蜀漢 > 『華陽国志校補図注』より

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劉備が皇帝に即位する

常璩『華陽国志』を読みます(以下、『常志』)。
ザツな抄訳をするのではなく、任乃強『華陽国志校補図注』で行われている校勘・注釈を読んでいきます。

建安二十五年=延康元年

[建安]二十五年春正月、魏武王薨、嗣王丕即位、改元延康。
蜀伝聞漢帝見害、先主乃発喪、制服、追謚曰、孝愍皇帝。
所在並言衆瑞。

校補図注:『陳志』先主伝は、この後に「日月相属」四字があり、それは正月から四月に、符瑞の上書がひっきりなしだったことを刺す。前年、関羽が于禁を捕らえたとき、符命の発動が言われた。許靖らは「黄龍が武陽赤水にあらわれ、九日で去った」、「襄陽の男子である張嘉・王休が玉璽を献じた」などと言い、先主伝に見える。常璩が採録する劉豹らの符瑞は、そのなかの代表であり、常璩が節略している。

故議郎陽泉亭侯劉豹・

校補図注:劉豹は宗室として(後漢の)議郎になり、劉焉に随って入蜀したが、高齢のため公職になかった。陽泉は侯国で、『続漢志』によると廬江郡に属する。劉禅が設置した、広漢郡徳県の陽泉亭の侯ではない。

青衣侯向挙・

校補図注:青衣侯は、青衣の夷邑の君長である。建安二十年、名号侯を設置したとき、賨邑侯を同じように封建した(『巴志』注)。劉備の告天文にある、劉備を勧進したという「蛮夷の君長」は、彼らのことである。

偏将軍張裔・黄権、〔大〕司馬属陰純・

先主伝に従い、「大」一字を補う。校補図注:陰純は未詳。

別駕趙莋・

趙莋は、巴西の人。劉璋のとき、巴郡太守となった(二牧志)。

治中楊洪・従事祭酒何宗・

何宗は、蜀郡郫県の人(楊戯伝)。

議曹従事杜瓊・勧学従事張爽・尹黙、

校補図注:張爽は未詳。

(譙)周〔羣〕

校補図注:先主伝は「譙周」に作るが、譙周はまだ蜀に仕えていないから、周羣に作るのが正しい。周羣の父は周舒であるが、周舒は讖緯に詳しい。校補図注に、周羣の父・周舒が関与したと考えるべき論証がされている。

等上言、「河洛符験

先主伝は「臣聞河図洛書・五経讖緯」に作る。常璩の節略か。

孔子所甄。

先主伝は、「孔子所甄」の後ろに「験応自遠。謹案『洛書甄曜度』曰、『赤三日……』」とあり、常璩は少ない。

〔『洛書甄曜度』曰〕、

「赤三日」に繋ぐためには、先主伝に基づき、図讖の書名を補わなければならない。書名は節略できない。

「赤三日、徳昌九世、会備合為帝際」。『洛書宝号命』曰、

『洛宝書号命』に作る版本もあるが、先主伝に従う。

「天度帝道、備称皇」。

先主伝は、『洛書甄曜度』の文が、下に「統握契、百成不敗」と続く。先主伝は、『洛書録運期』と『孝経鉤命決解』の二書からも引用するが、節略されている。

又言、「周羣父未亡時、数言西南有黄気、立数十丈、而景雲祥風従璇璣下、来応之。如『図』・『書』、必有天子出。方今大王応際而生、与神合契。願速即洪業、以寧海内」。

もとの上表は先主伝にあり、常璩が2百字近くを削る。この上表については、先主伝のほうが精度が高く、常璩に史料的価値はない。
校補図注:「周羣父」は、先主伝で「臣父羣」となっているが、周羣の父の周舒のこと。周舒は、讖緯学者であり、1つ上の世代だから時期も合うと。

先主未許。

劉備への皇帝勧進の時期について。『三国志』先主伝は、曹丕の皇帝即位後(延康元年冬)、勧進の記事が始まる。しかし『華陽国志』は、延康改元(同年春)勧進を始めたとする。すなわち、先主伝は「曹丕が献帝を殺害して皇帝になった」、『華陽国志』は「曹丕が献帝を殺害して改元した」という扱い。いずれも誤報だが。
劉備の皇帝即位の時期は確定できるが、それの「前日譚」をどこに配置するかで、だいぶ印象が変わる。われわれは、『三国志』先主伝に基づき、曹丕の皇帝即位までは劉備が称帝を言い出さなかったと思っていますが…、『華陽国志』では、曹丕が皇帝になる前から、劉備の皇帝即位を言っていたことになる。曹丕の皇帝即位に「対抗」したのではなく、献帝殺害を受けて、曹丕が皇帝であろうがなかろうが、劉備は皇帝になる世論を作っていた。
『華陽国志』は、明らかに先主伝の節略なので(残念なことに、この部分は、先主伝のほうが一方的に優れている)、『華陽国志』を根拠に、先主伝の時系列・記述順序を覆すことはできないが、解釈の可能性は開かれた。延康期から(曹丕が皇帝になる前から)劉備が皇帝になる世論が、蜀地方で高まっていたと。

