孫呉 > 小説『魯粛伝』を書きつつ考えたこと

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もしも周瑜が長生きしていたら

初期の孫権集団は「軍師」交替ごとにシンプルな構造になる。君主権力の確立、正常化とでも言えましょうか。

建安五年~十三年

孫策の死の直後、周瑜が主体となり、若年の孫権を立てた。孫権を担ぐ理由は、曹操との関係維持を維持するため。孫策は曹操と官爵授受をしており、ほぼその一点を価値として孫権が選ばれた。
孫権集団は、曹操が袁氏を駆逐して河北平定をする際、曹操を南から支え、劉表を牽制(可能なら討伐)することが期待される。
家柄・性格からして、周瑜が「曹操の出先機関」に甘んじたとは思えないが、袁術没後の混乱は、この形でしか収束できない(と周瑜が考えたと思われる)。
他方、家柄・性格からして、孫権は全然、曹操の手先に甘んじます。むしろ、曹操との関係があっての会稽太守であり、当面の揚州方面の秩序維持者です。当人に実績がないことは、自他ともに認めていた。

建安五年以降、周瑜の本心を推測するに、べつに孫権に対する「下剋上」を狙うでもない。だって「下」じゃないから。周瑜が、孫権集団の実質的トップです。孫権は、同盟者もしくは行きずりの盟主。
もしも周瑜が、主導権をとって劉表を駆逐したら、その功績を曹操に働きかけ、太守か刺史の地位を請求できる。孫権に会稽太守を任せたまま、周瑜が荊州を領土として、群雄化する道がある。ただちに孫権を攻撃することはないが(忠誠心からではなく、単なる利害・損得から判断して)、ゆくゆくは衝突せざるを得ない相手。

魯粛は、周瑜の賓客・参謀。周瑜の群雄化に備えて、厚遇された。魯粛は、周瑜に「投資」を行っている。周瑜も、魯粛の家族をかくまっている。周瑜は、「孫権に魯粛を推薦した」とか、「魯粛に孫権を勧めた」ではない。あくまで、孫権-周瑜のかりそめの上下関係と、周瑜-魯粛の交友関係が、独立して存在するだけ。歴史書は、のちに魯粛が孫権に使われたことから、孫権-魯粛の関係を描くが、ちょっと脚色があるのでは。

建安十三年

魯粛伝にある、魯粛が孫権に「項羽に比すべき曹操が仕切るから、漢室はもうダメ」と説いた記事は、時期が不明。

諸葛瑾伝に「値孫策卒、孫権姊壻曲阿弘咨、見而異之、薦之於権。与魯粛等、並見賓待」とあるが、魯粛が孫権に提案したのは、建安五年とは決まらぬはず、時間に幅を見ることができる。むしろ、建安五年の孫権は、曹操のおかげで、やっと立場を得たところ。いくら魯粛が非常識でも、建安五年に、これを言うはずがない。そして、曹操の「専横」は、この時点では明らかでない。

魯粛が孫権に帝王になれと説いた逸話は、(それ自体が、後世の創作とも疑われるが)もしも史実と見るなら、建安十三年に曹操が南下し、孫権が曹操への対抗を決めた時期まで遅らせるべきか。ここまで遅らせれば、曹操の「専横」が明らかになる。三公廃止など。
この時点では、孫権が帝王の自覚を持ったのでなく、周瑜が孫権(の兵力)を利用すべく、魯粛をけしかけて、孫権を揺さぶったと見たい。
赤壁の開戦は、青年孫権の成長物語ではない。のちに皇帝になるための覚醒でもない。ただ、周瑜・魯粛に、兵・物資の供出を約束させられた…、なかば巻き込まれた…と思う。そうでないと、

赤壁の戦い自体も、赤壁後の動きも、周瑜・魯粛は荊州方面に積極的に出ていく。劉表の死去が、荊州の動きが活発になる、直接的な契機だったが、それだけではない。
曹操が河北平定を終えてしまって、荊州に干渉してきた。
建安十三年まで採用していた「曹操の出先機関である孫権を担いで、当面の秩序を保つ」戦略を続けると、周瑜が群雄化する可能性が消える。なりふり構わず、周瑜が曹操との対決を始めた時期。

建安十三年~建安十四年

建安十三年の前であろうが、後であろうが、
周瑜が荊州を得れば、「揚州の当面の平穏のため、周瑜が、曹操と繋がりがある孫権を担ぐ」という構図がくずれる。
周瑜は、荊州を手に入れるだけでなく、益州を目指す。
劉備の使い方について、周瑜・魯粛に考えの違いがあったが、孫権を揚州に置いたまま、西方進出・打倒曹操をしよう!という方針は、二人で同じ。周瑜・魯粛は、かなりの部分、意見の調整ができていた。気が合ったのではないか。

