雑感 > 『三国志総集編』を作りたい

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1.企画概要と、劉備の問題

「あなたが熱中している、三国志なるものに興味がある。まず何を読めばいいか」と聞かれたとき、手渡せる本を作ろう。
解説やあらすじではなく、物語として読めるもの。登場人物を最低限に絞って、しかしおもしろさを削らないもの。『三国演義』のおもしろさと、正史の厚みをまぜたもの。

三国志の始まり

三国志の始まりは、とりあえず黄巾の乱かなと思います。
主人公は、劉備なのでしょう。
でも、三国志を「一個の小説」と見なした場合、最大のネックがあります。劉備が天下を取る話かと思いきや、劉備が天下を取れない。諸葛亮すら敗れる。これは、史実だから、結末は変えられないとして、「一個の小説」としては、出来が悪いわけです。
だから、物語の目的を、少しずらして設定しなければいけない。

物語の目的とは、読者が物語を読み進めるためのモチベーション。
作者がそれを「叶えてやる」ことで、読み終えた読者が、スッキリする。スカッとする。充実感を覚える。「読んで良かった」と思える。これは、下世話な話ですが重要なことです。 「劉備の血を引いた、匈奴の劉氏が、司馬氏を倒しましたとさ」というのは一案ですが、史実から乖離している。

一個の物語としての三国志には欠陥があって、劉備は、漢室復興と言いながら、後漢を見棄てる。自分が皇帝になってしまう。劉備を、理想をめざす主人公として設定するなら、史実は、背信行為にも移る。
劉備を当初から、後漢そのものでなく、一段階上の抽象的な目標に向かわせなければならない。

しかし、スタート時点で、劉備が、「現在の後漢は腐敗しているから、皇族である自分が、別の王朝を建てよう」として発進したとすると、作中でもっとも「過激派」になってしまう。
董卓ですら、後漢を滅ぼすとは、なかなか言い出さない。架空の「禅譲の詔」に釣られて出かけていった直後、董卓は呂布に殺される。後漢を滅ぼすというのは、それに振れた瞬間に死ぬという、タブーへの挑戦です。「犯人のトリックに気づいてしまったがゆえに、無関係なのに殺される」みたいな。
袁術は、後漢の改革を断念し、みずから皇帝になったことで、「浮く」わけです。袁術に、きちんと浮いてもらうためにも、劉備は、後漢を内部から改革するというキャラにしなければならない。初めから、「後漢に代わる、三つ目の漢王朝」と言い出すことはできない。
後漢の改革を断念する、三つ目の漢王朝を企図する、その三つ目の漢王朝すらコケる。というのは、一個の物語としては、二転三転しすぎ。

一個の物語として三国志を見たとき、どのように扱うことができるか。
劉備を中心とした群像劇とすると、あまりに歴史の本筋(両漢から魏晋南北朝)から離れすぎて、あまり厚みが出ない。それこそ、滅びの美学……、、はいはい、そうですか、で終わってしまう。史実へのアクセスが閉ざされてしまう。

百姓を困らせる黄巾、腐敗した官僚に腹を立てて、関羽・張飛とともに兵を起こした。これは分かる。それならば、できるだけ後漢の政治の中枢にアクセスして、政治を正常化するために戦うべきです。しかしやっていることは、あんまり関係ない。

初めて読んだ人が、三国志に興味を持ってくれるかというと、ぼくは疑問です。

ぼくにとっての三国志の魅力は、邪馬台国との繋がりであったり、魏晋南北朝のスタートから、倭の五王への展望です。日本史すら、ここから始まっているから、「異国の英雄物語」で終わらない。中国大陸で複数の勢力が争うから、周辺諸国が自立するキッカケとなった。それの起点が三国志なのだと。
プレ日本史として、日本人の興味に繋がると思うのです。

各国・各キャラクターの位置づけ

三国志を整理するとき、
・袁紹(北の冀州を拠点に、漢朝内部からの改革)が曹操に継承され、
・袁術(南の揚州を拠点に、漢朝外部からの革命)が孫権に継承され、
・トリックスター劉備が、領土が一定せず、袁紹・曹操、袁術・孫権を引っかき回す、
と単純化したら見通しが良くなるか。

