両晋- > 『晋書』巻九十六 列女伝 訓読作成

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列女伝(一)序・西晋(上)

自分の勉強のために、『晋書』列女伝の訓読をします。和刻本を参考にしながら、読みにくいところは、適宜、自分の意見を反映して変更しました。

漢文を読み、内容を確認するためには、訓読という伝統的な手法の知恵をお借りしたほうが(勉強中の身であるぼくにとっては)早道なので、勉強のために訓読を作成していきます。
210110追記:このページの主眼は訓読です。一部、附している注釈は、ある用途があったため、特定の部分(段落等)に限定して、故事や出典等を調査したときのメモです。全体としては網羅性を欠きます。ご了承下さい。


序文

夫三才分位、室家之道克隆。二族交歡、貞烈之風斯著。振高情而獨秀、魯冊於是飛華。挺峻節而孤標、周篇於焉騰茂。徽烈兼劭、柔順無愆。隔代相望、諒非一緒。然則虞興媯汭、夏盛塗山。有娀・有㜪廣隆殷之業、大姙・大姒衍昌姬之化。馬鄧恭儉、漢朝推德、宣昭懿淑、魏代揚芬。斯皆禮極中闈、義殊月室者矣。

夫れ三才 位を分け、室家の道 克く隆し。二族 歡を交へて、貞烈の風 斯(ここ)に著はる。高情を振ひて獨り秀(ひい)で、魯冊 是に於て華を飛ばす。峻節を挺(ぬきん)でて孤(ひと)り標し、周篇 焉に於て茂を騰ぐ。徽烈 劭を兼ね、柔順 愆無し。代を隔てて相 望み、諒(まこと)に一緒に非ず。然れば則ち虞は媯汭に興り、夏は塗山に盛んなり。有娀・有㜪 殷隆の業を廣め、大姙・大姒 昌姬の化を衍(ひろ)ぐ。馬・鄧 恭儉にして、漢朝 德を推し、宣・昭 懿淑にして、魏代 芬を揚ぐ。斯れ皆 禮は中闈に極め、義は月室に殊なる者なり。

至若恭姜誓節、孟母求仁。華率傅而經齊、樊授規而霸楚、譏文伯於奉劍、讓子發於分菽、少君之從約禮、孟光之符隱志、既昭婦則、且擅母儀。

至若(しかのみならず)恭姜 節を誓ひ(一)、孟母 仁を求む(二)。華 傅を率ゐて齊に經(くび)り(三)、樊 規(のり)を授けて楚を霸たらしむ(四)。文伯を劍を奉ぜしむことを譏(とが)め(五)、子發を菽を分くることに讓(せ)め(六)、少君の約禮に從ひ(七)、孟光の隱志に符(あ)ふ(八)は、既に婦則を昭らかにし、且つ母儀を擅にす。

(一)『詩経』鄘風 柏船の序に、「共姜自誓也、衛世子共伯蚤死、其妻守義。父母欲奪而嫁之、誓而弗許、作是詩以絶之」とある。新訳漢文体系に基づいて訓読すると、「共姜(きょうじょ)自ら誓ふなり、衛の世子の共伯 蚤(やは)く死し、其の妻 義を守る。父母 奪ひて之を嫁がしめんと欲するも、誓ひて許さず、是の詩を作りて以て之を絶つ」とある。衛の世子である共伯の妻は、早くに夫を亡くした後、父母の言いなりにならず、再婚を拒絶した。再婚の拒絶(亡き夫への節度)が称賛されている。なお無記名のメールでのご指摘があり、『晋書』序文の文脈から、『詩経』が直接の出典ではなく、何らかの女性の事績に関する編纂物が踏まえられたと考えられるが、未詳。
(二)劉向『列女伝』に、鄒孟軻母篇があるが、複数のエピソードが載っている。無記名のメールにより、『晋書』巻五十一 皇甫謐伝に、「昔孟母三徙以成仁」とあり、いわゆる孟母三遷が「仁」とされている文があることをご指摘いただいた。
以下『列女伝』は、中島みどり訳注、東洋文庫版を参照した。また、出典の特定には、以下のサイトを参照した。
永一直人氏による、晋書巻九十六の翻訳とその注
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/shinjyo96.html
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/note.html
(三)劉向『列女伝』貞女伝に、斉孝孟姫篇があり、「孟姫とは華氏の長女で、斉の孝公の婦人である」と始まる。傅(守り役)を引き連れて外出したが、馬車が壊れて、外に投げ出された。身を(夫以外にものに)さらしたことが礼に反するとして、自ら首を括ろうとした。「経」は、首をくくるという動詞。『列女伝』では、「自絰」につくる。
(四)劉向『列女伝』賢明 楚荘樊姫に、「樊姫は楚の荘王の夫人である。荘王は即位した当初、狩猟を好んだ。樊姫が諫めたが、やめない。そこで樊姫は、禽獣の肉を食べぬことにした。荘王は過ちを改めて政治に励んだ」とある。これ以外にも樊姫が助言したおかげで、孫叔敖を令尹(宰相)に迎えることになり、荘王は覇者になることができた。
(五)劉向『列女伝』母儀 魯季敬姜篇に、魯季敬姜は、莒の娘である。戴己(たいき)とよばれ、魯の大夫の公父穆伯の妻で、文伯の母であり、季康子の従祖叔母(大叔母、祖父の弟の妻)である。子の文伯が、友人に剣を捧げ持たせて、いかにも一人前といった偉そうな様子であったので、これを叱りつけて謙遜を教えた。
(六)劉向『列女伝』母儀 楚子発母に、楚の将軍である子発の母の逸話がある。子発は、士卒には菽(まめ)を分け与えて食わせていた。将軍である子発自身は、豚肉とこめを食べていた。これを聞いた母は、これでは士卒に死力を尽くさせることができないとして、子発を叱って家から締め出した。
(七)『後漢書』列伝七十四 列女伝に、「勃海鮑宣妻者、桓氏之女也、字少君……」とある。生家が裕福であるが、嫁ぎ先が貧賤であったが、嫁ぎ先に合わせて礼を簡素にした。倹約を重んじ、夫の顔を立てたという逸話か。
(八)『後漢書』列伝七十三 逸民 梁鴻伝に、「乃共入霸陵山中、以耕織為業、詠詩書、彈琴以自娛」とあり、隠者である夫にしたがって、その妻も質素に暮らすことを受け入れた。やはり倹約を重んじ、夫の顔を立てたという逸話か。


子政緝之於前、元凱編之於後。具宣閨範、有裨陰訓。故上從泰始、下迄恭安、一操可稱、一藝可紀、咸皆撰錄、為之傳云。或位極后妃、或事因夫子、各隨本傳、今所不錄。在諸偽國、暫阻王猷、天下之善、足以懲勸、亦同搜次、附於篇末。

子政 之を前に緝(あつ)め、元凱 之を後に編む。具さに閨範を宣(の)べ、陰訓を裨(おぎな)ふもの有り。故に上は泰始より、下は恭安に迄(いた)るまで、一操の稱す可く、一藝の紀す可きあらば、咸皆(みな)撰錄し、之を為(つく)りて傳云す。或は位 后妃を極め、或は事 夫子に因るは、各々本傳に隨へ、今 錄せざる所なり。諸々の偽國に在りて、暫く王猷に阻(へだ)たれども、天下の善にして、以て懲勸するに足れば、亦た同(とも)に搜次して、篇末に附す。210101

羊耽妻辛氏

羊耽妻辛氏、字憲英、隴西人、魏侍中毗之女也。聰朗有才鑒。初、魏文帝得立為太子、抱毗項謂之曰、辛君知我喜不。毗以告憲英、憲英歎曰、太子、代君主宗廟・社稷者也。代君不可以不戚、主國不可以不懼。宜戚而喜。何以能久。魏其不昌乎。

羊耽の妻 辛氏、字は憲英、隴西の人、魏の侍中たる毗の女なり。聰朗にして才鑒有り。初め、魏の文帝 立ちて太子と為るを得るや、毗の項を抱き之に謂ひて曰く、「辛君 我が喜を知るや不(いな)や」と。毗 以て憲英に告ぐるに、憲英 歎じて曰く、「太子は、君に代りて宗廟・社稷を主(つかさど)る者なり。君に代れば以て戚(うれ)ひざる可からず、國を主れば以て懼れざる可からず。宜しく戚ふべきも喜ぶ。何ぞ以て能く久しからん。魏 其れ昌(さか)えざるか」と。

弟敞為大將軍曹爽參軍。宣帝將誅爽、因其從魏帝出而閉城門。爽司馬魯芝率府兵斬關赴爽、呼敞同去。敞懼、問憲英曰、天子在外、太傅閉城門、人云將不利國家、於事可得爾乎。憲英曰、事有不可知。然以吾度之、太傅殆不得不爾。明皇帝臨崩、把太傅臂、屬以後事。此言猶在朝士之耳。且曹爽與太傅俱受寄託之任、而獨專權勢、於王室不忠、於人道不直。此舉不過以誅爽耳。敞曰、然則敞無出乎。憲英曰、安可以不出。職守、人之大義也。凡人在難、猶或恤之。為人執鞭而棄其事、不祥也。且為人任、為人死、親昵之職也、汝從眾而已。敞遂出。宣帝果誅爽。事定後、敞歎曰、吾不謀於姊、幾不獲於義。

弟の敞 大將軍の曹爽の參軍と為る。宣帝 將に爽を誅せんとするに、其の魏帝に從ひて出づるに因りて城門を閉づ。爽の司馬の魯芝 府兵を率ゐて關を斬りて爽に赴くに、敞を呼びて同に去らしめんとす。敞 懼れ、憲英に問ひて曰く、「天子 外に在るも、太傅 城門を閉づ、人 將に國家に利せざらんと云ふ、事に於て爾(しか)ることを得(う)可きか」と。憲英曰く、「事 知らざる可からざる有り。然るに吾を以て之を度(はか)るに、太傅 殆ど爾(しか)らざることを得ず。明皇帝 崩に臨むや、太傅の臂を把り、屬するに後事を以てす。此の言 猶ほ朝士の耳に在り。且つ曹爽 太傅と與に俱に寄託の任を受くるも、而れども獨り權勢を專らにし、王室に於ては忠ならず、人道に於ては直ならず。此舉 爽を誅するを以て過ぎざるのみ」と。敞曰く、「然らば則ち敞 出づること無からんか」と。憲英曰く、「安(いづくん)ぞ以て出でざる可けん。職を守るは、人の大義なり。凡そ人 難に在るとも、猶ほ或は之を恤(あはれ)む。人の執鞭と為りて其の事を棄つるは、不祥なり。且つ人の為に任ぜられ、人の為に死するは、親昵の職なり、汝は眾に從ふのみ」と。敞 遂に出づ。宣帝 果して爽を誅す。事 定まりし後、敞 歎じて曰く、「吾 姊に謀らざれば、幾ど義を獲ざらん」と。

