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『三国志集解』明帝紀_景初期の郡県の変更

明帝紀 景初元年五月

丁未、分魏興之魏陽・錫郡之安富・上庸為上庸郡。省錫郡、以錫県属魏興郡。
丁未、魏興の魏陽・錫郡の安富・上庸を分けて上庸郡と為す。錫郡を省き、錫県を以て魏興郡に属せしむ。


魏興・錫・上庸は、武帝紀 建安二十年に見える。
銭大昕:魏興郡は、(郡国・地理)志に、何年に立てたか記述がない。劉封伝が証拠となり、黄初元年と考えるべきである。魏陽県は、『晋書』・『宋書』の二志には記述がない。
呉増僅:魏興郡を立てたのは、黄初元年冬であり、文帝紀 延康元年に見える。

趙一清:魏陽は、魏昌の誤りである。『水経注』沔水によると、魏昌県は、黄初中に房陵を分けて立てた。新城郡には昌魏県があり、『晋書』・『宋書』に見えるため、昌魏県=魏昌県である。『方輿紀要』巻七十九に、昌魏城の位置に関する記述が見える。
安富は未詳で、これも魏が置いたとすべきであろう。『水経注』溳水に、富水という川があるため、その名を取って県としたと推定される。
『一統志』によると、魏昌は、昌魏の誤りである。(『一統志』所引)楊氏『水経注疏要刪』によると、『華陽国志』・『左伝』杜預注・『晋書』・『宋書』・『斉書』は、いずれも昌魏に作っている(魏昌は誤りである)。しかし、郭璞『山海中山経』の注は、魏昌に作っており、漢昌・晋昌と同じ命名方法であり、魏昌が正しいことになる。

盧弼:『宋書』州郡志によると、明帝の太和二年、新城の上庸・武陵・北巫を分けて上庸郡とし、景初元年、魏興の魏陽・錫郡の安富・上庸を郡としたという。(景初に上庸郡を置き直したということは)太和の後に省かれ、景初に再び立てられたのであろうか。『宋書』は、魏興の魏陽を分けたとあり、明帝紀と同じであるから、魏陽は誤りではない(根拠は『宋書』のみ)。魏陽の所在地は未詳である。魏陽を、魏昌にしたり、反転して昌魏にすることはできない。
李兆洛は、安富故城は、今の湖北省の鄖陽府の境にある。

明帝紀 景初元年十二月

丁巳、分襄陽臨沮・宜城・旍陽・邔四県、置襄陽南部都尉。
丁巳、襄陽の臨沮・宜城・旍陽・邔の四県を分けて、襄陽南部都尉を置く。


襄陽は、武帝紀 建安十三年に見える。『晋書』地理志に、献帝の建安十三年、魏氏が荊州の地を尽く得ると、南郡を分けて北を襄陽郡としたとある。

呉増僅:『沈志』は『魏略』を引き、魏文帝が立てたとする。いま関羽伝によると、劉備が江南の諸郡に拠ると、関羽を襄陽太守としたとあるが、劉備はこの時点で襄陽を領有していない。三国時代は、敵の領土を遙領することがあるが、実は全てその領土を実効支配しているため、虚領ということはない。『魏略』は信頼できない(襄陽郡は、関羽が郡として支配していた)と分かる。

『郡国志』に、荊州南郡の臨沮県があり、侯国とする。
関羽伝に、孫権が関羽を臨沮で斬ったとあり、ここのこと。

『郡国志』に、南郡の宜城県があり、侯国とする。
魏は改めて(南郡から)襄陽県に属させた。
呉増僅:『洪志』は、宜城を襄陽の郡地とするが、けだし『晋書』に拠っている。いま『魏志』に、襄陽の宜城を分けて襄陽南部都尉としたとあるが、襄陽の郡地が宜城であれば、どうして南部都尉に遷すことができようか。『方輿紀要』によると、魏は襄陽を治所とし、晋が初めて宜城に移した。魏代は、襄陽郡の治所が襄陽県だから、宜城県を南部都尉に移せたのである。

『晋書』地理志に、南郡の旌陽県があり、『宋書』州郡志は、南郡太守のもとに旌陽がある。南朝宋の文帝の元嘉十八年、省いて枝江に併せられた。両漢には、旌陽県がなく、『晋太康地志』によると、呉が立てたと疑われる。
銭大昕:旍陽=旌陽である。
洪亮吉:『広韻』によると、「旍」と「旌」は同じなので、同一の県のことで疑いがない。魏代に襄陽に属し、晋の受禅後、南郡に移された。『沈志』は、呉が立てたと疑っている。楽進伝に、「劉備の臨沮長たる杜普・旌陽長たる梁太を討ち、皆 大いに之を破る」とある。つまり、旌陽は、あるいは建安十三年、南郡が初めて呉に編入されたとき、分けて置かれたのだろうか。また魏初に襄陽郡を立てたとき、臨沮・旍陽の2県がなく、ゆえに『呉志』朱然伝・潘璋伝には、臨沮で関羽を捕らえたとあるから、関羽が敗れた後、南郡が再び呉に編入されたとき、2県は魏に隷属したのだろうか。

