孫呉 > 李術(李述)伝

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『魯粛伝』下を書くにあたり、李術を最初のライバルにしようと思ったため、その記述を網羅しておく。

『後漢書』荀彧伝

荀彧伝:彧又進操計謀之士從子攸,及鍾繇、郭嘉、陳羣、杜襲、司馬懿、戲志才等,皆稱其舉。唯嚴象為楊州,韋康為涼州,後並負敗焉。

荀彧は曹操に、荀攸・鍾繇らを推薦し、みな採用された。ただ厳象は揚州(刺史)となり、韋康は涼州(刺史)となったが、のちに敗北した。

荀彧伝の李賢注に、

三輔決錄曰:「象字文則,京兆人。少聰博有膽智,為楊州刺史。後為孫策廬江太守李術所殺。」

『三輔決録』によると、厳象は京兆のひとで、若くして聡明で博識、胆力と知力があり、揚州刺史となった。のちに、孫策の廬江太守である李術に殺された。
厳象は、曹操が任用した優れた人材であり(荀彧の紹介!)、地方軍閥との闘争によって、命を落とした。馬超に殺された韋康と同じパターン。ただし、曹操とて、「線の細い文化人」を、辺境に置くはずがない。厳象は、武力・政治力・統率力をもった人物であったに違いない。

李術は、荀彧・曹操が見込んだ大物・厳象を殺害した。言うなれば、馬超のポジションです。
しかし、孫策vs曹操(のちの呉vs魏みたいな)の抗争が起こり、李術が孫策の手先となり、曹操の任用した士人を殺した……というシンプルな話ではない。
李術は、孫権と敵対している(後述)。「厳象が、孫権に助けを求めた。しかし孫権の援軍が間に合わず、厳象が李術に殺された」というストーリーがあっても不思議ではない。厳象は、孫権を茂才にあげた挙主なので。

『三国志』荀彧伝

裴松之注の『三輔決録〔注〕』に、李賢注より長い文があり、

象字文則,京兆人。少聰博,有膽智。以督軍御史中丞詣揚州討袁術,會術病卒,因以為揚州刺史。建安五年,為孫策廬江太守李術所殺,時年三十八。象同郡趙岐作三輔決錄,恐時人不盡其意,故隱其書,唯以示象。

厳象は、督軍御史中丞として、揚州にいたり袁術を討伐した。折しも袁術が病死したため、揚州刺史となった。建安五年、孫策の廬江太守である李術に殺害され、享年三十八。厳象と同郡(京兆出身)の趙岐は『三輔決録』を作ったが、同時代のひとに意図が理解されないと恐れ、書物を隠して、厳象だけに見せた。

ここから厳象は、文化的にもエリートと窺われます。『魯粛伝』下で、孫権の挙主であり、曹操(漢王朝)から揚州の秩序再建を期待された英雄として、登場させるのはアリではないか。


『三国志』孫策伝

裴松之注の『江表伝』に、李術の出身地が見える。

得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,并術、勳妻子。表用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳。賁、輔又於彭澤破勳。勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞。至沂,築壘自守,告急於劉表,求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策復就攻,大破勳。勳與偕北歸曹公,射亦遁走。

(孫策が劉勲を破り)袁術・劉勲の配下・家族を得た。上表して、汝南の李術を廬江太守とし、兵3千を付与して、皖城を守らせた。得た人々(袁術・劉勲の配下・家族)は、東のかた呉にうつした。孫賁・孫輔は、劉勲を追撃した。劉勲は、曹操を頼った……。

後漢末の汝南李氏って、だれか大物いましたっけ。李術が出ているんですが、だれかいそう。霊帝期に三公になった「李咸」がヒットしました。


『三国志』孫権伝

裴松之注の『江表伝』に、李術の結末が見える。

江表傳曰:初策表用李術為廬江太守,策亡之後,術不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有德見歸,無德見叛,不應復還。」權大怒,乃以狀白曹公曰:「嚴刺史昔為公所用,又是州舉將,而 李術凶惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲醜類。今欲討之,進為國朝掃除鯨鯢,退為舉將報塞怨讐,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,復詭說求救。明公所居,阿衡之任,海內所瞻,願敕執事,勿復聽受。」

