両晋- > 『晋書』を完訳するプロジェクト

全章
開閉

01_企画の発案

企画を思いつく

きっかけは、ほんの思いつきでした。ですが、十年以上、漠然と思っていたことが、ツイートに結実した感じです。200204
時系列に貼り付けていくので、ここに書いてあることは、決定ではないです。決定事項は、いろいろ決めた後にまとめて書きます。試行錯誤しているので、前後で整合性が取れないこともあります。ご容赦ください。

史料の翻訳や注釈などは、ネットで独自にやりかけ、品質に難が出たり、中断したりすること多いです。お金とやりがいをうまくサイクル回して、たとえば『晋書』翻訳を完成させるプロジェクトやりたいんです。大学院生~それ以上にはお金を払って品質担保を手伝って頂くとか。集めてうまく分配する的な。

ここで『晋書』と書いたとき、とくに意味はなかったんですが(思い入れはあるものの、この時点で、ちょうど『晋書』にまつわる勉強をしていたわけではない)自分のなかで、いつの間にか『晋書』の話になっており、以下のツイートにつながりました。

『解體晉書』てサイトの再開を望む声は多いです。内部事情は知りませんが、止まっているのは事実。『全譯晋書』を待つという手もありますが、これも内部事情は知りませんが、だいぶ先でしょう。ネット上で『全訳』するプラットフォーム的なものを設計するって、おもしろそうじゃないです?

『解體晉書』 http://jinshu.fc2web.com/


企画を膨らます

『晋書』は、全部で130巻あります。たとえば、素人が作った「下訳」に、大学院生以上に1巻あたり1万円お渡ししてチェック・手直しして頂いたら、130万円です。この原資を、趣旨に賛同して下さった人から集めて、担当者に分配するとか。委託料にすると安すぎるので、慎重に定義しないといけませんが。
誰が(どのレベル?の人?)が下訳を作るのか。誰が(どのレベル?の人?)がチェックをするのか。1巻あたり、いくらがいいのか。うまくマッチングしないといけませんが、名前は出します、ネットで公開して日本の共有財産にします、完成したら紙に印刷して、参加者にはタダでお渡しします…とか。

スケジュール管理とか、金銭的な持ち出しとか、いろいろ主催者(=ぼく)が負担することになっちゃいますが、おもしろそうな試みだと思うんですよねー。支援者がどれだけ集まるか分かりませんが、最大で130万円なら負担できなくないし、自分で同人誌を書いて、儲けを出せば回せるでしょうし。

お金のことは、また後で書きます。


無償ですけど、プロジェクトに参加して頂き、かならず名前を出しますという、素人の下訳の担当者を集める(集め方は工夫します)。ぼくが間に立って、原稿をチェックする。それを院生さんに託す。下訳の担当者が集まらねば、ぼくがやればいいので、そこは「責任」が取れますが…。設計だいじですね。

下訳をして頂く方には、着手するまえに、簡単なテストをお願いしたらどうか…という知人の意見もありました。そうですね。そして、ぼくは、テストを作ったことないんですよね。ネットや書籍で、かんたんに答えの分からない、漢文(原文)をお渡しし、訓読と現代語訳をして頂く…とかですかね。


「志」を除くこと

『晋書』志(巻11~巻30)を除外すれば、全部で110巻。絞って始めるのは、アリですね。史料の成り立ちが違うのは承知の上ですが、吉川忠夫先生の『後漢書』も、志はなかったです。
…と書いたら、リプライを頂戴しました。

くるひ @inoinowanko さん:『後漢書』の場合、文献的な問題があります。だから取り扱いに注意が必要なのです。現在の一般的な『後漢書」の場合、「志」も入ってはいますが、本来「志」は『続漢書』のものです。だから、『晋書』で「志」を省くのとは意味合いが全く異なります。もちろんご存じでしょうが。

ぼくの返信:ありがとうございます。そうですね、書物の成り立ちが違いますね。今回のアイディアは、ネットで見るニーズ(晋書の翻訳がほしい)という声と、プロジェクトをやるからには完成させたいという動機の折衷案なのです。顕在化したニーズは、本紀と列伝、載記かな…と。できたら、やりたいのです。志も。

