孫呉 > もしも孫権が四十歳で死んだら #孫権四十歳

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第1回_国論分裂、江陵と北来人士を失う

企画の始まり

タグ #孫権四十歳 でイフ物語を考えます。コメント・アイディアください。
孫権が黄初二年(史実より31年早い)四十歳で死ぬ。この年は、4月に劉備が皇帝即位、夏に蜀軍が荊州侵入、秋に曹丕が孫権を呉王に封建。武昌の釣台から落ちるまで泥酔し、劉備と対峙して暮れた年。孫権の死因は墜落で。

物語のはじまり

呉王になり権力を増した孫権は、釣台でアルコールハラスメント。
孫堅・孫策の短命を振り返る。孫権だけは長命という予言があるから、「曹丕と劉備を併呑する」と宣言。早死にすることへのフラグ(伏線)なのだが、作中の孫権は、かなり余裕をかまして、寿命を「おろそか」にする。「虎狩りは危険だから慎め」と張昭に叱られるが、危機感ゼロ(史実なみ)。

異国から高度数の酒が届く。孫権は徳の波及を喜ぶ。曹丕ではなく、孫権のもとに届けられたことは、自分が天下統一の布石となる。「曹丕に臣従したのは、カタチだけである」と、(酒臭い)気を吐く。
異国からの祝賀の使者が、高度数の酒を献上。孫権が飲み干し、急性アルコール中毒。顔色が悪くなる。群臣は「毒殺」を疑うが、酒に強い猛将が飲むと、顔色は変わらないから、ただの酒と分かる。孫権のアルハラには、ウンザリしていたから、群臣は、むしろ安心するほど。
孫権は、臣下を釣台から落下させるという趣向の宴会を続けるが、自らも落下してしまう。群臣は冗談と思い、気づかずに宴会を続ける。

国論が分裂する

遺詔なき孫権の死。同年から、劉備と荊州で戦っており、陸遜が食い止めているところである。荊州の決着までは、孫権の死を隠蔽したい。影武者を立てるにも、弟の孫翊・孫匡は故人。事績が不明の孫朗を置く。

孫朗は、いつもこんな役回りである。史書の記述が、ハンパだと、作家に便利づかいされるという。


呉臣の世論が分裂。地域の安定を望む穏健派は、
①孫権がいない以上、魏への臣従を確かなものにする。孫権は生前、「魏への臣従は、カタチだけ」と思っていた。その孫権の意志は、上の場面で、すでに描いておく。しかし、建前を、現実に置き換える。
「臣従は、建前だったでしょって? 言い掛かりは止してください。はじめから、マジメに臣従するつもりでしたよ」と、内外(呉の国内および、魏)に対して開きなおる。
魏に孫登の嗣王を申請し、別の任子を出す。これは、世代をこえて呉王国が存続する、という前提である。孫権が亡くなっても、そのまま魏が受け入れてくれるか、分からない。やや見通しが甘いか。

魏への臣従をヨシとしない強硬派は、
②史実なみに、「独立」を維持し、魏・蜀と渡りあうことを目指す。まず、荊州で劉備を退ける(負けるつもりで戦っているはずがない)。蜀の脅威が去ったら、魏と断交する(史実の路線)。
史実で孫権は、孫登を任子に送らず、素知らぬふりをしながら、劉備を退けた。これは、史実であるが、かなり確立の低い、ラッキーである。
本作において、強硬派ですら、魏の参戦を避けるため、孫登を差し出すことに、同意するかも知れない。魏が荊州に参戦したとき、「藩国の呉を守る」という名目で、軍隊を送りこんでくるかも知れないが、果たして、ほんとうに守ってくれるのか。「ついでに呉を平定」するリスクが高い。
強硬派は、あくまで国の存続を優先する。孫登が帰国できねば別の君主を立てるつもりである。そこまで、リスクを織りこんで、孫登を送り出せという。

強硬派=独立派から見れば、②’影武者の孫朗は、君主として担ぐには、器量不足である。史書に、ろくに事績が残らない程度の人物である。一時的な影武者は、務まるかも知れないが(年齢・見た目で、ほかに適任者がいない)、孫登に代わる君主として、孫紹(孫策の子)を立てる。

司馬昭は、兄の司馬師から家を嗣いだ。しかし、次子の司馬攸を、兄の司馬師の子として扱い、司馬攸に家を嗣がせる(兄の司馬師に家を返す)という、トリッキーなことを画策した。儒者もOKしてくれそう。

