-後漢 > 『史記』仲尼弟子列伝第七(上)

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予備知識・事前情報

『史記』孔子世家十七・仲尼弟子列伝第七を読んでいきます。

『史記集解』(しきしっかい)は、南朝宋の裴駰(裴松之の子)による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。80巻。徐広『史記音義』をもとにして、経書や諸史の記述や孔安国・馬融・鄭玄・服虔・賈逵らの説を引用している。
『史記索隠』(しきさくいん)は、唐の司馬貞による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。30巻。先行の諸書を引用し、音韻や地理・人物の考証にすぐれる。
『史記正義』(しきせいぎ)は、唐の張守節による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。30巻。その序によれば唐の開元24年(736年)に成立。

『史記会注考証』(しきかいちゅうこうしょう)は、『史記』の注釈書の1つ。日本の瀧川龜太郎(資言)が編纂した。初版は東方文化学院東京研究所より1932年から1934年にかけて刊行、全10冊。現代日本における『史記』研究の基礎となる書物である。

以上、『史記』の注釈書は、210221にウィキペディアを閲覧。


新釈漢文大系87『史記』七(世家 下)(吉田賢抗著、明治書院、一九八二年)に、孔子世家をおさめる。新釈漢文大系88『史記』八(列伝 一)(水沢利忠著、明治書院、一九九〇年)に、仲尼弟子列伝をおさめる。
以下の訓読は、新釈漢文大系を参考にしておこなった。引用するときは『新釈』と表記する。
『論語』を引くときは、何晏注『史記集解』を全訳した、渡邉義浩(主編)『全譯論語集解』(汲古書院、二〇二〇年)を引用している。テキストに差異があるとき、適宜言及する。

このページの読解態度

渡邉義浩「『論語』孔子の言葉はいかにつくられたか」(講談社、二〇二一年)を手がかりにします。
また、弟子列伝は、『史記』の順序は大切であることは承知の上で、興味をもった順に読んでいます。飽きるよりも、断然マシだと思うからです。

『論語』を、漢代儒家が尊重した経書として、または朱子から江戸時代の儒者までが尊重した処世訓として読むと、全然興味がわかなかったです。でも、戦国期から前漢に形成された孔子「伝説」を、前漢中期の司馬遷、前漢後期の張禹が整理した歴史叙述として読むことで、ぼくは興味がわきます。
そもそも、歴史書の編纂(歴史を叙述すること)と、複雑に展開している伝説の整理というのは、区別がないと言ったら起こられますが、やることは同じなんですよね。テキストを媒介にして伝わった過去の出来事(実際に起こった否かよりは、テキストの有無のほうが重要)を、テキストで叙述しなおす。ほら、同じです。

『論語』がシンプルな文で書かれているのは、張禹に至るまでの叙述家が、漢代において(幼年の太子でも)読みやすいように改変した結果であり、シンプル過ぎるがゆえに、さまざまな解釈を許した…というプロセスを知ったので、『論語』を嫌わずに読むことができる。むしろ、そんなふうに編集するから、こんなふうに余地が生まれたんだ、という営みが愛おしく思える。

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仲尼弟子列伝の序文、太史公曰

史記巻六十七 仲尼弟子列伝第七

仲尼弟子列伝の序文

孔子の弟子の列伝について、司馬遷が『論語』に基づいて整理している。

渡邉先生によると、『史記』仲尼弟子列伝は、七十七名の弟子のうち、事績がのこる三十五人の伝記を載せ、四十二人の名とあざなを附す。弟子の姓名や言葉は、すべて『論語』の孔子との問答から取り、疑わしい者は除いて採録しなかったという。

序文の前半は、『論語』先進篇で、各ジャンルのトップの弟子を載せ、つぎも『論語』先進篇の別の箇所から、弟子たちのキャラクターを載せている。しかし序文の後半は、時代や孔子からの評価が合致せず、なにより『論語』と内容が合致せず、司馬遷による(『論語』などの)整理が、うまくいっていないように見える。むしろ、この序文後半を読まないほうが、『論語』を理解しやすいのではないか。

孔子曰「受業身通者七十有七人」、[一]皆異能之士也。徳行、顔淵、閔子騫、冄伯牛、仲弓。政事、冄有、季路。言語、宰我、子貢。[二]文学、子游、子夏。師也辟、[三]參也魯、[四]柴也愚、[五]由也喭、[六]回也屢空。賜不受命而貨殖焉、億則屢中。[七]

[一]【索隠】孔子家語亦有七十七人、唯文翁孔廟圖作七十二人。
[二]【索隠】論語一曰徳行、二曰言語、三曰政事、四曰文学。今此文政事在言語上、是其記有異也。
[三]【集解】馬融曰、「子張才過人、失於邪辟文過。」【正義】音癖。
[四]【集解】孔安国曰、「魯、鈍也。曾子遲鈍。」
[五]【集解】何晏曰、「愚直之愚。」 [六]【集解】鄭玄曰、「子路之行、失於𠯘喭。」【索隠】論語先言柴、次參、次師、次由。今此伝序之亦与論語不同、不得輒言其誤也。【正義】𠯘音畔。喭音岸。
[七]【集解】何晏曰、「言回庶幾於聖道、雖数空匱而樂在其中。賜不受教命、唯財貨是殖、億度是非。蓋美回所以勵賜也。一曰屢猶每也、空猶虚中也。以聖人之善道、教数子之庶幾、猶不至於知道者、各内有此害也。其於庶幾每能虚中者唯回、懷道深遠。不虚心不能知道。子貢無数子之病、然亦不知道者、雖不窮理而幸中、雖非天命而偶富、亦所以不虚心也。」

孔子の弟子で、学問を習い、〔六芸に〕精通したものは七十七人。

『孔子家語』も七十七人とするが、七十二人に数えるものもある。『論語』先進篇に、「一曰徳行、二曰言語、三曰政事、四曰文学」の順があり、ここでも順番は違えど、ジャンルごとに筆頭クラスの弟子が整理されている。

徳行では、顔淵・閔子騫・冄(ぜん)伯牛・仲弓である。政事では、冄有・季路である。言語表現では、宰我・子貢がいる。文学では、子游・子夏がいる。
師(子張)は辟(奇矯)であり、(曽)参は魯(のろま)、柴(子羔)は愚直、由(子路)は喭(強情粗暴で無作法)である。ここまでも『論語』先進篇に基づく。
(顔)回は穀物備蓄がしばしば空になるほど貧しかった。賜(子貢)は、天命に安んぜず(もしくは、孔子の命令を聞かず)、商売をして財産を殖やした。かれが推測すると、しばしば的中した。これも『論語』先進篇による。

『論語』先進篇:子曰く、「我に陳・蔡に従ふ者は、皆門に及ばざる者なり」と。徳行には、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語には、宰我・子貢。政事には、冉有・季路。文学には、子游・子夏なり。
同じ『論語』先進篇でも、だいぶ離れたところに:
柴や、愚なり。参や、魯なり。師や、僻なり。由や、喭なり。子曰く、「回や、其れ庶(ちか)からんか。屡々空し。賜は命を受けずして貨殖し、憶へば則ち屡々中たる」と。
先進篇のなかでも、弟子の名前が列挙される文は離れて載っており、一連の文脈ではない。前半が弟子トップクラスで、後半が第二軍、というわけではないか。司馬遷の付加価値は、それを一箇所に寄せ集めたところ。前半と後半の、もとの『論語』での関係、つながりは、ぼくが不勉強なので未詳。


孔子之所厳事、於周則老子。於衛、蘧伯玉。[一]於斉、晏平仲。[二]於楚、老萊子。[三]於鄭、子産。於魯、孟公綽。数称臧文仲・柳下恵・[四]銅鞮[五]伯華・介山子然、孔子皆後之、不並世。[六]

[一]【集解】外寬而内直、自設於隠括之中、直己而不直人、汲汲於仁、以善自終、蓋蘧伯玉之行。【索隠】按、大戴礼又云「外寬而内直、自娯於隠括之中、直己而不直人、汲汲于仁、以善存亡、蓋蘧伯玉之行也」。
[二]【集解】君択臣而使之、臣択君而事之、有道順命、無道衡命、蓋晏平仲之行也。【索隠】大戴記曰、「君択臣而使之、臣択君而事之、有道順命、無道衡命、蓋晏平仲之行也。」
[三]【索隠】大戴記又云、「徳恭而行信、終日言不在悔尤之内、貧而楽也、蓋老萊子之行也。」
[四]【集解】孝恭慈仁、允徳圖義、約貨去怨、蓋柳下恵之行。 【索隠】大戴記又云、「孝恭慈仁、允徳圖義、約貨亡怨、蓋柳下恵之行也。」
[五]【索隠】地理志縣名、屬上黨。【正義】鞮、丁奚反。按、銅鞮、潞州縣。
[六]【集解】大戴礼曰、「孔子云『国家有道、其言足以興、国家無道、其默足以容、蓋銅鞮伯華之所行。觀於四方、不忘其親、苟思其親、不盡其楽、蓋介山子然之行也』。」説苑曰、「孔子歎曰『銅鞮伯華無死、天下有定矣』。」晋太康地記云、「銅鞮、晋大夫羊舌赤之邑、世號赤曰銅鞮伯華。」【索隠】按、自臧文仲已下、孔子皆後之、不並代。其所厳事、自老子及公綽已上、皆孔子同時人也。按、戴徳撰礼、號曰大戴礼、合八十五篇、其四十七篇亡、見今存者有三十八篇。今裴氏所引在衛将軍篇。孔子称祁奚對晋平公之辞、唯挙銅鞮・介山二人行耳。家語又云、「不克不忌、不念舊怨、蓋伯夷・叔斉之行。思天而敬人、服義而行信、蓋趙文子之行。事君不愛其死、謀身不遺其友、蓋隨武子之行。」

