両晋- > 『資治通鑑考異』を読む(晋紀十二~宋紀一)

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資治通鑑釋例(前半)

中国哲学書電子化計画から、201231にテキストを取得。原文に句読点がないので、点を切ってから読みました。点を切った文は、現代語訳に沿えておきます。
資治通鑑釋例 宋 司馬光 撰

用天子例:周秦漢晉隋唐皆嘗混一九州傳祚於後子孫雖㣲弱播遷四方皆其故臣故全用天子之禮以臨之帝后稱崩王公稱薨

天子の凡例。漢・晋などの統一王朝は、子孫が弱体化した場合でも、天子としてあつかう。皇帝・皇后は「崩」字を用い、王・公は「薨」を用いる。

用天子例:周・秦・漢・晉・隋・唐 皆嘗混一九州、傳祚於後子孫。雖微弱播遷四方、皆其故臣。故全用天子之禮、以臨之。帝后稱崩、王・公稱薨。


書列國例:三國南北五代與諸國本非君臣從列國之例帝后稱殂王公稱卒秦隋未併天下亦依列國之例書帝王未即位及受禪例

列国の凡例。三国・南北朝らは、本来は君主ではなく、臣である。列国の記法に従う。皇帝と皇后は「殂」字をもちい、王公は「卒」字を用いる。秦・隋が天下を統一する前は、列国として記載する。(統一王朝の)帝王のうち、即位や受禅をする前も、この形式を用いる。

書列國例:三國・南北・五代與諸國、本非君、臣。從列國之例。帝・后稱殂、王・公稱卒。秦・隋、未併天下、亦依列國之例。書帝王、未即位及受禪例


帝王未即位皆名自贊拜不名以後不書名書稱號例:天子近出稱還宮逺出稱還京師列國曰還某都凡新君即位必曰某宗後皆曰上 太上皇止稱上皇 上太上皇太后號曰尊尊為太上皇太后之類 皇后太子曰立改封曰徙公侯有國邑曰封無曰賜爵 列國非臣下之言不稱乗輿車駕行在京師天下及崩臣下所稱仍其舊文

即位する前の帝王は、いみなを記す。参拝不名より以後は、いみなを記さない。君主の記載は、以下のようにする。天子が近くに外出したら、「宮に還る」とする。遠くに外出したら、「京師に還る」とする。列国では「○都に還る」とする。新しい君主が即位したら、必ず「○宗」といい、以後は「上」とする。太上皇は、「上皇」と称するにとどめる。上太の上皇太后は、太上皇太后というようにする。

点の切り方があやしいので、間違っているかも。

皇后・太子は「立」という。改封は「徙」という。公侯で国邑があるならば、「封」といい、国邑がないなら、「賜爵」という。列国では、臣下の言(直接話法の引用)でなければ(封建などを)称さない。乗輿・車駕・行在・京師・天下と崩は、臣下の称するところは、旧文(出典とする史料)を踏襲する。

帝王、未即位、皆名。自贊拜不名以後、不書名。書稱號例:天子近出、稱還宮。逺出、稱還京師。列國曰、還某都。凡、新君即位、必曰某宗、後皆曰上。太上皇、止稱上皇。上太上皇太后、號曰、尊尊為太上皇・太后之類。皇后・太子、曰立。改封、曰徙。公侯有國邑、曰封。無、曰賜爵。列國、非臣下之言、不稱。乗輿・車駕・行在・京師・天下及崩、臣下所稱仍其舊文。


書官名例:節度使赴鎮曰為使相曰充遙授曰領 凡官名可省者不必備書 公相以善去曰罷以罪去曰免書事同日例

官名の記載について。節度使として赴任したら、「使と為る」とする。「相」になったら、「充つ」とする。遙授したら「領す」とする。官名は、省けるものは、必ずしも完全には書かない。公・相は、順当にしりぞいたら「罷む」とし、罪によりしりぞくならば「免ず」とする。書き方は、同日の例(後述)におなじ。

書官名例:節度使赴鎮、曰為使。相曰充、遙授曰領。凡官名、可省者、不必備書。公相、以善去、曰罷。以罪去、曰免。書事、同日例。


兩國事同日不可中斷者以日先序一國事已更以其日起之如齊建武元年十月辛亥魏主發平城云云辛亥太后廢帝為海陵王云云

二つの国をまたがり、同日のことで、中断するのが好ましくない場合は、日付で順序をつける。一国のことで、すでに更(あらためて?)いる場合は、日の順序とする。たとえば、斉の建武元年十月辛亥、北魏の主が平城を発して…云々とあり、辛亥、太后が皇帝を廃して…云々とあるように(辛亥が二回出てきているが、やむを得ない措置である)

兩國事、同日、不可中斷者、以日先序。一國事、已更、以其日。起之、如齊建武元年十月辛亥、魏主發平城云云、辛亥、太后廢帝為海陵王云云。


書兩國相涉例:凡兩國事相涉則稱某主兩君相涉則稱諡號不相涉而事首已見則稱上稱帝

二国が関わりあい干渉するときの書き方。二国が並存するなら、「○主」と称して区別する。(国内で)二人の君主が並存するなら、諡号を称して区別する。並存せずに、すでに最初にことわりを入れたなら、「上」や「帝」とだけ称する。