冬、魏王丕即皇帝位、改元黄初。漢献帝遜位、為山陽公。

章武元年

章武元年、魏黄初二年也。春、太傅許靖・安漢将軍麋竺・軍師将軍諸葛亮・太常頼恭・光祿勲黄権・少府王謀等

先主伝は「乃」を「表」に作る。

勧先主紹漢絶統、即帝号。先主不許。

校補図注:常璩が陳寿を削ったことは確実。王崇『蜀書』の時点で、すでにここまで削られていたか。


亮進曰、「昔呉漢・耿弇等勧世祖。世祖辞譲。耿純進曰、『天下英雄喁喁、冀有所望。若不従議者、士大夫各帰(其)〔求〕主、

この「亮進曰」からは、諸葛亮伝に乗り換えられている。諸葛亮伝に従って、「其」を「求」に改める。

〔為〕従公也。

諸葛亮伝に従うならば、「為」一字を補える。

世祖感之。今曹氏篡漢、天下無主、大王紹世而起、乃其宜也。士大夫随大王久勤苦者、亦欲望尺寸之功、如純言耳」。先主乃従之。

校補図注:耿純の言葉は、現存『東観記』に僅かに「天時人事已可知矣」とあるだけ。けだし諸葛亮は、班固『光武紀』あるいは『耿純伝』を見たのだろう。范曄『後漢書』は、文が異なるが意味が同じ。別系統の後漢の史料である。


亮与博士許慈・議郎孟光建立礼儀、択令辰、〔上尊号〕。

先主伝に従い、「上尊号」三字を補う。


費詩上疏曰、「殿下以曹操父子逼主篡位、故乃羈旅萬里、(糺)〔糾〕合士衆、将以討賊。今大敵未克而先自立、恐人〔心〕疑惑。

費詩伝に従うなら、「心」一字を補える。

昔高祖与楚約、先破秦者王。及屠咸陽、獲子嬰、猶〔懐〕推譲。

費詩伝に従うなら、「懐」一字を補える。

況今殿下未出門〔庭〕、便欲自立〔邪〕。

費詩伝に従うなら、「庭」と「邪」を補える。

愚臣誠不為殿下取也」。
朝廷左遷詩、部永昌従事。

校補図注:左遷は官位を落とすこと。漢制では、州府の官属には、「部郡国従事、毎郡国各一人、主督促文書、察挙非法」が設置された(『続百官志』)。また「諸部従事」ともいった(『樊敏碑』)。
永昌は、益州のもっとも遠いところで、部永昌従事は、益州の諸部従事のなかでも、もっとも官位が低い。費詩は、牂牁太守、州前部司馬となっており、どちらも二千石。(劉焉が州軍を分けて前後左右の四部とし、それぞれ司馬を置いて軍を統べさせたと、『二牧志』にある)。部従事は、秩はたったの百石(『続百官志』)。


夏四月丙午、先主即帝位、大赦、改元章武。

先主伝に載せる『告天表』に、「建安二十六年四月丙午」とある。常璩はこれを地の文に開いている。

以諸葛亮為丞相、假節、録尚書〔事〕。

諸葛亮伝に従って、「事」一字を補う。

許靖為司徒。

許靖伝は、「右」一字がない。

張飛車騎将車、領司隸校尉、進封西郷侯。馬超驃騎将軍、領涼州刺史、封斄郷侯、北督臨沮。偏将軍呉懿為関中都督。進

「侯」一字の有無は、版本によって異なる。

魏延鎮北将軍、李厳輔漢将軍、襄陽馬良為侍中、楊儀為尚書、蜀郡何宗為鴻臚。

校補図注:この文は、諸列伝の文と合致する。
佐藤:馬超伝に「章武元年、遷驃騎将軍、領涼州牧、進封斄郷侯」とあるが、「北督臨沮」がない。ただし、馬超伝で劉備が漢中王になる前に「以超為平西将軍、督臨沮、因為前都亭侯」とある。常璩は馬超の記述が正しくない。