孔子が厳事(げんじ)する(師と仰いだ)ひとは、周では老子。

老子は実在が否定され、存在したとしても孔子より後の時代の人なので、孔子が老子を師と仰ぐのは信頼できない。

衛では蘧伯玉。

『論語』衛霊公篇に、「君子なるかな、蘧伯玉。邦に道有れば則ち仕へ、邦に道無ければ則ち巻きて之を懐にす可し」とある。親しかったことは分かるが、師として仰いだかは疑わしい。

斉では、晏平仲。

孔子世家に、斉の景公が孔子を取り立てようとしたとき、阻止した人物として登場する。『論語』公冶長篇に、子曰く、「晏平仲 善く人と交はり、久しくするも而も人 之を敬す」と」と見える。

楚では老萊子(ろうらいし)。

老子韓非列伝に出てくる人と同一であるか不明。

鄭では子産。

『論語』公冶長篇、憲問篇で人柄を称えている。

魯では孟公綽。

『論語』憲問篇で、清廉潔白さを称えている。

しばしば臧文仲・柳下恵・銅鞮(どうてい)(地名)の伯華・介山の子然を称えた。孔子は彼らより後に生まれ、同じ時代に生きなかった。

ここにあげる人たちは、『論語』で称されていなかったり、同時代人であったりで、司馬遷の要約が、あまりうまくいっていない。「厳事」は『論語』に見えない言葉。どこから来た記述なのか気になる。


太史公曰

太史公曰、学者多称七十子之徒、誉者或過其実、毀者或損其真、鈞之未覩厥容貌、則論言弟子籍、出孔氏古文近是。余以弟子名姓文字悉取論語弟子問并次為篇、疑者闕焉。

【索隠述贊】教興闕里、道在郰郷。異能就列、秀士升堂。依仁遊藝、合志同方。将師宮尹、俎豆琳瑯。惜哉不霸、空臣素王。

学者はしばしば七十人の弟子のことをとりあげる。ほめ過ぎ、けなし過ぎがある。公平に判断せずに論評している。弟子籍(弟子の指名・年齢を記したものか。現存せず)が、孔家の古文書から発見された。それに書かれていることは、事実に近いようだ。弟子の姓名は、ことごとく『論語』における問答から取った。疑わしいものは除いた。

『新釈』による孔子弟子列伝評

『新釈』はいう。『史記』のこの列伝は、もっとも退屈。『論語』の段階で断片的なのに、それを抄録したため。例えば子路が、孔子とともに海に浮かぼうとする話を省略している。だが、『論語』を丸ごと載せては、司馬遷の歴史にならない。

これは、『新釈』による『史記』孔子列伝評である。

他方、『論語』にない子貢の弁舌が『史記』に記され、もっともページ数が割かれている。そこに、司馬遷の歴史を見ることができる。子貢が弁舌の徒とだけいえば、『論語』為政篇にある問答、「先づ其の言を行い…」を引けばよく、『孟子』公孫丑にある、「宰我・子貢は善く説辞を為し…」を引いてもよかった。
司馬遷が、子貢を活躍させたのは、このような人物を必要とする世になることを暗示し、個人の性行や才能が国家の命運を左右することが、司馬遷の史観であった。
子貢の活躍は、おそらく史実ではないが、越王句践が子貢のはかりごとを用いたことを、『史記』伍子胥列伝にも記す。

そのような伝説の実在性が言えるのか、はたはた、列伝の巻のあいだの整合性に気を配る司馬遷、という話なのか。『新釈』では、伝説の実在性を言っている。
伝説の実在性って、形容矛盾してますけどね笑
そしてぼくは、列伝のあいだの整合性を取っているという作業のほうが、興味あります。これは、単なる本のあら探し(への予防策)という意味ではなく、司馬遷が描いていた歴史世界、歴史像みたいなものが伝わってくる。


このような伝承は、顔淵の夭折後、孔子にもっとも期待された子貢に多く見られる。この列伝中の原憲とのエピソードや、『史記』孔子世家にある、孔子たちが陳蔡の間で災厄にあったとき、孔子が、子路・子貢・顔淵の三人の弟子と問答したことなどは、『論語』にない。
虚実が混在しているだろうが、孔子の弟子のなかで、司馬遷が興味のある人物として、子貢の伝承を盛り込みたかった。子貢を立体的に描くために、司馬遷は(子路の逸話を削除しておきながらも)子貢には『論語』に肉付けしたと。210221

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『論語』から逸脱して弁舌で活躍、子貢伝

『論語』に典拠をもつ子貢

『論語』の典拠をもつ子貢の記録があり、あとで『論語』から逸脱する。

端沐[一]賜、衛人、字子貢。少孔子三十一歳。
子貢利口巧辭、孔子常黜其辯。問曰、「汝與回也孰愈。[二]」對曰、「賜也何敢望回。回也聞一以知十、賜也聞一以知二。」

[一]【索隠】家語作「木」。 [二]【集解】孔安国曰、「愈猶勝也。」

端沐賜、または端木賜は、あざなは子貢。孔子より31歳下。子貢は弁舌が巧みだが、孔子はいつも弁舌を退けた。
孔子は、「汝と回(顔回)と孰(いづ)れか愈(まさ)る」と質問した。 子貢は、「賜や何ぞ敢(あへ)てを望まん。回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知るのみ」と。

『史記集解』によると、「愈」は「勝(まさる)」のこと。それに基づく訓読。『論語』公冶長篇に基づく。
渡邉先生によると、司馬遷は省略しているが、孔子はこの直後、「如かざるなり。吾と汝とは(顔回に)如かざるなり」と、子貢だけでなく自分すらもまた、顔回に及ばないと言っている。朱子は、孔子が顔回に劣ったら困るので、この文にスペシャルな曲解をする。


子貢既已受業、問曰、「賜何人也。」孔子曰、「汝器也。」[一]曰、「何器也。」曰、「瑚璉也。」[二]

[一]【集解】孔安国曰、「言汝器用之人。」 [二]【集解】包氏曰、「瑚璉、黍稷器。夏曰瑚、殷曰璉、周曰簠簋、宗廟之貴器。」

子貢は学問を習った。孔子は子貢を、「汝は器(き)なり」、器のなかでも、「瑚璉なり」と評した。

『史記集解』に引く包咸が、瑚璉を説明している。宗廟祭祀で穀物を盛るための貴重な器。『論語』公冶長篇より。
渡邉先生は、『論語』為政篇に、「君子は器ならず」とある。皇侃『論語義疏』は、器は使い道が限定されるという批判とする。江熙は、立派な器だから、国政はできるが、雑務ができるとは限らない、と活躍の場が限定されるという批判とする。渡邉先生は、子貢と孔子は、ともに実務に秀でるところが共通であり、孔子は実務ができるのを、自身が卑しかったためとする。孔子は、タイプの似ている器用な子貢にきつく当たった。


陳子禽問子貢曰、「仲尼焉学。」子貢曰、「文武之道未墜於地、在人、賢者識其大者、不賢者識其小者、莫不有文武之道。夫子焉不学、[一]而亦何常師之有。」[二]

[一]【集解】孔安国曰、「文武之道未墜落於地、賢與不賢各有所識、夫子無所不從学。」 [二]【集解】孔安国曰、「無所不從学、故無常師。」

陳子禽は子貢に、孔子の師について質問した。子貢は、

『論語』子張篇による。質問者を陳子禽とするのは誤りで、『論語』のように衛の公孫朝とすべき。陳子禽は、名は亢。『史記』に列伝はないが、孔子の弟子であることは、『礼記』檀弓篇、『孔子家語』に見える。

子貢の回答は、「文・武の道、未だ地に墜ちず、人に在り。賢者は其の大なる者を識り、不賢者は其の小なる者を識る。文・武の道有らざる莫し。夫子 焉(いづ)くにか学ばざらん。而(しかう)して亦た何の常師か之れ有らん」と。
周の文王・武王の道は、まだ完全に滅んでいません。賢者は大事なところを理解し、賢者でなくとも一部は理解しています。文王・武王の道は遍在しています。孔子がどこにいても学ばぬことがなく、特定の師などおらぬのです。

又問曰、「孔子適是国必聞其政。求之與。抑與之與。」[一]子貢曰、「夫子温良恭倹譲以得之。夫子之求之也、其諸異乎人之求之也。」[二]

[一]【集解】鄭玄曰、「怪孔子所至之邦必與聞国政、求而得之邪。抑人君自願與之為治者。」 [二]【集解】鄭玄曰、「言夫子行此五德而得之、與人求之異、明人君自與之。」

さらに(『史記』の文脈では)陳子禽が質問した。孔子が国にゆくと政治の相談を受けます。『漢書』先生が自分を売り込んだのか、相手から求められたのかと。「求むるか、与ふるか」という二択。
子貢の回答。「夫子は温良恭倹譲、以て之を得たり。夫子の之を求むるや、其れ諸(こ)れ人の之を求むるに異なるなり」と。要請を「得」たのであり、孔子が「求」めたとしても、世間一般の就職運動とは別物ですと。

『論語』学而篇による。ただの進退窮まったものの強がりに見えるが、ただの強がりにならないのは、「温良恭倹譲」という鄭玄のいう五徳を備えているから。五徳のおかげで、引っ張りダコなのだと。


子貢問曰、「富而無驕、貧而無諂、何如。」孔子曰、「可也。[一]不如貧而樂道、富而好礼。」[二]