「三国志の英雄は、黄巾の乱で頭角を現した」とされるが、何進(中央)・皇甫嵩(北)・朱儁(南)が主役。曹操は皇甫嵩の補助、孫堅は朱儁の補助。
劉備は先主伝で、義兵を挙げて校尉鄒靖に属し、安喜尉になったが、デビューと言えるか? だから『三国演義』は黄巾討伐のフィクションを必要とした。

@threexkingdoms さんはいう。すでに認知されている曹操・孫権にしてみれば、黄巾討伐の功績による昇進はさほどでもないですけど、無官の劉備が県尉になれたのは大きいと思います。
ぼくはいう。劉備の祖父が県令になっているので、諸条件が整えば、遅かれ早かれ、劉備も役人になれたと思うのです。全く官僚となれる背景のない家柄であれば、黄巾は劉備にとって飛躍の機会ですけど…。
@threexkingdoms さんはいう。盧植や公孫瓚とのつながりもありますし、唯一無二のチャンスというより、単なるきっかけ程度だったかもしれませんね。


袁紹と曹操

◆袁紹は、どんなキャラクターか
袁紹は、後漢の継承者。光武帝のように冀州を本拠地にして、劉虞を皇帝にしようとする。「優柔不断」というよりは、自分のなかに与党と野党を抱えこみ、ひとつの王朝として機能させようとした。
冀州を本拠地にするという点では、曹魏のさきがけ。「第三の漢王朝」を立てるという意味では、蜀漢の先がけ。

袁紹と冀州を争うのが、公孫瓚。皇帝候補の劉虞を殺すのも、公孫瓚。しかし、公孫瓚のキャラクターは全面に出さずに(『三国演義』でも、滅亡が伝えられるだけ)、劉備による攪乱として描くといいか。
先主伝で劉備は、「瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹」とあるから、公孫瓚軍を、劉備に代表させても、あながち間違いではない。

官渡の戦いは、「献帝を踏みつぶす」袁紹と、「献帝を守りぬく」曹操との戦いという構図で、単純化してもいいだろう。
諸条件が変わり、袁術から帝位を引き継いだ袁紹が、野心を発揮する。その力は圧倒的。それを曹操が撥ねのけ、献帝を守り通した。

◆曹魏とは、どんな国か
曹操は何者かと言えば、筋金入りの後漢の体制内の家柄。
祖父は、宦官。父は、金銭で買った。袁紹の宦官全殺に反対する。袁紹が、董卓との戦いに消極的になったとき、皇帝の救出に熱心である。いずれも、曹操が後漢の体制内の家柄だから。

兗州を本拠地とし、青州黄巾を吸収するのは、生き抜くための戦略であるが、荀彧を迎え、献帝獲得を目指すのは、やはり、後漢の体制内の家柄としての動き。生き残りのため、袁紹に従ったふりをするが、献帝を支持するのは、一貫していた、ということで、物語としては単純化しても、大きく歴史からズレないだろう。
歴史書は、漢魏革命を正統化するために、曹操を漢の忠臣として描く。そのバイアスの存在は、もちろん否定できないが、実際に曹操が取っている行動は、後漢・献帝を優先している。
むしろ、曹操の「忠臣」ぶりが、孫権に理解されず、天下が分裂に向かっていく様子が、おもしろいのだろう。

その「忠臣」曹操が、後漢を存続させるのが難しく、漢魏革命への進まざるを得ないという葛藤が、きっと読ませどころ。
群臣は、後漢それ自体ではなく、天下統一できる責任者を求めている。それが禅譲へと繋がっていく。

曹魏の滅亡は、漢魏革命の責任を取るのを辞めたこと。つまり、諸葛亮の北伐が止んだ後、すぐに蜀に攻めこまず、内政を優先したこと。遼東平定のような膨張策もあり、一概に対外政策を辞めたとは言えないが、なにより曹叡が崩御して、天下統一を推進する力を失った。

攪乱する劉備

劉備は、ただ袁紹・曹操と、袁術・孫氏を攪乱するだけの存在。攪乱するだけの存在のくせに、諸葛亮を得たおかげで、「第三の漢王朝」というスローガンを掲げ、蜀漢を建国した。というところが、驚きなんですね。
初めから、漢王朝の皇族で……というのは、史書の脚色にだまされているだけでなく、物語として盛り上がりに欠く。諸葛亮の役割が、小さくなってしまう。

