-後漢 > 『三国志集解』巻八 公孫度伝を抄訳

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献帝を無視り、遼東の王をやる公孫度

2011年、後漢末の即位儀礼について調べており、金子修一氏の論文を読んでいたら登場した人物として、この記事を作りました。2017年は、この続き(2ワク目以降)を作ります。繋がった列伝なので、まず2011年に作ったものをコピペ。

『後漢書』謝弼伝の同僚、霊帝の敵?

公孫度字升濟,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟,任度為郡吏。

公孫度は、あざなを升濟という。もとは遼東の襄平の人だ。

『後漢書』独行伝の王烈伝の注釈は、あざなを叔済とする。盧弼がほかの部分から判断すると、升濟がただしい。
ぼくは思う。独行伝に、公孫度が出てくるのか?見ねば。
遼東の襄平は、「魏志」明帝紀の景初元年にある。献帝の初平元年(190)に、公孫度は遼東をわけて、遼西、中遼をつくった。景初二年、曹魏は公孫淵をほろぼして、遼東郡にあわせた。

公孫度の父は、公孫延だ。吏を避けて、玄菟にいた。

『郡国志』はいう。幽州の玄菟郡は、高句麗が郡治だ。はじめは沃沮が郡治だったが、高句麗に移したのだろう。
ちくま訳は、「なにかの事件で」吏を避けたと、原因を補う。よく分からない。霊帝の宦官が、子弟を地方に送りこみ、好き勝手をした時代だ。宦官の子弟を避けたか。だとしたら、「後漢は、終わりだなあ」という雰囲気を、少年の公孫度は味わうことになる。

公孫度は、玄菟の郡吏に任じられた。

時玄菟太守公孫琙,子豹,年十八歲,早死。度少時名豹,又與琙子同年,琙見而親愛之,遣就師學,為取妻。後舉有道,除尚書郎,稍遷冀州刺史,以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將,薦度為遼東太守。度起玄菟小吏,為遼東郡所輕。

ときに玄菟太守は、公孫琙である。公孫琙の子は、公孫豹である。公孫豹は、18歳で死んだ。公孫度は、幼名を「豹」といった。公孫琙の子と、おない歳だ。公孫琙は、名と歳が同じなので、公孫度をかわいがった。学問の師と、妻をあたえた。

『後漢書』王烈伝の注釈は、公孫琙を「公孫域」とする。ぼくは思う。ネットユーザーには、「域」のほうが、優しい。文字化けのリスクがゼロである。

のちに公孫度は、有道の科目であげられ、尚書郎に除され、冀州刺史にうつる。謠言のため、免ぜられた。

『後漢書』謝弼伝はいう。建寧二年(169)、詔して有道の士をあげさせた。謝弼と、玄菟の公孫度は、ともに対策した。どちらも郎中に除された。
『後漢書』袁紹伝はいう。公孫度は、はじめ吏をさけて、玄菟の小吏となった。中平元年(184)、本郡(遼東)の太守になった。
ぼくは思う。冀州刺史にせよ、遼東太守にせよ。公孫度は、けっこう官位がたかい。宦官に対抗する士大夫として、注目されていたのかも知れない。謝弼と同期なので、謝弼伝を読み、公孫度の政治姿勢が、謝弼と似ていると仮定すれば、公孫度の後漢での立場がわかる。のちに辺境で「自立」しちゃう人の、中央での振舞いは、とても気になる。つぎは、謝弼伝をこのホームページでやろう。

おなじ遼東の徐榮は、董卓の中郎將となった。徐栄は董卓に公孫度を薦し、公孫度を遼東太守とした。公孫度は、玄菟の小吏からはじまったので、遼東の郡では軽んじられた。

徐栄のことは、武帝紀の初平元年にある。曹操を破った人ですね。


遼東で、郡中の豪族と、異民族を討つ

先時,屬國公孫昭守襄平令,召度子康為伍長。度到官,收昭,笞殺于襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩,皆以法誅,所夷滅百餘家,郡中震慄。

さきに、遼東屬國の公孫昭は、襄平令となった。公孫昭は、公孫度の子・公孫康を召して、伍長とした。公孫度は遼東太守に着任すると、公孫昭をとらえ、襄平の市中でムチで殺した。

遼東属国は、斉王紀の正始5年にある。
沈欽韓はいう。『続漢書』はいう。里のなかで、10家をつかさどる人は、什長。5家をつかさどる人は、伍長。
ぼくは思う。このあたりは、公孫氏ばかりか。ちかぢかやりたいが、公孫瓚も然り。

遼東の郡中にいる名豪・大姓は、田韶らである。田韶らは、公孫度に冷たかった。公孫度は、法に照らし、田韶らを族殺した。族殺されたのは、100余家である。遼東の郡中は、公孫度に震慄した。

ぼくは思う。田韶らは、なぜ公孫度を軽んじたのだろう。「公孫度は、出自が低いくせに、玄菟でかわいがられ、成りあがったから」と読むのが、無難であろうか。しかし、それだけで、100余家を族殺する怨みが溜まるものか。プライドが傷ついたという私怨だけじゃ、説明がつかない。べつの説明が必要だ。
また、公孫度がひどく下賎の出身なら、公孫昭が、公孫度の子・公孫康を取り立ててくれないだろう。遼東に、公孫度を支持する勢力も、いちおうは存在したのだ。
妄想をふくらましてみる。
遼東に、もともと霊帝の与党がいた。董卓に連なる徐栄が、霊帝の与党たちを粉砕するため、公孫度を遼東に送りこんだ。公孫度は、董卓派として、遼東で敏腕をふるった。とか。在地の豪族を、まとめて潰すのは、董卓が任じた荊州刺史・劉表とおなじだ。


東伐高句驪,西擊烏丸,威行海外。初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」

公孫度は、東に高句驪を伐ち、西に烏丸を擊った。公孫度の威勢は、海外までおよんだ。

『後漢書』王烈伝はいう。黄巾の乱と、董卓の乱のとき、王烈は避難した。遼東太守の公孫度は、王烈に対し、「昆弟の礼」で接した。王烈をおとずれ、政事の話をした。公孫度は、王烈を長史としたい。王烈は、商売をやってみずから手を汚し、公孫度の長史にならずにすんだ。『三国志』管寧伝はいう。管寧は、公孫度の威令が海外におよぶと聞いた。管寧は、邴原や王烈らと、遼東にいく。公孫度は、館をカラにして、出迎えた。
ぼくは思う。後漢末、周囲から圧迫され、治安が安定しない地域がおおい。いっぽう公孫度の遼東は、周囲を圧迫するから、戦闘の矢印は外側にむき、郡中が治安が安定する。だから人が集まったようだ。孫呉とおなじ状態。だが、名声ある士大夫が、積極的に仕えたい君主ではなかったようだ。


献帝から独立し、李敏に反対される

初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」魏書曰:度語毅、儀:「讖書云孫登當為天子,太守姓公孫,字升濟,升即登也。」

初平元年(190)、公孫度は、中國が擾攘すると聞いた。公孫度は、親しくする吏である柳毅や陽儀らに言った。「漢祚が、まさに絶えそうだ。諸卿らとともに、王となることを図ろう」と。
『魏書』はいう。公孫度は、柳毅と陽儀に語った。「讖書はいう。孫登が天子になると。太守である私は、姓が公孫、あざなが升濟だ。升とは、登である」

言っちゃったよ!「漢祚」が絶え、「讖書」に姓名を記された人が、「天子」となる。同じことを言った人が、7年後にも出てくる。めでたいなあ。
ぼくは充分に認識していなかったが、遼東太守の公孫度は、内外に対して、超・強かったのだろう。だから、こんなスゴいことを言った。本拠に辺境を選んだのは、そこが故郷だったから。「中原で天子を名のると、袋叩きにされて、長続きしない。ブルーオーシャン戦略でいこう」なんて、打算があったのでは、なかろう。
金子修一氏は、董卓が献帝を擁立したことに、公孫度が反発したとする。董卓は、献帝の親祭に同行して、おのれの正統性を示した(希少な親祭の記事なのだそうだ)。おなじ時期、公孫度も祭りをやって、董卓にぶつけたと。


時襄平延里社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而里名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。

