読書 > 唐修『晋書』に関する先行研究

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朱大渭「関于《晋書》編纂和評価的幾個問題」

朱大渭「関于《晋書》編纂和評価的幾個問題」(『六朝史論続論』、学苑出版社、二〇〇七年)

『晋書』の研究について

新中国(中華人民共和国)の五十年間に、『晋書』の校勘・研究は空前の成果を出した。『晋書』校勘の集大成であった。
校勘の分野は、中華書局『晋書』校点本の『校勘記』に全面的に集約された。中華書局校点本は、最初に、呉則虞が初めに点をうち、ならびに『校勘記』長編を作った。楊伯峻と張忱石は、呉氏の基礎のうえに、全面的に校点して、体例を統一して『校勘記』に出した。載記の部分は、唐長孺の校点に依っている。全書の『校勘記』は、2156条に及ぶ(何超『音義』を含む)、重複する51条を除くと、2105条となる。楊伯峻・張忱石・唐長孺・らは自ら1385条を書いており、校勘の66%を占める。それ以外は26家の研究成果を九州したものが、1142条あり(計算あわず)、総数の34%を占める。楊伯峻・張忱石が書いたものが多く、貢献度が高い。

原文の衍・脱・錯、字句の倒誤への訂正が、611条。人名の誤りを329条。史実の錯誤は100条ほど。記日や干支の誤りが92条、年月の誤りが117条、地名の誤りが103条。ただし1条のなかに複数の指摘事項があるので、数字を合計すると多くなる。

宋・元・明・殿・百衲本以外にも、敦煌石室の『晋書』の残本、各種の類書、典制、金石、『資治通鑑』原文と『考異』と胡三省らの戸籍、各種の資料を照合している。
ほかの校勘者の成果も吸収しており、279条にのぼり、38%にのぼる。 よって、中華書局校点本『晋書』は、版本として最良であるだけでなく、『校勘記』は、『晋書』研究及び晋代研究において、十分に重要な価値を有している。

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竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか』

竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか―中国の歴史書を読み解く』大修館書店、二〇〇二年

『春秋左氏伝』宣公二年「趙盾、其ノ君ヲ弑ス」
事件の本質的な責任の所在と、事件後の秩序回復がまだなされていないことを併せて示すことが期待される。……書き留める人間から見て、「かくあるべし」という人間の姿、「かくあるべし」という社会や秩序のあり方、を明らかにする。……事実をありのままに書く、ということは、必ずしも歴史記録の必須条件ではなかったし、また目的でもなかった、ということが、『春秋』経文及び『春秋左氏伝』からわかるのである。(p24~p26)

『史記』呂太后本紀に見える残虐行為が、『漢書』では、巻二 恵帝紀・巻三 高后紀のいずれであれ、本紀には載せない。ずっと後の位置に配列され、総数としても(本紀より)相当に多い列伝の中(巻九十七 外戚伝)に、問題の箇所を挿入しておく。……
『史記』太史公自叙に書かれていたように、本紀とか世家とか列伝とかいった形式とそこで扱われる対象とはふさわしい対応関係があり、誰がどこに入ってもいいというものではない。そして、配置の順番もどうなってもいいというものでもない。(p75~p80)

(呂后の本紀を立てたにも関わらず)班固が、呂后に関する好ましからざる記述を、列伝の中の最後尾の方に置いたのは、呂后のための、ひいては漢王朝のための配慮であるけれども、「事実を事実のまま、ふさわしい形で書き記す」という立場からは、大きな退歩であると評価するほかない。……班固の真意はどうあれ、「権力者のために隠す」ということが正当化されてしまう方向性を確立した。(p80)201118

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陳得媛「劉知幾《史通》対于唐初撰修《晋書》的批評」

陳得媛「劉知幾《史通》対于唐初撰修《晋書》的批評」(『鄭州大学学報』哲学社会科学版五〇―一、二〇一七年)

唐修『晋書』への否定的な見解は、劉知幾『史通』が原典にある。『晋書』が「雑書」である、『語林』『世説』『幽明録』『捜神記』から題材を取ったことを、『史通』采撰篇で批判している。
しかし劉知幾は、「偏紀・小説」ら「雑書」を別のところで十分に肯定的な高評価を下している。この矛盾はどこにあるのか。

