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『資治通鑑』に引く『晋書』刑法志

『資治通鑑』巻八十三に、『晋書』刑法志に基づいて作られた記述があります。その原文を、以下に掲げます(ネットでひろったものなので、校勘していないです)。
これを、内田智雄『訳注 中国歴代刑法志』(創文社、一九六四年)を参照しながら、現代語訳します。『資治通鑑』の原文は、『晋書』を大幅に節略したものです。該当部分を見定め、また文の繋がりが不自然にならぬよう、改変します。

又、朝臣務以苛察相高、每有疑議、群下各立私意、刑法不壹、獄訟繁滋。裴頠上表曰:「先王刑賞相稱、輕重無二。故下聽有常、群吏安業。去元康四年、大風、廟闕屋瓦、有數枚傾落、免太常荀寓;事輕責重、有違常典。五年二月有大風。蘭台主者、懲懼前事、求索阿棟之間、得瓦小邪十五處。遂禁止太常、復興刑獄。今年八月、陵上荊一枝、圍七寸二分者被斫;司徒、太常奔走道路。雖知事小、而按劾難測、騷擾驅馳、各競免負。於今太常禁止未解。夫刑書之文有限、而舛違之故無方。故有臨時議處之制、誠不能皆得循常也。至於此等、皆為過當、恐奸吏因緣、得為淺深也。」既而曲議猶不止。

また、朝臣は追及が厳しく、判決を下しにくい事案があるごとに、それぞれ私見を打ち立て、刑罰法律の適用が一定せず、裁判は頻繁となった。(尚書の)裴頠は上表し、「先王は刑罰と褒賞を規準を設けて運用し、軽重がまちまちになりませんでした。だから、下々が聴従するのに定まった拠りどころがあり、役人たちは安んじて職務に励みました。去る元康四(二九四)年、大風が吹いた後、宗廟の楼門の屋根瓦が、数枚抜け落ちることがあったので、太常の荀寓を罷免しました。ことがらは軽いのに責任追及が重く、常法にたがうところがあると思いました。元康五(二九五)年二月、大風が吹きました。蘭台の担当官は、前の事件(荀寓)を恐れて、棟のあたりを望み見て、瓦が少しく歪んでいるところを十五箇所見つけました。太常に閉門の措置を取り、

内田氏の訳注によると、原文「禁止」は、『資治通鑑』巻七十一 胡三省注によると、いまだ獄に下さずといえども、人をしてこれを守らしめて、出入りすることを出来なくし、親党と交通することを禁止すること。また一説を引いて、殿省に入るのを禁止することとある。

また裁判沙汰にしました。今年八月、御陵の上のいばら一枝、まわり七寸二分のものが切られました。司徒・太常は道路を走り回りました。ことがらの小さいことは分かっていたが、罪の詮議だてがどのようになるか測りがたいので、大騒ぎして駆けずりまわり、おのおの競って落ち度を免れようとしました。今においても太常に対して取られた閉門の処置はいまだ解除されていません。刑書の文には限界があるが、違反のことがらは多様です。ですから時に応じて討議し処置する制度があるのであって、確かに皆が皆まで常典に従うことが出来るわけではありません。このようなことは、担当官の処置がいずれも度を過ぎ、恐らくは奸吏が恣意的に、法を軽くも重くも適用することが出来るでしょう」と言った。この上表をしたが、法を曲げて罪を議することがなお続いた。

三公尚書劉頌復上疏曰:「自近世以來、法漸多門、令甚不一。吏不知所守、下不知所避。奸偽者因以售其情、居上者難以檢其下。事同議異、獄犴不平。夫君臣之分、各有所司。法欲必奉、故令主者守文;理有窮塞、故使大臣釋滯;事有時宜、故人主權斷。主者守文、若釋之執犯蹕之平也;大臣釋滯、若公孫弘斷郭解之獄也;人主權斷、若漢祖戮丁公之為也。天下萬事、自非此類、不得出意妄議。皆以律令從事;然後、法信於下、人聽不惑、吏不容奸、可以言政矣。」乃下詔:「郎、令史復出法駁案者、隨事以聞。」然亦不能革也。