謝鍾英:『一統志』と『方輿紀要』は、旌陽県を枝江県のそばとするが、枝江は長江の南であり、魏は長江を越えて領有できないため、比定が誤っている。臨沮の近くと考えるべきであろう。

趙一清:旍陽は、『漢書』・『後漢書』に見えず、魏が置いたとすべきである。『隋志』によると、梁は旌陽県とあり、後に恵懐県と改めたが、これは宜城の県境にあり、魏代の旧名に因んでいるのであろうか。
『水経注』によると、西晋が呉を平定すると、臨沮県の北郷・中盧県の南郷を分けて、上黄県を立てて、治所を軨郷とした。「軨」と「旍」は、字が似ているから、軨郷は、旍陽の故地かも知れない。
周寿昌:『三国志』袁紹伝の注に、「援旌擐甲」とあるが、『後漢書』では「援旍」とあり、「旌」と「旍」が通用する証となる。また、注引の「干旌」を「干旍」にも作り、通用している。

邔県は、『漢書』・『後漢書』では南郡に属し、『晋書』・『宋書』では襄陽に属する。
『元和志』によると、邔城は、東のかた漢江に臨む。古諺に、「邔に東なし」というが、東に漢江が逼っており、その地がせまい(短促)であったから。

『続百官志』によると、ただ辺郡は、往々にして都尉が置かれ、県を分けて所属させ、民の統治は郡になぞらえたと。

明帝紀 景初元年十二月

分襄陽郡之鄀・葉県属義陽郡。
襄陽郡の鄀・葉県を分けて義陽郡に属せしむ。


『漢書』地理志に、南郡の若県は、楚の昭王が呉を畏れ、郢よりここに移り、後に復た郢に還ったと。顔師古は、「『春秋伝』は、鄀に作り、その音は同じである」とする。
『郡国志』に、南郡の鄀県は、侯国であるという。
『一統志』に、若県の故城は、宜城県の東南なりといふ。

葉県は、武帝紀 建安二年に見ゆ。
謝鍾英:葉は、『漢書』・『後漢書』では南陽郡に属す。襄陽は南陽の南にあり、葉県は南陽の北にある。位置が隔絶しているから、(明帝紀が変更前に属したとする)襄陽郡に属する理がない。また、襄陽郡は、南陽郡をまたいで葉県を帰属させることができない。義陽は、襄陽の東にあるから、南陽をまたいで葉県を(明帝紀が変更前に属したとする襄陽郡に)帰属させることができない。これは葉県が、襄陽に帰属しなかった理由となる。ここで葉県が移ったというのは、削除すべきではないか。

『水経注』沔水に、沔水は南を安昌故城の東をへるが、これは故の蔡陽の白水郷である。漢は舂陵県とし、光武帝が章陵県と改め、魏の黄初二年に今の名(安昌県)に改めた。もと義陽郡の治所である。
『太平寰宇記』巻百三十二:『魏志』によると、文帝は南陽を分けて義陽郡を立て、安昌城を治所とした。安昌・平林・平氏・義陽・平春の5県が属した。ゆえに『蜀志』に、劉備が呉を征伐し、軍を退くと、ときに義陽の傅彤は、後ろで防戦し、戦死したという(義陽の出身者がいる)。晋の武帝の泰始元年、南陽の東鄙を分けて、復た義陽郡を置き、安平献王の司馬孚の次子である司馬望を義陽王としたと。
『魏志』武文世王公伝の彭城王拠伝に、黄初三年、章陵王に封じ、その年に義陽王に封じたとある。

盧弼:以上に拠れば、文帝の黄初三年、章陵を改めて義陽とした。『水経注』が黄初二年というのは誤りとすべきである。義陽郡の治所は安昌で、安昌は、前漢の舂陵、後漢の章陵である。
『漢書』劉表伝注に、荊州八郡があり、一つは章陵である。魏文帝が改めて義陽とし、ゆえに曹拠は初め(黄初三年)章陵王となり、すぐに義陽王となったのである。思うに義陽は魏代にすでに廃され、ゆえに『寰宇記』は、晋の武帝の泰始期、復た義陽郡を置いたという文がある。『晋書』は、義陽郡の治所を新野とし、安昌を治所としない。葉県は、南陽に属したのであり(『左伝』杜預注も同じ)魏代は義陽郡に属さなかった。