其後鍾會為鎮西將軍、憲英謂耽從子祜曰、鍾士季何故西出。祜曰、將為滅蜀也。憲英曰、會在事縱恣、非持久處下之道。吾畏其有他志也。及會將行、請其子琇為參軍、憲英憂曰、他日吾為國憂。今日難至吾家矣。琇固請於文帝、帝不聽。憲英謂琇曰、行矣、戒之。古之君子入則致孝於親、出則致節於國。在職思其所司、在義思其所立。不遺父母憂患而已。軍旅之間可以濟者、其惟仁恕乎。會至蜀果反、琇竟以全歸。祜嘗送錦被、憲英嫌其華、反而覆之。其明鑒儉約如此。泰始五年卒、年七十九。

其の後 鍾會 鎮西將軍と為るや、憲英 耽の從子の祜に謂ひて曰く、「鍾士季 何の故に西出する」と。祜曰く、「將に蜀を滅するが為ならんや」と。憲英曰く、「會 事に在りては縱恣にして、處下の道を持久するものに非ず。吾 其の他志有るを畏るるなり」と。會の將に行かんとするに及び、其の子の琇もて參軍と為すことを請ふに、憲英 憂ひて曰く、「他日 吾 國の為に憂ふ。今日 難 吾が家に至らん」と。琇 固く文帝に請ふも、帝 聽(ゆる)さず。憲英 琇に謂ひて曰く、「行くに、之を戒めよ。古の君子 入(い)れば則ち孝を親に致し、出づれば則ち節を國に致す。職に在りては其の司る所を思ひ、義に在りて其の立つる所を思へ。父母をして憂患せしめざるのみ。軍旅の間 以て濟す可き者は、其れ惟だ仁恕なるのみならんか」と。會 蜀に至るに果して反し、琇 竟に以て全歸す。祜 嘗て錦被を送るに、憲英 其の華なるを嫌ひ、反して之を覆す。其の明鑒にして儉約なること此の如し。泰始五年 卒す、年七十九なり。

杜有道妻嚴氏

杜有道妻嚴氏、字憲、京兆人也。貞淑有識量。年十三、適於杜氏、十八而嫠居。子植・女韡並孤藐、憲雖少、誓不改節、撫育二子、教以禮度、植遂顯名於時、韡亦有淑德。傅玄求為繼室、憲便許之。時玄與何晏・鄧颺不穆、晏等每欲害之、時人莫肯共婚。及憲許玄、內外以為憂懼。或曰、何・鄧執權、必為玄害。亦由排山壓卵、以湯沃雪耳、柰何與之為親。憲曰、爾知其一、不知其他。晏等驕侈、必當自敗、司馬太傅獸睡耳。吾恐卵破雪銷、行自有在。遂與玄為婚。晏等尋亦為宣帝所誅。植後為南安太守。

杜有道の妻の嚴氏、字は憲、京兆の人なり。貞淑にして識量有り。年十三にして、杜氏に適(ゆ)き、十八にして嫠居す。子の植・女の韡 並びに孤藐なり、憲 少なると雖も、誓ひて節を改めず、二子を撫育し、教ふるに禮度を以てし、植 遂に名を時に顯はし、韡 亦た淑德有り。傅玄 繼室と為すことを求め、憲 便ち之を許す。時に玄 何晏・鄧颺と穆ならず、晏ら每に之を害せんと欲し、時人 肯(あへ)て共に婚するもの莫し。憲 玄に許すに及び、內外 以て憂懼を為す。或曰く、「何・鄧 權を執り、必ず玄に害を為す。亦た由ほ山を排して卵を壓し、湯を以て雪に沃(そそ)ぐがごときのみ、柰何ぞ之と親と為るや」と。憲曰く、「爾 其の一を知りて、其の他を知らず。晏ら驕侈にして、必ず當に自ら敗るべし、司馬太傅 獸睡するのみ。吾 卵は破れ雪は銷くるを恐れ、行々は自ら在ること有らん」と。遂に玄と婚を為す。晏ら尋いで亦た宣帝の誅する所と為る。植 後に南安太守と為る。

植從兄預為秦州刺史、被誣、徵還。憲與預書戒之曰、諺云、忍辱至三公。卿今可謂辱矣。能忍之、1.公是卿坐。預後果為儀同三司。玄前妻子咸年六歲、嘗隨其繼母省憲。謂咸曰、汝千里駒也、必當遠至。以其妹之女妻之。咸後亦有名於海內。其知人之鑒如此。年六十六卒。

1.『太平御覧』巻五百十三は、「公」の上に「三」の字があり、「三公」としている。
植の從兄の預 秦州刺史と為り、誣せられ、徵せられて還る。憲 預に書を與へて之を戒めて曰く、「諺に云ふ、辱を忍べば三公に至る。卿 今 辱と謂ふ可し。能く之を忍べば、公 是れ卿の坐なり」と。預 後に果して儀同三司と為る。玄の前妻の子たる咸 年六歲にして、嘗て其の繼母に隨ひて憲に省す。咸に謂ひて曰く、「汝は千里の駒なり、必ず當に遠く至るべし」と。其の妹の女を以て之に妻(めあは)す。咸 後に亦た海內に名有り。其の知人の鑒 此の如し。年 六十六にして卒す。

王渾妻鍾氏

王渾妻鍾氏、字琰、潁川人、魏太傅繇曾孫也。父徽、黃門郎。琰數歲能屬文、及長、聰慧弘雅、博覽記籍。美容止、善嘯詠、禮儀・法度為中表所則。既適渾、生濟。渾嘗共琰坐、濟趨庭而過。渾欣然曰、生子如此、足慰人心。琰笑曰、若使新婦得配參軍生子、故不翅如此。參軍、謂渾中弟淪也。琰女亦有才淑、為求賢夫。時有兵家子甚俊、濟欲妻之、白琰。琰曰、要令我見之。濟令此兵與羣小雜處、琰自幃中察之、既而謂濟曰、緋衣者非汝所拔乎。濟曰、是。琰曰、此人才足拔萃、然地寒壽促、不足展其器用、不可與婚。遂止。其人數年果亡。琰明鑒遠識、皆此類也。

王渾の妻の鍾氏、字は琰、潁川の人にして、魏の太傅の繇の曾孫なり。父の徽、黃門郎なり。琰 數歲にして能く文を屬し、長なるに及び、聰慧にして弘雅、博く記籍を覽ず。容止美しく、嘯詠に善く、禮儀・法度 中表の則る所と為る。既に渾に適きて、濟を生む。渾 嘗て琰と共に坐し、濟 庭に趨りて過る。渾 欣然として曰く、「子を生みて此の如し、人心を慰するに足る」と。琰 笑ひて曰く、「若し新婦をして參軍に配し、子を生むことを得しめば、故(もと)に翅々(ただ)此の如くのみならず」と。參軍は、渾の中弟の淪を謂ふなり。琰の女 亦た才淑有り、為に賢夫を求む。時に兵家の子有りて甚だ俊なり、濟 之に妻はさんと欲し、琰に白す。琰曰く、「我をして之に見せしめんと要す」と。濟 此の兵をして羣小と與に雜處せしめ、琰 幃中より之を察し、既にして濟に謂ひて曰く、「緋衣なる者 汝の拔く所に非ざるか」と。濟曰く、「是なり」と。琰曰く、「此の人 才は拔萃に足る、然れども地は寒く壽は促(みじか)し、其の器用を展ぶるに足らず、與に婚す可からず」と。遂に止む。其の人 數年にして果して亡す。琰の明鑒遠識、皆 此の類なり。

渾弟湛妻郝氏亦有德行、琰雖貴門、與郝雅相親重、郝不以賤下琰、琰不以貴陵郝、時人稱鍾夫人之禮、郝夫人之法云。

渾の弟の湛の妻たる郝氏 亦た德行有り、琰 貴門と雖も、郝と與に雅より相 親重す、郝は賤なるを以て琰に下らず、琰は貴なるを以て郝を陵(あなど)らず、時人 鍾夫人の禮、郝夫人の法と稱ふと云ふ。210101

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列女伝(二)西晋(下)

鄭袤妻曹氏

鄭袤妻曹氏、魯國薛人也。袤先娶孫氏、早亡、娉之為繼室。事舅姑甚孝、躬紡績之勤、以充奉養。至於叔妹・羣娣之間、盡其禮節、咸得歡心。及袤為司空、其子默等又顯朝列、時人稱其榮貴。曹氏深懼盛滿、每默等升進、輒憂之形於聲色。然食無重味、服浣濯之衣。袤等所獲祿秩、曹氏必班散親姻、務令周給、家無餘貲。

鄭袤の妻の曹氏、魯國の薛の人なり。袤 先に孫氏を娶り、早く亡し、之を娉(めと)りて繼室と為る。舅姑に事ふること甚だ孝なり、紡績の勤を躬(みづか)らして、以て奉養に充(あ)つ。叔妹・羣娣の間に至りては、其の禮節を盡し、咸 歡心を得たり。袤 司空と為るに及び、其の子の默ら又 朝列に顯たり、時人 其の榮貴を稱す。曹氏 深く盛滿なるを懼れ、默らの升進する每(ごと)に、輒ち之を憂ひて聲色に形(あら)はす。然して食は味を重ぬること無く、浣濯の衣を服す。袤らの獲る所の祿秩、曹氏 必ず班(わか)ちて親姻に散じ、務めて周給に令し、家に餘貲無し。

初、孫氏瘞於黎陽、及袤薨、議者以久喪難舉、欲不合葬。曹氏曰、孫氏元妃、理當從葬、1.(不)〔何〕可使孤魂無所依邪。於是備吉凶導從之儀以迎之、具衣衾几筵、親執雁行之禮。聞者莫不歎息、以為趙姬之下叔隗、不足稱也。太康元年卒、年八十三。

1.中華書局本に従い、「不」を「何」に改める。
初め、孫氏 黎陽に瘞(うづ)め、袤 薨ずるに及び、議者 久しくして喪をば舉し難きを以て、合葬せざらんと欲す。曹氏曰く、「孫氏は元妃なり、理は當に從葬すべし、何ぞ魂を孤にして依る所無からしむ可きや」と。是に於て吉凶導從の儀を備へて以て之を迎へ、衣衾几筵を具へ、親ら雁行の禮を執る。聞く者 歎息せざる莫く、以為へらく趙姬の叔隗に下るも、稱するに足らざるなりと。太康元年 卒し、年八十三なり。

愍懷太子妃王氏

愍懷太子妃王氏、太尉衍女也、字惠風。貞婉有志節。太子既廢居於金墉、衍請絕婚。惠風號哭而歸、行路為之流涕。及劉曜陷洛陽、以惠風賜其將喬屬、屬將妻之。惠風拔劍距屬曰、吾太尉公女、皇太子妃。義不為逆胡所辱。屬遂害之。