立宗廟、祫祭高皇帝・世祖光武皇帝。
五月辛巳、立皇后呉氏、呉懿妹(劉璋兄瑁妻)也。

「劉璋兄瑁妻」は後世に挿入されたものか。削るべき。

子禅為皇太子。六月、立子永為魯王、理為梁王。

校補図注:先主伝は「祫祭高皇帝以下」として、「世祖光武皇帝」と書いていない。「祫祭」は「合祭」のこと。『陳志』に依れば、高帝以下の漢帝および中山靖王以下、劉備の父の劉弘までを合祭したことになるが、常璩に依れば、高帝と光武帝の二帝だけを祭ったことになる。裴松之は「不知以何帝為元祖以立親廟」と、祭る起点の祖先を不明とする。
先主伝は「皇后呉氏を立てた」とあるだけだが、皇后伝に「陳留の人、兄は呉壱」とあり、『常志』上官はすでに「劉焉は、呉懿の妹が大いに貴くなると聞き、劉瑁に娶らせた」とあるから、ここの「劉璋の兄の劉瑁の妻である」は余分である。
劉永・劉理は、劉禅の庶兄弟であり、『陳志』に列伝あり。180708

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劉備の荊州進攻~章武三年

張飛の死は、章武元年秋に開戦する、蜀・呉の戦いの前日譚。

『華陽国志校補図注』は、『華陽国志』と『三国志』との文や内容が一致しないと、①常璩による改変、②王崇『蜀書』に基づく表現、という2つの可能性をあげる。①は検証困難だが、②王崇『蜀書』の断片・痕跡が、『華陽国志』で読めるとしたら、テンション上がるんですけど、この理解で合ってますか?


張飛が死ぬ

先主将東征、以復関羽之。命張飛率巴西萬兵、将会江州。飛帳下将張達・范彊殺飛、持其首奔呉。

「范疆」に作る本もある。

初、勇冠三軍

「飛・羽」、「三国」に作る本もある。

〔与関羽〕

校補図注:廖本注に従って補う。

倶称萬人(之)敵。羽善待小人而驕士大夫、飛愛敬君子而不卹小人、是以皆敗。先主常戒(之)〔飛〕曰、「卿刑殺〔既〕過差、鞭。健児〔有〕令在左右、此取禍之道」。

張飛伝に従えば「既」一字を補うことができ、張飛伝は「撾」に作り、張飛伝に従えば「有」一字を補うことができる。

飛不悟、故敗

張飛伝は「猶不悛」に作る。

先主聞飛営軍都督之有表也、曰、「噫、飛死矣」。

校補図注:張飛伝と少し文が異なる。『常志』は、劉備が「関羽の恥」をすすぎ、張飛が「巴西」の万兵を率いた、という情報が多い。王崇『蜀書』にあったのであろうか。
死を知らせた人を、張飛伝は「都督」に作り、『常志』は「営軍都督」に作る。これは、車騎将軍府の営軍都督であるが、漢制・晋制において、営軍都督は位が低いので営事を専らににできない。上表は、長史や司馬の仕事である。張飛のところは、漢制・晋制と違ったのかも知れない。

命丞相亮領司隸校尉。

これは諸葛亮伝に依る。


章武元年秋、孫権の益州攻め

秋七月、先主東伐、羣臣多諫、不納。広漢秦宓上陳、「天時必無其利」。先主怒、縶之於理。

『陳志』秦宓伝のほうが詳しい。「大理寺」は獄官。


孫権送書請和、先主不聴。呉将陸議・李異・劉阿等軍 (姊)〔秭〕帰。

「至」がない本もある。
先主伝は「呉将陸議・李異・劉阿等屯巫・秭帰」とある。『常志』は「秭帰に至る」といい、先主伝は「巫・秭帰に屯す」といい、異なる。

左・右領軍南郡馮習・陳留呉班自建平攻破異等、軍次(姊)〔秭〕帰。武陵五溪蛮夷遣使請兵。

校補図注:建平は、呉が置いて治所は秭帰。その西界に巫県を含む。馮習・呉班は、魚復から進んで巫・秭帰(ともに建平郡)を攻めたから、「建平より攻む」と書かれている。
李異・劉阿は、『呉志』に見えず、先主伝だけに見える。李異は『二牧志』に見える。けだし李異・劉阿は、劉璋の旧将であり、呉に降ったのだろう。
孫権が荊州を得ると、劉璋を益州牧として秭帰に留めた。当時、劉璋は健在だから、孫権は、李異・劉阿を先鋒として、劉璋に益州を奪還させようとした
武陵蛮が孫権に服さぬことは、黄蓋伝に見える。黄蓋は「鎮圧」して「尽く邑落を帰せしむ」とあるが、心服しておらず劉備に呼応したのである。


ここで章武元年→章武二年に変わる。
以下、「姊帰」を「秭帰」に改める校勘ははぶく。

章武二年春:進攻

二年春正月、先主軍秭帰。呉班・陳(戒)〔式〕等水軍屯夷陵、夾江東西岸。

先主伝は、「先主軍還秭帰」に作るが、『常志』に「還」がない。秭帰は、呉の建平の郡治であり、先主の前軍が新たに獲得し、自ら進軍して駐屯した場所なので、「還」と言えない。これは、常璩が『陳志』の誤りを正した例である。