周瑜・魯粛のかってな行動の、被害者は孫権です。孫権の身分は、曹操によって保証されていた。しかし、周瑜のせいで、孫権までもが、曹操と関係が悪化した。
孫権が生き残るためには、曹操に併呑されるのを防ぐだけでなく、「周瑜を部下として使い続ける」ことが必要となる。周瑜が、かりにも部下になったのは、建安五年~十三年(袁術・孫策の没後、揚州が不安定であり、とりあえずの盟主が必要であり、しかも曹操が干渉してこない)の状況があったから。これが変化してしまった以上、無策のままで、周瑜を部下に留めておくのはむずかしい。
孫権は、徐州攻略をおこない、存在感を発揮するしか手がない。呂蒙伝に記事あり。曹操の領土から陸続きの徐州を攻めても、保つのが難しい。しかし、仕方がないんですよ。揚州はだいたい落ち着いており、荊州を周瑜に任せた(攻撃目標を奪われた)のならば、孫権が進出できるのは、徐州だけなので。

周瑜・魯粛は、あたかも独立勢力のように荊州で軍事行動を決める。孫権は「曹操の出先機関」としての建安五年以来の立場を失っているから、「周瑜・魯粛の兵站基地」を務めるのが精一杯。

建安十五年~

周瑜が死ぬと、魯粛は目標を見失う。周瑜の群雄化計画があるから、張りあいがあった。魯粛自身は、家柄・性格からして、「周瑜の代わりに、魯粛が群雄になる」ことはない。というか、だれも支持してくれないだろう。だから、すでに亡き周瑜の地位を「終身、周瑜の部下」だったことにして、つまり周瑜の立場を読み変えて、周瑜に野心(孫権を同格以下に見下して利用する気持ち)があったことを抹消した。孫権集団の荊州方面の司令官、、ぐらいに立場を変更した。

周瑜なき後の、魯粛の立ち回りは、また別に考える。今回は、周瑜の話。


周瑜・魯粛の死後、呂蒙が継ぐと、やっと君主孫権の一元的な支配に向かう。

周瑜・魯粛が長生きしても、魏・呉の天下二分にならないと思います。劉備が収まった地位に、周瑜・魯粛が収まり、三国鼎立。
そういう三国鼎立になってしまえば、孫権は生き残りを模索して、周瑜・魯粛と同盟するか、曹操に服従する。周瑜の家柄・名声、揚州での経緯が手伝い、孫権は早々に周瑜に平和的に吸収されたかも。180906

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魯粛の詐欺的スキーム

魯粛と諸葛亮の話をします。

私設紙幣の発行

1716年、ジョン・ローは私設の中央銀行を設立し、預金を集めて紙幣を発行し、国家に貸し付けた。この紙幣はフランス国家が価値を保証することとし、その裏付けとしてフランスが所有していたミシシッピ流域開拓のための西インド会社を設立した。(東谷暁『世界金融崩壊_七つの罪』)

建安十三年(赤壁前夜)、曹操派(後漢の献帝に地位を保証されていた)の孫権に対し、魯粛は路線転換し、曹操に抗戦せよと主張。これはジョン・ローの振る舞いに近い。
魯粛は、周瑜をパートナーとして、劉表没後の荊州を「開拓」して利権を得る事業を提案した。事業に協力すれば(財産や人を供出すれば)大儲けできると、孫権とその臣に持ちかけた。

魯粛・周瑜は、荊州「開拓」事業を私設し、孫権の臣たちに出資を募る。張昭は反対であったが、程普らはこれに賛同して、出資した。出資すれば、いわば投資信託の証書がもらえる(荊州を切り取り次第で、配当がある)。魯粛は孫権に、証書の価値を保証するように要求した。
魯粛はジョン・ロー。孫権はフランス国家。荊州はミシシッピ。

怪しげな証券を発行したのは、魯粛だけでなく、諸葛亮も同じ。
「劉備の事業に参加すれば、リターンがあるよ」と、荊州で出資を呼びかけた。「劉備の事業はきっと成功する。漢の宗室であり、漢室復興のスローガンは有望だから!」という金融広告を出している。
諸葛亮・劉備は荊州で資金を集め、事業を開始した。

魯粛の証券は、孫権が価値を保証しつつ、「劉備と提携しているから、リターンは有望」と宣伝した。諸葛亮の証券は、劉備が価値を保証しつつ、「孫権と提携しているから有望」と宣伝できる。ふたつの証券は、成功の期待を相互依存しており、再帰的に価値を支える。
この構図は、劉備・孫権による官職の互薦に、端的に表れている。

証券をめぐる動き

魯粛も諸葛亮も、ジョン・ローと同じく資金を集めることに成功。むしろ人気がある=価値が上がる=さらに人気が上がる。
荊州「開拓」事業がもうかるという期待/幻想が共有されているうちは、バブルに向かう。だが、配当が出ないどころか、元本の保証すら危ぶまれると、途端に暴落する。
つまり、

魯粛が私設した投資信託(荊州開拓事業に投資しよう)と、諸葛亮が私設した怪しげな投資信託(劉備の漢室復興に投資しよう)は、相手の事業を前提にして、建安十三年、出資者を募集。双方の利益が一致することもあれば、対立することもある。しかし対立した場合でも、魯粛・諸葛亮は期待が暴落しないように、メンテ(事業の運営)と広報(印象の操作))をしていく。

孫権は、なぜ曹操に離反できるか。劉備が味方になるから。劉備は、なぜ曹操に対抗できるか。孫権が荊州を貸してくれるから。
なんの説明にもなってないし、片方が怪しくなれば両方コケるが、一定の支持を集めたから成り立ったんです。両者の関係性や利害は安定的でなかったが、ともに事業は成功した。