最初の攪乱は、物語では、汜水関・虎牢関の戦いでの活躍です。歴史書では、公孫瓚・劉備ともに、董卓との戦いに参加していないけど……、物語としては、フィクションと断った上で乱入してもらい、分不相応の活躍をして、場を掻き乱してもらうのは、良いかも知れない。
呂布の強さを際立たせるためにも、必要な演出。
しかし、史実では、戦場が、袁紹の居たところと、袁術の居たところで、散らかってしまう。劉備をフィクションで居合わせるならば、袁紹の居たところか。要検討。

第二の攪乱は、公孫瓚の先兵として、袁紹が手に入れた冀州に攻めこんでくるところ。劉備と趙雲の出会いも、ここで見ることができる。

第三の攪乱は、陶謙から徐州を譲られるところ。徐州は、袁紹派の曹操も、袁術派の呉景も、欲しがっていた。そこを劉備が掠め取ってしまうから、話がややこしくなる。徐州のトップになるのは、呂布も同じ。
呂布と劉備が、同じように各国を渡り歩き、同じように秩序を乱す、、という側面を強調してもおもしろい。呂布は滅びたが、劉備は滅びなかった。劉備のしぶとさ、面白さは、呂布との対比で表れる。
対比のためにも、虎牢関での呂布との戦いは、描かないと。呂布の死に際、「劉備がいちばん信用できないんだ」というのも、見せ場。劉備の本質を突いている。

呂布を倒して、劉備を取り込んだ曹操は、やはり攪乱されて、徐州を切り取られる。曹操は、最優先で劉備を撃破。つぎに劉備を取り込むのは袁紹だが、あまり戦果もなく、やはり攪乱される。
劉表のところの良識ある人々も、劉備のことを危険視する。劉表が死ぬと、孫権も劉備に攪乱され、曹操と敵対することになる。劉璋だって、劉備を頼ったはずが、乗っ取られる。劉備を使役すると、バカを見る。そういう劉備の、したたかな面が大事なのかなと。
群雄から見れば、劉備は信用できない。しかし、なぞの求心力があるから、なぜか生き残る。人々が漢王朝に対して抱いていた、期待や絶望を、うまく劉備が吸って、肥大化していく……という、正体不明の不気味な存在として描ければ良いかなと。
諸葛亮は、その劉備を、支配層・被支配層にも分かりやすい「第三の漢王朝」の物語のなかに回収していく。劉備の得体の知れなさは、諸葛亮にも操作不能であるが、そのままでは国を建てることができない。だから、分かりやすい物語を作る。

などの構想をしています。180306

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2.あらすじ_~191年

黄巾の乱から始めると、霊帝崩御まで、話を持たせるのが難しい。霊帝崩御から始めればよいと思います。

物語のはじまりは、霊帝崩御

『三国演義』では、皇帝のまわりで怪異が起きて、王朝の衰退をほのめかします。おもしろいけれど、現代の読者には、信憑性を持たない。
それよりも、明確に王朝の衰退を感じさせるのは、皇帝の死。

物語の冒頭で、霊帝が崩御する。
後漢は、外戚が権力を握って、宦官と争って……と言われますが、はじめて三国志を理解するにあたって、外戚権力って、優先度が低いんです何進をカットするというのは、物語づくりの「英断」かと。
霊帝には、2人の皇子がいた。兄を立てたのは、何進と何太后である。しかし、何進・何太后の弊害は、描くネタがない。実際に、すぐに宦官に殺されたから。というわけで、「霊帝の意に反して、外戚のせいで、劉弁が立てられた」という話は、盛り上がらない。
霊帝が聡明とは思っていなかったが、長男の劉弁が即位したと。劉弁は、十七歳とも十四歳ともされ、後漢のなかでは、相対的に年長での即位である。「幼帝を外戚が輔佐し、政治が乱れる」というステレオタイプを、描きにくい。

外戚を除くと、献帝の祖母である、董太后を描くことができない。董太后をキャラ立ちさせるなら、董卓と同族(と言いうる)こと。しかし、董卓の権力基盤は、外戚ではない。董太后も、出て来なくていい。

