両晋- >『晋書』巻六~十に関するメモ

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周家禄撰『晋書校勘記』

緑が原文を概ね示したものです。下につけている日本語は、完全な翻訳ではなく、どんなことが書いてあるかを、ぼくなりに抽出したものです。ご参考までに。

見ているテキストに句読点がありません。推測混じりに読んでいるので、精度が低いです。本紀の本文と見比べて、中華書局本を参照すれば、もっと精度が高い日本語訳ができます。ですが今回は、周家禄の指摘の全体像やイメージを把握することを目指しています。


帝紀第六 元帝

丁丑封顯義亭侯渙為琅邪王 渙宜照本傳及琅邪王伷子覲傳作㬇下同
彭城内史周撫殺沛國内史周黙以反 周撫石勒載記作周堅
以太子右衞率周莚行冠軍將軍 莚本傳作筵按諸傳引多作莚紀傳皆宜照本傳改正後不悉校

丁丑、顯義亭侯の司馬渙を琅邪王に封建したとある。しかし、司馬「渙」は、本伝(当人の列伝)および琅邪王伷子覲伝(司馬覲伝)によると、「渙」でなく「㬇」に作るべきである。すなわち、サンズイでなく日偏が正しい。以下同じ。
彭城内史の周撫が、沛國内史の周黙を殺して反したとある。しかし、石勒載記では、「周撫」でなく「周堅」に作っている。
太子右衞率の周莚を行冠軍將軍としたとある。しかし、当人の列伝では「莚」でなく「筵」に作る。草冠ではなく、竹冠が正しい。しかし、引用されている箇所によって、草冠であることもあるから、全てを校正はしない。

帝紀第六 明帝

李驤等寇寧州刺史王遜遣將姚岳距戰于堂狼 姚岳王遜傳作姚崇按成帝紀有裨將姚岳爲刺史尹奉所遣別一人
秋七月景子朔震太極殿柱 五行志景子作庚子震上有雷
徵平北將軍徐州刺史王邃 平北當照上文作征北諸傳引邃事多作征北
敦遣其兄含及錢鳳周撫鄧岳等 鄧岳當作鄧嶽
石勒將石良寇兗州 石良勒載記作石瞻
以尚書令郗鑒為車騎將軍都督青兗二州諸軍事 本傳都督有徐州
廟號肅祖 肅祖誤肅宗

李驤らが寧州刺史の王遜を寇すると、將の姚岳を遣わして堂狼で食い止めたとある。しかし、王遜伝では「姚岳」を「姚崇」に作る。成帝紀をみるに、裨將の姚岳が刺史となったとある。尹奉が派遣したのとは、べつの人であろう。つまり、「姚崇」が正しい。「姚岳」は、成帝期の人名にひっぱられたもの。
秋七月、景子(丙子)朔に、太極殿の柱が震えたとある。しかし五行志によると「景子」でなく「庚子」に震えたとある。
平北將軍・徐州刺史王邃を徴したとある。上文に照らすと、「平北」でなく「征北」に作るべき。諸伝に引かれている王邃も、多くが「征北」将軍として現れている。
王敦が、その兄の王含および錢鳳の周撫・鄧岳らを派遣したとある。「鄧岳」は「鄧嶽」に作るべきである。とくにここに根拠は書かれていない。
石勒の將である石良が、兗州を寇したとある。石勒載記によると、「石良」は「石瞻」に作る。
尚書令の郗鑒を、車騎將軍・都督青兗二州諸軍事にしたとある。郗鑒伝では、都督のなかに「徐州」が含まれる。
廟を「肅祖」と号したとある。しかし「肅祖」でなく「肅宗」が正しい。

帝紀第七 成帝

秋七月癸丑使持節都督江州諸軍事江州刺史平南將軍觀陽伯應詹卒 伯宜作侯據本傳及明帝紀
鄱陽太守紀睦 溫嶠傳作紀瞻
右光祿大夫陸曄荀崧等 按傳時陸曄為左光祿荀崧為右光祿
遣管商張瑾弘徽寇晉陵 張瑾蘇峻及王舒等傳俱作張健
劉曜太子毗 曜載記太子名熙
以尚書陸珫為尚書左僕射 玩誤珫
>封彭城王紘子浚為高密王 俊誤浚

秋七月癸丑、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史・平南將軍である觀陽伯の應詹が卒したとある。応詹伝・明帝紀によると、「伯」は「侯」に作るべき。
鄱陽太守の「紀睦」とある。温嶠伝では、「紀睦」でなく「紀瞻」に作る。
右光祿大夫の陸曄・荀崧らが…とある。列伝によると、このとき陸曄は左光祿であり、荀崧は右光祿である。「右光祿大夫」としてまとめるのは、どちらも合っていない。
管商・張瑾・弘徽らに晉陵を寇させたとある。蘇峻伝および王舒らの列伝では、「張瑾」でなく「張健」に作る。
劉曜の太子の「劉毗」は…とある。劉曜載記では、太子の名は「劉毗」でなく「劉熙」とする。
尚書の陸珫を尚書左僕射にしたとある。「陸玩」でなく「陸珫」が正しい。
彭城王の紘の子である浚を高密王にしたとある。「俊」を「浚」を誤っている。

すじが通らないので、語順がおかしいように思えましたが、「A誤B」は、「Aは誤りてBとせらる」か「AをばBと誤る」か。「Aなり。Bを誤りとす」かな。しっくりこない。


六月景申復故河間王顒爵位封、彭城王植子融為樂成王、章武王混子珍為章武王 按封融文已見光熙元年又河間王顒傳顒被殺詔以彭城元王植子融為顒嗣改封樂成縣王薨無子建興中元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣上年欽已由樂成徙封河間何因復有封融為樂成王之事彭城以下十字衍文混當為滔珍蓋滔之子混之孫也
勒將韓雍寇南沙 勒載記作韓雄
八年 秋七月戊辰石勒死 載記勒死作咸和七年

六月景申(丙申)、もと河間王の司馬顒の爵位を復帰させ、彭城王の司馬植の子の司馬融を樂成王にし、章武王の司馬混の子である司馬珍を章武王にしたとある。司馬融を封建する文は、すでに光熙元年にみえる。さらに、河間王の司馬顒伝によると、司馬顒が殺されると、詔によって彭城元王の司馬植の子の司馬融を司馬顒の後嗣とし、改めて樂成縣王に封建したとある。司馬融が薨ずると、子がおらず、建興年間に、元帝が彭城康王の司馬釋の子の司馬欽を、司馬融の継嗣にしたとある。司馬欽は、すでに樂成県王であったから、移して河間に封建したのである。なぜ再び司馬融を樂成王に封建したことを書く必要があろうか。「彭城」以下10字(彭城王植子融為樂成王)は衍字である。「混」は「滔」に作るべきである。「珍」はけだし司馬滔の子、司馬混の孫である。

「滔」がこの字への排印で合っているのか謎。

石勒の將の韓雍が、南沙を寇したとある。石勒載記は、「韓雍」を「韓雄」につくる。
咸和八年の秋七月戊辰、石勒が死んだとある。石勒載記では、石勒の死は咸和七年としている。載記よりも、死んだのが1年遅く記録されている。

以郭權為鎮西將軍雍州刺史 石勒載記作秦州刺史
九年 六月李雄死 載記雄死作咸和八年
十一月石季龍弑石弘自立爲天王 載記季龍弑弘自立作咸康元年
米斗五百價 按咸和四年大饑米斗萬錢今僅五百不及十分之一不足為貴疑斗當為升古斗升相近升米五百比之咸和四年猶為減半也 獲石季龍將李閎黃桓等 黃桓庾亮傳作黃植
張貉陷邾城 毛寶傳作張狢渡石季龍載記作張賀度
西陽太守樊俊 庾亮毛寶傳俱作樊峻
擁七千餘家遷于幽冀 石季龍載記作七萬户
二月甲午朔日有蝕之 天文志作甲子合之下三月戊戌當為甲子

郭權を鎮西將軍・雍州刺史にしたとある。石勒載記は、「雍州刺史」でなく「秦州刺史」に作る。
九年、六月、李雄が死んだとある。載記では、李雄の死は、咸和八年とする。本紀のほうが、また1年遅く作っている。
十一月、石季龍が石弘を弑して自立して天王になったとある。載記は、季龍が石弘を弑して自立したのを、咸康元年としている。
米が斗あたり五百價になったとする。咸和四年にも大飢饉があって、米は斗あたり万銭になったとある。いま僅かに五百銭のでは、10分の1にもなっていない。「斗」あたりでなく「升」あたりか。いにしえの文字で「斗」「升」は字形が近い。ただし「升」あたり五百銭になっても、咸和四年に比べれば半額である。

おもしろい指摘!

石季龍の將である李閎・黃桓らを捕らえたとある。庾亮伝では、「黃桓」でなく「黃植」に作る。
張貉が邾城を陷としたとある。毛宝伝(巻八十一)では「張貉」でなく「張狢渡」に作る。石季龍載記では、「張賀度」に作る。
西陽太守の樊俊とある。庾亮伝・毛宝伝(巻八十一)では、どちらも「樊俊」でなく「樊峻」に作る。
七千餘家を擁して幽冀に遷ったとある。石季龍載記は、「七千餘家」でなく「七万户」に作る。
二月甲午朔、日食があったとする。天文志は、甲子とする。これと合わせて(?)下の三月「戊戌」は「甲子」に作るべきである。

帝紀第七 康帝

敗其將李恆於江陽 庾翼傳作李桓
又以束帛徵處士南陽翟湯 南陽當作尋陽
以驃騎將軍何充為中書監都督揚豫二州諸軍事揚州刺史 按傳充為中書監在穆帝初康獻皇后臨朝之時都督有徐州之琅邪

其の將の李恆を江陽で敗ったとある。庾翼伝は、「李恆」でなく「李桓」に作る。
さらに束帛で處士の南陽の翟湯を徴したとある。「南陽」でなく「尋陽」に作るべき。
驃騎將軍の何充を中書監・都督揚豫二州諸軍事・揚州刺史にしたとある。列伝によると、何充が中書監となったのは、穆帝の初めで、康獻皇后が臨朝したとき。このときの都督した範囲は、徐州の琅邪である。

帝紀第八 穆帝

以鎮軍將顧衆為尚書右僕射 鎮軍本傳作領軍
秋七月庚午持節都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事江州刺史征西將軍都亭侯庾翼卒 本傳都督無寧為六州又云發六州奴
二年 六月石季龍將王擢襲武街執張重華護軍胡宣又使麻秋孫伏都伐金城太守張沖降之重華將謝艾擊秋敗之 上事季龍載記皆作永和三年
九月景申慕容皝死子雋嗣偽位 雋載記作儁按雋儁之省字本不必改惟人名宜從一例故改從載記下及志傳並同
假慕容雋大將軍幽平二州牧 載記作幽冀并平四州
以建武將軍吳國内史荀羨為使持節監徐兗二州諸軍事建武本傳作建威

鎮軍將の顧衆を尚書右僕射にしたとある。本伝では「鎮軍」でなく「領軍」とある。
秋七月庚午、持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西將軍・都亭侯の庾翼が卒したとある。庾翼伝では、都督の範囲に「寧州」を含めておらず、「六州」である。また「六州の奴を発した」とある(?)。
二年六月、石季龍の將の王擢が武街を襲って、張重華を執らえたとある。護軍の胡宣は、麻秋・孫伏都に金城太守の張沖を伐たせてこれを降したとある。重華の將の謝艾は、麻秋を伐ってこれを破ったとある。これらのことは、石季龍載記では、永和三年(翌年のこと)としている。
九月景申、慕容皝が死んで、子の慕容雋が偽位を嗣いだとある。慕容雋載記によると、「雋」でなく「儁」に作る。「雋」は「儁」の省略形であり、必ずしも人名の認識が違うわけではない。一例の指摘のみに留めて、以後はくり返さない。
慕容雋に、大將軍・幽平二州牧を假したとある。慕容儁載記では、「幽平二州」でなく「幽冀并平四州」に作る。
建武將軍・吳國内史の荀羨を、使持節・監徐兗二州諸軍事・建武将軍にしたとある。荀羨伝では、「建武」でなく「建威」に作っている。