ときに襄平の延里にある社で、大きな石が出てきた。長さは2メートル以上。3つの小石が、足のように、大きな石を支えた。ある人が、公孫度に言った。「前漢の宣帝のときと、おなじ吉祥だ。延里という地名は、公孫度の父・公孫延とおなじだ。三公が、公孫度を支えるサインだ」と。公孫度は、ますます喜ぶ。

『漢書』五行志・中の上はいう。元鳳三年(前78)正月、泰山に大きな石が、、『御覧』873は、これを引き、宣帝が中興する瑞祥だとする。
ぼくは思う。宣帝の話は、石が5尺。公孫度は、石が1丈あまり。スケールが、全然ちがうけど、大丈夫か?そして宣帝は、中興した人であって、王朝を新規にはじめた人でない。公孫度が大きな石を喜ぶとは、公孫度が「中興」をしたいというサインか。公孫度はあとで、劉邦と劉秀を祭っちゃうし。公孫度は、異姓のくせに、漢の天子となり、漢を復興するつもりらしい。より具体的には、董卓が劉弁を廃位した時点で、後漢は終わっちゃったという認識である。皇帝の祭祀は、公孫度がやるからね、と。
『後漢書』袁紹伝はいう。ときに王室は方乱した。公孫度は、土地が遠いから、ひそかに「幸念」をいだく。襄平の石を、瑞祥だととらえた。


故河內太守李敏,郡中知名,惡度所為,恐為所害,乃將家屬入于海。度大怒,掘其父冢,剖棺焚屍,誅其宗族。

もと河內太守の李敏は、遼東の郡中で、名を知られた。李敏は、公孫度のやることを悪んだ。李敏は、公孫度に殺されたくないから、家属をひきいて、海ににげた。公孫度は怒り、李敏の父の冢をほり、棺をあばいて死体を燃やす。

どこにでも、いるよね。「僭称」に反対する人って。そういえば袁術が、おのれに反対する人を、殺しまくったという話を聞かない。

公孫度は、李敏の宗族を殺した。

杭世駿はいう。王隠『晋書』はいう。李裔は、あざなを宣伯という。李裔の父は、李敏である。公孫度に迫られ、海に浮かんで、どこに行ったか分からない。李裔は、父母の生死を知らない。父の位牌をつくって、位牌を奉った。
侯康はいう。『晋書』李宣伯伝はいう。李敏の子は、李信である。杭世駿は、王隠『晋書』をひき、李宣伯を李敏の子とした。まちがっている。李敏の孫である。王隠『晋書』は、書きまちがえたのであろう。
ぼくは補う。公孫度に追われた李敏-王隠が書きおとした李信-『晋書』に記された李宣伯。という、祖父から孫への系図が書けます。


晉陽秋曰:敏子追求敏,出塞,越二十餘年不娶。州里徐邈責之曰:「不孝莫大於無後,何可終身不娶乎!」乃娶妻,生子胤而遣妻,常如居喪之禮,不勝憂,數年而卒。胤生不識父母,及有識,蔬食哀戚亦如三年之喪。以祖父不知存亡,設主奉之。由是知名,仕至司徒。臣松之案:本傳云敏將家入海,而復與子相失,未詳其故。

『晉陽秋』はいう。李敏の子は、李敏をさがして出塞した。20余年たっても、父がいないから、妻をめとらず。おなじ州里の徐邈は、李敏を責めた。「子孫がいないことが、最大の不孝だ」と。

盧弼が『晋陽秋』に、たくさん注釈する。はぶく。『三国志』に、牽招伝がある。

李敏の子は、妻をめとり、李胤が生まれた。子づくりが終わると、李敏の子は妻を遠ざけ、つねに「居喪之禮」ですごした。数年して死んだ。李胤は、父母のために「三年之喪」をやった。李胤は、祖父の生死が分からないと知ると、位牌をつくって奉った。李胤は、祖父と父母への孝行で、名を知られた。李胤は、司徒になった。

ぼくは思う。公孫度が天子になると言うと反対し、服喪をキッチリとやる。魏晋の「名士」の典型をゆく家である。こういう家を、ぼくはキライである。
『晋書』李胤伝はいう。李胤は、あざなを宣伯という。遼東の襄平の人だ。祖父の李敏は、後漢の河内太守だ。官を去り、郷里にもどる。李敏は公孫度におどされ、軽舟に乗り、海に浮かんだ。最期はわからない。李敏の父は、李信である。李信は、父の生死が分からないので、妻をめとらない。燕国の徐邈が、李信を叱ったので、李胤が生まれた。李胤は、祖父の生死が分からないので、位牌をつくった。孝行で知られた。
ぼくは思う。『晋書』は、とくに新しい情報がない。裴注を写したね。

裴松之はいう。陳寿は、李敏は家属をひきいて、海に逃げ、子のことも分からない。『晋陽秋』と合わない。

邴原伝はいう。邴原は、同郡の劉政とともに、遼東にきた。邴原も劉政も、勇略と雄気があった。遼東太守の公孫度は、劉政をおそれ、劉政を殺したい。公孫度は、劉政の家族を、すべて捕らえた。劉政は、逃げることができた。邴原は、1ヶ月余、劉政をかくまう。東莱の太史慈は、邴原に仕えたい。邴原は、劉政を太史慈にくっつけた。邴原は公孫度を説得し、劉政の家族を故郷に帰させた。
ぼくは思う。邴原伝、太史慈伝も関わるのか。孔融とかも、からみそう。「魏志」巻11は、そのうち、やりたいと思ってる。袁紹よりも北で、公孫度に反対した「名士」たちが、複雑な話を展開している。青州とも、海を経てつながっている。太史慈が、袁術の滅亡後、独立のマネゴトをした。公孫度をどのように意識したのか。劉備は、この地域で孔融や太史慈とからみ、名を売る。公孫瓚と付き合う。などなど。
邴原伝をひいた盧弼は、「太史慈当帰原~」と記す。ちくま訳では、「太史慈が故郷に帰るところだ。だから邴原は~」とする。ぼくは上で「太史慈は邴原に仕えよう(帰そう)とした」とした。やっぱ、ちくまが正しいのか。どちらにせよ、劉政は太史慈にくっついて、帰郷した。これは揺らがない。太史慈の意図が、ちょっと違うけど。


2祖廟を祭り、天地を郊祀する

分遼東郡為遼西中遼郡,置太守。越海收東萊諸縣,置營州刺史。自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。

公孫度は、遼東郡を分割して、遼西郡と中遼郡をつくり、太守を置いた。

銭大昕はいう。『晋書』地理志はいう。帯方郡は、公孫度が置いたと。『三国志』公孫度伝は、帯方郡の設置を記さない。だが『三国志』東夷伝は、帯方郡の設置を記す。
梁商鉅はいう。この列伝のおわりに、遼東、帯方、楽浪、玄菟を、公孫氏がすべて平定したとある。これら4つは、すべて漢代に設置された郡である。帯方は、楽浪の属県であった。東夷伝はいう。建安年間、公孫康は、いくつかの県を分割して、南の荒地を帯方郡としたと。『晋書』が、帯方郡を設置したのが公孫度とするのは、誤りだ。公孫康である。

海をこえ、東莱の諸縣をおさめ、營州刺史を置いた。

東莱は、臧洪伝にある。東莱は、三面が海にかこまれる。ぼくは思う。山東半島の先は、河東から攻め進んでも、どうも求心力がとどかない。それよりも、遼東からアクセスしやすい。mujinさんは、地中海に例えていらっしゃった。ぼくは、地中海をめぐる歴史を知らないのだが、比較すると、いろいろ言えるのかも知れない。中国の史書は、海をめぐる争いを、あんまり主題としてくれない。それより、地中海の歴史を学んだほうが、かえって、営州について、分かるのかも知れない。

公孫度は、自立して遼東侯、平州牧となった。父の公孫延に、建義侯を追爵した。

呉増僅はいう。初平元年(190)、公孫度は自立して、平州牧となった。平州の号は、ここに初めて現れる。公孫恭、公孫淵のとき、みずから太守になり、みずから燕王を称したが、平州の名をつかわない。公孫度が、このときだけ使った地名だろう。「平州」という行政区画を、正式に設置したわけでない。
『晋書』はいう。曹魏は、遼東ら5郡を分割して、平州をおいた。のちに幽州に合わせた。おそらく公孫淵を滅ぼしたあと置いたが、また省いたのだろう。
ぼくは思う。曹魏が平州に割りふった5県が、公孫淵の支配領域だったのだろう。ここを鎮静するため、州牧を設置したんじゃないかな。