明帝紀 景初二年 四月

壬寅、分沛国蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹[一]十県、為汝陰郡。宋県・陳郡苦県皆属譙郡。
壬寅、沛国の蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹の十県を分けて、汝陰郡と為す。宋県・陳郡の苦県 皆 譙郡に属せしむ。


趙一清:『漢書』地理志によると、山桑は沛に属し、『続郡国志』では汝南に属する。けだし、魏代には改めて沛国に属したのであろう。地理志は、虹を[工虫]に作るが、どちらも貢(コウ)という音で、のちにまた絳城とも言われた。

銭大昕:『晋書』によると、汝陰郡は8県を統べるが、明帝紀と一つとして同じでないため、誤りが疑われる。『晋書』巻十四 地理志上 豫州には、慎(故楚邑)・原鹿・固始・鮦陽・新蔡・宋(侯相)・褒信である。
宋県は宋公国で、後漢では汝南に属し、晋では汝陰に属した。

洪亮吉:汝陰郡は、黄初三年、汝南を分けて置いた。景初二年、沛郡の十県を来たりて帰属させ、全部で十八県となった。『通典』に、司馬懿が鄧艾に屯田をさせたとあるのは、ここである。『元和郡県志』に、魏文帝が黄初三年、汝陰県を汝陰郡に属させたとあり、汝陰郡を立てたのはこの年であろう。ただし『沈志』では、晋武帝が汝陰を立てたとある。いま、『晋書』地理志 汝陰郡を読むに、魏が郡を置き、後に廃し、泰始二年に復た立てたのである。『何承天志』汝陽県によると、汝陽県は、もとは汝陰郡に属し、晋武帝が改めて汝南に属させたと。
これらを合わせると、明帝紀 景初二年、魏は汝陰郡があったことが明白である。『沈志』は、誤って復た立てたとき(晋武帝)、初めて立てたと書いてしまったのだ。

謝鍾英:陳寿は、劉馥を「沛国の相県の人」とする。武周・薛綜を「沛国の竹邑県の人」とし、劉元を「沛郡の蘄県の人」とする。『寰宇記』虹県によると、魏初に汝陰県に属したという。この10県は、魏末には、もどって沛国に属していたのである。
魏は汝南を分けて汝陰郡を置き、その後、郡を廃して、県は汝南郡にもどした。ゆえに晋武帝は汝南を(再び)分けて汝陰郡を置いたと(『沈志』に)書いてあるのである。

呉増僅:『魏志』明帝紀は、景初二年、「沛国の蕭・相・竹邑・符離・蘄・銍・龍亢・山桑・洨・虹の十県を分けて、汝陰郡と為す。宋県・陳郡の苦県 皆 譙郡に属せしむ」とある。諸家は、これを汝陰郡が初めて置かれたとする。洪氏は、魏初に汝陰郡が立っていたとするが、この年、沛国の十県を移動させたのである。いま、志の文と洪氏の説を按ずるに、どれも疑わしい。
呉増僅は、景初二年、汝陰郡が立てられていない根拠をあげる。
①『元和志』に、黄初三年、汝陰県を汝陰郡に属させたとあり、明らかに汝陰郡は景初に立てられたのではない。
②郡名の汝陰は、属県が汝水に近かったからであり、十県は渦水の北にあって、汝水と近くない。
③属県の編成は、地理的な近さを考慮するが、この十県は渦水にあって、『洪志』が載録する汝陰郡の属県は汝水のそばにあり、両者は2百里も隔たっており(汝水との距離から、明帝紀が挙げる県は汝陰の郡名に相応しくなく、『洪志』は汝陰の郡名に相応しく)汝陰郡に属せない。
④『晋書』が列挙する汝陰郡の属県は、明帝紀の列挙する10県と、1つも一致しない。
以上から、明帝紀の汝陰郡を作ったというのは、衍字である。

志の凡例(書き方のルール)によると、「○○県を以て○○郡に属せしむ」といい、「皆」という字がない。ただ宋県・苦県は、「移して譙郡に属せしむ」といい、鄀県・葉県の2県は、「移して義陽に属せしむ」というのが普通で、必ずしも「皆」という字がないものである。いま、明帝紀に「皆」とあるのは、上の(汝陰郡に属したという)10県全てもまとめて、ということである。
『元和志』によると、銍県・山桑の2県は、どちらも魏代に譙郡に属したといい、『晋書』は譙郡の属県として、なお銍県・蘄県・山桑・龍亢の4県が属したという。魏の明帝の末年、沛国の10県を移して譙郡に属させた証である。晋初、竹邑ら6県を分けて、沛国に還したのである。
譙県は、曹氏にとっての、(周王朝における)豊・鎬と同じであり、五都に並べられ、ゆえに多くの県を編入して、大きな郡としたのである。晋が受禅した後、その属県をもとに戻した。いま10県を移して、譙郡に編入したのである。
『晋書』を按ずるに、魏が汝陰県を設置し、後に廃止し、泰始二年に置いたという。『輿地広記』も同じである。
『寰宇記』に、魏が汝陰郡を置き、司馬懿が鄧艾にここで屯田をさせたが、後に廃止されたとある。鄧艾が屯田をしたのは、鄧艾伝によると、正始中であり、その後、汝陰郡のことは歴史書に出て来ない。汝陰郡が省かれたのは、嘉平五年、斉王が郡を省いたときであろうか。