五月祗兗州刺史劉啓自鄄城來奔 祗載記作冉閔
八月冉閔豫州牧 張遇以許昌來降張遇閔載記作冉遇
弋仲子襄為平北將軍都督并州諸軍事并州刺史平鄉縣公 平鄉襄載記作即丘
苻生將苻眉苻堅擊姚襄 生載記苻眉作苻黃眉
子濟為臨賀郡公 縣公誤郡蓋降郡為縣也據溫傳

五月、祗(?)兗州刺史の劉啓が鄄城から來奔したとある。祗(?)載記は「冉閔」に作る。
八月、冉閔の豫州牧の…。張遇は許昌をもって來降した。張遇は、冉閔載記では、「張遇」でなく「冉遇」に作る。
弋仲子の姚襄を平北將軍・都督并州諸軍事・并州刺史・平鄉縣公にしたとある。姚襄載記によると、「平鄉」でなく「即丘」に作る。
苻生の將の苻眉・苻堅が、姚襄を撃ったとある。苻生載記は、「苻眉」でなく「苻黃眉」に作る。
子濟を臨賀郡公にしたとある。「縣公」の誤りである。郡は、けだし「郡」を降格し「縣」にしたもの。桓温伝に拠る。

帝紀第八 哀帝

是月慕容暐將吕護傅末波攻陷小壘 傅末波暐載記作傅顔

この月、慕容暐の將の吕護・傅末波が、小壘を攻め落としたとある。慕容暐載では「傅末波」でなく「傅顔」に作る。

帝紀第八 海西公

上宜照總目加廢帝
升平四年拜車騎將軍 三年誤四年
三月壬申葬安皇帝于安平陵 哀皇帝誤作安
右賢王曹穀 苻堅載記作曹轂
秋九月以會稽内史郗愔為都督徐兗青幽四州諸軍事平北將軍徐州刺史 本傳作徐兗青幽揚州之晉陵徐兗二州刺史

目次のところで指摘したように「廃帝」を加えるべき。
升平四年、車騎將軍を拜したとある。「四年」でなく「三年」が正しい。
三月壬申、安皇帝を安平陵に葬ったとある。「安皇帝」でなく「哀皇帝」が正しい。

A誤Bは、「AをばBと誤る」「A 誤りてBとす」か。ムリヤリ感あり。

右賢王の曹穀とあるが、苻堅載記は、「曹穀」でなく「曹轂」に作る。
秋九月、會稽内史の郗愔を都督徐兗青幽四州諸軍事・平北將軍・徐州刺史としたとある。郗愔伝では「徐・兗・青幽、揚州の晉陵、徐・兗二州刺史」としており、違いがある。

廣漢妖賊李弘與益州妖賊李金根聚眾反 李金根周楚傳作李金銀
秋八月以前寧州刺史周仲孫為假節監益梁二州諸軍事益州刺史 本傳監軍事作益豫梁州之三郡
咸安二年正月降封帝為西海縣公四月徙居吳縣 海西誤作西海按簡文帝紀咸安元年十二月庚寅廢東海王奕為海西公二年夏四月徙於吳縣西柴里。此云二年降封本年徙居者誤

廣漢の妖賊の李弘と、益州の妖賊の李金根が、衆をあつめて反したとある。周楚伝では、「李金根」でなく「李金銀」に作る。
秋八月、前の寧州刺史の周仲孫を假節・監益梁二州諸軍事・益州刺史としたとある。本伝では、「監軍事」の範囲を「益・豫、梁州の三郡」とする。
咸安二年正月、帝を西海縣公に降格して封建した。四月、吳縣に移住させたとある。「海西」を「西海」と誤っている。簡文帝紀を案ずるに、咸安元年十二月庚寅、東海王の司馬奕を廢して海西公とした。二年夏四月、吳縣の西柴里に移したとある。降格して封建したのを二年とし、同年に移住させたというのは誤りである。簡文帝紀が正しく、海西公紀が誤りである。

帝紀第九 簡文帝

咸和元年、所生鄭夫人薨、帝時年七歳、號慕泣血、固請服重元帝哀、而許之、故徙封會稽王。 咸和爲成帝年號、徙封會稽正、咸和二年事、誤作元帝也
康帝崩 三字衍文
乙卯溫奏廢太宰武陵王晞及子總 總宜作綜據晞傳
人布一匹米一斛 據溫傳當云布一匹米二斛

咸和元年のこと。実母の鄭夫人が薨じたとき、簡文帝は七歳であった。強く願ってかさねて元帝の喪に服して、これを許して会稽王に移したとある。咸和は成帝の年号であり、會稽に徙封されたのは、咸和二年ことであり、元帝とするのは誤り。

本文を見てみないと、なんとも言えないっす。

「康帝崩」の三字は、衍文である。
乙卯、溫が上奏して太宰の武陵王の司馬晞および子の司馬總を廢したとある。晞傳によると「總」でなく「綜」に作るべきである。
一人あたり、布一匹・米一斛とある。溫傳によると、「布一匹米二斛」とすべき。

帝紀第九 孝武帝

咸安二年秋七月己未立為皇太子 乙未誤作己未
九年甲寅 九月誤九年
苻堅陷仇池執秦州刺史楊世 按楊世之子纂時已嗣立世安得復存當照苻堅載記作楊纂
以江州刺史桓沖為中軍將軍都督揚豫江三州諸軍事揚州刺史 本傳作揚豫二州刺史
領軍將軍郗愔為鎮軍大將軍 領軍本傳作鎮軍簡文帝踐阼時所加
景辰使持節都督荊梁寧益交廣六州諸軍事荊州刺史征西大將軍桓豁卒 按本傳云進督交廣并前五州荆揚雍寧益然則當為七州也

咸安二年、秋七月己未、皇太子を建てたとある。「己未」でなく「乙未」とすべき。

「乙未誤作己未」は、「乙未 誤りて己未に作る」と訓読でき、これが省略のない形か。いま、ちらっと中華書局本を見たが、ここは〔校勘〕が入ってなかった。

「九年」甲寅とあるが、「九年」でなく「九月」とすべき。
苻堅が仇池を陷して秦州刺史の楊世を執えたとある。楊世の子の纂は、このときすでに嗣いで立たっていた。楊世がなぜふたたび存在するものか。苻堅載記を参照するに、「楊世」でなく「楊纂」に作るべき。
江州刺史の桓沖を中軍將軍・都督揚豫江三州諸軍事・揚州刺史にしたとある。しかし本伝では、「揚豫二州刺史」に作って、都督する範囲が本紀のほうが広い。
領軍將軍の郗愔を鎮軍大將軍にしたとある。「領軍」は、本伝では「鎮軍」とある。簡文帝が践阼したときに、加えられたもの。
景辰、使持節・都督荊梁寧益交廣六州諸軍事・荊州刺史・征西大將軍の桓豁が卒したとある。本伝を案ずるに、督交廣并前五州・荆揚雍寧益に進んだので、「六州」でなく「七州」に作るべき。

五月苻堅將句難彭超陷盱眙 句難堅載記作俱難
戊子征虜將軍謝玄及超難戰于君川 征虜當作建武據本傳按時玄叔父石方為征虜將軍
以司徒謝玄為衞將軍儀同三司 玄安之誤
襄陽太守桓石虔討擒之 本傳及堅載記皆作南平太守
七年春三月林邑范熊遣使獻方物 范熊當作范佛據四夷傳

五月、苻堅の將句の難彭超が盱眙を陷したとある。載記では「句難堅」でなく「俱難」に作る。
戊子、征虜將軍の謝玄および超難が。君川で戰ったとある。「征虜」は「建武」に作るべき。本伝によると、このとき謝玄の叔父の謝石方が征虜將軍であったから、叔父の官号と混同されたのだろう。
司徒の謝玄を衞將軍・儀同三司としたとある。「謝玄」でなく「謝安」とすべき。
襄陽太守の桓石虔が討ってこれを捕らえたとある。本伝および附伝載記によると、すべて「襄陽太守」でなく「南平太守」とある。
七年春三月、林邑の范熊が使者を遣わして方物を献上したとある。四夷伝によると、「范熊」でなく「范佛」に作るべきである。

秋七月鷹揚將軍郭洽及苻堅將張崇戰于武當 堅載記郭洽作郭銓
前句町王翟遼背苻堅舉兵於河南慕容垂自鄴與遼合 據堅垂載記翟遼當作翟斌下同按遼斌兄子真之子後襲黎陽執太守滕恬之者是也
仇池公楊世奔還隴右 按仇池公楊初初子國國從父俊俊子世世子纂穆帝升平四年俊死世嗣立降於堅死子纂代立背堅歸順堅怒伐之纂又降堅茲因堅敗復奔還隴右載記歷歷可證紀以為世者誤也
甲午加太保謝安大都督揚江荊司豫徐兗青冀幽并梁益雍涼十五州諸軍事 梁益雍涼本傳作寧益雍梁

秋七月、鷹揚將軍の郭洽と、苻堅の將の張崇が武當で戰ったとある。苻堅載記は、「郭洽」でなく「郭銓」に作っている。
前句町王の翟遼が苻堅に背いて河南で舉兵し、慕容垂は鄴から翟遼と合わさったとある。苻堅載記・慕容垂載記によると、「翟遼」は「翟斌」に作るべき。以下同じ。遼は、斌の兄の子の真の子である。のちに黎陽を襲って太守の滕恬を執えたのが、かれである。

点の切り方が、まじで分からない。

仇池公の楊世が奔って隴右に還ったとある。按ずるに仇池公の楊初、初の子は國、國の從父は俊、俊の子は世、世の子は纂である。穆帝の升平四年、俊が死に、世がついで立ち、堅に降った。死ぬと、子の纂が代わりに立ち、堅に背いて歸順した。堅は怒ってこれを討伐した。纂もまた堅に降った。このとき堅に敗れて、奔って隴右に還ったのである。載記に記述が見える。本紀が記す「世」は誤り。
甲午、太保の謝安に大都督・揚江荊司豫徐兗青冀幽并梁益雍涼十五州諸軍事を加えたとある。本伝では「梁益雍涼」でなく「寧益雍梁」に作る。

夏四月景辰劉牢之與沛郡太守周次及垂戰于五橋澤 周次牢之傳作田次之
十三年夏四月戊午以青兗二州刺史朱序為持節都督雍梁沔中九郡諸軍事雍州刺史 本傳作都督司雍梁秦四州
景申螽斯百堂客館驃騎庫皆災 百堂上脫則字

夏四月景辰、劉牢之と、沛郡太守の周次が、慕容垂と五橋澤で戰ったとある。牢之傳では「周次」は「田次之」に作る。
十三年夏四月戊午、青兗二州刺史の朱序を持節・都督雍梁沔中九郡諸軍事雍州刺史にしたとある。本傳では、都督した範囲を「司雍梁秦四州」とする。
「景申、螽斯、百堂客館・驃騎庫、皆災」とある。「百堂」の上に「則」の字が抜けている。

六月壬寅使持節都督荊益寧三州諸軍事荊州刺史桓石虔卒 按本傳、石虔時以冠軍監郡、無都督。文又其時石虔為豫州刺史桓石民為荊州疑有誤
丁亥汝南王羲薨 八王傳作義
九月丁未以吳郡太守王珣為尚書僕射 本傳作吳國内史
十一月癸酉以黃門郎殷仲堪爲都督荆益梁三州諸軍事本傳作荆益寧按仲堪承王忱當爲荆益寧

六月壬寅、使持節都督荊益寧三州諸軍事・荊州刺史の桓石虔が卒したとある。本伝を案ずるに、石虔は、冠軍・監郡ではあったが、都督ではない。さらにこのとき石虔は豫州刺史であり、桓石民が荊州(刺史)であるから、誤りが疑われる。
丁亥、汝南王の司馬羲が薨じたとある。八王伝は「羲」でなく「義」に作る。
九月丁未、吳郡太守の王珣を尚書僕射とした。本伝は「吳郡太守」でなく「吳國内史」に作る。
十一月癸酉、黃門郎の殷仲堪を都督荆益梁三州諸軍事としたとある。本傳は「荆益梁」でなく「荆益寧」に作る。仲堪が王忱からひきついだから、本伝のように「荆益寧」とするのが正しい。