書兩國相涉例:凡兩國事、相涉、則稱某主。兩君相涉、則稱諡號。不相涉、而事首已見、則稱上、稱帝。


書斬獲例:凡戰偽走而設伏殺之曰斬首千餘級千級以下不書獲輜重兵械雜畜非極多不書

斬獲についての書き方。およそ戦いにおいて、戦って偽って敗走し、伏兵を設けて殺したならば、「斬首千餘級」のようにとする。千級以下ならば数を書かない。輜重・兵器・動物を獲得したことは、雑多になってしまうので書かない。

凡戰、偽走、而設伏、殺之、曰、斬首千餘級。千級以下不書獲輜重兵械雜畜非極多不書


書後姓例:宋永初三年長孫嵩實姓拓㧞時魏之羣臣出於代北者皆複姓孝文遷洛改為單姓史患其繁悉從後姓

姓を変更したものは、変更後の姓で統一する。

書後姓例:宋永初三年、長孫嵩、實姓拓㧞。時魏之羣臣、出於代北者、皆複姓。孝文遷洛、改為單姓。史患其繁、悉從後姓。


書字例:凡以字行者始則曰名某字某以字行字及小字可知者不復重述難知者乃述之

あざなによって知られているものは、初登場のとき、「名は○、あざなは△」と記してから、あざなによって記してゆく。あざなと小字が分かっているものは、重複しては記述しない。知るのがむずかしいものは、記述をした。

書字例:凡、以字行者、始則曰名某字某、以字行。字及小字、可知者、不復重述。難知者、乃述之。


書反亂例:凡誅得諐〈諐音愆〉曰有罪逆上曰反爭彊曰亂

反乱の記載について。およそ誅殺は、諐(あやまち)を得たものは「罪あり」とする。上にそむいたものは「反」とする。領域を争ったものは、「乱」とする。

書反亂例:凡、誅得諐〈諐音愆〉曰、有罪。逆上曰、反。爭彊曰、亂。


以下、内容が変わるので、仕切り直す。201231

これ以降は、「曽、大父温國文正公、作書之例。或因、或倣、皆有所據、遺藁中」と、自分語りが始まってました。

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『資治通鑑考異』東晋1(元帝~成帝)

『資治通鑑考異』は、中国哲学書電子化計画で、テキストを拾い、本の画像版を見比べながら、必要に応じて字を補っています。句読点を自分で切っているので、とくに、固有名詞や書名を把握しそこねていると思います。あとで、中華書局『資治通鑑』で引用されている胡三省注を見れば、精度を上げられると思います。
今回は、とりあえず自分で点を切り、『資治通鑑考異』がどんな内容なのか、目を通してみる、という、いわば「予習」をゴールとしています。

元帝

十一月己酉朔日食帝紀天文志皆云十一月丙子日食按長厯十月十二月皆己卯朔是月己酉朔二十八日丙子晉書元帝紀十一月有甲子丁卯若丙子朔則甲子丁卯乃在十月又劉琨集是年三月癸未朔八月庚辰朔皆與長厯合今以為据

『通鑑』は、十一月己酉朔、日食があったとした。
帝紀・天文志は、どちらも日食を十一月丙子とする。長暦では、十月・十二月はどちらも己卯朔なので、この十一月は己酉朔、二十八日が丙子である。『晋書』元帝紀は、十一月に甲子・丁卯の記事がある。もし(帝紀・天文志のいうように)十一月が丙子朔ならば、甲子・丁卯は十月となる。
さらに『劉琨集』に、この年の三月癸未朔、八月庚辰朔とある。どちらも長暦と合う。いまこちらに従う。

太興二年蒲洪降趙三十國晉春秋洪降劉曜在太興元年按元年曜未都長安晉書洪載記無年但云曜僣號長安洪歸曜故置此年

『通鑑』は、太興二年、蒲洪が趙に降ったとした。
『三十國晋晉春秋』は、蒲洪が劉曜に降ったのを、太興元年とする。案ずるに、元年の時点ではまだ、劉曜は長安に都を置いていない。『晉書』苻洪載記では、年の記載がなく、ただ「劉曜が長安で僭号すると、苻洪は劉曜に帰順した」とあるだけである。ゆえに、(『三十国晋春秋』を退けて)この年に置く。

三年六月閻涉趙卯等殺張寔晉書寔傳作閻沙趙仰又云寔知其謀收劉●殺之据晉春秋作閻涉趙印又●死在寔被殺後今從之

『通鑑』は、太興三年六月、閻渉・趙卯らが張寔を殺したとした。
『晋書』張寔伝によると、「閻渉」でなく「閻沙」に、「趙卯」でなく「趙仰」に作る。張寔は事前に計画を知り、劉弘を捕らえて殺したという。『晋春秋』は「閻渉」は同じだが、「趙印」に作りまた異なる。さらに劉弘の死を、張寔が殺された後とする。いま張寔伝を退けて、『晋陽秋』に従う。

四年十二月以慕容廆為車騎將軍平州牧燕書云車騎大將軍平州刺史按晉書載記先拜平州刺史尋加車騎州牧今從之

『通鑑』は、太興四年十二月、慕容廆を車騎将軍・平州牧にしたとした。
『燕書』は、車騎将軍・平州刺史とする。『晋書』載記を案ずるに、先に平州刺史を拝し、ついで車騎将軍・州牧を加えたとする。いま載記のほうに従う。

永昌元年十月王敦以王諒為交州刺史諒傳永興三年敦以諒為交州按永興三年即惠帝光熙元年也諒傳誤

『通鑑』は、永昌元年十月、王敦が王諒を交州刺史としたとした。
王諒伝によると、永興三年、王敦は王諒を交州にしたとある。永興三年は、恵帝の光熙元年である。王諒伝は誤りである。