王先謙:呉増僅は、明帝紀の文「汝陰郡とする」を誤りとして、明帝は、沛国の蕭県・相県を譙郡に属させたとすべきと言うが、説には根拠がない。洪氏・謝氏は、どちらも明帝紀に拠って、移して汝陰郡に属させたが、郡を省いて汝南に還したという。
しかし、『淮水注』は、文帝が城父・山桑らを属させて譙郡を置いたと明記している。つまり汝陰郡が省かれたときは、山桑県は(汝南でなく)譙郡に還して属したと考えるべきである。

盧弼:汝陰に郡を置いたのは、まことに疑義はない。ただし、蕭県・相県ら10県は、汝陰郡に属したのではなく、竹汀(銭大昕)は、志に誤りがあると疑っている。呉増僅は、それなりに信憑性がある。しかし、呉増僅の説のとおりなら、蕭県・相県ら10県はすべて沛国に属し、苦県は陳羣に属したと『郡国志』にあるが、宋県だけが汝陰に属したとあり、『魏志』に明らかな文がないが、宋県は廃止された汝陰郡に近く、『晋書』・『宋書』とも、宋県を汝陰郡に属させている。必ず、黄初期に汝陰郡が置かれたとき、汝南から(所属する郡を)改めて、汝陰に属したはずである。『洪志』は、宋県は漢代の旧県であり、魏では汝陰に属し、景初二年に譙郡に移ったとしており、依拠してよいだろう。
このように理解すれば、呉増僅の説は、すべて通じる。
『淮水注』に、魏の黄初期、文帝が、酇県・城父・山桑・銍県をもって譙郡を置いたとあるが、これは志の文と合わない。山桑・絰県は、すでに譙郡に属しており、沛国に属したとは言えない。あるいは、山桑・絰県は、黄初期には、かつて譙郡に属しており、すぐに沛国に還ったのであろうか。

明帝紀 景初二年 四月

以沛・杼秋・公丘・彭城豊国・広戚、并五県為沛王国。
沛・杼秋・公丘・彭城の豊国・広戚を以て、五県を并せて沛王国と為す。


『郡国志』に、沛国には、沛県・杼秋・公丘・豊県があり、彭城国に広戚があったとする。
銭大昕:豊県は、もとは沛国に属したが、いまは彭城の下に繋がれ、恐らく誤りである。豊県は、かつて王国であり、ゆえに豊国という呼称がある。

洪亮吉:沛国は、秦の泗水郡である。漢が今の名に改めた。魏の景初元年、国となり、5県を領した。
謝鍾英:豊国は、魏初に彭城に移ったと考えるべきで、ゆえに(明帝紀で)彭城の下に書かれており、(銭大昕は誤りというが)誤りではない。潘眉の説も同じ。沛王林は、太和六年に封じられており、洪氏が景初元年に国になったというのは誤りである。

呉増僅:沛県・杼秋・公丘ら5県が、沛王国となったというなら、上の文で「沛郡らの10県を分けた」とすべきで、「沛国を分けて」と言うべきない。ましてや曹林を先に封建していたならば(郡から国への変更は、この時期ではない)。

盧弼:志の文では「豊」の字は、彭城の上に置くべきであり、そうすれば全文の意味が通る(豊国は、彭城でなく沛国の配下とすべきである)。豊県が王国となるのは、嘉平六年に曹琬が、承襲した後である(曹琬はこのとき長子公を封じた)。この時点で、豊国と称すべきでない。沛・杼秋・公丘・豊は、もとは沛国に属したから(所属に変更がないのに)なぜ列挙する必要があったか。沛国は、もとは21城あり(『郡国志』)、すでに10県が他郡に分けて転出しており、のこりも省かれ併わされ、残りは、沛・杼秋・公丘・豊の4県だけであった。彭城の広戚を合わせて、5県を沛王国としたから、わざと特記したのである。
彭城国は、武帝紀 建安三年に見える。180221

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『三国志』明帝紀を読みながら考えたこと

2018年のゴールデンウィークに、『三国志』明帝紀を読みながら考えたことです。他の方のツイートを引用してますが、必ずしも、私のツイートへの返信とは限りません。こんなことを考えていたとき、私が目にしたツイート、頭のなかで結びついたツイート、という位置づけで、引用しています。

