孫呉 > 小説『魯粛伝』の作成準備

全章
開閉

1.投資対象としての官位

このサイトを、「いつか書きたい『三国志』」と名づけてから、もう11年が経ちました。
三国志の小説を書こうといいつつ、歴史資料の読解や考察をしたり、イフ小説を書いたり、論文を書いたり、独学ガイドを作ったり……、本編に手を付けていないわけですが……、本編小説の準備というわけではありませんが、特定の人物を主人公にした小説を、コンスタントに作っていきたいと思っています。
原稿用紙1000枚なら、年に1冊。500枚なら、年に2冊ぐらいのイメージ。

その第一号は、魯粛にしたい。
なかでも、魯粛の「投資家」としての側面に着目し、魯粛がどのように時代を読んでいたか、細かく描いてみたいのです。

投資家の魯粛について、インターネットで検索すると、周瑜に蔵をプレゼントしたエピソードが出てくる。周瑜に蔵をプレゼントした代わりに、将来、孫呉での高い地位というリターンを得たと。

かんたんにヒットするので、リンクは貼りません。

これならば、ぼくが深める余地があるなと思ったので、企画に着手します。

魯粛の投資対象は「王朝」

魯粛を投資家として見た場合、彼が選んでいる「銘柄」は、王朝です。魯粛に、先見の明があるとしたら、その「銘柄」選びを、巧みにやったことです。
ただし、「漢王朝の復興はムリだから、江南に独立政権を建てるべき」と考え、「南朝」政権を、いち早く構想した、というのは、結果論です。
魯粛といえど、初めから、このようなビジョンには至らなかったはずです。もちろん、失敗もありました。試行錯誤のプロセスが、小説になると思います。

物語の出発点は、やはり漢王朝です。
彼より上の世代は、というか、彼と同世代の多くの人もまた、漢王朝の永続を信じて、経済的な財産や、貴重な人生の時間を、注ぎ込んできました。

孟達の父による猟官運動

最近ぼくは、『三国志』明帝紀を精読したのですが(いずれ発表されます)、明帝紀の裴松之注に、蜀の孟達の父である孟他の逸話があります。
孟他は、宦官の張譲と面会するために、全財産を献げ、破産の寸前まで行きました。バカなんでしょうか。いいえ、違います。

なぜ破産の寸前まで、財産を注ぎ込むか。漢王朝の官位という「財」が、何よりも優先して欲しかったからです。
孟他の場合、「猟官」に成功して、涼州刺史の官位を得ました。建寧三(一七〇)年、涼州刺史として、異民族と戦った記事があります。
涼州刺史の利権は、税収だけでなく、西域との交易でしょう。漢王朝の官位は、それを得るために全財産を傾けても惜しくないものでした。なぜならば、官位につけば、注ぎ込んだ財産を上回るリターンが、期待できたからです。
張譲のような宦官は、「猟官」運動を管理することで、彼自身も莫大な権勢と富を築いたはずです。

投資対象としての後漢の官位

経済においても、特定の投資対象(例えば不動産)が、利益を生むと確証され、みんなが欲しがる(買う)から、どんどん値上がりすることがあります。なぜみんなが欲しがるか。みんなが欲しがるからです。以上、終わり。
通常、このような、同義反復的(トートロジー)な説明をすると、バカにしてんのか!ってことになりますが、こと投資対象においては、この説明が真理です。
みんなが欲しがると、値上がりする。値上がりすると、みんなが欲しくなる。この循環だけです。なんの裏付けもありません。

土地は、本来は、「そこに住める」などの効能があり、買って、住んで、幸せになりましたとさ、で終わりだったはずです。
しかし、土地を持っていることで得られる利得(家賃収入など、インカムゲイン)と、土地の安く買って高く売ることによる利得(キャピタルゲイン)が注目され、投資の対象になります。また、土地に関する権利を、分割・統合したり、複雑に操作して、投資対象として加工(証券化)されていきます。

漢王朝の官職も、「任命された役割を果たして、俸給をもらう」のが本来であり、着任して、精勤して、感謝されましたとさ、で終わりだったはずです。
しかし、官職を持っていることで得られる利得や、官職を授受・斡旋することによる利得が注目され、また官職にまつわる権利が、分割・統合などにより操作され、投資対象として流通しました。
これを、政治史の言葉で語るなら、「腐敗」かも知れません。
他方、投資の目線でいうなら、官職が投資対象となったのであり、宦官が介在して「証券化」されたと言えそうです。
投資の対象となると、遅かれ早かれ、過熱します。エスカレートします。

霊帝期は、漢王朝の円熟期です。
霊帝のあと、後漢が滅びたので、霊帝の政治がダメだった、というイメージになりますが、こぞって全員が、後漢の官位を欲しがったというのは、後漢の最盛期であったことを、意味するのではないでしょうか。
みんなが官位を欲しがるから、官位にまつわる利権が肥大化し、いわゆる「腐敗」をするわけです。
知識人たちは、人脈を駆使し、財産を蕩尽し、名声を「賭金」にして、官位を求めました。官位に群がって、醜く争う様相は、歴史書を見るとウンザリします。しかし、後世の私たちをウンザリさせるほど、みなが官位に熱中し、それだけの「値段」が付いていたのです。

後漢の批判者(党人)たちだって、官職の配分をめぐって異議申し立てをしたのですから、同じフィールドのなかで、ボールを追いかけているのです。
もちろん、ゲームから降りて、隠逸として生きていく人もいました。


霊帝期は、土地のバブルと似ています。
みんなが土地を欲しがるとき、日本列島の「価値」は、暴騰しました。もはや、実態(土地の使い道)は、あまり関係なくなります。国土の「価値」が暴騰した日本は、ほかの国に比べて、繁栄していることになりました。

後漢の官位の暴落

実態を離れて、額面が暴騰したものは、なにかのキッカケで、価値が落ちます。
人間は、1万円を得る喜びよりも、1万円を失う痛みのほうを、強く感じます。こういう人間の性質によって、投資対象は、いちど価値が落ち始めると、恐慌を起こして、投げ売りされます。もっと値下がりする前に、さっさと売り抜けなければ!という、恐怖に支配された心理です。
だから、投資対象は、値上がりをするときは、コツコツですが、値下がりするときは、ドカン!と落ちます。

後漢の官位の価値が暴落したのは、黄巾の乱がキッカケでしょう。
「コーキン・ショック」です。
黄巾の乱の原因は、いろいろ言われます。
官位を利権と見なした地方長官が、税金を搾り取りすぎたから。黄巾は、後漢の儒教に対抗する理念を持っていた。政治不安になると、秘密結社や宗教のようなものが発展する……。これらの説明は、あまり関係ありません。
ショックのキッカケは、何でもいい。べつに、黄巾の乱でなくても良かったのです。
もしかしたら、後漢のとある政策転換とか、ちょっとした霊帝の発言(詔)とか、ある人物を処罰したこととか……、バブル崩壊のキッカケは、何でもいいのです。イデオロギッシュに主張されるような、農民叛乱である必然性はありません。

本題に戻ると(前置きが長くてすみません)、魯粛は、早くに父を失っています。名前すら分からない。
魯粛の父は、家業で蓄えた元手で、「猟官」運動をして、どこかの県令・県長あたりに着任した。洛陽に行って、宦官に面会を求めるとき、少年の魯粛も、付いていったことにしても良いでしょう。しかし父は、黄巾の乱で殺害された。
魯粛は、漢王朝に「全財産をベット」したが、大損をした父の様子を見た。既存の価値観に流されて、他人と同じように振る舞うだけでは、うまく生きられない時代に突入したんだな、と自覚する。
……という、小説だからできるエピソードを設けたい。

魯粛の父を、典型的な旧世代というか、後漢の平均的な人とする。後漢の永続を信じ、後漢の官位に価値を見出した人、という描き方をする。
魯粛が、人生の節目ごとに出会う人たちも、同じように、後漢の官位の資産価値を忘れられず、また、漢王朝のために投入した自分の時間・財産を忘れられず、取り戻そうとしてる、、という、典型的に投資で負けるパターンなのかも知れません。

今後の見通し

魯粛が投資対象とするのは、頼るべき盟主です。
少年時代の強烈な体験によって、漢王朝に「裏切られた」気持ちが強いから、革命にも抵抗がない。

周瑜に蔵をプレゼントしたのは、三公の家の周瑜が、いずれ王朝を興すかも知れない、という期待があったから。
袁術の官職をもらうのも(拝命を拒否したとは史料にない)、それに見切りを付けたのも、やはり、だれが発行する官位の価値に、自分自身の運命を同調させるか、という究極の選択なのです。

例えば、預金をやめて、全財産を、ある会社の株に注ぎ込むと、、自分の財産の増減は、会社と一体化する。株価が2倍になれば、自分の財産も2倍。半分になれば、半分。倒産すれば、0円になる。
これは、あまりにハイリスクだから、「分散投資」が奨励される。複数の会社の株を買いましょう。いえいえ、全財産を株に代えてはいけない。債券を持っておきましょう。預金のまま、持っておくのも、いいですねと。
しかし後漢末は、このような「分散投資」ができない環境であった。魯粛は、自分の命運(財産だけでなく、生命も)を、誰かに一点賭けしないといけない。

一時、気の迷いのように、鄭宝を頼ろうとしたのも、袁術なきあとの揚州の混乱のなかで、投資先が見えなくなったのかも知れない。

思えば、周瑜に、2つの蔵のうち、1つしか贈らなかったのは、安全策だった気もします。もしも、周瑜と命運をともにするなら、2つとも贈るべき。
「財産の半分を賭けたのだから、勇気がある」という見方が一般的ですが、しかし、半分です。全幅の信頼は、していなかったということになる。

◆劉備のこと
やがて魯粛は、孫権に「全部賭け」をしました。その後も、投資は続きます。
劉備に荊州を貸したのも、投資という行為でしょう。「劉備を曹操にぶつけると、孫権が安全」というのは、史料に説明されていることですが、それは、配当を受けとるようなもの。
「荊州を、劉備に譲ったのか、貸したのか」という議論は、ナンセンスです。「出資」なのでしょう。どういう損得勘定による「出資」なのかは、これから考えていきます。

などなど、投資家としての魯粛が、各時点で何を考えていたのか。いろいろ理屈を付けていくと、内容のある小説になるような気がします。180224

閉じる

2.魯粛と投資、魯粛とバクチ

ブックオフで『蒼天航路』の一部分を買ってきて読んだら、劉備が魯粛のことを、同盟を結ぶべき相手、発言を信じるべき相手として、ポジティブに評価して、「バクチ打ち」って言うんですよね。
べつに今回、読み直さなくても、印象的なセリフとして覚えていたんですけど。

バクチと似た言葉は、「投機」です。以下、魯粛の小説を企画するために、ちょっとモヤモヤしていることを、書いていきます。

投資とバクチ

「投資」と「投機」は、1文字を共有していて似ているし、「投資」をさげすんで、「投機だ」と評することもあると思います。
もしくは「投資」をするひとが、自分の活動の本質をついたかのように、「これはバクチだ」と言ったり。
いずれも正解だから、タチが悪いんです。

人によってというか、何を主張したいかという、それぞれの都合によって、「投資」と「投機」は、言葉が使い分けられます。
投資は、相手に金品を注ぎ込んで成長を支援する、ポジティブな活動であるとも言われます。下手すると、社会貢献かのような様相を帯びることがあります。お金を預けた相手が、成長するのを待つんですね。
一方、時間の幅を織りこまないのが、投機なのでしょうか。自分がもうけることしか、考えてない、みたいな。

……この定義は、なんか違います。
金品を供出する動機(こころざし)によって、「投資」と「投機」は、使い分けられるのでしょうか。
成長を支援する人だって、べつにお金を捨てているわけではなく、未来のリターンを期待するから、お金を出します。それは「薄汚れた」ことではなく、リターンの期待は、健全な関係を築くと思います。出資者と、被出資者とのあいだに。

「投資」した人は、口を出す権利を得ます。これが「融資」つまり、利息回収を契約に織りこんだ「金貸し」と違うところ。株主が、株主総会で議決権を持つのは、これに当たります。
「投機」した人は、口を出さないかも知れません。というか、口を出したくなるような興味を、お金を賭けた対象に向けて、持っていないのかも。

インベストメントとトレード

「投資」と「投機」のように、似て非なる(本当に「非なる」のかも不明ですが)概念に、インベストメントとトレードがあります。
トレードは、「バクチ」や「投機」と近そう?