粛宗(明帝)

肅宗大寧元年四月王敦移鎭姑孰屯于湖晉春秋及後魏書僣晉傳云屯蕪湖晉書明帝紀云敦下屯于湖今從之

『通鑑』は、肅宗の大寧元年四月、王敦は鎮を姑孰に移し、湖に駐屯したとした。
『晉春秋』と『後魏書』僣晉傳によると、蕪湖に屯したとある。『晋書』明帝紀は、王敦が下って湖に屯したとする。明帝紀に従う。すなわち、『晋陽秋』『後魏書』に基づき、「蕪湖」と特定することはしない。

六月阮放卒放傳云成帝㓜沖庾氏執政放求為交州下乃云逢髙寶平梁碩還非成帝時也放傳誤

『通鑑』は、六月、阮放が卒したとした。
阮放伝によると、成帝が幼沖であるから、庾氏が執政した。阮放は求めて交州となり、地方に下ったという。逢髙寶平梁碩還(?)は、成帝の時ではない。阮放伝は誤りである。

二年六月溫嶠與右將軍卞敦守石頭敦傳云王敦表為征虜將軍都督石頭軍事明帝討敦以為鎭南將軍假節今從明帝紀

『通鑑』は、太寧二年六月、温嶠と右将軍の卞敦が石頭を守ったとした。
王敦伝は、王敦は上表して征虜将軍・都督石頭軍事となり、明帝は王敦を討伐するとき、鎮南将軍・仮節にしたとある。いま明帝紀に従う。

詔有能殺錢鳳送首封五千戶矦晉春秋此詔在王導為敦●䘮前故云有能斬送敦首封萬戶矦賞布萬疋按此詔云敦以隕斃是稱敦已死也不應復購其首今從敦傳

『通鑑』によると、詔して、銭鳳を殺せるものには、首を贈れば五千戸侯に封じるとした。
『晋春秋』は、この詔は王導が王敦のために喪を発する前にある。ゆえに、「王敦の首を斬れたものは、万戸侯にし、万匹を褒賞にする」とある。案ずるにこの詔のなかで、王敦は"隕斃"したとあるから、王敦はすでに死んでいる。王敦の首に懸賞金を掛けるのは、整合がとれない。ゆえに(『晋陽秋』を退けて)王敦伝に従う。

七月王含等水陸五萬敦傳及晉春秋皆云三萬今從明帝紀

『通鑑』は、七月、王含らは水陸五万で…とした。
王敦伝と『晋春秋』は、どちらも三万とする。いま明帝紀に従う。

周光斬錢鳳晉春秋云戴淵弟良斬鳳今從敦傳

『通鑑』は、周光が銭鳳を斬ったとした。
『晋春秋』によると、戴淵の弟の戴良が、銭鳳を斬ったとする。いま王敦伝に従う(『晋陽秋』の言うように、戴良とはしない)。

三年二月宇文乞得歸遣兄子悉拔雄拒慕容仁燕書征虜仁傳作悉拔堆後魏書宇文莫槐傳作乞得●悉拔堆載記亦作●燕書武宣紀作乞得歸悉拔雄今從之

『通鑑』は、三年二月、「宇文乞得帰」は、兄の子の「悉抜雄」に慕容仁を防がせたとした。『燕書』征虜仁伝は、「悉抜堆」に作る。『後魏書』宇文莫槐伝は「乞得亀」「悉抜堆」に作る。載記もまた「亀」に作る。『燕書』武宣紀は「乞得帰」「悉抜雄」に作る。いまこれに従う。

四月石瞻攻兖州殺檀斌帝紀作石良今從石勒載記

『通鑑』は、四月、石瞻が兗州を攻めて、檀斌を殺したとした。
帝紀は、「石良」につくるが、いま石勒載記に従った。

顕宗(成帝)

顯宗咸和三年二月後趙改元太和晉春秋云勒即帝位改元太和按勒建平元年始即帝位今從勒載記

顯宗の咸和三年二月、後趙が改元して太和とした。『晉春秋』は、石勒が皇帝の位について、太和と改元したとする。按ずるに石勒は建平元年、はじめて帝位についた(『晋陽秋』の文では、皇帝即位が早過ぎる)。いま石勒載記に従う。

四月溫嶠從弟充晉春秋作從兄今從晉書嶠傳

『通鑑』に、四月、温嶠の従弟の温充が…とした。 『晋陽秋』は「従兄」とする。いま『晋書』温嶠伝に従った。

五年六月趙以翟斌為句町王晉書春秋作翟眞按秦亡後慕容垂誅翟斌斌兄子眞北走故知此乃斌也

『通鑑』は、五年六月、趙は翟斌を句町王にしたとした。
『晉書春秋』は、「翟眞」に作る。案ずるに、秦が滅びた後、慕容垂は翟斌を誅し、翟斌の兄の子の翟眞が、北に逃亡した。ゆえに、これは翟真でなく、翟斌であると判明する。

九月趙王勒即帝位載記云自襄國都臨漳即鄴也按建平二年四月勒如鄴議營新宮三年勒如鄴臨石虎第勒疾虎詐召石宏還襄國至虎建武元年九月始遷鄴是勒未嘗都鄴也

『通鑑』は、九月、趙王勒が、皇帝の帝位についたとした。
載記は、襄国から臨漳に都を移したとあり、これが鄴のことである。案ずるに、建平二年四月、石勒が鄴にゆき、新宮の造営を議した。三年、石勒は鄴にゆき、石虎の邸宅に臨んだ。石勒は石虎をうとみ、詐って石宏を召して、襄國に還り、石虎に至った(?)。建武元年九月、はじめて鄴に遷都した。いまだかつて、石勒が鄴を都にしたことはない。

