蜀漢 > 『華陽国志校補図注』より

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劉備が皇帝に即位する

常璩『華陽国志』を読みます(以下、『常志』)。
ザツな抄訳をするのではなく、任乃強『華陽国志校補図注』で行われている校勘・注釈を読んでいきます。

建安二十五年=延康元年

[建安]二十五年春正月、魏武王薨、嗣王丕即位、改元延康。
蜀伝聞漢帝見害、先主乃発喪、制服、追謚曰、孝愍皇帝。
所在並言衆瑞。

校補図注:『陳志』先主伝は、この後に「日月相属」四字があり、それは正月から四月に、符瑞の上書がひっきりなしだったことを刺す。前年、関羽が于禁を捕らえたとき、符命の発動が言われた。許靖らは「黄龍が武陽赤水にあらわれ、九日で去った」、「襄陽の男子である張嘉・王休が玉璽を献じた」などと言い、先主伝に見える。常璩が採録する劉豹らの符瑞は、そのなかの代表であり、常璩が節略している。

故議郎陽泉亭侯劉豹・

校補図注:劉豹は宗室として(後漢の)議郎になり、劉焉に随って入蜀したが、高齢のため公職になかった。陽泉は侯国で、『続漢志』によると廬江郡に属する。劉禅が設置した、広漢郡徳県の陽泉亭の侯ではない。

青衣侯向挙・

校補図注:青衣侯は、青衣の夷邑の君長である。建安二十年、名号侯を設置したとき、賨邑侯を同じように封建した(『巴志』注)。劉備の告天文にある、劉備を勧進したという「蛮夷の君長」は、彼らのことである。

偏将軍張裔・黄権、〔大〕司馬属陰純・

先主伝に従い、「大」一字を補う。校補図注:陰純は未詳。

別駕趙莋・

趙莋は、巴西の人。劉璋のとき、巴郡太守となった(二牧志)。

治中楊洪・従事祭酒何宗・

何宗は、蜀郡郫県の人(楊戯伝)。

議曹従事杜瓊・勧学従事張爽・尹黙、

校補図注:張爽は未詳。

(譙)周〔羣〕

校補図注:先主伝は「譙周」に作るが、譙周はまだ蜀に仕えていないから、周羣に作るのが正しい。周羣の父は周舒であるが、周舒は讖緯に詳しい。校補図注に、周羣の父・周舒が関与したと考えるべき論証がされている。

等上言、「河洛符験

先主伝は「臣聞河図洛書・五経讖緯」に作る。常璩の節略か。

孔子所甄。

先主伝は、「孔子所甄」の後ろに「験応自遠。謹案『洛書甄曜度』曰、『赤三日……』」とあり、常璩は少ない。

〔『洛書甄曜度』曰〕、

「赤三日」に繋ぐためには、先主伝に基づき、図讖の書名を補わなければならない。書名は節略できない。

「赤三日、徳昌九世、会備合為帝際」。『洛書宝号命』曰、

『洛宝書号命』に作る版本もあるが、先主伝に従う。

「天度帝道、備称皇」。

先主伝は、『洛書甄曜度』の文が、下に「統握契、百成不敗」と続く。先主伝は、『洛書録運期』と『孝経鉤命決解』の二書からも引用するが、節略されている。

又言、「周羣父未亡時、数言西南有黄気、立数十丈、而景雲祥風従璇璣下、来応之。如『図』・『書』、必有天子出。方今大王応際而生、与神合契。願速即洪業、以寧海内」。

もとの上表は先主伝にあり、常璩が2百字近くを削る。この上表については、先主伝のほうが精度が高く、常璩に史料的価値はない。
校補図注:「周羣父」は、先主伝で「臣父羣」となっているが、周羣の父の周舒のこと。周舒は、讖緯学者であり、1つ上の世代だから時期も合うと。