立漢二祖廟,承制設墠於襄平城南,郊祀天地,藉田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍,封永寧 253 鄉侯,度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。度死,子康嗣位,以永寧鄉侯封弟恭。是歲建安九年也。

公孫度は、漢の二祖の廟を立てた。承制して、墠(土山)を襄平の城南に設けた。天地を郊祀した。藉田し、治兵し、鸞路に乘り、九旒と旄頭の羽騎をつける。

『説文』はいう。墠とは、、藉田は武帝紀の建安19年にある。胡三省はいう。羽騎とは、羽林の騎馬である。
ぼくは思う。二廟の設置と天地の郊祀が、とても気になるが、盧弼がコテコテの注釈をつけるわけでない。この記事があるから、今回、公孫度伝をやった。しかし、時系列がよく分からない。ぜんぶ初平元年(190)の出来事とするのは、詰めこみすぎだと思う。公孫瓚伝を読むと、何か分かるのだろうか。建安9年(204)より前だとしか、言えない。

曹操は上表して、公孫度を武威將軍とし、永寧郷侯に封じた。

『後漢書』袁紹伝はいう。建安9年、司空の曹操は上表し、公孫度を奮威将軍とした。
ぼくは補う。陳寿は武威将軍といい、范曄は奮威将軍というから、ちがうなあ。曹操が公孫度に官位をつけたのは、袁紹の子を、北に追いかけた時期だ。逆に言うと、袁紹の子を追うまで曹操は、いくら献帝を擁していても、公孫度に関与できなかった。遼東の自立は、実質的に成立していたのだ。

公孫度は言った。「私は遼東で、王をやってる。なにが永寧郷侯か」と。永寧郷侯の印綬を、武庫にしまった。公孫度が死に、子の公孫康がつぐ。永寧郷侯は、弟の公孫恭がつく。この歳が、建安9年(204)である。

つぎ、曹操が袁尚を追って、突っこんできます。おわり。110315

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遼東の2代目・公孫恭伝

このワクから、2017年の作成です。

十二年、太祖征三郡烏丸、屠柳城。袁尚等奔遼東、康斬送尚首。語在武紀。封康襄平侯、拝左将軍。康死、子晃、淵等皆小、衆立恭為遼東太守。文帝践阼、遣使即拝恭為車騎将軍、仮節、封平郭侯。追贈康、大司馬。

建安十二年、曹操が三郡の烏丸を征し、柳城を屠った。

柳城は、武帝紀 建安十二年に見える。趙苞伝によると、趙苞は遼西太守となり、母を迎えて郡に到り、柳城を経由したと。これは、遼西の郡治が柳城の東にあり、遼西の郡治は陽楽である。

袁尚らは遼東に奔り、公孫康は袁尚の首を斬って送った。武帝紀に見える。公孫康を襄平侯に封じ、左将軍を拝す。公孫康が死ぬと、子の公孫晃・淵らがどちらも小さいから、みな公孫恭を遼東太守とした。文帝が践阼すると、使者を使わして、公孫恭を車騎将軍・仮節とし、平郭侯(平郭は、幽州遼東郡に属する)に封じた。公孫康に、大司馬を追贈した。

孫呉と通交する

初、恭病陰消、為閹人。劣弱不能治国。太和二年淵、脅奪恭位。明帝即位、拝淵揚烈将軍遼東太守。淵、遣使南通孫権。往来賂遺〔一〕。

これより先、公孫恭は陰消を病み、閹人となって生殖能力を失った。劣弱にして治国できない。太和二年、公孫淵が、公孫恭の位を脅奪した。明帝が即位すると

銭大昕によると、明帝は黄初七年に即位し、翌年に太和と改元した。この列伝は、太和二年の文のあと、明帝の即位を置くが、誤りである。「明帝が即位すると」は、衍文である。沈家本は銭大昕を支持し、明帝紀 太和二年に、公孫恭の兄子の公孫淵が位を奪ったとある。

公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に拝した。

明帝紀によると、太和四年、遼東太守の公孫淵を車騎将軍としたとある。ここの揚烈将軍と異なる。劉曄伝に、遼東太守の公孫淵が自立すると、その平定の仕方を提言している。

公孫淵は、使者を遣わして孫権と通交し、賂遺を往来させた。

呉主伝 嘉禾元年三月、将軍の周賀・校尉の裴潜を遼東に行かせたとある。九月、魏将の田豫が要撃し、周賀を成山で斬った。十月、遼東太守の公孫淵は、校尉の宿舒・郎中令の孫綜を遣わして、呉に称藩したと。『晋書』宣帝紀によると、公孫淵を公孫文懿に作る。唐代の忌避である。


〔一〕呉書載淵表権曰「臣伏惟遭天地反易、遇妄之運。王路未夷、傾側擾攘。自先人以来、歴事漢、魏、階縁際会、為国効節、継世享任、得守藩表、猶知符命未有攸帰。毎感厚恩、頻辱顕使、退念人臣交不越境、是以固守所執、拒違前使。雖義無二信、敢忘大恩。陛下鎮撫、長存小国、前後裴校尉、葛都尉等到、奉被敕誡、聖旨弥密、重紈累素、幽明備著、所以申示之事、言提其耳。臣昼則謳吟、宵則発夢、終身誦之、志不知足。季末凶荒、乾坤否塞、兵革未戢、人民蕩析。仰此天命将有眷顧、私従一隅永瞻雲日。今魏家不能採録忠善、褒功臣之後、乃令讒譌得行其志、聴幽州刺史、東萊太守誑誤之言、猥興州兵、図害臣郡。臣不負魏、而魏絶之。蓋聞人臣有去就之分。田饒適斉、楽毅走趙、以不得事主、故保有道之君。陳平、耿況、亦覩時変、卒帰於漢、勒名帝籍。伏惟陛下徳不再出、時不世遇、是以慺慺懐慕自納、望遠視険、有如近易。誠願神謨蚤定洪業、奮六師之勢、収河、洛之地、為聖代宗。天下幸甚。」

『呉書』は公孫淵から孫権への上表を載せる。「わが公孫氏は、先人以来、漢・魏に仕えて藩屏となってきたが、符命の帰属は定まらないようです(後漢も曹魏も、天命を受けた統一王朝でなさそうです)。人臣であれば越境して他国と通交してはいけないので、呉使を拒絶してきましたが、陛下孫権は、前後に裴校尉(裴潜)・葛都尉(未詳?)を遣わしてくれました。魏家は、忠善な人物を採用できず、功臣の子孫ばかり褒賞して、讒言を真に受けて、幽州刺史・東莱太守はだまされ、兵をわが郡に兵を向けてきます。私が魏に背いたのでなく、魏が私に背いたのです。田饒が斉にゆき(『説苑』尊賢伝)、楽毅が趙にはしった(『史記』楽毅伝)は、はじめの君主が仕えるべき人でなかったのであり、移籍すると良き臣下となりました。陳平・耿恭(『後漢書』耿弇伝)も、(はじめの君主を捨てて)漢に帰順し、建国の功臣となりました。孫権は、河洛の地を獲得してください」

公孫淵が、魏を裏切って呉に移ることを、故事で正当化している。田饒・楽毅は、はじめに仕えた君主が、忠臣に攻撃を加えるタイプ。いま魏朝も同じで、藩屏である遼東に、あらぬ理由を付けて攻撃を加えてくると。そして、公孫淵が孫権に期待することは、天下統一。自らを陳平・耿恭になぞらえ、孫権が、前漢・後漢の創始者と同じになることを要請している。離反の理由と、危殆することを、別の故事で説明している。


魏略曰、国家知淵両端、而恐遼東吏民為淵所誤。故公文下遼東、因赦之曰「告遼東、玄菟将校吏民。逆賊孫権遭遇乱階、因其先人劫略州郡、遂成羣凶、自擅江表、含垢蔵疾。冀其可化、故割地王権、使南面称孤、位以上将、礼以九命。権親叉手、北向稽顙。仮人臣之寵、受人臣之栄、未有如権者也。狼子野心、告令難移、卒帰反覆、背恩叛主、滔天逆神、乃敢僭号。恃江湖之険阻、王誅未加。比年已来、復遠遣船、越渡大海、多持貨物、誑誘辺民。辺民無知、与之交関。長吏以下、莫肯禁止。至使周賀浮舟百艘、沈滞津岸、貿遷有無。既不疑拒、齎以名馬、又使宿舒随賀通好。十室之邑、猶有忠信、陥君於悪、春秋所書也。今遼東、玄菟奉事国朝、紆青拖紫、以千百為数、戴纚垂纓、咸佩印綬、曾無匡正納善之言。亀玉毀于匵、虎兕出于匣、是誰之過歟。国朝為子大夫羞之。昔狐突有言。『父教子貳、何以事君。策名委質、貳乃辟也。』