封彭城王子浚為髙密王宗室傳作俊今從帝紀

『通鑑』は、彭城王の子の司馬浚を高密王としたとした。宗室伝は「俊」に作る。いま帝紀に従う。

十月楊謙退保宜都帝紀作陽謙今從李雄載記

『通鑑』は、十月、楊謙が退いて宜都を保ったとした。帝紀では「陽謙」とするが、いまは李雄載記に従う。

七年正月趙主勒大饗羣臣晉春秋云陶侃遣使聘後趙趙王勒饗之按侃與勒必無通使之理今不取載記云勒因饗髙句麗宇文屋孤使今但云饗羣臣

『通鑑』は、七年正月、趙主勒が大いに羣臣を饗したとした。
『晉春秋』によると、陶侃は使者を遣わして、後趙に表敬した。趙王はこれをもてなしたと。案ずるに、陶侃と石勒が、使者をやりとりする道理がない。いまこれを却下した。載記は、石勒が饗宴をひらくと、髙句麗・宇文屋孤が、使者を遣わしたという。ここで『通鑑』は保守的に、ただ「群臣を饗した」とだけしておく。

九年十一月石虎稱居攝趙天王三十國晉春秋虎即位改元永熙陳鴻大統厯云石虎即位改建平五年為延興明年改建武按三十國晉春秋不記弘改元延熈虎之立實延熈元年也故誤云永熈弘既號延熈虎安肯稱永熈陳鴻云虎改建平五年為延興即是弘踰年不改元也恐二說誤

『通鑑』は、九年十一月、石虎が居攝趙天王を称したとした。
『三十國晉春秋』によると、石虎が位について、永熙と改元した。陳鴻『大統暦』は、石虎が即位して、建平五年を延興元年とし、さらに翌年を建武元年としたという。『三十國晉春秋』を案ずるに、石弘が改元したとはなく、延熈は石虎が建てた年号であることが確かめられる。ゆえに(『三十国晋春秋』)「永熙」というのは誤り。石弘はすでに延熙への改元を済ませているから、どうして石虎がさらに延熙へと改元をするであろう。陳鴻は、石虎が建平五年を改めて延興としたというのは、正しい。石弘は踰年改元してはいない。おそらく二説とも誤りである。

けっきょく『通鑑』は、改元について触れていない。この『資治通鑑考異』は、『三十国晋春秋』と『大統暦』を比べて論じているが、結論は出なかった。


咸康三年趙庭燎油灌下盤死者二十餘人載記云七人今從三十國春秋

『通鑑』では、咸康三年、趙庭は、燎油灌下盤(?)し、死者が二十餘人であったとした。載記は「七人」とする。いま『三十國春秋』に従い、(二十餘人)とした。

七月趙王虎殺太子䆳燕書文明紀云咸康四年四月石虎至燕城下會鄴使至太子䆳在後恣酒入宮殺害石主大恐狼狽引還又云初帳下吳胄使鄴還說四月浴佛日行像詣宮石太子䆳騎出迎像往來馳騁無有儲君體王曰古者觀威儀以定禍福此子虎之副二而輕佻無禮將不得其死然及石主東歸留䆳監國荒敗內亂以致誅戮按十六國晉春秋殺䆳皆在咸康三年燕書恐誤今從十六國晉春秋

『通鑑』は、七月、趙王の石虎が、太子の𨗉を殺したとした。
『燕書』文明紀では、咸康四年四月、石虎が燕城のもとに至り、鄴の使者とあい、太子𨗉は後ろにおり、酒をほしいままにして宮殿に入り、殺害した。石主はおおいに恐れて狼狽し、引き返したとある。さらに、はじめ帳下督の呉胄が鄴への使者になり、還ってから説いて、…といった記述がある。

ここに引用されている『燕書』って何だろう。宿題。征虜仁傳・武宣紀・文明紀・慕容翰傳などがあるみたい。文明は、慕容皝の諡号なので、前燕の歴史書が、まとまって残っていたか。いまでも利用できるのか?

『十六国晋春秋』を案ずるに、𨗉を殺したのは、すべて咸康三年としている。『燕書』は恐らく誤りである。いま『十六国晋春秋』に従う。

六年九月燕王皝襲趙略三萬餘家燕書云略燕范陽二郡男女數千口而還今從後趙燕載記

六年九月、燕王の慕容皝は、趙を襲って、三萬餘家から略奪した。『燕書』は、燕・范陽の二郡の男女、數千口が略奪され、還っていったとする。いま、後趙・燕の載記に従う。

八年正月己未朔日食天文志作乙未今從帝紀及長厯

『通鑑』は、八年正月「己未」朔、日食があったとした。天文志は、「乙未」に作るが、いまは帝紀と長暦に従う。201231

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『資治通鑑考異』東晋2(康帝~海西公)

康帝

康帝建元元年七月桓溫率衆入臨淮帝紀溫入臨淮下云庾翼為征討大都督遷鎭襄陽按翼傳翼先表移鎭安陸至夏口上表云九月十九日發武昌二十四日達夏口始請徙鎭襄陽始詔加都督征討諸軍事故知不在此月

