に書いている。新旧『唐書』のかれの伝には、この自序の説は採用されず、ただ「相州の人」とのみ記す。
南北朝時代は、氏族が重んじられた。短い王朝の興亡とは無関係に、家柄は存続した。氏族を根本とし、貴族政治が行われたという政治現象と離れて考えるわけにはいかない。『南北史』は、その風潮を理解していた。

「南史」は雑伝の最後に、賊臣伝を置いている。五朝史にはないため、『晋書』の体にならったもの。
『南北史』は、通史であること、家伝を重んじたことが特色であるが、それ以外は、五朝史の史学(と『晋書』の史学)に準じた
李延寿によって作られた『南北史』は、史官の手によって成った五朝史への、自由なる個人としての、ある種の修正と考えられる。210131

引用者によるまとめ

南北朝末から発展し、五朝史・五代史志を完成させた唐代史学の到達点として、『晋書』編纂が取り組まれた。
題材としては、隋唐以前の最後の統一帝国であり、『隋書』経籍志に見えるように先行史書がもっとも豊富で、しかも、前四史と五朝史(八朝史)のあいだに挟まれ、唯一無二の題材であった。
敬播により、唐代史学の成果を反映した叙述ルールがマニュアル化され、大々的な官僚による分業体制が取られた。
その体制による史書製作は、最初にして最後であったからこそ、評価の分かれるものとなった。同じ条件をもつ題材(歴史叙述の対象としての帝国)が存在しないため、比較検討がむずかしく、評価が孤立している史書といえる。

『晋書』において、史学が一応完成した(と国家が結論した)からこそ、劉知幾による批判が加えられた(対象が確立していなければ、批判が成り立たない)。また、官撰による硬直性に対し、李延寿『南北史』のような揺れ戻しもみられたが、唐帝国はその成果を拒絶しなかった。210201

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