孫策の死後、李術は孫権に仕えたがらず、孫権からの亡叛者をおおく手元に納めた。孫権は、文書を回付して探索した。

孫権の「人口」が、李術に流入したというのは、おもしろい。孫権の生産力・国力が下がってしまう。これは致命的。

李術は返信し、「徳があれば人が集まり、徳がなければ叛かれる。人々を返還することはない」と。
孫権はおおいに怒り、曹操に状況を報告した。「揚州刺史の厳象は、むかし曹公が用い、またこの州の挙将です(私を茂才に挙げてくれた)。しかし李術は凶悪で、軽々しく漢の制度を犯し、周司(厳象)を殺害し、無道をほしいままにしています。速やかに討伐するべきです。いま私が彼を討伐しようとするのは、進んでは国家のために逆賊をのぞき、退いては挙将(厳象)の報復のためです。

孫堅が袁術に、「私が董卓を討つのは、公には国家のため、私には袁隗の報復のため」って言っていた。同じ論理で、孫権は曹操に、軍事行動への賛同を求めている。

きっと李術は、詭弁をもちいて(曹公に)救いを求めるでしょう。あなたは三公に地位にあり、勅命をあやつれるのですが、李術の願いを聴き入れませんように」と。

『江表伝』のつづき。

是歲舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而吞之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。

この歳、孫権は兵をあげて李術を皖城に攻めた。李術は、曹操に救援を求めたが、曹操は救わなかった。(皖城のなかは)糧食を食い尽くし、婦女は泥をまるめて飲みこんだ。

孫権を離れ、李術を頼った人々は、食糧にありつくためだろう。しかし孫権は、その李術を締め上げて、李術を頼った人々を飢えさせた。揚州において、誰が「食糧を保証する力量があるか」を見せつけた戦いである。もと孫権の配下だが、李術に心変わりしたひとは、このとき飢え死にしたと思われる。残酷な孫権。

やがてその城を攻め落とし、李術のくびを晒し、部曲3万余人を(孫権の管轄下に)移した。

袁術・劉勲の配下は、孫策に従い、一部が李術の配下だっただろう。孫策が死ぬと、大勢が李術に移ったと思われる。それを孫権が取り戻した、ということか。
孫策が李術にあずけた兵は、3千だった。それが、部曲3万余人に膨らんでいる。生活基盤を、李術に移した人が多かったということ。史料から抹殺されているが、孫権でなく李術を頼った人も、いたに違いない。


『三国志』劉馥伝

劉馥字元穎,沛國相人也。避亂揚州,建安初,說袁術將戚寄、秦翊,使率眾與俱詣太祖。太祖悅之,司徒辟為掾。後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚眾數萬在江、淮間,郡縣殘破。太祖方有袁紹之難,謂馥可任以東南之事,遂表為揚州刺史。

劉馥は、乱を揚州に避けた。(恐らく劉馥は袁術に仕え?)袁術の将に説いて、衆をひきいて曹操のもとに帰順させた。曹操はこれを悦び、劉馥を司徒掾とした。のちに孫策が置いた廬江太守の李述(李術)が、揚州刺史の厳象を殺害すると、廬江の梅乾・雷緒・陳蘭らは、数万で郡県を荒廃させた。

まるで盗賊のようですが、李術の勢力が、廬江の豪族を味方にして、独立勢力を築いたのだろう。郡県を荒廃させるのは、曹操・孫権とて同じです。


『三国志』徐夫人伝_付徐琨伝

琨以督軍中郎將領兵,從破廬江太守李術,封廣德侯,遷平虜將軍。後從討黃祖,中流矢卒。

徐琨は、李術討伐に参加して、広徳侯・平虜将軍となった。

『三国志』孫韶伝_付孫河伝

又從策平定吳、會,從權討李術,術破,拜威寇中郎將,領廬江太守。

孫河(孫韶の父)は、李術を討伐し、威寇中郎将・廬江太守となった。

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李術伝まとめ

『三国志』に列伝のない李述ですが、列伝ぽくまとめてみましょう。

孫策の廬江太守となる

李術は、

『三国志』劉馥伝は、「李述」に作る。袁術を忌避した……、というのは考え過ぎで、単なる表現の揺れと思われる。

汝南郡の人である。

霊帝期に三公となった「李咸」は、同族であろうか。

乱を揚州に避けて、袁術に従った。

『三国志』劉馥伝をマネた。汝南出身で、揚州にいるのだから、この記述があっても不自然ではないだろう。袁術に従ったという史料はないが、孫策とともに行動し、袁術の後継者争いに加わっているから、こう書いてもいいと考える。