1『晋書』の対する評価

『晋書』は御撰であり、これが完成すると十八家『晋書』は散佚したのだから、唐初においては高い評価を得ていた。新羅の使者にも送っている。
七〇二年、劉知幾が『史通』を私撰すると、『晋書』に対する厳しい評価が提出された。これが後世に向け、『晋書』批判の影響のルーツとなる。
『史通』では、「論賛」「序例」「点繋」「雑説」「暗惑」「題目」「叙事」「采撰」「古今正史」の諸篇で、『晋書』に言及している。長さは百言あまりから、数語までまちまち。とくに厳しいのは、采撰篇。

劉知幾は、『語林』などから取材したのが大いに不満。
一、劉知幾は、両晋南北朝に作られた『語林』らを、「雑書」と位置づけた。「雑書」の定義を劉知幾は明らかにしていない。基本的でない、正統的でない書籍で、それほど価値がないものという理解。
「雑書」という語は、『漢書』芸文志に「推雑書」八十七篇がある。『隋書』経籍志三に、「雑家」がある。劉知幾のいう「雑書」は、『隋書』経籍志と同じ意味と思われ、その文献目録には、雑史・雑伝・別伝・小説の類いが入っている。
二、劉知幾はこれら「雑書」を、鬼神や諧謔を記したもので、聖賢の意と異なるとしている。『隋書』経籍志二「雑史序」に、説明がついている。これらは、『史記』『漢書』のような正史の主要なものとは区別されている。
三、劉知幾は、「雑書」が鬼神の説を含めているから、『晋書』の編者は、これらの書物を採用すべきでなかったとしている。『晋書』と、『世説新語』及び劉孝標注を比較すると、『晋書』は、『世説新語』及び劉孝標注をほとんどその人物の列伝に入れていると分かる。これだから、清初の四庫館臣は、「『世説新語』を取り込んだ『晋書』は、史伝と呼べるのか?」と言っている。

以上をまとめると、『晋書』が『語林』など、前時代の「雑書」から取材したことが、劉知幾による『晋書』批判の中心である。これが後世の学者に絶えず引用されたので、唐修『晋書』の価値が否定されることになった。
清初の四庫館臣による『晋書』否定は、けっきょくは『史通』の焼き直しである。
乾嘉年間の、銭大昕・王鳴盛・趙翼らの考証学者も、『晋書』の記述を個別に検証したものの、『晋書』への基本的な評価は、『史通』と四庫館臣の『四庫全書総目提要』を踏襲したもので、新規性はなかった。

2『史通』雑述篇と「雑書」の価値の肯定

『史通』は、前時代までの正統的な歴史叙述を、「六家二体」と把握している。「六家」とは、『尚書』家、『春秋』家、『左伝』家、『国語』家、『史記』家、『漢書』家である。「二体」とは、紀伝体と編年体。これ以外に、劉知幾は史籍の種類を、偏紀や小録ら10に分けている。 これら10類は、すべて正史の外、「史の別流」としている。『世説新語』『語林』は、劉知幾の10分類では、「瑣言」である。『志怪』『捜神記』『幽明録』『異苑』は、劉知幾の10分類では「雑記」である。これらを劉知幾は完全否定していない。正統的な歴史書と区別していただけ。これらを『晋書』が正史に混ぜたことが許せなかった。
劉知幾のいう「雑書」は、文献目録でも、雑史・雑伝・別伝・小説らに分類され、「史の別流」とされた。『隋書』経籍志では「雑史類」をもうけ、『魏晋世語』『呂布本事』をここに置いている。魏晋に作られた、正統的でない歴史叙述のこと
四庫館臣もまた、「史の別流」とされる本を、豊富な参考になる資料、重要な文献的価値があるとしている。劉知幾を、この点もまた踏襲している。

ところで、『史通』采撰に出てきて、正史に含めることが批判された、『世説新語』と『語林』はどのような本なのか。
『世説新語』の研究は十分にある。すでに散佚している、裴啓『語林』とは?
『語林』は、東晋の裴啓がつくった。魏晋の名士の語録である。『語林』は完成してから、東晋の士人は広めた。『世説新語』文学篇に、裴郎の『語林』の伝播ぶりが伝えられている。
劉孝標が『世説新語』に注釈を付けたとき、檀道鸞の『続晋陽秋』の記載を引いて、『語林』が流行していたとする。『世説新語』劉孝標注には、『語林』が38回引用されており、劉孝標も『語林』の価値を認めていたと分かる。
『語林』は散佚したが、東晋の謝安に封殺されたという説がある。
『語林』は散佚したが、『世説新語』劉孝標注、『藝文類聚』『太平御覧』『太平広記』らにも引用されて伝わっている。『裴子語林』は、断片的であるが貴重な本である。