二月、将進。黄権諫曰、「呉人悍戦。而水軍(泝)〔順〕流、進易退難。

黄権伝に従い、「順」に改める。文意からも、そうすべき。

臣請為先駆以寇。陛下宜為後鎮」。先主不従、以権為鎮北将軍、督江北軍。

「嘗」を「当」に作る本もあるが、誤りである。黄権伝による。後注を参照。


先主連営稍前、軍於夷道猇亭、遣侍中馬良経佷山、安慰五溪蛮夷。

章武二年夏:敗走

夏六月、黄気見自秭帰十餘里中、広十餘丈。後十数日、与呉人戦、先主敗績。馮習及将張南皆死。

ここでは黄気が凶兆になっている。

先主嘆曰、「吾之敗、天也」。委舟舫、由歩道還魚復。
将軍義陽傅彤後殿。兵衆死尽、彤気益烈。呉将喻令降。彤罵曰、「呉狗!何有漢将軍降者」。遂戦死。

「殿後」に作る本もある。
これは、楊戯伝の『季漢輔臣賛』に挿入されている。『季漢輔臣賛』に傳彤の賛はないが、張南の賛に付されている。


従事祭酒程畿独泝江退。衆曰

『陳志』楊戯伝は「或告之曰」に作る。

「後追至、宜解舫軽行」。

『陳志』に従って「以」を「已」に作る本もある。『陳志』は「解船軽去」に作る。

畿曰、「吾在軍、未習為敵之走、況従天子乎」。亦見殺。

『陳志』は「曾為敵走」に作る。


黄権偏軍孤絶、遂北降魏。

校補図注:「偏軍孤絶」は、『陳志』黄権伝の「道隔絶」よりも明晰である。劉備が敗退したが、興山・当陽あたりの黄権に通知が行かず、黄権は魏に降伏したのである。黄権軍は魏軍を防いでいたので、劉備は「長江の東西の岸を挟んで」孫権を攻めたとあるが、黄権軍のこと指さない。

李異・劉阿等躡先主、屯南山、〔至秋退巫〕。

「踵」を「追」に作る本もある。先主伝の基づいて、李異・劉阿の動きを補うべきという。


先主改魚復曰永安。丞相亮聞而歎曰、「法孝直若在、則能制主上、使不東行。(既)〔就〕復東行、必不危矣」。

法正伝に従い「既」を「就」に改める。「顛」を「傾」に作る本があり、法正伝も「傾」に作っている。


八月、司徒靖卒。
是歲、驃騎将軍馬超亦卒、臨没上疏曰、「臣宗門二百餘口、為孟徳所誅略尽。唯従弟岱、当為微宗血食之係。深託陛下」。岱官至平北将軍。
拝彤子僉左(右)〔中〕郎将。

「右」に作る本もあるが、「中」に作るべき。傳僉は、楊戯伝の『輔臣賛』の注に見える。また姜維伝にも見える。


章武二年冬

冬十月、詔丞相亮営南北郊於成都。

「冬十月」から「宗瑋報命」まで、先主伝が出典。
先主伝:冬十月詔丞相亮、営南北郊於成都。孫権、聞先主住白帝、甚懼、遣使請和。先主許之、遣太中大夫宗瑋、報命。
諸葛亮に南北郊を祭らせ、高祖・光武帝を祭った。劉備は猇亭敗戦を、「天帝の助けがなかったから」と言っており、この祭祀と呉との戦いは関連している。祭祀は、空文ではない。

孫権聞先主(在)〔住〕白帝、甚懼、遣使請和。

先主伝は「在」を「住」に作る。「住」とどまる、とすれば、再挙可能であることを意味し、ゆえに孫権は懼れたのである。文意が通じる。

先主使太中大夫南陽宗瑋報命。

『陳志』孫権伝では、黄武元年(章武二年)十二月、太中大夫の鄭泉が劉備を訪れて、国交が回復したとある。十月に孫権が、すでに劉備に使者を送っていたことが諱まれた(書かれていない)。
校補図注:曹丕が孫権を南征したとき、すでに孫権は和議を試みていた。呉主伝注引『江表伝』に、孫権が称帝した劉備を漢中王と称していたり、『陳志』鄭泉伝に、鄭泉が劉備の称帝を批判した記事があるが、劉備はそれを問題とせずに国交回復を認めた。