『魏略』によると、魏朝は公孫淵が呉朝とも通交していることを知り、遼東の民が、公孫淵に誤らされる(魏朝に背く)ことを恐れた。ゆえに遼東に文書をくだして(離反を)赦すことには、「遼東・玄菟の将校・吏民に告ぐ。逆賊孫権は、戦乱に乗じて、その先人(孫堅・孫策)が州郡を劫略し、江表で自立した。教化のため、地を割いて王とし、南面して称孤させ、位は上将とし、礼を九命とした。孫権は、魏朝に服従した。人臣の寵を仮り、人臣の栄を受くるに、孫権ほどの者はない。しかし野心に任せて、にわかに反覆し、恩に背いて主に叛き、あえて僭号した。

魏朝から見ると孫権は、このように見える。ただの反乱勢力であったが、教化してあげようと、特別待遇の王爵・九錫を授けた。そのくせ、恩を知らずに離反し、僭号することになったと。使える。

しかし、江湖は険阻なので、王者はまだ誅伐を加えていない。近年、孫呉が遠方から船をつかわし、海路から遼東に貨物をもちこみ、辺境の民をたぶらかして交易している。(遼東の)長吏より以下、これを禁止していない。呉からきた周賀を歓迎し、遼東の宿舒が通交に赴いているようだな。しかし、遼東・玄菟の官僚は、千百もいるのに、だれも(孫呉との交易・外交を)禁じようとしない。なんてこった。

今乃阿順邪謀、脅従姦惑、豈独父兄之教不詳、子弟之挙習非而已哉。若苗穢害田、随風烈火、芝艾俱焚、安能白別乎。且又此事固然易見、不及鑒古成敗、書伝所載也。江南海北有万里之限、遼東君臣無怵惕之患、利則義所不利、貴則義所不貴、此為厭安楽之居、求危亡之禍、賤忠貞之節、重背叛之名。蛮貊之長、猶知愛礼、以此事人、亦難為顔。且又宿舒無罪、擠使入呉、奉不義之使、始与家訣、涕泣而行。及至賀死之日、覆衆成山、舒雖脱死、魂魄離身。何所逼迫、乃至於此。今忠臣烈将、咸忿遼東反覆攜貳、皆欲乗桴浮海、期於肆意。朕為天下父母、加念天下新定、既不欲労動干戈、遠渉大川、費役如彼、又悼辺陲遺餘黎民、迷誤如此、故遣郎中衛慎、邵瑁等且先奉詔示意。若股肱忠良、能効節立信以輔時君、反邪就正以建大功、福莫大焉。儻恐自嫌已為悪逆所見染汙、不敢倡言、永懐伊戚。其諸与賊使交通、皆赦除之、与之更始。」

『魏略』つづき。悪影響は、身内のなかで感染するものである。遠方の孫呉を頼り、魏朝に叛いても、遼東にとって、なにも良いことがない。郎中の衛慎・邵瑁らを遣わして、孫呉と通じた遼東の人を赦す詔を告げる。

権、遣使張弥許晏等、齎金玉珍宝、立淵為燕王。

陳寿本文。孫権は、張弥・許晏らをつかわし、金玉・珍宝をもたらし、公孫淵を燕王とした。

呉主伝 嘉禾(元)〔二〕年三月によると、宿舒・孫綜が還った。太常の張弥・執金吾の許晏・将軍の賀達は、兵1万をひきい、金宝・珍貨、九錫・備物をもって、海路から公孫淵に授けた。


曹魏と通交する

淵、亦恐権遠不可恃。且貪貨物、誘致其使、悉斬送弥晏等首〔二〕。

公孫淵は、孫権が遠くて頼りにならないことを恐れ、さらに(孫呉からの)貨物を貪って、呉使を誘致し、ことごとく張弥・許晏らの首を魏朝に送った。

公孫淵が張弥・許晏を殺したことは、呉主伝 嘉禾二年に引く『呉書』に見える。


〔二〕魏略載淵表曰「臣前遣校尉宿舒、郎中令孫綜、甘言厚礼、以誘呉賊。幸頼天道福助大魏、使此賊虜暗然迷惑、違戻羣下、不従衆諫、承信臣言、遠遣船使、多将士卒、来致封拝。臣之所執、得如本志、雖憂罪釁、私懐幸甚。賊衆本号万人、舒、綜伺察、可七八千人、到沓津。偽使者張弥、許晏与中郎将万泰、校尉裴潜将吏兵四百餘人、齎文書命服什物、下到臣郡。泰、潜別齎致遺貨物、欲因市馬。軍将賀達、虞咨領餘衆在船所。臣本欲須涼節乃取弥等、而弥等人兵衆多、見臣不便承受呉命、意有猜疑。懼其先作、変態妄生、即進兵囲取、斬弥、晏、泰、潜等首級。其吏従兵衆、皆士伍小人、給使東西、不得自由、面縛乞降、不忍誅殺、輒聴納受、徙充辺城。別遣将韓起等率将三軍、馳行至沓。使領長史柳遠設賓主礼誘請達、咨、三軍潜伏以待其下、又駆羣馬貨物、欲与交市。達、咨懐疑不下、使諸市買者五六百人下、欲交市。起等金鼓始震、鋒矢乱発、斬首三百餘級、被創赴水没溺者可二百餘人、其散走山谷、来帰降及蔵竄飢餓死者、不在数中。得銀印、銅印、兵器、資貨、不可勝数。謹遣西曹掾公孫珩奉送賊権所仮臣節、印綬、符策、九錫、什物、及弥等偽節、印綬、首級。」

『魏略』は、公孫淵から魏朝への上表を載せる。「私は前に校尉の宿舒・郎中令の孫綜を遣わし、呉賊を誘った。呉賊はだまされ、使者送ってきました。賊軍は1万といいますが、宿舒・孫綜が見たところ、7-8千が沓津に到ったようです。

孫綜を郎中令とするが、胡三省によると、『晋志』に王国は郎中令を置いたとあり、公孫淵が(燕王として)僭置したのであろうか。
沓津は、斉王紀 景初三年に盧弼注あり。呉の嘉禾三年、孫権が公孫淵を攻めようとして、陸瑁が諫めて、「沓渚は公孫淵の居所から、なおも遠い」と言った。このとき公孫淵は襄平にいた。呉軍は遼東に航海して、沓渚から上陸した。襄平は鉄嶺の故地であり、遼陽から西北して承徳に至り、承徳から西北して鉄嶺に至り、道里は数百であり、ゆえに陸瑁は遠いと言った。

呉使の張弥・許晏と、中郎将の万泰・校尉の裴潜の将吏・兵四百余人は、文書・命服・什物をもたらし、わが郡に運びました。万泰・裴潜は、べつの貨物で(外交のための贈物とは別に持ってきて)、馬を購入しようとしました。軍将の賀達・虞咨は、残りを領して船のところに残りました。

孫呉の人々の行動の事実を、ここで拾うことができる。銭大昭によると、ここに出てくる裴潜は、加藤の裴文行とは別人である。

私は、涼しい季節になったら張弥らを捕らえるつもりでしたが、張弥らの兵が多く……。呉使たちを襲撃して、銀印・銅印・兵器・資貨を接収したという戦いの報告。『三国志集解』もめぼしい注釈なし。
謹んで西曹掾の公孫珩を遣わし、孫権から送られてきた節・印綬・符策・九錫・什物および、張弥らの偽節・印綬・首級を送りますという戦勝報告でした。

孫呉と通交して、魏朝に叛いた。魏朝は天下統一の天命がないから、孫権が中原を平定してくれとも言った。だが、改めて公孫淵が考えてみると、孫権は頼れないから、魏朝と仲直りしたい。魏朝に対する遼東の功績とは、呉使を襲撃すること。そういう理解のもと、きっちり呉使を攻撃した。