帝紀第十 安帝

隆安元年 當另行起
擊光將竇荀于金昌 光及禿髮載記皆作竇苟
冬十月慕容麟爲魏師所殺元本作敗 按當作敗麟於中山僭號敗奔其兄德於鄴謀亂賜死不殺於魏師也
八月江州刺史王渝奔于臨川 愉誤渝
景子寧朔將軍鄧啟及慕容德將慕容法戰于管城 天文志慕容載記皆作鄧啟方惟志云伐慕容寶於滑臺為不同耳
京兆人韋禮 姚興載記作韋華

隆安元年のところで、改行すべきである。
姚光の將の竇荀を金昌で擊ったとある。姚光および禿髮の載記は、どちらも「竇荀」でなく「竇苟」に作る。「日」でなく「口」に作っている。
冬十月、慕容麟が魏師によって「殺」されたとある。元本では「敗」られたとある。案ずるに「殺」でなく「敗」に作るべきである。慕容麟は中山で僭號して、敗奔した。その兄の慕容徳は鄴で乱を計画して死を賜った。魏軍に殺されたのではない。
八月、江州刺史の王渝が臨川に奔ったとある。「王渝」なく「王愉」が正しい。
景子(丙子)、寧朔將軍の「鄧啓」および慕容德の將の慕容法が、管城で戦ったとある。天文志・慕容載記は、どちらも「鄧啓」を「鄧啓方」に作っている。ただ天文志では、慕容寶を滑臺で伐ったとあり、同じではない。
京兆人の韋禮とあるが、姚興載記は、「韋禮」でなく「韋華」に作る。

林邑范達陷日南九真 據四夷傳當作范胡達
執河南太守辛恭靜 恭靜當照本傳作恭靖
永嘉太守司馬逸 孫恩傳作謝逸
五年 吕超弑吕纂以其兄隆僭即偽位 載記纂被弑隆僭位皆作元興元年
沮渠蒙遜殺段業自號大都督北涼州牧 載記涼州牧無北字
秋七月段興弑慕容盛盛叔父熙盡誅段氏 按載記、弑盛者、乃段璣及秦輿之子興・段讚之子泰。熙嗣位、誅段璣・秦興等夷三族、無段興弑盛、文紀蓋誤合。璣・興為一也段興宜作段璣言璣而興泰該焉矣
景辰斬桓玄所署徐州刺史桓修于京口 修宜照本傳作脩諸傳並同
辛酉劉裕誅尚書左僕射王愉愉子荊州刺史緩 綏誤緩及桓玄將庾稚何澹之戰于湓口 玄傳庾稚作庾稚祖

林邑の范達が日南・九真を陥落させたとある。四夷伝によると、「范達」でなく「范胡達」に作るべきである。
河南太守の辛恭靜を捕らえたとある。本伝に照らすと、「恭靜」でなく「恭靖」に作るべきである。
永嘉太守の司馬逸とあるが、孫恩伝によると「司馬逸」でなく「謝逸」に作るべきである。
五年、呂超が呂纂を弑殺して、その兄の呂隆が偽位を僭称したとある。載記によると、呂纂が呂隆に弑殺され、呂隆が位を僭称したのは、どちらも元興元年としている。
沮渠蒙遜が段業を殺して、大都督・北涼州牧を自ら号したとある。載記によると、「北」涼州牧の「北」の字がない。「北」は余分であろう。
秋七月、段興が慕容盛を弑殺し、慕容盛の叔父の慕容熙がことごとく段氏を誅殺したとある。載記によると、慕容盛を弑殺したのは、段璣および秦輿の子の秦興と、段讚の子の段泰である。慕容熙が位をついで段璣・秦興らを誅して夷三族にしたのであり、段興が慕容盛を弑したのではない。本紀は誤って、段璣と秦興のことを1つにまとめたのだろう。「段興」は「段璣」に作るべき。言璣而興泰該焉矣…

内容と文の切り方が分からないので、宿題とします。

景辰、桓玄とかれが任命した徐州刺史の桓修を京口で斬ったとある。本伝によると、「修」でなく「脩」に作るべき。さまざまな列伝でも同じ。
辛酉、劉裕が、尚書左僕射の王愉と、王愉の子である荊州刺史の王緩を誅したとある。「綏」と「緩」が入れ替わっている。および、桓玄の將の庾稚・何澹之が湓口で戦ったとあるが、桓玄伝では「庾稚」でなく「庾稚祖」に作っている。

壬午督護馮遷斬桓玄於貊盤洲 玄傳作枚回洲
三年 慕容德死兄子超嗣偽位 載記作義熙元年
擊譙縱將譙子明于白帝 譙縱傳作譙明子
三年 六月姚興將赫連勃勃僭稱天王于朔方國號夏 是歲高雲馮跋殺慕容熙雲僭即帝位 按載記勃勃僭號熙被殺皆作義熙二年
夏四月散騎常侍尚書左僕射孔安國卒 按天文志孔安國卒凡數見皆作四年三月
冬十一月癸丑雷 辛卯大風拔樹 五行志作辛卯朔然則辛卯宜次癸丑前
南陽太守趙元 超載記作濟南太守

壬午督護の馮遷が、桓玄を「貊盤洲」で斬ったとある。桓玄伝では、「枚回洲」で斬ったと作る。
義熙三年とあるが、慕容德が死んで、兄の子の慕容超が偽位を嗣いだのは、載記では義熙元年に作り、本紀は2年遅らせている。
譙縱の將の譙子明を白帝で擊ったとある。譙縱伝は、「譙子明」でなく「譙明子」に作っている。
義熙三年六月、姚興の將の赫連勃勃が、天王を朔方で僭稱し、國を夏と号したとある。この年、高雲・馮跋が慕容熙を殺し、高雲が僭して帝位についたとある。載記をみるに、勃勃が僭號し、慕容熙が殺されたのは、どちらも義熙二年とする。つまり、本紀が1年遅いこととしている。
夏四月、散騎常侍・尚書左僕射の孔安國が卒したとある。天文志をみるに、孔安國の死は何回も書かれるが、みな義熙四年の三月としている。
冬十一月癸丑、雷があり、辛卯、大風があり樹を抜いたとある。五行志は、辛卯朔につくる。ならば、辛卯のほうが癸丑より先に書かれるべき。
南陽太守の趙元とある。慕容超載記では「南陽」でなく「濟南」太守としている。

五年 秋七月姚興將乞伏乾歸僭稱西秦王於苑川 載記作義熙三年僭稱秦王
九月戊辰離班弑高雲雲將馮跋攻班弑之 下弑殺之誤
三月甲寅山陰地陷四尺 五行志作壬寅地陷四丈
八年 夏五月乞伏公府弑乞伏乾歸乾歸子熾盤誅公府僭即僞位 按載記公府弑乾歸熾磐嗣偽位皆作義熙六年
盤宜作磐下同
十二月以西陵太守朱齡石為建威將軍益州刺史 西陵譙縱傳作西陽
林邑范湖達寇九真 宜作范胡達

義熙五年の秋七月、姚興の將の乞伏乾歸が、「西秦王」を苑川で僭稱したとある。載記では義熙三年に「秦王」に僭稱したとある。本紀のほうが、称王を2年遅いとしている。
九月戊辰、離班が高雲を弑した。高雲の將の馮跋は、離班を攻めて「弑」したとある。2回目の「弑」の字は、用法を誤っている。
三月「甲寅」、山陰の地が四尺陥没したとある。五行志は、「甲寅」でなく「壬寅」に四丈の陥没があったとする。日付が異なっているし、深さも等しくない。
義熙八年、夏五月、乞伏公府が乞伏乾歸を弑した、乾歸の子の熾盤は、公府を誅して僭して僞位についたとある。載記をみるに、公府が乾歸を弑して、熾磐が偽位を嗣いだのは、いずれも義熙六年とする。本紀のほうが、2年遅いとしている。
「盤」は「磐」に作るべきである。「皿」ではなくて「石」が正しい。以下同じ。
十二月、西陵太守の朱齡石を建威將軍・益州刺史にしたとある。譙縱伝は、「西陵」でなく「西陽」に作る。
林邑の范湖達が、九真を寇したとある。「范胡達」が正しい。「湖」は誤り。

冬十二月安平王球之薨 按球之武陵王遵之孫季度之子本傳云季度薨子球之嗣不云繼安平王後安平疑當作武陵
十一年二月丁未姚興死子泓嗣偽位 載記興死泓嗣位皆作義熙十二年下文司馬休之等亦奔姚興不奔姚泓也冬十月景寅姚泓將姚光以洛陽降 泓載記作姚洸
丁亥會稽王修之薨 本作脩之

冬十二月、安平王の司馬球之が薨じたとある。司馬球之は、武陵王の司馬遵の孫であり、季度の子である。当人の列伝では、季度が薨ずると、子の球之が嗣いだとあるだけで(武陵王の家のままで)、「安平王の後」を嗣いだとは書いていない。「安平」でなく「武陵」に作るべきか。
義熙十一年二月丁未、姚興が死に、子の姚泓が偽位を嗣いだとある。載記によると、姚興が死に、姚泓が継承したのは、どちらも義熙十二年とする。下文に、司馬休之らが姚興に奔ったとあり、姚泓に奔ったとはしない。本紀は、姚興の死を1年早く置いている。
冬十月景寅(丙寅)、姚泓の將の姚光が、洛陽をあげて降ったとある。姚泓載記では、「姚光」でなく「姚洸」に作っている。
丁亥、會稽王の司馬修之が薨じたとある。もとは(本伝では?)「脩之」に作っている。「修」と「脩」の字の違い。

帝紀第十 恭帝

恭帝諱德文 當云恭皇帝
宋永初二年九月丁丑裕使后兄叔度請后有閒兵人踰垣而入弑帝于内房 宋書恭帝遇弑作九月己丑

「恭帝」諱は德文…とあるが、「恭皇帝」と書き出すのが正しい。「皇」の字が落ちている。
宋の永初二年九月丁丑、恭帝は殺害されたとある。しかし『宋書』によると、恭帝の殺害は、九月「丁丑」でなく「己丑」である。201227

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丁国釣『晋書校文』(巻6~巻7への指摘)

『晋書斠注』に頻繁に参照されている、丁国釣『晋書校文』を読んでいく。中国哲学書電子化計画でテキストデータになっているものを掲げ(201229に採取)、同じサイト上の写真と見比べて日本語訳(抄訳)を作成した。
テキストデータには不適切な点が多いが、写真を見て、原文(漢文)を訂正することはしなかった。この作業の目的は、丁国釣の指摘内容を把握することにあり、『晋書校文』のテキストデータを起こすことにはないからである。

元帝紀

從者宋典後至 此與周也傳之都尉東典是巾八晉巾興書洲博酬洲作宗典誤

元帝紀に見える「後から至った従者」としての宋典は、周玘伝に見える「都尉」宋典と同一人物である。『晋中興書』(『御覧』四百九十四に引く)は、宗典と作るが、誤り。

疏一衫只三瓶俄遷伏束將軍都督揚州諸軍事越西迎犬駕留帝居守永嘉初用主導計始鎮建鄴輻懷帝永嘉兀年紀元帝偽安束將軍都督揚州及鎮建鄴木畔舊睡賣六血蕭嘉初始鎮建鄴判為一時似誤

元帝紀は、元帝を安東将軍・都督揚州諸軍事にしたのち(時間をおいてから)、永嘉の初期、元帝を建鄴に出鎮させたとある。だが、懐帝紀の永嘉元年、元帝を安東将軍・都督揚州とし、建鄴を鎮護させたとある。同時に行われたことであり、別のタイミングのように見える、元帝紀の書き方は誤り。