3名教を本位とする経学と劉知幾の自己矛盾

晋代は玄風が流行し、名教が廃れた。干宝『晋紀』総論にも、その様子が叙述されている。この時代に作られた文書は、名教から逸脱している。
『史通』曲筆篇で、劉知幾は、名教を強調している(「肇有人倫…」)。歴史叙述というのは、『論語』と符合し、『春秋』の義と順和している必要があった。
そんな劉知幾にとって、『晋書』が取材している『語林』などは、「名教を傷つけるもの」であった。劉知幾の『晋書』批判は、前代の「雑書」の価値を否定するのではない。劉知幾の考える新撰『晋書』の任務は、儒教を守り名教を広めることであった。しかし、『語林』のように善悪が曖昧で、名教と異なる価値観の記述を混入させることは、儒家として許容できなかった。

『晋書』巻四十九 阮籍伝は、阮籍の振る舞いについて記述しており、これは名教に拘らなかった生き様である。これを『史通』暗惑篇で批判している。

晋代が名教から逸脱した時代であったなら、その逸脱を「ありのままに」書いたら、名教から逸脱した歴史叙述ができる。しかし劉知幾は、名教から逸脱した歴史書は、少なくとも正史としては書かれるべきでないと考えた。だから正史は、阮籍のような逸脱者を黙殺すべきと考えていた。すなわち、名教から外れた人々を伝えることは、「雑書」の役割であるから、そちらで閉じ込めておけばよいと考えていた。201114

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「断限泰始:"晋書"的限断問題再討論」

李正君・湯莉「断限泰始:"晋書"的限断問題再討論」(『唐都学刊』第三十三巻 第三期、二〇一七年)

西晋の歴史としておもしろかったけど、いまの問題関心から逸れるので引かない。201110

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彭久松「《晋書》撰人考」

彭久松「《晋書》撰人考」(『四川師範大学学報』一九八九―一、一九八九年)

一、撰者の名前について

《晋書》の編者について記した資料は多い。
1.『旧唐書』房玄齢伝
2.『旧唐書』令孤徳棻伝
3.『玉海』巻四十六に引く『中興書目』
4.『旧唐書』敬播伝
5.『旧唐書』李淳風伝
6.『唐会要』巻六十三
7.『冊府元亀』巻五百五十六
8.『新唐書』芸文志
9.『史略』巻二『唐御撰晋書』条

引用された人物で、表記が異なるが同一人物と思われるものや、姓名表記が異なるものを集約してゆくと、以下の名前が残る。
房玄齢、褚遂良、許敬宗……ら(省く)二十三人に、史論を書いた李世民を加えると、前後で二十四人となる。

中華書局《晋書》点校本の《出版説明》によると、また異同がある。……

二、撰者のなかの分担

1.分功撰録人
2.総類考正人
3.監修掌事人

三、大勢で編纂したことによる後世への影響

大勢の分担による史書編纂の経験が得られ、習熟した。
同じ著者による、「資治通鑑五代長編分修人考」「我国古代編年史体及編年史籍発展分期問題」を見よ。201110

こちらのほうがおもしろそう。この「後世への影響」という分析の観点が、思い付かなかった。

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尾崎康『正史宋元版の研究』より

まず参考として……。

晋書校補 帝紀(一)

一、本書は、呉士鑑、劉承幹(注)『晉書斠注』(藝文印書館、一九三六年)を底本とする。…… 二、『晉書』には、『晉書斠注』のほかに優れた本として、百衲本・中華書局本がある。本書は、『晉書斠注』と百衲本・中華書局とを対校し、訂補の必要がある箇所は、『晉書斠注』の原文を( )により、校勘後の文を〔〕により表記した。なお、補注に掲げた諸本も、同様の表記を行った。

ここからが本題です。

正史宋元版の研究

三史(史記・漢書・後漢書)に次いで、三国志と晋書は、唐書とともに、北宋の咸平三年(一〇〇〇)十月に初めて雕版に附された。これは、宋会要輯稿 崇儒四(第五五冊)と、南宋紹興元年撰の程俱の麟台故事 巻二 校讎の条に明らかであった(p312)。