愍懷太子の妃の王氏、太尉の衍の女にして、字は惠風なり。貞婉にして志節有り。太子 既に廢せられて金墉に居するや、衍 婚を絕つことを請ふ。惠風 號哭して歸り、行路 之の為に流涕す。劉曜 洛陽を陷するに及び、惠風を以て其の將の喬屬に賜ひ、屬 將に之を妻とせんとす。惠風 劍を拔き屬を距みて曰く、「吾 太尉公の女、皇太子の妃なり。義に逆胡の辱むる所と為らず」と。屬 遂に之を害す。

鄭休妻石氏

鄭休妻石氏、不知何許人也。少有德操、年十餘歲、鄉邑稱之。既歸鄭氏、為九族所重。休前妻女既幼、又休父布臨終、有庶子沈生。命棄之。石氏曰、柰何使舅之胤不存乎。遂養沈及前妻女。力不兼舉、九年之中、三不舉子。

鄭休の妻の石氏、何許(いづこ)の人なるやを知らず。少くして德操有り、年十餘歲にして、鄉邑 之を稱ふ。既に鄭氏に歸(とつ)ぐや、九族の重ずる所と為る。休の前妻の女 既(みな)幼く、又 休の父の布 終に臨み、庶子の沈 生むもの有り。之を棄つることを命ず。石氏曰く、「何ぞ舅の胤をして存せざらしむや」と。遂に沈及(と)前妻の女を養ふ。力(つと)めて兼舉せず、九年の中、三たび子を舉げず。

擧子=子を生む、子を育てる。


陶侃母湛氏

陶侃母湛氏、豫章新淦人也。初、侃父丹娉為妾、生侃、而陶氏貧賤、湛氏每紡績資給之、使交結勝己。侃少為尋陽縣吏、嘗監魚梁、以一坩鮓遺母。湛氏封鮓及書、責侃曰、爾為吏、以官物遺我。非惟不能益吾、乃以增吾憂矣。鄱陽孝廉范逵寓宿於侃。時大雪、湛氏乃徹所臥新薦、自剉給其馬、又密截髮賣與鄰人、供肴饌。逵聞之、歎息曰、「非此母不生此子。」侃竟以功名顯。

陶侃の母の湛氏、豫章の新淦の人なり。初め、侃の父の丹 娉して妾と為し、侃を生むに、而れども陶氏 貧賤にして、湛氏 每に紡績して之を資給し、己に勝れるに交結せしむ。侃 少きとき尋陽縣吏と為るに、嘗て魚梁を監し、一坩の鮓を以て母に遺(をく)る。湛氏 鮓及び書を封じて、侃を責めて曰く、「爾(なんぢ)吏と為りて、官物を以て我に遺る。惟だ吾を益すこと能はざるのみに非ず、乃ち以て吾が憂を增す」と。鄱陽の孝廉の范逵 侃に寓宿す。時に大いに雪(ゆきふ)るに、湛氏 乃ち臥する所の新薦を徹(くず)し、自ら剉(き)りて其の馬を給し、又 密かに髮を截ちて鄰人に賣り、肴饌を供す。逵 之を聞き、歎息して曰く、「此の母に非ずんば此の子を生まず」と。侃 竟に功名を以て顯はる。

賈渾妻宗氏

賈渾妻宗氏、不知何許人也。渾為介休令、被劉元海將喬晞攻破、死之。宗氏有姿色、晞欲納之。宗氏罵曰、屠各奴。豈有害人之夫而欲加無禮、於爾安乎。何不促殺我。因仰天大哭。晞遂害之、時年二十餘。

賈渾の妻の宗氏、何許の人なるやを知らず。渾 介休令と為るに、劉元海の將の喬晞に攻破せられ、之に死す。宗氏 姿色有り、晞 之を納れんと欲す。宗氏 罵りて曰く、「屠各奴。豈に人の夫を害して無禮を加へんと欲すること有らんや、爾に於て安にや。何ぞ促(すみ)やかに我を殺さざるか」と。因りて天を仰ぎて大哭す。晞 遂に之を害す、時に年二十餘なり。

梁緯妻辛氏

梁緯妻辛氏、隴西狄道人也。緯為散騎常侍、西都陷沒、為劉曜所害。辛氏有殊色、曜將妻之。辛氏據地大哭、仰謂曜曰、妾聞、男以義烈、女不再醮。妾夫已死、理無獨全。且婦人再辱、明公亦安用哉。乞即就死、下事舅姑。遂號哭不止。曜曰、貞婦也、任之。乃自縊而死。曜以禮葬之。

梁緯の妻の辛氏、隴西の狄道の人なり。緯 散騎常侍と為るに、西都 陷沒し、劉曜の害する所と為る。辛氏 殊色有り、曜 將に之を妻とせんとす。辛氏 地に據りて大いに哭し、仰ぎて曜に謂ひて曰く、「妾 聞くに、男は義烈を以てし、女は再醮せず。妾の夫 已に死す、理に獨り全(まつた)うすること無し。且つ婦人もて再び辱め、明公 亦た安にか用ひんか。即ち死に就きて、下に舅姑に事へんことを乞ふ」と。遂に號哭して止まず。曜曰く、「貞婦なり、之に任(まか)す」と。乃ち自縊して死す。曜 禮を以て之を葬る。

醮:とつぐ


許延妻杜氏

許延妻杜氏、不知何許人也。延為益州別駕、為李驤所害。驤欲納杜氏為妻、杜氏號哭守夫尸、罵驤曰、「汝輩逆賊無道、死有先後、寧當久活。我杜家女、豈為賊妻也。」驤怒、遂害之。

許延の妻の杜氏、何許の人なるやを知らず。延 益州別駕と為り、李驤の害する所と為る。驤 杜氏を納れて妻と為さんと欲し、杜氏 號哭して夫の尸を守り、驤を罵りて曰く、「汝輩 逆賊 無道なり、死に先後有り、寧ぞ當に久活すべき。我 杜家の女なり、豈に賊の妻と為らんや」と。驤 怒り、遂に之を害す。210101

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列女伝(三)東晋(上)

ふんわりとした括りですが、ここからが東晋の女性。

虞潭母孫氏

虞潭母孫氏、吳郡富春人、孫權族孫女也。初適潭父忠、恭順貞和、甚有婦德。及忠亡、遺孤藐爾、孫氏雖少、誓不改節、躬自撫養、劬勞備至。性聰敏、識鑒過人。潭始自幼童、便訓之忠義、故得聲望允洽、為朝廷所稱。

虞潭の母の孫氏、吳郡の富春の人なり、孫權の族孫の女なり。初め潭の父の忠に適き、恭順にして貞和なり、甚だ婦德有り。忠 亡するに及び、遺孤にして藐爾たり、孫氏 少しと雖も、誓ひて節を改めず、躬ら自ら撫養し、劬勞 備至なり。性は聰敏にして、識鑒 人に過ぐ。潭 始め幼童より、便ち之に訓ふるに忠義もてし、故に聲望を得て允(まこと)に洽(あまね)く、朝廷の稱ふる所と為る。

永嘉末、潭為南康太守、值杜弢構逆、率眾討之。孫氏勉潭以必死之義、俱傾其資產以餽戰士、潭遂克捷。
及蘇峻作亂、潭時守吳興、又假節征峻。孫氏戒之曰、吾聞忠臣出孝子之門、汝當捨生取義。勿以吾老為累也。乃盡發其家僮、令隨潭助戰、貿其所服環珮以為軍資。於時會稽內史王舒遣子允之為督護。孫氏又謂潭曰、王府君遣兒征、汝何為獨不。潭即以子楚為督護、與允之合勢。其憂國之誠如此。拜武昌侯太夫人、加金章紫綬。潭立養堂於家、王導以下皆就拜謁。咸和末卒、年九十五。成帝遣使弔祭、諡曰定夫人。

永嘉の末に、潭 南康太守と為り、杜弢の逆を構すに值ひ、眾を率ゐて之を討つ。孫氏 潭を勉(はげ)ますに必死の義を以てし、俱に其の資產を傾けて以て戰士に餽(おく)り、潭 遂に克く捷つ。
蘇峻 亂を作すに及び、潭 時に吳興に守たり、又 假節もて峻を征す。孫氏 之を戒めて曰く、「吾 聞くに忠臣 孝子の門を出づ、汝 當に生を捨て義を取るべし。吾が老を以て累と為すこと勿かれ」と。乃ち盡く其の家僮を發し、潭に隨ひ戰を助はしめ、其の服する所の環珮を貿(か)へて以て軍資と為す。時に於て會稽內史の王舒 子の允之を遣はして督護と為す。孫氏 又 潭に謂ひて曰く、「王府君 兒をして征かしむ、汝 何為れぞ獨り不(せざ)らん」と。潭 即ち子の楚を以て督護と為し、允之と與に勢を合す。其の憂國の誠 此の如し。武昌侯太夫人を拜し、金章紫綬を加へらる。潭 養堂を家に立て、王導以下 皆 就て拜謁す。咸和末に卒し、年九十五なり。成帝 使を遣はして弔祭し、諡して定夫人と曰ふ。

周顗母李氏

周顗母李氏、字絡秀、汝南人也。少時在室、顗父浚為安東將軍、時嘗出獵、遇雨、過止絡秀之家。會其父兄不在、絡秀聞浚至、與一婢於內宰猪羊、具數十人之饌。甚精辦而不聞人聲。浚怪使覘之、獨見一女子甚美、浚因求為妾。其父兄不許、絡秀曰、門戶殄瘁、何惜一女。若連姻貴族、將來庶有大益矣。父兄許之。遂生顗及嵩・謨。而顗等既長、絡秀謂之曰、我屈節為汝家作妾、門戶計耳。汝不與我家為親親者、吾亦何惜餘年。顗等從命、由此李氏遂得為方雅之族。

周顗の母の李氏、字は絡秀、汝南の人なり。少き時 室に在り、顗の父の浚 安東將軍と為り、時に嘗て獵に出で、雨に遇ひ、絡秀の家に過止す。會々其の父兄 在らず、絡秀 浚の至るを聞き、一婢と與に內に於て猪羊を宰し、數十人の饌を具ふ。甚だ精辦にして人聲を聞かず。浚 怪みて之を覘はしめ、獨り一女子の甚だ美なるを見、浚 因りて求めて妾と為す。其の父兄 許さざるに、絡秀曰く、「門戶 殄瘁たり、何ぞ一女を惜める。若し姻を貴族に連ぬれば、將來 庶くは大益有らん」と。父兄 之を許す。遂に顗及(と)嵩・謨を生む。而して顗ら既に長ずるに、絡秀 之に謂ひて曰く、「我 節を屈して汝の家の為に妾と作るは、門戶の計なるのみ。汝 我が家と與に親親為(た)らざれば、吾 亦た何ぞ餘年を惜まん」と。顗ら命に從ひ、此に由り李氏 遂に方雅の族と為ることを得たり。