先主未許。

劉備への皇帝勧進の時期について。『三国志』先主伝は、曹丕の皇帝即位後(延康元年冬)、勧進の記事が始まる。しかし『華陽国志』は、延康改元(同年春)勧進を始めたとする。すなわち、先主伝は「曹丕が献帝を殺害して皇帝になった」、『華陽国志』は「曹丕が献帝を殺害して改元した」という扱い。いずれも誤報だが。
劉備の皇帝即位の時期は確定できるが、それの「前日譚」をどこに配置するかで、だいぶ印象が変わる。われわれは、『三国志』先主伝に基づき、曹丕の皇帝即位までは劉備が称帝を言い出さなかったと思っていますが…、『華陽国志』では、曹丕が皇帝になる前から、劉備の皇帝即位を言っていたことになる。曹丕の皇帝即位に「対抗」したのではなく、献帝殺害を受けて、曹丕が皇帝であろうがなかろうが、劉備は皇帝になる世論を作っていた。
『華陽国志』は、明らかに先主伝の節略なので(残念なことに、この部分は、先主伝のほうが一方的に優れている)、『華陽国志』を根拠に、先主伝の時系列・記述順序を覆すことはできないが、解釈の可能性は開かれた。延康期から(曹丕が皇帝になる前から)劉備が皇帝になる世論が、蜀地方で高まっていたと。

冬、魏王丕即皇帝位、改元黄初。漢献帝遜位、為山陽公。

章武元年

章武元年、魏黄初二年也。春、太傅許靖・安漢将軍麋竺・軍師将軍諸葛亮・太常頼恭・光祿勲黄権・少府王謀等

先主伝は「乃」を「表」に作る。

勧先主紹漢絶統、即帝号。先主不許。

校補図注:常璩が陳寿を削ったことは確実。王崇『蜀書』の時点で、すでにここまで削られていたか。


亮進曰、「昔呉漢・耿弇等勧世祖。世祖辞譲。耿純進曰、『天下英雄喁喁、冀有所望。若不従議者、士大夫各帰(其)〔求〕主、

この「亮進曰」からは、諸葛亮伝に乗り換えられている。諸葛亮伝に従って、「其」を「求」に改める。

〔為〕従公也。

諸葛亮伝に従うならば、「為」一字を補える。

世祖感之。今曹氏篡漢、天下無主、大王紹世而起、乃其宜也。士大夫随大王久勤苦者、亦欲望尺寸之功、如純言耳」。先主乃従之。

校補図注:耿純の言葉は、現存『東観記』に僅かに「天時人事已可知矣」とあるだけ。けだし諸葛亮は、班固『光武紀』あるいは『耿純伝』を見たのだろう。范曄『後漢書』は、文が異なるが意味が同じ。別系統の後漢の史料である。


亮与博士許慈・議郎孟光建立礼儀、択令辰、〔上尊号〕。

先主伝に従い、「上尊号」三字を補う。


費詩上疏曰、「殿下以曹操父子逼主篡位、故乃羈旅萬里、(糺)〔糾〕合士衆、将以討賊。今大敵未克而先自立、恐人〔心〕疑惑。

費詩伝に従うなら、「心」一字を補える。

昔高祖与楚約、先破秦者王。及屠咸陽、獲子嬰、猶〔懐〕推譲。

費詩伝に従うなら、「懐」一字を補える。

況今殿下未出門〔庭〕、便欲自立〔邪〕。

費詩伝に従うなら、「庭」と「邪」を補える。

愚臣誠不為殿下取也」。
朝廷左遷詩、部永昌従事。

校補図注:左遷は官位を落とすこと。漢制では、州府の官属には、「部郡国従事、毎郡国各一人、主督促文書、察挙非法」が設置された(『続百官志』)。また「諸部従事」ともいった(『樊敏碑』)。
永昌は、益州のもっとも遠いところで、部永昌従事は、益州の諸部従事のなかでも、もっとも官位が低い。費詩は、牂牁太守、州前部司馬となっており、どちらも二千石。(劉焉が州軍を分けて前後左右の四部とし、それぞれ司馬を置いて軍を統べさせたと、『二牧志』にある)。部従事は、秩はたったの百石(『続百官志』)。


夏四月丙午、先主即帝位、大赦、改元章武。

先主伝に載せる『告天表』に、「建安二十六年四月丙午」とある。常璩はこれを地の文に開いている。

以諸葛亮為丞相、假節、録尚書〔事〕。

諸葛亮伝に従って、「事」一字を補う。

許靖為司徒。

許靖伝は、「右」一字がない。

張飛車騎将車、領司隸校尉、進封西郷侯。馬超驃騎将軍、領涼州刺史、封斄郷侯、北督臨沮。偏将軍呉懿為関中都督。進

「侯」一字の有無は、版本によって異なる。

魏延鎮北将軍、李厳輔漢将軍、襄陽馬良為侍中、楊儀為尚書、蜀郡何宗為鴻臚。

校補図注:この文は、諸列伝の文と合致する。
佐藤:馬超伝に「章武元年、遷驃騎将軍、領涼州牧、進封斄郷侯」とあるが、「北督臨沮」がない。ただし、馬超伝で劉備が漢中王になる前に「以超為平西将軍、督臨沮、因為前都亭侯」とある。常璩は馬超の記述が正しくない。