もともと孫権は、「孫策が早死にしたとき、孫策の子が幼すぎた」という、現実的な事情で、家を嗣いだのである。「孫権が死んで、孫権の子が若すぎる」という現実的な事情で、孫策の子に家を戻しても、おかしくない。むしろ、孫登をゴリ押しする理由がない……と、強硬派は考える。
孫登は、209年の生まれ。221年で、まだ13歳。

第三のアイディアは、蜀と和解して、魏と対抗すること。
魏にカタチだけ臣従したが、本当の脅威は、魏である。
「蜀が呉を滅ぼす」ことは、考えられない。蜀には、国力・水軍の準備がない。蜀の国是である、「打倒_曹魏」が優先である。呉を滅ぼすことは、蜀のなかで支持が得られない。夷陵に進む前だって、反発があった。蜀としては、「荊州を奪還し、揚州を孫氏に任せて、隆中対を実現したい」はず。
ぎゃくに、「魏が呉を滅ぼす」には、魏の国力が充分だし、水軍は、ゴリ押ししてくるかも知れない。曹操が、なんどか孫権を攻撃している。史実の曹丕も、数年後に、あの手この手で呉を攻めてくる。
第三の派閥は、③蜀に荊州を「返還」して早期に和解を目指す。

史実において、劉備が死んだとき、蜀は、あっさり呉と国交を回復して、魏にそなえた。同じことが、呉で行われてもおかしくない。蜀とあっさり国交を回復して、魏に備えるという。
夷陵の滞陣は、ながらく呉が劣勢である。条件を交渉し、城を授受すれば、「第二の単刀会」として、落としどころが見つかるかも知れない。「関羽を殺しちゃって、ゴメン。でも、それよりもリアルに、魏を倒す同盟を、結び直しましょう」と。
蜀のなかに必ず存在するであろう、「呉との戦争反対派」を抱きこんで、、とか考えたけど、それができるなら、史実でも、陸遜があんなに苦労しなかっただろう。やはり、城の数で、妥協するしかない。
やはり、交戦中の蜀と結ぶというのは、即効性がない。しかし、外交のオプションとして、粘り強く続ける価値は、ある。だれか、魯粛の志を継いでくれないものか。

孫登が、任子となる

①魏への臣従を唱えるのは、徐州・揚州の知識人である。赤壁のとき「降伏」を言った人たち。揚州を安定させるには、「長いものに巻かれる」ことに同意。
②孫氏の独立を唱えるのは、武力によって孫権に仕えた人たち。孫堅・孫策・孫権と、主君を変えながら、孫氏を支えてきた。
孫登を任子に出すことは、①・②の両派にとって、有利なこと。①孫登が、魏への忠誠を表明してもよし、②孫登の供出が、魏軍による呉の攻撃を回避(延期)してくれるかも知れない。
孫登は、さまざまな思惑を背負って、魏に向かう。

孫登に従うのは、張昭の子の張休。
張昭-張休-孫登という、『漢書』の読み方の師弟関係である。張休の文化資本があれば、うまく魏のなかで、立ち回れるという期待がある。①臣従を確定させるための、監視役でもある。
②強硬派をおともにすると、魏を挑発する恐れがある。②強硬派から、ひとを出すのは、宜しくない。また、文化資本が乏しいので、入朝しても、恥をかくだけである。

魏は継続して、史実なみに、「孫登を任子に遅れ」と催促している。史実の孫権は、曹丕に、南方の珍宝を差し出して、それでゴマカしたが、それは、孫権だからできる芸当である。
魏・蜀に同時進攻を受けたら、滅亡が確定する。孫登が東中郎将(史実なみ)として、魏に出仕する。曹丕はご満悦。「魏帝の徳が、行き渡ったなあ」と、孫権と同じ発想。君主になると、儒教の理念に引きずられて、多少、ボケになる。リアルより理念が先行する。

孫権を墜落させた、アルコール度数の高い酒を、呉臣・孫登が運んで、曹丕に献上する。「曹丕も死んでくれたら、ラッキーなのに」と。曹丕は、少し飲むだけ。じつは曹丕は、健康オタクかも知れない。
史実の曹丕は、孫権に翻弄されて、寿命を縮めた。本作の曹丕は、もしかしたら、史実よりも長生きできるかも知れない。
本作の主人公は、孫登。できるだけ、孫登に目線を固定する。孫登が見聞きしたものベースで、話を進める。