◆ふたつの時間軸
小まめに目をむけ、手をかけたほうが良いものと、放置プレイのほうがよい(気にしすぎると、かえって余計なことをしてしまう)ものを、両方とも生活に取り入れたい。漢文読解は小まめに続ける。アイディアは放置がよい。自分の労働は小まめにやる。金融取引は放置がよい。
小まめなものだけだと、地を這うだけで、飛躍がない。自分がやった分しか、リターンがないので、裕福になれない。かといって、放置すべきものだけだと、ヒマすぎて幸福度が下がるし、結局は余計なことをしてしまう。複数の時間軸を自分のなかに設定し、意識的に生きるというのが大事だなと。

◆文字バケ
「𧵍」を、一太郎の縦書きの文書に貼り付けると、90度、横に回転してしまう。文字が出ないわけでもなく、文字を正しく使えるわけでもなく。これ、なんの現象なんですかね。『三国志』呉主伝にも、同じことが起きる漢字がありました

◆三國無双_符瑞志
三國無双8の不具合修正で、「時間変更時に稀に空が発光する不具合を修正」てありましたけど、それはそれで、三国志っぽいというか、瑞祥か何かみたいなので良かったのでは。
発売して3ヵ月、そろそろ買えそうか。このまま、猛将伝を待つほうが、現実的か。お金よりも、バグに付きあう時間が惜しい。

◆景初暦を導入する
三統説では、夏は人統で建寅(一月)を正月として黒を尊び、殷は地統で建丑の月(十二月)を正月とし白を尊び、周は天統で建寅の月(十一月)を正月として赤を尊ぶ。『周礼』巾車に、軍事は前王朝の色を用いたとあり、周王朝は、殷の白色を軍事で用いた。これは整合した体系。

景初期、魏王朝が三統説を当てはめ、殷王朝の地統を踏襲し、建丑の月(十二月)を正月とし、白を尊んだ。これは整合。
しかし漢王朝は、周王朝(天統)の赤を尊ぶが、暦では夏王朝(人統)の建寅(一月)を正月とした。漢王朝からして、三統説から逸脱しており、魏が機械的に三統説で自らをあてはめられない。
『周礼』巾車に、自王朝の色を朝廷で、前王朝の色を軍事で用いるとある。魏王朝は、自王朝の三統説における色(白)を朝廷で、漢王朝の色(赤)を軍事で用いた。漢王朝が、人統の暦+天統の色なので、魏王朝は「人統の黒、地統の白、天統の赤」の順序を守れず、次に来るべき天統の赤を、軍事で用いた。

三統説の循環(黒→白→赤)と、五行相生説の循環(赤→黄→白)の両方に目を配るから、景初の改制が分かりにくい。五行説どおり黄を尊ぶが、三統説の白も重んじたい。しかし白は、五行説においては、魏の次の王朝の色だから、手放しに尊重できない。
漢王朝の赤ありきで考えるから、ワケわからん。

◆裴松之注の場所
『三国志』明帝紀 景初元年の注釈「魏略曰、是歳、徙長安諸鐘𥵂・駱駝・銅人・承露盤」は、裴松之が注釈を付ける場所が、きっと間違ってるんですよね。明帝紀 太和六年が正しく、『三国志集解』で諸観点から検証が済んでます。やめてほしいです。宮殿造営の記事の字数が多すぎて、敢えて散らしたか。

@HAMLABI3594 さんはいう。この問題は魏略にはそう書いてあったのかないのかという事なので、逆に裴松之が位置をずらしたらまずいんじゃないかな。

このパターンは、裴松之がまずいのだと思います。『魏略』の文脈なら、「この歳」がいつを指すのか明確だったはずなのに、裴松之が千切ってしまったから、何年のことか分からず。でも内容からしたら、景初元年では遅すぎるようです。

@HAMLABI3594 さんはいう。それは「裴松之は複数年に渡る記載を切り取って繋ぎ合わせている」ということになるので、非常にまずい気がするんだよね。可能性としてはないとは言い切れないんだけど、僕は裴松之は魏略の見解を引いたと思いたい。そうじゃないととても面倒なことになるなぁ・・

ぼくは、裴松之が、単年の記事を複数に切り分け、陳寿の本文に割り振っていると思います。少なくともこの箇所は。
もちろん、もとの『魏略』に、時系列が不正確(もしくは不鮮明)な記事があり、裴松之が踏襲した(もとの文のおかしさに引きずられた)という可能性も、大いにあります。

◆怪異である
後秦の王嘉による『拾遺記』は、巻七が魏の文帝や明帝、巻八が孫呉の話。読まなくちゃ。 中國哲學書電子化計劃
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=167912