又曰「宿舒、孫綜前到呉、賊権問臣家内小大、舒、綜対臣有三息、脩別属亡弟。権敢姦巧、便擅拝命。謹封送印綬、符策。臣雖無昔人洗耳之風、慚為賊権汙損所加、既行天誅、猶有餘忿。」

「さきに宿舒・孫綜を呉に行かせると、孫権はわが一族の構成員について問い、宿舒・孫綜は、私(公孫淵)には三人の息子がおり、公孫脩はべつに亡弟を嗣いでいると答えた。孫権は姦計をめぐらせ、かってに官職を与えてきました。いま孫権からもらった、印綬・符策を(魏朝に)送ります。むかし(尭から禅譲を持ちかけられ)耳を洗った賢者のようではなく(いちど孫権の官爵を受けてしまい)恥じてます」

呉帝になって三年目の孫権は、公孫淵の臣従を喜び、(過剰に)高い官爵を与えた。皇帝になった者は、自王朝の官爵が、有力者に受納されることを喜ぶ傾向がある。魏帝となった初年、曹丕は孫権を大将軍・使持節督交州、領荊州牧事・呉王、九錫にしたが、孫権の判断はそれと同型である。


又曰「臣父康、昔殺権使、結為讎隙。今乃譎欺、遺使誘致、令権傾心、虚国竭禄、遠命上卿、寵授極位、震動南土、備尽礼数。又権待舒、綜、契闊委曲、君臣上下、畢歓竭情。而令四使見殺、梟示万里、士衆流離、屠戮津渚、慚恥遠布、痛辱弥天。権之怨疾、将刻肌骨。若天衰其業、使至喪隕、権将内傷憤激而死。若期運未訖、将播毒螫、必恐長虵来為寇害。徐州諸屯及城陽諸郡、与相接近、如有船衆後年向海門、得其消息、乞速告臣、使得備豫。」

「父の公孫康は、むかし孫権の使者を殺して、仇敵となっていた。いま孫権をだまして期待させ、国力を蕩尽させて、私に至上の官爵を授けさせた。

ここは、すごく使える!

孫権は、宿舒・孫綜を歓迎しました。しかし呉使4名(張弥・許晏・万泰・裴潜)は殺害して梟首され、孫権は悔しがっています。もし天が孫権の事業を衰えさせるなら、孫権は憤死するでしょう。

高い官爵を与えながら、恩をアダで返して、威信を獲得する。公孫淵が孫権に対してやったことは、孫権が曹丕に対してやったことの反復である。しかし公孫淵は、これを恥じる・これによって推戴することを恐れてはいない。むしろ、孫権を出し抜くことで、魏朝に対する功績を積んだみたいな言い草である。ていうか、出し抜くというのは、事後的な弁明であって、ただ裏切っただけである。

もし孫権の滅亡の時期がまだ先なら、攻めてくるはず。徐州の諸屯および城陽の諸郡は(海路で、孫権の領土と)近接している。もし孫権の水軍が来たら、私に知らせてくれれば、防衛を手伝います。

城陽は、武帝紀 建安三年に「分瑯邪、東海、北海為城陽」と、曹操が徐州を分割して新設した郡である。ちくま訳は、城陽を公孫淵の領土とし、魏領の徐州と、公孫氏の領土が近接しているという。違うと思います。


又曰「臣門戸受恩、実深実重、自臣承摂即事以来、連被栄寵、殊特無量、分当隕越、竭力致死。而臣狂愚、意計迷闇、不即禽賊、以至見疑。前章表所陳情趣事勢、実但欲罷弊此賊、使困自絶、誠不敢背累世之恩、附僭盜之虜也。而後愛憎之人、縁事加誣、偽生節目、卒令明聴疑於市虎、移恩改愛、興動威怒、幾至沈没、長為負忝。幸頼慈恩、猶垂三宥、使得補過、解除愆責。如天威遠加、不見仮借、早当麋碎、辱先廃祀、何縁自明、建此微功。臣既喜於事捷、得自申展、悲於畴昔、至此変故、餘怖踊躍、未敢便寧。唯陛下既崇春日生全之仁、除忿塞隙、抑弭纖介、推今亮往、察臣本心、長令抱戴、銜分三泉。」

わが門戸(遼東公孫氏)は、曹氏から恩を受けてきたのに、うっかり呉朝に加担してしまいました。しかし、マジで魏朝のために働くんで、宜しくお願いします。

ただの念押しなので、内容はない。


又曰「臣被服光栄、恩情未報、而以罪釁、自招譴怒、分当即戮、為衆社戒。所以越典詭常、偽通於呉、誠自念窮迫、報効未立、而為天威督罰所加、長恐奄忽不得自洗。故敢自闕替廃於一年、遣使誘呉、知其必来、権之求郡、積有年歳、初無倡答一言之応、今権得使、来必不疑、至此一挙、果如所規、上卿大衆、翕赫豊盛、財貨賂遺、傾国極位、到見禽取、流離死亡、千有餘人、滅絶不反。此誠暴猾賊之鋒、摧矜夸之巧、昭示天下、破損其業、足以慚之矣。臣之慺慺念効於国、雖有非常之過、亦有非常之功、願陛下原其踰闕之愆、采其亳毛之善、使得国恩、保全終始矣。」

私は魏臣としての光栄を被っていたが、恩情に報いず、罪をおかして譴責をまねき、魏朝に処罰されても仕方ないです。危うい判断をして、偽って呉と通交し、魏朝に功績で報いなかったのは、天に罰せられても仕方ないことです。ゆえに、1年の失敗を取り返すべく、呉使を誘い、財貨と高位をひきだし、使者らを捕らえ、呉兵を撃破して、回復不能なダメージを与えてやったのです。

くり返しである。


魏朝が使者を送り、楽浪公を賜与

明帝於是拝淵大司馬、封楽浪公。持節、領郡、如故〔三〕。
〔三〕魏名臣奏載中領軍夏侯献表曰「公孫淵昔年敢違王命、廃絶計貢者、実挟両端。既恃阻険、又怙孫権。故敢跋扈、恣睢海外。宿舒親見賊権軍衆府庫、知其弱少不足憑恃、是以決計斬賊之使。又高句麗、濊貊与淵為仇、並為寇鈔。今外失呉援、内有胡寇、心知国家能従陸道、勢不得不懐惶懼之心。因斯之時、宜遣使示以禍福。

明帝は、公孫淵を大司馬に拝し、楽浪公に封じた。持節・領郡は、もとのまま。

『魏名臣奏』に載する中領軍の夏侯献の上表に曰く、

『晋書』職官志によると、中領軍将軍は、魏の官なり。漢の建安四年、曹操の丞相府に自ら置いた。漢中を抜くと、曹休を中領軍とした。文帝が践祚すると、はじめて領軍将軍を置き、曹休を任じた。五校・中塁・武衛ら三営をつかさどる。

公孫淵は、汚名に逆らって、計貢(会計報告と物資献上)を廃絶したのは、両端を差し挟んだから。地形と孫権を頼りにして、海路に勢力を拡げた。(遼東の臣)宿舒は、みずから孫権の軍勢と府庫を視察にゆき、呉朝を頼りにできないと考え、呉使を斬った。さらに高句麗・濊貊は、公孫淵に侵寇している。外に呉朝の救援がなく、内に胡族の侵略があるから、恐れずにはおれない。遼東にとっての禍福を、使者を送って知らせましょう。

遼東が呉朝を見限った理由を、宿舒がじかに孫呉の装備を見て、頼りにならないと思った。……と、魏朝で認識されていたというのが面白い。遼東が想定する呉軍(とくに海路をゆける水軍)は、もっと凄かったのか。ということは、海路を航行する技術は、遼東のほうが上だったとか。


奉車都尉鬷弘、武皇帝時始奉使命、開通道路。文皇帝即位、欲通使命、遣弘将妻子還帰郷里、賜其車、牛、絹百匹。弘以受恩、帰死国朝、無有還意、乞留妻子、身奉使命。公孫康遂称臣妾。以弘奉使称意、賜爵関内侯。弘性果烈、乃心於国、夙夜拳拳、念自竭効。冠族子孫、少好学問、博通書記、多所関渉、口論速捷、辯而不俗、附依典誥、若出胸臆、加仕本郡、常在人右、彼方士人素所敬服。若当遣使、以為可使弘行。弘乃自旧土、習其国俗、為説利害、辯足以動其意、明足以見其事、才足以行之、辞足以見信。若其計従、雖酈生之降斉王、陸賈之説尉佗、亦無以遠過也。欲進遠路、不宜釈騏驥。将已篤疾、不宜廃扁鵲。願察愚言也。」