[一]【集解】孔安国曰、「未足多也。」 [二]【集解】鄭玄曰、「樂謂志於道、不以貧為憂苦也。」

子貢は孔子に問う。富んでも驕らず、貧しくても諂わないのはなぜか。貧しくとも道を楽しみ、富んでも礼を好むから。

鄭玄注によると、道を楽しむとは、道を志すこと。これさえしてれば貧しくても憂懼にならないと。『論語』学而編。


縦横家としての子貢

『新釈』によると、蘇秦・張儀顔負けの弁舌で、斉の田常、晋・呉・悦の諸侯ら、くせものを手玉にとって魯を救う。斉が魯を打つ、呉が斉と艾陵で戦う、黄池の会盟(ここでは戦ったことになっている)、越が呉を滅ぼすという、メジャーな出来事はいずれも『春秋左氏伝』に見えるが、子貢の暗躍は『春秋左氏伝』に見えない。
宋の蘇轍・王安石が説くように、戦国の説客による偽作。

『史記』孔子世家・仲尼列伝は、『論語』や『春秋左氏伝』に収束して確定する前の、孔子の師弟の伝説を伝えている。ひとたび、『論語』や『春秋左氏伝』が確定し、儒家経典として尊重されてしまうと、堅苦しいものになる。まして『論語』が、朱子によって、『論語』が処世訓として再解釈されると、孔子の師弟の話=つまらない、となった。少なくともぼくは、そのような理由により、孔子の師弟に興味がなかった。
しかし、『史記』の段階では、テキストによって伝えられた、歴史上の人物としての孔子の師弟と出会うことができる。ここでいう歴史上の人物とは、「真偽不明の情報が伝わり、物語になっている」、「誇張や印象操作によって、行動や台詞が捻じ曲げられている」という人物のこと。われわれが、いわゆる歴史書で出会う英雄たちと同じ。これが面白くないはずがない。
縦横家として、諸国の王を相手として弁舌を振るい、祖国の魯を救う話が、『史記』仲尼弟子列伝に載っている。以下、読んでいきたい。


田常欲作乱於斉、憚高・国・鮑・晏、故移其兵欲以伐魯。孔子聞之、謂門弟子曰、「夫魯、墳墓所処、父母之国、国危如此、二三子何為莫出。」子路請出、孔子止之。子張・子石[一]請行、孔子弗許。子貢請行、孔子許之。

[一]【索隠】公孫龍也。

田常(陳恒)が斉で乱を起こそうとした。

田常は、陳恒で、斉の大夫。斉の簡公を殺し、斉の実権を握った。

田常は、国内の大夫をはばかり、その軍を魯に差し向けようとした。孔子は、「夫れ魯は、墳墓の処(あ)る所、父母の国なり。国の危きこと此の如し。二三子、何為(なんす)れぞ出づる莫き」と弟子たちに、故郷の魯国を救援せよと叱咤した。子路・子張・子石が外交に行こうとしたが、孔子が止めた。子貢に行くことを許した。

『史記会注考証』によると、子石は孔子より53歳下であり、このとき13か14歳なので若すぎる。ぼくが思うに、子石を登場させている時点で、さっそく創作が破綻しているじゃないかと。


遂行、至斉、說田常曰、「君之伐魯過矣。夫魯、難伐之国、其城薄以卑、其地狭以泄、[一]其君愚而不仁、大臣偽而無用、其士民又悪甲兵之事、此不可与戦。君不如伐呉。夫呉、城高以厚、地広以深、甲堅以新、士選以飽、重器精兵盡在其中、又使明大夫守之、此易伐也。」田常忿然作色曰、「子之所難、人之所易。子之所易、人之所難、而以教常、何也。」

[一]【索隠】按、越絶書其「泄」字作「浅」。

子貢は斉にゆき、田常に、魯は国力が乏しく軍事が弱く、呉は国力が盛んで軍事が強いので、かえって魯よりも呉のほうが討ちやすいと説いた。詭弁ですね。
田常は怒って、「子の難しとする所は、人の易しとする所なり。子の易しとする所は、人の難しとする所なり。而るに以て常を教(をし)ふるは、何ぞや」と応じた。

最後は、「そんなことをわしに説くとは、どういう了見なのだ」という平凡な問い掛け。田常が筋が通っており、子貢の説は破綻しているように見える。そして、魯への攻撃を逸らすために、目標に指定される呉は、たまったものではない。


子貢曰、「臣聞之、憂在内者攻彊、憂在外者攻弱。今君憂在内。吾聞君三封而三不成者、大臣有不聽者也。今君破魯以広斉、戦勝以驕主、破国以尊臣、[一]而君之功不与焉、則交日疏於主。是君上驕主心、下恣羣臣、求以成大事、難矣。夫上驕則恣、臣驕則爭、是君上与主有卻、下与大臣交爭也。如此、則君之立於斉危矣。故曰不如伐呉。伐呉不勝、民人外死、大臣内空、是君上無彊臣之敵、下無民人之過、孤主制斉者唯君也。」田常曰、「善。雖然、吾兵業已加魯矣、去而之呉、大臣疑我、奈何。」子貢曰、「君按兵無伐、臣請往使呉王、令之救魯而伐斉、君因以兵迎之。」田常許之、使子貢南見呉王。

[一]【集解】王肅曰、「鮑・晏等帥師、若破国則臣尊矣。」

子貢はいう。憂いが国内にあるものは強国を攻め、憂いが国外にあるものは弱国を攻めるといいます(出典の明示はとくになし)。かりに弱国の魯に勝ち、斉の国力があがれば、斉の君主はあなたを圧倒するし、国内のライバルをつけ上がらせるだけ。強国の呉と戦って負ければ、国内のライバルは外地で戦死し、斉の君主は打ちひしがれ、あなたは安泰である。

ぼくは思う。田常は、斉の国内の立場を安泰にするために、斉そのものの国力を削ぐことに、同意してしまった。内紛に目を奪われる典型的なダメなやつとして描かれる。内紛に勝っても、組織全体が滅びたら、内紛によって得た権益も失われるというのに。このように認識を誤らせるのが、ここの子貢の縦横家としての活躍。

田常は、「しかしもう魯に向けて兵を動かしてしまった。攻撃目標を呉に変えると、不審がられる」と。子貢は、「あなたが魯への攻撃を見合わせてくれるなら、そのあいだに、私が呉王のもとに行き、呉vs斉の状況を作りましょう」と言った。

『論語』と関係ない、ただ面白いだけの読み物です。


説曰、「臣聞之、王者不絶世、霸者無彊敵、千鈞之重加銖兩而移。今以萬乘之斉而私千乘之魯、与呉爭彊、竊為王危之。且夫救魯、顯名也。伐斉、大利也。以撫泗上諸侯、誅暴斉以服彊晋、利莫大焉。名存亡魯、實困彊斉。智者不疑也。」

子貢は呉王にいう。「王者は(他国の)世嗣を絶やさず、覇者は敵が強くなるのを見落とさないと」と。やはり出典の表記なし。

ぼくは思う。『新釈』は、「敵を強くする無し」と訓読し、通釈を「敵に無理強いすることがない」とするが、不適であろう。

万乗の斉が、千乗の魯を併合しそうです。呉が助けて魯を存続させてやれば、呉王は王者になれます。斉を牽制して(魯の攻略を止めなければ)、斉が強化されてバランスがくずれ、呉王は覇者になれません」と。
こうして呉王を、斉と戦うように仕向けた。

『史記会注考証』によると、春秋時代、この万乗という使い方はしない。当時、周王にしか使えない。戦国時代になると、強大な斉王を、万乗ということも。
王者と覇者の区別は、『孟子』に始まるそうです。『論語』の世界では、区別がないはず。ここで子貢は、呉王に、魯を救援して王者となり、斉を牽制して覇者となれ、と両立を説いている。1回の出兵で、王者になれるし、覇者への資格を失わないと。


呉王曰、「善。雖然、吾嘗与越戦、棲之会稽。越王苦身養士、有報我心。子待我伐越而聽子。」子貢曰、「越之勁不過魯、呉之彊不過斉、王置斉而伐越、則斉已平魯矣。且王方以存亡継絶為名、夫伐小越而畏彊斉、非勇也。夫勇者不避難、仁者不窮約、智者不失時、王者不絶世、以立其義。今存越示諸侯以仁、救魯伐斉、威加晋国、諸侯必相率而朝呉、霸業成矣。且王必悪越、[一]臣請東見越王、令出兵以從、此實空越、名從諸侯以伐也。」呉王大説、乃使子貢之越。

[一]【索隠】悪猶畏悪也。

呉王は、「かつて越と戦い、これを会稽に追いやった(之を会稽に棲ましむ)。越は、わが呉への復讐を狙っており、遠征の余裕がない」と断った。

呉と越の戦いは、『春秋左氏伝』哀公元年に見える。

子貢は、「越は魯より弱く、呉は斉より弱いのです―。

あとに展開されるレトリックから見ても、魯と越を比べることに、論理的な意味はない。ただ越が弱いから、優先順位を落としていいよとだけ言いたい。

最弱の越ごときに気を取られるあまり、呉が斉の躍進を放置したら、斉は魯を滅ぼす。すると呉王は、魯を救って王者になることも、斉に追いついて覇者になることもできなくなる」と脅迫してから、
さらに子貢は、「もし呉王が、越を見逃してやり、魯を救い、斉を牽制し、晋を威圧すれば、諸侯はこぞって呉に朝貢する」と、脈絡なく晋を持ち出して、呉王の功名心をくすぐったのち、
「それでも越王の動きが心配ならば(王 必ず越を悪(にく)まば)、越王を説得し、呉王の斉征伐に従軍させましょう。それなら、呉の留守を越王に狙われる心配がなくなりますね」と言った。呉王は、子貢を越に派遣した。