與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』では、憲法と法律が、相互に支え合っているという話があった。それ単体では、説得力がなくても、二つの「説得力がないもの」が互いを規定しあうと、なぜか説得力を持つらしい。


「曹操に対抗できる孫権」に対する期待、「漢室を復興する劉備」に対する期待が、ちょっとでも疑われて値崩れしたら、途端にどちらの証券も価値がゼロになる、砂上の楼閣みたいな商品だったと思うんです。
魯粛と諸葛亮は、相手の言いなりにならず、しかし相手を破滅させず、マネジメントをした。……ということが、行われていたのではないかと思います。

魯粛は、国内外に向けて、「孫権の荊州開拓事業は、きっとうまくいく」とアピールしていく必要がある。みずからリターンを上げるために奔走するし、同時に、リターンへの期待を操作しなければならない。
魯粛と諸葛亮は、「共同経営者」ではない。つまり、完全に利害が一致することはない。しかし、片方が倒れると、もう片方も倒れるという運命共同体ではある。だから、相手を破綻させてはいけない。相手が、自分に損失を迫ってくれば、突っぱねる。しかし、とことん攻撃し尽くすことない。魯粛が、必ずしも劉備に冷淡ではなく、「お人好し」になるのも、これが原因ではないかと。180908

魯粛が劉備を利する理由

魯粛は「お人好し」だから劉備に利するのではない。劉備を「傭兵」として利用し倒すのも違う。劉備の復興事業に「出資」しているから、劉備の伸張=孫権の利益となるが、それだけじゃない。つまり、余裕資金で株を購入し、その会社の拡大を心待ちにしているような、有閑投資家ではない。
孫権が曹操に対抗するには、劉備が必要。劉備滅亡は、孫権集団の破綻に近い。魯粛が劉備を助けるのは、孫権存続のため。そういう切迫した事情があった。

建安十三年、孫権は「曹操に地位を保証された会稽太守」という立場を捨て、赤壁で曹操に抵抗した。抵抗に踏み切ったのは、同年以前に存在しなかった二つの条件が新たに加わったから。前提条件が変わったから、判断が変わった。この判断の変更は、満を持しての……、リスクヘッジを万全にした上での……、ものというより、曹操軍接近に伴い、ドサクサで決まってしまったようなものだが。
新たな条件とは、①劉備との共闘、②荊州獲得の期待。
裏を返せば、①劉備が滅亡し、②荊州獲得の期待が消滅したら、建安十三年以降の孫権の立場は、破綻する。

①劉備との「反曹操」という大同団結的な共闘がくずれ、②荊州獲得の期待が叶わず(つまり曹操に荊州を占領されたら)孫権は、曹操に抵抗できる基盤も、抵抗する理由も失う。
やばい!と思ったとき、リセットボタンを押して、「曹操に地位を保証された会稽太守」に戻ろうにも、さすが曹操が許すはずがなく、降伏するしかない。

孫権は、劉備に「財産の全額を投資」しているわけではない。揚州という固有の支配領域がある(そんなことは、昔から分かっている)。しかし、劉備が倒れたら、孫権が揚州を保てないという意味で、まるで「全額を投資」しているかのような、引っ込みがつかない立場となってしまった。劉備軍の一員になるのと、同じぐらいのリスクを負ってしまった。
孫権集団は必然、親劉備性を帯びる。自分自身のために。

魯粛は、孫権を「劉備との運命共同体」に巻きこみ、孫権自身に充分なリスクヘッジを検討する余裕を与えなかったのだから、詐欺師の部分がある。
だが、本当の詐欺師なら、カモを、ハイリスク・ノーリターンに巻きこむ。魯粛が巻き込んだのは、ハイリスク・ハイリターン。つまり孫権が、帝王になるというリターンを得る可能性があった(そして後年、帝王になった)。孫権にリターンの可能性を持たせたのだから、魯粛を単なる詐欺師と断じることはできない。180909

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僑札の分とは_『左伝』襄公二十九年

魯粛が周瑜と結んだという、僑・札の関係性について。
小倉芳彦訳(岩波文庫)から伝の翻訳を引用し、岩本憲司訳から杜預注の翻訳を引用します。

まず『三国志集解』魯粛伝

『三国志』魯粛伝に、周瑜・魯粛が「僑・札の分」を結んだという。
『三国志集解』魯粛伝に、『左伝』襄公二十九年、「呉公子札聘於鄭、見子産如旧相識、与之縞帯、子産献紵衣焉」。鄭大夫国僑、字子産とある。
これは、『左伝』襄公二十九年に、「呉聘於鄭、見子產如舊相識、與之縞帶、子產獻紵衣焉」とあり、人名を補ったもの。
訪問した者を、『左伝』は「呉」に作るが、『三国志集解』は「呉公子札」と補う。訪問された者を、『左伝』は「鄭」に作るが、これを『三国志集解』は「鄭の大夫である国僑は、字を子産という」と補う。

季札が各国をまわる

『左伝』は、まず呉の公子季札が使節として(魯に)やってきて、叔孫穆子(叔孫豹)と会い、叔孫穆子が「あなたは、よい死に方をしない。あなたは国政を担っているが、慎重に人選をしないと、重責に堪えられなくなる」と警告し、各国の楽舞を演じさせて、コメントをする。