十有一月、先主寝疾。
十有二月、漢嘉太守黄元、素亮所不、聞先主病、慮有後患、挙拒守。

楊洪伝は「善」を「喜」に作る。「疾」を「寝」に作る本もある。「郡」を「兵」に作る本がある。


章武三年春

三年春正月、召丞相亮於成都。(詔)亮省疾於永安。
[黄]元焼臨邛城。治中従事楊洪啓太子、遣将軍陳曶・鄭綽青衣水元、之。

「由」は「出」に作るべき。「伐」は「截」に作るべき。「滅」は「禽」に作るべき。
校補図注:黄元の反乱と、諸葛亮の永安移動が合わせて記述され、「黄元はもとより諸葛亮と仲が悪い」で繋いであり、黄元と諸葛亮の不仲は『陳志』にない話筋である。先主伝では、黄元は先主の病気を知って、挙兵したという話筋。楊洪伝は、黄元は諸葛亮と不仲であり、劉備が病気になると後患を懼れて挙兵し、ときに諸葛亮は劉備の見舞いに行っており…という話筋で、いずれも異なる。
佐藤:楊洪伝を確認すべき。
校補図注:『常志』の「由青衣水伐元、滅之」は、『陳志』と一致せずに誤りと思われるが、王崇『蜀書』に由来する表現か。
『陳志』諸葛亮伝は、春、先主が永安で病気になり、諸葛亮を成都に?(於成都)召したとあり、先主伝は、春二月、諸葛亮が成都から永安に到ったとある。『常志』は『陳志』が典拠なので、独自情報を見出す必要はない。


二月、亮至永安。先主謂曰、「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」。亮涕泣対曰、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」。
先主又為詔敕太子曰、「汝与丞相従事、事之如父」。

『陳志』諸葛亮伝に基づく。裴注『諸葛亮集』が載せる遺詔は、『常志』は拾っていない。『通鑑』巻七十は、遺詔を節略して裴注を拾っている。

亮与尚書令李厳並受寄託。

章武三年夏

夏四月、先主於永安宮、時年六十三。

「殂」を「崩」に作る本がある。

亮表後主曰、「大行皇帝邁仁樹徳、覆育無(彊)〔疆〕昊天不弔、今月二十四日、奄忽升遐。臣妾号咷、如喪考妣。乃顧遺詔、惟太宗、〔動容損益〕。

『陳志』に従って、「疆」に改めるという。「事」を「是」に作る本があるが、先主伝・『武侯集』に従って、「事」とすべきである。先主伝に従うなら、「動容損益」四字を補える。

百寮発哀、三日除服。到葬(期) 復服

「期」一字がある本もあるが、要らない。先主伝は「到葬期復如礼」に作り、常璩が節略している。

其郡国守相・令長・尉、三日除服」。

『陳志』は「丞」一字がない。


五月、梓宮至成都、謚曰昭烈皇帝。秋八月、葬恵陵。180711

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建興元年~七年

『華陽国志』から、『三国志』では拾えない情報を見つけたい。
編者である常璩が、彼なりに『三国志』などを史料批判して、書き換えることがある。べつの史料と比較しての改変なのか、彼なりの規範意識・歴史理解に基づいて勝手に変えたのか、特定が難しい。ときには、凡ミスかも知れない!

建興元年

後主諱禅、字公嗣。先主太子。甘夫人所生也。襲位時年十七。

甘夫人は、『蜀志』四に列伝あり。


建興元年夏五月、後主即位。尊皇后〔呉氏〕曰皇太后。大赦、改元。於〔歳〕、魏黄初四年、呉黄武二年也。

「歳」一字は、文脈から補われる。


◆劉禅即位に伴う昇進
立皇后張氏、車騎将軍〔張〕飛女也。封丞相亮武郷侯。

諸葛亮伝に、建興元年、武郷侯に封じ、開府治事させ、このころ益州牧を領したとある。しかし『常志』は、つぎの建興二年、諸葛亮が開府・領益州牧とする。劉禅の即位は五月で、建興二年まで八ヶ月あるから、この期間の差は大きい。『陳志』は誤りで、『常志』が正しいと思われる。劉禅は親政しておらず、諸葛亮が専権していたが、翌年まで再三にわたり辞譲していた。
武郷は、南鄭郡武郷谷を封地としている。『三国志集解』に引く潘眉の説を参照のこと。

中護軍李厳仮節、加光禄勲、封都郷侯、督永安事。
中軍師・衛尉魯国劉琰亦都郷侯。
中護軍趙雲〔為征南将軍、封永昌亭侯〕。
江州都督費観、屯騎校尉・丞相長史王連、中部督襄陽向寵、及魏延・呉懿皆封都亭侯。
楊洪・王謀等関內侯。

以上の人名は、『陳志』から、当時、封侯された者をひろったもの。このとき封侯された者は、これだけに留まらない。李厳・劉琰は、『蜀志』十 本伝に見える。趙雲伝に、このとき中護軍・征南将軍・永昌亭侯とあるから、脱誤がある。
費観が都亭侯となったのは、楊戯伝に。王連伝は、『蜀志』十一にあり、建興元年、屯騎校尉・丞相府長史・平陽亭侯とあって少し異なる。
向寵が都亭侯となったのは、『陳志』向朗伝に見える。魏延のことは、魏延伝に見える。呉懿の都亭侯ことは『陳志』に見えず、穆后伝に県侯になったとあり、楊戯伝に「徙亭侯」とあるが『三国志集解』の載せる諸説は『常志』を参照しておらず、『校補図注』に検討がある。いまは省く。
楊洪・王謀のことは、『蜀志』楊洪伝・『季漢輔臣賛』に見える。