越と悪(にく)むというのは、索隠によると、畏(おそ)れ悪むに近い。ぼくは、それでも心配で、警戒が必要だと思うならば…としました。


越王除道郊迎、身御至舍而問曰、「此蠻夷之国、大夫何以儼然辱而臨之。」子貢曰、「今者吾説呉王以救魯伐斉、其志欲之而畏越、曰『待我伐越乃可』。如此、破越必矣。且夫無報人之志而令人疑之、拙也。有報人之志、使人知之、殆也。事未發而先聞、危也。三者挙事之大患。」句踐頓首再拜曰、「孤嘗不料力、乃与呉戦、困於会稽、痛入於骨髓、日夜焦脣乾舌、徒欲与呉王接踵而死、孤之願也。」遂問子貢。

子貢は越王に、「呉王は、越への警戒に注意力を向けています。だから斉への遠征に慎重になりました。呉王からの警戒を引き受け続けるのは、越にとって下策ですよね」と言った。子貢によれば、「人に報ゆるの志有りて、人をして之を知らしむるは、殆なり」という。復讐心があるとして、それを露骨に相手に意識させてしまえば、越王自身の身を危うくしますよ。
越王、「かといって、呉王への復讐を諦められない。どうしたらいい?」と。

子貢曰、「呉王為人猛暴、羣臣不堪。国家敝以數戦、士卒弗忍。百姓怨上、大臣内変。子胥以諫死、[一]太宰嚭用事、順君之過以安其私、是残国之治也。今王誠發士卒佐之徼[二]。其志、[三]重宝以説其心、卑辞以尊其礼、其伐斉必也。彼戦不勝、王之福矣。戦勝、必以兵臨晋、臣請北見晋君、令共攻之、弱呉必矣。其鋭兵盡於斉、重甲困於晋、而王制其敝、此滅呉必矣。」越王大説、許諾。送子貢金百鎰、劍一、良矛二。子貢不受、遂行。

[一]【索隠】王劭按、家語・越絶並無此五字。是時子胥未死。 [二]【集解】結堯反。 [三]【集解】王肅曰、「激射其志。」

子貢は越王に答えた。「呉王は横暴です。伍子胥は諫死し(史実ではまだ死んでない)、太宰嚭(ひ)が権力を握り、呉は傾いています。越が呉の遠征に協力すれば、呉は、斉と戦って疲弊します。もしも呉が斉を破っても、つぎは強国の晋に挑みかかり、けっきょく疲弊します。越が呉を討つのは、そのときです」と言った。越王は、呉王への復讐ができるならばと、賛同した。

報呉王曰、「臣敬以大王之言告越王、越王大恐、曰、『孤不幸、少失先人、内不自量、抵罪於呉、軍敗身辱、棲于会稽、国為虚莽、[一]頼大王之賜、使得奉俎豆而修祭祀、死不敢忘、何謀之敢慮。』」後五日、越使大夫種頓首言於呉王曰、「東海役臣孤句踐使者臣種、敢修下吏問於左右。今竊聞大王將興大義、誅彊救弱、困暴斉而撫周室、請悉起境内士卒三千人、孤請自被堅執鋭、以先受矢石。因越賤臣種奉先人藏器、甲二十領、鈇屈盧之矛、[二]歩光之劍、以賀軍吏。」呉王大説、以告子貢曰、「越王欲身從寡人伐斉、可乎。」子貢曰、「不可。夫空人之国、悉人之衆、又從其君、不義。君受其幣、許其師、而辞其君。」呉王許諾、乃謝越王。於是呉王乃遂發九郡兵伐斉。

[一]【集解】虚音墟。莽、莫朗反。【索隠】有本作「棘」、恐誤也。 [二]【索隠】鈇音膚、斧也。劉氏云一本無此字。屈盧、矛名。

子貢は、「越王(句践)は、復讐に燃えるどころか、呉王のお情けに感謝していました」と報告した。追って、越から呉に使者がきて、「越王自身が、呉の先鋒になって、斉の攻撃に参加させて頂きたい」と言ってきた。
呉王は(子貢の言うとおりになったので)喜んだ。しかし子貢は、「越王まで駆り出すのは、不義(やり過ぎ)です。越からは、金品と兵だけを借りましょう」と言った。呉王はその通りにし、越との関係が安定したので、斉への遠征を始めた。

かなり激しく要約していますが、「読んだら楽しいだけの話」なので、一字一句、掘り下げることはしません。


子貢因去之晋、謂晋君曰、「臣聞之、慮不先定不可以応卒、[一]兵不先辨不可以勝敵。今夫斉与呉將戦、彼戦而不勝、越乱之必矣。与斉戦而勝、必以其兵臨晋。」晋君大恐、曰、「為之奈何。」子貢曰、「修兵休卒以待之。」晋君許諾。

[一]【索隠】按、卒謂急卒也。言計慮不先定、不可以応卒有非常之事。

子貢は呉を去って晋にゆき、晋君に、「慮(おもんぱか)り先ず定まらざれば、以て卒(急のこと)に応ず可からず。兵 先づ辨ぜざれば、以て敵に勝つ可からず」といった。『史記索隠』に沿い、『新釈』も同様の理解であるが、配慮が行き届いていなければ、急な事態に対応できない。軍を準備していなければ、敵に勝つことができない」と、出典不明のことを言った。
子貢はいう。「これから、呉と斉が戦います。呉が斉に負ければ、越が呉の背後を突きます。呉が斉に勝てば、呉軍は晋に向かってくるでしょう」と。

勝ちに乗じて呉が晋を狙うというのは、子貢が越王のところで言った予測だが、呉王の意思確認をした描写はなかった。呉が斉に勝ったところで、斉が挑戦を受けるというのは、確定していないように思われますが。
むしろ、この憶測によって、大国の晋を巻き込むことに、子貢のオリジナリティがあるのかも。

晋君は、子貢の言うとおり、呉軍を迎撃する準備をした。

子貢去而之魯。呉王果与斉人戦於艾陵、[一]大破斉師、獲七将軍之兵而不歸、果以兵臨晋、与晋人相遇黄池[二]越入呉、呉与越平也。之上。呉晋争彊。晋人撃之、大敗呉師。越王聞之、涉江襲呉、去城七里而軍。呉王聞之、去晋而歸、与越戦於五湖。三戦不勝、城門不守、越遂圍王宮、殺夫差而戮其相。[三]破呉三年、東向而霸。

[一]【索隠】按、左伝在哀十一年。 [二]【索隠】左伝黄池之会在哀十三年。 [三]【索隠】按、左伝越滅呉在哀二十二年、則事並懸隔数年。蓋此文欲終説其事、故其辞相連。

子貢は魯に帰国した。呉王は、斉人と艾陵で戦い、呉が斉を破った。『春秋左氏伝』哀公十一年に見える。

この戦いは、『春秋左氏伝』哀公十一年に見える。つまり、史実の呉と斉の大激突の背後に、子貢の暗躍があったという二次創作。

(子貢の見立てどおり)呉は、斉の撃破で飽き足らず、晋に挑戦しようとした。晋と呉は、黄池で対峙した。『春秋左氏伝』では、哀公十三年に見えること。

『史記』で子貢が、呉が斉を撃破したのち、きっと晋と敵対すると予測できたのは、『春秋左氏伝』哀公十一年~十三年の史実が先にあり、その二次創作をしたから。文中で十分な説明がなかったが、そこは独自に描く必要がなかった。マクロな史実は動かないから。
黄池は、『春秋左氏伝』哀公十三年では会盟であるが、この『史記』子貢伝のストーリーでは戦いである。子貢が、呉vs晋の戦いに仕向けてくる(ところが物語のオリジナリティ)なので、呉と晋は会盟で済ませるわけにはいかない。

晋は呉を撃破し、

『史記』の子貢物語で、呉に拳を振り上げさせてしまったので、呉の敗退を捏造しない限り、史実に接続できない。

呉がいないうちに、越王が呉を攻撃した。

前の文で子貢は呉王に、「越王まで従軍させるのは、不義です」と言った。そのせいで、呉は越王に、根拠地を突かれた…という理解は、誤りです。
『史記』子貢物語において、かたや越王を圧倒的に説得して、呉への従軍に乗り気にさせるという、子貢の手柄が必要であった。だから『史記』の子貢物語で、越王は、自ら呉王の遠征に、従軍を願い出るほどであった。かたや、越王自身が呉に攻め込むという史実と接続しなければならない。だから、またもや子貢が、呉王を説得して、「越王を従軍させるのは、やり過ぎです」とし、越王を国元に残らせるという調整をした。

越王は、慌てて帰ってきた呉王夫差を殺した。『春秋左氏伝』によると、越が呉を滅ぼしたのは、哀公二十二年である。数年の隔たりがある(黄池から九年後)。

『史記索隠』は、一連の出来事なので、まとめて書いてしまったのだ、と好意的に解釈する。ぼくが思うに、『史記』子貢列伝は、子貢が働きかけた結果によって、春秋時代のすべての事態が動いたという「セカイ系」の物語である。だから、『春秋左氏伝』の伝えている年数の隔たりは、問題にならない。

越は、呉を破って三年で、覇者を称した。

子貢が、祖国の魯を救うというのは、ただのキッカケ。もし、魯の行く末の物語ならば、呉が遠征を開始した時点で、終わってもよかった。しかし、『春秋左氏伝』哀公で知られている、艾陵の戦い、黄池の会盟と接続することで、子貢物語に信憑性をあたえ、箔を付けることに主眼があったことが分かる。