@kousonyuu さんはいう。巻八には『捜神記』とは別バージョンの糜竺の火事のお話があるよ。季漢は孫呉と同じ巻なんだね。糜竺の前は甘夫人の話だったかな。


◆沛国の再編
『三国志』明帝紀 景初二年に係わり、沛国に所属する県を整理する。
話を始める準備として、『後漢書』志二十 郡国二は、豫州沛国に所属する二十一県を挙げる。①相・②蕭・③沛・④豊・⑤酇・⑥穀陽・⑦譙・⑧洨・⑨蘄・⑩銍・⑪鄲・⑫建平・⑬臨睢・⑭竹邑・⑮公丘・⑯龍亢・⑰向・⑱符離・⑲虹・⑳太丘・㉑杼秋である。

『水経』巻三十 淮水注によると、魏の文帝は、⑤酇・城父・山桑・⑩銍の四県を譙郡とした。四県のうち『後漢書』郡国志で沛国とされるのは、⑤酇・⑩銍の二県である(城父・山桑は、『後漢書』郡国志では汝南郡)が、⑩銍は明帝紀が景初二年の移管したとするため、文帝が譙郡に移管したと確定できる漢代沛国の県は⑤酇と、『水経注』に見えないが、郡治の⑦譙である。

明帝紀の景初二年、譙郡に移管したとあるのが、②蕭・①相・⑭竹邑・⑱符離・⑨蘄・⑩銍・⑯龍亢・⑧洨・⑲虹の九県(山桑は、明帝紀が沛国とするが、『後漢書』では汝南郡)。
同じく明帝紀で沛国への残留が確認されたのは、③沛・㉑杼秋・⑮公丘・④豊の五県である(豊は、明帝紀が彭城とするが、『後漢書』では沛国)。
残りの⑥穀陽・⑪鄲・⑫建平・⑬臨睢・⑰向・⑳太丘は、『晋書』地理志及び銭儀吉『三国会要』で県と確認できず、後漢末以降、廃止された可能性がある。

◆県侯国
『三国志』明帝紀 景初二年に「彭城豊国」とあるが、豊県が国となったのは、嘉平六(二五四)年、曹琬が承継した後であり、この時点で国と称するのは誤りであり、「国」一字を除くべきである。
歴史叙述から遡及的表現を完全排除できないが、これはダメ。景初二年時点の「昔の名前」で書いてほしい。

◆沛国の人と、沛郡の人
遡及的記述で、議論しても、じつに仕方ないのが、「沛国の人」と「沛郡の人」の書き分け。『三国志』巻一で曹操は沛国の人、巻十五で劉馥は沛国の人。巻五十三で薛綜は沛郡の人、巻六十五で楼玄は沛郡の人。
誕生時の区画で書くの?史書の作成時の区画?郡と国が頻繁に変更される地域は、どうしたら。
この例だと、『魏志』は沛国、『呉志』は沛郡でした。孫呉の立場?(何それ)では、曹魏が、薛綜・楼玄の本貫地あたりに置いた政体?を「国」とは認めないよということか。別の問題が起きてしまった。ともあれ、本貫地の表記の時間軸は悩む。天水の人、漢陽の人も。あっ、こっちの例のほうが適切か。

◆司馬懿の呼び捨て
『三国志』明帝紀に「司馬懿」とある。『集解』に引く銭大昕の説によると、明帝の直接話法で「宣王」と言えないからである。ただし、晋臣の陳寿が諱を書くことはできず、後世、改めたと推定されるという。
『三国志』巻三十三 後主伝、巻四十 李厳伝、巻四十七 呉主伝、巻六十四 諸葛恪伝の「懿」も同じとされる。

@darql さんはいう。『晋書』に司馬鄴(愍帝)のことを「(司馬)子業」ともしているの、『資治通鑑考異』によれば、南梁の蕭方等『三十国春秋』の「晋春秋」に、愍帝の諱を「子業」とする記述があり、資治通鑑は間を取ったのか、「司馬業」としている、という何ともカオスな状況になっている。


◆曹爽政権論
曹爽とか孫綝とか、三国の王朝の中興期に出てくる、皇帝と同姓であり、権力を集約したが、始祖の子孫ではないから皇帝の継承権がない人たちって、どういう位置づけと理解すればいいのか(曹爽と孫綝は異質なので、まとめられない!のならば、別々に論じますが)。藩屏としての力の発揮でもなさそうで。

曹爽や孫綝を「宗室権力」と捉えれば、王朝は迷走ではなく、全盛期に向かっているはずだが、どうも邪道?な感じが拭えない。前漢・後漢で、皇帝になれないが皇帝の親類としては、異姓の外戚が、皇帝を圧倒する勢いで、概ね一代限りの執政をやってた。両漢の反省から、外戚を警戒した結果なのか?
曹爽や孫綝みたいな、王朝を隆盛させるのか、衰退させるのかよく分からない、亜流の宗室権力って、南北朝時代はどれくらい出てくるのか(調べないと)。