進位丞相尺郁督中外諸軍事督字應重

「大都督中外…」とあるが、「督」を重ねて、「大都督・督中外」に作るべきである。

建武元年山貧劉現等裏見十尺上書勸進益寶類聚士地軌理勸進兄四表此紹所載盎第四表

建武元年六月、劉琨ら百八十人が上書し勧進したとある。『藝文類聚』巻十三に載せる四つの上表が、このとき提出されたものである。

梁州刺史周訪討杜寶大破之時詩為豫章太守被害後始豐可進梁州刺史不當先書於討會時叫汁邯

梁州刺史の周訪が、杜曾を破ったとある。だがこのとき周訪は豫章太守であり、杜曾を破ったのちに、梁州刺史となった。官位の変遷を先取りしてしまっているため、元帝紀は誤り。

犬興亢年景文皇帝奕世重光詔丈莊重石應景文連稱裾文館詞林載此語作景皇帝文皇帝則此紀景字譎寶鷹皇帝一字文紀所載諸交鞍文館詞林少四卜餘字且間有不同處蓋修史時有洲澗也

元帝紀の大興元年に、「景文皇帝」という文が見える。詔の文は荘重であるべきで、「景文」と連ねて書くのは不適切。『文館詞林』はこの詔を「景皇帝・文皇帝」ときちんと書いている。元帝紀には省略がある。修史(史料編纂)のとき、詔を省略してしまった。『文館詞林』に載せる文のほうが四十字ほど多い。

日夜出高一丈中有赤青弭弭在日旁不當云祁纔

珥(ひがさ、日傍の雲気)が、日(太陽)のなかに現れたとある。しかし珥は、日のかたわらに出るもの。「なかに現れた」とするのは、位置が不適切。

十二月武昌地震是川地震尚有廬陵豫章川陛丘處配五行志此脫載

十二月、武昌で地震があったとする。この月の地震は、廬陵・豫章・西陵の三箇所でおきたと五行志にある。元帝紀に、廬陵らの地名が抜けている。

一隱一年四月龍驤將錯陳川以浚儀叛降於石勒祖逝傅爐王目號曲朔將軍陳留太守後為迷關擊遂以眾附右勒此作龍驪將軍已誤且其將軍保向署亦不足書。

太興二年四月、龍驤将軍の陳川が、浚儀をもって石勒に降ったとある。祖逖伝によると、陳川は寧朔将軍・陳留太守を自称し、のちに祖逖に攻撃されて、石勒に降ったとしている。「龍驤将軍」とするのは誤りである。しかも自称の将軍号であれば、元帝紀に書いてやる必要はない。

秦州刺史陳安叛降於劉曜安本南陽王模帳下都尉秦州刺史乃共目號不應具書於紀。

秦州刺史の陳安が、反乱して劉曜に降ったとある。陳安は、もとは南陽王の司馬模の帳下都尉であった。秦州刺史というのは自号であるから、本紀に書いてはならない。

祖遮及石勒將石季龍戰於浚儀王師敗績遮傳是役季龍率眾救川遜設奇擊之季龍大敗興紀所吉正相反。

祖逖と、石勒の将の石季龍が浚儀で戦い、王師が敗績したとある。祖逖伝は、この軍役を、石季龍が軍をひきいて陳川を救い、祖逖が奇兵をもうけて攻撃し、石季龍が大敗したとある。本紀と祖逖伝とで、勝敗が逆転している。

十月避使督護陳超襲石勒將桃豹敗沒枚巡傅時所遣將為韓潛馮鐵無陳超且是役豹宵遁逝亦無敗聊事。

十月、祖逖は督護の陳超に、石勒の将の桃豹を攻撃させ、敗没したとある。祖逖伝と比べると、このとき送り出したのは、韓潜・馮鉄であり、陳超ではない。しかもこの軍役では、桃豹が宵に逃げたので、祖逖軍は敗れていない。

三年一百石季龍冠厭次平北將軍冀州刺史邵積擊之敗投於陣季龍覆糟送於石勒勒以為從事中郎鄭具續傳不得云沒於陣

太興三年二月の記事。石季龍が厭次を侵略し、平北将軍・冀州刺史の邵続がこれを攻撃したが、敗れて陣没したとある。しかし石季龍は、邵続を捕らえて石勒のもとに送り、従事中郎にしている。邵続伝のほうが詳しく、陣没はあり得ない。

晉霆保為其將張春所書劉聰使東安攻舂城之安日叛曜保傳春奉保奔桑城是歲薨張寤傳亦云攝保薨其眾奔散皆不言為春所害至安之叛由疑躍死事詳載記亦非囚於滅春

晋王保(司馬保)は、将の張春に殺害された。劉曜は陳安に張春を攻撃させ、これを滅ぼした。陳安は劉曜から叛いたとある。司馬保伝によると、張春は、司馬保を奉戴して桑城に走り、この年に薨じたとある。張寔伝もまた、司馬保が薨じたことを受けて、その軍勢が逃げ散ったとある。どちらも、張春に殺害されたとは書いていない。陳安の出奔は、劉曜を疑ったからであり、ことは載記に詳しい。張春を滅ぼしたことが、離叛の理由ではない。

元帝紀は、出来事や因果を適当につなぎすぎ、という指摘。


祖遜部將衛策尤破石勒別軍於汴水加逝為鎮西將軍此軌別軍即上年細所稱龍釀將軍陝刀叛降勒者時川將魏碩掠豫州諸郡衛策邀擊於答求盡護所掠川懼遂降勒事具遜傳此事應書於川降勒之先今次於足年七月則先後倒置矣加逃鎮西將軍亦在是役後不得并為正擊又按此事與州之降勒本相首尾不應分而為蒯律以書法當云祖邀遣衛策繫陳洲軍於浴水棗芝川降於石勒鵲此甫味不必特書策破碩時川尚未屬勒亦羅特部眉溺軌之酬軍川將軍之號既係自假無論為龍釀為油朔酬關酬關皆不卿書也紀載遜事非錯誤即顯倒類不可提信

祖逖の将の衛策は、おおいに石勒の別軍を汴水で破った。祖逖に鎮西将軍を加えたとある。
石勒の別軍は、前年の記すところの龍驤将軍の陳川であり、叛して石勒に降ったとある。このとき陳川の将の魏碩は、豫州の諸郡で略奪をした。衛策が迎え撃ち、谷水で戦い、盗んだものを全て獲得した。陳川は恐れて、ついに降った。祖逖伝に詳しい。このことは、陳川が石勒に降ったより先に書くべきである。元帝紀で、この年の七月に書かれているのは、先後が逆転している。
しかも祖逖に鎮西将軍を加えたのも、この軍役のことであり、同時のこととして、まとめて書くのは適切でない。これを陳川が石勒に降ったことと繋げるのは、内容に照らして適切でない。
祖逖が衛策を派遣し、陳川と谷水で戦い、大いに破って陳川が石勒に降ったことと、衛策が魏碩を破ったことと関連づける必要はない。このとき陳川は、まだ石勒に属していなかった。石勒の別軍の陳川の将軍号は、自称なので書く必要はない。将軍号は書かなくてよいのだから、「龍驤将軍でなく、寧朔将軍である」という議論も必要がなかった。
元帝紀に載せる祖逖のことは誤りである。誤りはこのような先後の逆転のたぐいであり、信用できない。

祖逖伝


四年七月以尚書戴若思為征西將軍郡督司充豫笄冀雍六州諸軍畢司州剌史鎮合肥若思傳則云都督甕豫幽冀雍并六州諸軍事合肥作壽陽

太興四年七月の記事。尚書の戴若思の任命について。戴若思伝は、都督している六州の内訳が異なり、また元帝紀にあるような合肥ではなく、寿陽を鎮守した。

明帝紀

大寧冗年五月京師大木五行志作丹腸宣城英興囂春大水

太寧元年五月、「京師」で洪水があったとする。五行志は、丹陽・宣城・呉興と寿春で洪水があったとする。

これは、明帝紀の誤りとまでは言えないような…。


李驪等寇祖州刺史王遜遣將姚岳距戰於堂狼犬破之木悄經營水簫注載此事作大寧年華陽國志四次在犬興里年夏澗常據所言當得其實疑帝紀水經注均有誤也

明帝紀に、李驪らが寧州刺史の王遜を侵略し、将の姚岳に防がせて、堂狼で大いに破ったとある。『水経注』若水に、このことを太寧二年のこととする。『華陽国志』李雄志は、太興三年に繋いでいる。『華陽国志』が正しく、明帝紀が誤りであろう。『水経注』も等しく誤りである。

一年山台傳髯腸尹溫隋為中蟲將軍與有將軍下敦守石頭改敦傳恃敦以鎮南將軍假節非右將軍傳亦不吉敦會為此宮

太寧二年、六月に丹陽尹の温嶠を中塁将軍とし、右将軍の卞敦とともに、石頭を守らせたとある。卞敦伝をみるに、このとき卞敦は鎮南将軍・仮節であり、右将軍でない。列伝には、卞敦が右将軍になったという文が一切ない。

祖約逐數所署淮南太守任台於壽春約傳作壽陽蓋避簡丈鄭太后諱也此改之未盡。

祖約が卞敦が任命した、淮南太守の任台を寿春で追い払ったとある。祖約伝は、寿陽に作る。けだし、簡文鄭太后の諱を避けたのであろう。この避諱は、徹底されていない。

三年一舌罕震立皇子衍為星太子按主亢有座辰日一百中不應再有戊辰雨處必有一訛。

太寧三年、三月戊辰、皇子の司馬衍を太子に立てた。直前の二月に戊辰の日があるから、三月に再び戊辰は巡ってこない。どちらかが誤り。

陳垣『二十史朔閏表』によると、太寧3年3月戊辰(2日)がある。2月のほうが誤り。http://3guozhi.net/sy/cal.html


成帝紀

成程羣郵鑒遣廣陵相劉矩帥師赴京師鑒傳作司馬劉矩

咸和二年、郗鑒が広陵相の劉矩を派遣したとあるが、郗鑒伝では「司馬」劉矩としている。

四年世月侍中鍾雅右衛將軍劉超謀奉帝出為賊所害以劉超傳孜之超等謀洩峻使任讓收超及稚害之是超等遇禍畔峻尚未苑也今紀於上年九月占峻墮馬被斬是年正月始言雅等遇害敘事未免先後倒置惟鐘雅傳吉峻遷帝石頭雅超步從明年並為賊害枚之細峻遷帝奮韋盂月則雅傳哲簫罕正與紀言四年正月被害合參校紀傅必有一誤究不知誰為實錄

咸和四年、侍中の鍾雅・右衛将軍の劉超が、皇帝を担ぎ出そうとしたが、賊に殺害されたとある。
劉超伝によると、劉超らの計画がもれて、峻が任譲に、劉超・鍾雅を捕らえさせて殺害したとある。劉超らが禍いにあったとき、まだ峻は死んでいない。いま本紀は、前年九月に、峻が落馬して斬られたとある。この年の正月に、鍾雅らが殺害されたとあると、先後関係が転倒している。
鍾雅伝は、峻が皇帝を石亭に移し、鍾雅・劉超は歩いて従ったとあり、翌年に二人は賊に殺害されたという。以上から考えるに、成帝紀は峻が皇帝を移したのを咸和三年五月とするが、鍾雅伝にあるとおり明年とするのが正しい。成帝紀は、咸和四年正月に殺害されたとすれば一致する。本紀と列伝のどちらかに矛盾があり、どちらが事実か分からない。

点の切り方が分からないので、実際の成帝紀・劉超伝・鍾雅伝を見比べて、ここの論旨を追う必要がある。まだ問題がどこにあるかを、洗っている段階なので、つぎに行きます。


建威長史滕含滕修及蘇峻傳均作輕車長史溫嶠傳則作奮威長史胡一省通錯注調含自輕軍長史進建威將軍長宅然則溫傳奮字當為建之訛

建威長史の滕含とある。滕脩伝と蘇峻伝は、ひとしく「軽車長史」とする。温嶠伝は「奮威長史」とする。胡三省注は、滕含は軽車長史から、建威将軍長史に進んだとする。ならば温伝(温嶠伝?)の「奮」は「建」にすべきということになる。