立宗廟、祫祭高皇帝・世祖光武皇帝。
五月辛巳、立皇后呉氏、呉懿妹(劉璋兄瑁妻)也。

「劉璋兄瑁妻」は後世に挿入されたものか。削るべき。

子禅為皇太子。六月、立子永為魯王、理為梁王。

校補図注:先主伝は「祫祭高皇帝以下」として、「世祖光武皇帝」と書いていない。「祫祭」は「合祭」のこと。『陳志』に依れば、高帝以下の漢帝および中山靖王以下、劉備の父の劉弘までを合祭したことになるが、常璩に依れば、高帝と光武帝の二帝だけを祭ったことになる。裴松之は「不知以何帝為元祖以立親廟」と、祭る起点の祖先を不明とする。
先主伝は「皇后呉氏を立てた」とあるだけだが、皇后伝に「陳留の人、兄は呉壱」とあり、『常志』上官はすでに「劉焉は、呉懿の妹が大いに貴くなると聞き、劉瑁に娶らせた」とあるから、ここの「劉璋の兄の劉瑁の妻である」は余分である。
劉永・劉理は、劉禅の庶兄弟であり、『陳志』に列伝あり。180708

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劉備の荊州進攻~章武三年

張飛の死は、章武元年秋に開戦する、蜀・呉の戦いの前日譚。

『華陽国志校補図注』は、『華陽国志』と『三国志』との文や内容が一致しないと、①常璩による改変、②王崇『蜀書』に基づく表現、という2つの可能性をあげる。①は検証困難だが、②王崇『蜀書』の断片・痕跡が、『華陽国志』で読めるとしたら、テンション上がるんですけど、この理解で合ってますか?


張飛が死ぬ

先主将東征、以復関羽之。命張飛率巴西萬兵、将会江州。飛帳下将張達・范彊殺飛、持其首奔呉。

「范疆」に作る本もある。

初、勇冠三軍

「飛・羽」、「三国」に作る本もある。

〔与関羽〕

校補図注:廖本注に従って補う。

倶称萬人(之)敵。羽善待小人而驕士大夫、飛愛敬君子而不卹小人、是以皆敗。先主常戒(之)〔飛〕曰、「卿刑殺〔既〕過差、鞭。健児〔有〕令在左右、此取禍之道」。

張飛伝に従えば「既」一字を補うことができ、張飛伝は「撾」に作り、張飛伝に従えば「有」一字を補うことができる。

飛不悟、故敗

張飛伝は「猶不悛」に作る。

先主聞飛営軍都督之有表也、曰、「噫、飛死矣」。

校補図注:張飛伝と少し文が異なる。『常志』は、劉備が「関羽の恥」をすすぎ、張飛が「巴西」の万兵を率いた、という情報が多い。王崇『蜀書』にあったのであろうか。
死を知らせた人を、張飛伝は「都督」に作り、『常志』は「営軍都督」に作る。これは、車騎将軍府の営軍都督であるが、漢制・晋制において、営軍都督は位が低いので営事を専らににできない。上表は、長史や司馬の仕事である。張飛のところは、漢制・晋制と違ったのかも知れない。