「よい死に方をしない」は、「其不得死」であり、杜預注に「天寿を全うできない」ということである、とある。


つぎに「其出聘也通嗣君也」とあり、このたびの季札の出使は、〔呉子餘祭が〕新たに即位したことの通告のためだったと状況を説明がある。斉で晏嬰と語って、晏嬰に「封邑・政権を返上しなさい。さもなくば内紛に巻きこまれる」と助言し、晏嬰は斉の内紛をまぬがれたという。

杜預注によると、内紛(難)は、昭公八年にある。


季札と子産が贈り物をしあう

つぎに、「聘於鄭見子產如舊相識與之縞帶子產獻紵衣焉」と『三国志集解』に引用されていた文章。
(呉公子季札は)鄭に使者として赴き、子産(公孫僑)に会うと、旧知の間柄のごとくであった。季札(訪問した側)は子産に白絹の大帯を贈り、子産(訪問された側)は季札に麻織の衣を贈ったとある。

杜預注によると、大帯である。呉の地では、(鄭ではツキナミな)縞[きぬ]が貴重であり、鄭の地では、(呉ではツキナミな)紵[あさ]が貴重であったから、それぞれ、自国にとって貴重な品(相手にとってツキナミな品)を堅持、おのれを損なうだけで、相手に利益を与えることはしない、ということを示したのである。


疏があって、翻訳がないので自力で文を区切って読むと、

注、大帶至貨利。正義曰、玉藻說大帶之制。大夫以素為帶裨、其垂三尺者、外以玄、內以華。居士錦帶、弟子縞帶。季札吳卿也。而以縞帶、與子產者、是其當時之所有耳。吳始通上國、未必服章依禮也。杜以縞是中國所有、紵是南邊之物。非土所有、各是其貴。知其示損己耳、不為彼貨利也。若其不然、傳不須載明其有此意也。

季札(訪問した側)が与えた縞帯は、季札の身分(呉卿)からすると、格下の人が身につけるはずの帯。なぜ季札は、これを子産に与えたかと言えば、それを持っていたから。呉の服制は、まだ礼に則ったものではなかった。

季札の持ち物は、彼が呉卿として持っているべきものより、グレードが低かった。あり合わせで、グレードが低いものを、子産にプレゼントしたことになる。
グレードが低いことに、特別の意図は読みとれない。「敢えて、格下の人の持ち物を贈って、なにかを表現しようとした…」と考えれば、それは読みこみ過ぎである。


杜預によると、贈りあった物は、中原(鄭)と南辺(呉)にとって、贈られた側にとっては、普通にある物だが、贈った側にとっては、貴重なものだった。自らを損ねる(大切なものを差し出す)が、相手に利益(貨利)を与えるつもりはないということを示した…と杜預は考えたのである。
もしも季札・子産に、(相手にとって価値がないものを渡そうという)意志がないのであれば、伝は、その意志があることを載せるべきでない。つまり『左伝』は、贈りあった具体的な物を載せることで、季札・子産の意志がここにあった(相手に利得を与えるつもりがなかった)ことを示したのであると。

鄭の国政についてアドバイス

『左伝』には続きがあり、「謂子產曰、鄭之執政侈、難將至矣。政必及子。子為政、慎之以禮。不然、鄭國將敗」とある。
季札は子産に言った、「鄭の執政(伯有)は威張っているから、内紛がやがて起こる。政権は必ずあなたにまわって来ます。あなたが執政になられたら、礼をもとに慎重におやりなさい。さもないと鄭国は崩壊しますよ」とアドバイスをした。
季札は、つぎは衛国に行くので、鄭国のエピソードはここまで。季札は、各国の為政者(もしくはその予備軍)と面会して、国政のアドバイスをしている。

贈り物をしあったから、特別にアドバイスしたのではないだろう。斉の晏嬰にアドバイスしたように、季札はあちこちの国でコメントを残している。贈り物の記述がない国にも、アドバイスをしている。贈り物とアドバイスのことは、切り離して理解してよいだろう。180913

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劉備に貸した荊州=江陵1城

魯粛が「劉備に貸した荊州」というのは、突きつめれば、江陵1城のことではないか。そう考えると、随分、見通しがよくなりました。『三国志集解』でも、荊州は、俗にいう荊州八郡の全体を指すという理解のもと、諸説が迷走していましたが、そこまで考える必要がないのではないか。
建安十四年、曹仁を駆逐したあと、自称?荊州牧の、劉琦・劉備が、駐屯すべき場所として認識していた江陵が、まさに「荊州」なんです。……と考えるに至ったんですけど、その前後のツイートをまとめておきます。180921

劉備を織りこむ魯粛

劉表が死んだ直後、魯粛は荊州に弔問という名目で、偵察に行く。
偵察に先立ち、魯粛は孫権に見通しを語っているが、そこでは、劉表の死、劉琦・劉琮の二派への分裂にくわえ、劉備の荊州における存在感が語られている。魯粛が劉備を織りこんで荊州戦略を立てることは、ずっと一貫してるんですね。