蘇逸以萬餘火目延陵湖將入吳興乙未將軍王允之及逸戰於慄陽獲之冉延陵將入吳興者為韓亮張健等王允之及諸醒擊破之那具允之及蘇峻傳逸則為義師斬於石頭見陶侃傳非獲於漂易也之傳亦小彊逸事紀所書皆非實錄竊謂逸踞守石頭並未親甘侵軼不特此畢訛即是年狸百李陽與蘇逸載於粗浦云云蘇鑿辜亦恐有誤

蘇逸が万餘人で、延陵湖から呉興に入ろうとした。乙未、将軍の王允之と蘇逸が溧陽で戦い、これを捕らえたとある。
延陵から呉興に入ろうとしたのは、韓晃・張健らである。王允之と諸軍が撃破したことは、王允之伝と蘇峻伝にみえる。蘇逸は、義師に石頭で斬られた。陶侃伝に見える。溧陽で捕らわれたのではない〈允之伝もまた蘇逸が捕らえられたという記述がない〉。本紀の記述は、すべて誤りである。
考えるに、蘇逸は石頭に踞守し、みずから出て行かず、記述することは誤りである。この年の二月、李陽と蘇逸が戦ったとあるが、ここでも蘇逸の二字は不要ではないか。

以庾亮為平西將軍都督楊州之宣城江附諸軍事假節領豫州剌史亮傳作都督預則揚州之宣城江西諸軍事

庾亮の任命について。庾亮伝では、都督豫州・揚州の宣城、江西諸軍事とあって、一致しない。

八月劉躍將劉眉等帥眾侵石生眉昭子也不當目為將

八月、劉曜の志の劉胤が…とある。劉胤は、劉曜の子であるから、「将」という書き方は正しくない。

五年八月石勒僭叩堪帝位御覽怵一弓後趙錄勒稱帝在是年九月迎鏡例

五年八月、石勒が皇帝の位についたとある。『御覧』巻百二十に引く『後趙録』によると、称帝はこの年に九月であり、『通鑑』も九月としている。

九月封彭城王絃子浚為高密王彭城局富兩于傳皆作俊

九月「司馬浚」がみえるが、彭城王伝・高密王伝は「司馬俊」に作る。

八年春正月李壽陷廊州刺史尹奉浸建卿太守霍彪虹降之華陽國志霍彪降在正月尹奉降在一月

八年正月、建寧太守の尹奉・霍彪が降ったとあるが、『華陽国志』は、霍彪が降ったのを正月、尹奉を三月とする。本紀のほうが、記述があらい。

九年口五月不雨至於是月五行志丑月作四月

九年、五月からこの月まで雨が降らなかったとある。五行志は、四月からとする。

十口暑季龍弒石弘曰立為天王枚石勒及李龍載詛弒弘授禰天王皆在咸康冗年非是年十口月事

十一月、石季龍が石弘を殺して自立し、天王になったとする。石勒載記・石季龍載記によると、弑殺したのは、咸寧元年とする。この年の十一月ではない。

咸康亢年二賈石季龍將石過寇中廬南巾郎將三國退保襄陽季龍載記石遇圍桓宣於襄陽毛寶王國下愆期卒荊洲之眾救之過攻守一旬飢疫而返桓宣傳亦吉宣鎮襄陽季龍使騎七干渡沔攻之蓋即址役然則是時保襄陽者為桓宣叩王國等則掖襄陽之師也謂為退保誤

咸寧元年三月、石季龍の将の石遇が、中盧に侵攻した。南中郎将の王国が退いて襄陽を保ったとある。石季龍載記によると、石遇が桓宣を襄陽で囲み、毛宝・王国・王愆期は、荊州の軍をひきいてこれを救出したとある。石遇と二旬にわたり抗争し、飢疫により撤退したという。桓宣伝また、桓宣は襄陽に鎮し、季龍が七千騎で汴水を渡り、これを攻めたとある。この軍役のとき、襄陽をたもっていたのは、桓宣であり、王国らは襄陽を救援した軍である。退いて保つ…というのは、誤りである。

四年四月李壽弒李期僭即儒位掘華陽國志四月壽廢期為功郡縣公五月乃殺期此并屬之四月誤

咸康四年四月、李寿が李期を殺したとある。『華陽国志』によると、四月に李寿が李期を廃して、卭都県公とした。五月に李期を殺した。四月にまとめてしまうのは誤り。

五年五月安乃退遂嚳漢東七干餘家遷於幽冀季龍載記作七萬餘戶疑誇大之謂不足据怵行志亦仆于蘆襄

咸康五年九月、七千余家を略奪したとあるが、季龍載記は七万余戸とする。誇張しており、数が信用できない。五行志もまた七千余家としている。

めずらしく、本紀に基づいて、載記を批判するパターン。


七年寶賈甲盡朔日燕蝕之以而己卯日上推喜蘭朔不應偽甲午當從天艾志作甲子一一韓

咸康七年二月甲午朔、日食があったとある。後ろに二月己卯の日があるから、二月朔の甲午は誤りである。天文志に基づいて、「甲子」に改めるべき。

康帝紀

建元元年十月以車騎將軍庾冰都督荊江可雍蓋梁六洲諸軍事冰傳作督江荊御蘊梁交廣七州豫州之丙郡軍竹嘉與此異攷孫綽庾冰碑銘序洲臧館詞休亦作都督江五十七荊益梁交廣譚七州請軍事而無豫州之西郡軍事七字疑常以碑文為寶錄此紀與冰傳均有訛誤出

建元元年十月、庾冰の任命がある。庾冰伝と異なる。
孫綽の庾冰碑銘序(『文館詞林』四百五十七)によると、都督江荊益梁交広寧七州諸軍事とあり、「豫州の西郡の軍事」がない。碑文を実録と見なすべきではないか。本紀と庾冰伝はどちらも誤りではないか。

碑文の序により、本紀と列伝を却下するというのは、新しいパターン。でも、碑文の序に、省略や誤りがないとも限らないような…。


十一月石季龍侵張駿駿使其將謝艾拒之大戰河西李龍敗績盞辜正月張駿遣其將和麟謝艾討南羌于圃和犬破之謝輦敗季龍事亦見載詛然一役均不載於張駿傅孜艾於張重華時始由屯簿薦授巾堅將軍以破麻跳功封鳩祿伯在駿時並未為將何從敗季龍討于閭乎疑紀所載皆非實錄故駿傳絕不一度也其在重華繫凶帝紀雌汁蘆輕為特唐截澗有功互稷之年月火地事責類多仲錯吐一項危難據信

十二月、石季龍が張駿を侵略した。張駿は将の謝艾に食い止めさせて、河西で戦った。季龍は敗績したとある。さらに本紀には、正月、張駿が将の和麟・謝艾に、南羌を討伐させて、大いに破ったとある。
謝艾が季龍を破ったことは、載記に見える。二つの戦いは、どちらも張駿伝に載っていない。謝艾は張重華のとき、主簿から中堅将軍に進んで、戦功により福禄伯に封建された。張駿のとき、まだ将ではない。なぜ季龍を破ることが出来ようか。本紀には、誤りが疑われる。ゆえに張駿伝には、一つも記述がないのだ。
〈謝艾は重華のとき、みたび将となり、戦功があった。しかし、帝紀・重華伝・載記から年月の特定が難しく、このように分からないことはとても多い〉

二年八月持節都督可雍鑿蕭諸軍事梁州刺臾平北將軍竟陵公桓宣卒宣以丹水之敗貶為建威將軍後庾翼以為鎮南將軍南郡太守未至官發憤卒事具宣傅此所書乃宣前所歷官也傳吉宜以功封竟陵男亦非公

二年八月、桓宣が卒した。桓宣は、丹水で敗れたため、降格されて建威将軍となり、のちに庾翼が、かれを鎮南将軍・南郡太守とした。赴任する前に、発憤して卒した。桓宣伝にみえる。ここで本紀は、桓宣の以前の官歴によって書かれており、誤りである。桓宣伝は、功績によって、竟陵男に封建したとあり、「公」の爵位でもない。

丁巳以衛將軍豬哀為特進以上丙子日下推之則入月中不應有丁巳蓋兩日相去四十一日也

丁巳、衛将軍の褚襃を特進にしたとある。上に丙子の日がある。八月に丁巳にはずがない。二つのあいだは、41日離れているからである。201229

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丁国釣『晋書校文』(巻8~巻9への指摘)

穆帝紀

水和元年七月庚午持節都督江荊司梁雍益讎七州諸軍事牝州剌史征西將軍都亭侯庾翼卒 翼傅作都督江荊司雍梁蓋六外此多一州乾興故張望所撰庾翼碑澗館阻酉丑十七翼於康帝晏駕後進督江荊司翼雍梁益七州諸軍事然則翼傳言六州蓋漏書後增督翼州事此紀作七州日是實錄惟祖則翼碑作翼州疑誤在紀

永和元年七月庚午、庾翼の死亡記事がある。
本紀は都督七州とするが、庾翼伝は都督六州とし、差異がある。張望が撰した庾翼碑〈『文館詞林』四百五十七〉によると、庾翼は康帝の晏駕ののち、都督七州に進んだとあるから、庾翼伝にもれがある。
ただし、本紀の寧州を含んで冀州がなく、庾翼碑は冀州を含んで寧州がないため、本紀の誤りが疑われる。

一年一晉箭子以前司徒長堤殷浩為建武將軍揚州剌史浩傳言頗粟攘日一月至七月乃拜受則此時情實未居壽一官但存諂書耳

永和二年三月丙子、殷浩を建武将軍・揚州刺史とした。殷浩伝によると、三月から七月まで辞退した。このとき殷浩はまだ拝命しておらず、ただ詔書があっただけ。

一年舂云芝卯桓溫攻成郁剋之丁袁李勢降乙卯至丁亥相去一十斗日不應在一月中必有訛誤

永和三年三月乙卯、桓温が成都を攻撃し、丁亥に李勢が降ったとある。乙卯は、丁亥から33日離れているから、同月内に収まらない。

四年夏四月范文寇九德林邑傳作九真

永和四年夏四月、范文が九徳を寇したとある。林邑伝では「九徳」でなく「九真」とある。

黃詣目號孝神皇帝聚眾數干冠臨川庾條傳作數百尺

黄韜が神皇帝を自号し、数千人を集めたとある。しかし庾條伝では、数百人に作る。

七年七貨峻陽太陽薩龐五行志峻陽作峻平蓋誤以八年一月所崩之陵當之地

永和七年九月、峻陽・太陽の二陵が崩れたとある。だが五行志は、「峻陽」でなく「峻平」に作る。けだし八年二月に崩れた陵と混同したのだろう。

人年正月劉顯僭帝號於襄國冉閔擊破殺之以御覽所引後趙錄放之則顯弒石祠在永和六年四月與紀蹴年僭號在七月冉閔載記雖無顯僭號年月然次其事於冉過等來降之前今破前年紀過來降在八芳則顯之僭帝在七月開拱此屬之八年正月誤至閔殺顯後趙綠寶百此並福之正月亦互異酬閔殺顯在一錄又棗見遍馴祝酉異

永和八年正月、劉顕が帝号を襄国で僭称し、冉閔がこれを撃破して殺したとある。『御覧』に載せる『後趙録』によると、劉顕が石祗を殺したのは永和六年四月〈前年の本紀と同じ〉で、僭号が七月とされる。冉閔載記は、劉顕の僭号した年月を載せていないが、冉遇らが降服した前に配置している。前年八月に冉遇が来降したとあり、劉顕の僭号が七月であることは明らか。
ここで八年正月としているのは、誤りである。
冉閔が劉顕を殺すまでが、後趙録では二月においている。これを正月に配置するのも異なっている。〈燕録に冉閔が劉顕を殺したのは、三月癸酉とする。崔録もまた異なることが、『資治通鑑考異』に見える〉。