劉備が夷陵で勝つ

夷陵の戦線において、陸遜にだけ孫権の死が伝わる。陸遜は諸将に秘す。敵を欺くには、まず味方から。諸将に、孫権の死がモレたら、陸遜の統制は、きかなくなる。蜀軍にモレたら、持久戦を崩して、動かれる可能性がある。

話を、孫登の目線で進めることにした。孫登には、「陸遜を慰問する」という役割を帯びて、荊州に行かせる。孫権の死を、孫登が陸遜に告げる。
荊州の戦いは、「呉が、魏の残敵である蜀を討伐している」という名目である。文帝紀の裴松之注などに見える解釈。曹丕にきちんと報告するため、荊州を視察・慰問するというのは、史実なみでも、成り立つ話である。

史実の陸遜は、逐一、孫権に連絡することなく、劉備を破った。陸遜が、孫権の死を、100% 腹のなかに溜めることができたら、史実と同じ、持久戦ができたはずである。しかし、孫登は、陸遜の苦悶を目撃する。

陸遜は、周瑜・魯粛・呂蒙の短命の理由を知る。彼らは孫権を頼らず独自に戦略を立てた。自分は孫権に頼っていたと。孫権に頼らず、独自に戦略を組み立てるのは、難しいなと。
陸遜は、蜀と戦っている指揮官だったから、本心を口に出来ないが、孫権がいない以上、③蜀と和解する派である。
ただし、蜀との戦いは、うまく「収束」させないと、今後、呉が不利になってしまう。「より有利に、より生産的に、戦いを終結させる」道を探る。しかし、関羽のことを根に持っている劉備に、交渉は通じない。戦って、決着をつける、というプロセスは、必要ではある。

史実の陸遜は、孫権の代理となり、蜀との外交を一任された。蜀との交渉は、できる人である。「実質的に劉備を殺したに等しい陸遜が、蜀との外交をする」とは、違和感があるけど、それが史実なので。

蜀との関係をプロデュースするのは、周瑜・魯粛が、苦労してきたこと。
史実は、劉備の死と、諸葛亮の主導によって、なんとなく国交が回復してしまった。その史実のほうが、特殊というか、異常というか、リアリティがない。

史実の特殊さ(特徴)を、浮かび上がらせるのも、イフを考える楽しさです。

しかし本作では、劉備が生きているうちに、呉が主導して、蜀と呉の関係を、再定義する必要がある。
やりがいのあるお仕事!おもしろそう。

陸遜は、史実ほど持久戦をできず、早期に攻撃をかける。劉備の勝ち。
戦いの経緯は別に考えるが、陸遜は江陵に退いて防衛戦へ。そこで、孫権の死が、将軍たちに知られてしまう。孫権の死を知り、動揺する諸将。
史実と同じ時期に、夷陵の戦いが決着。蜀が進攻する。

三国が江陵を争奪する

黄初三年夏、蜀軍が江陵を攻めると、呉が孫権の死を公表し、魏に援軍を請う。影武者の孫朗は、お役御免。史実の孫権は、曹丕を翻弄したが、孫朗では機能せず。
曹丕は、お手元にいる孫登に、呉王・荊州牧を嗣がせる。群臣は、「そこまで、孫登を優遇する必要はない」というが、曹丕は封建してあげる。

曹丕は、「蜀軍から、呉の江陵を守る」という名目で、救援を出す。またもや、魏臣の反対を押し切り、曹丕は孫登を、荊州を救援するための指揮官に加える。孫登に、「定期的に、入朝するように」と約束させ、一方的に信頼する。魏臣たちは、「せっかく孫登が来たのに、なぜ虎を野に放つのか」と、ガッカリする。
孫登は、四友の1人の張休(張昭の子)とペアで魏に来ていたが、2人とも荊州に出る。江陵の陸遜は士気が回復。

江陵を「救う」のは、夏侯尚・張郃・曹真・徐晃らである。史実の同年の戦い(魏が呉を攻めたもの)がモデル。魏将は、魏の領土を増やすことを、最優先に考える。連れてきた孫登を「飾り」としか思っていない。蜀軍の撃退を名目として、江陵を魏が奪うべきと考える。
魏軍の接近を知り、劉備は、長江南岸の公安(赤壁のあと、劉備が周瑜から借りたところ)に退き、江陵攻めを中断する。城外の魏軍と、城内の呉軍に挟まれたら、劉備でも勝てないから。
劉備は、江陵を諦めたのではない。魏・呉が、ぜったいに協調できないことを見抜いている。だから、長江を挟んで、魏・呉の内紛待ち。