中興時、顗等並列顯位。嘗冬至置酒、絡秀舉觴賜三子曰、吾本渡江、託足無所。不謂、爾等並貴、列吾目前。吾復何憂。嵩起曰、恐不如尊旨。伯仁志大而才短、名重而識闇。好乘人之弊、此非自全之道。嵩性抗直、亦不容於世。唯阿奴碌碌、當在阿母目下耳。阿奴、謨小字也。後果如其言。

中興の時、顗ら並びに顯位に列す。嘗て冬至に置酒し、絡秀 觴を舉げ三子に賜ひて曰く、「吾 本は江を渡るとき、託足するに所無し。謂(おも)はざりき、爾(なんぢ)ら並びに貴く、吾が目前に列す、吾 復た何をか憂はん」と。

託足:あしをとめる、寄留する、かり住居とする。

嵩 起ちて曰く、「恐らくは尊旨が如くならず。伯仁 志は大なるとも才は短く、名は重けれども識は闇(くら)し。人の弊に乘ずるを好み、此 自全の道に非ず。嵩 性は抗直にして、亦た世に容れず。唯だ阿奴 碌碌として、當に阿母の目下に在るべきのみ」と。阿奴は、謨の小字なり。後に果して其の言が如し。

碌碌:平凡である、随従する。


張茂妻陸氏

張茂妻陸氏、吳郡人也。茂為吳郡太守、被沈充所害、陸氏傾家產、率茂部曲為先登以討充。充敗、陸詣闕上書、為茂謝不克之責。詔曰、茂夫妻忠誠、舉門義烈。宜追贈茂太僕。

張茂の妻 陸氏、吳郡の人なり。茂 吳郡太守と為り、沈充に害せられ、陸氏 家產を傾け、茂の部曲を率ゐて先登と為りて以て充を討つ。充 敗れ、陸 闕に詣りて上書し、茂の為に不克の責を謝す。詔して曰く、「茂の夫妻 忠誠にして、門を舉げて義烈なり。宜しく茂に太僕を追贈せよ」と。

尹虞二女

尹虞二女、長沙人也。虞前任始興太守、起兵討杜弢。戰敗、二女為弢所獲。並有國色、弢將妻之。女曰、我父二千石、終不能為賊婦、有死而已。弢並害之。

尹虞の二女、長沙の人なり。虞 前に始興太守に任ぜられ、兵を起して杜弢を討つ。戰ひて敗れ、二女 弢の獲ふる所と為る。並びに國色有り、弢 將に之を妻とせんとす。女曰く、「我が父 二千石なり、終に賊の婦と為ること能はず、死有るのみ」と。弢 並びに之を害す。

荀崧小女灌

荀崧小女灌、幼有奇節。崧為襄城太守、為杜曾所圍。力弱食盡、欲求救於故吏平南將軍石覽、計無從出。灌時年十三、乃率勇士數十人、踰城突圍、夜出。賊追甚急、灌督厲將士、且戰且前、得入魯陽山獲免。自詣覽乞師、又為崧書與南中郎將周訪請援、仍結為兄弟。訪即遣子撫率三千人、會石覽俱救崧。賊聞兵至、散走。灌之力也。

荀崧の小女の灌、幼くして奇節有り。崧 襄城太守と為るに、杜曾の圍む所と為る。力は弱く食は盡き、救を故吏の平南將軍の石覽に求めんと欲するとも、計 從りて出づる無し。灌 時に年十三にして、乃ち勇士數十人を率ゐ、城を踰えて圍を突し、夜に出づ。賊 追ふこと甚だ急なり、灌 將士を督厲し、且つ戰ひ且つ前(すす)み、魯陽山に入りて免るるを得たり。自ら詣覽して師を乞ひ、又 崧の書を為(つく)りて南中郎將の周訪に與へて援を請ひ、仍りて結びて兄弟と為る。訪 即ち子の撫を遣はして三千人を率ゐしめ、石覽に會して俱に崧を救ふ。賊 兵の至るを聞き、散走す。灌の力なり。210101

本文と関係ないですけど、並行して思ったこと。2021年の抱負。
今年(2021年)作りたい本。正史などの訳注本の使い方(『三国志独学ガイド』2の位置づけ)。一般から見ると、訳注本というのは、複雑で情報過多&意味不明です。ですが、載っているのは、全部が必要なプロセスです。むしろ、ギリギリまで刈り込んでいます。
古典の翻訳とは何か?、何が大切で何が難しいのか?外から見るとサッパリ分からないと思うので、『三国志』などの具体的な題材をとり、解説をしたいです。
この本では、古典読解の難しさをアピールしたいのではなく、「こういう手順を、専門家が先に済ませてくれているから、訳注本は役に立つのかも。自分の知識を補い、時間を節約してくれるものなのだ」と、伝わればと思います。訳注本を、過剰にありがたがる必要もありませんが、無理解&侮られすぎもツラいっす。

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列女伝(四)東晋(下)

王凝之妻謝氏

王凝之妻謝氏、字道韞、安西將軍奕之女也。聰識有才辯。叔父安嘗問、毛詩何句最佳。道韞稱、吉甫作頌、穆如清風。仲山甫永懷、以慰其心。安謂有雅人深致。又嘗內集、俄而雪驟下、安曰、何所似也。安兄子朗曰、散鹽空中、差可擬。道韞曰、未若柳絮因風起。安大悅。

王凝之の妻の謝氏、字は道韞、安西將軍の奕の女なり。聰識にして才辯有り。叔父の安 嘗て問ふらく、「毛詩 何(いづ)れの句 最も佳なる」と。道韞 稱すらく、「吉甫 頌を作る、穆たること清風の如し。仲山甫 永く懷ふ、以て其の心を慰む」と。安 雅人の深致有りと謂ふ。又 嘗て內集し、俄かにして雪 驟下するに、安曰く、「何の似たる所なるや」と。安の兄の子の朗曰く、「鹽を空中に散ず、差々(やや)擬ふ可し」と。道韞曰く、「未だ柳絮の風に因りて起るが若くならず」と。安 大いに悅ぶ。

初適凝之、還、甚不樂。安曰、王郎、逸少子、不惡。汝何恨也。答曰、一門叔父則有阿大・中郎、羣從兄弟復有封・胡・羯・末。不意天壤之中、乃有王郎。封謂謝1.(歆)〔韶〕、胡謂謝朗、羯謂謝玄、末謂謝川、皆其小字也。又嘗譏玄學植不進、曰、「為塵務經心、為天分有限邪。」凝之弟獻之嘗與賓客談議、詞理將屈。道韞遣婢白獻之曰、欲為小郎解圍。乃施青綾步鄣自蔽、申獻之前議。客不能屈。

1.中華書局本に従い、「歆」を「韶」に改める。
初め凝之に適き、還るに、甚だ樂まず。安曰く、「王郎は、逸少の子なり、惡からず。汝 何をか恨むるや」と。答へて曰く、「一門の叔父には則ち阿大・中郎有り、羣從の兄弟には復た封・胡・羯・末有り。意(おも)はざりき天壤の中、乃ち王郎有りしとは」と。封は謝韶を謂ひ、胡は謝朗を謂ひ、羯は謝玄を謂ひ、末は謝川を謂ひ、皆 其の小字なり。又 嘗て玄の學植 進まざるを譏りて、曰く、「為(は)た塵務 心に經(つね)なるか、為た天分 限(かぎり)有るか」と。凝之の弟の獻之 嘗て賓客と與に談議し、詞理 將に屈せんとす。道韞 婢を遣はして獻之に白して曰く、「小郎の為に圍を解かんと欲す」と。乃ち青綾の步鄣を施して自ら蔽ひ、獻之の前議を申す。客 屈せしむること能はず。

步障:竹をたて幕を張ったかこい。塵や土を遮蔽する。


及遭孫恩之難、舉厝自若。既聞夫及諸子已為賊所害、方命婢肩輿、抽刃出門、亂兵稍至、手殺數人、乃被虜。其外孫劉濤時年數歲、賊又欲害之。道韞曰、事在王門、何關他族。必其如此、寧先見殺。恩雖毒虐、為之改容、乃不害濤。
自爾嫠居會稽、家中莫不嚴肅。太守劉柳聞其名、請與談議。道韞素知柳名、亦不自阻、乃簪髻素褥坐於帳中、柳束脩整帶造於別榻。道韞風韵高邁、敘致清雅。先及家事、慷慨流漣、徐酬問旨、詞理無滯。柳退而歎曰、實頃所未見、瞻察言氣、使人心形俱服。道韞亦云、親從凋亡、始遇此士。聽其所問、殊開人胸府。

孫恩の難に遭ふに及ぶも、舉厝 自若たり。既に夫及(と)諸子 已に賊の害する所と為るを聞くに、方に婢に命じて輿を肩にし、刃を抽きて門を出で、亂兵 稍く至るに、手づから數人を殺し、乃ち虜はる。其の外孫の劉濤 時に年 數歲にして、賊 又 之を害さんと欲す。道韞曰く、「事は王門に在り、何ぞ他族に關はらん。必ず其れ此の如くんば、寧ろ先に殺を見よ」と。恩 毒虐なると雖も、之の為に容を改め、乃ち濤を害さず。
爾(これ)より會稽に嫠居し、家中 嚴肅たらざる莫し。太守の劉柳 其の名を聞き、與に談議することを請ふ。道韞 素より柳の名を知り、亦た自ら阻まず、乃ち簪髻素褥にして帳中に坐し、柳 束脩整帶にして別榻に造(いた)る。道韞 風韵は高邁、敘致は清雅なり。先ず家事に及び、慷慨し流漣し、徐ろに問旨に酬(こた)へ、詞理 滯ること無し。柳 退きて歎じて曰く、「實に頃(このごろ)未だ見ざる所、言氣を瞻察すれば、人の心形をして俱に服せしむ」と。道韞 亦た云ふ、「親從 凋亡し、始めて此の士に遇ふ。其の問ふ所を聽くに、殊に人の胸府を開く」と。

初、同郡張玄妹亦有才質、適於顧氏、玄每稱之、以敵道韞。有濟尼者、游於二家、或問之。濟尼答曰、王夫人神情散朗、故有林下風氣。顧家婦清心玉映、自是閨房之秀。道韞所著詩賦誄頌並傳於世。

初め、同郡の張玄の妹 亦た才質有り、顧氏に適き、玄 每に之を稱へ、以て道韞に敵すとす。濟尼なる者有り、二家に游び、或ひと之に問ふ。濟尼 答へて曰く、「王夫人 神情は散朗なり、故に林下の風氣有り。顧家の婦 清心は玉映、是より閨房の秀なり」と。道韞の著す所の詩賦誄頌 並びに世に傳はる。