くるひ @inoinowanko さん:私は佐藤さんの「志」を省いたという文面が気になっただけです。是非、このようなプロジェクトは進めてくださればと存じます。ただ、間違い等があったときに、その担当者にちゃんと伝え、責任を持たれる方がいることを願います。某書ではそれがおざなりだったとTwitterで見たことがあるので。

ぼくの返信:これから企画をまとめるのですが、間違いがあったときは、私が責任をもって、情報の結節点になるように努めます。

下訳の信頼性について

また、参加者集めについて、リプライを頂戴しました。
幾喜三月@楽史舎 @sangatsu_rakshiさん:信頼できる下訳を院生さんに渡せる担保が無いと、結局院生さんが自分で読んで訳した方が楽だし精度が高いということになりそうな気がします。そしてやるなら志は欲しいです。三国志のエピソードもたくさん盛り込まれてますし、三国志ファンも楽しめると思うので。

ぼくの返信:下訳のクオリティは、ぼくが担保しようと思ってます。プロデューサーやブローカー?ではなく、自分がまずやる、やりたいことを広げる、という順序なので。 下訳は全部ぼく、お金も全部ぼく、でもやれると思ってるモデルを作って、協力者を募るって感じですねー。
志のこと、りょーかいです。三月さん、去年の『ユリイカ』で、紹介なさってましたしね。

下訳のクオリティ問題は、きちんと対処します。


ぼくが思いますに、下訳が前提ではなく、担当パートをそのまま大学院生さんにお願いしてもいいですね。下訳→修正、というプロセスは必須ではないですね。
ぼくなりの思いとしては、大学院には行っていないが、参加したい!という人も、参加できるようにしたいのです。ネット上には、参加したいひと、けっこういると思うんです。というか、ぼくも学部卒なので、大学院生に絞ってしまうと、参加資格がなくなってしまうんですよね。プロジェクトをやるからには、「整合性」って大事だと思うのです。
中国の歴史が専攻で…というと、対象が狭まりすぎてしまうので、「漢文を取り扱う修士号」の有無で、参加者の属性を分けるのが現実的でしょうか。200205

関連して、こんなツイートもありました。
河東竹緒 @rivereastbamboo さん:ネットの普及以来、有志の翻訳が散乱してもったいないんですよねえ、、、ダブりや抜けがどうしてもあるし、中途店じまいになりがち。これは当たり前で一個人で完訳はかなり厳しいです。『北齊書』や『周書』みたいな小物にして然り、況や『晋書』『北史』『南史』をや。

閉じる

02_運転資金について

プロジェクトの資金繰りについて

同日、会社の昼休みにツイート:
ほんと、自分で編み出したナゾな概念(詭弁)ですけど、会社員の自分が、歴史の勉強をする自分のパトロン。自分が『晋書』のプロジェクトしたい!って思ったら、出資してくれるんですよ、自分が。再現性が乏しいかも知れませんが、便利です。

これをツイートしているときは、会社の自分の席で、会社が支給した作業着?をきてるんです。だから、会社員としての自分からの応援の表明なんです(笑)


難しいところなんですが、思いますに、
ぼくがポケットマネーで貢献する(べき)かたちは、キャッシュフローの確保なのかも知れません。いわゆる資金繰りですね。「まだ支援金が入ってないから、然るべき報酬を払えない」という状態を防ぐためには、暫定的な出費が必要です。自分の預金を使い、プロジェクトの一時的な持ち出し過多に、「耐える」のです。

ちまたにいう、黒字や赤字というのは、損益計算書をめぐる話。これとは別に、キャッシュフロー計算書というのがあり、(関わりはあるが)別の管理指標なんです。あ、ぼくの会社員としての職業は、経理です。

最後の最後に、「支援金が入らなかったから、報酬を払えませんでした」という終わらせ方は、絶対しません。発起人のぼくが、お支払を約束する。しかし、それは最後の最後だと思います。200205

資金の集め方

世間には、クラウド・ファウンディングというサービスがあります。『晋書』を完訳するとき、お金集めをするなら、まずこのサービスか、という連想をしましたが、当面は見送りにしようと思います。

以下を踏まえても、なお、このサービスがいい!というのがあれば、教えてください!