袁紹・袁術による宦官虐殺

霊帝の崩御のつぎのイベントは、袁紹・袁術による宦官の討伐。
きっかけは、何進が殺害されたことだが、何進は省くことにした。「皇帝が交替し、いっきに改革を目論んだ」でも、すじは通る。
「霊帝の生前は、宦官が親任されて、政治を腐敗されたが、手を出せなかった。皇帝が変わった今こそ、改革の好機である」という動機でいい。実際、何進・宦官の対立が表面化したのは、霊帝がいなくなったから。

霊帝の不在が、乱世のまくを開ける、、という描き方をするならば、霊帝の求心力を強調する必要がある。黄巾の乱こそ起きたが、中央軍をつくったり、人事・財政を刷新して、後漢を中興しようとした、という印象を与えたい。
「名君」が斃れたからこそ、乱世が始まる。これは、
ありがちな図式だ。悪くない。中央軍の閲兵式をやっているとき、馬上で倒れるとか。


宦官討伐の作戦をねる、袁紹と袁術。史料では、袁紹が何進に、宦官を殺せとすすめる。しかし、袁紹と袁術が、ふたりで相談するシーンにして、同じ事を言わせてもよい。
史料では、袁紹が突き進もうとして、何進が逡巡する。何進を出さないなら、宦官の誅殺に反対するのは、曹操の役割である。
宦官(とその孫である曹操)に対する袁紹の憎しみから、宦官が悪者だったんだな、と間接的に分かってもらうスタイル。
袁紹が、董卓を招くことを決めると、曹操が「董卓を呼ぶのは、避けねばならない」という。これも史料に準拠。曹操がびびっているところから、董卓のやばさというか、涼州の不安定さを伝える。涼州の不安定さは、のちの諸葛亮の北伐の有効性!にまで聞いてくる。

宦官を殺したら、皇帝が行方不明になった。袁紹・袁術が、あせって探している。
董卓は、献帝が賢いことを見抜いて廃立する、、と史料にあるが。董卓の役割は、「バカ皇帝を除いて、かしこい皇帝を頂こう」という改革派ではない。皇帝の廃立というタブーをおかしてでも、強引なことをする、というところ。
皇帝の賢愚は、メインテーマではないんですよね。

献帝の賢さが発揮される機会がない。献帝がバカだから、こうなった。献帝が賢いから、こうなった、という話は展開されない。

意味を見出すなら、劉弁が前漢の昌邑王ほどひどくはないにも拘わらず、董卓が廃立をした!ことへの、群臣からの抵抗感。つまり、「劉弁は、これといった特徴がない」ことが、重要なのです。

董卓との戦いから、二袁の対立へ

董卓は、前例を破ったところが大切。前例を破って、袁紹・袁術の協力を求めたが、同意が得られなかったという対立を、メインで描きたい。いかに、涼州で力を持った董卓でも、群臣の協力を得なければ、なにもできない。そのためには、袁紹・袁術を抱きこむ必要があった、という。
同意を得るために、袁紹・袁術に官職を与える。それが裏目になって、袁紹・袁術が起兵する。

袁紹・曹操が、河北でひとを集める。袁術は、洛陽から逃げて、孫堅と合流する。孫堅が登場するところが、大切。

やがて、董卓が長安に遷都する。「天下の中心とされる洛陽よりも、防禦に有利な長安を選んだ」という、前例の破壊によって、本格的に分裂期に突入する、というのがポイント。
それぞれが領土を求める。董卓を放置して、袁紹・袁術の対立への、軸がズレていく。袁紹のもとの曹操が、戦いを挑むが、サッパリ。袁術のもとの孫堅が、洛陽を回復する。しかし、洛陽を回復したところで、なんの戦術的・経済的価値がない。

南北朝時代も、洛陽を回復しても、すぐ引きあげますね。


袁紹は、董卓と戦うために、冀州を本拠地にしていた。そこを、袁術と結んだ公孫瓚に脅かされる。公孫瓚の手先として、劉備が登場する。
『資治通鑑』で、劉備が初めて登場するのは、このタイミング。つまり、「袁術と結び、袁紹の背後を攻めた公孫瓚」の部下として、劉備が初めて、表舞台に出てくる。