◆魏が呉に、江陵の引き渡しを要請
曹丕から全権委譲された(史実どおり、この時期は郢州牧)夏侯尚は、「魏軍が江陵を守る」という名目で、陸遜に、呉軍の退去を命じる。動揺する呉軍!
呉軍は、二派に分かれる。

A_魏軍の要求を受諾する派。
夷陵で劉備に敗れて、呉軍は人数が減っている。江陵を守るだけの兵力を出すよりも、江陵の防禦を、魏に委任してしまったほうが、ラクである。
江陵は、蜀軍の猛攻に晒されるリスクが高く、これ以上、兵員を減らしたくない。蜀と魏を、江陵で消耗させるほうが、純粋に軍事的にも、得策ではあるまいか。
「にわか」領土の江陵を捨てて、武昌まで後退し、防禦を充実させ、揚州方面に兵を増やしたい。孫権が死んで、内乱が起きるかも知れない。もともと、孫呉の領土プロパーは、揚州と、荊州東部だけである。

対抗するのは、B_魏軍の要求を拒絶する派。
江陵を魏軍に委任してしまえば、江陵を魏に奪われたに等しい。呉が(せっかく関羽を殺して得た)江陵を、かんたんに失ってよいものか。孫権の「晩年」の業績を、無に帰してはいけない。

A派の反論。夷陵で敗れた以上、呉が、江陵を守るのはムリ。なんの定見もなく、魏の要請を断り、敵対したら、収集が付かなくなる。
B派の主張。魏に江陵を与えるより、蜀に与える(返す)ほうが、まだマシである。蜀とは、対等な同盟を結べるかも知れないが、魏と関われば、臣従しかない(現に臣従している)。A派が、「江陵を捨てて、揚州の防衛に専心する」というが、江陵に魏軍を入れてしまっては、むしろそのほうが危険ではないか。国防の観点から、やはり、魏に江陵を譲り渡すべきではない。

A派の反論。蜀と和解なんかできない。蜀と和解できなければ、B案は、そもそも成り立たない。江陵に魏が入れば、呉と蜀は、荊州で国境線を接さなくなる。完全に、魏の保護下に入って、もう安心である。
魏の呉王・荊州牧として、内政を充実させることこそ、われわれの使命であり、生き残る道である。

B派の反論。蜀と国境を接さず、連携の可能性がなくなれば、もう呉は、魏の属国であることが確定する。
A派の反論。それでいいじゃないか。蜀との同盟というのが、空論なのであって、そこに夢を見ても、荊州・揚州の人民を危険に晒すだけである。
B派の反論。「蜀と同盟できれば、いいんだろ。オレが蜀と話を付けてくる」と。

B派は、きっと陸遜である。A派は、誰がいいか。魏に臣従したい人とは、ちょっと違う。呉の独立性を意識しつつ、「方便として、魏を利用する」つもりである。A派としては、武昌の守りを固めれば、江陵に魏軍がいても、簡単には攻めこまれない。とりあえず、江陵を、魏・蜀が奪いあって、疲弊させることが、漁夫の利となるという戦略である。本作において、このA派が、説得力を持つぐらいに、劉備の脅威は大きい。劉備から呉に向けられた敵愾心は、扱いかねる!という状況だろう(その状況を、しっかり描く)。
配役は、おいおい当てはめていきます。


B派の陸遜の交渉により、呉・蜀は、魏の知らないところで、国交を回復。この交渉は、「ムリなプロジェクトを、気迫で実現した」という、見せ場である。孫登にやってもらうか。まるで、史実の赤壁の前、諸葛亮が、孫権と同盟(のようなもの)を結んだときと、同じレベルの、難しい交渉である。
江陵に陣取っている魏軍を、内(呉軍)外(蜀軍)から急襲して、追い出す。
蜀の協力を引き出すためには、やはり呉が、「江陵を蜀に返却する」という譲歩をする必要がありそう。A派は、「強大な魏を敵に回すし、江陵を失うという点では(相手が魏から蜀に変わっただけで)同じだし、なんのメリットがあるのか」と、憤っている。この憤りは、とても的を射ているが、国家は、あえて困難な道をあゆむ。陸遜が意見調整をがんばる。
「蜀は弱小だから、呉を大切にする。魏は強大だから、油断すれば、呉を潰しにくる。魏のほうが危険でしょう」と。