『通鑑』では、康帝の建元元年七月、桓溫が軍をひきいて臨淮に入ったとした。帝紀は、桓温が臨淮に入ったという文の下に、庾翼を征討大都督とし、鎭を襄陽に遷したとする。庾翼伝を案ずるに、庾翼は先に上表して、鎮を安陸に移し、夏口に至り、上表して「九月十九日、武昌を発して、二十四日に夏口に達した」と言い、はじめて襄陽に鎮を移すように要請した。詔して都督・征討諸軍事を加えたのは、この月(本紀が作るような七月)ではないことが分かる。

八月燕王皝遣世子雋等擊代後魏宇紀八月慕容元眞遣使請薦女無用兵事今從燕書

『通鑑』は、八月、燕王の皝が、世子の雋らに代を攻撃させたとした。
『後魏書』字紀は、八月、慕容元眞が使者をつかわして、娘をすすめたとある。軍事的な衝突は書かれていない。いま『燕書』に従う。

二年正月宇文涉夜干慕容皝載記作涉奕千今從燕書

『通鑑』は、二年正月、宇文渉が夜干したとした。慕容皝載記は、「宇文奕」に作る。いま『燕書』に従い、「宇文渉」に作る。

燕王皝殺慕容翰三十國春秋云永和二年九月殺翰燕書翰傳翰嘗臨陳為流矢所中病臥嵗時不出入後漸差試馬按自討宇文後翰未嘗預攻戰自建元二年正月至永和二年九月已踰年矣三十國春秋恐誤今從載記翰傳

『通鑑』は、燕王の皝は、慕容翰を殺したとした。
『三十國春秋』は、永和二年九月、慕容翰を殺したとする。『燕書』翰傳は、慕容翰は、かつて陣にのぞみ、流矢にあたって病臥して、歳時に外出せず、のちに試しに騎乗して、みずから宇文を討ったという。のちに慕容翰は、攻撃にたずさわった。この期間、建元二年正月から永和二年九月のあいだであり、年をまたいでいる。『』三十國春秋』は恐らく誤りである。いま載記の慕容翰伝に従う。

孝宗(穆帝)

孝宗永和三年七月趙王虎遣將擊張重華遂城長最晉春秋作上最今從重華傳

『通鑑』は、永和三年七月、趙王の石虎は、将を派遣して張重華を攻撃し、遂城長最(?)とした。『晋春秋』は「上最」に作る。いま張重華伝に従った。

五年四月拜慕容儁幽平二州牧儁載記云幽冀并平四州牧從帝紀

『通鑑』は、五年四月、慕容儁に幽平二州牧を拜したとした。慕容儁載記は、「幽冀并平四州牧」とするが、ここでは帝紀に従った。

五月石遵封世為譙王廢劉氏為太妃晉春秋及十六國春秋鈔皆云廢大后為昭儀今從載記十六國春秋及載記又云世立三十三日按四月己巳至五月庚寅凡二十二日

『通鑑』は、五月、石遵が石世を封じて譙王とし、劉氏を廢して太妃としたとした。
『晉春秋』と『十六國春秋鈔』は、どちらも大后を廢して昭儀にしたとする。いま載記に従う。『十六國春秋』と載記は、また石世を立てて三十三日で…という。四月己巳から五月庚寅まで、二十二日しかなく、三十三日に達しない。

燕王儁講武戒嚴燕景昭紀集兵在四月時石虎方死諸子未爭十六國春秋在五月故從之而燕書載封奕慕輿根言俱指冉閔按是時閔未簒趙葢撰史者附會耳故削去

『通鑑』は、燕王の慕容儁は、講武・戒嚴したとした。
『燕景昭紀』は、集兵を四月とする。四月は石虎が死んだばかりで、諸子がまだ争っていない。『十六國春秋』は(講武を)五月とするため(石虎の後嗣争いに対応するため)これに従う。『燕書』は封奕慕輿根言を載せて、ともに冉閔に言及している。案ずるに、このとき冉閔はまだ趙を簒奪していない。けだし撰史者が、附会しただけだろう。ゆえに冉閔の部分は削除する。

八月禇裒退還河北遺民二十餘萬死亡略盡裒傳云為慕容皝及苻健所掠死亡咸盡按是時慕容皝卒已踰年矣永和六年慕容儁始率衆南征石鑒即位後蒲洪始有衆十萬永和六年洪死健始嗣位皆與裒不相接今不取

『通鑑』は、八月、禇裒が退いて河北に還り、遺民二十餘萬でほぼ全てが死亡したとした。
褚襃伝は、慕容皝と苻健に寇掠され、ほぼ全滅したとする。案ずるにこのとき慕容皝は死んでおり、すでに年をまたいでいる。永和六年、慕容儁ははじめて斃を率いて南征した。石鑒が即位した後、蒲洪ははじめて兵十萬を獲得した。永和六年、苻洪は死に、苻がはじめて位をついだ。慕容皝・苻健とも年代があわないので、褚襃伝に見える二人を削除した。

六年閏月帝紀正月後云閏月三十國晉春秋皆云閏正月按長厯閏二月帝紀閏月有丁丑己丑按是嵗正月癸酉朔若閏正月即無丁丑己丑今以長厯為据

『通鑑』に、六年閏月とした。
帝紀は、正月の後に、閏月をおく。『三十國晉春秋』はすべて閏正月という。長暦を案ずるに閏二月である。帝紀の閏月は、丁丑・己丑がある。この年の正月は癸酉朔だから、もし閏正月ならば、丁丑・己丑がないはず。いま長暦に従い、閏二月と見なす。