故子貢一出、存魯、乱斉、破呉、彊晋而霸越。子貢一使、使勢相破、十年之中、五国各有変。[一]

[一]【索隠】按、左伝謂魯・斉・晋・呉・越也、故云「子貢出、存魯、乱斉、破呉、彊晋而霸越」。

つまり子貢がひとたび魯を出ると、魯を存続させ、斉を混乱させ、呉を撃破し、晋を強大にし、越を覇者として、諸国の均衡を崩したのである。十年にうちに、五つの国で変化が起きた。

『春秋左氏伝』によれば、斉が魯を伐ったのは哀公八年、艾陵の戦いは哀公十一年、黄池の会盟は哀公十三年、呉の滅亡は哀公二十二年なので、十五年にあいだの出来事。
晋と越に味方したことは、価値基準としてアリだったのか? そのような価値基準とは関係なく、この時期の国家間のバランスの変化=史実ありきで、その史実には善も悪もなく、ただ子貢の影響力を(捏造的に差し挟んでではあるが)アピールできれば、二次創作の目標達成だったのかも。


最後に、縦横家とは別のエピソードがある。

子貢好廃挙、与時轉貨貲。[一]喜揚人之美、不能匿人之過。常相魯衛、家累千金、卒終于斉。

[一]【集解】廃挙謂停貯也。与時謂逐時也。夫物賤則買而停貯、值貴即逐時轉易、貨賣取資利也。【索隠】按、家語「貨」作「化」。王肅云、「廃挙謂買賤賣貴也、轉化謂隨時轉貨以殖其資也。」劉氏云、「廃謂物貴而賣之、挙謂物賤而收買之、轉貨謂轉貴收賤也。」

子貢は、「廃挙」を好んだ。これは、ひとから見向きもされなく、価値が下がったもの()を買い集めて、溜め込む()こと。『史記』貨殖列伝に、子貢の名が見える。転売して、「貨貲」にした。これは事業の元手となる、金や材料のこと。

渡邉先生によると、子貢が投機を得意としたことは、『論語』にも書かれている。しかしそのほかの事柄は、儒家が他の諸子と対抗するなかで、子貢に仮託した物語と考えてよい。縦横家が活躍した戦国後期まで、子貢物語の形成が続いていたことが、『史記』子貢列伝によって示される。

喜(この)んで人の美を揚げ、人の過(あやま)ちを匿(かく)すこと能はず。

訓読にすると、情報量が減って判別不能になるが、「能はず」が掛かるのは、過ちを隠すことだけ。ひとの美点は、きちんと持ち上げることができた。

魯・衛の宰相になったとあるが、そんな事実はない。ただし転売によって、家に千金を蓄えていたことは否認されない。斉で亡くなった。210221

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孔子から最高評価の弟子、顔回伝

孔子にもっとも評価された顔回

顔回者、魯人也、字子淵。少孔子三十歳。[一]
顔淵問仁、孔子曰、「克己復礼、天下歸仁焉。」[二]

[一]【正義】少、戍妙反。 [二]【集解】馬融曰、「克己、約身也。」孔安国曰、「復、反也。身能反礼、則為仁矣。」

顔回は、魯のひと。孔子より三十歳若い。

これば司馬遷による地の文。説明になっている。

『論語』顔淵篇にあるように、顔淵が孔子に仁を問うと、「己を剋(つつし)みて礼に復(かへ)るを仁と為す。一日 己を剋(つつし)しみて礼に復れば、天下 仁に帰す」と答えた。
日本語にもなっている「克己」には、さまざまに読まれている。何晏注に従って読むと、「自分自身を慎んで礼にかえることを仁とみなせる。一日でも自分自身を慎んで礼にかえれば、天下(の人々)は仁に帰すとなる。

『論語』顔淵篇に、孔子の教えは続きがあって、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言ふこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ」とある。司馬遷は省いている。


孔子曰、「賢哉回也。[一]一簞食、一瓢飲、[二]在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽。」[三]

[一]【集解】衛瓘曰、「非大賢楽道、不能若此、故以称之。」 【索隠】衛瓘字伯玉、晋太保、亦注論語、故裴引之。 [二]【集解】孔安国曰、「簞、笥也。」 [三]【集解】孔安国曰、「顔回楽道、雖簞食在陋巷、不改其所楽也。」

『論語』雍也篇に、「賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂ひに堪へざるも、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」とある。
顔回は、少しの飯、少しの飲み物で、むさ苦しい路地で暮らしている。他人には我慢できそうにない境遇であるが、しかし顔回は、その(道を)楽しむことから挫折しそうにない。

「回也如愚。[一]退而省其私、亦足以発、回也不愚。」[二]「用之則行、捨之則藏、唯我与爾有是夫。」[三]

[一]【集解】孔安国曰、「於孔子之言、默而識之、如愚也。」 [二]【集解】孔安国曰、「察其退還与二三子説釈道義、発明大体、知其不愚。」 [三]【集解】孔安国曰、「言可行則行、可止則止、唯我与顔回同也。」欒肇曰、「用己而後行、不假隠以自高、不屈道以要名、時人無知其実者、唯我与爾有是行。」【正義】肇字永初、高平人、晋尚書郎、作論語疑釈十巻、論語駮二巻。

『論語』為政篇に、「吾 回と言ふこと終日、違はざること愚の如し。退きて其の私を省れば、亦た以て発するに足れり。回や愚ならず」とある。顔回は質問することなく、黙っていて愚者のようであった。しかし顔回が退いて、朋友と個人的に会話に会話しているのを観察すると(私生活を観察すると、と日々の実践に求める読み方もある)、わたしの話を理解していた。

「回也如愚」は、『史記』前段の「賢哉回也」と対応してキレイだが、『論語』では、「不違如愚」とあるので、ちょっと違う。

『史記』のつづき。『論語』述而篇に、「之を用ふれば則ち行ひ、之を舎(す)つれば則ち蔵(かく)る。唯だ我と爾と是れ有るかな」とある。君主に登用されるなら出向き、捨てられたら隠棲する。これができるのは、私と顔回だけなのだ。

回年二十九、髪尽白、蚤死。[一]孔子哭之慟。

[一]【索隠】按、家語亦云「年二十九而髪白、三十二而死」。王肅云「此久遠之書、年数錯誤、未可詳也。校其年、則顔回死時、孔子年六十一。然則伯魚年五十先孔子卒時、孔子且七十也。今此為顔回先伯魚死、而論語曰顔回死、顔路請子之車、孔子曰『鯉也死、有棺而無槨』、或為設事之辞」。按、顔回死在伯魚之前、故以論語為設詞。

顔回は二十九歳で、全部が白髪になって亡くなった。

『孔子家語』は、顔回の死んだ年齢を三十二歳とする。『新釈』によると、顔回の死んだ年齢は、四十歳から四十三歳と推定できるという。

『論語』先進篇に、「顔淵 死す。子 之を哭して慟す。従者曰く、「子 慟せり」と。子曰く、「慟すること有るか。夫(か)の人の為めに慟すに非ずして誰が為めに慟せん」とある。後半が『史記』では切られている。
「慟」は、前後不覚になって体を震わせること。前後不覚になったことを、度を超したものでは?と疑問を投げかけられた。孔子は、自分が度を超したことに気がつかなかった。(開き直ったのか)顔回のために前後不覚になれないなら、誰のためになれるのか、と反論した。孔子の反論は、このでは『史記』から省かれている。

曰、「自吾有回、門人益親。」[一]魯哀公問、「弟子孰為好学。」孔子對曰、「有顔回者好学、不遷怒、不貳過。不幸短命死矣、今也則亡。」[二]

[一]【集解】王肅曰、「顔回為孔子胥附之友、能使門人日親孔子。」 [二]【集解】何晏曰、「凡人任情、喜怒違理。顔回任道、怒不過分。遷者移也、怒當其理、不移易也。不貳過者、有不善未嘗復行。」

孔子の言、「自吾有回、門人益親」、顔回を弟子にしてから、門人は私にますます親しみを持つようになった…は、『論語』との対応は未詳。
つぎは、『論語』雍也篇に、「哀公 問ひて曰く、「弟子 孰(たれ)か学を好むと為す」と。孔子 対へて曰く、「顔回なる者有り、学を好めり。怒りを遷さず、過ちを弐(ふたた)びせず。不幸にして短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり」とあり、節略されている。

孔子の最高評価の弟子、顔回について、たったこれだけで概観できてしまうのは、お得でした。210221

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閔子騫・伯牛・仲弓(顔回以外の徳行)

費国の禄を食まない、閔子騫

閔損字子騫。[一]少孔子十五歳。孔子曰、「孝哉閔子騫。人不閒於其父母昆弟之言。」[二]

[一]【集解】鄭玄曰、「孔子弟子目錄云魯人。」【索隠】家語亦云「魯人。少孔子十五歳」。
[二]【集解】陳羣曰、「言子騫上事父母、下順兄弟、動靜尽善、故人不得有非閒之言。」

閔子騫は、司馬遷は出身地を示していないが、『史記集解』に引く鄭玄注により、魯の人と分かる。すごいな。

鄭玄が参照している、「孔子弟子目録」って何か分かりませんが。この列伝の末尾で、現存せず未詳とされていた。

つづき。『論語』先進篇に、「子曰く、「孝なるかな、閔子騫。人 其の父母兄弟を間(そし)るの言あらず」と」とある。閔子騫が、父母兄弟との関係性がパーフェクトだから、閔子騫に向けてかれの親族の悪口を言うひともいないと。