インベストメントは、時間をかけた成長に期待している。対して、トレードは、時間をかけた成長なんて、待たないのかも知れない。
しかし、トレードにしたって、けっきょく売買の差益をねらうためには、値段が変動してもらわねばならず、けっきょく時間の概念が挟まってくるんですけど。

株の購入は、基本的に、本来的?に、「インベストメント」と観念されるけれど、日々の値の変動は必ずあり、その売買の差益を狙うなら、「トレード」がやれます。お金を注ぎ込む対象は「投資」になじむもの(株式)であるが、やっていることは「トレード」に違いない。
為替の売買は、おもに「トレード」と思いがちだけど、「この通貨発行主体の競争力の向上を見込んでいる」という言い方をすれば、「インベスト」です。

期間で分けるとしても、取引のスパンを何日(何ヶ月?何年)ぐらいに設定すれば、トレードでなく、インベストメンとである!と、言えるようになるのでしょうか。
それって、あいまいです。
成長を期待して株を買って、3年で、期待の値上がりをして、売り抜けたら、いくら動機が相手の応援であっても、それってトレードじゃないかと。3年1ヶ月目に、暴落したら、「ああ、売っとけば良かった」と後悔するのも、インベスターに許された感情でしょう。「そんなこと思うやつは、インベスターじゃない」とまでは、言われまい。

株価が暴落して、上場廃止・倒産の危機になっても、応援して株を持ち続ける(カネを引きあげない)のが、インベスターの精神ではないか!と、美談にこだわりたくなりますが、
そんな「心中」は、もはや投資家の行動ではありません。「損切りが出来ないやつ」として、投資行動としては、失敗と見なされるでしょう。
株の長期保有を前提とした(基本的に売らないとすら言う)ウォーレン・バフェットだって、株価の上昇(すなわち、株保有した自分の資産増加)を狙って、株にインベストメントするわけで、「心中せよ」と言っているのではありません。「心中するほどの覚悟で、銘柄を選べ」とは、言うかも知れませんが。

インベストメントとトレード。投資とバクチ。どうやら、区別の一般的な解(どのような場合でも当てはまる答え)を探すのは、ムリでしょう。

後漢における投資行動

魯粛が、投資でも、投機でも、バクチでも、トレードでも、インベストメントでも、何でもいいから、それのプレイヤーだとしたら、何をしているのか。
自分の手持ちの資産を、何かの形態・種類で持ち、その資産の時間の変化による価値変動に、自分の資産の価値を連動させることです。
というか、あらゆる時代において、あらゆる人は、何かの形を選ばないと、資産を持てない。魯粛は、その選択を、意識的に、かつセンス良く、行っていた。と言えるのではないでしょうか。
すなわち魯粛は、資産の形態・種類を、現状のまま、ほったらかしにしなかった。

現代では、金融資産に限定しても、預金・債券・株式など、さまざまな資産の形態があり、そのなかでも種類が多いため、「分散」投資が可能です。
しかし、市場の自由度が低いと、資産の種類・銘柄を分散できません。魯粛も含め、前近代人が生きたのは、そういう時代です。

ひとは金融資産のほかにも、さまざまな資産・資本を持っています。社会関係資本だってそうだし、文化資本だってそうです。それ以前に、健康とか生命とかも、資本です。計測の尺度は、寿命でしょう。
「体が資本」とは、よく言ったものです。
これも、前近代は、選択肢がぐっと減る。属する集団、衣食住を、自由に選べない。もしくは、選ぶためのコストが大きい。
どこに属し、衣食住をどのようにしたかによって、寿命が縮むかも知れない。しかし、不利だと思っても、生き方を変更できない、、ということは、往々にして起こります。

べつに、近現代を賛美するわけじゃないですけど、近現代に比べ、前近代の人たちは、選択の自由が少なく、また運用効率も悪い、比較的 悪条件に置かれていたと言えましょう。それゆえに、智恵を付け、魯粛のような「英雄」が登場する舞台が整っていたと、言うこともできます。
魯粛は、土地に縛られず、既存の社会制度に縛られず、生存を画策しました。
その生き方は、私たちが、「親が死んだので、実家を売り払い、東京に引っ越して就職する。家を売ったカネを、株式投資する」のとは、比べものにならない、摩擦の大きな行動でした。
だから、故郷でも反発を受け、呉に仕えてからも反発を受けました。

もっとも保守的、リスク回避的な生き方

そんなことはムリですけど、前近代、仮想的に牧歌的な理想郷を設定し、
もっとも「保守的」に振る舞うなら、国家から切断され、土地を所有して、人民を支配して、耕作だけをやることになります。
実を言うと、土地所有とか、人身支配とか、農耕も、きわめて「経済的な活動」であり、その中にも投資的な行動が含まれているため、全くの「安定的」な行動であるとは、決して言えないのですが、
中国では、王朝の交替のたびに混乱が起きるため、王朝の栄枯盛衰から、完全に隔絶して振る舞うことは、まあ「安定的」と言えましょう。リスクが嫌ならば、これを目指すことになります。山奥の桃源郷です。

桃源郷における安定。いいですよね。
日本人が、自分の資産を、円建ての預金だけで持つマインドに似ています。
多くの日本人は、「私は、投資・運用をやっていない」と言うでしょう。しかし、これは、誤りです。
銀行に預けっぱなしの人は、「日本円に投資している」という、バクチ的な行動をしているに違いない。なぜなら、「円安になったら、世界から見たら、資産的価値が下がる」という言い方はできますし、実際に価値が下がります。しかし現状、安定的で、リスク回避的な資産「運用」であるとされます。
これは、日本円という資産の種類が、たまたま安定的だから、このようになっているだけ。「自国通貨で預金のまま持つのが、最も安定的な運用」というのは、あらゆる国に当てはまるわけではない。
株式の変動が激しくなると、海外からも「リスク回避的な円買い」が観測されるように、円が世界的に見て、たまたま保守的・安定的な価値変動をする(価値変動をしにくいとされる)資産です。今のところは。
われわれが投資とか資産運用に目を向けないと、たまたま円建ての預金を持つことになるから、「資産運用に興味がない=円建て預金をする=安定的な運用をする」という図式は、ラッキーで成り立っているだけなのです。

話が逸れましたが、もしも「箱庭みたいな桃源郷」経営をすることが、もっとも「リスク回避的」な行動であれば、王朝の盛衰に思いを馳せる必要がない。超然としていれば、良いわけです。
後漢が安定しているならば、「箱庭みたいな桃源郷」を維持するよりも、在地に根づきつつ、後漢と、付かず離れずの最低限の関係だけを結ぶのが、「リスク回避的」となるでしょうか。

いやいや、後漢が繁栄すれば、後漢の支配に積極的にコミットする(官僚になる)ことが、もっとも「リスク回避的」かも知れません。日本円に積極的にコミットする(円建ての預金を持ち続ける)のが、投資行動のなかで、もっともリスク回避的であるのと同じです。
日本円の安定が、当たり前になっていると、日本円を持つことが「投資」と捉えられなくなる。同じように、後漢の繁栄・永続が当然になると、後漢の官僚になることは、「当たり前のこと」「分別ある行動」と認識され、「投資」と捉えられなくなるかも知れません。実際は、投資の一種なのに、そうは思えなくなるのです。

後漢が繁栄した時期、後漢の支配を拒否する、という行動のほうが、「リスク選好的」です。べつに、後漢に反乱して兵をあげなくとも、仕官を拒むことが、「リスク選好的」な行動になります。
せっかく日本円が安定しているのに、為替取引に「ウツツを抜かす」ように。
為替取引は、ヤクザな行動として、侮蔑の対象になるイメージがあります。円が堅実。ドルやユーロに替えるなんて、バカなバクチ……という。われわれの円建てのマインドを、後漢繁栄期の知識人のマインドを、うまく重ねることが出来そうです。マインドと言いましたが、「幻想」と言い換えてもいいかも知れません。

後漢末の混乱は、リスクを呼び込む

さて、私がしたいのは、三国志の話です。
ご存知のように、後漢の統治が弱まりますと、土地に留まって経営することが、「リスク回避的」とは言えなくなります。むしろ、土地に縛られることが「リスク選好的」な行動になってしまう。
桃源郷に、黄巾党がなだれ込んでくるかも知れない。後漢の官僚の本拠地を、黄巾が皆殺しにするかも知れない。

土地に留まるほうが、よほど「リスク選好的」。
なんだか、正反対のことを言っているようですが、これで合っています。

資産管理の心理的なコスト(どれだけ、ヤキモキ・ソワソワ・フラフラするか)の大きさと、その安全性は、一致しません。環境次第です。
変化が大きな時代は、「ヤキモキしてたほうが、結果的に安全である」ということが置きます。もしも、変化が大きな時代に、「ほったらかし」をやると、時代の潮流に吸い込まれて、自分の資産が、消滅してしまうかも知れない。
ぎゃくに、変化が小さな時代にヤキモキするのは、ワリに合わない。自爆して、資産を減らしてしまうかも知れない。「ほったらかし」が、自覚なき、達成感なき、勝ち組になったりします。
株価が上がっきたこの1年は、預金しっぱなしは、「機会損失」でした(直近は、揺れが大きくなってますけど)。しかし、株価がほとんど変化しなかった、失われた○十年のあいだは、預金しっぱなしが、もっとも賢い「投資」戦略でした。

「ヤキモキしたほうが危険で、愚かである」、「ほったらかしたほうが安全で、賢い」というのは、私たちの日常的な、平時の感覚ですけど、必ずしも正しいとは限らない。やはり、外部環境によって決まる。
というか、平時の感覚では、これが正しいんですけど、いつも平時とは限らない。

もし日本円が、価値がグラグラする通貨になってしまったら、資産の移転先をキョロキョロしている人が浮上する可能性がある。安穏として、円建ての預金をほったらかした人は、デフォルト!を食らって、一撃で沈む可能性がある。
投資信託の商品で、「ほったらかしたほうが安全」と説明するところがありますけど、あれは、変化が激しいとき、運用会社が代わりにヤキモキしてくれているから、安全(と説明されているん)です。そのために、運用会社が定めた報酬を払っているので、恩もアダもないのですが。

以上、時代背景の分析というよりは、魯粛の小説を、どういう枠組みで書こうかという、アイディア出しでした。180303

閉じる

3.投資による政権の意思表明

『三国志』明帝紀を読んでいて、三国がどのように影響しあっていたか、考えました。もちろん、明帝期には、魯粛は死んでいるわけですが、他国の情報によって揺れ動くさまは、共通だったのではないかと思います。
やや遠回りしてから、魯粛の話に戻ってきます。

230年代の君主権力の集中

はじめて通して読んだ三国志の物語、つまり、吉川英治『三国志』の第一の読後感は、「そうか、諸葛亮は勝てないのか……」という落胆でした。
でも、魏が益州(蜀)を一度も領土にできず、官僚層からの支持を失った(魏晋革命という結末が準備された)のであれば、曹操vs劉備から始まった戦いは、少なくとも劉備・諸葛亮は、引き分け以上に持ち込めたことになります。
漢がつくった儒教的当為(あるべき姿)=大一統(統一を尊ぶ)の、理念の勝利なのかも知れません。けっきょく魏も、理念に食い殺されたことになります。

『三国志』は、文帝紀・明帝紀までは、きちんと記述が充実した本紀ですが、次からは、三少帝紀として、「マキ」にかかります。
権力を確立していた魏帝である、曹丕・曹叡にすら、焦りが見られます。君主としては盤石であったが、盤石であるがゆえに、泣き所もありました。それが、曹丕・曹叡の政治です。
孫権も、呉王・皇帝として立場を固める一方で、万能ではありませんでした。

◆蒋済の警告
蒋済は明帝に、孫資・劉放を重用する危険性を警告しました。明帝が政治に「疲倦」したら、彼ら側近が増長すると。文字どおり明帝が政治に飽きて投げ出した場合の他、(史実でそうなったように)明帝が病気で判断が滞る場合も想定されていたでしょう。
明帝は「佞幸」や、中書(秘書)を使って朝政の風通しが悪化しましたが、それは君主権力集中と同義です。

『資治通鑑』は景初二年、呉の孫権の呂壱事件を載せ、魏の蒋済が明帝に孫資・劉放の重用を諫めた記事からの、明帝の危篤(による孫資・劉放の遺詔の改変)へと続きます。
たまたまですが、呉・魏の動きは同期しています。君主権力の集中により、君主の側近が強化。政策に関与し、「君側の奸」とも見なされ、君臣が対立関係へと入りました。「君側の奸」の論法は、全員了解の婉曲表現で、実は、群臣から君主への批判です。側近の彼ら(呂壱・孫資・劉放)が力を持つのは、君主の後ろ盾があり、君主の意思を実現するからです。

呉は、呂壱の賞味期限が先に切れました。魏は明帝の寿命が先に尽きました。君主の主体性が消失すると、蒋済の懸念どおり、側近が国を専断しました。これも、孫資・劉放が頭抜けて狡猾!で邪悪!というわけではなく、一般論で回収できる事件です。
曹叡・孫権が権力を集約し、側近をフル活用して、群臣と対立した。対立のときの争点が、「ゼイタクや、国内における横暴を優先して、天下統一をナオザリにしている」ということです。

政策の裏目、過剰・ちぐはぐな反応

魏の明帝の建設ラッシュに対し、「呉・蜀に滅魏のチャンスを与える」、「財政が正直シンドイ」、「漢の武帝をマネるには、状況が違い過ぎ」、「政治と軍事の本業を優先せよ」と諫言があります。
もちろん諫言を推すための修辞もあるが、実際に魏の存続を脅かすものだったのでしょう。実際、魏は転覆しました。

政策が裏目に出るのは、ある話です。
あらゆる政策は有機的に結び付いています。ひとつの政策が、あらゆる状況を動かします。メリットだけを得るのはムリです。
政策の発進者と、それを聞いた側の反応は違います(過剰反応ならまだしも、実影響と反対の不安が煽られ、混乱が生まれます)
曹叡は建設で権威を先に整え、国力宣揚を狙ったが、率直には受け入れられませんでした。