土地・城に最上級の価値を見出さず、そこを守るのが割に合わない(もしくは形勢的に不可能)であれば、積極的に立ち去る。この行動原理は、故郷を離れた魯粛と、劉表死後に逃亡した劉備に共通点が見える。
土地・城が与えてくれる安心感は最高。土地・城に執着して「枕」に死ぬか、捕縛されがち。

赤壁の戦いの功績

劉表の死後、魯粛がまず江陵に入ってから、劉備に会いに行っている。荊州争奪の初期段階で、江陵に目を付けている。終わりの、呂蒙が関羽から奪うところは魯粛の死後だが、それ以外は全て魯粛が関わっている。

魯粛の戦略は、江陵1城をめぐって描ける。小説は、分かりやすさが大事。見通しが立った。


赤壁の戦いにおける劉備の活躍の度合いは、陳寿と裴注、蜀志と呉志で異なり、列伝間で異なり、史書と物語でも異なる。
なぜ分からないか。劉備の手柄の比率は、江陵の支配権をめぐる劉備・孫権の抗争のタネそれ自体(ど真ん中)であり、関羽と魯粛が単刀会で争ったのもそれだから。そりゃ揉める。

周瑜が劉備に与えた「南岸」

先主伝注引『江表伝』に「周瑜は南郡太守となり、南岸の地を分けて劉備に給した」とある。胡三省は、南岸を零陵ら四郡とする。だが直後に油江口に営を立てたとあるから、南岸は油江口を指すか。
劉備が周瑜に「せまい」と申し入れたのは、江陵対岸の油江口のこと。だから後に「数郡」を貸せと言った。

南岸は油江口を指すとは、盧弼が『三国志集解』先主伝ですでに指摘していた。


周瑜が劉備に貸したわけではない、南部四郡ですが、
荊州の南部四郡は、地理的に孤立。この地の太守の行動原理は、強い者に従うだけ。援軍が望めないのに、がんばってもムリ。人脈や党派、王朝に対するビジョン、奉ずる正義は二の次(がんばると、劉巴みたいに逃亡するしかない)。
赤壁後に曹操→劉備、単刀会で劉備→孫権にあっさり降るのもそのため。

赤壁後に劉備軍が高速で四郡を陥落させ、単刀会のとき呂蒙が高速で四郡を陥落させる(唯一ねばった零陵太守郝普も、孤立して情報不足で敗れた)。勝因を、劉備軍や呂蒙軍の強さに求めるのは誤りか。
おおむね江陵を抑えた勢力が、南部四郡を抑える。真・三國無双エンパの赤・青の線の繋がりのイメージ。

江陵をめぐる変遷

曹操・孫権・劉備が「荊州」を争奪し、荊州こそ三国(というか後漢末に勝ち残った3つの有力勢力)の戦闘が尖鋭化する場所、用武の地…とか言うが、けっきょく、江陵の1城の取りあいなんですよね。荊州って言うから焦点がボケるが、要するに江陵だけなんですよ。あとは連鎖的に支配権が決まっていく。

上述のように、南部四郡は、江陵の支配者が自動的に得る。


魯粛が劉備に「貸した」荊州とは、要するに江陵。
周瑜伝に「権拝瑜偏将軍、領南郡太守……屯拠江陵。劉備以左将軍領荊州牧、治公安」。
周瑜が死ぬと、魯粛伝に「令程普領南郡太守。粛初住江陵、後下屯陸口」とあり、程普伝に「周瑜卒代領南郡太守。権分荊州与劉備、普復還領江夏」とある。
周瑜が曹仁から江陵を奪い、南郡太守として駐屯。周瑜の死後、魯粛が劉備に江陵を明け渡す。南郡太守程普は江夏まで引き下がった。

劉表が支配→劉表の死→劉備が狙う→曹操が先回り→曹仁を留む→周瑜が年またぎで攻めて獲得→魯粛が周瑜から継承→魯粛が劉備(公安にいた)に貸す→劉備が関羽を留めて益州へ→単刀会をへて関羽に貸し続ける→呂蒙が関羽から奪う。

『演義』51-52回で、孔明が周瑜を出し抜いて江陵を占領するから、劉備の江陵占領は正当に思えるが、物語的印象操作。魯粛の譲りがないと、劉備は江陵を領有できない。イイネ!!


ちなみに、梁満倉先生は、荊州失陥は関羽の責任でないと仰ってた。関羽は(性格は完璧ではないかも知れないが)、諸葛亮も認める統軍の経験・能力のトップ。建安二十四年、勢力図が変わった決め手は、関羽に失敗があったのではなく、孫権が「江陵を自ら得る」と決心したこと。だそうです。
建安二十四年の変動は、孫権が曹操と結ぶか、劉備を裏切るか、漢魏革命の正統性をどのように見なすか…という大きな話にも思えるが、要するに、孫権が江陵1城を自ら統治したいか否かの一点に絞れると思う。魯粛が晩年、江陵の戦略的位置をどう思ってたかで、歴史の見通しが変わる。これは小説の領域。

魯粛の没年と、孫権が曹操に降伏する年が同じ。魯粛が死んで(呂蒙が役割を継いで)方針転換したと考えたくなるが、果たしてそうか。そんな露骨な転換をすれば、関羽が孫権を疑う(関羽が傲慢すぎて孫権の変心を見落とすというのは、とりあえず考えない)。魯粛から呂蒙へ。なんらかの連続性を見出したい。


周瑜と劉備の時系列

先主伝は、赤壁の火計→曹操を追撃→南郡に到達①→劉琦を荊州刺史→劉備が南部四郡を平定→廬江雷緒の降伏→劉琦の死→劉備が荊州牧として公安に治す、の順番。
裴注『江表伝』は、①の位置に周瑜が南郡太守となり、劉備に油江口を与え、後に(復た)劉備が孫権に数郡を求めたと置く。混乱の原因!