不仕大夫、不食汙君之禄。[一]「如有復我者、[二]必在汶上矣。」[三]

[一]【索隠】論語季氏使閔子騫為費宰、子騫曰「善為我辞焉」、是不仕大夫、不食汙君之禄也。 [二]【集解】孔安国曰、「復我者、重來召我。」 [三]【集解】孔安国曰、「去之汶水上、欲北如斉。」

汚い君主の禄を食まない…というのは、『論語』雍也篇にある情報から、司馬遷が要約して、記述しなおしたもの。『論語』雍也篇に、「「季氏 閔子騫をして費の宰為らしめんとす。閔子騫曰く、「善く我が為に辞せよ。如し我を復びする者有らば、則ち吾は必ず汶の上に在らん」と」とある。
閔子騫は、季氏を経由してきた、費に就職する話を蹴った。費=汚い禄というわけ。閔子騫がボイコットして逃亡しようとした汶水上とは、斉のこと。210221

大病をわずらった伯牛さん

冄耕字伯牛。[一]孔子以為有徳行。伯牛有悪疾、孔子往問之、自牖執其手、[二]曰、「命也夫。斯人也而有斯疾、命也夫。」[三]

[一]【集解】鄭玄曰魯人。【索隠】按、家語云魯人。 [二]【集解】包氏曰、「牛有悪疾、不欲見人、孔子從牖執其手。」 [三]【集解】包氏曰、「再言之者、痛之甚也。」

冄耕(ぜんこう)は、孔子に徳行があると言われた。
『論語』雍也篇に、「伯牛 疾有り。子 之を問ひ、牖(まど)より其の手を執りて、曰く、「之を亡(うしな)はん。命なるかな、斯の人にして斯の疾有るや、斯の人にして斯の疾有るや」と」とある。
司馬遷により、語順が変わっており、繰り返しがなくなっている。

伯牛のエピソードは、ここだけ。あまり重要そうでない人物が、こんなに早く登場しているのは、「徳行では、顔淵・閔子騫・冄(ぜん)伯牛・仲弓である」という、序文を消化しようとしているから。司馬遷は、『論語』先進篇に見える、各ジャンルでトップレベルの弟子の羅列を軸として、『論語』の情報を抄録している。なるほど、そういうことね。


「雍や」と呼び掛けられた仲弓さん

冄雍字仲弓。[一]仲弓問政、孔子曰、「出門如見大賓、使民如承大祭。[二]在邦無怨、在家無怨。」[三]

[一]【集解】鄭玄曰、「魯人。」【索隠】家語云、「伯牛之宗族、少孔子二十九歳。」 [二]【集解】孔安国曰、「莫尚乎敬。」 [三]【集解】包氏曰、「在邦為諸侯、在為卿大夫。」

冄雍(ぜんよう)は、あざなを仲弓。あの「雍也」篇の「雍や」さん。
『論語』顔淵篇に、「仲弓 を問ふ」とある。『史記』は「政を問ふ」となっており、一致しない。
『論語』顔淵篇によると、仲弓 仁を問ふ。子曰く、「門を出でては大賓を見るが如くし、民を使ひては大祭を承くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。邦に在りても怨まるること無く、家に在りても怨まるること無し」と」とある。
己の欲せざる~が、『史記』で省略されている。家の門を出るときは、大切なお客様に会うかのようにし、民を使うときは大祭を行うかのようにする。…邦にいても怨まれることがなく、家にいても怨まれることはないと。

渡邉義浩「『史記』仲尼弟子列伝と『孔子家語』」(『中国―社会と文化』二九、二〇一四年)を参照。らしいです。


孔子以仲弓為有徳行、曰、「雍也可使南面。」[一]
仲弓父、賤人。孔子曰、「犂牛之子騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸。」[二]

[一]【集解】包氏曰、「可使南面、言任諸侯之治。」 [二]【集解】何晏曰、「犂、雜文。騂、赤色也、角者、角周正、中犧牲、雖欲以其所生犂而不用、山川寧肯舍之乎。言父雖不善、不害於子之美。」

『論語』雍也篇の冒頭に、「雍や南面せしむ可し」とある。雍は、弟子の冉雍。字は仲弓のこと。

『史記』はここで仕切り直したかのように、「雍也」そのものを挟んでくる。徳行を…というのは、『史記』による繋ぎの文。ここの『論語』の篇にない。

『論語』雍也篇の離れたところに、「子 仲弓を(仲弓について)謂ひて曰く、「犂牛の子も、騂(あか)くして且つ角あらば、用ふること勿からんと欲すと雖も、山川 其れ諸(これ)を舎(す)てんや」と」とある。210222

父が卑しくて…というのは、ストーリーを分からせるために、司馬遷が付けてくれた導入文。


ついでにメモ

古事記及び日本書紀の研究[完全版](毎日ワンズ、二〇二〇年)読んでます。津田の文は、いろいろ文を加工されているので、なにが一番なのかは分かりませんが…。
学部時代、記紀研究の本をたくさん読みましたが、もちろん自分で古事記や日本書紀を研究することはできず…、でも史料との距離感の取り方は、中国の歴史書を読むとき参考になります。中国の歴史書のほうが検討材料や周辺情報が多くて捗ります。210223

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政治は、冉求・子路(左氏伝の闘争)

孔子の評に、「政事、冄有・季路」とあるので、この二人の列伝が並んでいる。とくに季路(子路)は、『春秋左氏伝』と共通の政治への関与が載っており、これは『論語』に見えないもの。孔子の師弟のわりに、史実の表舞台(『春秋左氏伝』)に登場しているのは珍しい。

政治家として成功した冉求

冄求字子有、[一]為季氏宰。季康子問孔子曰、「冄求仁乎。」曰、「千室之邑、百乗之家、[二]求也可使治其賦。仁則吾不知也。」[三]復問、「子路仁乎。」孔子對曰、「如求。」

[一]【集解】鄭玄曰魯人。少孔子二十九歳。 [二]【集解】孔安国曰、「千室、卿大夫之邑。卿大夫称家。諸侯千乗、大夫故曰百乗。」 [三]【集解】孔安国曰、「賦、兵賦也。仁道至大、不可全名也。」

冉求は、あざなの子有でなく冉求と呼ばれる。季氏の宰という高い地位にあり、それは『孟子』離婁篇にみえる。
『論語』公冶長篇に、「孟武伯 問ふ、「子路は仁なるか」と。子曰く、「知らざるなり」と。又 問ふ。子曰く、「由や、千乗の国、其の賦を治めしむ可し。其の仁なるを知らざるなり」と。「求や何如」と。子曰く、「求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむ可きなり。其の仁なるを知らざるなり」と」とある。
質問者が、季康子と孟武伯で異なる。『論語』において、こんなふうに偉そうに質問をしてくる季康子とは。

季康子は、魯の大夫。三桓の一である季孫氏の第七代。冉有・子貢・子路・樊遅などを用いた。家宰とした冉有に、戦の助言を求めた(『春秋左氏伝』哀公 伝十一年)。進言を容れない場合が多かったことは、八佾篇・季氏篇を参照。

『史記』で人違いをされた、孟武伯とは。

孟武伯は、魯の大夫。孟懿子の子。


求問曰、「聞斯行諸。」[一]子曰、「行之。」子路問、「聞斯行諸。」子曰、「有父兄在、如之何其聞斯行之。」[二]子華怪之、「敢問問同而答異。」孔子曰、「求也退、故進之。由也兼人、故退之。」[三]

[一]【集解】包氏曰、「賑窮救乏之事也。」 [二]【集解】孔安国曰、「当白父兄、不可自専。」 [三]【集解】鄭玄曰、「言冄有性謙退、子路務在勝尚人、各因其人之失而正之。」

冉求が孔子に聞いた。やるべきことを聞いたら、すぐに実行して宜しいでしょうか。冉求と子路とで、回答が異なった。冉求は引っ込み思案だから背中を押し、子路には慎重にせようと答えた。

『論語』先進篇に見え、子路と冉求の質問の順序が異なっている。『史記』は、子路でなく冉求の列伝に載せるために、冉求を先に持ってきたのか。

質問は、「聞かば斯(ここ)に諸(これ)を行はんか」という。

仲尼弟子列伝の冒頭に、「政事、冄有・季路。言語、宰我・子貢。文学、子游・子夏」とある。この並びに従って、冉有(冄有)のつぎに、季路(子路)が置かれる。子路は、やたらな力強さによって孔子に愛されたと思いきや、政治手腕による評価だったんですね。

孔子にもっとも好かれた子路

仲由字子路、卞人也。[一]少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄雞、佩豭豚、[二]陵暴孔子。孔子設礼稍誘子路、子路後儒服委質、[三]因門人請為弟子。

[一]【集解】徐広曰、「尸子曰子路、卞之野人。」【索隠】家語一字季路、亦云是卞人也。 [二]【集解】冠以雄雞、佩以豭豚。二物皆勇、子路好勇、故冠帯之。 [三]【索隠】按、服虔注左氏云「古者始仕、必先書其名於策、委死之質於君、然後為臣、示必死節於其君也」。

仲由は、あざなは子路。孔子より九歳若いので、意外と年齢が近い。孔子と子路の出会いは、いま『論語』のなかで見つけられなかった。見つけたら補う。

子路問政、孔子曰、「先之、勞之。」[一]請益。曰、「無倦。」[二]

[一]【集解】孔安国曰、「先導之以徳、使民信之、然後勞之。易曰『悅以使民、民忘其勞』。」 [二]【集解】孔安国曰、「子路嫌其少、故請益。曰『無倦』者、行此上事無倦則可。」