@HAMLABI3594 さんはいう。景初の変で、魏の皇族や官僚の大多数が支持していた夏侯惇・曹休派を曹真派の曹爽が公職から追放したので、少数派の曹爽は支持者集めの点数稼ぎ。魏略は曹爽の時代から編纂が開始されているので、そういった事情が絡んでくると。


曹爽が分からない。明帝末期、曹宇らを退けて執政(宗室弱体化の罪人?)。人材登用して斉王を輔政(王朝の支柱?)。司馬懿と協調、のち対立。王朝の存続のため、功罪どちらが大きいか見えず。実権のある魏帝は明帝まで。正始の変以後は魏晋革命まっしぐら。この間隙の「曹爽政権論」が分からない。

◆日付のこと
三国志研究会でやった、十干十二支ネタは、ちょこっとずつ、話題が波及してるみたい。避けて通れないですからね、理解するなら、早いほうがいいし、苦手意識をもつと、弊害しかないんです。暦法や天体の知識が、あやしいから、がんばりたい。

@maruta_open さんはいう。干支で思い出したが先日の三国志研究会で佐藤さんが十干十二支と史書の年月のお話をして、私どうにも表見ながらでないと数えられないんだけど、慣れてた当時の人はスラスラ出てきたんかなあれ……数数えるのと同じノリで。
@sangatsu_rakshi さんはいう。今年初めてブログを更新しました。「十干十二支をマスターするために」/この前の三国志研究会・愛知で佐藤ひろおさんが話していたところから、どうやったら干支を簡単に計算?できるだろうかと考えてみた。
http://rakushisha1999.blog110.fc2.com/blog-entry-67.html


◆日付をまちがえること
『三国志』を、統一的体例をもつ陳寿の完全?な文(「原陳志」とでも言うべきもの)と、編集を継承した弟子?や筆写ミスを含む不完全な現行の本に分けて捉えたい……、という @HAMLABI3594 さんの発想は、おもしろいけど難しい。でも、呉主伝後半か三嗣主伝から、日付表記が変わるらしいので、これは、検証したら楽しそう。
『三国志』を、「原陳志」と、不完全な現行本とに分解するという試みは、比較対象がなくて、学術的には失敗するんですけど(失敗しますよね)、『日本書紀』だって、言葉遣いや引用文献から、編纂過程を分解しようという研究があるので、『三国志』でやるのも、筋違いだとは言えないのです。きっと。

@HAMLABI3594 さんはいう。劉備の命日についてだが、諸葛亮が劉禅に上書した「今月二十四日奄忽升遐」から24日に死んだことが確定する。これが元史料で干支に変換する際に「癸巳」と間違えたのであろう。これは先日の三国志研究会の延長線の話題だな。
ただ陳寿がそんな凡ミスをするとは思えないので本来の蜀書は「夏四月,先主殂于永安宮,時年六十三」だったのだが、陳寿死後の三国志が正史として書写される際に、干支が書き加えられた可能性がある。
三国志で日付は帝紀のみで記されるが、帝紀は魏にしか存在しないため、陳寿は諸葛亮の上書を載せることで劉備の命日を示し、諸葛恪の手紙を載せることで孫権の命日を示した。せっかく陳寿が裏技的な手法を使ったのに台無しにされたと。
@HAMLABI3594 さんはいう。なお、孫権が死んで以降の呉書には日付が頻出するので、陳寿が直接編纂したのは孫権の時代までで、作りかけの呉書を完成させたのは弟子だろう。


◆漢魏革命のこと
自分で規則を設定し、その賛否に人々を巻きこむことで、主導権を握る。権力者の巧妙なやり方。関税の導入を自分から言い出して、各国との交渉材料にする。特定の場所で女性を立ち入り禁止にして、話題をさらう。後者は意図せず、体制側も困惑してかも知れないが、その競技の注目度が上がったのは事実。
曹氏による漢魏革命のプロセスも同じ。諸制度が、ゼロからの発案ではないが(それを言ったら関税の件も、保護貿易という古典的な政策。導入時期と仕方の上手さがポイント)、自ら規則を設定し、人々に賛否の立場を取らせることで、時代の中心になる。後漢末は、曹操という時代になりましたとさ。

◆訳語
政権をうまく表現する[現代語訳]が分からなくて、「魏国」っていうと、曹操の公国、王国も含められるが、禅譲のあとと区別が付かない。「魏王朝」は、魏王の朝廷があればいいなら、禅譲の前でも使えるのか。「魏帝国」というと、皇帝がいるのは分かるが、あれって歴史学の術語「帝国」なのか?とか。
後漢末の劉備の政権を「漢中国」と言わず。「蜀」「蜀漢」だと、正確さを犠牲にしているのは分かる。「漢王朝」「漢帝国」とすべきを、弁別のため「蜀漢王朝」「蜀漢帝国」と言うとして、あれって王朝?帝国?と頭を抱える。でも、称帝する三国で差をつけるという価値判断を、予め呼称に混ぜたくない。