『通鑑』は周瑜が建安十四年十二月(年内と読むべきか)に江陵に拠り、十五年に卒す(時期は不明、夏と秋の間か)。劉備の京訪問は、同年春。荊州を借すこと(江陵入城)は、十五年の秋と冬の間。関羽が襄陽太守、張飛が宜都太守になるのは借した後。
→先主伝の裴注『江表伝』の位置が悪いのでは。

以上の検討結果を、まとめると、
建安十三年冬に赤壁、同年内に周瑜・劉備が南郡に到達。周瑜が曹仁の江陵を攻略し、同時に劉備が荊州南部を攻略。歳余(呉主伝)の後、十四年冬、周瑜が江陵を獲得、劉備を油江口に置く。十五年春、劉備が京を訪問、数郡を求めるが却下。同年夏か秋、周瑜が卒。秋か冬、劉備が江陵に入る。時系列完璧!イイネ!!

劉備は、荊州から逃げ、魯粛に誘われて孫権を頼り、鄂に駐屯(江表伝)して赤壁が開戦し、曹操軍を追い、荊州南部の平定を担当し、江陵南岸=油江口に仮置きされ、手狭だから京を訪問。 周瑜の案は「劉備を本拠地から隔離し、京に閉じこめる」でなく、この時点で劉備は本拠地がないことに注意したい。

劉備が孫権に「荊州を貸して(都督させて)」と言うから、『三国志集解』先主伝が膨大だが、要は「周瑜が治めている江陵に、自分を入れてほしい」という要求か。荊州八郡の権利交渉ではなく、「油江口は居心地が悪いから江陵をくれ」だ。
そりゃ周瑜は許さないし、劉備を孫権の本拠地に移せとなる。

単刀会のこと

関羽と魯粛が話しあい、湘水を境界とし、西を劉備・東を孫権とするが、湘水の東側って何があるかというと、漢昌郡(周瑜→魯粛の封邑である、下雋・漢昌・劉陽・州陵の四県)なんですね。魯粛は、自分の保有だけは守ったってこと?ニュアンス難しいが。州陵県は、『歴史地図集』ではギリ東岸でした。

単刀会は、「有徳者に土地が帰属する」とか、抽象的な議論が出るが(抽象性はすぐに却下された)、キモは江陵の帰属。魯粛が「江陵は劉備軍で」と決めたから、従来方針の継続が結論!荊州分割案に出てきた郡の数・面積ももちろん重要だが、二の次。湘水が境界なのは、国境の摩擦を減らす便宜かと。

『三国演義』に、張飛と馬超が、長時間にわたり一騎討ちをし、皆が見守るシーンがありますが。関羽と魯粛も、べつの意味での一騎討ち。手出し無用で、おそらく長時間にわたる交渉をしてたんです。そういうのを書きたい。


単刀会の背後では、曹操が動いていた。
建安十七年、劉備が劉璋に増兵を依頼し、その理由が「曹操が孫権を攻撃したから」。『通鑑輯覧』は、孫権は劉備の救援を必要とせず、劉備が使った口実と退けるが。先主伝に、同時に楽進が青泥で関羽と戦い、楽進伝によると楽進が勝利したとある。
曹操軍の南下は、揚州・荊州同時だったのでは。この曹操の動きが、単刀会の結論、必要とする話し合いの期間に、少なからぬ影響を与えたことは、確実と見てよいでしょう。180921

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魯粛にまつわる列伝を読んで

魯粛の小説を作るため、『三国志集解』を読み直しています。

周瑜のこと

周瑜を韓信に準える。『三国志集解』周瑜伝所引『古今刀剣録』に、淮陰侯韓信の剣を得ると、孫権が周瑜に与えたという。また赤烏二年、諸葛瑾・歩隲が周瑜の子を弁護して、「周瑜は韓信・英布に匹敵する」という。周瑜の功績は韓信を連想させ、つまり周瑜が孫権から自立し得たとも、殺され得たとも。

魯粛伝で、魯粛が孫権に「帝業」を語りますが、盧弼は「漢帝が健在なのに、帝業を語るとは、(漢賊)曹操と何が違うのか」とコメントしてる。

魯粛_漢の忠臣説。『三国志集解』魯粛伝に引く袁枚の説の「或」曰く「魯粛は、漢を復興させたいから、劉備を援助した」と。これは袁枚が否定するために敢えて書いた思考実験だと思いますが。赤壁の前後、漢を取り戻すか?諦めるか?という議論が、切り口として鈍い(状況を分析できない)証拠かと。