劉臻妻陳氏

劉臻妻陳氏者、亦聰辯能屬文。嘗正旦獻椒花頌、其詞曰、「旋穹周迴、三朝肇建。青陽散輝、澄景載煥。標美靈葩、爰採爰獻。聖容映之、永壽於萬。」又撰元日及冬至進見之儀、行於世。

劉臻の妻の陳氏なる者は、亦た聰辯にして能く文を屬す。嘗て正旦に椒花頌を獻ずるに、其の詞に曰く、「旋穹 周迴して、三朝 肇に建つ。青陽 散輝して、澄景 載ち煥く。美を靈葩に標し、爰に採し爰に獻ず。聖容 之に映し、永き壽 於(ここ)に萬ならん」と。又 元日及(と)冬至に進見の儀を撰し、世に行はる。

皮京妻龍氏

皮京妻龍氏、字憐、西道縣人也。年十三適京、未逾年而京卒。京二弟亦相次而隕。既無胤嗣、又無朞功之親。憐貨其嫁時資裝、躬自紡織、數年間三喪俱舉。葬斂既畢、每時享祭無闕。州里聞其賢、屢有娉者、憐誓不改醮、守節窮居五十餘載而卒。

皮京の妻の龍氏、字は憐、西道縣の人なり。年十三にして京に適くに、未だ年を逾えずして京 卒す。京の二弟 亦た相 次いで隕す。既にして胤嗣無く、又 朞功の親無し。憐 其の嫁ぎし時の資裝を貨(う)り、躬ら自ら紡織し、數年の間に三喪 俱に舉ぐ。葬斂 既に畢はり、每時の享祭 闕くこと無し。州里 其の賢なるを聞き、屢々娉す有者り、憐 誓ひて醮を改めず、節を守し窮居すること五十餘載にして卒す。

孟昶妻周氏

孟昶妻周氏、昶弟顗妻又其從妹也。二家並豐財產。初、桓玄雅重昶而劉邁毀之。昶知、深自惋失。及劉裕將建義、與昶定謀、昶欲盡散財物以供軍糧。其妻非常婦人、可語以大事。乃謂之曰、劉邁毀我於桓公、便是一生淪陷、決當作賊。卿幸可早爾離絕、脫得富貴、相迎不晚也。周氏曰、君父母在堂、欲建非常之謀、豈婦人所諫。事之不成、當於奚官中奉養大家、義無歸志也。昶愴然久之而起。周氏追昶坐、云、觀君舉厝、非謀及婦人者、不過欲得財物耳。時其所生女在抱、推而示之曰、此而可賣、亦當不惜、況資財乎。遂傾資產以給之、而託以他用。及事之將舉、周氏謂顗妻云、一昨夢殊不好、門內宜浣濯沐浴以除之。且不宜赤色、我當悉取作七日藏厭。」顗妻信之、所有絳色者悉斂以付焉。乃置帳中、潛自剔緜、以絳與昶。遂得數十人被服赫然。悉1.(孟)〔周〕氏所出、而家人不之知也。

1.中華書局本に従い、「孟」を「周」に改める。 孟昶の妻の周氏、昶が弟の顗の妻 又 其の從妹なり。二家 並びに財產に豐なり。初め、桓玄 雅より昶を重んずるに劉邁 之を毀す。昶 知り、深く自ら惋失す。劉裕 將に義を建てんとするに及び、昶と與に謀を定め、昶 盡く財物を散じて以て軍糧に供せんと欲す。其の妻 非常の婦人なれば、語るに大事を以てす可しとす。乃ち之に謂ひて曰く、「劉邁 我を桓公に毀(そし)る、便ち是れ一生の淪陷なり、決(かなら)ず當に賊と作るべし。卿 幸に早く爾(しか)く離絕す可し、脫(も)し富貴を得れば、相 迎ふること晚からざるなり」と。周氏曰く、「君の父母 堂に在り、非常の謀を建てんと欲す、豈に婦人の諫むる所ならん。事の成らずんば、當に奚官の中に於て大家を奉養すべし、義に歸志無きなり」と。昶 愴然とし久之(しばらくして)起つ。周氏 昶を追ひて坐らしめ、云はく、「君の舉厝を觀るに、謀は婦人に及ぶ者に非ず、財物を得んと欲するに過ぎざるのみ」と。時に其の所生の女 抱に在り、推して之を示して曰く、「此なるとも賣る可くんば、亦た當に惜むべからず、況んや資財をや」と。遂に資產を傾けて以て之に給し、而して託するに他用を以てす。事に將に舉せんとするに及び、周氏 顗の妻に謂ひて云はく、「一昨に夢みて殊に好ならず、門內に宜しく浣濯し沐浴して以て之を除くべし。且つ赤色宜(よ)からず、我 當に悉く取りて七日の藏厭を作すべし」と。顗の妻 之を信じ、有る所の絳色なる者 悉く斂めて以て焉に付す。乃ち帳中に置き、潛かに自ら剔緜し、絳を以て昶に與ふ。遂に數十人の被服 赫然たるを得たり。悉く周氏の出づる所にして、家人だも之を知らざるなり。

何無忌母劉氏

何無忌母劉氏、征虜將軍建之女也。少有志節。弟牢之為桓玄所害、劉氏每銜之、常思報復。及無忌與劉裕定謀、而劉氏察其舉厝有異、喜而不言。會無忌夜於屏風裏制檄文、劉氏潛以器覆燭、徐登橙於屏風上窺之。既知、泣而撫之曰、我不如東海呂母明矣。既孤其誠、常恐壽促。汝能如此、吾讐恥雪矣。因問其同謀、知事在裕、彌喜、乃說桓玄必敗、義師必成之理以勸勉之。後果如其言。

何無忌の母の劉氏、征虜將軍の建の女なり。少くして志節有り。弟の牢之 桓玄の害する所と為り、劉氏 每に之を銜み、常に報復せんことを思ふ。無忌 劉裕と與に謀を定むるに及び、而して劉氏 其の舉厝 異有るを察し、喜びて言はず。會々無忌 夜に屏風の裏に於て檄文を制するに、劉氏 潛かに器を以て燭を覆ひ、徐ろに橙に登りて屏風の上に於て之を窺ふ。既に知り、泣きて之を撫して曰く、「我 東海の呂母に如かざること明なり。既に其の誠に孤(そむ)き、常に壽の促ることを恐る。汝 能く此の如くす、吾が讐恥をば雪がん」と。因りて其の同に謀るものを問ふに、事に裕在ることを知り、彌々喜び、乃ち桓玄 必ず敗れ、義師 必ず之を成すの理を說きて以て之を勸勉す。後に果して其の言の如し。210101

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列女伝(五)五胡(上)

五胡十六国も、仕方ないから、ひろうべき人物は、後ろに載せますよと、序文にありました(意訳)。そういう価値判断を含むため、時代が前後し、また西晋のころに戻ってしまいます。

劉聰妻劉氏

劉聰妻劉氏、名娥、字麗華、偽太保殷女也。幼而聰慧、晝營女工、夜誦書籍、傅母恒止之、娥敦習彌厲。每與諸兄論經義、理趣超遠、諸兄深以歎伏。性孝友、善風儀進止。

劉聰の妻の劉氏、名は娥、字は麗華、偽太保の殷の女なり。幼くして聰慧なり、晝に女工を營み、夜に書籍を誦し、傅母 恒に之を止むるとも、娥 敦習して彌々厲む。每に諸兄と與に經義を論じ、理趣は超遠にして、諸兄 深く以て歎伏す。性は孝友にして、風儀進止を善くす。

聰既僭位、召為右貴嬪、甚寵之。俄拜為后。將起䳨儀殿、以居之。其廷尉陳元達切諫、聰大怒、將斬之。娥時在後堂、私敕左右停刑、手疏啟曰、伏聞將為妾營殿、今昭德足居、䳨儀非急。四海未一、禍難猶繁、動須人力・資財、尤宜慎之。廷尉之言、國家大政。夫忠臣之諫、豈為身哉。帝王距之、亦非顧身也。妾仰謂、陛下上尋明君納諫之昌、下忿闇主距諫之禍、宜賞廷尉以美爵、酬廷尉以列土。如何不惟不納、而反欲誅之。陛下此怒由妾而起、廷尉之禍由妾而招。人怨國疲、咎歸於妾、距諫害忠、亦妾之由。自古敗國喪家、未始不由婦人者也。妾每覽古事、忿之忘食、何意今日妾自為之。後人之觀妾、亦猶妾之視前人也。復何面目仰侍巾櫛、請歸死此堂、以塞陛下誤惑之過。聰覽之色變、謂其羣下曰、朕比得風疾、喜怒過常。元達、忠臣也。朕甚愧之。以娥表示元達曰、外輔如公、內輔如此后、朕無憂矣。及娥死、偽諡武宣皇后。

聰 既に位を僭するに、召して右貴嬪と為し、甚だ之を寵す。俄かに拜して后と為る。將に䳨儀殿を起(た)てて、以て之を居せしめんとす。其の廷尉の陳元達 切諫し、聰 大いに怒り、將に之を斬らんとす。娥 時に後堂に在り、私かに左右に敕して刑を停めしめ、手づから疏して啟して曰く、「伏して聞くに將に妾の為に殿を營さんとす、今 昭德 居するに足り、䳨儀 急に非ざるなり。四海 未だ一ならず、禍難 猶ほ繁く、動けば人力・資財を須(もち)ふ、尤も宜しく之を慎しむべきなり。廷尉の言、國家の大政なり。夫れ忠臣の諫、豈に身の為なるや。帝王 之を距(こば)むは、亦た身を顧るに非ざるなり。妾 仰ぎて陛下に謂ふは、上は明君 諫を納るるの昌を尋ね、下は闇主 諫を距むの禍に忿ることなり。宜しく廷尉を賞するに美爵を以てし、廷尉に酬いるに列土を以てせよ。如何にして惟だ納れざるのみにあらず、而して反りて之を誅さんと欲するか。陛下 此の怒 妾より起り、廷尉の禍 妾より招く。人は怨み國は疲るるは、咎 妾に歸し、諫を距み忠を害するは、亦た妾に之 由る。古より國を敗り家を喪ふは、未だ婦人に由らずじて始まらず。妾 每に古事を覽じ、之に忿りて食を忘る、何の意ありて今日 妾 自ら之と為らんか。後人の妾を觀るは、亦た猶ほ妾の前人を視るがごときなり。復た何の面目ありて仰ぎて巾櫛に侍せん、死に此の堂に歸して、以て陛下の誤惑の過を塞がんことを請ふ」と。聰 之を覽じて色 變じ、其の羣下に謂ひて曰く、「朕 比 風疾を得て、喜怒 常に過ぐ。元達は、忠臣なり。朕 甚だ之を愧づ」と。娥の表を以て元達に示して曰く、「外輔 公が如く、內輔 此の后が如し、朕 憂無からん」と。娥 死するに及び、偽して武宣皇后と諡す。