(夏侯献の上表つづき)奉車都尉の鬷弘は、武皇帝のときに遼東への使者となり、道路を開通させた。文皇帝が即位すると、遼東と使者を往来させたいから、鬷弘に妻子を連れて帰郷させ、車・牛・絹百匹を賜った。

このとき、鬷弘の妻子がいた場所は、鄴か。奉車都尉として、どこで就業していたか分からないが、人質である。曹丕は鬷弘に、「お前を信頼しているから、妻子を人質には取らない。その代わり、大任を引き受けてくれ」と、交渉を持ちかけたと。それほど、遼東への使者は危険であり、また適任者がほかにいなかった。

鬷弘は恩を受け、命をかけて魏朝に尽くすべく、妻子を留めて(帰郷させず)使者となった。(鬷弘が使者になったおかげで)魏初に公孫康が「臣妾」と称したのです。鬷弘は、関内侯を賜爵されました。
鬷弘の性は果烈で、国に心をよせ、朝夕に拳拳とつつしみ、功績を立てようと念じています。冠族の子孫で、学問を好み、ひろく書記に通じ、多く関渉して、知識も弁舌もすぐれ、本郡に仕えれば、常に人の右に在り、彼方の士人は敬服しています。鬷弘を使者にすべきです。遼東の国俗にも馴染んでおり、公孫淵を魏朝に服従させられるでしょう。酈生が斉王(田横)を降し、陸賈が尉佗を説いた前例と、変わりません。もし鬷弘が病気なら、惜しまず急ぎ名医を送るべきです」と。

魏朝から見れば、遼東は(宿舒の報告に基づき)自らの判断で呉朝と対立したものの、それは向こう見ずな行動。いたずらに孤立を招いただけ。錯乱したも同然なので、ここで魏朝が「ありのままの状況分析」を諭してやれば、消去法により、魏朝に服属せざるを得ない。その人選を、夏侯献がウダウダ述べている。
文皇帝(曹丕)の時代、遼東と魏朝は関係を結んでいたのだが、遼東が呉朝と結んで断交した。これを復活させるには、鬷弘の尽力が必要。つまり、魏→呉→魏と、遼東を引き戻すのは、だれにでもできる仕事ではなく、成否の分かれる交渉ごとだった。逆にいえば、まだ主導権・決定権が遼東にある。夏侯献が、田横・尉佗に例えるほどには、独立勢力である。遠隔地の優位性のためか。


魏朝の使者が、遼東に至る

使者至、淵設甲兵為軍陳、出見使者。又数対国中賓客、出悪言〔四〕。
〔四〕呉書曰、魏遣使者傅容、聶夔拝淵為楽浪公。淵計吏従洛陽還、語淵曰「使者左駿伯、使皆択勇力者、非凡人也。」淵由是疑怖。容、夔至、住学館中。淵先以歩騎囲之、乃入受拝。容、夔大怖、由是還洛言状。

使者が至ると、公孫淵は甲兵を設けて軍陳となし、出でて使者に見えた。さらに、しばしば国中の賓客にむけ、悪言を出した。
『呉書』によると、魏が使者の傅容・聶夔をつかわし、公孫淵に楽浪公を拝した。

夏侯献が推薦した、鬷弘は、けっきょく使者にならなかった。老病により、ほかの者が任命されたのだろうか。

公孫淵の計吏が洛陽から還ると、報告した。

公孫淵が魏使を迎え、正式に国交を回復するより前に、年次の会計報告は再開されていた。すると、孫権が呉王になったときも、魏朝への使者(でなくとも、会計報告の計吏)は、定期的に往復していたことになる。

「使者の左駿伯は、みな勇力ある者を選ばせており、凡人ではない」と。これにより、公孫淵は疑い怖れた。傅容・聶夔が至ると、学館のなかに留められた。(事前のデマを公孫淵が信じて)歩騎に学館を囲ませた。傅容・聶夔はおおいに怖れ(公孫淵に友好の意思がなく、威圧されたと)洛陽に還って報告した。

つぎの段で、遼東を接収にきた毋丘倹は、公孫淵に追い返される。つまり、この魏使の役割は、失敗したのである。外に呉朝、内に胡族、という(魏朝が見積もった)遼東の内憂外患は、遼東を自壊させるには至らなかった。


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燕王の自称、遼東の滅亡

毋丘倹が兵を向ける

景初元年。乃遣幽州刺史毌丘倹等、齎璽、書徴淵。淵遂発兵逆於遼隧、与倹等戦。倹等不利而還。淵遂自立為燕王、置百官有司。遣使者持節、仮鮮卑単于璽、封拝辺民。誘呼鮮卑、侵擾北方。

景初元年、幽州刺史の毌丘倹らをつかわし、璽・書を齎して公孫淵を徴した。公孫淵は、ついに兵を発して遼隧(遼東郡)で迎撃し、毋丘倹らと戦った。毋丘倹らは、利なく還った。

魏軍を追い返してから、燕王を称した。毋丘倹が目指したのは、「徴す」とあるが、実態は、公孫淵を遼東から引き剥がすこと。情況で追いこみ、「自発的に」公孫淵が遼東を離れてくれれば、平定戦をやらずにすむ。しかし、戦闘に持ち込まれてしまった。

公孫淵はついに自ら立ちて燕王と為り、百官・有司を置いた。使者を遣わして持節させ、鮮卑に単于璽を仮し、辺民を封拝した。鮮卑を誘呼し、北方を侵擾した。

明帝紀によると、景帝元年七月、幽州刺史の毋丘倹は、諸軍および鮮卑・烏丸をひきい、遼東の南界にゆく。璽書もて公孫淵を徴すと、公孫淵は兵を発して反し、毋丘倹は討伐した。たまたま十日も雨が続き、遼水の水位があがったので、詔して毋丘倹を右北平に撤退させた。公孫淵は、毋丘倹が撤退してから、燕王となり、紹漢元年と改元した。


遼東の臣が、魏朝に弁明する

〔五〕魏書曰、淵知此変非独出倹、遂為備。遣使謝呉、自称燕王、求為与国。然猶令官属上書自直于魏曰「大司馬長史臣郭昕、參軍臣柳浦等七百八十九人言。奉被今年七月己卯詔書、伏読懇切、精魄散越、不知身命所当投措。昕等伏自惟省、螻蟻小醜、器非時用、遭値千載、被受公孫淵祖考以来光明之徳、恵沢沾渥、滋潤栄華、無寸尺之功、有負乗之累。遂蒙褒奨、登名天府、並以駑蹇附龍託驥、紆青拖紫、飛騰雲梯、感恩惟報、死不択地。臣等聞明君在上、聴政采言、人臣在下、得無隠情、是以因縁訴譲、冒犯愬寃。

『魏書』によると、公孫淵はこの変事(幽州軍の到来)が、毋丘倹の独断でない(魏朝の方針である)ことを知り、防備をした。呉朝に謝罪の使者をやり、みずから燕王と称し、同盟国になるように求めた。
他方、官属に魏朝へに上書を作らせた。大司馬長史である臣の郭昕・参軍である臣の柳浦ら、789人が申し上げます。

大司馬とは、公孫淵が魏朝からもらった官位。毋丘倹の軍を拒んだとき、公孫淵は燕王を自称した。同時に、呉朝には、「呉の燕王」として連絡をとり、魏朝には、「魏の大司馬」として連絡を取った。燕王というのが、まったくの自称なのか、呉朝に由来するのか。史書に自称とあっても、「呉の燕王」である可能性が残る。魏朝の立場から見たら、全くの独自でも、呉の藩王でも、同じく自称となる。末期の公孫淵は「呉の燕王」として、魏朝との戦いに挑んだのか。最後、公孫淵は呉朝と同盟国であることを望んだ。なぜなら、魏と敵対したから、、という、現実に引っ張られた理由なんだけど。このように、爵位を「借りパク」することが、どこまで行われているのか。