三月趙新興王袛即帝位晉帝紀袛即位在閏月三十國晉春秋皆在三月按十六國春秋祗稱帝拜姚弋仲苻健官而不言苻洪洪三月死故疑祗以三月即位

『通鑑』は、三月、趙新興王袛が帝位についたとした。
『晋書』帝紀は、袛の即位を閏月に置く。『三十國晉春秋』はいずれも三月に置く。『十六國春秋』を按ずるに、祗は稱帝して、姚弋仲・苻健の官を拜しており、苻洪とはしない。苻洪は三月に死んでいる。ゆえに祗は三月に即位したのではないか。

七年十一月樂陵太守賈堅燕書賈堅傳烈祖問堅年對以受新命始及三載烈祖恱其言拜樂陵太守按堅以去年九月獲於燕至明年始三年若未為樂陵太守豈能安集諸縣告諭逢釣故知堅先已為樂陵太守非因問年而授

『通鑑』は、七年十一月、樂陵太守の賈堅が…とした。
『燕書』賈堅傳によると、烈祖は賈堅に年を問い、答えて新命を受けてから三年目と述べたが、烈祖はその回答に悦び、樂陵太守を拝したとある。按ずるに賈堅は去年九月、燕を獲たから、翌年に至って始めて三年である。もしまだ樂陵太守とならねば、なぜ諸縣を安集して逢釣に告諭できただろうか。ゆえに苻健はさきに、すでに樂陵太守になっていたと分かる。年の質問に答えてから、その後に授かったのではない。

八年正月冉閔殺劉顯閔殺顯晉帝紀在正月十六國春秋鈔在二月燕書在三月己酉未知孰是今從帝紀

『通鑑』に、八年正月、冉閔が劉顯を殺したとした。
冉閔が劉顯を殺したのは、『晋書』帝紀では正月とする。『十六國春秋鈔』では二月とする。『燕書』は三月己酉とする。どれが正しいか分からないので、『晋書』帝紀に従っておく。

升平二年八月郗曇為荀羡軍司帝紀謝萬為豫州下云郗曇為北中郎將督五州軍事徐兖二州刺史曇傳云荀羡有疾以曇為軍司頃之羡徴還除曇北中郎將都督刺史按帝紀十二月北中郎將荀羡及慕容儁戰于山茌王師敗績燕書十二月荀羡冦泰山殺太守賈堅載紀荀羡殺賈堅下云敗羡復陷山茌次知八月曇未為徐兖二州恐始為軍司耳

『通鑑』は、升平二年八月、郗曇が荀羡の軍司になったとした。
『晋書』帝紀は、謝萬が豫州となった下に、郗曇が北中郎將・督五州軍事・徐兖二州刺史になったとする。郗曇伝に、荀羡は病気になり、郗曇を軍司とし、しばらくして、荀羡は徴されて還り、郗曇を北中郎將・都督・刺史に除したとする。帝紀を按ずるに、十二月、北中郎將の荀羡と慕容儁が、山茌で戦い、王師が敗績したとある。『燕書』によると十二月、荀羡は泰山を冦して、太守の賈堅を殺したとする。載紀に、荀羡が賈堅を殺した下に、羡に破られて、さらに山茌も陥落させられたとある。ここから、八月、郗曇はまだ徐兖二州でないことが分かり、おそらく初めは軍司となっただけである。

郗曇伝に見える、北中郎将・都督・刺史になったのは、荀羨が引退したあとのはず。荀羨は、十二月に現役であるから、少なくともそれより郗曇の拝官は遅いはずだという。


哀帝

哀帝興寧元年閏八月張天錫弑玄靚帝紀天錫殺玄靚自立在七月今從晉春秋

『通鑑』は、哀帝の興寧元年、閏八月、張天錫が玄靚を弑したとした。
『晋書』帝紀によると、天錫が玄靚を殺して自立したのは、七月とする。いまは『晉春秋』に従う。

十月朱斌克許昌燕書作朱黎今從晉帝紀

『通鑑』は、十月、朱斌が許昌を破ったとした。『燕書』は、「朱黎」に作る。いま『晋書』帝紀に従う。

二年八月慕容恪將取洛陽帝紀慕容暐冦洛陽上云苻堅別帥侵河南按明年恪拔洛陽堅親將以備潼關是未敢與燕爭河南也十六國春秋堅傳亦無此舉帝紀恐誤

『通鑑』に、二年八月、慕容恪が洛陽を獲得しようとしたとき…とした。『晋書』帝紀によると、慕容暐が洛陽を寇したとあり、それより前に苻堅の別帥が河南を侵したとある。明年に慕容恪が洛陽を抜いて、苻堅はみずから潼関で備えようとしたが、実行される前に、燕と河南を争ったとある。『十六國春秋』苻堅傳もまた、この行動を記していない。帝紀は恐らく誤りである。

三年二月桓沖監江州及荊豫帝紀云沖領南蠻校尉按江左唯荊州領南蠻沖傳亦無葢紀因桓豁重出字不取

『通鑑』は、三年二月、桓沖は監江州と荊豫になったとした。
帝紀は、桓沖が南蠻校尉を領したとする。按ずるに江左では、ただ荊州だけが南蠻を領する。桓沖傳にも記載がない。けだし帝紀は、桓豁の官位を重ねて書いてしまっただけ。却下した。