曹叡が建設を先にすれば、財政負担(=兵民の負担)が増えます。曹叡もそんなことは承知の上だったでしょう。曹叡は群臣に、投資の効果を含めて建設政策を評価してもらいたかったでしょうが、理解されませんでした。呉蜀が残る「から」建設して威信を整えるのに、呉蜀が残る「のに」なぜ投資するのかと責められる結果になりました。周囲の反応は、制御が困難です。
それどころか、「天下統一」という目標を、放置してしまったのか!と、落胆すらされたでしょう。曹叡は、まったくそんなつもりがなかったはずなのに。

諸葛亮のいた「戦場」だけを見ると、司馬懿が難敵で、勝利は困難に思えるが、曹叡の治世全体を見れば、魏にも危なっかしいようです。
曹叡の親政は、君主権力が集約した「前近代の正常」な状態でした。しかし、一人が全て決めると、副作用も拡大します。

これは、独裁=悪(民主主義はスバラシ)という議論ではありません。独裁は、つねに大きな作用・副作用を生み出します。現代でも、大国の大統領が、しかるべき手順を踏まずに、政策のアイディアをネットで拡散すると、世界が混乱しています。

曹芳以降、司馬氏が台頭した時期のほうが、総体では安定的かも知れません。
皇帝権力が動揺すると、王朝の存続には不安が生まれますが、国体というか、国家体制全体から見れば、「ひとりの思いつきで、全てが動く」ほうが、明らかに不安定です。
周囲の臆断と誤解、政策の副作用は、独裁が確立した時期のほうが、大きくなりそうです。

◆影響しあう三国
魏呉蜀は、なんとなくイメージする以上に、複雑に影響しあっていたはずです。
同盟関係、戦闘の勝敗(に連動した魏の兵の配分)しか考えたことがなかったですが。君主権力のあり方、群臣の関係、国に対する期待感や正統性なども、連動したり、逆行したり。反発・反落し。
日・米・欧の為替・株価を見てて思います。

諸葛亮の北伐は、軍事的には益州のみの兵力で、涼州・雍州を争奪し、軍事的な成果は、乏しかったかも知れません。でも、魏・呉の国家のあり方には多大な影響があったはず。曹叡の建設事業も「内政にウツツを抜かす」水準でなく、呉・蜀の国家に影響を与えたはず。
情報伝達は今日より未発達だが、要人発言でも揺れたはず。

ひとは、僅かな変化の兆候(新たな政策、詔の内容)から、未来を先取り、有利に振る舞おう(前提として、まず生き残ろう)とします。
三国の鼎立期、領土の変化は少ない。でも安定期だからこそ、微細なノイズで、過剰に群臣が反応しやすい。
三国が相互影響のもと、全て天下統一に失敗したことが分析できそうです。

赤壁の前夜の重要事項

王朝を「会社」に、豪族や知識人層を「投資家」に例え、王朝への臣従を「被雇用」や「株式購入」に準える。一族の財産=命運を、どの王朝の価値に連動させるかというゲームです。
諸葛亮は「株主」に向かって、会社(王朝)の姿勢を積極的に説明したし、明帝の建設事業も「株主」らへのアピールを狙ったもののはずです。
……魯粛の小説のアイディア構想にもどってきました。

物語で徐庶?が、赤壁の戦いで、曹操の背後には馬超がいるから、曹操政権は盤石ではないと分析しています。地理的に離れ、なんで関係ないことを言うのか…、曹操の欠点をムリに探したみたいだな、と思ってました。
でも当時、曹操政権の未来を占うのは、荊州・揚州にとって最重要です。小さな情報でも振れやすい。
『三国志』張既伝によると、この時期、張既が涼州の説得に向かいました。曹操が荊州に進むにあたり、涼州の動向も、もちろん連動していました。

張既伝は、細かい時系列・因果関係が明らかでないので、曹操が荊州に向かう前に(背後を固めるため)張既を派遣したのか、曹操が荊州に駐屯している間に(背後が動揺して)張既を派遣せざるを得なくなったのか、よく分かりません。


曹操の荊州進出は、当然、孫権・魯粛にとって大事件です。
ネットで株や債券を、低コストで売買できる今日と違って、後漢末の君主選びは、地理に制約されます。
かつて孫策が死に「上場廃止」になった富春孫氏の株が、再び上場して買われたのは、曹操との提携があったからです。200年代、孫氏は曹操の子会社としてシェアを広げた(揚州・荊州を攻めた)。のちの呉臣が孫権に従った事情はこれです。

曹操が荊州に来た後、なにを目指すのか。曹操の意図はどこにあるのか。
私たちが歴史を俯瞰しても、よく分からない。まして、当事者である魯粛たちには、曹操の思惑が分からず、不気味だっただろう。

呉の参謀の仕事

建安十三年、曹操の三公廃止(丞相就任)・孔融殺害のニュースが伝わるたび、孫権集団は揺れたはず。
袁紹の子を討伐してる最中は、既定路線で、量的な業績の拡大。孫権も「支社長」として便乗すれば、自集団の資産価値も自ずと増え、臣下たちも安心して孫権に身を預けられた。この時期、魯粛の案は価値がありませんでした。

のちに呉帝となり、孫権が「王朝の創設物語」として、事後的に思い出した(実際には、捏造した)可能性だって、疑われます。


魯粛をはじめとした呉の参謀が一番注視したのは、曹操の勝敗・声名でしょう。
今日、要人発言で為替が変動する。過剰反応→揺れ戻し、を繰り返してトレンドを形成するのと同じ。
孫権自身の権力とか支配領域は、210年代前半にあまり変動しないが、曹操の動きで、孫権の求心力が乱高下したかも知れません。

呉の参謀にとり、曹操軍の移動は、最も優先してつかむべき情報だが、そんなことは小説でも分かります。
直接の攻撃に至らずとも、「曹操が漢朝をどう扱うか」の一挙手一投足の兆候により、孫権・劉備の求心力は、激しく揺さぶられたはず。

劉備は、曹操と逆の値動きをする

曹操と逆張りという劉備の戦略(龐統)は、この前提で理解したい。
劉備にコミットすることは、「曹操の株が、下落すると予測している」という、孫権の内外に対する宣言です。孫権が、「私は、世界をこのように見ている」という姿勢を鮮明にしているのです。
単純に、「曹操のライバルである劉備に協力すると、曹操から敵視される。戦いに巻きこまれる」という、同盟の損得勘定だけではありません。
下手をすると、孫権が、曹操に対抗して政権を確立するためには、「劉備に投資する」という行動が、必要だったとさえ思えます。

やはり、「劉備に協力し、曹操に敵視されるように仕向け、独立せざるを得なくなる。親曹操派を、追いこむ」といった、同盟が作り出す成り行き、損得勘定だけではありません。政権の意思表明なのです。


孫権が劉備に投資する(領土を貸す)理由として、史料では、赤壁の貢献度の多寡でモメているが、劉備の側からは、その程度にしか見えないのでしょう。
魯粛にしてみれば、スケールが小さい。
創業期の劉備は、孫権にどんな事情があるにせよ、「功績が大きいから、領土を得るべき」という、シンプルな話をする段階に留まっています。しかし、魯粛は、もうちょっと複雑なことを考えていそう。

劉備は「曹操のベア」という投資信託の商品。ベアは、株価の値下がり。曹操が値上がりすると、劉備が値下がりする。主体性はなくても、価格に追随するように、設計されている商品のようなもの。
そのベアの値動きに、孫権の資産の一部を連動させるかという判断。軍事的に「曹操に対抗させる」効果だけでなく、孫権ファンドの運用方針を規定する。

劉備を分析するだけでは足りません。曹操の分析と、劉備の分析を、同時にする。2人は、それぞれ動くから、どちらも捉えて、投資商品としての性質を、絶えず掴まねばならない。
今回は、上で曹叡の話をしました。曹叡が親政する皇帝であったのと同じく、曹操は、皇帝ではないが、やはり、独裁者。曹操が、どちらかに振れるたびに、それは極端に捉えられ、魯粛の情勢分析を狂わせ、影響の見きわめを難しくしたはず。
魯粛のファンドマネージャーとしての仕事は、曹操の分析と、それのみならず、曹操に影響を受けた人々の分析に費やされたはず。

魯粛は、曹操という巨大な国家の動きを睨みながら、劉備に投資した。これは、魯粛が「お人好し」だったからではなく、孫権なりの戦略、意思表明を織りこんだものではないのか。という話に持って行けるように、小説を書きたいなと。
ここに書いたのは、まったく思いつきなので、分かりやすい説明でもなく、整合すらしていないですけど、練っていきます。180304

うまく例えられませんが、 まるで、ドル円の為替をにらみながら、日経平均と逆の動きをする投資信託を買っているようなもの。ドル円が下がる(円高)になると、日本の株価が下がりやすい。いや、日本の株価が下がると、円高になりやすいのか。因果関係が分からないし、どちらが主導するのかも分からない。短期的には、この予測とは逆に動くこともある。相関が崩れつつあるともいい。
アメリカの動きを見ると、円高に向かいそう(当事者が、向かわせたそう)だから、日経平均もやがてダメージを負うだろうから、日経平均が落ちると予測して、孫権の資産配分を調整しておこう、、みたいな。すみません、要検討。

閉じる

4.あらすじ案1_陳登・周瑜に賭ける

魯粛の物語は、どのように始まるか。
ムリヤリ、幼少期のエピソードを追加しないのであれば、時系列が推定できるのは、「周瑜が居巣長になったとき」に、蔵を譲ったというエピソード。それより先、父が亡くなり、少年たちを集めて、兵の訓練をしていたとか(魯粛伝)。

建安三(198)年、袁術が皇帝となった翌年、周瑜が、袁術と距離を取るために、居巣長になることを願っている。建安三年の時点で、魯粛は故郷にいた。

周瑜伝に、「袁術遣、従弟胤、代尚為太守。而瑜与尚俱還寿春。術欲以瑜為将、瑜観術終無所成、故求為居巣長、欲仮塗東帰。術聴之。遂自居巣、還呉。是歳、建安三年也」とある。


徐州は、興平元(194)年までは陶謙が治めた。魯粛が23歳のとき。曹操が陶謙を攻撃したときも、魯粛の故郷である東城は、戦場になっていない。
そのあと、呂布・劉備が徐州を支配したが、接点の記述がない。
注目したいのは、建安元(196)年、袁術軍の呉景と、呂布軍の劉備が、このあたりで戦っている。呉景が、経路にあたる東城あたりで、兵糧を現地調達しようとした可能性がある。これをどのように活かせるのかは、さておき。

最初の投資先は、陳登

『三国志』呂布伝によると、「陳登者、字元龍、在広陵有威名。又掎角呂布有功、加伏波将軍」とある。
陳登は、呂布の討伐(建安三年末に決着)の功績があって、伏波将軍となった。呂布亡きあと、徐州南部の第一の有力者である。
陳登は、ぽっと出ではない。

呂布伝 注引『先賢行状』に、「年二十五、挙孝廉、除東陽長、養耆育孤、視民如傷。是時、世荒民飢、州牧陶謙表登為典農校尉、乃巡土田之宜、尽鑿溉之利、秔稲豊積。奉使到許、太祖以登為広陵太守、令陰合衆以圖呂布。登在広陵、明審賞罰、威信宣布」とある。

近隣の下邳出身の陳登は、東陽長になった。陶謙のもと、典農校尉となり、民政に実績があった。呂布が徐州を支配すると、曹操によって広陵太守に任命され、呂布を牽制した。
物語では、下邳の城内で、父の陳珪とともに呂布を攪乱しているイメージがあるが、それでは「掎角」にならない。陳登は、広陵に駐屯し、曹操派として、下邳城の呂布に対抗していた。



陶謙が徐州を支配する前、陳登が県長を務めた東陽は、魯粛の故郷の東城に近い。呂布を牽制したときに、本拠地にした広陵も、魯粛の故郷に近い。

呂布を殺し、曹操・劉備が許都に引きあげたあと、この地域の最有力は、陳登である。魯粛が27歳のとき。
陳登が、魯粛に協力を求めてきても、おかしくない。むしろ、陳登の勢力圏なのだから、陳登と接点がないほうがおかしい。
「陳元龍、湖海之士。豪気不除」、「元龍名重天下」という、陳登の評価がある。のちに、劉備が劉表のもとで、回想したシーンに。
陳登は、許汜を客として礼遇せず、反感を買った。しかし、英雄には違いなかった。『先賢行状』によると、海賊の集団を降伏させ、江南を併呑する志を持ったという。
魯粛が、陳登の協力者として、江南平定を目指した。つまり、最初の投資先として、陳登を選んだ。という話があってもいいでしょう。

これに先立ち、劉備との接点があったという話もほしい。劉備は、軍師を求めていた。劉備が、呂布に敗れる前、徐州を巡察していても、おかしくない。陶謙から引き継いだ直後のことか。
興平元(194)年、魯粛から劉備への評価は、「リスクが高すぎるから、投資は見送り」であろう。いや、袁術の勢力圏に近すぎるから、劉備は来られないか。
諸葛亮抜きの劉備は、投資の対象にならない。諸葛亮がくっついた劉備は、投資の対象にすることができる。べつに、諸葛亮と魯粛に、劉備利用の密約があった、という描き方はしない。諸葛亮は、彼自身のために。魯粛も、彼自身のために、行動した結果、劉備との付き合い方が変わるとか。