今年七月己卯の詔書を読んで、びびりました。曹氏を裏切ったりしません。

郡在藩表、密邇不羈、平昔三州、転輸費調、以供賞賜、歳用累億、虚耗中国。然猶跋扈、虔劉辺陲、烽火相望、羽檄相逮、城門昼閉、路無行人、州郡兵戈、奔散覆没。淵祖父度初来臨郡、承受荒残、開日月之光、建神武之略、聚烏合之民、掃地為業、威震燿于殊俗、徳沢被于羣生。遼土之不壊、実度是頼。孔子曰、『微管仲、吾其被髪左袵。』向不遭度、則郡早為丘墟、而民係於虜廷矣。遺風餘愛、永存不朽。

遼東郡は藩表(辺境)にあり、胡族と隣りあっており、かつての三州(青州・幽州・冀州)を鎮定するにも、防衛コストは膨大で、中原を損耗させました。しかし公孫淵の祖父の公孫度が、胡族を鎮圧したのです。ほら、末期漢朝のための功績があるでしょ。

度既薨殂、吏民感慕、欣戴子康、尊而奉之。康践統洪緒、克壮徽猷、文昭武烈、邁徳種仁。乃心京輦、翼翼虔恭、佐国平乱、効績紛紜、功隆事大、勲蔵王府。度、康当値武皇帝休明之会、合策名之計、夾輔漢室、降身委質、卑己事魏。匪処小厭大、畏而服焉、乃慕託高風、懐仰盛懿也。武皇帝亦虚心接納、待以不次、功無巨細、毎不見忘。又命之曰、『海北土地、割以付君、世世子孫、実得有之。』皇天后土、実聞徳音。臣庶小大、豫在下風、奉以周旋、不敢失墜。

公孫度が死ぬと、吏民の推戴により、公孫康が嗣ぎました(官職の私物化ではありません)。公孫康も、国を佐けて乱を平らげる功績が、王府に登録されています。だから武帝曹操は、「海北の土地を割いて、きみに任せる。子孫まで領有せよ」と約束してくれたのです。

淵生有蘭石之姿、少含愷悌之訓、允文允武、忠恵且直。生民欽仰、莫弗懐愛。淵纂戎祖考、君臨万民、為国以礼、淑化流行、独見先覩、羅結遐方、勤王之義、視険如夷、世載忠亮、不隕厥名。孫権慕義、不遠万里、連年遣使、欲自結援、雖見絶殺、不念旧怨、纖纖往来、求成恩好。淵執節弥固、不為利迴、守志匪石、確乎弥堅。猶懼丹心未見保明、乃卑辞厚幣、誘致権使、梟截献馘、以示無二。呉雖在遠、水道通利、挙帆便至、無所隔限。淵不顧敵讎之深、念存人臣之節、絶彊呉之歓、昭事魏之心、霊祇明鑒、普天咸聞。

公孫淵が遼東を嗣いだ。孫権は義を慕い、万里を通しとせず、連年にわたり使者を派遣し、通交を望んだ。絶ち殺されても、それを怨みとせず、せっせと往来して、友好を結ぼうとした。公孫淵は、ますます節度を守り、きつく孫権を拒んだ。しかし、赤心が明らかでない(魏朝に孫権との通交を疑われる)ことを恐れ、辞を卑く幣を厚くして、孫権の使者を誘い出し、その使者を斬って魏朝への忠誠を証明した。

このあたりが、詭弁なんですね。分かります。

呉は遠いが、水路が通じており、船が行きやすく、隔絶した地域ではない。公孫淵は、孫権から怨まれる(海路から攻撃される)リスクを冒してでも、あえて呉使を誘って斬り、魏朝に服事する心を示したのです。

陛下嘉美洪烈、懿茲武功、誕錫休命、寵亜斉、魯、下及陪臣、普受介福。誠以天覆之恩、当卒終始、得竭股肱、永保禄位、不虞一旦、横被残酷。惟育養之厚、念積累之効、悲思不遂、痛切見棄、挙国号咷、拊膺泣血。夫三軍所伐、蛮夷戎狄、驕逸不虔、於是致武、不聞義国反受誅討。蓋聖王之制、五服之域、有不供職、則脩文徳、而又不至、然後征伐。淵小心翼翼、恪恭于位、勤事奉上、可謂勉矣。尽忠竭節、還被患禍。小弁之作、離騷之興、皆由此也。就或佞邪、盜言孔甘、猶当清覧、憎而知善。讒巧似直、惑乱聖聴、尚望文告、使知所由。若信有罪、当垂三宥。若不改寤、計功減降、当在八議。而潜軍伺襲、大兵奄至、舞戈長駆、衝撃遼土。犬馬悪死、況於人類。吏民昧死、挫辱王師。

魏軍に攻められる理由はないのに、ショックです。

淵雖寃枉、方臨危殆、猶恃聖恩、悵然重奔、冀必姦臣矯制、妄肆威虐、乃謂臣等曰、『漢安帝建光元年、遼東属国都尉龐奮、受三月乙未詔書、曰収幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光。推案無乙未詔書、遣侍御史幽州(牧)[収]考姦臣矯制者。今刺史或儻謬承矯制乎。』臣等議。以為刺史興兵、搖動天下、殆非矯制、必是詔命。淵乃俛仰歎息、自傷無罪。

公孫淵は(魏朝に対して)無罪なのに、幽州軍に攻められた。姦臣(毋丘倹)が制詔をまげて、かってに暴虐を働いたと思った。そこでわれら(遼東の臣に)言った。「後漢安帝の建光元年、遼東属国都尉の龐奮は、三月乙未の詔書を受け、それによると、幽州刺史の馮煥・玄菟太守の姚光を捕らえよとあった。考えてみるに、三月乙未の詔書なんかない。侍御史を幽州牧のもとに派遣し、詔書を偽造した者を捕らえたという。いま刺史(毋丘倹)は、制詔をいつわったのではないか」と思ったよと。

『范書』安帝紀によると、建光元年正月、幽州刺史の馮煥は、2郡の太守を率い、高句麗・濊貊を討ったが克たず。四月甲戌、遼東属国都尉の龐奮は、偽の璽書を受け、玄菟太守の姚光を殺したと。
『范書』によると、龐奮は、ニセ璽書にだまされて、姚光を殺してしまった。公孫淵による引用だと、龐奮はニセを見抜いたような言い草。内容の一致度よりも、地域の一致度のほうが、重視されたようである。ともあれ、公孫淵の言い方は、毋丘倹を敵に回すやり方。攻撃されたとき、「毋丘倹の暴走っすよね。魏朝は、無罪のオレを攻撃したりしませんよね」と、まず毋丘倹をバカ扱いしてみる。


深惟土地所以養人、窃慕古公杖策之岐、乃欲投冠釈紱、逝帰林麓。臣等維持、誓之以死、屯守府門、不聴所執。而七営虎士、五部蛮夷、各懐素飽、不謀同心、奮臂大呼、排門遁出。近郊農民、釈其耨鎛、伐薪制梃、改案為櫓、奔馳赴難、軍旅行成、雖蹈湯火、死不顧生。淵雖見孤棄、怨而不怒、比遣敕軍、勿得干犯、及手書告語、懇惻至誠。而吏士凶悍、不可解散、期於畢命、投死無悔。淵懼吏士不従教令、乃躬馳騖、自往化解、僅乃止之。一飯之恵、匹夫所死、況淵累葉信結百姓、恩著民心。自先帝初興、爰暨陛下、栄淵累葉、豊功懿徳、策名褒揚、辯著廊廟、勝衣挙履、誦詠明文、以為口実。埋而掘之、古人所恥。小白、重耳、衰世諸侯、猶慕著信、以隆霸業。詩美文王作孚万邦、論語称仲尼去食存信。信之為徳、固亦大矣。

公孫淵は、古公亶父が岐山に行った故事(国を捨てて本拠地を移動させた)に従い、官服を捨てて野に下ろうとしました。公孫淵は、魏朝から処罰されるなら、受け入れる覚悟が出来ている。

『国語』に出典を持つ「埋而掘之、古人所恥」は、呉主伝にも「埋而掘之、古人之所恥」とあり、共通してる。でも、正統性にまつわる議論で使っているのではないから、共通性を指摘しても、とくに益しない。