海西公

海西公太和二年正月庾希免官帝紀是月希有罪走入海按本傳海西廢後希始逃于海陵此時才坐免官耳

『通鑑』は、海西公の太和二年正月、庾希が免官になったとした。
帝紀によると、この月、庾希は罪があり海に走入したという。本傳を按ずるに、海西公が廢された後、庾希ははじめて海陵に逃げた。このときは、わずかに免官されただけである。

五月秦使曹轂發使如燕朝貢郭辯副之燕建熙八年皇甫眞為太尉燕書及載記眞傳郭辯至燕皆在眞為太尉下晉春秋在建熙十年八月恐皆非是故附於曹轂降秦下

『通鑑』は、五月、秦が曹轂を使者とし、燕に行かせ朝貢させ、郭辯が副使であったとした。
燕の建熙八年、皇甫眞が太尉となった。『燕書』と載記の皇甫眞傳は、郭辯が至ったとき、皇甫眞を太尉とする。これより後、『晉春秋』の建熙十年八月にも見える。おそらく全て間違いである。間違いであるから、曹轂を秦の下に降したのである。

意味がひろえてないので、記事を見ながら検討すべし。


四年十二月王猛攻洛陽燕少帝紀此年十二月王猛攻洛明年正月拔洛十六國秦春秋十一月王猛伐燕遺慕容紀書紀請降十二月猛受降而歸今按獻莊紀云慕容合之奔還鄴建熙元年二月也時王猛猶在洛又猛遺紀書云去年桓溫起師故從燕書

『通鑑』は、四年十二月、王猛が洛陽を攻めたとした。『燕少帝紀』は、この年の十二月、王猛が洛を攻め、明年正月、洛を拔いたとする。『十六國』の『秦春秋』は、十一月、王猛が燕を征伐し、慕容紀に書をおくり、慕容紀は降服を申し出て、十二月、王猛が受け入れて帰ったとする。いま『獻莊紀』を按ずるに、慕容合(慕容令)が奔って鄴に還ったのは、建熙元年二月である。このとき王猛はまだ洛にいた。王猛が慕容紀に文書をおくって、「桓溫が去年、師を起こした」と言っている。ゆえに『燕書』に従う。

慕容「紀」は人名であり、書物の名前ではない。王猛が文書をおくったとあり、これは歴史書のことではない。中華書局本『通鑑』を見ないと、点の切り方や、固有名詞の判定が不能でした。


五年八月慕容評將兵三十萬拒秦載紀四十萬今從晉春秋

『通鑑』は、五年八月、慕容評が兵三十萬をひきいて秦を防いだとした。載紀は、四十万とする。いま『晋春秋』に従う。201231

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『資治通鑑考異』東晋3(簡文帝~恭帝)

太宗(簡文帝)

太宗咸安元年十一月桓溫使劉亨收東海王璽綬帝紀三十國春秋亨皆作享後魏書僣晉傳作亨今從之

『通鑑』は、太宗の咸安元年十一月、桓溫は劉亨に東海王の璽綬を收めさせたとした。帝紀・『三十國春秋』は、「亨」を「享」に作る。『後魏書』僣晉傳は、「亨」に作る。いまこれに従う。

十二月庚寅東海王封海西公海西公紀云咸安二年正月降封今從簡文帝紀

『通鑑』は、十二月庚寅、東海王を海西公に封じたとある。海西公紀は、咸安二年正月、降封したとある。いま簡文帝紀に従う。

孝武帝

孝武帝太元元年五月苻堅伐張天錫周虓曰戎狄以來未之有也虓傳曰呂光征西域堅出餞之戎士二十萬旌旗數百里問虓曰朕衆力何如虓曰戎夷以來未之有也按建元十八年二月虓謀夕徙朔方十九年正月呂光發長安故知在伐涼州時今從十六國春秋 『通鑑』は、孝武帝の太元元年五月、苻堅が張天錫を伐ち、周虓は、「戎狄以來未之有也」とした。周虓傳によると、呂光は西域を征ち、堅は出でて之を餞し、戎士は二十萬、旌旗は數百里で、虓に、「朕衆力何如」と質問すると、虓は、「戎夷以來未之有也」と答えたとする。按ずるに、建元十八年二月、虓は謀って朔方に移り、翌十九年正月、呂光が長安を發したとある。ゆえに、涼州を討伐した時期を知ることができる。いま『十六國春秋』に従う。

四年二月秦彭超據彭城謝玄傳云何謙進解彭城圍又云於是罷彭城下邳二戍帝紀及諸傳皆不言此年彭城陷沒而十六國秦春秋云超據彭城又云超分兵下邳留徐襃守彭城至七月以毛當為徐州刺史鎭彭城王顯為揚州戍下邳是二城俱陷也

『通鑑』に、四年二月、秦の彭超が彭城に據ったとした。
謝玄傳によると、何謙が進んで彭城の圍を解いたという。さらにここにおいて、彭城・下邳の二戍を罷めたとする。帝紀と諸傳は、みなこの年に、彭城が陷沒したとは書いていない。しかし『十六國』『秦春秋』は、彭超が彭城に據ったとし、また彭超が兵を分けて下邳に留めて、徐襃が彭城を守ったとする。七月に至り、毛當が徐州刺史となり、彭城に鎭し、王顯は揚州となり、下邳に戍し、この二城はどちらも陥落していたのである。