三公尚書の劉頌はまた上疏して、「近世より以来、法の運用が次第に多様になり、令の適用が甚だしく統一を失っています。官吏は守るべき基準を知ることができず、下民は何を避けるべきか知ることができません。姦悪なやからは、これを利用して私情を行うので、上にあるものは下を取り締まることが困難になっています。ことがらは同一であるのに、罪の論議は異なったものとなり、裁判は公正さを欠いています。そもそも君臣には分があり、それぞれ掌るところがあります。法は必ず奉じなければならず、法を掌る役人には必ず法の条文を忠実に守らせます。(しかし)法の理は行き詰まる場合がありますので、そのときには大臣にその滞りを解かせます。ことには時の宜しきに従うべき場合があるから、そのときには人主がこれを臨機に処断するのです。法を掌る役人が法の条文を守るというのは、たとえば張釈之が天子の行列を犯した者を公正に裁いたことが該当します。大臣が法理の滞りを解くというのは、公孫弘が郭解の事件に下した判決が該当します。人主が臨機に処断するというのは、漢の高祖が丁公の行為に誅を加えたことが該当します。天下の万事において、これに類せぬものは、私意によって妄りに議論することは許されません。それ以外は全て律令によって事に従わなければなりません。かようにして初めて、法はしもじもに信頼され、人々は聴従するところに惑わず、官吏も不正を行う余地がなくなり、立派な政治ということができるのである」と言った。

『晋書』刑法志では、ここに汝南王の司馬亮の上奏が挟まる。

これを受けて詔を下し、「郎・令史で、これ以後に法の外に出て異論を唱えた場合には、その事が発生するごとに上聞せよ」と言った。しかし依然として改革ができなかった。201016

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『晋書』巻六十六 劉弘伝附劉璠伝

これより先、成都王の司馬穎が南に逃げ、本国に行こうとしたが、劉弘がこれを妨害した。劉弘が卒すると、劉弘の司馬である郭勱が司馬穎を盟主に推戴しようとしたが、劉弘の子の劉璠が父の考えを踏襲し、墨絰が府兵を率いて郭勱を討伐し、濁水で戦ってこれを斬った。
襄・沔一帯は粛清された。これより先、東海王の司馬越は劉弘が劉喬とともに己に対して二心を抱いていることを疑い、節度を下したが不安であった。劉弘が司馬穎を妨害し、劉璠が郭勱を斬ると、朝廷(司馬越)はこれを肯定的に捉えた。司馬越は手書して劉璠を賛美し、劉弘に新城郡元公と追贈した。
高密王の司馬略が代わりに出鎮すると、寇賊を制御できず、詔して劉璠を順陽内史とし、江漢一帯は団結して帰順した。司馬略が薨去すると山簡が後任となった。山簡は劉璠が支持を集めており、万民に逼られ推戴されて盟主になることを警戒し、この事態を上表した。
朝廷は劉璠を越騎校尉として荊州から引き剥がした。劉璠は盟主に推戴されることを心配し、また任命書を受け取り、急いで洛陽に至り、その後に家属を招き寄せた。僑人(荊州への移住者か)の侯脱・路難らは護衛して劉璠を洛陽に送り届け、その後に辞去した。200926

劉弘(劉馥の孫)は、その子の劉璠が荊州の現地勢力と結びついていた。劉弘が荊州で善政を布いたことの副産物と思われる。劉表のように盟主に推戴されることを、西晋の政権担当者から警戒され、洛陽に就官させられた(諸葛誕を司空に任命するのと同じパターン)。 史料によると、家属を後追いで招き寄せた。つまり、荊州と、劉弘の一族との関係を完全に断ち切ったパターン。以後の事績に言及がないが、永嘉の乱で一族が全滅したんでしょう。荊州に残っていれば、劉馥の子孫が、東晋に受け継がれた可能性があるが、まとめて洛陽に言ってしまったがゆえに、全滅。

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『晋書』から、牙門将の皮初の記述を集める

『晋書』巻三十七 司馬略伝

懷帝即位,遷使持節、都督荊州諸軍事、征南大將軍、開府儀同三司。京兆流人王逌與叟人郝洛聚眾數千,屯于冠軍。略遣參軍崔曠率將軍皮初、張洛等討逌,為逌所譎,戰敗。略更遣左司馬曹攄統曠等進逼逌。將大戰,曠在後密自退走,攄軍無繼,戰敗,死之。