周瑜に預けなかった蔵1つは、陳登に渡していた。蔵の中身は、空っぽであったが、周瑜にはそれを悟らせなかった。ということにしよう。
魯粛は、呂布を倒した、曹操-陳登のラインに乗っかった。というか、土地に縛られ、流動性が低ければ、陳登に従うしかない。魯粛は、陳登に会いにゆき、許汜と同じように失礼な目に遭う。天下の志を持っている陳登からすれば、魯粛は、支配対象でしかないわけで。
もしかしたら魯粛は、陳登による呂布討伐のために、とっくに家財を供出させられたのかも知れない。

次の投資先は周瑜

建安三年、周瑜が来る。周瑜伝は、袁術の影響力から逃れるために、居巣長に転出した……という書き方になっていますが、それは後世の言い訳で。周瑜は、袁術の部下として、魯粛を口説きにきたと考えられる。
魯粛の故郷は、袁術の勢力圏と、陳登の勢力圏のあいだ。周瑜と、袁術の行く末について話し合ったに違いない。結果、袁術には投資できないが、周瑜になら投資してもよいという結論に至ったのかも知れない。
袁術派として、魯粛の籠絡にきた周瑜。これに対して、逆に、「同じ三公の家として、周瑜が皇帝を目指すつもりはないのか」と、誘いをかける魯粛。のちに孫権に皇帝を薦めたように、とりあえず、有望そうな人に、皇帝を打診するのは、魯粛がやっていても不思議ではない。

魯粛は、陳登の部下として、曹操にコミットしているのを、苦々しく思っている(ことにしないと、説明がつかない)。曹操の行動が、一貫していないことに、将来性のなさを感じていたのかも知れない。
曹操の敵である、袁術(と繋がりのある周瑜)に賭けるのは、悪くないことだった。袁術の「重臣」である廬江周氏と繋がっておけば、未来が開けるかも知れない。

袁術から「東城長」に任命され、立場を保証される。
しかし魯粛は、さっそく袁術に「綱紀なく」未来がないことを感じ取る。故郷を、袁術の出先機関として統治するのは、危険なのです。袁術の滅亡の予兆を、故郷の誰よりも早く分析し、迅速に行動を起こしたのかも知れない。

魯粛伝 注引『呉書』によると、追ってきた州兵を、魯粛が追い返している。
だれの兵か分からないが、袁術の配下でしょう。

孫策の死=大暴落を避ける

魯粛伝によると、周瑜に随って、魯粛は「東渡」する。周瑜が孫策から期待されたのは、丹陽を平定すること。これに従軍したのでしょう。しかし、魯粛は東城に帰ってしまう。「曲阿に住み、祖母が死んだら東城に還って葬る」とあるが、祖母の死は、口実と思われる。
なにがあったか。
孫策と会ったとき、将来を託せないと思ったのでしょう。

うまく描かないと、魯粛が「節操のないやつ」に見えてしまう。デイ・トレーダーかよと。しかし、生き残ることが最大の使命である。曹操-陳登、袁術-周瑜、孫策-周瑜のあいだで、生き残らなければいけない。いちどは捨てた故郷だが、孫策には付いていけなかったのかも。
魯粛伝 注引『呉書』によると、孫策と魯粛は面会して、孫策は魯粛を「雅奇」と評価している。しかし、孫策からの片思いに終わったのでしょう。

頼った勢力の滅亡は、自分の身の振り方を、極めて難しくする。孫策が、よき終わり方をしない、大暴落に巻きこまれたら死ぬ、、と魯粛は見抜いたのでしょう。
周瑜は、孫策をおおいに買っているが、危ないよと。

誰にコミットしても、危険しかない。揚州方面は、安定しない。市場全体が冷えこんでいるのに、単独で浮上する個別銘柄を見つけるのは、カンタンではない。逆に、相場が好転しているときは、適当に買っても、もうかるのですが。
袁術は、志は良かったが、それを実現するだけの組織を作れなかった。孫策は、無謀すぎる。周瑜は、孫策を担ぐことで、何かを実現したいようだが、魯粛としては賛同できないよと。

劉子揚が、鄭宝を頼れと勧める

建安四年、袁術が死に、後継者争いで、孫策が勝ち残った。魯粛は、「孫策が勝ち残るのか……。外したかな」と後悔したかも知れない。
投資は、後悔と反省の連続だから。
しかし、投資の格言は、「休むも相場」です。現金もまた、ポジションの1つと考える。市場が上下しても、自分の資産が上下しない。これは、有効な戦い方のひとつ。予測が立てられないときは、やらない。

魯粛は、劉子揚(劉曄)から、鄭宝を頼れとアドバイスをもらう。『三国志集解』で批判が入っているとおり、時系列が混乱している。
鄭宝が名乗りをあげたのは、孫策の生前か、死後かで。
生前だろう。
時系列を述べると……、まず袁術が死ぬ。袁術の後継者争いが起こる。鄭宝は、ポスト袁術を形成する、1つの勢力。鄭宝は、劉曄を参謀に抱えこみ、躍進を図る。しかし劉曄は、鄭宝を殺して、その勢力を劉勲に与えた。

劉曄は、のちに曹魏に仕えて、先を見据えた発言をたくさんする。歴史書においては、ほとんどが的中する。
劉曄を、魯粛の投資家の友達として、設定することができそう
劉曄の見立てでは、袁術なきあと、劉勲が最有力である。
はじめから劉曄が、「鄭宝をだまして、劉勲の勢力に合わせよう」とまでは、思わなかっただろう。劉勲は、鄭宝に強引に拉致され(そういう史料もある)、その立場から魯粛を誘った。
その劉勲は、劉曄の予想を裏切って、孫策に敗れた。

ひとから推薦された銘柄は、買っても後悔、買わなくても後悔するのです。袁術の後継者争いから、魯粛が距離を置いた。これはこれで、話としては重要。ムリに創作して、劉曄と行動をともにするとか、させてはいけない。
魯粛も、孫策を嫌っていることから、きっと、「劉勲を本命」と思っていたが、劉勲を「買い」に走るのではなく、ちょっと静観した。静観できることもまた、魯粛の優れた手腕を証明するのです。

『先賢行状』によると、孫策もしくは孫権は、匡琦もしくは匡奇で、陳登と戦っている。陳登が勝利して、孫策もしくは孫権は、兵を大幅に減らしている。
孫策伝は混乱しているが、最後の戦いの相手は、陳登である。南方を平定した孫策が、曹操-陳登を破ろうとした。
このとき、魯粛は故郷にいる。ポジションを解消して(どこの株も持たずに)、建安五年、官渡の戦い及び、孫策の最終決戦を眺めていたのかも。

孫権に仕える

建安五年は、大波乱です。曹操と袁紹のどちらが勝つのか、見きわめねばならない。もしも袁紹が勝てば、曹操-陳登に仕えたことにより、ペナルティを食らう。曹操を「買う」ことは、決して保守的ではない。
陳登は、匡奇の城で、孫策軍を大いに破ったわけですが、それを見て、「やっぱり、陳登が買い!」と飛びつくことも、魯粛はしなかった。
折しも、陳登が、寄生虫によって死ぬ。陳登を頼らなくて良かったですね。陳登は、孫策を退けて、天命を使い尽くしてしまったのでしょう。
袁術が去り、鄭宝が消え、劉勲が敗れ、陳登も潰え、孫策も死んだ。

揚州の権力が空白となったとき、周瑜は、なんの後ろ盾もない孫権を担いだ。周瑜は、魯粛の家族を引き取って、曲阿に移してしまう。言わば、「人質」である。
仕方なく、孫権と会ってみた魯粛は、彼に「全部賭け」することを決断する!

生き残るためにフラフラする前半と、孫権のために策略を練る後半は、大きく区切ることができる。魯粛の小説として、「楽しみ方」が違う。

孫権に仕えるまでの魯粛は……

大河ドラマでは、日本の戦国時代の弱小勢力の目線で、裏切りや生き残りを描いたりします。孫権に仕えるまでの魯粛は、まさにそれ。
土地を離れなくて済むなら、それがベスト。しかし、土地が諸勢力の取りあいになるなら、離れるしかない。もしくは、希望しない勢力に、協力するしかない。
べつに、好き好んで「狂児」を演じたのではなく、土地をめぐる抗争に巻きこまれて、投資家としての力量を、磨かなくてはならなくなったのではないか。

その力量は、孫権のために活かされていく。180306

閉じる

5.漢魏革命に向けた世論と金融市場

魯粛がメインで活躍したのは、三国鼎立に向かう時期。
この時期について、思いつくままにツイートしたことを、貼って加筆します。

赤壁の戦いについて

赤壁の同年、曹操が孔融を殺したとき、孔融にも非があったかも知れず、曹操と孔融の対立は今に始まったのではなかろうが、揚州から見れば、「いよいよ儒教を廃して、漢王朝を滅ぼすつもりだ」と推測され、士大夫が恐慌を起こしたことが想像できます。コーン辞任の件に絡めて。
そもそも孔融って、どこまで有力者だったのか。孔子の子孫は、「二王の後」として王朝から特別扱いされている。孔融は、その爵位の継承者ではない。むしろ揚州から見れば、孔融は、「曹操に殺害されて初めて、名前が認識された」という程度の人物だったかも知れない。「孔融が殺されたって」、「えっ、誰?」、「孔子の子孫だそうだ」、「それって曹操が、儒教を軽視して、漢王朝を滅ぼす予兆では?」、「そうか、そうかも知れない」という、事後的な憶測。

荀彧は212年に死に、魯粛は217年に死ぬ。「荀彧の死を分析する」ということを、魯粛に作中でさせることができる。荀彧の死は、正真正銘、曹操集団の路線転換として受け止められそう。
漢臣・魏臣だけでなく(魏国は成立する直前だけど)、呉臣にとっても、荀彧の死は、大きな影響を持ったはず。描きたい!


建安十三年の南下は、政策の歯車が裏目に出た時期かも。
赤壁のとき曹操は、孫権を「降伏」させる気がなかったのではないか。孫権を攻めるなら、長江を下る必要があるが、やってない。新たに得た江陵で戦後処理をし、荊州水軍を烏林に停泊させていると、突然それに火を付けられた、という程度では。曹操軍は、江陵を保ったまま撤退した。何も失っていない。
曹操の失敗は、自分が江陵に駐屯していると、孫権集団が「降伏を迫られた」とパニックになり、降伏か抗戦かという議論が起こること自体を読めなかったこと。曹操にとって孫権は、漢王朝の官位を媒介した協調勢力。攻撃の理由がない。
孫権集団は、曹操に過剰反応したか、過剰反応を煽った人がいるか。

煽ったとすると、それは魯粛ではないか、諸葛亮ではないか、といったコメントを頂きました。そのあたりのつもりで書いてました(笑)


三公の廃止(曹操の丞相就任)は、曹操が漢王朝内部で権限集約し、漢王朝の本格的な再建を狙ったものだった。しかしその副作用として、孫権集団の周瑜が「漢の逆賊である曹操」と認識した。曹操からしたら、戦う理由のない(だから発生も予期せぬ)赤壁を発生させた。
国内で有利に振る舞おうとし、国外に敵を作ったと。

揺さぶりをかける曹操

全ての政策には、作用と副作用がある。狙った相手に効く(支持層に利益を与える、反対層に打撃を与える)のは良いとして、それ以外の相手から反発を受けることがある。外野の反発が、世論全体を押し下げたりして、結果的に当初の目的すら果たしにくくなる。支持層も、バカを見ることになる。すると、政策の実行者は、失脚してしまう。
パフォーマンスのため(自らの存在感を印象づけるため)に、衝撃的・誤解を招く発信をし、徐々に現実路線の妥協点を探る…という「仮譎」的手法は、想定外の副作用を招くことがある。

曹操の支持・不支持で、漢王朝が揺れる。曹操が企図したこと、実行したこと以上に揺れる。なぜか。士大夫は、権勢拡大を図るため(儲けるため)、情報の不均衡を利用し、世論に揺さぶりをかけるから。
情報の不均衡とは、それを知る者と、それを知らぬ者の差のこと。
情報の伝播に、時間の差がある。通信手段が少ないと、優劣の差が広がる。時間差だけでなく、得られる情報量が異なる(ネットワークを持つか否か)ことも、おおいに効いてくる。
情報の価値が相対的に高く、ネット社会よりも情報がキーになる前近代において、情報の不均衡は、ライバルを打ち倒す武器になる。単純に、多くを知っていれば有利だし、多く知っていそうだと認識されているなら、その立場を活かして、虚報を流すこともできる。自由自在。

現代は「情報社会」ですが、誰でもアクセスしやすいってことは、情報の価値が下がった社会とも捉えられます。「情報社会」というと、情報の重要度があがったように思えますが、逆です。前近代、マスコミもネットもないと、利害関係者の一部にしか情報が伝えられず、伝わるとしても遅かったり、誤ったりして、情報の価値が高い。まあ、現代でも本当に価値がある情報は、ネットにないですが。


情報の不均衡は、ひとりの人間のなかでも起きる。政策の詳細が伝わり、正確な影響が分析・共有されるまでの時間の差である。第一報が入ったとき、もしくは、第一報は入っていないが、周囲が第一報を得たっぽいとき、どのように動くか。その情報(の予兆)に、自分がどのように反応するか、だけでなく、周囲がどのように反応しそうか(という予兆はどんなか)。
周囲の反応を予測して、自分が反応する。自分の反応によって、周囲の反応も変わる。お互いに読み合い、行動を反響させあって、徐々に落ち着く。
「ほほう、このニュースに対する反応の、落としどころはここか」と、顔色を窺いあい、調整がすむ。ここに至って初めて、いちおうは「完全な情報」を得たことになる。政策の評価は、その中身だだけでなく、自分・周囲が、その政策に対してどのように反応するか固まって初めて、確定する。