南中諸郡並叛乱。亮以新遭大喪、未便加兵。

『常志』南中志を参照のこと。『常志』の劉備・劉禅の時代のことは、先主志・後主志を見ただけでは網羅できない。


◆鄧芝の対呉外交
遣尚書

この下に方圏があるが、どの字を示すか不明。後主伝は「尚書郎」に作り、鄧芝伝は「尚書」に作る。蜀の尚書郎は別に見えるから、ここは「尚書」に作るべきで、加える字はない。

南陽鄧芝固好於呉。呉主孫権曰、「吾誠願与蜀和親。但主幼国小、慮不自存」。芝対曰、「呉蜀二国、〔四州〕之地。呉有三江之阻、蜀有重険之固。大王命世之英、諸葛(亮)一時之(桀)〔傑〕。合此二長、共為唇歯、進可兼并天下、退可鼎足而。大王如臣服於魏、魏則上望大王入朝、其次求太子入侍。若其不從、則奉辞伐叛。蜀必順流、見可而進。如此、江南之地非復大王之有也」。

鄧芝伝に従い「四州」二字を補う。「峙」を「跱」に作る本もある。

呉主大悦、与蜀和、使聘歳通。芝後累往。

「報」を「親」に作る本もある。

権曰、「若滅魏之後、二主分治、不亦楽乎」。芝対曰、「滅魏之後、大王未深識天命者、戦争方始耳」。権曰、

呉主伝は「権大笑曰」に作る。

「君之誠懇、乃至於此」。書与亮曰、「丁 掞張(実)〔尽〕、和合二国、惟有鄧芝」。

鄧芝伝は「丁厷」に作り、「肱」のように読む。他に見えない人名なので、確定が難しい。「掞張」は、不明とする本や、「掞張丁厷」と逆転させている本もある。「掞張」を、裴松之は「言多浮豔」と解釈する。
「化」は、「険」に作る本もあるが、鄧芝伝は「化」に作る。陰化は、蒋琬伝に名が見える。建興元年、諸葛亮が開府すると、蒋琬を東曹掾としたが、蒋琬は辞退して、陰化らを推薦した。『蜀典』所引『漢黄龍甘露碑』に「武陽令の陰化」が見えるが、『蜀志』は載せない。
鄧芝伝に従い、「実」を「尽」に改める。「不実不尽」という成語があるから、書き間違えたのであろうと。おわりに、『常志』は「鄧芝が後に累ねて往く」とあり、鄧芝が使者になったのは、二回以上である。


建興二年

二年、丞相亮開府、領益州牧。事無巨細、咸決於亮。

丞相府に属官を置き、長史が秩が最高。つぎは東西両曹掾および掾史、主簿、令史の属がいる。益州牧の属官は、治中従事の秩が最高で、したに別駕従事、諸曹従事と諸部従事がいる。劉備は左将軍府にて軍政をおさめ、益州牧府とは官属が別であった。劉備が漢中王・皇帝になると、いずれも州を兼領した。劉禅が即位すると、州府は、治中従事・領蜀郡太守の楊洪が摂領した。建興二年、諸葛亮が州を兼ねて、楊洪は屯騎校尉に転じて、蜀郡太守を領した。楊洪伝を見よ。

亮乃撫百姓、示儀軌、約官職、従権制、〔開誠心、布公道〕。

『陳志』に従うなら、「開誠心、布公道」六字を補うことができる。

尽忠益時者、雖必賞。犯法怠慢者、雖親必罰。服罪輸者、雖重必釈。遊辞巧飾者、雖親必戮。善無微而不賞、悪無纖而不貶。庶事精練、物其本。循名責実、虚偽不歯。終乎封域之内、〔咸〕畏而愛之。刑政雖峻而無怨者、以其用心平、勧戒明也。

「仇」を「讐」に作る本もある。「情」を「辞」に作る本もある。「究」を『陳志』は「理」に作る。『陳志』に従えば、「咸」を補える。
以上、『陳志』諸葛亮伝の評をアレンジしたもの。