外交が奇抜なのではない。外交以前に、国家のあり方が奇抜なのである。
国家の立ち位置が決まらず、呉がフラフラして、つねに国論が分裂の危機にあるのは、史実でも同じである。史実以上に、本作の呉は、フラフラする。孫権という重石が、史実において、いかに有効であったかが分かるように。

呉臣の分裂と、国家の解体

陸遜が、江陵を蜀に「返還」することにより、劉備との戦いは収束。夏侯尚に恥を掻かせたから、魏軍との決裂は必至。
江陵を失っただけで(この損失はデカいけど)、孫権なき呉は、国家の体裁を保つことができた……かといえば、そうではない。

孫権の死んだときを振り返ると、①曹丕に従う穏健派、②孫呉の独立を優先し、魏・蜀とも組まない強硬派、③蜀との同盟を探る派がいた。
①穏健派である、徐州・揚州の知識人たちは、「車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事」曹仁を訪れ、孫呉政権を解体する。むりに、孫氏に仕える必要はなくて、個々人が、魏帝曹丕との関係を結びなおし、後漢の官僚から、曹魏の官僚へとスライドしたい。

孫権の早死で、劉表政権のように分裂した呉。荊州人士が劉琮を担いで曹操に降ったように、張昭ら降伏派は、孫策の子の孫紹を担いで魏に降伏。方面司令官の曹仁のもとを訪れ、魏の官爵を欲する。

陸遜が、苦労して江陵で、領土の「切った貼った」の調整をしているが、その行為に意義が感じられない。というか、陸遜・孫登が、夏侯尚に恥を掻かせたからこそ、知識人らは、呉との関係を解消し、魏に臣従する。

①穏健派は、変節したのではない(というのが言い分)。かつて、孫呉が成立した頃、孫策は袁術に見切りを付け、曹操に味方した。
「孫権が気の迷いで曹操に対抗したが、揚州の世論は、孫策の時代から一貫して、後漢=曹氏=魏を支持」という歴史の再解釈をして、魏に提出する。張昭を筆頭に、赤壁のとき降伏を唱えた派は、孫呉政権から離れて寿春に入り、魏の官職をもらう。旧劉表政権の構成員が、劉表が死に、曹操軍が訪れると、たちまち空中分解し、曹操から官位をもらったのと同じ。

◆「半分」になった呉の独立
②孫呉の独立を優先する派と、③蜀と同盟する派は、ひとつに収束していく。こちらは、史実なみの路線。
まんまと孫登を、魏軍から奪い返して、史実の孫権のポジションにつける。つまり、肩書きは、曹丕からオーソライズされているが、行動は、曹丕に反抗的である。

この物語の主人公は、孫登。(人格に欠陥を抱えるが、優秀な)四友たちと、幾多の国難を乗り越えていく物語。史実よりも苦戦するが、最後には呉が勝つ。史実では孫権が長生きして、とくに晩年、国家の可能性を潰した。それとは別の世界を築いていく話です、きっと。

長沙走馬楼呉簡によると、孫呉は、かなり税率が高い、ブラックな軍事国家だったそうです。知識人たちが去ったから、ブラックな度合いが、どんどん強まっていく……。
だいじょうぶだろうか、この展開。

呉の②強硬・③親蜀派が黄初三年冬、魏から正式に離反。
恩知らずの裏切り者を征伐するため、11月、曹丕が宛城に入り、荊・揚州に同時進攻(史実なみ)。蜀・呉が防戦

呉王・孫登の正統性

かろうじて、魏から帰ってきた孫登ですが、曰く付きの人物。

孫登(子高)は、当塗「高」として天子になることを約束された存在。
『范書』光武帝紀 建武二年、銅馬の集団は「孫登」を皇帝にした。列伝三十八 翟酺伝に「図書に漢の賊 孫登というもの有り」と。注引『春秋保乾図』に「漢の賊臣、名は孫登」とある。
つまり、孫登こそが、漢を継承するもの、漢に交代するものという、思想的な準備がある。曹丕の漢魏革命を否定し、漢に代わる国家を作る!というスローガンにおいて、曹丕と競っていけるのは、孫権ではなく、孫登です。