袁術が死去すると、袁術の親族及び配下は、袁術の棺をかつぎ、皖城にいる廬江太守の劉勲を頼った。

孫策伝 注引『江表伝』:會術死、術從弟胤、女壻黃猗等畏懼曹公、不敢守壽春、乃共舁術棺柩、扶其妻子及部曲男女、就劉勳於皖城。勳糧食少、無以相振、

折しも、会稽太守の孫策は、袁術の諸将の支持を集め(袁氏の後継者の候補と目され)ていた。
李術もこれに従い、孫策とともに廬江郡(皖城)を攻撃した。劉勲は糧食が不足していたため堪えきれず、城を捨てて(荊州の劉表を頼って)西方に逃げた。李術らは、袁術・劉勲の配下及び家族を手に入れた。
孫策は手に入れた人々を東呉に移した。劉勲を追撃するにあたり、李術に兵三千を預け、廬江(皖城)の守りを託した。孫策が(形式的には献帝に)上表し、李術を廬江太守とした。
李術は、同郡の豪族である梅乾・雷緒・陳蘭らに支持され、それぞれが数万の民衆を治めた。

揚州の第一人者をめざす

このころ、揚州刺史は、(荀彧が推薦して)曹操が任命した厳象であった。厳象は、孫策の弟である孫権を茂才に挙げ、揚州の平定を図った。

厳象の居場所は記述がないが、寿春であろうか。寿春は、袁術によって破壊されており、防衛機能は低下していた。

ところが李術は、孫策が死ぬと(曹操-孫策という支配体制がくずれたと考えて)厳象を殺害し(揚州の第一人者になろうとし)た。揚州刺史は、しばらく不在となり、権力の空白期間が生じた。

流亡した民衆や、袁術・劉勲の家族・配下は、はじめ孫策に従ったが、孫策が死ぬと、数万人が李術のもと(皖城)に移動した。

袁術の死後、人々は、皖城にいる劉勲を頼った。孫策が皖城を陥落させると、これを東呉(呉郡)に移したが、1年以内に孫策が死に、人々は皖城に回帰した。もしかすると、東呉に移し終える前に、人々が呉郡への移動をやめたのかも知れない。終始一貫して、皖城を安住の地と考え、頼り続けた、ということかも知れない。その場合、皖城を安全地帯にした、劉勲の功績が大きくなる。

(急激に人が集まったので)皖城は、食糧が逼迫した。

孫権は、(袁術-劉勲と引き継がれた)人々が孫氏のもとを離れ、李術に身を寄せたことから、(孫氏の)勢力衰退を恐れた。
もともと、李術を廬江太守に任命したのは孫策であり、李氏には、孫氏に従う義務があると考えた。そこで孫権は、李術をかってな行為を糾弾する文書を発行し、人々の返還を求めた。しかし李術は、「徳がある(養う実力がある)人物のところに、人々は集まるのである。徳がない(養う実力がない)人物のこころから、人々が去るのは、当然のことである」と反論した。

孫権は、曹操が李術に味方をすることを恐れた。このとき、曹操は袁紹と対立しており、南方に兵を出す余力がない。孫権は、いち早く曹操に、李術の不当さを訴えて、曹操が李術を救援することがないように交渉した。
孫権曰く、「李術は、揚州刺史の厳象を殺害しました。公的には、漢王朝の地方官を殺害したという罪であり、私的には、わたしを茂才に挙げてくれた厳象の仇となりました。われわれが李術を討伐することは、公的・私的に正当なことですから、李術に加担なさいませんように」と。

曹操が、李術をハブとして、揚州を安定させようとする…というのは、充分にあり得ること。もともと、曹操が孫策と結んだのも、孫策が実力者であり、利用する価値があったから。同じ基準で、曹操が孫権を切り捨て、李術を用いるのは、想定できる展開。孫権は、事前にそのリスクを摘んでおく必要があった。


孫権は、李術のいる皖城を包囲した。皖城のなかには、数万余人がいたが、(皮肉なことに、李術が人を集めていたがゆえに)食糧が底を突き、女子は泥を丸めて飲みこみ、飢えを凌いだ。孫権は攻撃を緩めず、ついに皖城は陥落した。李術のもとに帰順した人々は、孫権のもとに送還された。

民の生命よりも、揚州の覇権を優先した行動ですね。


曹操は袁紹との戦いで身動きが取れないため、(すでに現地にいた)沛国の劉馥を、揚州刺史に任命した。劉馥は、荒廃した寿春を避け、合肥に単騎で入城したが、支配が及ぶ範囲は、はなはだ限定的であった。

孫権は、揚州刺史の劉馥の配下で、揚州の鎮静化をする役割を与えられた。さらに、揚州にとっての脅威である、荊州の牽制が、孫権の使命である。

李術に従った廬江の豪族たちは、孫権の配下となった。廬江太守には孫河が任命されて、皖城を治めた。181229

李術伝が、ぶじに完成。おまけに、建安五年ごろの揚州の情勢が、よりクリアに見えてきたと思います。

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