これらサービスを使うと、手数料を数十%払わねばならない。手数料を払うに見合った、宣伝効果が見込めないと、ぼくは、この種のサービスを使えない(サービスを使ったために、活動資金が減ってしまう)のです。
まず、Twitterやこのホームーページで、出資者を募ります。これが上限に達したころに、世間一般のサービスで広く集めようと思います。すでに、何名かの方に、お声がけを頂いています。
この方たちは、クラウド・ファウンディングのサービスを使って初めて、出資をして頂ける方ではないと思うのです。というか、まだサービスを使っていませんしね。ならば、初動が、サービスによる告知!というのは、違うと思います。

幸い、現代には、決済手段はいろいろあります。paypayとかも。


知人に呼びかけて、限界(天井)に達したところで、初めてサービスを使います。
不特定多数のひとに呼びかけるには、計画だけじゃなくて、すでに実行段階にあるほうが、集まりやすい。着手が先にあるべきでしょう。

サービスの利用者たちは、ある程度の進捗があり、それを世に出すための資金を集める!という方式でした。

現段階で、不特定多数のひとに呼びかけるために、意義とか志とかを語っている時間が、もったいないと思います。見栄えのいい画像とか、準備するのは得意ではありません。
というか、正直な話、中国史や三国志に興味があり、また、翻訳事業のむずかしさを、当事者として(もしくは利用者として)知っているひとにしか、お願いできないと思うのです。そういうわけで、やはり、サービスは少し後回しです。

明確なスケジュールを示すことができない、っていうのも、不特定多数に「約束」をできないことの制約になりますね。正直、やってみないと分からないです。


インターネットのクラウド・ファウンディングのサービスは、とりあえず見合わせ…と考えたのですが、こんなふうに、資金を集めたらいいよっていうアドバイスがありましたら、教えてください。200205

出資者にどうやって応えるか

文系学問や歴史、翻訳に関するクラウド・ファウンディングを見てたのですが、寄付型・購入型というのがありまして、返礼品を洗い出してみます。

・お礼メール、手書きのお礼カード、グッズ(カレンダー、しおり)
完成書籍、PDFの先行配信、テキストデータ
・巻末に記名、広告掲載など。

ひとによると思うんですけど(ぼくが出資者だった場合)、メールをもって「返礼」って言われても困ります。というか、報酬としての「お礼」でなく、ふつうにお礼のメールを送るつもりでした。カードやグッズ、ほしいですかね。ぼくが欲しくないだけ…? グッズ製作にお金を使うくらいなら、翻訳作業をしたひとに、払いたいです。

「グッズがもらえるから出資する」っていうひとを、呼び込めるならば、グッズも意味があると思うんですけど…。いまいち、マッチしていないような。

書籍にする予定はありませんが、でも、印刷できたら嬉しいので(これも、ぼくの好みで喋っています)それは返礼品の候補です。ただし、『晋書』の完訳は、膨大な分量(ページ数)になるので、返礼は、「印刷代だけで、書籍を購入する権利」にするのが、現実的でしょうか。

データ送付は、追加コストゼロで出来るので、基本的にやろうと思っています。が、つぎに考える発表の仕方と関わり、どのような「嬉しさ」があるのか考えないといけません。基本的に、ネットで公開しようと思っているのに、それを改めてメールでもらって意味があるのでしょうか。
ネットの公開も、テキストをコピペ可能な形にするのか、しないのか(画像?)。でも、画像からテキスト起こしできるアプリもあるらしいです。コピーライトの問題も、考えないといけませんね。

巻末への記名は、是非やりましょう。名前を出すか、支援額を出すかは、自由に選べるようにしたいです。人によって、いろいろな感覚があるので、制約を設けたくないと思います。
広告は、(当たり前ですが)出す側にメリットがないといけないし、掲載期間の管理とか難しいので…。雑誌に広告を出すような感じで、いちど出したら、出しっぱなしが、ぼくのやれる限度か…。皮算用をしても仕方がないので、保留です!