孫登伝によると、孫登は生まれが「庶賤」で、徐夫人に養われた。群臣が勧めても、孫権は徐氏を皇后にせず、歩氏を愛したが皇后に立つには至らなかった。歩夫人が死ぬと、袁夫人(袁術の娘)が皇后に勧められたが、子なしを理由に辞退した。史料が、というか、孫権が、要領を得ない。なにかを、濁している、隠しているような書きぶり。

本作では、孫登の出生の秘密=袁術の孫か?の設定をもりこもう。既成事実として書くのではなく、作中でも、疑惑・不確定とする。しかし、人々は、この疑惑に翻弄される。


史実では、孫権のほうが孫登より長生きしたから、表面化せずに済んだが、孫登の母は袁夫人かも知れない……。孫登は袁術の孫。作中の呉王国においても、公式見解では否定されているが、陰謀・策略のなかで噂が流れる。

袁紹の孫の曹叡と、袁術の孫の孫登という、二袁の呪いの対決が持ち越される話になるのかも。


国家の体裁を模索する呉

黄初三~四年の荊・揚州防衛戦。
孫権が不在であり、北来人士が去り、揚州の人士の半分弱が魏に帰属してしまったという不安要素がある。しかし、不利ばかりではない。荊州(江陵)は蜀に任せて兵力を集中できる。史実では、呉軍が、荊州・揚州を同時に防衛したから、負担が大きかった。
防衛に成功する。

黄初四年、孫登は15歳。後見が必要。北来人士が「北帰」してしまったから、代わりとなる求心力が必要。後漢のように、外戚に委ねたい。歴史書に残るような公式見解において、孫登の母は卑賎であり、不明である。ところが、宮中に通じた人が、孫登が袁夫人の子と暴露して、にわかに、袁燿・袁夫人が高位を得る。袁王太后の誕生!

もと劉繇系の人脈は、北に帰ってしまったが、もと袁術系の人脈は、南に留まって、「半分になった呉」で、史実よりも重要な役割を果たす?

孫権に寵愛された在地権力の歩氏(歩隲の一族)が、支持を集めて、袁王太后を担いだ人たちと対立……。という、外戚系の勢力争いが起きるかも。
孫登の兄弟について。本作では、孫登・孫慮までは生まれるが、224年生まれの孫和と、その弟である孫覇・孫奮・孫休・孫亮が生まれることができない!孫権は、28歳で長子の孫登を授かった。遅い。孫権が早死したら、まじで断絶。
孫慮は、史実(孫慮伝)において、人望が高かった。孫登の対抗馬として、本作で登場するに違いありません。


物語の中盤に向けて

黄初四年、史実では諸葛亮が南征するが、本作で蜀軍は温存され、劉備が存命。劉備の最期の北伐は、成果があがりやすい。

呉は、史実のように消極策では国が存続できないので、全力で北伐する。呉のマジメな北伐。これが見所でして(自分で言ってしまった)、もし呉が、なりふり構わずに北伐したら、どうなったのか。
史実の蜀は、人口に対して、兵員と官僚の数がおおい、アンバランスで「ブラック」な国家でした。本作の呉は、高級官僚の人材がかなり欠けてしまったため、史実以上に、ブラックの傾向が強まり、兵員・官僚の数が偏る。豪族や民に対して、強いる負担が大きくなる。協力を得るため、国家が存続する理由が必要となる。気づきのキッカケに、大規模な内乱を起こしてみよう。
……という悩みを、作中で行わせることにより、張昭を初めとした、「なんで孫権に協力してるのか、よく分からない連中」の、行動原理や、彼らが呉に臣従していたことの意義を、描いていけるかも知れない。

当面の国家目標は、「漢魏革命の否定」であるはず。
しかし、孫登は、「袁術の孫」という設定であるし、「漢の賊」の名前を授かっているから、「漢室再興」という、蜀漢の国是とも一致しない。そのあたりの葛藤を、史実以上に、浮かび上がらせることができるかも。

本作における呉は、魏の揚州(寿春)・徐州あたりに、領土を拡大して、国家の体裁を取り戻していく。しかし、占領地で、どうやって、再び支持を取り付けていくかが課題となる。
長江の北に出るということは、魏軍の攻撃の標的になるということ。そのメリットが感じられないから(呂蒙伝かどこかで読んだ)、史実の呉は、長江の南に留まった。しかし、それでは国家が自壊するから、、スローガンが必要!となったとき、孫登たちは、どうするのか。