其姊英、字麗芳、亦聰敏涉學。而文詞機辯、曉達政事、過於娥。初與娥同召拜左貴嬪、尋卒、偽追諡武德皇后。

其の姊の英、字は麗芳、亦 聰敏にして涉學す。而して文詞は機辯にして、政事に曉達すること、娥に過ぐ。初め娥と與に同に召して左貴嬪を拜し、尋いで卒す、偽して武德皇后と追諡す。

王廣女

王廣女者、不知何許人也。容質甚美、慷慨有丈夫之節。廣仕劉聰、為西揚州刺史。蠻帥梅芳攻陷揚州、而廣被殺。王時年十五、芳納之。俄於闇室擊芳、不中、芳驚起曰、「何故反邪。」王罵曰、「蠻畜。我欲誅反賊、何謂反乎。吾聞父仇不同天、母仇不同地。汝反逆無狀、害人父母、而復以無禮陵人、吾所以不死者、欲誅汝耳。今死自吾分、不待汝殺、但恨不得梟汝首於通逵、以塞大恥。」辭氣猛厲、言終乃自殺、芳止之不可。

王廣の女なる者は、何許の人なるやを知らず。容質 甚だ美しく、慷慨にして丈夫の節有り。廣 劉聰に仕へ、西揚州刺史と為る。蠻帥の梅芳 攻めて揚州を陷し、而して廣 殺さる。王 時に年十五にして、芳 之を納る。俄にして闇室に於て芳を擊つも、中(あた)らず、芳 驚きて起ちて曰く、「何故に反(そむ)くや」と。王 罵りて曰く、「蠻畜。我 反賊を誅せんと欲す、何ぞ反くと謂ふか。吾 聞くに父の仇 天に同にせず、母の仇 地を同にせずと。汝 反逆して狀無し、人の父母を害し、而して復た無禮を以て人を陵す、吾 死せざる者の所以は、汝を誅せんと欲するのみ。今 死は自ら吾が分なり、汝が殺を待たず、但だ汝の首を通逵に梟して、以て大恥を塞ぐことを得ざることを恨む」と。辭氣 猛厲にして、言 終はりて乃ち自殺し、芳 之を止れども可からず。

陝婦人

陝婦人、不知姓字、年十九。劉曜時嫠居陝縣、事叔姑甚謹、其家欲嫁之、此婦毀面自誓。後叔姑病死。其叔姑有女在夫家、先從此婦乞假不得、因而誣殺其母。有司不能察而誅之。時有羣鳥悲鳴尸上、其聲甚哀。盛夏暴尸十日、不腐、亦不為蟲獸所敗、其境乃經歲不雨。曜遣呼延謨為太守、既知其冤、乃斬此女、設少牢以祭其墓、諡曰孝烈貞婦。其日大雨。

陝婦人、姓字を知らず、年十九なり。劉曜 時に嫠して陝縣に居し、叔姑に事ふること甚だ謹なり、其の家 之を嫁がしめんと欲するに、此の婦 面を毀ちて自ら誓ふ。後に叔姑 病に死す。其の叔姑 女の夫の家に在るもの有り、先に此の婦より假を乞ふも得ず、因りて誣りて其の母を殺すとす。有司 能く察(つまびらか)にせずして之を誅す。時に羣鳥の尸上に悲鳴するもの有り、其の聲 甚だ哀し。盛夏に尸を暴(さら)すこと十日、腐らず、亦た蟲獸の敗る所と為らず、其の境 乃ち歲を經て雨ふらず。曜 呼延謨を遣はして太守と為し、既に其の冤なるを知り、乃ち此の女を斬り、少牢を設けて以て其の墓を祭り、諡して孝烈貞婦と曰ふ。其の日に大いに雨ふる。

靳康女

靳康女者、不知何許人也。美姿容、有志操。劉曜之誅靳氏、將納靳女為妾。靳曰、「陛下既滅其父母兄弟、復何用妾為。妾聞逆人之誅也、尚汚宮伐樹、而況其子女乎。」因號泣請死。曜哀之、免康一子。

靳康の女なる者は、何許の人なるやを知らざるなり。姿容美しく、志操有り。劉曜の靳氏を誅するや、將に靳の女を納れて妾に為さんとす。靳曰く、「陛下 既に其の父母兄弟を滅し、復た何ぞ妾を用て為(す)るか。妾 聞くに逆人の誅は、尚ほ宮を汚し樹を伐す、而るに況んや其の子女をや」と。因りて號泣して死を請ふ。曜 之を哀みて、康の一子を免ず。

韋逞母宋氏

韋逞母宋氏、不知何郡人也、家世以儒學稱。宋氏幼喪母、其父躬自養之。及長、授以周官音義、謂之曰、吾家世學周官、傳業相繼。此又周公所制、經紀・典誥、百官・品物、備於此矣。吾今無男可傳、汝可受之、勿令絕世。屬天下喪亂、宋氏諷誦不輟。

韋逞の母の宋氏、何の郡の人なるやを知らず、家は世々儒學を以て稱せらる。宋氏 幼きとき母を喪ひ、其の父 躬ら自ら之を養ふ。長ずるに及び、授くるに周官音義を以てし、之に謂ひて曰く、「吾が家 世々周官を學び、業を傳へて相 繼ぐ。此れ又 周公の制(さだ)むる所、經紀・典誥、百官・品物、此に備はれり。吾 今 男の傳ぐ可きもの無し、汝 之を受く可し、世に絕えしむこと勿かれ」と。天下の喪亂するに屬(あ)ひ、宋氏 諷誦して輟(や)めず。

其後為石季龍徙之於山東、宋氏與夫在徙中、推鹿車、背負父所授書。到冀州、依膠東富人程安壽、壽養護之。逞時年小、宋氏晝則樵採、夜則教逞、然紡績無廢。壽每歎曰、「學家多士大夫、得無是乎。」逞遂學成名立、仕苻堅為太常。
堅嘗幸其太學、問博士經典、乃憫禮樂遺闕。時博士盧壼對曰、「廢學既久、書傳零落。比年綴撰、正經粗集、唯周官禮注未有其師。竊見太常韋逞母宋氏世學家女、傳其父業、得周官音義、今年八十、視聽無闕、自非此母無可以傳授後生。」於是就宋氏家立講堂、置生員百二十人、隔絳紗幔而受業、號宋氏為宣文君、賜侍婢十人。周官學復行於世、時稱1.韋氏宋母焉。

1.周家禄は、「韋母宋氏」に作るべきとする。
其の後 石季龍の為に之を山東に徙され、宋氏 夫と與に徙さる中に在り、鹿車を推し、父の授くる所の書を背負す。冀州に到り、膠東の富人の程安壽に依り、壽 養ひて之を護る。逞 時に年小にして、宋氏 晝に則ち樵採し、夜に則ち教逞し、然して紡績 廢すること無し。壽 每に歎じて曰く、「學家に士大夫多けれども、是無きことを得んか」と。逞 遂に學は成り名は立ち、苻堅に仕へて太常と為る。
堅 嘗て其の太學に幸き、博士に經典を問ひ、乃ち禮樂の遺闕するを憫(うれ)ふ。時に博士の盧壼 對へて曰く、「廢學 既に久しく、書傳 零落す。比年 綴撰し、正經 粗々集す、唯だ周官の禮注 未だ其の師有らず。竊かに見るに太常の韋逞の母の宋氏 世々學家の女なり、其の父業を傳へ、周官の音義を得て、今 年八十なるとも、視聽 闕無く、自ら此の母に非ずんば無以て生に傳授す可きこと後し」と。是に於て宋氏の家に就き講堂を立て、生員百二十人を置き、絳紗幔を隔ちて業を受け、宋氏を號して宣文君と為し、侍婢十人を賜ふ。周官の學 復た世に行はれ、時に韋氏宋母と稱す。

張天錫妾閻氏薛氏

張天錫妾閻氏・薛氏、並不知何許人也、咸有寵於天錫。天錫寢疾、謂之曰、汝二人將何以報我。吾死後、豈可為人妻乎。皆曰、尊若不諱、妾請效死、供灑掃地下、誓無他志。及其疾篤、二姬皆自刎。天錫疾瘳、追悼之、以夫人禮葬焉。

張天錫の妾の閻氏・薛氏、並びに何許の人なるやを知らず、咸 天錫に寵有り。天錫 疾に寢するや、之に謂ひて曰く、「汝二人 將た何を以て我に報いる。吾 死する後、豈に人の妻と為る可けんや」と。皆 曰く、「尊 若し不諱ならば、妾 請ふ死に效ひ、灑掃に地下に供せん、他志無きことを誓ふ」と。其の疾 篤きに及び、二姬 皆 自刎す。天錫 疾 瘳(い)え、追いて之を悼み、夫人の禮を以て焉を葬る。

苻堅妾張氏

苻堅妾張氏、不知何許人、明辯有才識。堅將入寇江左、羣臣切諫不從。張氏進曰、妾聞天地之生萬物、聖王之馭天下、莫不順其性而暢之。故黃帝服牛乘馬、因其性也。禹鑿龍門、決洪河、因水之勢也。后稷之播殖百穀、因地之氣也。湯武之滅夏商、因人之欲也。是以有因成、無因敗。今朝臣上下皆言不可、陛下復何所因也。書曰、天聰明自我民聰明。天猶若此、況於人主乎。妾聞人君有伐國之志者、必上觀乾象、下採眾祥。天道崇遠、非妾所知。以人事言之、未見其可。諺言、雞夜鳴者不利行師、犬羣嘷者宮室必空、兵動馬驚、軍敗不歸。秋冬已來、每夜羣犬大嘷、眾雞夜鳴、伏聞廄馬驚逸、武庫兵器有聲。吉凶之理、誠非微妾所論、願陛下詳而思之。堅曰、軍旅之事非婦人所豫也。遂興兵。張氏請從。堅果大敗於壽春、張氏乃自殺。

苻堅の妾の張氏、何許の人なるやを知らず、明辯にして才識有り。堅 將に江左に入寇せんとするに、羣臣 切諫するも從はず。張氏 進みて曰く、「妾 聞くに天地の萬物を生じ、聖王の天下を馭するは、其の性に順ひて之を暢(のば)さざる莫し。故に黃帝 牛を服し馬に乘るは、其の性に因るなり。禹 龍門を鑿ち、洪河を決するは、水の勢に因るなり。后稷の百穀を播殖するは、地の氣に因るなり。湯武の夏商を滅すは、人の欲に因るなり。是を以て因有れば成り、因無くんば敗る。今 朝臣の上下 皆 不可と言ふ、陛下 復た何の因る所あるや。書に曰く、『天の聰明は我が民の聰明に自(よ)る』と。天 猶ほ此の若し、況んや人主をや。妾 聞くに人君の伐國の志有る者は、必ず上に乾象を觀、下に眾祥を採る。天道は崇遠にして、妾の知る所に非ず。人事を以て之を言ふに、未だ其の可なるを見ず。諺に言く、『雞 夜に鳴く者は行師に利あらず、犬 羣れて嘷(ほ)ゆる者は宮室 必ず空なり、兵は動じ馬は驚き、軍 敗れて歸らず』と。秋冬已來、每夜 羣犬 大いに嘷(ほ)え、眾雞 夜に鳴く、伏して聞くに廄馬 驚逸し、武庫の兵器 聲有り。吉凶の理、誠に微かに妾の論ずる所に非ず、願はくは陛下 詳らかにして之を思へ」と。堅曰く、「軍旅の事 婦人の豫る所に非ざるなり」と。遂に兵を興す。張氏 從ふことを請ふ。堅 果して壽春に大敗し、張氏 乃ち自殺す。