辟尚書郎蒋琬及広漢李邵・巴西馬(勲)〔齊〕為掾・南陽宗預為主簿、皆徳挙也。 秦宓為別駕、犍為梁為功曹・梓潼杜微為主簿、皆州俊彦也。

『陳志』楊戯伝により「馬斉」とすべき。「五梁」を「王梁」とする本もある。ほかに史料に「伍梁」とあるから、「五」とすべきか。

而江夏費禕・南郡董允、郭攸之始為侍郎、賛揚日月。

諸葛亮が新たに辟した官吏。校補図注が検証している。


◆秦宓の問答
呉遣中郎将張温来聘、報鄧芝也。将返、命百官餞焉。惟(秦)宓未往、亮累催之。温問曰、「彼何人也」。亮曰、「益州学士(者)也」。及至、温問宓曰、「君学乎」。答曰、「五尺童子皆学、何況小人」。温曰、「天有頭乎、在何方也」。宓曰、「(在西)。詩云:乃眷西顧。知其在西」。又曰、「天有耳乎」。宓曰、「詩不云乎、鶴鳴九皋、声聞於天。若無其耳、何以聴之」。又曰:「天有足乎」。曰:「詩不云乎、天歩艱難、之子不猶。若其無足、何以歩之」。又曰、「天有姓乎」。曰、「姓劉」。「何以知之」。曰、「其子姓劉」又曰、「日生於東乎」。曰、「雖生於東、没於西」。

秦宓伝は、「天子姓劉」とする。秦宓伝は「終」を「而」に作る。

答問如響之応声、温大敬服。宓亦尋遷右中郎将、長水校尉・大司農。

この問答は、『陳志』秦宓伝・鄧芝伝を結合したもの。蜀の学問が、中原・江左で侮られるから、状況はあえてこれを記した。


建興三年

三年春、長水校尉廖立坐謗訕朝廷、〔廃為民〕(改)〔徙〕汶山。立自荊州、与龐統並見知、而性傲侮。後更冗散怨望、故致黜廃。

『陳志』廖立伝に基づいて改める。


三月、亮南征四郡、以弘農太守楊儀為参軍、従行、〔署府事〕。歩兵校尉襄陽向朗為長史、統留府事。

諸葛亮が南征するとき、丞相の職務を代行した府属官吏は多かったはずで、蒋琬・費禕(費禕伝)、王士(『輔臣賛』)などがおり、楊儀だけを挙げても不足である。向朗が「統留府事」とあるから、楊儀の「従行」もその下に「統行府事」の省略があると見るべき。楊儀・向朗の当時の職責記述について、『陳志』と『常志』の比較が校補図注にある。


秋、南中平。軍資所出、国以富饒。
冬、亮還、至漢陽、与魏降人李鴻相見、説新城太守孟達委仰於亮無已。亮方北図、欲達為外援、謂参軍蒋琬・従事費詩曰、「帰、当有書与子度相聞」。(対)〔詩〕曰、「孟達小子、昔事振威、不忠。後先帝、背叛。反覆之人、何足与書」。亮不答。詩数率意而言、故凌遅於世。

「招」を「推」に作る本がある。「奉」を「事」に作る本がある。
「率意」、「凌遅」は、陳寿の評にある字である。


十有二月、亮至、群官皆道迎、而亮命侍郎費禕参乗。禕官小年幼、衆士於是莫不易観。

費禕伝は、劉禅が即位すると黄門侍郎になったとある。常璩が、諸葛亮が人物鑑識に優れていたと示すために置いた。


建興四年

四年、永安都護李厳還督江州、城巴(部)〔郡〕 大城。以征西将軍汝南陳到督永安、封亭侯。是歳、魏文帝崩。明帝立。

「大城」がない本もある。李厳が大城を作ったことは、『巴志』に見える。


建興五年

五年、魏太和元年也。
春、丞相亮将北伐、上疏曰、「今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。……」

いわゆる「前出師表」なので、『常志』で検討しない。

以尚書南陽陳震為(中)〔尚〕書令、治中張裔為留府長史、与参軍蒋(公琰)〔琬〕知居府事。

『陳志』陳震伝に、建興三年、入りて尚書を拝し、尚書令に遷るとあるから、「中書令」に作るのは誤り。『陳志』張裔伝に、「丞相亮以為參軍、署府事、又領益州治中従事。亮出駐漢中、裔以射声校尉、領留府長吏」とある。
蒋琬伝に、「遷、為參軍。五年亮住漢中、琬与長史張裔、統留府事」とある。


二月、亮出屯漢中、営沔北、陽平(石)〔白〕馬。以鎮北将軍魏延為司馬。

『陳志』後主伝は「石馬」に作るが、「白馬」に改めるべき。注を参照とのこと。『水経注』などに従って、395pに説明あり。


建興六年

六年春、丞相亮揚声言由斜谷道取郿、使鎮東将軍趙雲・中監軍鄧芝拠箕谷為疑軍。魏大将軍曹真挙衆当之。亮身率大衆攻祁山。賞罰粛而号令明。天水・南安・安定三郡叛魏応亮、関中響震。魏明帝西鎮長安、命張郃拒亮。