命丞相亮領司隸校尉。

これは諸葛亮伝に依る。


章武元年秋、孫権の益州攻め

秋七月、先主東伐、羣臣多諫、不納。広漢秦宓上陳、「天時必無其利」。先主怒、縶之於理。

『陳志』秦宓伝のほうが詳しい。「大理寺」は獄官。


孫権送書請和、先主不聴。呉将陸議・李異・劉阿等軍 (姊)〔秭〕帰。

「至」がない本もある。
先主伝は「呉将陸議・李異・劉阿等屯巫・秭帰」とある。『常志』は「秭帰に至る」といい、先主伝は「巫・秭帰に屯す」といい、異なる。

左・右領軍南郡馮習・陳留呉班自建平攻破異等、軍次(姊)〔秭〕帰。武陵五溪蛮夷遣使請兵。

校補図注:建平は、呉が置いて治所は秭帰。その西界に巫県を含む。馮習・呉班は、魚復から進んで巫・秭帰(ともに建平郡)を攻めたから、「建平より攻む」と書かれている。
李異・劉阿は、『呉志』に見えず、先主伝だけに見える。李異は『二牧志』に見える。けだし李異・劉阿は、劉璋の旧将であり、呉に降ったのだろう。
孫権が荊州を得ると、劉璋を益州牧として秭帰に留めた。当時、劉璋は健在だから、孫権は、李異・劉阿を先鋒として、劉璋に益州を奪還させようとした
武陵蛮が孫権に服さぬことは、黄蓋伝に見える。黄蓋は「鎮圧」して「尽く邑落を帰せしむ」とあるが、心服しておらず劉備に呼応したのである。


ここで章武元年→章武二年に変わる。
以下、「姊帰」を「秭帰」に改める校勘ははぶく。

章武二年春:進攻

二年春正月、先主軍秭帰。呉班・陳(戒)〔式〕等水軍屯夷陵、夾江東西岸。

先主伝は、「先主軍還秭帰」に作るが、『常志』に「還」がない。秭帰は、呉の建平の郡治であり、先主の前軍が新たに獲得し、自ら進軍して駐屯した場所なので、「還」と言えない。これは、常璩が『陳志』の誤りを正した例である。


二月、将進。黄権諫曰、「呉人悍戦。而水軍(泝)〔順〕流、進易退難。

黄権伝に従い、「順」に改める。文意からも、そうすべき。

臣請為先駆以寇。陛下宜為後鎮」。先主不従、以権為鎮北将軍、督江北軍。

「嘗」を「当」に作る本もあるが、誤りである。黄権伝による。後注を参照。


先主連営稍前、軍於夷道猇亭、遣侍中馬良経佷山、安慰五溪蛮夷。

章武二年夏:敗走

夏六月、黄気見自秭帰十餘里中、広十餘丈。後十数日、与呉人戦、先主敗績。馮習及将張南皆死。

ここでは黄気が凶兆になっている。

先主嘆曰、「吾之敗、天也」。委舟舫、由歩道還魚復。
将軍義陽傅彤後殿。兵衆死尽、彤気益烈。呉将喻令降。彤罵曰、「呉狗!何有漢将軍降者」。遂戦死。

「殿後」に作る本もある。
これは、楊戯伝の『季漢輔臣賛』に挿入されている。『季漢輔臣賛』に傳彤の賛はないが、張南の賛に付されている。


従事祭酒程畿独泝江退。衆曰

『陳志』楊戯伝は「或告之曰」に作る。

「後追至、宜解舫軽行」。

『陳志』に従って「以」を「已」に作る本もある。『陳志』は「解船軽去」に作る。

畿曰、「吾在軍、未習為敵之走、況従天子乎」。亦見殺。

『陳志』は「曾為敵走」に作る。


黄権偏軍孤絶、遂北降魏。

校補図注:「偏軍孤絶」は、『陳志』黄権伝の「道隔絶」よりも明晰である。劉備が敗退したが、興山・当陽あたりの黄権に通知が行かず、黄権は魏に降伏したのである。黄権軍は魏軍を防いでいたので、劉備は「長江の東西の岸を挟んで」孫権を攻めたとあるが、黄権軍のこと指さない。

李異・劉阿等躡先主、屯南山、〔至秋退巫〕。

「踵」を「追」に作る本もある。先主伝の基づいて、李異・劉阿の動きを補うべきという。


先主改魚復曰永安。丞相亮聞而歎曰、「法孝直若在、則能制主上、使不東行。(既)〔就〕復東行、必不危矣」。

法正伝に従い「既」を「就」に改める。「顛」を「傾」に作る本があり、法正伝も「傾」に作っている。


八月、司徒靖卒。
是歲、驃騎将軍馬超亦卒、臨没上疏曰、「臣宗門二百餘口、為孟徳所誅略尽。唯従弟岱、当為微宗血食之係。深託陛下」。岱官至平北将軍。
拝彤子僉左(右)〔中〕郎将。