竇滔妻蘇氏

竇滔妻蘇氏、始平人也、名蕙、字若蘭。善屬文。滔、苻堅時為秦州刺史、被徙流沙、蘇氏思之、織錦為迴文旋圖詩以贈滔。宛轉循環以讀之、詞甚悽惋、凡八百四十字、文多不錄。

竇滔の妻の蘇氏、始平の人なり、名は蕙、字は若蘭なり。善く文を屬す。滔は、苻堅の時 秦州刺史と為り、流沙に徙され、蘇氏 之を思ひ、錦を織りて迴文旋圖の詩を為りて以て滔に贈る。宛轉し循環して以て之を讀み、詞 甚だ悽惋なり、凡そ八百四十字、文 多ければ錄さず。

苻登妻毛氏

苻登妻毛氏、不知何許人、壯勇善騎射。登為姚萇所襲、營壘既陷、毛氏猶彎弓跨馬、率壯士數百人、與萇交戰、殺傷甚眾。眾寡不敵、為萇所執。萇欲納之、毛氏罵曰、吾天子后、豈為賊羌所辱、何不速殺我。因仰天大哭曰、姚萇無道、前害天子、今辱皇后。皇天后土、寧不鑒照。萇怒、殺之。

苻登の妻の毛氏、何許の人なるやを知らず、壯勇にして騎射を善くす。登 姚萇の襲ふ所と為り、營壘 既に陷ち、毛氏 猶ほ弓を彎(ひ)き馬に跨り、壯士數百人を率ゐ、萇と交戰し、殺傷すること甚だ眾し。眾寡 敵せず、萇の執ふ所と為る。萇 之を納れんと欲するに、毛氏 罵りて曰く、「吾 天子の后なり、豈に賊羌の辱むる所と為るや、何ぞ速やかに我を殺さざる」と。因りて仰天し大哭して曰く、「姚萇 無道なり、前に天子を害し、今 皇后を辱む。皇天后土、寧ぞ鑒照せざる」と。萇 怒り、之を殺す。210102

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列女伝(五)五胡(下)・賛

慕容垂妻段氏

慕容垂妻段氏、字元妃、偽右光祿大夫儀之女也。少而婉慧、有志操、常謂妹季妃曰、我終不作凡人妻。季妃亦曰、妹亦不為庸夫婦。鄰人聞而笑之。垂之稱燕王、納元妃為繼室、遂有殊寵。偽范陽王德亦娉季妃焉。姊妹俱為垂・德之妻、卒如其志。垂既僭位、拜為皇后。

慕容垂の妻の段氏、字は元妃、偽右光祿大夫の儀の女なり。少くして婉慧なり、志操有り、常に妹の季妃に謂ひて曰く、「我 終に凡人の妻と作らず」と。季妃 亦た曰く、「妹 亦た庸夫の婦と為らず」と。鄰人 聞きて之を笑ふ。垂の燕王を稱するや、元妃を納れて繼室と為し、遂に殊寵有り。偽范陽王の德 亦た季妃を娉す。姊妹 俱に垂・德の妻と為り、卒に其の志の如し。垂 既に僭位し、拜して皇后と為る。

垂立其子寶為太子也、元妃謂垂曰、太子姿質雍容、柔而不斷、承平則為仁明之主、處難則非濟世之雄。陛下託之以大業、妾未見克昌之美。遼西・高陽二王、陛下兒之賢者、宜擇一以樹之。趙王麟姦詐負氣、常有輕太子之心、陛下一旦不諱、必有難作。此陛下之家事、宜深圖之。垂不納。寶及麟聞之、深以為恨。其後元妃又言之。垂曰、汝欲使我為晉獻公乎。元妃泣而退、告季妃曰、太子不令、羣下所知、而主上比吾為驪戎之女、何其苦哉。主上百年之後、太子必亡社稷。范陽王有非常器度、若燕祚未終、其在王乎。

垂 其の子の寶を立てて太子と為すや、元妃 垂に謂ひて曰く、「太子 姿質 雍容なり、柔にして斷ぜず、平を承くれば則ち仁明の主と為るも、難に處すれば則ち濟世の雄に非ず。陛下 之に託するに大業を以てす、妾 未だ克昌の美を見ず。遼西・高陽の二王、陛下の兒の賢き者なり、宜しく一を擇びて以て之を樹てよ。趙王麟 姦詐にして負氣あり、常に太子を輕ずるの心有り、陛下 一旦に不諱なれば、必ず難を作(おこ)すこと有らん。此れ陛下の家事なり、宜しく深く之を圖るべし」と。垂 納れず。寶及び麟 之を聞き、深く以て恨みを為す。其の後 元妃 又 之に言ふ。垂曰く、「汝 我をして晉の獻公と為さしめんと欲するか」と。元妃 泣きて退き、季妃に告げて曰く、「太子の不令、羣下の知る所なり、而れども主上 吾を比して驪戎の女と為す、何ぞ其れ苦しきや。主上 百年の後、太子 必ず社稷を亡さん。范陽王 非常の器度有り、若し燕祚 未だ終らざれば、其れ王に在らんか」と。

垂死、寶嗣偽位、遣麟逼元妃曰、「后常謂主上不能嗣守大統、今竟何如。宜早自裁、以全段氏。」元妃怒曰、「汝兄弟尚逼殺母、安能保守社稷。吾豈惜死、念國滅不久耳。」遂自殺。寶議以元妃謀廢嫡統、無母后之道、不宜成喪、羣下咸以為然。偽中書令眭邃大言於朝曰、 1.(畦)〔眭〕「子無廢母之義。漢之安思閻后親廢順帝、猶配饗安皇。先后言虛實尚未可知、宜依閻后故事。」寶從之。其後麟果作亂、寶亦被殺、德復僭稱尊號、終如元妃之言。

1.中華書局本に従い、「畦」を「眭」に改める。
垂 死し、寶 偽位を嗣ぎ、麟をして元妃に逼らしめて曰く、「后 常に主上に大統を嗣守する能はざると謂ふ、今 竟に何如や。宜しく早く自裁し、以て段氏を全うすべし」と。元妃 怒りて曰く、「汝の兄弟 尚ほ逼りて母を殺す、安にか能く社稷を保守せんか。吾 豈に死を惜まんや、國の滅ぶこと久からざるを念ずるのみ」と。遂に自殺す。寶 議すらく元妃 嫡統を廢するを謀り、母后の道無きを以て、宜しく喪を成すべからずと。羣下 咸 以て然りと為す。偽中書令の眭𨗉 大言して朝に曰く、「子に廢母の義無し。漢の安思閻后 親ら順帝に廢せらるとも、猶ほ安皇に配饗す。先后 虛實を言ふは尚ほ未だ知る可からず、宜しく閻后の故事に依るべし」と。寶 之に從ふ。其の後 麟 果して亂を作し、寶 亦た殺され、德 復た尊號を僭稱し、終に元妃の言の如し。

段豐妻慕容氏

段豐妻慕容氏、德之女也。有才慧、善書史、能鼓琴。德既僭位、署為平原公主。年十四、適於豐。豐為人所譖、被殺、慕容氏寡歸、將改適偽壽光公餘熾。慕容氏謂侍婢曰、我聞忠臣不事二君、貞女不更二夫。段氏既遭無辜、己不能同死、豈復有心於重行哉。今主上不顧禮義嫁我、若不從、則違嚴君之命矣。於是剋日交禮。慕容氏姿容婉麗、服飾光華、熾覩之甚喜。經再宿、慕容氏偽辭以疾、熾亦不之逼。三日還第、沐浴置酒、言笑自若、至夕。密書其帬帶云、死後、當埋我於段氏墓側、若魂魄有知、當歸彼矣。遂於浴室自縊而死。及葬、男女觀者數萬人、莫不歎息曰、貞哉公主。路經餘熾宅前、熾聞挽歌之聲、慟絕良久。

段豐の妻の慕容氏、德の女なり。才慧有り、書史を善くし、鼓琴を能くす。德 既に僭位し、署して平原公主と為る。年十四にして、豐に適す。豐 人の譖る所と為り、殺され、慕容氏 寡歸たれば、將に改めて偽壽光公の餘熾に適かしめんとす。慕容氏 侍婢に謂ひて曰く、「我 聞く忠臣は二君に事へず、貞女は二夫を更めず。段氏 既に無辜に遭ひ、己 同に死すること能はず、豈に復た重行に心有らんや。今 主上 禮義を顧みず我を嫁がしむ、若し從はざれば、則ち嚴君の命に違へり」と。是に於て日を剋して禮を交はす。慕容氏の姿容 婉麗にして、服飾 光華なり、熾 之を覩て甚だ喜ぶ。再宿を經て、慕容氏 偽りて辭するに疾を以てし、熾 亦た之に逼らず。三日 第に還り、沐浴して置酒し、言笑 自若たり。夕に至り、密かに其の帬帶に書して云はく、「死する後、當に我を段氏の墓の側に埋むるべし、若し魂魄 知有らば、當に彼に歸すべし」と。遂に浴室に於て自縊して死す。葬するに及び、男女 觀る者 數萬人、歎息せざる莫くして曰く、「貞なるかな公主」と。路に餘熾の宅前を經て、熾 挽歌の聲を聞き、慟絕すること良に久くす。

呂纂妻楊氏呂紹妻張氏

呂纂妻楊氏、弘農人也。美艷有義烈。纂被呂超所殺、楊氏與侍婢十數人殯纂於城西。將出宮、超慮齎珍物出外、使人搜之。楊氏厲聲責超曰、爾兄弟不能和睦、手刃相屠。我旦夕死人、何用金寶。超慚而退。又問楊氏玉璽所在、楊氏怒曰、盡毀之矣。超將妻之、謂其父桓曰、后若自殺、禍及卿宗。桓以告楊氏、楊氏曰、大人本賣女與氐以圖富貴、一之已甚、其可再乎。乃自殺。