公開サイトのデザイン、形式も決まっていないので。


進捗報告のメールを出します!っていう返礼もありましたが、それは、サイト上に更新することによって応えたいと思います。というか、それ専用のメールは、大変なので、やらない方向で考えています。

列伝ごとのスポンサー枠

○円以上、支援して下さった方は、追加で○円払うごとに、列伝ごとのスポンサーになれます、とか。考えました。こんな感じ。

巻二 景帝紀
翻訳:A山 B子
提供:C川 D一
    E谷 F太

提供(スポンサー)は、肩書きやキャッチコピー、サイトの宣伝までは可能とする。インターネットに載せるときは、列伝の冒頭に提供者を載せるけど、本として印刷するときは、ほかの支援者と同じく、巻末に載せます、みたいなことを、予め約束しておこうと思いました。

提供者が多いと、印刷したとき、利用しにくくなるので。

いろいろな人のおかげで、成り立っています、ということを、ネット上では可視化する。ネタとして面白いと思います。だれの列伝に、たくさんスポンサーが付くのかとか。けれど、印刷するときは、利便性を優先し、巻末にまとめて移動しようと思います。200205

閉じる

03_大学院生のこと・公開の仕方

大学院生のこと

このページを作りながら、あたまをフル稼働で考えていて…、やはり、最初から大学院生にお願いするかも知れません。前言撤回です。
大学院生にお願いするとして、ただの「割り切ったバイト」ではなく、さすがに、公的な業績にはならないかも知れませんが、これは自分のやった仕事!というのは、残して頂きたいんです。感じて頂きたいんですよね。

本にするとき、どこかの出版社に手伝って頂けたら、仕事としての価値が、事後的に付くかも知れません。

すると、素人が下訳したものを、大学院生が修正しました…というよりは、ご自身に最初から(原文→訓読→現代語訳)をお願いするのがいいですね。

「誰に下訳をお願いするのか」、「そのクオリティをどのように担保するのか」、という問題は、上でご指摘がありました。ぼくが仲介しようと思っていましたが、実力にも時間にも限界があります。
私自身が、大学院に行っていないので、対象から外れちゃうんですが、原則として(漢文を扱う)大学院以上を参加要件にします。この要件にあてはまらなくても、個別にお願いすることは、あるかも知れませんが、原則は設けました。

大学院生への報酬のこと

すごく難しいんですが、これは、スポット的な「業務委託」になるでしょう。お支払する金額は、いくらが適正なのか。これは、議論して決めることではなく、ぼくの専権事項ですよね。
現段階では、『晋書』1巻あたり、2万円を考えています。昨日のツイートでは、1万円と口走りましたが、安いと感じます。プロジェクトの存続に関わることなので、まだ結論は保留です。決定じゃありません。すみません。

この仕事をやるために、注ぎ込んできた努力や時間に見合った料金を出そうと思ったら、もっとお出しすべきだと思うんです。2万円では、全然足りないことは、承知しています。言えるとしたら、スキルや時間を「買う」というよりも、協力して頂くことへの、ちょっとした感謝というか…。それぐらいの位置づけなんです。
当然、価格の設定は、ぼくの運転資金に直撃しますから、慎重に決めないといけないし、それゆえに専権事項なんですけど、いまは、それぐらいで考えています。

きわめて単純化すると、「大学院生に作業をお願いするためのお金を、みんなから集める」プロジェクトですね。
大学院生のなかには、『晋書』を翻訳する知識はあるが、お金が必要なひとがいる。かたや、知識はないが、お金を出すことはでき、『晋書』の翻訳を読みたいというひとがいる。それをぼくが(いくばくかの金銭的リスクを負い)仲介するということです。シンプルになりました。

よく、「研究者は、史料が読めるから、翻訳をするニーズがない」といいます。その通りでしょう。その潜在的な力を、ちょっとお借りするためのプロジェクトです。


作業内容について

特異な形式は求めず、『全訳後漢書』をベースに考えています。
最初に、ベースとする版本を決めます。

たとえば、中華書局版とするならば、それで固定でいいと思うのです。校勘は任意です。厳密にいえば必要ですし、校勘がないと価値がない、というのが説得力のある見解だと思うんですが…。現代語訳にも影響するというのは、承知しています。このあたりは、担当者たちに決めて頂こうと思います。