「右」に作る本もあるが、「中」に作るべき。傳僉は、楊戯伝の『輔臣賛』の注に見える。また姜維伝にも見える。


章武二年冬

冬十月、詔丞相亮営南北郊於成都。

「冬十月」から「宗瑋報命」まで、先主伝が出典。
先主伝:冬十月詔丞相亮、営南北郊於成都。孫権、聞先主住白帝、甚懼、遣使請和。先主許之、遣太中大夫宗瑋、報命。
諸葛亮に南北郊を祭らせ、高祖・光武帝を祭った。劉備は猇亭敗戦を、「天帝の助けがなかったから」と言っており、この祭祀と呉との戦いは関連している。祭祀は、空文ではない。

孫権聞先主(在)〔住〕白帝、甚懼、遣使請和。

先主伝は「在」を「住」に作る。「住」とどまる、とすれば、再挙可能であることを意味し、ゆえに孫権は懼れたのである。文意が通じる。

先主使太中大夫南陽宗瑋報命。

『陳志』孫権伝では、黄武元年(章武二年)十二月、太中大夫の鄭泉が劉備を訪れて、国交が回復したとある。十月に孫権が、すでに劉備に使者を送っていたことが諱まれた(書かれていない)。
校補図注:曹丕が孫権を南征したとき、すでに孫権は和議を試みていた。呉主伝注引『江表伝』に、孫権が称帝した劉備を漢中王と称していたり、『陳志』鄭泉伝に、鄭泉が劉備の称帝を批判した記事があるが、劉備はそれを問題とせずに国交回復を認めた。


十有一月、先主寝疾。
十有二月、漢嘉太守黄元、素亮所不、聞先主病、慮有後患、挙拒守。

楊洪伝は「善」を「喜」に作る。「疾」を「寝」に作る本もある。「郡」を「兵」に作る本がある。


章武三年春

三年春正月、召丞相亮於成都。(詔)亮省疾於永安。
[黄]元焼臨邛城。治中従事楊洪啓太子、遣将軍陳曶・鄭綽青衣水元、之。

「由」は「出」に作るべき。「伐」は「截」に作るべき。「滅」は「禽」に作るべき。
校補図注:黄元の反乱と、諸葛亮の永安移動が合わせて記述され、「黄元はもとより諸葛亮と仲が悪い」で繋いであり、黄元と諸葛亮の不仲は『陳志』にない話筋である。先主伝では、黄元は先主の病気を知って、挙兵したという話筋。楊洪伝は、黄元は諸葛亮と不仲であり、劉備が病気になると後患を懼れて挙兵し、ときに諸葛亮は劉備の見舞いに行っており…という話筋で、いずれも異なる。
佐藤:楊洪伝を確認すべき。
校補図注:『常志』の「由青衣水伐元、滅之」は、『陳志』と一致せずに誤りと思われるが、王崇『蜀書』に由来する表現か。
『陳志』諸葛亮伝は、春、先主が永安で病気になり、諸葛亮を成都に?(於成都)召したとあり、先主伝は、春二月、諸葛亮が成都から永安に到ったとある。『常志』は『陳志』が典拠なので、独自情報を見出す必要はない。


二月、亮至永安。先主謂曰、「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」。亮涕泣対曰、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」。
先主又為詔敕太子曰、「汝与丞相従事、事之如父」。

『陳志』諸葛亮伝に基づく。裴注『諸葛亮集』が載せる遺詔は、『常志』は拾っていない。『通鑑』巻七十は、遺詔を節略して裴注を拾っている。

亮与尚書令李厳並受寄託。

章武三年夏

夏四月、先主於永安宮、時年六十三。

「殂」を「崩」に作る本がある。

亮表後主曰、「大行皇帝邁仁樹徳、覆育無(彊)〔疆〕昊天不弔、今月二十四日、奄忽升遐。臣妾号咷、如喪考妣。乃顧遺詔、惟太宗、〔動容損益〕。

『陳志』に従って、「疆」に改めるという。「事」を「是」に作る本があるが、先主伝・『武侯集』に従って、「事」とすべきである。先主伝に従うなら、「動容損益」四字を補える。

百寮発哀、三日除服。到葬(期) 復服

「期」一字がある本もあるが、要らない。先主伝は「到葬期復如礼」に作り、常璩が節略している。

其郡国守相・令長・尉、三日除服」。

『陳志』は「丞」一字がない。


五月、梓宮至成都、謚曰昭烈皇帝。秋八月、葬恵陵。180711

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