ある政策への反応が落ち着くには、時間がかかる。数ヵ月はかかりそう。
第一報(ファースト・インパクト)が、ゼリー状の物体の列に加えられ、ゼリーはぷるぷると揺れながら、ぶつかりあう。しばらく時間が経つと、その衝撃の吸収が完了し、ゼリーの揺れがおさまる。
衝撃の強さによっては、ゼリーがつぶれて、回復不能、揺れ戻し不能になることもある。もしくは、ゼリーがカチカチだったりすると、突っこんで衝撃を与えた側が壊れることが、あるかも知れない。

士大夫にとって、曹操のような流動的な政権(新たな政策を濫発し、インパクトを発し続ける)は、情報の誤解・不均衡を作り出しやすい、ネタの供給源と言えるでしょう。戦争の勝敗は、政権担当者が曹操でなくとも予測困難。戦争の連続は、先行きを不透明にする。孫権・劉備が残存するから、ボラティリティー(恐怖指数)は高いまま。
曹操その人も「読めない」タイプ。「阿瞞」だから。「完全市場」から遠い。
士大夫は、ライバルの心を折り失脚させるため、わざと曹操の野心・政策の副作用を強調することもある。振り回されたら負け。曹操が、士大夫を打ち負かすために、あえて変動幅を上げてくるかも知れない。
あわよくば、「曹操を揺さぶる」ことに挑戦するでしょう。この挑戦は、国内外を問わず、行われたかも知れない。孫権・劉備が、究極の目標としたのは、これです。魯粛が劉備に土地を貸したら、曹操が筆を落としたというエピソードは、脚色の疑いがあると、裴松之か盧弼か司馬光か胡三省に批判されてましたけど、やりたいのは、まさに、「こういうこと」です。魯粛すごいな。

天下を平定したという曹操の発信

劉備が鼎足した建安十五年、曹操は十二月己亥令で、「遂に天下を平らぐ」と宣言する。実態および後年の展開から、ウソにしか見えない。
しかし、ただのウソ!と、片づけてはいけない。
参考にしたいのは、今日の金融市場。行政トップや中央銀行が「経済の状況はこれこれ」と言うと、株価や為替は大きく反応する。発言の前後で、経済の実態は変わってないのに、奇妙なことですね。

要人(曹操、行政や中央銀行)の発言が重要なのは、現況が判明するからではない。現況は、みんな分かっている。
正確な現況は、各種の指数の発表によって確定するけれど、べつに指数の発表の前から、「市場の予想はこれこれ」と伝わっている。ブレはあるけど、正反対に大きく外れた!ということは、あまり起こらない。っていうか、あの「市場の予想」って、誰が作ってるのか。やばい、知らないぞ。
指数が予想よりプラスだとしても、「よし、プラスだ、積極的に行こう」という場合もあれば、「それくらいのプラスは、想定内」とだって言えるし、「プラスだからこそ、頂点は過ぎたから、消極的になる」とも言える。
何とでも言える、思える。というより、市場予測とやらが外れたなら、外れた要因を追究すべきではないか、とも思えてくる。もはや、指数発表のあとの市場の値動きでしか、その指数の与えるインパクト・意義を、確定させることができない。
それって、不毛な循環論法。知りたいのは、その指数が持つ意味であり、なぜ知りたいかといえば、値動きを先取りしたいから。しかし、意味が分かるのは、値動きが終わったあと。……かように、頼りないものです。

要人発言が、指数よりも重要なのは(いや、指数も重要なんですけど)、要人発言が「未来予測のネタ」となるから。
政策運営者が現状をどう捉え、今後どんな政策をいつやりそうか。士大夫も投資家も要人発言から予測し、輪を掛けてライバルの予測と反応を予測し、互いに影響を与えあって過剰に揺れる。

建安十五年、曹操が「天下を平定した」は、強がりでも抱負でもない。
こういう認識・前提のもと、政権運営しますよ、という宣言。
周到な曹操のことだから、その宣言を受けて、士大夫がどういう反応をし、世論が振れ、振れることのメリットとデメリットはどんなか、までを分析した上での宣言だろう。ピュアに現実をそのように捉えていたとは限らない。というか、劉備・孫権が残っていることは、誰が見ても明らか。
一部に、「曹操が現実を分かっていないぞ」と思った人がいたかも知れないが、曹操は、「自分自身が、そこまでバカとは思われていない」という確信があるから、そのような誤解を恐れる必要はないでしょう。

それよりも、曹操が「天下は平定された」と宣言することは、どのような背後の意味がある(と世論が推定すると、曹操が世論を推定している、と世論が推定している、と曹操が世論を推定しているか……無限後退!)か。
たとえば、孫権集団には、「俺たちは眼中にないのかよ。漢王朝の外部に、弾き飛ばされてしまったのかよ」と言う人がいるかも知れない。もしくは、「孫権が独立を保っているように見えるが、実態は、曹操の主催する漢王朝の手のひらの上では」という不安にも駆られよう。孫権と劉備の関係を、破壊に来ているのかも知れない……。

答えは、無限にあるのです。
ケインズの美人投票の比喩と同じ。自分自身が、曹操の発言から、どのような連想・憶測をするか、だけが問題なのではない。他人がどのような連想・憶測をするか、それを予測して、自分が動かねばならない。
孫権は?劉備は?孫権の部下は?劉備の部下は?
いやいや、曹操はあくまで政権内にメッセージを出しただけで、劉備・孫権のことは、ほとんど気にしていないのかも知れない。実際にこれは、曹操が、封邑が多すぎるから、辞退しますというメッセージの一部である。
だとしたら、「行間を読む」をやり過ぎるのは、ムダである。ムダどころか、孫権政権・劉備政権が不安定になるだけで、百害あって一利なし。いや、本当にそうか??重大な未来の兆候があるのでは。
劉備集団が「無視」を決めたとしても、もしも孫権集団が揺さぶられたら、劉備集団は、平気ではいられないよ……云々。

漢魏革命を「馴染ませる」曹操

今日において、新しい金融政策は小出しにして、為替・株価に「馴染ませる」ことが図られ、ある程度は成功する。
いきなり路線転換すると、市場が過剰反応し、副作用が大きくなる。なぜ市場は過剰反応するか。バカなの?それとも、騒ぎたがりのお調子者?
いいえ。
市場の参加者は、自分がもうけ、ライバルの心を折って資金を枯渇されるため、エスカレートを(意図して、もしくは意図せずとも)起こす。
なぜエスカレートするか。「バスに乗り遅れるな」と、同調する動きをする。バスに殺到し、乗れなくても、車外の手すりにつかまる。屋根に上る。もしくは、「やばい、このままでは死ぬ」と、慌ててバスから飛び降りる。
誰かの行動が、誰かの行動の呼び水となる。さらに……、という感じ。

曹操が、封邑の戸数を段階的に増やし、魏公・魏王となり、子の曹丕がやっと革命をするのも、「馴染ませる」作戦。
曹操の晩期、「結果的に革命をするなら、回りくどく漢王朝を締め上げなくても良いのでは?」、「曹操は第一人者で、だれも反対できない。曹操が革命したければ、いつでもどうぞ」という気もするが、そのように振る舞わない。慎重に辞退する。曹操が、結論ありきで、思いどおりに振る舞えば、反動と恐慌のリスクが大きい。結論がどちらに転ぶか分からない、という状況を演出し、意見調整をしているような期間を敢えてもうける。
決定までのプロセスで、あえて反対の声明を出したり、重臣が辞めたり(殺されたり)、後任の人事でほのめかしたりする。時期を区切って、あえて遅延したり、前倒ししたり。「反対派をあぶり出すため」という説明が加えられることがあるが、物足りない。重大な決定をするときは、時間をかけて、「馴染ませる」ことが必要。一方的に進むのでなく、行きつ戻りつ、軟膏のように練りこむ!

「謙虚さを示すことが美徳とされた」とか、「三譲の形式を整えるため」は、史料に引っ張られ過ぎ。典拠があることは否定しませんが、それ自身が目的ではない。典拠に含まれた、政策運営の智恵を活用したという理解の仕方をしたい。反対派のあぶり出しは効用の一部。粛正だけじゃ、物事は進まないのです。

「革命に反対する勢力をあらかた刈り取ったから、もういいじゃないか」……ということはなく、曹操が横車を押せば、あらたな敵対勢力・反対派が、地面のなかから湧いてくるのです。キリがない。

かつてぼくは、曹丕に代替わりした直後、皇帝になるのを見て、不思議に思った。「なぜ曹操は、魏王どまりなのに、代替わりした途端、皇帝になって良いとされたの?」と。親子二代、周の文王・武王の故事とか、そんなものが規範とされてるのか?と思ったりしたが、それは、史料の字面に、引っ張られ過ぎ。

史料に埋没すると、典拠に基づいた!とか、言いたくなる。

実際は、馴染ませる年数が必要だっただけ。もしも曹操が、あと1年か2年、長生きをすれば、曹操が魏帝になったでしょう。
反対に、
「曹操は力が強いから、皇帝への勧進を断ることができた。曹丕は力が弱いから、勧進を押し切られた」というのも、違う。形成されたトレンドは、個人の意思とは無関係に、状況を作っていく。

◆要人の意思は尊重されにくい
例えば、ある国が政府の要人が、「為替はこうなるといい」と言ったとする。短期的な値動きには影響するが、やがて戻す。むしろ、おかしな介入により、副作用が残る。自国を不利にしてしまう(という)。最近は、「そういう発言は、しないことになっている」というのが、正解とされている。
国際会議の途中で、アメリカの高官のコメントの一部に、「もしもドルが安くなれば、アメリカは貿易が有利になる」という一般論が含まれているだけで(中学校でも習う一般論なのに)、アメリカはドル安を望んでいる!と受けとられ(たとされ)、ドルがぐーんと安くなる。そして、EUから、「口先介入」を牽制されるという。名指しではなかったが、名指ししなくても、誰でも分かる形で。

ドル安の傾向は、これを書いている時点では続いている。
この発言は、ただのキッカケに過ぎないのかも知れない。もしくは、ドル売りの材料に利用されただけ、とも言われる。
直後に大統領が、「強いドルを望む」と言ったら、やはり、ぐーんとドルが高くなった。しかし、こんどは日銀総裁が、またもや、以前から変更のない方策のコメントをしたら、それを材料として、がくっとドル円が安くなるという。
どっちやねん。なんやねん。という感じ。瞬間的にチャートを見てると。

要人発言は、市場の値動きの材料にされる。当人が、本当に言いたかったこととは、別であったり、他にもっとあったり、誤解であったりする。いや、じつは要人発言は、あんまり関係なくて、あとで為替の動きを説明するための説明の材料にされているだけかも知れない。
その証拠に、為替がある方向に振れると、ある要因が語られる。逆に値が振れると、「そんな発言あったっけ?」という新ネタが持ち出され、説明される。当初、理由にされていた要因は、語られなくなる。その要因が、解消したわけではないのに。面白いことに、さらに逆に振れると(値を戻すと)、当初の要因が復活してきて、値動きの理由とされる。
もはや、理由なんてない。むしろ、理由なんて何でもいい。「捗らない国会審議に苛立って、午後は、株価の上昇幅が抑えられた」って、ほんとかよ。

「市場は正しい」とするならば、その正しさが先にあり、要人の思惑は関係ない。いや、全く関係ないことはなく、影響は限定的であろうと。要人が属する、政府や中央銀行も、市場の参加者には違いない。
もしくは、要人が市場を操作することは不可能だが、中長期的な舵取り(のようなもの)ができる(と期待されている)という程度か。さもなくば、中央銀行とか、なんで存在してるんだ?という議論になる。人類の叡智を否定することになる。

脱線しましたけど、要するに、
曹操や曹丕の思惑がどこにあろうが、漢魏革命の実施有無や、時期を操作することは、難しいということ。それは、皇帝権力から自立傾向をもつ士大夫が、世論を形成していたからではない(その側面は、ゼロではないでしょうが)。
それよりも、世論という市場のトレンドが、曹操・曹丕を押し流した。彼らの思惑は、あんまり関係ない。晩年の曹操ですら、抵抗することは難しかっただろう。

* * *

ある特定の発言(価格を変動させる材料)に限定すれば、金融市場も、士大夫の世論も、一定期間が経過すれば、正しくて身の丈にあった実力を反映したものになる。「完全市場」に近づく。
しかし、「完全市場」は実現しない。
なぜなら、波状的に、新しい値動きの材料が降ってくる(というか、値を動かすために、つねに揺さぶりがかかる)から。「完全市場」が実現し、ナギが訪れることはありません。通常の(他意のない)経済活動だって、揺れの材料になるから、人類が滅亡しない限り、ナギはこない。