呂纂の妻の楊氏、弘農の人なり。美艷にして義烈有り。纂 呂超に殺され、楊氏 侍婢十數人と與に纂に城西に於て殯す。將に宮を出でんとするに、超 珍物を齎(も)ちて外に出さんとすると慮ひ、人をして之を搜さしむ。楊氏 聲を厲して超を責めて曰く、「爾の兄弟 和睦なること能はず、手に刃して相 屠る。我 旦夕の死人なり、何ぞ金寶を用ゐんか」と。超 慚ぢて退く。又 楊氏に玉璽の所在を問ふに、楊氏 怒りて曰く、「盡く之を毀てり」と。超 將に之を妻とせんとするや、其の父の桓に謂ひて曰く、「后 若し自殺せば、禍 卿の宗に及ばん」と。桓 以て楊氏に告げ、楊氏曰く、「大人 本は女を賣りて氐と與に以て富貴を圖る、一たび之(ゆ)きて已に甚し、其れ再びす可けんや」と。乃ち自殺す。

時呂紹妻張氏亦有操行、年十四、紹死、便請為尼。呂隆見而悅之、欲穢其行。張氏曰、欽樂至道、誓不受辱。遂昇樓自投於地、二脛俱折、口誦佛經、俄然而死。

時に呂紹の妻の張氏 亦た操行有り、年十四のとき、紹 死し、便ち尼と為ることを請ふ。呂隆 見て之を悅び、其の行を穢さんと欲す。張氏曰く、「欽(つつし)みて至道を樂しみ、辱を受けざるを誓ふ」と。遂に樓に昇りて自ら地に投じ、二脛 俱に折れ、口に佛經を誦し、俄然として死す。

涼武昭王李玄盛后尹氏

涼武昭王李玄盛后尹氏、天水冀人也。幼好學、清辯有志節。初適扶風馬元正、元正卒、為玄盛繼室。以再醮之故、三年不言。撫前妻子踰於己生。玄盛之創業也、謨謀・經略多所毗贊、故西州諺曰、「李・尹王敦煌。」

涼武昭王の李玄盛の后の尹氏、天水の冀の人なり。幼くして學を好み、清辯にして志節有り。初め扶風の馬元正に適き、元正 卒し、玄盛の繼室と為る。再醮の故を以て、三年 言はず。前妻の子を撫すこと己の生むものを踰ゆ。玄盛の創業するや、謨謀・經略 多く毗贊する所にして、故に西州の諺に曰く、「李・尹 敦煌に王たり」と。

及玄盛薨、子士業嗣位、尊為太后。士業將攻沮渠蒙遜、尹氏謂士業曰、「汝新造之國、地狹人稀。靖以守之、猶懼其失、云何輕舉、闚冀非望。蒙遜驍武、善用兵、汝非其敵。吾觀其數年已來有并兼之志、且天時・人事似欲歸之。今國雖小、足以為政。知足不辱、道家明誡也。且先王臨薨、遺令殷勤。志令汝曹深慎兵戰、俟時而動。言猶在耳、柰何忘之。不如勉修德政、蓄力以觀之。彼若淫暴、人將歸汝。汝苟德之不建、事之無日矣。汝此行也、非唯師敗、國亦將亡。」士業不從、果為蒙遜所滅。

玄盛 薨ずるに及び、子の士業 位を嗣ぎ、尊びて太后と為す。士業 將に沮渠蒙遜を攻めんとするに、尹氏 士業に謂ひて曰く、「汝 新造の國なり、地は狹く人は稀なり。靖にして以て之を守(たも)ち、猶ほ其の失を懼れよ。云ふに何ぞ輕々しく舉し、非望を闚冀するか。蒙遜 驍武にして、用兵を善くし、汝 其の敵に非ず。吾 其の數年已來を觀るに并兼の志有り、且つ天時・人事 之に歸せんと欲するが似(ごと)し。今 國 小なると雖も、以て政を為すに足る。足を知りて辱ぢざるは、道家の明誡なり。且つ先王 薨に臨み、遺令 殷勤なり。志は汝曹をして深く兵戰を慎しみ、時を俟ちて動かしむ。言は猶ほ耳に在り、柰何ぞ之を忘るるか。德政に勉修し、力を蓄へて以て之を觀るに如かず。彼 若し淫暴なれば、人 將に汝に歸せんとす。汝 苟も德の建たざれば、之に事へんこと日無し。汝 此れ行くや、唯だ師の敗るるに非ず、國 亦た將に亡びんとす」と。士業 從はず、果して蒙遜の滅す所と為る。

尹氏至姑臧、蒙遜引見勞之。對曰、李氏為胡所滅、知復何言。或諫之曰、母子命懸人手、柰何倨傲。且國敗子孫屠滅、何獨無悲。尹氏曰、興滅死生、理之大分。何為同凡人之事、起兒女之悲。吾一婦人、不能死亡、豈憚斧鉞之禍、求為臣妾乎。若殺我者、吾之願矣。蒙遜嘉之、不誅、為子茂虔娉其女為妻。及魏氏以武威公主妻茂虔、尹氏及女遷居酒泉。既而女卒、撫之不哭、曰、汝死晚矣。沮渠無諱時鎮酒泉、每謂尹氏曰、后諸孫在伊吾、后能去不。尹氏未測其言、答曰、子孫流漂、託身醜虜。老年餘命、當死於此、不能作氊裘鬼也。俄而潛奔伊吾、無諱遣騎追及之。尹氏謂使者曰、沮渠酒泉許我歸北、何故來追。汝可斬吾首歸、終不迴矣。使者不敢逼而還。年七十五、卒於伊吾。

尹氏 姑臧に至るや、蒙遜 引見して之を勞ふ。對へて曰く、「李氏 胡の滅す所と為る、知りて復た何をか言はん」と。或 之を諫めて曰く、「母子の命 人の手に懸る、柰何ぞ倨傲なるや。且つ國は敗れ子孫は屠滅す、何ぞ獨り悲しむこと無からん」と。尹氏曰く、「興滅死生、理の大分なり。何為れぞ凡人の事に同じく、兒女の悲を起すか。吾 一婦人のみ、死亡する能はず、豈に斧鉞の禍を憚りて、臣妾と為ることを求めんか。若し我を殺さば、吾の願なり」と。蒙遜 之を嘉し、誅せず、子の茂虔の為に其の女を娉して妻と為す。魏氏 武威公主を以て茂虔に妻とするに及び、尹氏及(と)女 遷りて酒泉に居す。既にして女 卒し、之を撫して哭かず、曰く、「汝 死するは晚し」と。沮渠無諱 時に酒泉に鎮し、每に尹氏に謂ひて曰く、「后の諸孫 伊吾に在り、后 能く去るや不(いな)や」と。尹氏 未だ其の言を測らず、答へて曰く、「子孫 流漂し、身を醜虜に託す。老年にして命を餘す、當に此に死すべし、氊裘の鬼と作ること能はざるなり」と。俄にして潛かに伊吾に奔り、無諱 騎を遣はして追はしめて之に及ぶ。尹氏 使者に謂ひて曰く、「沮渠酒泉 我を許して北に歸らしむ、何の故ありて來りて追ふか。汝 吾が首を斬りて歸る可し、終に迴らず」と。使者 敢て逼らずして還る。年七十五にして、伊吾に卒す。

史臣曰・賛

史臣曰、夫繁霜降節、彰勁心於後凋。橫流在辰、表貞期於上德。匪伊君子、抑亦婦人焉。自晉政陵夷、罕樹風檢、虧閑爽操、相趨成俗。荐之以劉石、汨之以苻姚。三月歌胡、唯見爭新之飾。一朝辭漢、曾微戀舊之情。馳騖風埃、脫落名教、頹縱忘反、於茲為極。至若惠風之數喬屬、道韞之對孫恩、荀女釋急於重圍、張妻報怨於強寇、僭登之后、蹈死不迴、偽纂之妃、捐生匪吝、宗辛抗情而致夭、王靳守節而就終、斯皆冥踐義途、匪因教至。聳清漢之喬葉、有裕徽音。振幽谷之貞蕤、無慚雅引。比夫懸梁靡顧、齒劍如歸、異日齊風。可以激揚千載矣。

史臣曰く、夫れ繁霜 節に降るとき、勁心を後凋に彰はす。橫流 辰に在りて、貞期を上德に表す。伊(た)だ君子のみに匪ず、抑(そもそも)亦た婦人なり。晉の政 陵夷してより、風檢を樹つるもの罕(まれ)なり、閑を虧き操を爽ひ、相 趨て俗を成す。之を荐(かさ)ぬるに劉石を以てし、之を汨(みだ)すに苻姚を以てす。三月に胡を歌ひ、唯だ爭新の飾を見る。一朝に漢を辭し、曾て戀舊の情を微す。風埃に馳騖して、名教に脫落し、頹縱して反ることを忘れ、茲に於て極と為る。至若(しかのみならず)惠風の喬屬を數(せ)め、道韞の孫恩に對し、荀女の急を重圍に釋き、張妻の怨を強寇に報い、僭登の后、死を蹈みて迴らず、偽纂の妃、生を捐てて吝むに匪ず、宗辛 情に抗ひて夭を致し、王靳 節を守りて終に就く、斯れ皆 冥に義途を踐みて、教に因りて至るに匪ず。清漢の喬葉を聳し、徽音を裕にする有り。幽谷の貞蕤を振ひて、雅引に慚づること無し。夫の梁に懸て顧ること靡く、劍に齒て歸するが如くなるに比し、日を異にして風を齊しくす。以て千載に激揚す可しと。

贊曰、從容陰禮、婉娩柔則。載循六行、爰昭四德。操潔風霜、譽流邦國。彤管貽訓、清芬靡忒。

贊に曰く、陰禮に從容とし、柔則に婉娩たり。載は六行に循ひ、爰に四德を昭らかにす。操は風霜よりも潔く、譽は邦國に流(おこな)はる。彤管 訓へを貽(のこ)し、清芬 忒(たが)ふこと靡(な)し。210102

関連して思ったこと。訓読がテキトーで、直読していると言われたら、直読ができないぼくには真偽を判定できませんが、現代日本語訳が合っていないならば、その人は直読もできていないと言えるかと思いきや、論理的には「直読できたが日本語訳を誤った」可能性を捨てきれない。「直読を済ませたが、日本語訳をする前」の時点を取り出すことができないので、議論しても仕方ないです。
かりに、「古典漢文を直読し、現代中国語に変換し、現代日本語にしている」というプロセスがあるのだと言われても、ぼくが現代中国語ができないので、途中で取り出しての検証はできないし、そもそも、「直読を済ませたが、現代中国語に変換するとき誤った」可能性が生じるので、議論が複雑化して後退するだけ。ぼくが現代中国語ができたとしても、その検証方法は、得策とはいえません。
ともあれ正しく読む努力は大事だと思います。
訓読は万能でも必須でもないけど、日本人の漢文読解のノウハウが凝縮して効率がいいから、ぼくはこれを学び、活用させて頂いてます。直読できるなら直読もしたいです。他方、漢文が読めないことの責任を、訓読という手法やそれを推す教育にかぶせるのは、論点のすり替えだし、先人に失礼だと思うのです。

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