今呉、蜀共帝、鼎足而居、天下搖蕩、無所統一、臣等毎為陛下懼此危心。淵拠金城之固、仗和睦之民、国殷兵彊、可以横行。策名委質、守死善道、忠至義尽、為九州表。方今二敵闚𨵦、未知孰定、是之不戒、而淵是害。茹柔吐剛、非王者之道也。臣等雖鄙、誠窃恥之。若無天乎、臣一郡吉凶、尚未可知。若云有天、亦何懼焉。臣等聞仕於家者、二世則主之、三世則君之。臣等生於荒裔之土、出於圭宝之中、無大援於魏、世隷於公孫氏、報生与賜、在於死力。昔蒯通言直、漢祖赦其誅。鄭詹辞順、晋文原其死。臣等頑愚、不達大節、苟執一介、披露肝胆、言逆龍鱗、罪当万死。惟陛下恢崇撫育、亮其控告、使疏遠之臣、永有保持。」

いま呉蜀に皇帝がおり、天下に鼎立しており、統一されていない。遼東を攻めている場合ですか(恐縮し尽くしたあと、威圧に入る)。むかし蒯通が漢祖に赦され(『漢書』蒯通伝)、鄭詹が晋文公から赦された(『国語』)。われらが主の公孫淵を、赦して下さい。170730

司馬懿に攻撃される

二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月軍至遼東〔六〕。

景初二年春、太尉の司馬懿が公孫淵を征した。六月、軍は遼東に至った。

〔六〕漢晋春秋曰、公孫淵自立、称紹漢元年。聞魏人将討、復称臣於呉、乞兵北伐以自救。呉人欲戮其使、羊衜曰「不可、是肆匹夫之怒而捐霸王之計也。不如因而厚之、遣奇兵潜往以要其成。若魏伐淵不克、而我軍遠赴、是恩結遐夷、義蓋万里、若兵連不解、首尾離隔、則我虜其傍郡、駆略而帰、亦足以致天之罰、報雪曩事矣。」権曰「善」。乃勒兵大出。謂淵使曰「請俟後問、当従簡書、必与弟同休戚、共存亡、雖隕于中原、吾所甘心也。」又曰「司馬懿所向無前、深為弟憂也。」

『漢晋春秋』によると、公孫淵は自ら立ち、紹漢元年と称した。魏軍が討伐にくると聞き、ふたたび呉に称臣し、呉軍が北伐して、遼東を救うことを求めた。呉朝は遼東の使者を殺害しようとした。羊衜が反対した。

張弥・許晏の恨みを晴らそうとしたのである。
羊衜は、『呉志』孫権伝 赤烏二年に見える。

「ダメです。殺害するのは、匹夫の怒をほしいままにして、覇王の計を捨てること。使者を厚遇しておき、ひそかに奇兵を派遣し、遼東の要地を征圧しなさい。もし魏軍が公孫淵に克たねば、呉軍が遠くまで助けてやったことになり、恩義が知れわたる。もし兵が連なって解けず(魏軍が投入され)首尾が隔離(遼東軍が分断)されたら、呉軍は遼東郡を攻撃して、天罰を加えて屈辱を雪ごう」と。孫権は同意した。

孫権が合理的な判断をしたところ。ここに至ると、遼東は、魏軍・呉軍を両面から敵に回している。もう、持ち堪える理由がない。ぎゃくに考えると、魏の呉王孫権も、同じことになるのが自然であった。むしろ、呉王孫権が持ち堪えたことが不思議。

孫権は大軍を出した。公孫淵に使者を送り、「弟である公孫淵と、損亡をともにしよう。もし中原で滅亡しても、(公孫淵と一緒なら)甘受する」と。

胡三省はいう。公孫淵は呉に謝って燕王と自称したのは、兄弟の国となることを求めたのである。ゆえに孫権は、遼東を「弟」と称したのである。盧弼によると、上文で「呉に称臣した」とあり、整合しない。けだし孫権の譎である。つまり、称臣した遼東を、「弟」と持ちあげて、気分をよくしてやった。

さらに、「司馬懿は向かうところ敵なく、弟のことがひどく心配」と。

『晋書』宣帝紀によると、公孫淵は魏軍がくると聞くと、孫権に救いを求めた。孫権は兵を出したが、遥かに声援をしたのみ。公孫淵に文書を送り、「司馬公は、用兵を善くし、変化すること神のごとし。向かうところ前なし」と。胡三省は、これは晋臣の作文であり、孫権がこれを言っていないと。


淵遣将軍卑衍、楊祚等、歩騎数万屯遼隧。囲塹二十餘里。宣王軍至。令衍逆戦。宣王遣将軍胡遵等、撃破之。宣王令軍、穿囲、引兵東南向。而、急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進至首山。淵復遣衍等迎軍、殊死戦。復撃、大破之。遂進軍造城下、為囲塹。会霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口、径至城下。雨霽、起土山、脩櫓、為発石連弩射城中。淵、窘急。糧尽、人相食、死者甚多。将軍楊祚等、降。八月丙寅夜大流星長数十丈、従首山東北、墜襄平城東南。壬午、淵衆潰。与其子脩将数百騎、突囲東南走。大兵急撃之、当流星所墜処、斬淵父子。城破。斬相国以下首級以千数、伝淵首洛陽。遼東帯方楽浪玄菟、悉平。

公孫淵は、将軍の卑衍・楊祚らを派遣し、歩騎数万で遼隧に屯した。塹を囲うこと二十餘里。

『通鑑考異』によると、『晋書』宣帝紀に、南北六七十里とある。『通鑑』は、公孫淵に従うという。

司馬懿軍が至る。卑衍らは逆戦した。司馬懿は、将軍の胡遵らに、卑衍を撃破させた。……戦いの経過の『三国志集解』は、また後日。

遼東滅亡の怪異

初、淵家数有怪。犬冠幘絳衣上屋。炊、有小児蒸死甑中。襄平北、巿生肉、長囲各数尺、有頭目口喙、無手足而動搖。占曰「有形不成、有体無声。其国滅亡」始、度以中平六年拠遼東。至淵三世、凡五十年而滅〔一〕。

はじめ、公孫淵の家では、しばしば怪異があった。犬が幘を冠り衣を絳て屋に上った。炊では、小児が甑中で蒸死した。襄平の北で、生肉を売り、長囲はそれぞれ数尺、頭目・口喙があり、手足がなく動き揺れた。占いに曰く、「形ありて成らず、体ありて声なし。それ国の滅亡なり」と。はじめ、公孫度は、中平六年に遼東に拠った。公孫淵に至るまで3世、凡そ50年で滅びた。

侯康によると、『史通』雑説上に引く魚豢『魏略』によると、青龍・景初のとき、彗星が箕を出て徹にのぼった。これは遼東を埽除して更置するもの。遼東公孫氏の滅亡は、もう天意であって、人間にはどうしようもない。


公孫氏が送った任子・公孫晃

〔一〕魏略曰、始淵兄晃為恭任子、在洛、聞淵劫奪恭位、謂淵終不可保、数自表聞、欲令国家討淵。帝以淵已秉権、故因而撫之。及淵叛、遂以国法繋晃。晃雖有前言、冀不坐、然内以骨肉、知淵破則己従及。淵首到、晃自審必死、与其子相対啼哭。時上亦欲活之、而有司以為不可、遂殺之。

『魏略』によると、はじめ公孫淵の兄の公孫晃は、公孫恭の任子となり、洛陽にいた。

曹丕が孫権に求めたのは、このポジションの近親者を任子にすること。

公孫淵が公孫恭の位を強奪したと聞き、公孫淵は勢力を保てないと考え、しばしば上表して、魏朝に遼東討伐を提言した。皇帝は、公孫淵がすでに孫権を棄てていたから、慰撫しておいた。
公孫淵が叛すると、国法によって公孫晃を繋いだ。公孫晃は、前言(公孫淵討伐の進言)があるので、連坐を望まないが、しかし近親なので、罪が自らに及ぶことを知っていた。公孫淵の首が至ると、死罪を悟って、子供たちと泣いた。皇帝は公孫晃を活かしたいが、有司が反対したから、ついに殺した。170730

高柔伝によると、公孫晃は、兄の公孫晃を、任子として内侍させた。公孫淵が叛いた後、皇帝は公孫晃を市斬にするのが忍びず、獄死させようとした。高柔が(市斬せよと)諫めたが、皇帝は聴かず、金屑を賜って公孫晃を自殺させた。
胡三省によると、公孫晃はしばしば公孫淵の離反を述べており、一緒に離反したのではない。皇帝はこれを殺して、一族を殺したい。市で刑に処すには名分がないから、獄で殺したのである。

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