『論語』子路篇の冒頭に、「子路 政を問ふ。子曰く、「之に先んじ、之を労す」と。益(ま)さんことを請ふ。曰く、「倦むこと無かれ」と」とある。内容は同じ。

子路問、「君子尚勇乎。」孔子曰、「義之為上。君子好勇而無義則乱、[一]小人好勇而無義則盜。」子路有聞、未之能行、唯恐有聞。[二]

[一]【集解】李充曰、「既称君子、不職為乱階也。若君親失道、国家昏乱、其於赴患致命而不知正顧義者、則亦陷乎為乱而受不義之責也。」【索隠】按、充字弘度、晋中書侍郎、亦作論語解。[二]【集解】孔安国曰、「前所聞未及行、故恐復有聞不得並行。」

『論語』陽貨篇に、「子路曰く、「君子勇を尚ぶか」と。子曰く、「君子 義もて以て上と為す。君子 勇有りて義無ければ、乱を為す。小人 勇有りて義無ければ、盗を為す」と」とあり、文に異同がある。
『論語』公冶長篇に、「子路 聞くこと有りて、未だ行ふ能はざれば、唯だ聞くこと有るを恐る」とある。ブツ切れな感があるが、『論語』でもブツ切れ。教えを受けたが実践に移せていなければ、さらに別の教えを聞くことを恐れたという。

孔子曰、「片言可以折獄者、其由也与。」[一]「由也好勇過我、無所取材。」[二]「若由也、不得其死然。」[三]「衣敝縕袍[四]与衣狐貉者立而不恥者、其由也与。」「由也升堂矣、未入於室也。」[五]

[一]【集解】孔安国曰、「片猶偏也。聽訟必須兩辞以定是非、偏信一言折獄者、唯子路可也。」 [二]【集解】欒肇曰、「適用曰材、好勇過我用、故云『無所取』。」【索隠】按、肇字永初、晋尚書郎、作論語義也。 [三]【集解】孔安国曰、「不得以壽終也。」 [四]【集解】孔安国曰、「縕、枲著也。」 [五]【集解】馬融曰、「升我堂矣、未入於室耳。」

『論語』顔淵篇に、「「片言 以て獄(うつたえ)を折(さだ)む可き者は、其れ由なるか」と。子路 宿(あらかじ)め諾(うべな)ふこと無し」とある。これまたブツ切れ。
『論語』公冶長篇に、あの名場面、いかだで海外脱出しよう、とあるがそれを『史記』は削除し、後半だけを引く。『論語』公冶長篇に、「「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無からん」」とある。またブツ切れ。
『論語』先進篇に、「「由の若きは、其の死に然(まともな死にざま)を得ず」」とある。またブツ切れ。セリフ1つずつを寄せ集める方針だから、海外逃亡の話が消えたのも、その方針によるものだろう。
衣敝~は、『論語』子罕篇に、「弊(やぶ)れたる縕袍を衣(き)、狐狢を衣る者と立ちて恥ぢざる者は、其れ由なるか」とある。
『論語』先進篇に、「由や、堂に升れり。未だ室に入らざるなり」とある。

この節は、『新釈』で一回も改行してないが、すべて『論語』から断片的に、孔子の子路に関するセリフを拾って並べただけ。状況説明などは全部カット。


季康子問、「仲由仁乎。」孔子曰、「千乗之国可使治其賦、不知其仁。」 子路喜従游、遇長沮・桀溺・荷蓧丈人。

『論語』公冶長篇に、「孟武伯 問ふ、「子路は仁なるか」と。子曰く、「知らざるなり」と。又 問ふ。子曰く、「由や、千乗の国、其の賦を治めしむ可し。其の仁なるを知らざるなり」と」とある。質問者が、『史記』では季康子だが『論語』では孟武伯。
『論語』微子篇に、「長沮・桀溺 耦して耕す。……子路 従ひて後るるや、丈人の杖を以て篠(あじか)を荷(にな)ふに遇ふ」とある。微子篇の長い逸話を、段落二つから最初の一文ずつだけを抜いた物もの。

子路為季氏宰、季孫問曰、「子路可謂大臣与。」孔子曰、「可謂具臣矣。」[一] 子路為蒲大夫、[二]辞孔子。孔子曰、「蒲多壮士、又難治。然吾語汝、恭以敬、可以執勇。[三]寛以正、可以比衆。[四]恭正以静、可以報上。」

[一]【集解】孔安国曰、「言備臣数而已。」 [二]【索隠】蒲、衛邑、子路為之宰也。 [三]【集解】言恭謹謙敬、勇猛不能害、故曰「執」也。 [四]【集解】音鼻。言寛大清正、衆必帰近之。

『論語』先進篇に、「季子然 問ふ、「仲由・冉求は大臣と謂ふ可きか」と。子曰く、「……所謂 大臣なる者は、道を以て君に事へ、不可なれば則ち止む。今 由と求とは、具臣と謂ふ可し」と」とある。長い文を、かなり断片的に抜いているだけ。がっかりだよ。子路が季氏の宰になったことは、『春秋左氏伝』定公十二年、『礼記』礼運篇にみえる。
子路が「蒲」の宰になったことは、『論語』との対応はなさそう。統治が難しいところで、いかに振る舞うべきかのアドバイスを事前にしている。

『春秋左氏伝』における子路の事績

初、衛霊公有寵姫曰南子。霊公太子蕢聵得過南子、懼誅出奔。及霊公卒而夫人欲立公子郢。郢不肯、曰、「亡人太子之子輒在。」於是衛立輒為君、是為出公。出公立十二年、其父蕢聵居外、不得入。子路為衛大夫孔悝之邑宰。[一]蕢聵乃与孔悝作乱、謀入孔悝家、遂与其徒襲攻出公。出公奔魯、而蕢聵入立、是為荘公。

[一]【索隠】按、服虔云「為孔悝之邑宰」。

衛霊公は、南子という寵姫がいた。太子の蒯聵は、南子を殺そうとして気付かれ、宋に出奔した。霊公が亡くなると、公子郢を即位させようとした。公子郢は断り、出奔した太子蒯聵の子・蒯輒を即位させた。これが出公である。出公が即位して十二年、父の蒯聵は国外にいたままであった。そのとき子路は、衛の大夫の孔悝の私領の長官であった。蒯聵が孔悝とともに出公を襲った。蒯聵は(息子の)出公を追い出して即位した。これが衛の荘公であると。
初め~出奔すまで、『春秋左氏伝』定公十四年にこの記事が見える。これが荘公であるというのは、司馬遷が付けた説明。
『史記会注考証』によると、南子は夫人であり、寵姫ではない。また当時、側室は姫といわない。太子の名は、『春秋左氏伝』と『史記』衛世家は「蒯聵」につくり、『史記』は「蕢」につくる。
『史記』衛康叔世家によれば、蒯聵は南子と仲が悪く、彼女の殺害を試みたが失敗したという。『春秋左氏伝』定公十四年の伝にこの記事が見える。

史実を『春秋左氏伝』と『史記』衛世家と照合できる。そしてこれは『論語』からの転載ではない。渡邉先生によると、これは『春秋左氏伝』に基づくか、あるいは、『春秋左氏伝』成立が『史記』より送れるのであれば、『史記』と現行『春秋左氏伝』に共通する、春秋時代の物語が存在したのであろうと。

蒯聵が孔悝と乱を起こし~即位したは、『春秋左氏伝』哀公十五年にみえる。さすが、定公十四年から、年数が経過していますね。

『春秋左氏伝』哀公十五年より、子路が史実に関与する。

方孔悝作乱、[一]子路在外、聞之而馳往。遇子羔出衛城門、謂子路曰、「出公去矣、而門已閉、子可還矣、毋空受其禍。」子路曰、「食其食者不避其難。」子羔卒去。有使者入城、城門開、子路隨而入。造蕢聵、蕢聵与孔悝登臺。子路曰、「君焉用孔悝。請得而殺之。」蕢聵弗聽。於是子路欲燔臺、蕢聵懼、乃下石乞・壺黶攻子路、撃斷子路之纓。子路曰、「君子死而冠不免。」遂結纓而死。

[一]【索隠】按、左伝蒯聵入孔悝家、悝母伯姫劫悝於廁、強与之盟而立蒯聵、非悝本心自作乱也。

ストーリーが『春秋左氏伝』と異なる。『新釈』は『春秋左氏伝』に寄せて訳し、その余説に、子路の伝は子貢に次ぐ二番目の分量であり、後半は、主人の孔悝を救うために子路が奮闘し殺される場面。司馬遷は、たとえ勝ち目がなくとも、いちど主人になったものの禍難を救おうとした、子路の没利害性に深く共感していたと推定している。

孔子聞衛乱、曰、「嗟乎、由死矣。」已而果死。故孔子曰、「自吾得由、悪言不聞於耳。」[一]是時子貢為魯使於斉。[二]

[一]【集解】王肅曰、「子路為孔子侍衛、故侮慢之人不敢有悪言、是以悪言不聞於孔子耳。」 [二]【索隠】按、左伝子貢為魯使斉在哀十五年、蓋此文誤也。

孔子は(子路の就職先である)衛で乱があったと聞き、子路の死を予感する。『論語』に直接の記事はなくて、『論語』先進篇に、「由の若きは、其の死に然を得ず」と、由(子路)のよう(に勇敢)では、その死に方はまともではないな、とあるだけ。

『論語』のこの語から、『史記』の記述を膨らますのはムリなので、整合性がある別系統の情報であろう。渡邉先生によると、中島敦『弟子』は、孔子が子路の死を知る場面があり、膨らまされている。