『通鑑』巻七十一は、曹真及び張郃を派遣したことを、長安行幸の前に置く。丁未から丁酉までは50日か110日あり、1ヵ月餘か3ヵ月餘である。『魏紀』はすでに丁未を正月に繋ぎ、丁酉を四月に繋ぐ。つまり110日の間隔である。明帝が正月、すでに長安に行っていた。ときに曹真は許県におり、張郃は江陵を攻めようとしていた。諸葛亮を拒ぐことは、許都で受命したはず。けだし二人とも明帝と同時に関中に入った。ゆえに蜀人は、明帝が西のかた長安に鎮し、張郃を派遣したと伝聞したのである。『陳志』明帝紀の叙述順は誤りである。『常志』のこの文は誤りではない。


亮使参軍襄陽馬謖・裨将軍巴西王平及張(休)〔沐〕・李盛、黄襲等在前、違亮節度、為郃所破。平独斂衆為殿。而雲、芝亦不利。

張休・李盛・黄襲は、ほかに見えない。ただ『陳志』王平伝に「張休・李盛・黄襲を処罰した」とあるだけ。『常志』で王平とひとまとめにされ、官職・出身の記述がないから、三人とも王平と同じく裨将軍で、巴西の人であろうか。
張休は、『三州士女目録』に、漢嘉の人、官は雲南太守に至るとある。『季漢輔臣賛』注に、後将軍の蒋琬が張休に、漢嘉太守のことを質問しているが、これは諸葛亮死後のことなので、馬謖に従軍した張休とは別人であろう。
『陳志』に拠って「張休」に作るか、「張沐」に作るかは諸説あり。
この戦いは、『陳志』趙雲伝に基づく。


亮抜将西県千餘家還漢中、

校補図注:諸葛亮は三郡の吏民を棄てたが、西県から連れていったのは、天水郡の最南で、諸葛亮の駐屯地から近かったから。西県の民だけは、魏軍の報復を免れた。

戮謖及(休)〔沐〕盛以謝衆、奪襲兵、貶雲秩。長史向朗以不時臧否、免罷。

『三国志』向朗伝だと、向朗が馬謖の逃亡に協力的だから罷免されるが、『華陽国志』巻七だと、「長史向朗以不時臧否、免罷」とあり、褒貶や批判をしたから罷免されたとある。馬謖の処罰に、向朗が反対したという文か。

超遷平参軍、進位討寇将軍、封亭侯、統(軍)(年)〔部軍〕

この校勘は、校補図注393p。


亮上疏曰、「臣以弱才、叨窃非拠、親秉旄鉞以厲三軍、不能訓章明法、臨事而懼、至有街亭違令之闕、箕谷不戒之失、咎皆在臣。臣授任無方。春秋責帥、職臣是当。請自貶三等、以督厥咎」。

『陳志』諸葛亮伝は、「職臣」を「臣職」に作る。


於是以亮為右将軍、行丞相事。辟天水姜維為倉曹掾、加奉義将軍、封当陽亭侯。亮書与長史張裔・參軍蒋琬、称維曰、「姜伯約西州上士、馬季常・李永南不如也」。
冬、亮復出散関、囲陳倉。糧尽還。魏将王双追亮。亮合戦、斬双。

『陳志』曹真伝・張郃伝に見える。『通鑑』は「南鄭」の字がない。南鄭は、このとき張郃が到達していないからか。校補図注397p


建興七年

七年春、丞相亮遣護軍陳攻武都・陰平。

陳「戒」に作る本があるが、『三国志』に従い「式」とすべき。

魏雍州刺史郭淮出将擊式。亮自至建威、淮退、遂平二郡。

建威は、諸葛亮が宿営した祁山の諸城の首邑。『水経注』巻二十に、祁山における諸葛亮の軍営について記述がある。
『陳志』張翼伝に「建威」が見え、建威が治所だったと分かる。『陳志』姜維伝にも、建威が見える。

後主詔策亮曰、「街亭之敗、咎由馬謖、而君引愆、深自抑損。重違君意、聴順所守。前年耀師、馘斬王双。今歳爰征、郭淮遯走。降集氐羌、興復二郡。威震凶暴、功勲赫然。復君丞相、君其辞。」

『陳志』諸葛亮伝に載せる詔が節略されている。「抑損」は、諸葛亮伝は「貶抑」に作る。「無」は、諸葛亮伝は「勿」に作る。


夏四月、呉主孫権称尊、遣衛尉陳震慶問。与蜀約分天下。

「呉」字がない本がある。
校補図注:孫権の称帝は、同年四月で、黄龍と改元した。呉主伝に、六月、蜀が陳震を派遣してきたとある。校補図注が『通鑑』を引用しており、独自の要約がされていそう。

冬、城漢・楽

後主伝に、建興七年、諸葛亮が「南山下原上」に徙したとある。『水経注』に、「水南有亮塁……」とあり、これを指す。定軍山から遠くない。沔水の北に、漢城・楽城を築いたといい、ゆえに(城と重複しない)南原に移ったのだ。諸葛亮は、定軍山を気に入っており、埋葬地もここ。漢城・楽城は、『漢中志』に見える。

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