八月再閔子智以鄴降督護戴施護其傳國璽冉閔載記吉晉濮陽太守戴施率壯士入鄴助守誦得爾賁言便督霞何融迎糧陰令懷璽送於京師謝尚傳即言戴施使參軍何融率壯士入鄴助成譎得璽馳還枯頭壓雷稍異蒙謂以當日情事揆之尚傳為得賓惟參軍一字當從載記作督霞御覽人百八十弓玉璽諧亦作督護何融可證也至紀以督護為戴施殆因是役遺何譎得璽本出施謀遂轉帳傳訛致誤心

八月、冉閔の子の冉智が鄴をもって降った。督護の戴施は、その伝国璽を獲得したとある。冉閔載記によると、晋の濮陽太守の戴施は、鄴に入って璽を得て、督護の何融が京師に送ったとある。謝尚伝に、戴施は参軍の何融に…とあり、「参軍」という肩書きが異なっている。
『御覧』六百八十に引く『玉璽譜』でも、「督護」何融とある。
本紀では、「督護」戴施とするが、行動や肩書きが混乱している。

九月河南太守戴施括石門榮腸太守劉送戍蒼垣孜冉閔載記及謝尚傳均吉施為濮陽太守此作河南疑涉十年紀河南太守戴施而誤榮陽太守殷浩傳作建武將軍

九月、河南太守の戴施が、石門に据し、滎陽太守の劉遂は蒼垣を守ったとある。
冉閔載記と謝尚伝は、どちらも戴施が濮陽太守としている。ここでは、戴施を河南太守としており、差異がある。十年にわたり(?) 河南太守の戴施とあり、しかし滎陽太守と誤ったか(?)。殷浩伝では、建武将軍に作る。

九年七月丁酉地震五行忠作八月震拜量泉都

九年七月丁酉、地震があった。五行志では、八月に京都で地震があったとする。

十一年四月壬甲隕霜五行志有朔字

十一年四月壬寅、霜がおりたとあるが、五行志には「朔」の字がある。

士辜春正月鎮北將軍段寵茂慕容恪戰於廣固大敗之辜容儒載記貝言恪大敢翕與此紅正相反

十二年春正月、段龕と慕容恪が戦い、段龕が大敗したとある。慕容儁載記では、慕容恪が大敗したとあり、本紀と勝敗が逆転している。

升平元畔正月鎮北將軍齊公股寵為墓容恪所陷遇害掘惰載記恪克廣固以爵為伏順將軍則實米遇害天重志下永禾十一年十月丁丑熒惑犯大徵東審上相條亦但言格隅齊施執寵不云遇害

升平元年正月、段龕が慕容恪に殺害されたとある。慕容儁載記によると、慕容恪は広固を打ち破ったが、段龕は伏順将軍となっており、まだ殺害されていない。
〈天文志下に、永和十二年十月丁丑、熒惑が太微を犯し…とあり、慕容恪が斉城を陥落させて段龕を捕らえる前兆という文があるが、殺害とまでは書いていない〉。

沃南庚輦旃檀獻獸嫌蕪諧曾作笙旃檀南史梁書同此誤衍至蓬十摧

扶南・天竺の旃檀が、馴れた象を献上したとある。扶南伝は、竺檀に作る。南史梁書も同じである。この「天竺」の「天」の字は、衍字である。

大月出輦司謝李為攬持節都督安西將軍豫州刺史以奕傳放之持節都督下脫豫司冀并四州軍事八字證以犬二年紀弈卒以謝萬為西中郎將持節監司豫翼并四州諸軍事豫州刺史之文盛明蓋萬即禮樂之任者也

六月、司馬奕の任命の記事がある。司馬奕伝によると、持節・都督の下に、「豫司冀并四州軍事」を補うべき。下の二年の記事で、司馬奕が死ぬと、謝萬を西中郎将・持節・監司豫翼并四州諸軍事・豫州刺史」にしたとある。これは司馬奕の持っていた官職を継承したものだから、やはり司馬奕伝に基づいて本紀を補うべき。

三年七月平北將軍高昌為墓容儒所逼自曰馬奔於榮陽放簡載記奔榮陽者為李歷昌則奔於邵陵

三年七月、平北将軍の高昌が、慕容儁に逼られて白馬から滎陽に走ったとある。慕容儁載記によると、滎陽に奔ったのは李歴であり、高昌は邵陵に奔ったのである。

『晋書』巻一百十 慕容儁載記:既而平率眾三千奔于平陽,鴦奔于野王,歷走滎陽,昌奔邵陵,悉降其眾。


十月墓容遍冠東阿遣西中郎將謝萬次下蔡北中郎將郡量次高平以擊之王師敗績偶載記晉太山太守諸葛攸伐羽蜀其東都備遣慕容恪距戰王師敗績謝萬先據梁宋懼而遁歸與此互異以南大傳破之則部戰失利尚聞而退演也

十月、慕容儁が東阿を寇した。西中郎将の謝萬に下蔡に駐屯させ、北中郎将の郗曇に高平に駐屯させ、攻撃をしたが王師が敗績したとある。
慕容儁載記に、晋の太山太守の諸葛攸が東郡を征伐し、慕容儁は慕容恪にこれを防がせ、王師が敗績したとある。謝萬はさきに梁・宋に拠ったが、おそれて逃げたとある。この本紀と異なる。両人の列伝と比較すると、郗慮は戦って利があく、尚(?)がこれを聞いて、退いて潰走したとある。

十五年鎮北將軍譙王清之薨木傅恬字元愉無之字按晉大軍名往往有如之字者如顯悅梅顧悅之袁悅稱袁悅之張玄稱張玄之之類不勝枚舉此亦具一也

十五年、鎮北将軍・譙王の恬之が薨じたとある。本伝によると、恬之のあざなは元愉であり、諱に「之」字がない。晋代は、一字名に往々にして「之」を加える。顧悦を顧悦之といい、袁悦を袁悦之といい、張玄を張玄之といったりする。枚挙にいとまがない。

哀帝紀

興體二年一月庚寅江陵地震五行志作一月

興寧二年二月庚寅、江陵で地震があったとする。五行志では三月とする。

九月冠軍將軍陳祐留長咫沈勁守洛陽帥眾奔新城勁傳神留勁守洛陽在莫測其年此屬吝軍九月互異推傳言勁以五百火侍洛城尋為恪蛟陷被害似當從傅注韋蠹引證勁託在一于竟年三月

九月、冠軍将軍の陳祐が、長史の沈勁に洛陽を守らせたが、士衆が新城に逃げたとある。
沈勁伝によると、陳祐が沈勁を洛陽に留めて守らせたのは、翌年の興寧三年であり、これを二年九月に繋ぐのは整合しない。列伝によると、沈勁は五百人で洛陽を守ったが、ついで攻め落とされて殺害された。列伝のとおり三年が実態ではないか〈沈勁の死は、三年三月であるため〉。

海西公紀

一月癸酉散騎常侍河間主欽薨掘巍司耐亢興墓志欽由右衛將軍遷散騎常侍中龍軍使持節侍巾太尉此紀慚書官階不具欽竿後照束一計休見元酬軍儀同墓志

癸酉、散騎常侍・河間王の司馬欽が薨じたとある。魏の司馬元興の墓志によると、司馬欽は右衛将軍から、散騎常侍・侍中・護軍、使持節・侍中・太尉になった。この本紀の官名は不足がある。
〈司馬欽が卒したのち、大将軍・儀同三司を贈られたことが、元興墓志にみえる〉

太利一軍正片北巾郎將庾希有罪走入於海庾冰傳希逃於轉陵陂澤中事在海門公既廢後畔樞溫方剪除庾氏故希遣遁也紀次於是年甚誤

太和二年正月、北中郎将の庾希は、罪があって海に逃げ込んだとある。庾冰伝によると、庾希は海陵陂の沢中に逃げた。海西公が廃せられた後、桓温が庾氏を除こうとしたから、逃げたのである。本紀がこの年に置くのは誤りである。

五年九月廣漢妖賊李弘益州妖賊李金根聚眾反弘自稱聖毛梓撞太守周號討平之號傅無壘季嘔周楚傳載此事云誰遺子討事之當是寶錄雜燒之祖也僻雕酬關傅

五年九月、広漢の妖賊の李弘・益州の妖賊の李金根は、衆をあつめて叛した。李弘は聖王を自称した。梓潼太守の周虓がこれを討伐したとある。
周虓伝によると、二人の李氏を討伐した記事がない。周楚伝にこのことを載せている。周楚は、子を遣わしてこれを平定したという。こちらが実態であろう。周楚は、周虓の祖父である。〈李金根は、周楚伝では、李金銀につくる〉

敢年忤貫壬辰監蓋雲面諸軍事冠軍將軍藍判剌叟建城公周楚卒楚傳益慚作梁光

六年三月壬申、周楚の死亡記事がある。周楚伝は、「益寧」でなく「梁益」を監したとあり、差異がある。

簡文帝紀

咸安葦冬十一月已酉即皇帝位節乙卯溫護廢太宰就轅王端節庚戍使兼太尉周頤告於太廟辛亥桓溫遣弟秘節癸丑殺束梅至手庚減辛亥癸丑辨在乙卯前今於口一酉下先書乙卯次及諸咽殊耶倫應社虎肝沒云乙鵬酬骸雕酬

咸安元年冬十一月に、己酉・乙卯・庚戌・辛亥・癸丑の記事がある。
庚戌・辛亥・癸丑は、すべて乙卯の前である。いま己酉より後ろに、まず乙卯をおいて、つぎに庚戌・辛亥・癸丑があるというのは、順序がおかしい。
〈すでに桓温が上奏して司馬晞を廃した記事があるにも拘わらず、さらに乙卯、司馬晞を廃したと重ねて書くのもおかしい〉

一江年正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物肖濟服屬轍林邑為恭順屢見帝紀晉亦頻遣使假以官爵今四夷傳有林常邑面無百濟載筆定疏可知汀一二

二年正月辛丑、百済・林邑の王が奉献をしたとある。百済の服属は、林邑よりも恭順であり、しばしば帝紀に奉献が見えている。東晋もしきりに使者を送って、官爵を与えている。いま四夷伝に、林邑の奉献はあるが、百済の奉献がない。本紀の書きぶりは疎略である。

熒惑又久太微藝文類聚計暑陽秋作熒感猶在太微括八徐廣晉紀世說言語篇注引咸安元年十一月熒感逆行入太微至吁年七月熒感猶在與腸秋有合此云又入疑誤

熒惑が太微に「また(又)入った」とある。
『藝文類聚』〈十三〉に引く『晋陽秋』によると、熒惑は太微に、「なお(猶)在った」とする。徐広『晋紀』〈『世説新語』言語篇注〉によると、咸安元年十二月、熒惑が逆行して太微に入り、二年七月、熒惑がなお太微にあったとする。『晋陽秋』と合わせると、「また入った」という本紀は誤りが疑われる。

孝武帝紀

恤康元年五月旱五行志作一月

寧康元年五月、旱があった。五行志は三月とする。

二年七月涼州地震五行志作七月甲午

二年七月、涼州で地震があった。五行志は、七月甲午とする。

丕冗五年山貧甲寅震含章殿四住井殺內侍二人甲千以比歲荒儉北赦甲寅至甲子比十一日提文館詞林試柵七所載孝武霆震大赦詔有在六月十九昧爽以前皆赦除之語知此甲子即十九日甲寅則六月九日也

太元五年、六月甲寅・甲子の記事がある。甲寅から甲子まで、十一日離れている。『文館詞林』六百六十七に載せる孝武帝が地震を受けて出した詔によると、六月十九の昧爽(明け方)以前の罪を赦すとする。ここから、甲子が十九日と分かり、甲寅は六月九日と分かる。六月に収まることが確認できた。

干支が不整合を起こさなかった珍しいパターン。陳垣『二十史朔閏表』によると、甲子は十九日で、甲寅が九日。こちらとも整合した。
http://3guozhi.net/sy/cal.html