戦いの経過は、呉が勝ち、魏が敗れる方向で進ませます。そうしないと、話が前方に転がっていかないので、これは確定。
劉備の存命、呉の全面協力というプラス要因が働き、戦果は史実より大。蜀は、涼州の確保に成功。呉は、合肥・合肥新城までは攻略……という見通し。
劉備は夏侯尚を破り、襄陽を占領して病没。隆中対の実現は目前。呉軍は合肥を攻略成功。呉軍は、東晋末の劉裕のような活躍?

といった、物語の前半を考えました。「孫登の物語」なので、幾多の苦難を乗り越えて、呉が活躍してくれる話にしたいと思います。171107

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お菓子っ子‏ @sweets_street さんより

お菓子っ子‏ @sweets_street さんが、「#孫権四十歳」を考えてくださいました。ツイートより引用させて頂きます。
いち段落で、いちツイート。節のタイトルづけ、節に分けたこと、赤文字にしたのは、引用者(佐藤)によります。

■孫権の死
孫権が死んだ時の状況はこれ。黄初二年(221)年、飲みすぎて突然死。遺言はなし。何月かわかんないんだけど、劉備と戦ってる最中らしいので、8月以降でいいのかな。

ぼくはいう。タグ #孫権四十歳 でイフ物語を考えます。コメント・アイディアください。 孫権が黄初二年(史実より31年早い)四十歳で死ぬ。この年は、4月に劉備が皇帝即位、夏に蜀軍が荊州侵入、秋に曹丕が孫権を呉王に封建。武昌の釣台から落ちるまで泥酔し、劉備と対峙して暮れた年。孫権の死因は墜落で。


221年8月、孫権が飲み過ぎで死亡。孫氏陣営は詰みました。嫡子孫登は若すぎる。異姓の強力なリーダーはいない。主力軍は荊州で劉備と戦闘中。
とりあえず、孫氏陣営は親魏路線を継続します。魏に使者を送り、孫登の呉王継承を認めてもらいます。魏帝曹丕はこれを承認し、孫氏陣営は引き続き魏の藩国になります。

■呉の新体制
呉本国は集団指導体制になります。丞相孫邵、綏遠将軍張昭、大理(法務大臣)顧雍、建威将軍呂範らが政権中心の運営になります。孫邵は青州出身者及び旧劉繇配下を代表する人物、張昭は徐州出身者を代表する人物、顧雍は揚州江南地域出身者を代表する人物、呂範は軍部を代表する人物。
政権交代に伴う引き継ぎにより、多少の政治的空白が生じました。国内が不安定になります。揚州では山越が蜂起しました、荊州では親劉備派の豪族が、劉備軍に呼応しました。交州では士燮一族が自立の動きを見せます。

■呉の領内の内乱
揚州の丹陽、会稽、豫章、翻陽、廬陵などで山越が蜂起します。それぞれ数千から数万。主力軍が荊州で戦っているため、呂範軍、賀斉軍、朱治軍、孫韶軍以外の有力な軍団は出払っています。山越の一部には劉備の手も伸びていることでしょう。孫氏の揚州支配は大きく揺らぎました。

荊州豪族にとって、劉備は好ましい人物です。劉備軍には大勢の荊州出身者が参加しています。つまり、親戚や友人がたくさんいます。また、孫氏陣営の中枢は青州人、徐州人、揚州人が三大派閥で、荊州人は少数派です。劉備軍の中枢には荊州人が多数いるので、寝返ったら多数派になれます。
劉備の扇動により、荊州豪族が一斉蜂起しました。孫権が死に、孫氏陣営に将来なしと豪族たちは判断したのです。孫氏に殉じる義理はないし、劉備軍には知り合いがたくさんいるので、ここで裏切るのは当然です。江南の蛮族も蜂起しました。諸葛瑾軍、歩騭軍などが鎮圧にあたりますが、苦戦を強いられます。

■交州の自立
交州の士燮一族は呉からの自立を模索します。魏に使者を送り、直接よしみを通じます。現在の彼らは孫氏の臣下であり、魏の陪臣です。直接魏と交渉することで、魏の直参になり、孫氏と対等の地位を得るのです。かつて、士燮は曹操に従属していました。いわば元鞘への復帰といえます。