安帝隆安五年九月呂隆降秦姚興載記姚平伐魏與姚碩德伐呂隆同時魏書天興五年五月姚平未來侵晉元興元年秦●始四年也晉帝紀晉春秋皆云隆安五年降秦十六國西秦春秋云太初十四年五月歸隨姚碩德伐涼南涼春秋云建和二年七月姚碩德伐呂隆孤攝廣武守軍以避之皆隆安五年也按秦小國既與魏相持豈暇更興兵伐涼葢載記之誤也今以晉帝紀晉春秋十六國西秦南涼春秋為據

『通鑑』は、安帝の隆安五年九月、呂隆が秦に降ったとした。
姚興載記によると、姚平は魏を伐ち、姚碩德が呂隆を伐ったのと同時である。『魏書』天興五年五月、姚平はまだ來侵しておらず、晉の元興元年は、秦の弘始四年である。『晋書』帝紀・『晉春秋』は、どちらも隆安五年、秦を降したとする。『十六國』『西秦春秋』は、太初十四年五月、歸って姚碩德に隨い、涼南を伐ったとする。『涼春秋』は、建和二年七月、姚碩德は呂隆を伐ち、孤攝廣武守軍し、これを避けたという。いずれも隆安五年のことである。按ずるに、秦は小國なので、すでに魏と対峙したうえで、さらに兵を起こして涼を攻撃できるはずがない。けだし載記の誤りである。いま『晋書』帝紀・『晉春秋』・『十六國』『西秦』『南涼春秋』に従う。

義熈十二年二月姚興卒晉本紀三十國晉春秋皆云義熈十一年二月姚興卒魏本紀北史本紀姚興姚泓載記皆云十二年按後魏書崔鴻傳太祖天興二年姚興改號鴻以為元年故晉本紀三十國晉春秋凡弘始後事皆在前一年由鴻之誤也

『通鑑』は、義熈十二年二月、姚興が卒したとした。
『晋書』本紀・『三十國』『晉春秋』は、どちらも義熈十一年二月、姚興が卒したとする。『後魏書』本紀・『北史』本紀、姚興・姚泓載記は、すべて十二年とする。按ずるに、『後魏書』崔鴻傳に、太祖が天興二年、姚興が號を改めたとあり、崔鴻はこれを元年としたとある。ゆえに『晋書』本紀・『三十國』『晉春秋』は、姚弘が後事を始めた(?)とした。みな一年前倒ししたのは、崔鴻の誤りに由来する。

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『資治通鑑考異』劉宋1(武帝)

高祖(武帝)

髙祖永初元年正月乞伏熾磐立其子暮末為太子晉書作慕未宋書作乞佛茂蔓●從十六國春秋

『通鑑』は、永初元年正月、乞伏熾磐が子の暮末を太子にしたとした。『晋書』は「慕末」に作り、『宋書』は「乞仏茂蔓」に作る。『十六国春秋』に従い、「暮末」にしておいた。

二年九月殺零陵王宋本紀九月己丑零陵王薨晉本紀九月丁丑據長厯九月丙午朔無己丑丁丑今不書日

『通鑑』は、二年九月、零陵王を殺したとした。『宋書』本紀は、「九月己丑、零陵王が薨じた」とある。『晋書』恭帝紀は、九月丁丑とする。長暦によると、九月は丙午朔であり、己丑・丁丑がどちらもない。だから、日付を書かずにおいた。

陳垣『二十史朔閏表』によると、永初2年9月丙午(1日)である。丙午朔という認識は、長暦と合っている。陳垣は、長暦を批判しながら継承しているが、ここで認識のずれはない。己丑・丁丑がどちらも現れないのは、司馬光の指摘するとおり。
http://3guozhi.net/sy/cal.html


營陽王宋本紀髙氏小史皆作滎陽臧后謝晦蔡廓傳作營陽營陽南方郡名也今從之

『通鑑』に、營陽王とした。
宋本紀・髙氏小史(?)は、どちらも「滎陽」に作る。臧后・謝晦・蔡廓伝は、「營陽」に作る。營陽は、南方の郡名であるから、こちらに従う。

以下は、『晋書』本紀から離れるので、今は読まない。

景平元年正月魏叔孫建入臨淄
索虜傳云虜又遣楚兵將軍徐州刺史安平公涉歸幡能健越兵將軍青州刺史臨淄矦薛道于陳兵將軍淮州刺史夀張子張模東擊青州所向城邑皆奔走本紀亦云安平公涉歸㓂青州按後魏書無涉歸等姓名葢皆胡中舊名即叔孫建等也

四月己巳檀道濟軍于臨朐
裴子野宋略作乙巳按長厯是月丁卯朔無乙巳必己巳也

五月魏主還平城
後魏帝紀五月庚寅還次鴈門庚寅車駕至自南巡必有誤今皆不取

太祖元嘉元年正月
宋本紀正月癸巳朔日有食之宋紀二月己巳宋略二月癸巳李延夀南史二月己卯朔皆誤也按長厯是年正月丁巳二月丁亥朔後魏書紀志是年無食今從之

六月癸丑徐羡之等殺廬陵王義眞
宋南史本紀二月廢義眞徙新安之下即云執政使使者誅義眞于新安宋義眞傳六月癸未羡之等遣使殺義眞於徙所羡之傳亦云廢帝後殺義眞於新安殺帝於吳縣按長厯六月庚寅朔無癸未葢癸丑也

八月魏世祖自將輕騎討柔然
後魏本紀云赭陽子尉普文率輕騎討之虜乃退走李延夀北史紀云帝帥輕騎討之虜乃退走今據蠕蠕傳從北史

『通鑑』巻一百十九(宋紀一)はここまで。201231

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