大年符堅遺其襄隕太守閻震冠竟陵襄陽太守租石虔討黑擒之十翼霍時為南平太守非襄陽也堅載記亦作南平太守桓石虔此紀蓋涉上襄陽太守而調東為襄陽太見石虔及桓洲傳載記則作可馬

六年、苻堅が襄陽太守の閻震を遣わして竟陵を寇した。襄陽太守の桓石虔は、これを討伐して捕らえたとある。
石虔伝によると、ときに南平太守であり、襄陽太守でない。苻堅載記もまた、南平太守の桓石虔としている。上に引き摺られて、本紀が誤ったのだろう。
〈厳(?)震が襄陽太守になったことは、石虔伝・桓沖伝にみえる。載記は「司馬」としている〉

丑葬朝卜一月庚午以寇難初平太赦掘上十一月庚申壬子雨日下推之士賈不應有庚午日兩庚字必有一訛

八年十二月庚午、寇難が平定されたとして大赦したとある。
上に十一月庚申・壬子の記事があり、すぐ下の十二月に、「庚」をもつ日付が入るはずがないため、必ずどちらか(十一月か十二月)が誤りである。

丁国釣は、『二十史朔閏表』のようなものを作らずに、ただ干支の間隔だけで論じている。だからこれ以上は言うことができない。


九年正月戊午立新盤王稀子遵為新鹽王辛亥謁建弈等四漢畢亥前戊肄七唱亦應反次在戊午後據針一

九年正月に、戊午と辛亥の記事がある。
辛亥は、戊午より七日前だから、この順序はおかしい。

十月丁巳泗間主壘客薨凰鑿衢間王欽子顯傳不附見史之疏也裾魏司霞蓋墓志知量官侍中左衛將軍贈使持節鎮而將軍荊州刺史謚日景

十月丁巳、河間王曇が薨じたとある。司馬曇は河間王の欽の子であるが、司馬顒伝には付属していない。叙述が疎略である。『魏司馬元興墓志』によると、司馬曇の官は、侍中・左衛将軍であり、使持節・鎮西将軍・荊州刺史を追贈され、おくりなは景であると分かる。

十塞舌川龍驥將軍劉牢之及慕容垂戰於黎陽王師敗績夏四月劉牢之與沛郡太守周次及垂戰於五橋澤主師又敗績牢之傳祗記五橋澤之敗不及黎陽喪師事枚墓容垂載記烹牢之率眾救符丕垂逆戰敗結遂撒鄴圍冉新城北走牢之追及之垂戰連敗又戰於五橋澤王師敗績云云是則前此黎陽之敗木屬垂事細誤為王師故五橋澤一役有玉師又敗績之文也牢之傳言垂間軍至北走牢之與田次之追之董盲里至五橋澤為垂所擊敗績使如紀言牢董之先已覆軍於黎陽安能再深追至一百單混垂軍新勝亦不應遽北走揆常日情事牢之無黎腸之敗吁以意得紀誤不足掘當以牢之傅為實錄

十年三月、龍驤将軍の劉牢之と慕容垂が黎陽で戦い、王師が敗績した。夏四月、劉牢之と沛郡太守の周次と、慕容垂が五橋沢で戦い、王師が敗績したとある。
劉牢之伝は、五橋沢の敗戦を記すことを祗(つつし)み、黎陽で軍を失ったことを書いていない。慕容垂載記によると、劉牢之は符丕を救い、慕容垂が迎撃して敗績し…という記述がある。黎陽で敗北したのは、本来は慕容垂のことであり、王師が敗績したのは、五橋沢の一回だけである。
劉牢之伝によると、慕容垂は軍が至ると聞くと、逃げた。劉牢之と田次はこれを追うこと二百里で、五橋沢に至り、慕容垂に攻撃されて敗績した。もし本紀のいうように、劉牢之がさきに黎陽で覆車(軍が壊滅)していたら、なぜ二百里も深追いできようか。しかも慕容垂の軍は、新たに勝ったばかりで、なぜ北に逃げるものか。
劉牢之は黎陽で敗れていない。劉牢之伝のほうが実録である。

是月姚葛殺符堅而僭即皇帝位要載記僭號在主冗十一年

この月、姚萇が苻堅を殺して、皇帝の位についたとある。姚萇載記によると、僭号を太元十一年としている。

卜一年四月以百濟王世子餘輝為使持節都督鎮束將軍百濟王掘南史尚有義熙三年以百濟王餘映為使持節都督臣濟諸軍事鎮東將軍百濟王事以此紀所書例之安帝紀不應不載今彼紀絕無其文諫漏殊甚

十一年四月、百済王の世子の餘輝を使持節・都督・鎮東将軍・百済王にしたとある。『南史』によると、義熙三年、百済王の餘映を使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王にしたとある。しかし義熙三年の百済との外交は、安帝紀には記述がないなど、採録の有無に一貫性がない。

士韋山寬乞伏國仁死弟乾歸嗣儒位僭號河南王乾歸載記乾歸於太元十四年先隻待登金城玉之號稷登夏署為河南王皆非是年事 十三年六月、乞伏国仁が死に、子の乾帰がついで、河南王を称したとある。乾帰載記によると、太元十四年、先に苻堅から金城王の称号を受け、のちに苻登が河南王に封建したとある。称号と年は、本紀が誤りである。

十四年七月甲寅宣陽門四柱災五行志作雷震宣隕門四柱蓋柱為雷火所焚

十四年七月甲寅、宣陽門の四柱が焼けたとある。五行志は、雷が宣陽門におちて焼けたとあり、理由が書いてある。

十五年正月龍驪將軍劉牢之及翟遼張頤戰於太山主師敗績牢之傳翟遼作翟創蓋遼之扞也張願作張遇傳言牢之進平太山劍走河北因覆張遇則不但未敗績且戰勝矣紀傳之交不相檢照如此

十五年正月、龍驤将軍の劉牢之と翟遼・張願が太山で戦い、王師が敗績したとある。
劉牢之伝は「翟遼」でなく「翟釗」に作る。けだし翟遼の子である。「張願」でなく「張遇」に作る。劉牢之伝によると、劉牢之は進んで太山を平定し、翟釗は河北に逃げて、張遇を捕らえたとする。敗れていないどころか、勝利したのである。本紀と劉牢之伝とでは、勝敗すら逆転している。

一十年魏王柘振圭擊慕容垂子寶於黍谷未喜載記及鬼悽書均作參合蓋陂名在代郡參合縣廷丑

二十年、魏王の拓跋圭が慕容垂の子の慕容法を、黍谷で撃ったとある。黍谷は、載記と『魏書』では、どちらも「黍谷」でなく「参合」に作る。けだし陂の名前であり、代郡の参合県のこと。

末年長星兄帝心甚惡之此事本之世說然非實錄劉孝標奮駁正之具雅量篇注鑿辨。

末年、長星が現れて、皇帝は不快がったとある。このことは、『世説』では事実でないと批判されている。劉孝標はかつて雅量篇の注で、批判を加えている。201231

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丁国釣『晋書校文』(巻10への指摘)

安帝紀

隆安元年禿髮烏孤自稱大都督大單于國號南濕載詘烏孤稱大都督大將軍犬單于平西王

隆安元年、禿髪烏孤が大都督・大単于を自称したという。載記では烏孤は大都督・大将軍・平西王を称したとあり、称号が異なる。

一年九月王泰奔曲阿長塘湖湖尉收送京師恭傳作湖湘尉魏書夜讀晉陽秋世說隙篇雌同

隆安二年九月、王恭は曲阿の長塘湖に走り、「湖尉」が捕らえたという。王恭伝によると、「湖尉」でなく「湖浦尉」に作る。『魏書』と『晋陽秋』〈『世説』仇隙篇に引く〉も同じ。

『魏書』司馬叡伝にみえる。『世説』仇隙篇もチェック!


十例丹吳國內史桓謙義典來守魏隱謙為桓湘笙孚其委官而道事亦貢謙傅孫恩傳作桓謹蓋誤魏富字安時會稽上虞火曆官義興太守御史中丞見魏氏讀關關爛選孫恩傳作巍儒謝愁傳作巍鄢均訛誤

十一月、呉国内史の桓謙・魏興太守の魏隠がみえる。桓謙は、桓沖の第二子であり、官位を捨てて逃げたことは、桓謙伝に詳しく見える。孫恩伝は、桓「謹」に作っているが、けだし誤りである。
魏隠は、あざなは安時であり、会稽上虞の人で…義興太守になったというのは、『世説』賞誉篇にひく『魏氏譜』に見える。
孫恩伝では、魏「傿」に作っている。謝琰伝では、魏「鄢」に作っているが、どちらも誤り。

輔國將軍劉牢之宋書武帝紀作前將軍以牢之傳孜之則進號前將軍伍破孫恩後此紀所書宮號儒得其寶宋書諛

輔国将軍の劉牢之とある。『宋書』武帝紀は、前将軍とする。劉牢之伝で考えるに、号を前将軍に進めたのは、孫恩を破った後である。この『晋書』安帝紀が正しく、『宋書』武帝紀が誤りである。

十一月呂光立其太軒細為天王亡號太牡皇是日光死呂纂弒紹而仁正纂弒細曰立載記擊在四年此接書於光死之下疑非實錄

十二月、呂光が太子の呂紹を立てて…とある。呂纂が呂紹を弑殺して自立したのは、載記では、四年のこととする。ここでは、呂光の死に繋げて書いているので、誤りであろう。

四一四月地震震在乙未日見五行志

四年四月、地震ごある。五行志は、乙未と日付を記している。

六月旱五行志作五月

六月、旱とある。五行志は五月とする。

五年一百呂超弒呂篡以其兄隆回偽位載記纂破弒在元典元牢亦較紀後一年

五年二月、呂超が呂纂を弑して、その兄の呂隆が偽位についたとある。載記によると、呂纂が殺されたのは、元興元年であり、一年のズレがある。

五月孫恩冠吳國內史袁山松死之以山松寶三寇下似雁廬瀆一字

五月に孫恩が…とあるが、袁山松伝によると、本紀の「寇」の字の下に「シ扈瀆」の二字が抜けている。

郁洲宋書武帝紀作鬱洲一字古迺

「郁洲」とあるが、『宋書』武帝紀は「鬱州」に作る。いにしえに二字は通ずる。

元墓亢年以右將軍吳隱之為郁督丈廣一州請軍事廣州刺史枚隱之傳未為廣判之前在朝為左衛將軍井右將軍傳言隆安中以隱之如龍釀將軍廣判刺史假節為平越中郎亦不及都督交廣一洲諸軍事了

元興元年、呉隠之の任命記事がある。呉隠之伝によると、まだ広州を都督する前に、左衛将軍となっており、右将軍とはなっていない。呉隠之伝によると、隆安年間に、呉隠之は…とあり、都督交広二州諸軍事になってはいない。

臨海太守辛景擊孫恩斬之恩赴海曰沈見恩傳非斬也辛景木作辛骨見世說德行蕭注此蓋避唐諱改

臨海太守の辛景が孫恩を斬ったとある。孫恩は海で入水自殺したと、孫恩伝にある。斬られたのではない。辛景は、『世説』徳行篇の注では辛い[日丙]であり、唐代の避諱である。

上が「日」で下が「丙」です。「丙」が避諱の対象。


二年春一賈建威將軍劉裕破徐道覆於東陽宋書武歸日膚亳日忻紀是時為建武將軍非建威門事在正月所破寓尚循川卜一二年紀稱建武將軍劉裕則吁扣此作建成之服即悄柄博一賣冗興一年正月寇束陽亦川證此作過覆之疎

元興二年春、建威将軍の劉裕が徐道覆を東陽で破ったとある。
『宋書』武帝紀によると、このとき建武将軍であり、建威将軍でない。しかも春だけでなく、正月と分かる。破ったのは廬循であることは、下三年に見える。『晋書』の誤りである。廬循伝によると、元興二年正月、東陽を侵略したとあることも裏付けになる。これを道覆とするのは疎(不備)である。