領土獲得闘争のはじまり

『資治通鑑』をなぞって、経緯を整理しておく。

◆初平元年春
『資治通鑑』では、初平元年、三月に皇帝が長安に入る。
孫堅が荊州を北上して、袁術と合流する。袁術が南陽に駐屯し、孫堅に豫州刺史を領させる。

劉表による荊州着任が続いて記されるが、劉表は主役ではないから、できるだけ省く。

曹操が袁紹に、董卓との戦いを勧める。曹操だけが突出して、徐栄に敗れる。ここまでを、初平元年四月とする。
つまり、袁紹-曹操と、袁術-孫堅が、遷都をした董卓に攻めかかる。董卓軍は、これを食い止めるというストーリーの流れ。

◆初平元年夏
初平元年夏、董卓が、韓融・陰脩・胡母斑・呉脩を派遣して、袁紹・袁術をなだめようとする。董卓と袁紹・袁術の戦いという図式を強調するから、固有名詞を出さずに、使者の殺害が起きたということだけを扱う。

夏は、劉虞が幽州牧として太傅になり、青州・徐州から劉虞のもとに人口移動があったとするが、これは省く。


◆初平元年冬
冬、孫堅が魯陽から北上する。
初平元年は、もっぱら、董卓と二袁の戦いであった。

◆初平二年春
『資治通鑑』では、初平二年春、袁紹が劉虞を皇帝に立てようとするが、袁術が反対する。袁紹・袁術の、皇帝観をめぐる意見の対立なので、扱いたい。

袁術って、常識派というか、保守的だと思うんですよね。献帝が李傕に殺されたと思い込み、責任感・自負心から皇帝になるが。「あの袁術が!どうして皇帝に??いちばん、献帝の救出に熱心だったじゃん」と、はじめての読者を驚かせるような書き方をしたいです。
劉虞は、幽州牧としての治績を強調する必要はなく、「宗室の長者」ぐらいの記号として、登場してもらえば良い。

董卓と戦って勝つのが現実的ではないから、袁紹は、献帝の救出を断念する。しかし袁術は、孫堅が董卓に勝つことを画策しており、受け入れられないと。献帝に対する取り扱いは、三国志のモメごとの主題だから、これは良い。
曹操も、袁紹の部下のくせに、劉虞擁立に反発するというのも、のちの曹操の態度を表す。これが史書の創作だとしても、いちおう歴史書がそういう書かれ方をするから、使ってもいいでしょう。

初平二年二月、孫堅が呂布・華雄と戦う。袁術と孫堅の仲違いを誘う(虎を除いて狼を得るだけ)。兵糧をきちんと送らないから、袁術と孫堅がモメる。孫堅が洛陽の諸陵を修復する。

孫堅が、伝国璽を得たという話と、得なかったという話が、史料のなかでも交錯しているということは、入門者でもおもしろい。作中では、孫堅が手に入れたという伝聞と、それを否定する人を登場させ、ぼかせばよい。


◆初平二年夏
夏四月、董卓が皇甫嵩を圧倒し、太公の称号を使おうとして、蔡邕に反対される。董卓が権力を伸ばしていき、臣下としての限界に挑戦するのは、おもしろいから載せる。太公の称号ですら、良識派から反対されて、思い止まるというのは、表現しておきたいこと。

◆初平二年秋
秋、袁紹が韓馥から冀州を奪う。袁紹は、董卓との戦いを断念し、劉虞の擁立を断念し、兵站が続かなくなり、本拠地を求めたいというシナリオ。
董卓が長安を固めたから、袁紹も呼応して、本拠地を求めた。

韓馥を追いこむために登場するのが、公孫瓚。公孫瓚に、冀州を分割しようと持ちかける。公孫瓚がそれに乗ってきたおかげで、韓馥を追いこむことに成功するが、代わりに公孫瓚が冀州で優勢になり、袁紹が死にかける。公孫瓚は省く。 劉備・趙雲との出会いも、公孫瓚に絡むが、登場人物をぎりぎりまで絞ったこの作品って、趙雲は省いてもいいのかも? 関羽は、ストーリーで必ずいる。張飛ですら、必要性が50%である。