曹操を「漢賊」と見なして、赤壁を開戦させた周瑜とは、そもそも発想が違う。周瑜・魯粛は、活躍時期の起点からして、同床異夢なのでしょう。

黄蓋のこと

赤壁の火計は、周瑜伝にある(黄蓋伝には「周瑜伝を参照」としかない)。黄蓋は周瑜の配下で、史書での扱いはその程度か。赤壁の活躍から遡り、黄蓋を「孫堅以来の有力な将軍」と捉えるから、ワケが分からなくなる。「孫堅以来」なら程普を第一にあげるべきで、無双のキャラ化時期もバイアスを助長。
孫権集団の南郡太守(治は江陵)は、周瑜→程普→魯粛のせいで空位。赤壁の戦いは、周瑜・程普が、江陵を曹操から奪うための戦いであり、劉備がその過程で、役に立ったり立たなかったり、手柄を奪ったりする。魯粛の小説で、きっと黄蓋を出さない。出て来なくても、話が成り立ってしまう。

呂範のこと

魯粛・呂範は、呂範伝注引『江表伝』で鄧禹・呉漢に準えられ、新設した郡の太守+3~4県の封邑という境遇でも並んでいた。
だが生きざまは対照的!で、魯粛は孫策に接近せず、劉備に荊州を貸し、倹約したが、呂範は孫策に傾倒し、劉備を荊州から剥がし(丹徒の京に留め)、豪奢だった。

魯粛と孫権との会話は史料のなかで噛みあわない。重任を帯びたから「警戒された」とは言えないが、個人的な信頼関係は乏しそう。呂範は孫権と親しい逸話が見え、いかにも信頼されている。
魯粛の倹約は、孫権や呉臣らからの批判をかわすためかも。「孫権に損をさせ、魯粛自身が富んでいる」と言われたら、失脚は必至。

甘寧伝のこと

赤壁の戦い後、甘寧は「江陵よりも先に、夷陵を攻略せよ」と提案する(採用され、曹仁軍に包囲を受ける)。
甘寧の狙いを推測すると、益州との遮断かと。劉璋は、曹操軍に兵・物資を供給する立場。曹操は夷陵あたりに臨江郡を設置し、支配定着を図っていた。荊州・益州の争奪は早期に始まっている。

張飛伝のこと

先主伝注引『傅子』に、徴士傅幹の言葉として「張飛・関羽は、どちらも万人の敵だ」とある。『蜀志』をきちんと読んでいれば、当然まっさきに目に付き、知っていなければならないことですが、ここでも張飛・関羽の武力を形容しており、張飛が先。ぼくは『蜀志』をあまり読まないので、へえ!と思った。
『三国志集解』張飛伝に引く胡三省注に、張飛が曹操軍に「身、是張益徳也」と言うと、「これ(後漢末)より(南朝の)梁・陳まで、士大夫はおおむね自らを『身』という」とあり、けっこう興味ぶかい情報のような気がする。※「おおむね」は「率」字を訳したものです。読みが違ったらすみません。

張飛伝に「劉備が江南を平定すると張飛を宜都太守とし、後に南郡に在らしめた」とある。『三国志集解』張飛伝所引 趙一清の説によると『方輿紀要』巻七十八に、張屯湖が荊州石首県の西40里にあり、張飛の駐屯地という。石首県は西晋から見える県で、江陵より長江下流、洞庭湖のほう。呉との前線。

諸葛亮伝のこと

諸葛亮の隆中対は、劉備が荊州を保有し、孫権と同盟するもの。劉備が逃亡した時点で、実現可能性がほぼゼロ。魯粛が当陽で劉備に「孫権を頼れ」と言うのは、隆中対が想定してた同盟締結ではなく、隆中対のアイディア自体への投資なんだと思います。いちど挫折した諸葛亮が、熱心にプレゼンしたかも。
隆中対は前提を失い、空論になった(かに思えた)。魯粛は、そのビハインド分の立て直し(とりあえず劉備が荊州を保有する)ところから付き合うことを約束したのでしょう。不確定要素の多い現実(戦いの勝敗など)に翻弄されつつ、一応は前提の立て直しに成功した。これが、魯粛の単刀会の恩着せ的なセリフに繋がる。

諸葛亮伝の年号のある記事は、建安十六年から二十六年に十年も飛ぶ。梁満倉先生が批判していた「劉備の生前、諸葛亮はたいした役割を果たさなかった」という説に、有利な材料を提供するでしょう。この期間のことを、『三国志集解』諸葛亮伝に引く何焯の説は、蕭何の任をしていたと評してる。

龐統伝のこと

劉備勢力を荊州で伸張させる力学がさまざまに働くが、理由はさまざま。①劉備を活躍させたい、②曹操を討伐したい、③孫権を成長させたい、④荊州を安定させたい。いずれも切り離し可能、独立した目的意識。
諸葛亮は①②(④もあるか)、魯粛は②③、龐統は②④(③もあるか)。

龐統は、龐統伝注引『九州春秋』で「荊州は荒廃し、荊州だけで曹操に対抗できないから、益州を併呑せよ。劉璋はそれなりの地位を与えればよい」という。
これは周瑜が「揚州の国力だけでは曹操に対抗できない。荊州を併呑せよ。劉備はそれなりの地位を与え(丹徒の京で飼い殺し)ておけばよい」に通じる。