句読点を入れます。訓読(書き下し)をします。このとき、仮名遣いやルビは、担当者にお任せしようと思っています。いろいろなやり方があるし、ご自身が普段やっているのと、違う方式を「強要」するのは、違うと思っています。巻ごとに、作成者を明示しますから、ある程度の形式の不統一は、そのままにします。
できないことを目指しても、仕方がないので。
そして、現代語訳。これも、翻訳者のあいだで、不統一でいいと思っています。形式を揃えるにしても、見識が必要なので、ぼくには手が余ります。

こんな内容で、大学院生さんに伝えることが充分なのか。足りないよってことがあったら、教えてください。ぼく自身、ある仕事をお手伝いしたことあるので、最低限の感覚は持っていると思いますが…。

訳注は、お任せです。ぼくは、「注釈をつけずに翻訳する」ほうが難しいと思っています。分量の制限はないので、どんどん付けて下さい。
このあたり、大学院生以上ならば、「注釈を付ければ、書くべき字数が増えるから、労力の持ち出しだ」という発想には、ならないのではないかと思っています。むしろ、現代語訳のなかに、すべて詰め込むほうが大変なのではないかと。
『晋書斠注』の利用も任意です。これを完訳して下さいというわけではありません。

ですが、ぼくが担当するならば、目を通したほうが、やりやすいと感じます。『晋書斠注』も巻き込んで、訳注を付けておかないと、責任が取れない場面もあると思います。


公開の仕方について

スタートが、『解体晋書』からなので、ネットで公開することは前提です。ですが、どのような形でやるのか…。テキストをベタ打ちで公開するのか、何らかの制限をかけるのか。せっかくやっても、利用されなかったら意味がない。
一方で、出資者には、出資のメリットを感じて頂きたいので、バランスが難しいです。そのあたりは、追って考え、開示していきます。予め、示しておかないと、お金を募ることができません。あとで、「そんなつもりならば、出資しなかったのに」と言われても、つらいので…。

大学図書館に入れて頂くことについて

大学院生にお願いするからには、成果として、次に繋がる活動にしたいんです。
書籍化し、大学図書館に入れるための方法や費用など、ご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。現段階でこれを言うのは、出資を募るとき、かかる費用を明確にしておきたいからです。ぼくが職業的に、まったく関係ないことをしているので、情報がありません。教えて下さい。

ぼくは、知らないうちに、自分が作った同人誌を、大学の蔵書に入れて頂いた、という実績はあるんですが、なぜそれが出来たのか、自分では分かりません。

ラッキーに頼るのでなく、図書館に入るかも知れない、という道筋を作っておけるならば、院生さんに参加をお願いするとき、話が変わってくるかも知れません。

著作権と利益について

これも教えて頂きたいんですけど、著作権が作成者に帰属するとして(合ってますか?)たとえば、ネットで誤りの指摘があったとき、どうするか。
ぼくにできるのは、指摘をご本人に伝えることと、ネットに掲示することです。そこまでは出来ますが、指摘されたとおりに直すのが正解とは限りません。「併記」まででしょう、お約束できるのは。

それから、書籍化して利益が出たとき、どこに帰属するのか。
書籍化できるか分からないので、出資者には、予め、「利益の分配を受ける権利」を放棄することに、同意して頂くのがいいのか。おそらく、赤字になるので(分かりませんけど)へんに期待を持たせるような、資金の募り方をしたくありません。
経済的には、ほぼ旨味のない話です。

翻訳の作成者には、どうしたらいいのか。「著作権は作成者に帰属するが、売上の利益は、ぼくが受け取る」という形でいいのか。「がめついから、それならば参加したくない」と捉えられ、完訳が終わらないとしたら、意味がなくなるんですよね。これも、あらかじめ、同意をして頂かないといけませんね。

今回、赤字にならなければ、ぼくが受け取ったお金は、つぎのプロジェクトに使います。


どんなことでもいいので、ご意見ください!
「こんなふうなら、出資したい」、「こんなふうなら、翻訳を担当したい」といった、両面からの意見をお待ちしています。200205

閉じる

04_全訳があることの意義

『晋書』完訳プロジェクト更新。『晋書』地理志上(総叙・司州~寧州)・下(青州~広州)。総叙は、参考文献を活用しながら、追って精度を上げ、注釈を充実させていく予定です。
http://3guozhi.net/sy/m014b.html