懐帝が即位すると、使持節、都督荊州諸軍事、征南大將軍、開府儀同三司に遷った。京兆の流人である王逌が叟人の郝洛とともに兵数千を集め、冠軍に駐屯した。司馬略は参軍の崔曠を遣わして将軍の皮初・張洛らを率いて王逌を討伐させ、王逌にあざむかれ、戦って敗れた。司馬略は改めて……

『晋書』巻五十七 張光伝

正史『晋書』完訳プロジェクト:いつか読みたい晋書訳
http://3guozhi.net/sy/m057.html

陳敏が反乱を起こすと、朝廷は張光を順陽太守に任じ、陵江将軍の官職を加え、歩兵・騎兵合わせて五千を率いて荊州に派遣して討伐に当たらせた。荊州刺史の劉弘はもともと張光を敬い重んじており、「南楚の秀」であると称えた。
時に(劉弘の命令で諸軍を率いることになった)江夏太守の陶(とう)侃(かん)は陳敏の大将の銭端と長岐の地にて対峙していたが、開戦するに当たって、襄陽太守の皮初に歩兵を率いさせ、張光に伏兵の任務を与えて待機させ、武陵太守の苗光に水軍を率いさせ、艦船を沔水(べんすい)に隠し置かせた。皮初らが賊と交戦すると、張光は伏兵を発して応じ、水軍・陸軍ともに奮戦したので、賊軍は大敗した。劉弘は張光に優れた功績があったと上表し、それによって張光は「材官将軍・梁州刺史」に昇進した。

『晋書』巻六十六 劉弘伝

及新野王歆之敗也,以弘代為鎮南將軍、都督荊州諸軍事,餘官如故。弘遣南蠻長史陶侃為大都護,參軍蒯恒為義軍督護,牙門將皮初 為都戰帥,進據襄陽。張昌并軍圍宛,敗趙驤軍,弘退屯梁。侃、初等累戰破昌,前後斬首數萬級。及到官,昌懼而逃,其眾悉降,荊土平。

劉弘が都督荊州諸軍事となると、南蛮長史の陶侃を大都護とし、参軍の蒯恒を義軍督護とし、牙門将の皮初を都戰帥とし、進んで襄陽に駐屯した。張昌が軍を併せて宛城を囲み、趙驤の軍を破ると、劉弘は退いて梁を屯守した。これより先、陶侃・皮初らは、しきりに戦って張昌を破り、前後に数万級の首を斬った。劉弘が着任すると、張昌は懼れて逃げ、兵が全て降り、荊州は平定された。

『晋書』巻一百 張昌伝

こちらの訳文は、『晋書簡訳所』を複写しました。「皮初」の登場箇所を赤文字に変えたのは、引用者(佐藤)です。
https://readingnotesofjinshu.com/

この年、寧朔将軍、領南蛮校尉の劉弘が宛に出鎮した。劉弘は司馬の陶侃、参軍の蒯桓、皮初らを派遣し、軍を統率させて張昌を竟陵で討伐させた。劉喬も将軍の李楊、督護の尹奉を派遣し、兵を統率させて江夏へ向かわせた。陶侃らは張昌と連日、苦戦を繰り広げたが、これをおおいに破り、一万人ばかりを降した。

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『晋書』から、広漢太守の辛冉の記述を集める

『晋書』巻三十六 張華伝

初,趙王倫為鎮西將軍,撓亂關中,氐羌反叛,乃以梁王肜代之。或說華曰:「趙王貪昧,信用孫秀,所在為亂,而秀變詐,姦人之雄。今可遣梁王斬秀,刈趙之半,以謝關右,不亦可乎!」華從之,肜許諾。秀友人辛冉從西來,言於肜曰:「氐羌自反,非秀之為。」故得免死。倫既還,諂事賈后,因求錄尚書事,後又求尚書令。

趙王司馬倫が鎮西将軍であり、関中が騒擾し、氐族や羌族が反乱しているため、梁王の司馬肜に交替させようとした。あるひとが張華に、「司馬倫は貪欲で愚かであり、孫秀を信用しており、任地を混乱させる。梁王の司馬肜を派遣して孫秀を斬り、司馬倫の力の半分を削って、関中の万民に謝罪しましょう」と言った。張華と司馬肜が合意したところ、孫秀の友人である辛冉が西(関中)から来て、司馬肜に、「氐族や羌族が反乱したのは、孫秀のせいではない」と言った。ゆえに孫秀は死を免れた。