短期的に、要人発言によって(正味の内容だけでなく、発言に対する誤解や、一面的な取り上げられ方も伴って)ぶれる。情報の不均衡や、参加者の利益追求・ライバル圧倒の動きで、極端に振れる。下手すると、実態(と思われる影響)と正反対の動きをする。
誰にも、制御不能なのです。大統領にもムリ。中央銀行の総裁にもムリ。曹操にもムリ。複雑な利害関係者・利害の材料がある。有機的に繋がっていて、解明不能。震動は、不確定性があり、不規則に見える。
ていうか、制御できてしまったら、その主体(胴元)の独り勝ちである。だれも、そのゲームに参加しようとしなくなる。ゲームが成り立たない。

値動きは、当事者にとって、もうけるチャンスであると同時に、あまりに大きな振れ幅は、プレーヤーに退場をせまる事件となる。
為替取引では、証拠金がマイナスになったら終わり(それ以前に、強制ロスカットのルールで守られる)。ギャンブルなら、元手がゼロになり、さらに借金できない状態。政治においては、「九族みなごろし」です。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を数値化したのが金融市場。インパクトある事件や発言があると大きく反応するが、時間が経つと、慣れるか、「織り込み済」になるかで、もとの水準に戻す。完全に戻さないが、過剰反応の分が解消する。
忘れるべきでないのは、過剰反応の幅の大きさで「飛ぶ」「死ぬ」人がいること。


曹操が年数をかけた理由もこれでしょう。
だいたいの方向性としては、漢魏革命に向かった。
曹操がねらった部分と、曹操が流された部分の両方があり、再帰的な相互作用なので、どちらか一方を強調するのは妥当ではない。世論は、曹操にもコントロール不能。しかし、曹氏の生き残りは、漢魏革命しかない、、という方向に流されるなら、抵抗せず、革命への布石を年数をかけて打ち、「馴染ませる」しかない。

建安末期、曹操の革命は、既定路線となる。異論がある(異論を出せる)勢力は消えてゆく。
ただし、短期間で革命すると、士大夫が過剰反応し、その振れ幅の大きさにより、曹氏自身が滅びるリスクがある。徐々に意思を示し、徐々に実行し、士大夫の世論という「市場」に馴染ませる必要があった。

こういう話をすると、「額に汗して働くことが尊いのに、デイ・トレーダーが経済をおもちゃにして、しかも実体経済を傷つけている」という、義憤?がわいてきます。
士大夫たちの世論も、同じではないでしょうか。
王朝だなんだと言っても、人々の生産活動の上に成り立っている。財政は、税によって支えられている。戦争をしてライバルを打ち負かす!としても、兵となって前線で死ぬのは、民なんです。士大夫の政争の材料に使うのって、どうなんですかねと。
しかし、金融市場がエスカレートし、それが実体経済に不況をもたらし、マジメに働いてきたひとが破産して自殺する(話が飛びました)のを防げないように、曹操をめぐる士大夫たちの世論って、そういう側面があると思うんです。
曹操や群臣が、金融市場ならぬ、世論の市場で、存続をかけて威信を競いあう。その材料として、多額のカネが蕩尽され、数十万のヒトが殺害される。殺害されなくても、飢えたり凍えたりする。

国は官職(通貨)の発行主体

曹操の革命を、孫権集団は無策で眺めているのではない。 アメリカの政策を、ユーロ圏が無策で眺めているのではないように。賛同したり、対抗したり。自分の経済圏の動向を睨み、コメントや政策を出す。その結果が、ユーロ・ドルの為替に反映される。 三国鼎立は、為替市場と同じです。国の力=通貨の力。

献帝を握っている曹操は、「基軸通貨」に違いない。劉備は新興国の通貨。金利が高いが、振れ幅も大きくリスクが大。
孫権は地政学的に、金利は低く、振れ幅が小さい。リスク回避のとき買われやすい。結果的には、三国のうちで、最後まで残ったのは、呉でした。
「金融市場で通貨が買われる」とは、「士大夫がその三国政権を支持する」ことに準えられる。

ぼくは、その君主が発行する官職が受納されることを、「市場での支持」だと捉えてきました。官職を、貨幣に準えたこともある。複数の貨幣が出回っているならば、為替が発生します。
そこには、魯粛の活躍する場所があります。投資家・博打うち・相場師・詐欺師など、他人からの評価はいろいろでしょうが、魯粛(と諸葛亮も)やっているのは、曹操の動向を見守って、その対抗措置をとりながら、自前の「経済」を成立させていくことでした。180309

閉じる

6.官爵の「相場」を操る魯粛

前回は、曹操という「要人」の発言や政策が、三国の士大夫層に与えたインパクトについて、いろいろ書きました。

後漢末の最大の事件は、曹操が魏王になったこと。
魏王封建が、曹操の支配領域だけでなく、劉備・孫権にとって、どのようなインパクトを持ったか。これを、魯粛に分析させたら楽しいな!と思った。曹操が魏王になるのは216年、魯粛が死ぬのは217年なので、描くことができます。
劉備に荊州を貸した後、あんまり出番がなくなった印象がある魯粛ですが。失脚したと記述がないので(実際、失脚していないと思いますし)、孫権の重要な政策決定に関与し、参謀・相談相手を果たしていたはずです。表舞台に出ないが、孫権の判断に、魯粛のアドバイスが反映されていたと考えても、大きくは外していない。

10郡の公となった曹操

ツイッターで見た、気になる会話です。

@Golden_hamster さんはいう。後漢の常識として、「諸侯王は劉氏のみ」「郡1つ未満の領土」「領土の統治権はない」ものだった。曹操の魏公は「王じゃないから盟約違反じゃない」はいいとしても、「郡1つどころか10倍」で、「領土は自分で自由に統治」というもの。そら領土欲やんって言われるわ。曹操を公にしよう運動の理由の一つに「曹操様がより上の爵位にならないと下の者の爵位も上がらない」ってのがあって、それ自体はまあその通りなんだけど、なら10郡は要らなくない?せめて1郡分の公でいいよね?

@sweets_street さんはいう。世襲財産を増やしたかったんじゃないですか?諸臣は曹操の部下であって、曹氏の部下ではない。曹操の死後、諸臣の誰かが執政になり、曹氏当主を一郡の領主として押し込めてしまう可能性もある。しかし、十郡の領主なら諸臣を財力・軍事力で圧倒し、自力で執政の座をもぎとれる。曹操は何らかの理由で自分の代での禅譲を断念したのだと思いますよ。即位すれば漢の領土すべてが私領になるのだから、世襲領土なんて狭くてもいい。自分が皇帝になれない=漢の領土を私領に出来る見込みがない。だから、曹氏が次代においても第一人者で居続けるための布石を打ったんじゃないかと。

ぼくは思います。

他人の会話を引用し、自分の話を始めるというのは、「はしたない」ですけど、ツイッターって、そういうメディアだと思いますので、ご勘弁ください。

列侯のなかにも封邑の範囲・戸数のランクがあるので、「曹操がより上にならないと下の者が、渋滞する」という観点をなぞるなら、曹操の封邑が1郡だと、曹操未満の者(部下や子弟)が1郡の列侯になれません。功臣に与える封邑を、漢臣の曹操が「自腹」で分割するなら(魏国のなかから捻出するなら)、戸数の原資は多い方が選択肢も多いです。
功臣に与えるのが「万戸侯」であるという、1万という数それ自体の意味は薄そうな前例も、曹操自身の封邑の戸数が少ないと、使いにくくなる。

@Golden_hamster さんはいう。漢代において一郡の列侯というのは存在したことが無いはずで、公でも後漢初期(更始帝期)にごく少数いたのみです。曹操未満にもそこまで与えようと想定する事自体が漢王朝の前例・秩序を破壊しようとする行為に見えた者も多かったのではないかと想像します。また、王・公にも「1郡未満」<「1郡相当」<「1郡以上」<「数郡」<「戦国時代の1国クラス」(前漢初期の王)といった段階があったわけで、数段階すっとばしていた事も漢王朝の秩序を回復・維持した者にとっては問題になったのではないでしょうか。

ぼくの「1郡の列侯」は、筆がすべったものでしたが(ご指摘ありがとうございました)、魏の部下への配分の原資は、多い方が選択肢が増えます。与えたり奪ったり。(等しくあるべき人を)わざと差を付けたり、(差をつけるべき人を)等しくしたり。ひとりを突出させたり、一律の上げたり。封邑を「武器」にして、曹操の交渉力が増えるのですから、やはり10郡には、いろいろ使い道がありそうです。

曹操が、自分の部下を列侯にしたいとき、そのたびに漢王朝に申請して、漢の土地を削って、魏の功臣に与えていたら、漢王朝からの反感が高まるだけ。それよりも、曹操が初めに、ガバっと切り取ってしまったほうが早い。
魏臣から見ても、曹操が「身銭を切って」封邑をくれたという形式にしないと、嬉しくない。魏の君主との関係が、強化されない。
この前提に立てば、曹操の「世襲財産」は、曹氏にとっての世襲財産であるだけでなく、曹操の功臣たちの世襲財産の原資を、準備したものだったと思います。

10郡の公にからめて、禅譲の意思はどのように推測できるか。
ぼくは、自分の代での禅譲を断念したから、10郡を切り取ったのか、よく分かりません。ひとつ言えそうなのは、前回書いたように、禅譲に至るまでには、段階を踏み、時間をかけることが有効であるということ。そのためには、じわじわと魏国の領域を広げたい。漢王朝を骨抜きにするくらいの。どこまで、「じわじわ」したら、転換が起きるのか。べつにシーソーじゃないから、過半数が目安というわけではありませんが。
曹操は、自分の寿命が続くうちに、「じわじわ」が進捗すれば、それを良しとしたでしょうし、寿命が尽きても、「じわじわ」の階段を上ったのだから、方向性は合っており、意味のある結果だった。

曹操が魏王になったこと。新たな官位の発行主体となったこと。新たに封建をする側になったことは、何を意味しているか。
魯粛の物語と、リンクしてきます。

赤壁直前、魯粛が孫権に伝えたこと

魯粛伝に、こうあります。
「今肅迎操、操當以肅還付鄉黨、品其名位、猶不失下曹從事、乘犢車、從吏卒、交游士林、累官、故、不失州郡也。將軍迎操、欲安所歸」

赤壁の前夜、いま魯粛が曹操に従ったら、魯粛の見立てでは、
郷里の名位に照らして、「下曹従事」以上には任命されるだろうし、牛車に乗り、吏卒を従え、士林を交遊し、州郡長官になれるでしょう。しかし孫権は、どうなっちゃうのかねと。

◆孫権は捕虜になって辱められる?
魯粛の言葉は、「孫権が曹操に叛逆したから、誅殺されるという」という意味に見える。曹操と孫権は、それぞれ国のリーダーで、同格のライバルだと思うと、「亡国の君主」として、悪ければ死刑、良くても飼い殺し、という連想になる。
この読解は、「そういう読解が成り立つ」という意味では面白いけど、あまりに後世の結果からたぐり寄せたバイアスが強すぎて、明らかな誤読だと思います。

「そういう誤解を呼ぶ」のは、やはり面白いのですが。


おおくの物語では、孫権と曹操をライバルと見なす。その文脈で、魯粛伝のこの会話を使うならば、「孫権は、捕虜になるしかない。呉臣は、曹操の部下になって、のうのうと生き延びる。孫権は、自分だけがバカを見ていいのか?」という脅迫というか、損得勘定を煽っているというか、
公平心(と、その裏返しの表現である嫉妬心)に着火しているというか。せっかく揚州で、10年弱、運命をともにしてきたのに、孫権だけが官僚人生に終わりを告げ、その配下たちは、どんどん孫権を追い抜いていく。そういう未来像を突きつける。

◆孫権は、高い役職に就けない?
もう少しマイルドに、「孫権は郷里に名声がないから、魯粛よりも低い位にしか上がれない」という意味かも知れない。
「郷里の名声」が有する意義が、強調される文脈で、使われる史料。
しかし、いくつか疑問が生じる。
魯粛は、郷里でそんなに名声があったか?地方長官になれるほどか?父は、早くに死んだとあるだけで、官職は書いてない。祖父以前も不明。魯粛自身は、故郷でツマハジキであった。
孫権は、父の孫堅が、後漢末の混乱期とはいえ、長沙太守になった。袁術が媒介したとはいえ、豫州刺史になった。むしろ、地方長官の家柄って、孫権のほうではないか?

なんか、魯粛の言っていることが、チグハグです。
この時点で孫権は、曹操の承認を受けた、会稽太守・討虜将軍です。他方、魯粛は、まだ孫権から(ひいては曹操から)官職を与えられたことがない。孫権の賓客というか、居候というか、よく分からない立場。
魯粛から孫権へのメッセージは、成り立っているのか? これを、「魯粛のサギ」と片づけるのはカンタンですが、もうちょっと考えてみます。

もしも孫権は、会稽太守の任務を解かれ、曹操政権に合流した場合(漢王朝の官僚として、もっとも穏当かつ唯一にも思えるルート)、いまの会稽太守・討虜将軍の権勢を、保てない恐れがある。役割は解任されるだろうし、称号のランクだけは切り下げなかろうが、確実に影響力は削減される。

劉琮が、青州刺史に任命されたように。実を捨てさせ、名を保つという処理。

かつて曹操は、袁紹と戦っていたから、孫権に揚州を任せた。曹操にとって、孫権は利用価値があったから、孫策の官職を継がせた。
孫権は、特殊な時代状況のおかげで、身の丈(本来の一族の社会的階層)に合わないほど、有利な官職を与えられている。曹操が、袁紹の子と戦って北伐しているときまで、孫権の人材としての価値は高かった。

曹操が南下し、曹操が自分の軍隊で、長江周辺を制圧できるようになったので、孫権を優遇する理由がない。役目が終わった、ということ。
これを手放すことは、孫権にとって損ですよ、と魯粛がアドバイスしている。そのように考えれば、あながち、「魯粛の詐欺」とは限らない。孫権のことを思いやっているのか、思いやっていない(魯粛の思惑のために、孫権を焚きつけている)のかは、分からない。しかし、言っている内容に、ウソはない。

魯粛の助言の真意は?