龐統が劉備に説いたところの劉璋に対応するのが、周瑜が孫権に説いたところの劉表の子(劉琦)だった。劉備が劉琦に成り代わったのであれば、「それなりの地位」に当てはまるのは劉備。それなりの地位を与え、劉備を京に置き…となる。

史実の劉備が、益州占領後、もと劉璋の武将を使いこなしたように……。仮想の周瑜が、荊州占領後、もと劉備の武将(関羽や張飛)を使いこなすことが、あっても不思議ではない。史実の益州がそうであったように、従うひと、従わないひとが出るでしょうが。

周瑜が死に、周瑜の意志は途切れました。周瑜から後継者に指名された魯粛は、根底では通じているかも知れないが、劉備の取り扱いが異なるため、意志の継承者とは言えない。周瑜の遺志を忠実に継承していたのは、彼の遺体を呉に届けた龐統かも知れません。

その他、思いつき

◆信頼されない魯粛
魯粛と諸葛亮の戦略眼の優劣は、簡単に判定できないが、君主からの信頼度は諸葛亮のほうが上なので、仕事がしやすそう。もしも魯粛が、諸葛瑾なみに信頼されていたら、もっと違ったのかも知れない。しかし、魯粛の奇想と、孫権からの揺るがぬ信頼とは、きっと両立しないので、それは諦めて下さい。

◆魯粛の地名
三国志の伝説化・受容の一形態として、地名への反映があるはずなんです。魯粛が軍事演習したから「魯徳山」とか。歴史上の役割、史料内での扱いとはべつに、どれだけ地名に残っているか、記憶され語れ継がれているかって、まとめるとおもしろそう。『三国志集解』所載だけでも、けっこうな分量。

◆呉会ってどこ?
「呉会」って、「呉郡・会稽郡」の省略形とも思えるけど、『三国志集解』諸葛亮伝に引く胡三省の説によると、「呉は東南の一都会なるを言う」てあって、会稽の「会」ではなく、都会の「会」なんです。都会は『史記』貨殖列伝に見え、人や物資が集まる賑やかで大きなまち。現代日本語に近い。
ただし諸葛亮伝では「東連呉会、西通巴蜀」と対句になっているから、呉郡と会稽郡、巴郡と蜀郡のことではないかと。郡名であることにこだわらず(たまたま郡名に採用されているが)一般的な地名という理解か。180921

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18年9月中旬の活動メモ

18年9月3週目の作業

魯粛の小説を書き始める前に、二つの新しい工程を設けてる。段取り八割!
①関連史料を一太郎にコピペし、魯粛用の年代記を作る。『三国志集解』から、小説に使える注釈を転記。魯粛伝・周瑜伝・呂蒙伝・呉主伝・先主伝・諸葛亮伝などがメイン。
②エクセルでプロットを組み立て、構造化・編集。

司馬光『資治通鑑』に依拠する以外の方法で、三国志の小説を書くならば、チーム司馬光と同じ作業を自分でやり直す必要がある。つまり、関連史料を網羅的に採取して、正しさを検証したり、時系列に並べたり、整合性を取ったりする。魯粛の小説は、『三国志集解』を採取してこれをやってます。


三国志学会の大会

史料を整理している時期、三国志学会に行ってきました。
阿部幸信先生のご論文を読む!孫呉の正統性は、ホットなテーマなのかも知れない!(誤解かも知れない!)

沈伯俊先生による『三国演義』校理は見ておきたい。
物語的な趣向のために正史を逸脱するのは「いい」として、趣向でもないのに、後漢・三国の史実に反する記述(制度や人名の誤り)があれば、それを指摘して修正する…って魅力的です。どこからが趣向で、どこが単純ミスなのか、読解力が試されそう。
みんな『三国演義』に批判的だが、『三国演義』をきちんと読んだ人がどれだけいるんだ?って指摘は、身の回りで複数方面から聞きます。「物語を読む」って、人ごと・時期ごとに深みが変わるでしょうが、少なくとも自分なりに「消化」したくはあります。李卓吾本vs毛宗崗本を、わが目で比べるだけでも。

三国志学会の大会が、人生の定点観測になってる。「あの先生みたいに、いくつになっても勉強したい」と励みにし、その先生の追悼に立ち会い。幼く見えた若者が、ものすごく立派になっていて。この1年で、何ができて何ができなかったか振り返り、次の1年の励みになる。三国志的な「正月」はむしろ9月。

18年冬は、魯粛の小説を発売

つぎは、12月の名古屋の交地。魯粛の小説を出します。研究とは、ちょっと違うけど、やる気を補充しました。
三国志学会での、梁満倉先生の「軍師中郎将諸葛亮の荊州時代」を聞いて、魯粛の小説にどうやって盛りこもう…とか考えた。小説を書いている時期に、お話を聞けたということで、存分に吸収したいと思います。

三国志学会で、最近(ツイッターで)大人しいですねって言われたんですけど、魯粛の小説を書いてるからなんです。作業を始めると、あんまり、つぶやかなくなる。思いついたことがあれば、そっちに流れてしまう。たまに副産物のメモができたりはしますが…。便りがないのは元気の証拠ということで…。

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