20年6月は、自分で担当した訳を、3巻分アップロードしました。この機会に、いま思うことを書きます。翻訳を作りながら、考えたことです。
私の翻訳論というほどではないですが、『晋書』完訳プロジェクトで目指しているのは、観光ガイドです。「この巻には、こういう系統のことが書かれているのか」と見渡すための下準備です。一箇所ずつ名所旧跡で立ち止まって掘り下げることはなく、これから興味を持つかも知れない人たちへの導入部、もしくは、これから精読するか否かを判断するための材料、になればいいと思っています。

言わずもがな、古典漢文を現代日本語に翻訳することは「不可能」です。だから、訓読、訳注、現代語訳など多方面から、にじり寄りながら、漢文の意味するところを示そうという努力が蓄積されてきたわけです。その手法を借りながら、このプロジェクトも前に進めています。高い壁ですけど、ハシゴがないよりはマシでしょう。ただし、天辺に登って乗り越えるか(それを試みるか)となると、各人の裁量です。このプロジェクトの次の段階のことです。
そこまでは、読者の感じ方や振る舞いをコントロールできるとは思っていません。ぼくの役割でもないでしょう。もしかりに、そういうことが出来るとしても、完訳を終えてから、口にすべきことだと思います。

「研究」に数えられるのは、おそらく訳注のみです。極論すれば、現代語訳というのは、訳注を読んでもらうための道案内です。訳注を付けた箇所を示し、訳注に示した理解に基づき、全体を通して読むとこんな流れになるんですけど…、と示すための二次的なもの。現代語訳は、二重の意味でガイドですね。
例えば掲載済の『晋書』景帝紀・文帝紀は、研究として読み、訳注をきちんと付けるなら、最低限『三国志』との比較検討が最初に来るべきです。固有名詞や制度の理解も。しかしそれを始めると20年後も完結しません。テキストを表面的になぞると、こういう事柄が拾えますよ、と示すのが現実的なゴール。

突き放したみたいな言い方になっちゃうんですけど、興味を持つには、他人の抄訳・簡約があれば十分であり、放っておいても、あとは自分で原文を読み進めずには居られなくなると思うんです。プロジェクトの狙いは、興味の間口を広げることです。掘り下げの深さよりも、早さと広さを求めたいと思います。
「広さ」と言いましたが、『晋書』のプロジェクトは完訳なので、抄訳(一部を抜き出した翻訳)はしません。論や賛は、訳したところで誰が嬉しいか分からないこともありますが(笑)興味の間口を広げるという目的があります。かりに、ほぼ訓読の調子のまま、もしくは、ほとんど日本語になっていなくても、載せる必要があると思ってます。

興味の「原石」がどこに落ちているのか分からないからです。
いま、自分が興味がないことが、未来永劫、なんぴとたりとも興味を持たないということは、ないでしょう。まだ見ぬ、未来の、晋代および『晋書』の研究者を生み出すためのキッカケになる可能性は、ゼロではありません。なにより、『晋書』にそのテキストがあるのだから、読まない、はぶく、というわけにはいきません。

「早さ」と言いましたが、誤訳を連発しているようでは、興味の導入部になる以前の問題です。もちろん「誤訳があっていい」と開き直っているわけじゃないです。
しかし、それとは別の次元で、現代語訳というのは「無いよりマシ」なことってあるなあと。かりに誤りを含んでいたとしても、それがあったおかげで、手掛かりになった、取っ掛かりになった、ということは、過去の自分の読書経験を踏まえると思ったりします。

見識のある人はコメントしない…みたいな論題かも知れませんけど、日本の三国志受容における正史『三国志』のちくま訳の役割は、絶大だと思います。ときどき変かも知れませんが、全体をカバーした現代語訳は、興味の間口を広げるとき、多大な貢献をしたのではないかと。『晋書』も続いてほしいです。
うっすら興味を持ったとき、その分野で「全体をカバーした現代語訳がある」と知れば、挑戦を始めやすいと思います。どうせ誰も、翻訳を全部読まないんですよ。途中で挫折するか、自分なりのテーマを見つけて、部分的な探究を始めるかです。とにかく「全訳がある」という事実が先にあることが重要かと。

そんなことを考えながら、『晋書』完訳プロジェクトの運営と、みずからの作業を進めていきたいと思っています。200624

閉じる