『資治通鑑』ではつぎに、鮑信が曹操に勧めて、東郡に割拠せよという。
『三国志』武帝紀では、初平二年秋、袁紹が韓馥から冀州を奪った記事の直後、曹操が東郡に入って黒山に対抗する。数年間、黒山は、袁紹の冀州支配の障害に。ひねって読まなくても、「袁紹は冀州安定のため、曹操を隣接地域に置き、黒山に対抗させた」となる。鮑信が曹操の将来性を見込んで……という話は、買いかぶり。袁紹が曹操を東郡太守に任命し、外藩として使った。

冀州支配を構想した袁紹と、人材獲得を構想した曹操、と対照的に捉えられるが、初期の曹操の地理的な戦略は、袁紹に依存している。曹操が兗州から始まったのは、袁紹の隣だから。袁紹が土地を確保し、前線の曹操が人を集め…という役割分担。というか、曹操が、「袁紹の役に立つために立候補します」というノリが本当な気がする。
兗州なんて、各地から攻められるから、本拠地としては、ちっとも有利ではない。実際に、すぐに許に移る。官渡の戦いのときは、兗州は、曹操の使い物にならない。


◆次年以降への展望
袁紹は初平二年、韓馥から冀州を奪った直後、同年冬、青州黄巾を破った公孫瓚の威令がおよび、冀州の全域が靡いた。
初平三年春、界橋で戦って泥沼化したが、初平四年初、趙岐に仲裁してもらった。しかし同年春、魏郡で反乱が起き、袁術が北上。曹操に袁術を討たせ、袁紹は六月まで黒山・烏桓と死闘を演じて、やっと冀州を安定させた。足掛け三年の冀州争奪戦であった。
……これが、『後漢書』袁紹伝・『三国志』袁紹伝から見えること。

二袁の対立への展望

初平二年末、劉和の事件が起こる。これ、史料でも分かりにくいが、袁紹・袁術の絡むネタだが、史料も混乱しており、使いにくい。公孫瓚と劉虞の事情を描くのは、話を広げすぎ。

劉和・公孫越は、絡ませないのが正解と思われる。
袁紹が韓馥から冀州を得る。曹操が東郡太守となる。その頃も、袁術・孫堅は飽きることなく、董卓との戦いを続けている。その空隙をついて、袁紹が豫州刺史の治所を攻撃する。
袁紹と袁術は、こうして対立に至った。これでよし。

長安から劉和が出てきて、袁術を頼った、というのは省く。袁術は、劉和がいなくても、長安を狙っていた。まあ、長安から脱出してきた人に頼られたとか、長安で袁術に内通した高官が殺されたとか、そういう表現は、厚みを持たせるために、アリですが。
公孫越が袁術のもとに派遣されたが、袁紹軍に殺され、公孫瓚が袁紹に恨みを持った、というのは省く。公孫瓚は、袁紹の冀州支配に対抗して、一時は袁紹を脅かしたが、けっきょくは敗れた。であれば、公孫瓚を丸ごと省くことができる。


公孫瓚と袁紹の冀州争奪戦は、描かない。界橋の戦いも出さない。袁紹は、韓馥さえ追い出しば、冀州を支配できた、という丸め方をする。
袁術は、袁紹が韓馥を破ったことをマネて、劉表に戦いを仕掛けるが、孫堅を失う。袁術は、荊州で董卓と戦い続けることが困難になる。
初平四年、魏郡で反乱が起き、袁紹・曹操が黒山と戦った。その黒山が、袁術が連携した……。と、袁術の兗州東部・冀州南部への進出と、曹操に撃退されたことを描く。ほら、公孫瓚が要らなくなった。

◆劉備の登場をどうするか
劉備は、陶謙の末年、招かれたところで登場すればよい。これまでは、北方で異民族との戦いなどをしていた(張純の乱など)ということにして、前歴を細かく書かない。
史書では、公孫瓚が任命した地方長官として、袁紹に対抗していた。陶謙のアトガマに入るとき、公孫瓚との関係は壊れている。というより、公孫瓚が袁紹に敗れて、勢力拡大に頓挫したとき、劉備が独自行動を開始する。
「北方で袁紹の冀州支配に抵抗する勢力のひとつであったが、袁紹が強大化したので、新しい戦いの場を求めて、陶謙の要請を受けて南下してきた」という登場の仕方である。ウソではない。

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