単純化のために、孫権や魯粛が持っている「資産」を、名声と官歴の2つだとしましょう。名声は、さらなる名声を呼ぶ。資産は、自己増殖させられる。官歴も同じで、家柄が高いとか、自分が要職にあるとかの場合、さらに官歴が上がる。
2つの資産は、相互変換できる。相乗効果で増やせる。資産の種類をまたいで、振り分けを調整できる。名声がある人が、官歴を充実させる。官歴が優れた人は、名声も得る。
富めるものが、ますます富み、貧しいものが、ずっと貧しいまま。これは、カネという資産でも、名声・官歴という資産においても、同じことです。いちど、資産を手に入れたら、それを慎重に増やして、富裕層に仲間入りし、留まることが大切です。

孫権は、もともと、名声がある家柄に生まれたのではない。しかし、戦乱のおかげで、官歴の資本が充実してきた。会稽太守・将軍号は、もうピークなのではないか。たまたま、父(孫堅)が持っていた株が暴騰して、にわかに成金になり、配当でウハウハしている状態
孫権が、曹操政権に合流してしまったら、この株を売ってしまうに等しい。もはや、配当を受けとる権利がなくなってしまう。

しかも、時期が悪い。曹操が荊州に駐屯しているとき、ノコノコ出かけていったら、「降伏」という目で見られる。一時的に、父から嗣いだ株が値を下げているときに、それを売り払ってしまうようなもの。その株の発行主体は、業績が好調なので(孫氏の揚州支配は判定しているので)、市場が戻せば(曹操が荊州から去れば)、値を戻すはずである。
孫権は、もともと家に名声がないくせに、曹操の事情で、戦略的な価値を見出され、高い官職を得た。しかし、それを返却しようとしている。まるで、マグレで相続できた株を、十年に一回の安値で、売ろうとしているのと同じ。
もうちょい、官職は官職のままで持っておく(株は株で持っておく)、つまり、いま曹操政権に合流せず、様子を見たらどうだ、、というアドバイスをしている。

もともとの後漢での家柄とか、教養のベースで言えば、孫権よりも魯粛のほうが「マシ」なのでしょう。その状態に戻ってしまうよ。いまの資産のポートフォリオを、リセットするのは、孫権にとって、めちゃくちゃ損ですよ、という話。
「少ない名声で、奇跡的に高い官職を得ているんだから、ポジションを解消してはいけない」というのが、魯粛の言い分。

後半、ちょっと大きな話に繋げます。

なかなか爵位を上げない孫権

孫権のところは、なかなか官爵があがらない。孫権が太守・将軍に留まっているから、配下が太守になることも、君主権力を脅かすとして警戒されるし、将軍になるだけでも、雑号将軍の孫権と並ぶから、多くが校尉に留められる。
呉主伝 建安十四年によると孫権は、劉備との互薦で「行車騎将軍・徐州牧」を称した。これが精一杯。いちおう、形式だけでも、孫権が上限値を上げることによって、部下たちが昇進する余地をつくった

曹操の10郡の魏公の話と、繋がってきました。

劉備との互薦として、曖昧にしたが、献帝の承認を得ていないことは、みなが知っている。献帝の承認がないから、孫権は官位を上げられなかった…、という「手続の正当性」の観点から分析できますが、それだけではない。

袁術の反面教師なのです。
袁術は、彼自身が、三公の家柄として、官歴の資本を持っていた。数州のみ支配している段階で皇帝となり、配下に三公を与えた。袁術が皇帝になれば、いくらでも官職を配布できるから、一見、優れた行動に見える。
のちの孫権が、なかなか県侯から上にあがらず、部下をイライラさせたり。曹操が、じわじわと爵位や戸数を上げるのに時間をかけたのと違う。孫権や曹操のところは、部下が渋滞しまくっており、「早く君主があがれ。率先して上がれ」と急かされたことが、史料に見える。
袁術の場合、そのような葛藤を生まなかったのだから、部下にとって都合のよい君主に見える。しかし、短期間で失敗してしまった。むしろ、渋滞の先頭なのに、ダラダラとしか進まなかった者が、国を維持している。

君主は、官職の発行主体です。自分の資産=権勢(名声+官職)を元手として、官職を発行し、それを流通させる。官職が濫発され、他国から見て、インフレしているように見られると、為替で不利になる。
「袁術のところの将軍号は、ほかのところでは、校尉くらいの価値しかないよね」と思われたら、袁術の将軍号を受けとる人がいなくなってしまう。また、袁術から将軍号をもらっている人は、さらに上の称号を欲しがる。宇宙大将軍とか。
魯粛は、袁術のところは賞罰がいい加減で、秩序がないと言ったが、官職の政策の失敗について、言っているのではないでしょうか。

官職流通量のコントロール

孫権は、自国の官位が、曹操のところの官位と比べて、大きくズレてないか。今後、領土を拡大したとき、上昇の余地が残っているか。に目を配りながら、自分のところに流通させる官位の量(高さと人数)をコントロールする必要がありました。
ぼんやりとした基準として、後漢のレベルが参考になります。

官位発行の裏付けとなる国力にもとづき(兌換制度に似ている)、他国とのバランスを取り、インフレを避ける。しかし、あんまりケチると、だれも欲しがらなくなる。「武官は全員兵士、文官はすべて書記係」では、そんな国に来てくれる人はいない。
貨幣流通量のコントロールは、割拠政権である三国にとって、このように難しい問題を抱えていました。魯粛さんの、腕の見せどころです。……そういう話を盛りこんでも、いいのではないかなと思います。

呉臣は、当面は、曹操に仕える予定はありませんが、「もし自分が、曹操に仕えたら、どれくらいの官職をもらえるか」をつねに意識しており、孫権はその気配を織りこんで、孫呉の官僚の序列を作らねばならない。

「もし、円安になって1ドルが200円になったら、あなたの貯金の価値は、約半分になるんだ!」と言われる。実際、そうです。
これは、ドルに換算し、アメリカでお金を使う予定がない人にとっても、影響を与える議論です。「アメリカに行かないから、いい」という完結の仕方はしない。

魯粛が孫権に、「もしも曹操に仕えたら」という仮定の話をしている背景には、この発想があったはず。孫呉の官位政策については、まだまだ、考えておきたいことがあります。180311

閉じる

7.魯家の経営破綻と、孫呉の株価

魯粛の成長物語

魯粛が初めから最強!では、おもしろくない。孫権と合流するまでは、負け続け、みっともない姿を晒して、読者を苛立たせる。しかし、投資家として鍛えられ、成長する物語。孫権と合流してからは、周囲から「賭け狂い」に見えるけれど、見通しを的中させていく。

今日、われわれは、一族の生命を賭けなくとも、情報収集に血道を上げなくても、「お小遣い」で投資を楽しむことができる。ほとんどの価値が、カネという統一尺度に換算され、分かりやすい値動きのグラフを集計してくれる。市場全体の平均を、タイムリーに知ることができるなんて、われわれは特権階級かよと。
ほぼタダで情報を手に入れ(証券会社は、手数料が欲しくて、ニュースを小まめに配信してくれる)、証券会社に支払う手数料も、ネットが普及する前に比べると、ほぼタダと言ってよいレベル。バクチのように胴元が逃がしてくれない!ということもなく、自分の意思でいつでも入退場ができる。特別な才能を持った相場師でなくても、利益を得られる。
魯粛に限らず、彼らの生き残りを賭けた投資活動は、負けたら、一族が滅びる。つねに全財産をかけた判断の連続。情報は、自力で集めねばならず、人的ネットワークも構築・維持のコストが高い。


◆魯粛の家の財産
例えば、魯粛の家は、後漢の光武帝に早い段階で知り合って(兵士でもいい)、後漢と命運をともにしてたら、ヒョンなことで、大富豪になってしまった。
後漢の四世三公の家・弘農楊氏は、祖先を遡ると、前漢の建国に参加した兵士。項羽の死体の一部を手に入れた。それが理由で家が栄えたのではないが、「王朝と一体となり、雪だるま式に資産が増えていた」という家にしたい。

たまたま、有望株を、なにかのご縁で手にした人が、大富豪になるのは、よくある話。


魯粛の父の時代、桓帝・霊帝のころ、蔵が20あった。

魯粛の父の名前って、分からないですよね?伝承や伝説にもないですよね? 魯粛の子は、魯淑。ロシュクの読みが同じなのが面白いので、小説のために、父の名前を設定するなら、魯宿、魯祝、魯夙あたりか。なにか、おもしろいのないですかねー。

魯粛の父は、この蔵の10をつかって、宦官に賄賂を送った。そして、高い官職を得た。しかし、黄巾に殺された。「後漢に一点賭け」することのリスクを、父は身を以て示したのだった。

遺産相続した魯粛は、残り10を、徐州刺史の陶謙に献げた。陶謙を「乱世を平定する英雄」と見込んでのこと。
陶謙は、昔の20どころか、50にして返すと約束してくれた。

陶謙のもとには、商人の麋竺もいたし、そういう「資産のお預かり」をやっていそう。営業をかけ、リターンを確約して、資産を供出させる。そして、手数料はちゃっかり取り、しかし、運用の成績が振るわないことは、べつの理由を付けたりする。利回りが約束を下回る。『投資なんか、おやめなさい』の世界観を味わう。

ところが陶謙は、運用に失敗。5しか帰ってこなかった……。
陶謙の死後、劉備や呂布は、魯粛の故郷までは、手を回せない。
空白期間をつかって、魯粛は、徐州の情勢を、必死に分析する。陶謙をやみくもに信じ、全部を預けてしまったのは、自分が愚かだったな……と、反省する。

袁術の将である呉景が通りかかると、魯粛は拒絶したが、蔵2つを持って行かれた。劉備との消耗戦をやるために、呉景は兵糧が不足していたから。魯粛は、蔵を1つ蕩尽し、少年たちを集めて、兵法の訓練をするようになる。
父の時代にあった、20の蔵は、中身が残っているのが、2つだけ。父の命とともに、10がカラとなった。5は、陶謙に預けて、運用に失敗。1は、呉景に持って行かれた。1は、少年を養うのに使った。20-10-5-2-1=2です。

みるみる財産が減っていく。これは恐怖!

18のカラの蔵があるのは、いつかそれが還ってくるのでは、という期待感から。20を基準にして考えてしまう。しかし、目の前の2つが現実であり、そこから出発しなければならんよと、投資家として少し成長し始める。
陳登と周瑜に、残り1つずつを分散投資して、主体的にリスクコントロールをするようになる。
投資家として独り立ちした魯粛が、今日の金融市場と同じ道具を使っていたとは思いませんが、孫呉の権勢の上がり下がりは、意識していたと思います。エクセルを使って、再現してみました。

孫呉の株価

孫呉の権勢を株価に例え、1年ごとの値動きを作ってみました。


◆ローソク足
図は、「ローソク足」という書き方で、エクセルで作れます。
年初から年末に権勢が高まった幅は赤、下がった幅は青。ただし年初と年末を比べ、トータルでは上昇した年も、一方通行の値動き、すなわち、「年初が最安、年末が最高」とは限らない。年内につけた最高と最安を、線で表す。

197年は年初から年末で小さく上昇。上に出た線は、袁術の皇帝即位への期待、下に出た線は、その反動。事件があると、最高・最安がブレやすい。
208年に下の線が長いのは、赤壁前の降伏論で、権勢が大幅に落ちたから。年内に持ち直し、むしろ208年末までに大きく上昇。
212年~215年の下の線は、曹操との戦い。毎回、動揺するが、安値は年ごとに上がっている(下の線の下限が、右肩上がり)なのは、孫権の実力が付いている証拠。←をぼくが表現しました。

青色が長いのは、200年の死と、210年に荊州を劉備に貸して周瑜が死んだとき。それ以外は、コツコツと上げる有望株。上昇基調なのは、やがて孫権が皇帝になるから。ここで下がっていたら、滅亡してますから。
219年、荊州を蜀から奪い、曹操から荊州牧に任命されたが、周瑜のときの高値は更新せず。周瑜が元気だったときは、将来に対する期待も、織りこまれていたから、高値の記録を作ることができました。
220年の下の線は、漢魏革命。曹丕と関係を結び直し、1年の結果としては、やや高くなった。

◆移動平均線
太い波線は直近5年間の年末の値の平均で、目先のブレを排した実力を示すとされています。
はじめ太線が高いのは、孫堅の名残。196年に孫策が会稽を得て、197年から上り調子に転じた。孫策の死による下落基調は、204年まで引きずる。事件史がすぐに効いてこない(反応が鈍い)のが、太い線の役立つところ。

太い波線(中期傾向)と細い波線(短期傾向)が交わるのは、勢力の転換点。細い波線が太い波線を抜くのは、日の出の勢い(「ゴールデンクロス」といいます)。
196年、孫堅の死の低調を、孫策の会稽獲得が克服。203年、孫策の死の影響を孫権が克服したと見なせる。210年以後、曹操との関係から、方向性なし。太い波線と細い波線が、互いに交わっています。