これだけでは、広漢太守となる辛冉と同一人物なのか未詳。『華陽国志』により、隴西の人であることが判明し、同一人物と見てよいと分かる。


『晋書』巻六十六 劉弘伝

惠帝幸長安,河間王顒挾天子,詔弘為劉喬繼援。弘以張方殘暴,知顒必敗,遣使受東海王越節度。時天下大亂,弘專督江漢,威行南服。前廣漢太守辛冉 說弘以從橫之事,弘大怒,斬之。
前廣漢太守 辛冉  「 辛冉 」原作「羊冉」。斠注:魏志劉馥傳注引晉陽秋作「 辛冉 」。按: 辛冉 事詳華陽國志八。通鑑八六亦作「 辛冉 」。 辛冉又見張華傳。「辛」「羊」形近易誤,今據改。

恵帝が長安に行幸し、河間王の司馬顒が天子をさしはさみ、詔して劉弘に劉喬の後方支援をさせた。劉弘は(司馬顒の部下)張方が残虐なので、司馬顒がきっと敗れると考え、東のかた東海王の司馬越の節度を受けた。さきの広漢太守の辛冉が劉弘に縦横の計を説き、劉弘は大いに怒ってこれを斬った。

辛冉は、『華陽国志』巻八に詳しく見え、『資治通鑑』巻八十六にも見える。辛冉は張華伝にも見える(上参照)。


『晋書』巻百二十 李特載記

『晋書』巻百二十 載記第二十巻_後蜀_李特

正史『晋書』完訳プロジェクト_いつか読みたい晋書訳
http://3guozhi.net/sy/m120.html


これより先、恵帝は梁州刺史の羅尚を平西将軍・領護西夷校尉・益州刺史とし、督牙門将の王敦・上庸都尉の義歆・蜀郡太守の徐倹・広漢太守の辛冉らとともに七千餘人を連れて蜀に入らせた。李特らは羅尚が来ると聞き、ひどく懼れ、弟の李驤に道で出迎えさせ、宝物を献上した。……王敦・辛冉は羅尚に、「李特らは流民であり、盗賊でしかありません、すぐに死刑にすべきです、面会の場で斬りなさい」と言った。羅尚は聴き入れなかった。辛冉は李特と旧知であり、李特に、「旧知が再会するとき、吉でなければ凶だろう」と言った。李特は(害意を悟り)深く猜疑して懼れた。……
朝廷は趙廞を討った功績により、李特に宣威将軍を拝して、長楽郷侯に封じ、李流を奮威将軍・武陽侯とした。璽書を益州に下し、六郡の流民を列挙して李特と協力して趙廞を討った者に、封賞を加えようとした。辛冉は序列を超えて徴され、また中央に召されたくなく、さらに趙廞を滅ぼした手柄を独占しようと考え、朝廷の命令を握りつぶし、実態を報告しなかった。みな(辛冉に)怨みを持った。
羅尚は従事を派遣して流民に(秦州・雍州への)帰還を催促し、七月を締め切りに、出発させようとした。辛冉は貪欲で乱暴なので、流民の首領を殺し、彼らの財産を奪うべく、檄を回付して出発を促した。……李特らは(羅尚に)、秋の収穫まで待ってほしいと懇願した。流民は梁州や益州に散らばり、人に雇われていたが、州郡が出発を急かしていると知り、不安となり怨んだが、為す術がなかった。李特の兄弟が必死に延期交渉をしていると知り、みな感謝して頼りにした。……李特は……辛冉に要求緩和を求めた。辛冉は大いに怒り、大通りに掲示し、李特の兄弟に、莫大な懸賞金をかけた。200926

『華陽国志』巻八 大同志

揚烈将軍である隴西の辛冉が……という文が見える。

『晋書』李特載記は、おそらく『華陽国志』がルーツなので、そちらを精読するほうが優先のよう。辛冉が隴西の人であること、揚烈将軍であったことは、『晋書』では分からない。八王たちの関中の王権と関与し、孫秀の助命をしたのも、隴西の人という出身地が分かることにより、納得感が増す。
隴西の人で、八王の関中政権と繋がりがあり「あの」孫秀を助命して中原を混乱させ、羅尚に従って益州に入り、李特と対立して成漢建国を助長し、荊州に逃れて劉弘に自立を説いて斬られる。悪い意味での賈詡より、賈詡っぽい。

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