『史記索隠』に載せる校勘により、子貢が魯のために斉への使者となり…は、後の文(子貢伝)の混入であるとする。ぼくもそう思います。さきに子貢伝を読んでyoutubeに上げたので覚えています。210224

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三年喪に疑問を投げかけた宰我

「言語は、宰我・子貢」とあった。子貢は先にやってしまったので、ここでは宰我だけを消化する。

三年喪は長すぎる

宰予字子我。[一]利口辯辞。既受業、問、「三年之喪不已久乎。君子三年不為礼、礼必壞。三年不為楽、楽必崩。舊穀既沒、新穀既升、鑽燧改火、期可已矣。」[二]子曰、「於汝安乎。」曰、「安。」「汝安則為之。君子居喪、食旨不甘、聞楽不楽、故弗為也。」[三]宰我出、子曰、「予之不仁也。子生三年然後免於父母之懐。[四]夫三年之喪、天下之通義也。」[五]

[一]【集解】鄭玄曰魯人。【索隠】家語亦云魯人。 [二]【集解】馬融曰、「周書月令有更火之文。春取榆柳之火、夏取棗杏之火、季夏取桑柘之火、秋取柞楢之火、冬取槐檀之火。一年之中、鑽火各異木、故曰『改火』。」 [三]【集解】孔安国曰、「旨、美也。責其無仁於親、故言『汝安則為之』。」 [四]【集解】馬融曰、「生未三歳、為父母所懐抱也。」 [五]【集解】孔安国曰、「自天子達於庶人。」

めずらしく『論語』のなかで論争を含んだ部分。『論語』陽貨篇を節略している。宰我 問ふ、「三年の喪は、期にして已に久し……」というところ。

宰予昼寝。子曰、「朽木不可雕也、[一]糞土之牆不可圬也。」[二]宰我問五帝之徳、子曰、「予非其人也。」[三]宰我為臨菑大夫、[四]

[一]【集解】包氏曰、「朽、腐也。雕、雕琢刻畫。」 [二]【集解】王肅曰、「圬、墁也。二者喻雖施功猶不成也。」 [三]【集解】王肅曰、「言不足以明五帝之徳也。」 [四]【索隠】按、謂仕斉。斉都臨淄、故云「為臨淄大夫」也。

宰我が昼寝したというのは、皇侃の理解では、学問を怠って昼寝していた。梁の武帝は、寝室に絵を描いていたとし、劉原父は、諸侯の政を聴く正殿にいたとする。『全訳論語集解』は、昼寝の意味でとる。
『論語』公冶長篇。宰我が昼寝していたので、孔子は、弟子たちの言うがままを信用しなくなり、実際の行動(たとえば昼寝をしてサボっていないか)を観察するようになったという。いいじゃん昼寝ぐらい。
宰我が五帝の徳について説明を求めたことは、『論語』で見つけられず。『新釈』は特定しておらず、ぼくの拙い検索も失敗しました。

与田常作乱、以夷其族、孔子恥之。[一]

[一]【索隠】按、左氏伝無宰我与田常作乱之文、然有闞止字子我、而因争寵、遂為陳恆所殺。恐字与宰予相涉、因誤云然。

宰我が田常と抗争したことは、司馬遷の誤り。 『新釈』によると、宰我とおなじあざなの闞止という人物が、田常と、斉の簡公の寵を争って田常に殺されたことは、『春秋左氏伝』哀公十一年に記されており、司馬遷はこれを同一人物と誤認したという。
田常は、陳恒のことで(このページで既出)、斉の大夫。寵臣の闞止を殺し、さらに主君の簡公まで殺し、斉の実権を握った悪いひと。210224

『史記』仲尼弟子列伝は、つぎに子貢の列伝を載せるが、すでに上で消化しているため、繰り返さない。

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文学ならば、子游・子夏

孔子が、「文学ならば、子游・子夏だな」と言ったことに対して、司馬遷が伝記を整理している。豊富な逸話や作品群があるわけではなく、詩や音楽を通じて、孔子と話が噛みあった逸話をもっている弟子、という程度に見える。

礼学を用いて小邑を治める子游

言偃、呉人、[一]字子游。少孔子四十五歳。子游既已受業、為武城宰。[二]孔子過、聞弦歌之聲。孔子莞爾而笑[三]曰、「割雞焉用牛刀。」[四]子游曰、「昔者偃聞諸夫子曰、君子学道則愛人、小人学道則易使。」[五]孔子曰、「二三子、[六]偃之言是也。前言戯之耳。」[七]孔子以為子游習於文学。

[一]【索隠】家語云魯人。按、偃仕魯為武城宰耳。今呉郡有言偃冢、蓋呉郡人為是也。 [二]【正義】括地志云、「在兗州、即南城也。輿地志云南武城縣、魯武城邑、子游為宰者也、在泰山郡。」 [三]【集解】何晏曰、「莞爾、小笑貌。」 [四]【集解】孔安国曰、「言治小何須用大道。」 [五]【集解】孔安国曰、「道謂礼楽也。楽以和人、人和則易使。」 [六]【集解】孔安国曰、「従行者。」 [七]【集解】孔安国曰、「戯以治小而用大。」

『論語』陽貨篇の逸話。子游が武城を治めると、絃歌の響きを聞いた。

絃歌は、琴瑟を弾き、詩を吟じること。『周礼』春官小師の鄭玄注に、「絃、謂琴瑟也。歌、依詠詩也」とある。

陽貨篇に、「子 武城に之き、絃歌の声を聞く。……「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用ひん」と」とある。小さな邑を治めるだけなのに、どうしてわざわざ礼楽を用いる必要があるのかと言った。子游が反論すると、孔子はふざけただけだよと言った。
子游列伝はこれだけ。

『全訳論語集解』によると、皇侃は、「絃歌の声を聞く」について、人家から弦歌が聞こえたという説と、子游が弦歌で民を教化しているのを聞いた、という説の二つの説を載せる。邢昺は、後者を採用する。また、『論語義疏』は、牛刀を子游の大才の喩えとする。へー。


孔子と『詩』を語りあえる子夏

卜商[一]字子夏。少孔子四十四歳。 子夏問、「『巧笑倩兮、美目盼兮、素以為絢兮』、何謂也。」[二]子曰、「繪事後素。」[三]曰、「礼後乎。」[四]孔子曰、「商始可与言詩已矣。」[五]

[一]【集解】家語云衛人。鄭玄曰温国卜商。【索隠】按、家語云衛人、鄭玄云温国人、不同者、温国今河内温県、元属衛故。 [二]【集解】馬融曰、「倩、笑貌。盼、動目貌。絢、文貌。此上二句在衛風碩人之二章、其下一句逸詩。」 [三]【集解】鄭玄曰、「繪、畫文也。凡畫繪先布衆色、然後以素分布其閒以成其文、喻美女雖有倩盼美質、亦須礼以成也。」 [四]【集解】何晏曰、「孔言繢事後素、子夏聞而解知以素喻礼、故曰『礼後乎』。」 [五]【集解】包氏曰、「能発明我意、可与言詩矣。」

『論語』八佾篇にこの会話があって、「子曰く、「予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言ふ可きのみ」と」とある。『詩経』衛風 碩人の詩をめぐって、おしろいの飾りつけ、しあげを、礼になぞられている。

子貢問、「師与商孰賢。」子曰、「師也過、商也不及。」[一]「然則師愈与。」曰、「過猶不及。」子謂子夏曰、「汝為君子儒、無為小人儒。」[二]

[一]【集解】孔安国曰、「言俱不得中。」 [二]【集解】何晏曰、「君子之儒将以明道、小人為儒則矜其名。」

『論語』先進篇による逸話。師(子張)と卜商(子夏)は、どちらが勝っていますか。師(子張)は行き過ぎがある。商(子夏)は及ばぬところがある。「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごときなり」という有名な文で締め括られる。
つぎは、『論語』雍也篇に、「「君子の儒と為れ。小人の儒と為ること毋かれ」とある。

孔子既没、子夏居西河[一]教授、為魏文侯師[二]。其子死、哭之失明。

[一]【索隠】在河東郡之西界、蓋近龍門。劉氏云、「今同州河西県有子夏石室学堂也。」【正義】西河郡、今汾州也。爾雅云、「兩河閒曰冀州。」礼記云、「自東河至於西河。」河東故號龍門河為西河、漢因為西河郡、汾州也、子夏所教処。括地志云、「謁泉山一名隠泉山、在汾州隰城県北四十里。注水經云『其山崖壁五、崖半有一石室、去地五十丈、頂上平地十許頃。隨国集記云此為子夏石室、退老西河居此』。有卜商神祠、今見在。」 [二]【索隠】按、子夏文学著於四科、序詩、伝易。又孔子以春秋属商。又伝礼、著在礼志。而此史並不論、空記論語小事、亦其疏也。【正義】文侯都安邑。孔子卒後、子夏教於西河之上、文侯師事之、咨問国政焉。

注釈[一]は地理に関する情報が豊富だが、見るべき情報はない。孔子の死後、西河に住み、魏の文侯の師になった。『論語』に見えるわけではなく、『全訳論語集解』では、『史記』をこの経歴の出典にあげている。
子を亡くし、泣きすぎて失明したことは、『礼記』檀弓篇、『淮南子』精神訓に見えるという。すごいところに。210224

だいぶ長くなったので、ページを分ける。
司馬遷による序文、「徳行では、顔淵・閔子騫・冄(ぜん)伯牛・仲弓である。政事では、冄有・季路である。言語表現では、宰我・子貢がいる。文学では、子游・子夏がいる」という、前半戦は消化することができた。210224

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