一年一月壬戍桓玄可徙七謚節辛西銷絡誅尚井紅儼射一于愉壬戌後辛門一日此繫口失次

元興三年三月壬戌、桓玄・司徒の王謐〈節〉、辛酉、劉裕が尚書左僕射の王愉は…とある。壬戌の後に辛酉がある。順序がおかしい。

一亞午馮遷斬桓玄於箱盤洲水經江水篇淹作枚嫗洲玄邊剛毛修之傳宋武帝紀均可門川市作枚洲

壬午、馮が桓玄を貊盤洲で斬ったとある。『水経注』江水は「枚廻洲」に作る。桓玄伝と毛修之伝と『宋書』武帝紀は、いずれも同じ。〈『魏書』桓玄伝もまた、枚回洲に作る〉

十川盧循冠廣州吳隱之傳言循寇南海攻擊肖餘日蒯雙陷五行志火類亦言隱之閉城固守興十月毛戍夜火起眾潰遂為賊擒然則十月乃循召廣州之時典寇麟州當在六喪盡乏一紅七月間石得即繫諸卜片也至宋武帝組列此驅於誰熙元照年十月尤誤不可從桐穀

十月、廬循が広州を寇したとある。呉隠之伝によると、廬循は南海を寇して、百日あまり攻撃し、後に陥落させたとある。五行志の火類もまた、呉隠之は城門を閉じて守り、十月壬戌夜、火が起こって賊に捕らわれたとある。十月が、廬循が広州を陥落させたとき。広州を侵略したのは、(百日あまりから逆算し)六月か七月の間とすべき。すべてを十月に繋ぐのは不適切。『宋書』武帝紀はこれを、義熙元年十月とし、より誤りがひどいので従うことはできない。

攝鶴德姚戶超軸偶位掘南燕錄關暗暗德死於十一月一戊午此繫於十月下誤剛剛

慕容徳が死に、子の慕容超が偽位を嗣いだとある。南燕録〈『御覧』百二十六〉によると、慕容徳の死は十一月戊午であり、これを(安帝紀のように)十月の下に繋ぐのは誤りである。

襄熙几年一月建威將軍劉懽黼討柯振斬之未門懷一肅傳但言為州國將軍內不脫建威然此紀及桓玄阻帳仙刪皆作建酬將單疑懷肅傳促書或輔國即建威之訛

義熙元年三月、建威将軍の劉懐粛が桓振を討伐して斬ったとある。『宋書』劉懐粛伝は、ただ輔国将軍になったとあるだけで、建威将軍という官歴を記さない。この安帝紀と桓振伝は、どちらも建威将軍とするため、懐粛伝の書きモレが疑われる。あるいは、輔国は建威の誤りか。

三年替一月己酉車騎大將軍劉裕來朝又己任尺雌除酒廣爛己酉至已甚相去四十百則犬赦必非一月內鏘裾丈酬館詞林棚六所載安帝赦詔有在今年一月九以前圃皆赦除之語是己丑乃一月十九日紀漏圭音季遂鋪成比錯

三年春二月己酉、車騎大将軍の劉裕が来朝したとある。〈また〉己丑、大赦して、禁酒を除いたとある。
己酉は、己丑から四十一日離れており、大赦したのは必ず二月以内のことではない。『文館詞林』〈六百六十七〉に載せる安帝の赦の詔に、今年三月十九日以前の罪はすべて許すとある。ここから、己丑は三月十九日とわかる。本紀は「三月」の二字を脱落させており、この誤りが起きたのだ。

『二十史朔閏表』で要検証。


一月乙亥大雪五行志作己亥

三月乙亥、大雪とある。五行志は己亥に作る。

六年五月景寅震太廟鴟尾踞上丙子日下推之五月口不惜有景寅口疑紀失書六月致誤

六年五月景寅、震太廟鶉尾とある。上に丙子があるから、五月中に景寅(丙寅)は入らない。本紀に「六月」二字の書きモレがあるか。

河間內史蒯恩踞宋書思傅未為河間內史然朱石齡傅亦鬥河間內史蒯恩意恩會為是官而木傳失書也譙縱傳則作蘭陵太守

河間内史の蒯恩とある。『宋書』蒯恩伝によると、河間内史という官歴がない。しかし朱石齢伝にもまた、河間内史としての蒯恩が見える。蒯恩はかつてこの官位にあり、蒯恩伝のほうがモレがある。譙縦伝では、蘭陵太守としている。

八月姚典將桓謙寇江陵劉道規敗之十口葛賊譙縱陷巴東檀玄傳及宋武帝細桓謙曾為譙縱荊州刺史姚興載詫彗記亦有縱遺其荊州剌史桓謙語然廁謙乃縱將非姚興將也且謙縱同時入寇不應分書是役道規斬謙但日敗之亦未盡辜實

八月、姚興の将の桓謙は、江陵を寇した。劉道規がこれを破った。十一月、蜀賊の譙縦が巴東を陥落させたとある。
桓玄伝と『宋書』武帝紀は、桓謙がかつて譙縦の荊州刺史になったとする。姚興載記もまた、譙縦はその荊州刺史の桓謙を派遣し…という文がある。以上から、桓謙は譙縦の将であり、姚興の将ではない。しかも桓謙・譙縦は同時に入寇したのであり、これを分けて書くのは適切でない。この軍役で、劉道規は、桓謙を斬ったが、ただ「敗(やぶる)」とだけ作るのは、事実を書き尽くしていない。

入年十一月以西陵太守朱石齡為建成將軍益州刺累帥師伐蜀敘蜀山畢五行志及謙縱傳宋書石齡傳均在九年此云十百鯉是發詔之日宋武帝紀亦列於八年與此同

八年十二月、西陵太守の朱石齢は、建威将軍・益州刺史となり、蜀を討伐したとある。
伐蜀のことは、五行志と桓謙伝・譙縦伝、『宋書』朱石齢伝では、すべて九年のこととする。これを八年十二月とするのは、詔が発せられた日に基づく。
『宋書』武帝紀もまた、八年に繋いでおり、『晋書』安帝紀と同じ。

おもしろい指摘!


九年三月林邑范湖達寇九真交州刺史杜慧度斬之梁書林邑僵尋羣須達復寇九真杜慧期與戰斬其思交龍主甄知生俘須達息那能水經溫水篇注引林邑記亦言躡度與湖達戰擒斬其享庇紀以所斬即湖達誤甚又裾林邑記即水經水篇注酬及宋書桂慧度傳則是役係進討九真紀與梁書指為來寇亦失事實至湖達梁書南史作須進御覽蹄村弓義熙起居注及林邑傳則均作明達互相連異無從據丘桂霆則為慧度弟或是役亦預軍事故一靖童臺期世宋天霓忠舟以為慧期

九年三月、林邑の范湖達が九真を侵略し、交州刺史の杜慧度がこれを斬ったとある。
『梁書』林邑伝は、九年、須達がふたたび九真を侵略して、杜慧度が戦ってこれを斬って、反乱が鎮静化したとある。

『梁書』巻五十四 諸夷 海南諸国 林邑国:九年,須達復寇九真,行郡事杜慧期與戰,斬其息交龍王甄知及其將范健等,生俘須達息[冉β]能,及虜獲百餘人。自瑗卒後,林邑無歲不寇日南、九德諸郡,殺蕩甚多,交州遂致虛弱。
その〔校勘〕に、九年須達復寇九真行郡事杜慧期與戰斬其息交龍王甄知及其將范健等 「須達」晉書安帝紀作「范湖達」。「杜慧期」晉書安帝紀作「杜慧度」。
殺蕩甚多 「蕩」南史作「傷」。とある。

『水経注』温水に引く『林邑記』もまた、慧度と湖達は戦って、その一子を捕らえて斬ったとある。『晋書』本紀がここで記す「斬」の対象は、湖達のこと。誤りがひどい。同前『林邑記』と『宋書』杜慧度伝は、この軍役を、九真への進攻に繋げている。『梁書』の内容と比べると、モレが多い。湖達は、『南史』では「須達」に作り、『御覧』〈七百六十〉に引く『義熙起居注』と、林邑伝は、どちらも「明達」に作る。相互に異なる。
杜慧期は、杜慧度の弟であり、あるいはこの軍役で軍を預かったため、杜慧期のこととして書かれたか。『宋書』天文志もまた、杜慧期としている〉

五月甲午休之宗之出奔於姚渾孜載壘文出奔皆伍姚興時休之傳亦云然今謂奔於姚油蓋紀誤以興死於是霍百故休之等以五月出奔遂屬於測耳實則與卒在山一年非是年也

五月甲午、休之・宗之は、姚泓のところに出奔したとある。載記を考えるに、この二人の出奔は、姚興の時代である。休之伝も同じである。いま安帝紀が姚泓としたのは、姚興の死期の認識を誤って、この年の二月としたから。ゆえに休之らが五月に出奔したとき、その逃げ先を姚泓として整合性を取らせた。
実態は、姚興はこの年の十二年に死んだので、この年ではない。

十一年十月遣兼司空高密王恢之修謁五陵宗宅僵旨一乞一寸慚之以給事申兼太尉修謁洛陽圜寢不云兼司牢

十二年十月、兼司空・高密王の恢之を派遣して、五陵を修謁させたとある。宗室伝によると、恢之は、給事中・兼太尉として、修謁させたのであり、司空ではない。

十三年七月劉俗克長安執姚溫宋書武帝紀執姚泄在八月

十三年七月、劉裕は長安を破って、姚泓を捕らえたとある。『宋書』武帝紀によると、姚泓を捕らえたのは、七月でなく八月

十四年十月以涼公士業川鎮因將軍士業傅作鏤西犬將軍

十四年、十月、士業を鎮西将軍にしたとある。士業伝によると、鎮西将軍である。

恭帝紀

冗熙冗年八月劉裕移鎮壽春以劉懷慎為前將軍北徐州刺史鎮彭城宋書懷慎傳義熙八年以輔國將軍監北徐州諸軍事鎮彭城尋加徐州刺史宋臺建怵帷熙手督江北淮南諸軍獸前將電南青州剌史間祖遷都壽春留懷恨督北徐童擢北諸軍事中軍將軍徐州剌史是則懷慎此時已非前將軍并非北徐州剌史其鎮彭城在前巫小得并為一時事

元熙元年八月、劉裕が移って寿春に鎮し、劉懐慎を前将軍・北徐州刺史として彭城に鎮させたとある。
『宋書』懐慎伝によると、義熙八年、輔国将軍・監北徐州諸軍事として彭城に鎮したとあり、ついで徐州刺史を加え、宋が台建すると〈義熙十四年〉、督江北淮南諸軍事・前将軍・南青州刺史になったとある。高祖が寿春に都を遷すと、懐慎を留めて督北…とある。
このとき懐慎はすでに前将軍でなく、北徐州刺史でもない。彭城に鎮したのは、前に記述がある。まとめて書いてはいけない。

十二月辛卯裕加殊禮己卯太史奏黑龍四見於東方辛卯至己卯比四十九日不能並見於十一月日辰必有一訛

十二月辛卯、劉裕に殊礼を加え、己卯、太子が黒龍が四匹、東方に現れたと上奏したとある。辛卯から己卯まで、四十九日ある。同月に収まらない。必ずどちらかに誤りがある。

裕使后兄叔度謂后有閒兵人踰垣而入殺帝於內房提宋書豬叔度傳此事叔度與兄淡之所共為紀削淡之名未盡事實

劉裕は、后の兄の褚叔度から皇后に要請して、隙を見て恭帝を殺させたとある。『宋書』褚叔度伝によると、このことは、褚叔度と兄の淡之がやったことである。淡之の名を省いており、恭帝紀は足りない。

本紀への指摘はここまで。201230

「内的」史料批判って言葉を誤用しがちで、『晋書』の列伝を使って本紀を正すことは、いかにも「内的」ですが、それだけでなく、『宋書』『北魏書』と比較し、『晋書』の誤りを正すことも「内的」史料批判なんですよね。 「外的」史料批判は、勅撰だから…とか、五代十国の乱を経由したから良いバージョンが散佚し…という観点。

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盧文弨撰『晋書校正』

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