逆に、細い線が下回る(「デッドクロス」といいます)のは、孫策の死と、荊州を劉備に貸したところ。孫策の死は、まあ納得。問題は、荊州を劉備に貸したところ。とりあてて孫権に失点はないが、赤壁後、周瑜が江陵を得たことで、価格が暴騰したがゆえに、細い線が下にくぐった。←というように、ぼくが数値を設定しただけですが。
これは、魯粛の政策が、孫呉の未来をどのようにするのか、不透明だったことを意味するでしょう。しかし、214年、魯粛がトップだったうちに、再び細い線が上に出ている。単なる魯粛の失策というわけではありません。

図の元データ

能力や心の数値化は、ゲームや漫画の定番ネタ。勢力の盛衰の数値化も、面白いはず。変化の特徴を表すには、株価や為替で使われる「ローソク足」と「移動平均線」が簡単で便利。
相場では、グラフの形で、値動きの特徴を読み取れるとされる。その特徴が出るように、元の数値を調整する…という遊び。



数字は、相対的な上下を作るために入れているだけで、意味があるわけではありません。孫権が皇帝になったときは、この図では、100を越えるのでしょう、くらいの見通ししかありません。
数字に意味がないので、軸の目盛りは消しています。180311

閉じる

8.天下の変動幅をあやつる魯粛

金融市場を手掛かりに、魯粛の考えたことを復元しています。

変動幅の大きさ

金融資産には、値段の上がり下がりだけでなく、「変動の幅」がある。ボラティリティーという。
それを表現したものを、ボラティリティー・インデックス(VIX)といい、日本語では「恐怖指数」とされる。18年2月の金融市場は、これが高まったことで、投資家たちが一斉に引いたとされる。
なんか、VXガスを連想するから、いかにも「恐怖」である。近年の暗殺にも使われたそうなので(Wikipediaの知識でごめんなさい)、やはり恐怖を感じる。

しかし、リスクを「危険」とするのが誤訳であるように、ボラティリティを「恐怖」とするのも誤訳。どちらも、変化にまつわる語。変化する=危険である、恐怖である、というのは、一面的な価値観です。
ボラティリティー・インデックスが高まると、一発で大損するかも知れないが、一発で大儲けする可能性もある。必ずしも、悪いことではない。むしろ、そういう「リスク選好的」なプレイヤーだっているだろう。変動の幅が高まらないと、損をしないけど、得もしない。わざわざ金融市場で勝負する意味がなくなってしまう。

三国鼎立とボラティリティ

後漢末の混乱を乗り越え、三国鼎立にまで収斂されると、天下が統一していないが、変動幅が「読みやすく」なる。
領土が膠着すると、ボラティリティーは減少する。しかし、完全な膠着ではない。両国が戦うと、そこそこのボラティリティーが発生する。しかし、大暴騰!大暴落!までは起きない。
……三国の当事者は、自ら戦いを起こすことによって、ボラティリティーを、自分の好きな方向に操作しようと試みる(という政策も可能となる)。

話が飛びますが、蜀が滅亡したときは、ボラティリティが飛躍的に上昇した。劉禅が降伏し、鄧艾が捕縛され、鍾会が反乱し、司馬昭が晋王となり、魏晋革命まで進んだ。平呉!という機運まで高まった。その後、司馬炎のとき、いちどは鎮静化した。
孫呉は、自滅するシナリオもあったはずだが、なぜ保ったか。「期待を背負って即位した孫晧が、名君だから」は、部分的な説明である。このページで何度も書いてきたように、孫呉は、変化に強い(変動幅の影響を受けない)という特徴を持った国(資産の種類)です。そのあたりが影響しているのかも。
西晋が平呉に時間がかかった理由も、このあたりにないか。

政権の行方と、変動幅について、話を広げてみたい。

◆投資家の動きとボラティリティ
投資家は、単純に手持ちの資産が、値段が上がって嬉しい!下がって哀しい!と騒ぐだけでなく、ボラティリティーを見て、行動を決めている。

三国政権も、単純に自国の威信が高まって嬉しい!と、騒ぐだけではなく、ボラティリティを見て、国家の舵を切っているのかも知れない。直線的に、「ライバルを打ち倒し、うちが勝者になる」と、鼻息を荒くするだけでは、勝てない。

変動幅(に対する期待・恐怖)が小さくなると、投資家たちは、価格変動のある資産を持ちたがる
もしも市場に嵐が吹き荒れているならば、家のなかに閉じ籠もって様子を見ようとする。価格変動しにくい資産を持って、様子を見る。日本円・債券・ゴールドなど、リスク回避的な資産が買われる。
嵐が去れば、家から出てくる。変動しやすい資産を持ち、もうけに挑戦する。日本円を売ってドルに、債券・ゴールドを売って株式を持つようになる。

魯粛の戦略である、「三国を鼎立させましょう」というのも、この文脈で捉えたい。
魯粛は、孫呉の価値の上下だけでなく、天下の変化の幅(に対する期待・恐怖)を操っていた!かも知れない。
もはや、いち投資家ではなく、政府とか中央銀行の役目。実際のところ、魯粛は、孫呉の参謀なのだから、今日でいう政府の仕事をしていても、不思議ではない。不当な飛躍という感じはしないです。

魯粛によるボラティリティの操作

魯粛が仕える孫呉は、安全資産である。揚州という地盤があり、天下が膠着すると、みなが支持してくれる。

円とかゴールドと同じ傾向がある。

だから、孫呉が没落しない範囲で、適度は刺激を与え続け、天下を揺さぶり続けるのが有利である。

魯粛の死後のことですが、諸葛亮の北伐なんかが行われると、孫呉は、嬉しくて仕方がない。孫権が皇帝に即位できたのは、天下のボラティリティーが上がったから、という分析も出来るかも。それは後日、慎重にやります。

魯粛が「天下を二分させよう」というのは、コントロールな範囲での、揺さぶりをキープしましょう、ということ。

揺さぶりがなくなり、成り行き任せで、天下が収束していくと感じられると、現状を肯定する。曹操の一強が、ますます強化される。
たしかに曹操は、おっかないけれど、やんわりと天下統一に向かうならば、曹操に乗っておくのがいい。中原は、戦乱で荒廃しやすいが、もう戦乱も起こるまい。むしろ復興する局面に入ったのだ、これからはと。

曹操は、孫権・劉備なんて無視しておけば、おのずと、変動幅が下がっただろう。曹操自身が、変動を起こしたがりなタイプの人間なので、うまくいかなかった。これが袁紹ならば……、というのは、別の議論なので、後日、慎重に論じましょう。

曹操が起こす、改革や戦争が激化しすぎて、みんな、「こんな流動的なのは、コリゴリだ」と思えば、「孫呉に避難しよう」とか、「孫呉の第三者的な調整機能に期待しよう」という世論になる。相対的に孫呉の価値が上がる。

景気は循環すると、学校で習いますけど、
変動幅も循環します。あまりに退屈だと、変化を求める。変化を求めて疲弊すると、安定を求める。
魯粛の役割は、曹操・劉備の対立が激化したら、それを静観する。もしも曹操・劉備が拮抗して、刺激がなくなったら、適度に騒ぎを起こす。
曹操が完全勝利すると、それは「ナギ」を意味して、孫呉の存在価値がなくなってしまう。だから、どちらが勝ちすぎては困る。これが、「江南で自立しよう」という基本戦略の中身である。

孫呉が国力を伸ばすためには、曹操は多動的であり、各地を走り回ってくれなければならない。曹操のパーソナリティが、多動的なので、あんまり苦労しなくても、乗ってきてくれる。
もしかしたら、曹操を動き回らせるために、牽制するために、合肥・濡須での戦いを起こしたのかも知れない。不安定さは、孫呉の利益になる。城を落とすことが、目標ではない。城を落とせなかったことは、失敗ではない。かも。

劉備に荊州を貸した事情

諸葛亮は、弱小の劉備を活躍させるために、劉備に安定を与えたい。荊州を得て、益州を得て、、と、まずは領土を確定させたい。
これから劉備が占領した地域は、劉備が現れたこと自体によって揺らぐが、その揺らぎを鎮めるのが目標となる。隆中対では、そんなようなことを言っていました。

魯粛は、曹操を引っかき回してもらうために、劉備に領土を与えた。もしも劉備に領土を与えなければ、曹操を乱れさせる要因が減ってしまう。孫権が曹操に戦いを挑んでもよいが、コストが掛かりすぎる。
たしかに、史料に見えるように、「曹操の脅威を、劉備に受け止めてもらう。対抗させる」という効果はある。
しかし、それだけでなく、ボラティリティを高めるためにも、劉備を置いた。こんなこと、魯粛が説明しても分かってもらえないので、史料に出てきません。

……なんて言えば、歴史学の手法から逸脱しますが、これは小説の構想なのです。


先週は、東の大国と、北の小国で、トップ会談に向かうと言われ、リスク資産(株式・ドルなど)の価値があがった。世界が安定する(と期待される)と、みんな変動を容認できるようになる。ぎゃくに、世界が不安定になると、みんな変動を嫌い、リスクオフの資産(債券・円など)の価値があがる。
魯粛がやりたいのは、天下を揺らすこと。そのために、劉備たちを「利用」した。
ただし、「劉備や諸葛亮は、魯粛の傀儡」というわけではない。彼らなりの目標を持って動いており、それが魯粛と利害が一致しただけ。けっきょく劉備に領地を与えるという結論は同じなのに、ねらっていることが一致しない。

単刀会のときの損得勘定

魯粛の生前、劉備を荊州から追いだそうとしなかった。
劉備が力を付け、蜀・呉の国境で紛争が起きるようになると、魯粛が交渉して、湘水という、揺るがぬ地形に基づいた国境線を引いた。

これは、当面、孫呉が巻きこまれる範囲においては、変動幅を低く保つための工夫です。
どっちの領土が広いか!というのは、もちろん関心事ではありましょうし、領土が広いほうが有利である。しかしそれ以上に、(魯粛の見立てでは)しばらくのあいだ、孫呉にとって得策なのは、呉・蜀の関係において、不確実性を除き、変動幅(への恐怖)を小さくしておくこと。

日銀がいつまで金融緩和するか、いつ方針を切り替えるか、が話題になっています。目先は、このままで行くって言ってるのに、緩和を終了することに言及するだけで、みんなが「おお、出口が意識されてきた」と過剰に反応する。
蜀は、魯粛がいつ、路線転換(荊州の貸与)を終了するか、固唾をのんで見守っていたのかも知れない。魯粛の出方によって、蜀は対応を変えなければならない。魯粛は、「曹操を分析する」側であると同時に、「諸葛亮から分析される」側でもあった。分析されることを意識して、慎重にメッセージを出していた。そういう魯粛も、描きたい&読みたいですね。
いち投資家から、政策担当者となった魯粛。その契機が、周瑜の死でした。
現代でも、政府の高官は、生まれながらの高官ではなく、「前職」があります。もとビジネスマンとか、もと銀行員とか、もと弁護士とか。魯粛も、それと同じ。

単刀会を劉備の視点から見れば、「借りパクしてた領土を、自分のものにできた」という、喜びになるわけです。しかし魯粛は、そんなことは重視していない。

孫呉にとっては、適度に天下のボラティリティを高めておきたいが、その変動幅によって、孫呉が威信を傷つけられては、本末転倒です。ボラティリティは上がってもらいたいが、それは、劉備が起こす変動のことであって、自国は巻きこまれたくない。
もしも、ボラティリティを高めるために、劉備を荊州に起き、そのまま荊州を丸ごと取られてしまったら、施策の副作用に敗れたことになる。その調整が単刀会でした。魯粛の政策は、外野から、ノーリスクで出来るものではない。他人を揺さぶっているつもりが、自分の足場が弱くなり、自分が揺れていた……ということも、起こりかねない。そのコントロールも含めて、政策担当者の仕事です。

関羽の北伐

魯粛の死後、関羽を倒して、呉は領土を広げる。ぼくが上で作ったグラフでは、領土が拡がって、株価が上がる。株価が上がったのは嬉しい。そんなの、あたりまえ。しかし、短い期間で急激に上げると、変動幅(ボラティリティ)が上がりすぎてしまう。これも、まずい。
一発で孫呉が天下統一することは、きっとムリなのに、みんながその戦いに駆り立てられる。それは、避けねばならない。

関羽が北伐し、曹操を揺さぶってくれたところまでは、素晴らしく魯粛の狙いどおり。領土を妥協してでも、関羽に力を与えたのは、ボラティリティを上げるため。その「作用」は刈り取りたいが、自国が巻きこまれて、ボラティリティの高い市場に飛びこんでいくのは、避けたい……。
ぱっと見、一貫性がありませんが、それで良いのです。むしろ、一方通行だとしたら、それはウソか誤りです。行きすぎたら戻す。自国が有利な範囲になるように、敵国が不利になるように、「適度に行きすぎる」状態を作る。そのコントロールをするのが、魯粛の役目でした。
関羽を倒したことによって、天下の情勢は変わりました。そのときは、新たな作戦を立てねばならないが……、関羽を殺したとき、魯粛はもう死んでいました。もう、与り知らぬことでした。180311

閉じる