◆カンキュウケン
カンキュウケンは、むかしやった単語登録で、「毋丘倹」と入力してきたけど、「毌丘倹」と入力しなければいけなかったか。前者は、JIS第2水準で、後者よりも出しやすいけど、「ブ」だな。「カン」にすべきだな。ひとの姓に「パソコンでの出しやすさ」なんて関係ないし。

◆『晋書』のエラー?
『晋書』巻一 宣帝紀は遼東征伐を青龍四年の事としているが、『三国志集解』で盧弼は、これを誤りと指摘している。しかし『晋書』は、青龍四年の記事の後、年を表記せずに遼東征伐の記事を置いているのであり、不備とすべき点は、年の表記の欠落であろう。
編年体、時系列の歴史書の元祖は『春秋』。『春秋』にどれくらいエラーがあるか気になります。明らかに記事の順序がおかしいとか、過去に遡ったものの段落の区切りが不鮮明とか、年月日が変だとか。『三国志』『後漢紀』『資治通鑑』は不備が多いのを見てますが、まさか聖人がミスるはずがないですね。

@Archer12521163 さんはいう。郭公(荘公二十四年)
@Historian_nomad さんはいう。(吉本道雅先生の研究をそっと差し出す

教えてくださって、ありがとうございます。「『左伝』と春秋史」、「春秋釋例世族譜の戦国紀年」などがヒットしますが、これらの論文を指されてますか?読んでみようと思います。

@Historian_nomad さんはいう。私もすべて目を通したわけではないのですが、おそらく単著である『中国先秦史の研究』が手に取れるご環境であればそちらのほうがまとまっているかもしれません。吉本先生、史料批判という意味でもものすごい先生なので……>奥様との共同研究の関係で遼金代の史書の批判検討もされてる。


◆校勘考
中華書局の『三国志』は、文字を訂正してあります。根拠は、巻末に示されてます。歴史の「真実」が分からなくとも、直せるパターンは多い。干支の誤りを機械的に判定できる、他の史料と比べて名前や官職が明らかに誤りだ、地理や行政区画的にあり得ない、など。※直せるパターンを整理したいですね
中華書局が文字を訂正(見え消し)した結果、「中華書局本」という1つの権威と信頼性のあるバージョンができる。ぼくらは、宋本(百衲本)を底本とする場合でも、中華書局本に従って訂正して良いですよね!と主張できます。 『三国志集解』も同じ。あれは、「盧弼本」という新バージョン。

今日に伝わる全てのバージョンは、筆写者・編者が、先行バージョンと比較検討し、判断をはさんで文字を決めてきた(ミスを除く)。書きながら、書き写しながら、明らかに違うだろ!と思ったら、直さないはずがない。そのたびに、直したという事実を記録するか、直した内容の根拠を提示するか、という点では、「手抜き」が盛んに起きているでしょうが。
古い墓から出土しても、あるバージョンに過ぎない。明らかな誤記があったとき、「陳寿がミスったなら、そのミスは残すべき」と主張したいが、陳寿のミスか判定不能。
中華書局本・三国志集解の本文とも明らかな不整合があり、三国志集解の注釈で「明らかなミス」と指摘があるが、三国志集解が本文をいじってないときは、それを陳寿のミス?ということにして?、不整合を尊重して残す、というのも一貫性がないような。こちらには、見え消しする権限もないのか、とか。

◆公孫淵は守られている
遼東の公孫淵って、雨に守られてるんですかね。それとも、あの地域は、大雨・長雨が多いんでしょうか。景初元年、毌丘倹を大雨で追い返し、景初二年、司馬懿も大雨で追い返されそうになった。司馬懿のときは、明帝の強い意志と、司馬懿の優れた策謀により、大雨でもメゲなかったことになってますが。

◆地方のこと
地震出版社というところが、『後漢書地図集』『三国志地図集』を刊行予定と、東方書店のサイトに書いてありますね。これが、すごく楽しみ!アレンジの余地があったら、いろいろ作ってみたいですし。
http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=432687&bookType=ch

@osacchi_basstrb さんはいう。厳耕望「両漢太守刺史表」には華陽国志や風俗通義などを出典とする後漢末の太守・刺史も出てくるけど読み解いていくと本当にその時代にそこで在任していたかの特定に至らないものが多い。逆に隸釈のような碑文の記録は時代だけは特定できるが何をした人かは不明。エキサイティングな発見は多くは無い。


などなど、明帝紀を読みながら考えました。180505

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