曹丕は士燮の帰参を歓迎しました。曹一門の藩国を小さく抑えた男が、異姓の藩国を大きいままにしてやる理由はありません。藩国など小さいほどいいのです。曹丕は士燮に魏の官位を授け、都督交州諸軍事としました。劉備と戦っている最中の孫氏にこれを止める力はありません。戦わずして交州を失いました。

■呉vs蜀の決着
孫権軍主力は苦戦を強いられていました。劉備軍は勢いが凄まじく、快進撃を続けます。後方は荊州豪族の反乱に脅かされます。史実では持久戦に持ち込み、劉備軍の疲弊を待ちました。しかし、孫権が死に、荊州と揚州が混乱しているこのIFでは、持久戦を選択できません。

孫桓は夷陵城を放棄し、陸遜率いる主力軍は江陵まで退きました。ここを抜かれたら、首都武昌も危うくなります。劉備軍が江陵に迫ったことで、荊州豪族の反乱は一層拡大し、各地の孫権軍は孤立しました。

窮地に陥った孫氏陣営は、魏に援軍を依頼します。魏帝曹丕にこの要請を断る理由はありません。孫氏に恩を売る好機です。征南大将軍夏侯尚率いる数万の軍勢が南下を開始します。

■魏vs蜀の開戦
良く言えば機を見るに敏、悪く言えば諦めの早い劉備は後退を決断します。二正面作戦の愚を避けるためです。史実と異なり、進撃の早かった劉備軍は補給線の確保に戦力を割く必要がなかったため、速やかに退却します。孫氏の諸将は追撃を主張しましたが、陸遜はこれを却下し、支配圏の回復を優先します。
劉備は夷陵に主力を置いて陸遜と夏侯尚に圧力を加えつつ、荊州と揚州の反乱を扇動します。孫氏が崩壊するにこしたことはありませんが、そうでなくとも傷跡は残るでしょう。

曹丕としてはこの機に劉備を滅ぼしたいところです。涼州平定中の曹真を呼び戻し、漢中に侵攻させます。隴西は不安定なので、関中を策源として斜谷道を進みます。
劉備軍主力が荊州に張り付いている間にがら空きの本国を叩く。それが曹丕の狙いでした。しかし、漢中太守魏延が固く守ります。仮節として本国軍司令官を務める丞相諸葛亮が、援軍を率いて漢中に駆けつけます。曹真は前進できません。漢中戦線は膠着状態に陥りました。

■その後の孫氏
魏の援軍を得た孫氏陣営は、劉備を夷陵まで押し戻し、揚州と荊州の反乱を平定しました。その代償は甚大でした。交州をもぎ取られました。揚州は内戦で疲弊しました。荊州は反乱続発地域となり、涼州のような火薬庫と化しました。魏に多大な借りを作ったことは、今後の外交を困難なものとするでしょう。

実のところ、孫氏陣営には自立にこだわる理由がありません。「天下の夢」を抱いた孫権はこの世にいません。魯粛亡き今、「天下の計」を描けるブレーンはいません。孫権親衛隊とも言える若手軍人たちは、忠誠の対象を失いました。残された者たちは、魏と戦わねばならない理由を持っていません。

孫氏陣営は次第に魏への従属性を強め、緩やかに解体されるでしょう。江南人は利権を守れれば、それで良しと考えます。青州人と徐州人は、孫権亡き孫氏陣営に執着しないでしょう。呉王国は組織そのものへの忠誠を要求するには歴史が浅すぎ、呉国を守るというスローガンは魅力を欠いています。

朱治、孫奐、呂範、賀斉、孫韶といった軍閥は、魏から列侯の爵位を賜り、洛陽に入朝します。その他の将軍たちにも魏の官位が与えられます。文臣たちは孫登の推薦により、魏の朝廷に召し寄せられ、官位を与えられます。この推薦は曹丕が孫登に強制したものです。
孫氏陣営が解体され、孫登は一諸侯に転落しました。ただし、魏が孫氏陣営の勢力圏を丸々獲得できるとは限りません。山越が割拠する揚州の平定は、容易ではありません。荊州には劉備の隠然たる影響力が残っており、郡県が孫氏陣営解体の過程で、劉備傘下に収まる可能性もあります。おしまい。

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