晋書は予想外に宋元刊本の種類が多く、現存するもので六種を数える。
すなわち、南宋前期の一四行本(小字本)が二種あり、その一は建刊本である。痩金体の字様がすこぶるみごとで、百衲本 晋書 本紀・晋書・列伝に影印され、本文も現存晋書のなかではこれが最右翼とみてよい。二は……わずかに行格が、また字様も異なり、補写巻も多いが全巻を存する。百衲本に一の欠巻の載記三〇巻が補い用いられている(p350)。

南宋前期建刊本(一四行二六~二七字)
存巻一~一〇〇……三二冊 北京図書館蔵
載記三〇巻を書き、列伝の二七巻が補写されているから、宋刊本の残存は七三巻であり、そのんかあにもかなりの補写葉がある。載記の三〇巻を除いて、百衲本二十四史の晋書として影印され……。
宋諱欠筆は「桓構」と南宋に至り、「慎」字には及んでいないが、巻三一第七葉裏九行に仁宗の諱の「禎」字を「御名」に作る。南宋前期の建刊本であろうが、北宋仁宗期の刊本の避諱を訂さずに受け継いだものと思われる。晋書も三国志と同じく咸平年間にはじめて刊刻されたが、仁宗朝の景祐・嘉祐刊の三史や唐書の存在が推定されるように、晋書もこの期に重刊されたであろうことを示す(p352)。

南宋前期建刊本(一四行二五字)
一三〇巻……五〇冊 南京図書館蔵
欠筆は比較的行われていて、「桓」字には確実に至り、十分に調べられなかったが、「構慎」はほとんど欠かないとみられる。百衲本の巻一〇三第二葉裏九行の「慎」欠は、補写で、対象にならない。字様も整っていて、ほぼ宋諱にみあう南宋前期の建安の刊本と思われる……。
補写巻が二一巻あり、百衲本所収の三〇巻の半分に近い一二巻がそのうちに含まれる。さらに巻三一第一葉、巻四一第六~九葉、巻六七第一葉が補写である(p354)。
……この本の校勘は張氏(張元済)にも取り上げられなかった……。補写が南監本に終始用いられた元刊一〇行二〇行本に拠ったらしいことがわかったが、それにしても百衲本がこのように善本とそうでない本とを混同していて、その相違を明示しないのは問題であろう。

晋書各本の本文について
盧文弨が群書拾補に晋書本紀を校勘し、張元済もそのうち三〇数例を百衲本跋でその南宋初建刊本と対校しているので、ここでもこの箇所について、前掲の宋元の諸本と、盧文弨も一部行っているが、あらためて明清の代表的な数本、それに最新の中華書局校点本を掲げ示し、各本の系統や性格を考えることにする(p380)。 結局、この範囲では南宋建刊本……がすぐれている。……ただし、百衲本は三国志のように張氏(張元済)が底本に手を加えて校正している場合がかなりあるから、この挙例についてはどこまで原本に忠実であるかがわからず、この本の本文がそのまま南宋建刊本であるとは一概にいえない(p384)。201109

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韓留勇「唐前十八家晋史亡佚考述」

韓留勇「唐前十八家晋史亡佚考述」(『社科学論』)二〇一三年

魏晋にたくさん私家の史書が作られ、劉孝標『世説新語』注に引用され、『隋書』経籍志にも見える。これらが唐修『晋書』に膨大な史料を提供した。唐修『晋書』ができると、それ以外の史料は散佚していった。

1 唐前十八家晋史と唐修『晋書』にそれぞれ千秋あり

宋代の『玉海』には、十八家の晋史についてのコメントがある。『史通』古今正史にもコメントがある。
唐の太宗『修晋書詔』は、先行する記録を「良史でない」「実録でない」としている。唐修『晋書』が完成したあとも、『旧唐書』房玄齢伝によると、『晋書』への批判が載っている。

『史通』采撰第十五に、『語林』『世説』『幽明録』『捜神記』らが作られ、それら「小説」を取り込んでしまったという批判も載っている。
『四庫全書総目提要』も、『晋書』の問題点を指摘している。

2 唐前十八家晋史の亡佚は自然の勢ではない

唐以前につくられた十八家晋史は、唐修『晋書』と長期にわたり並存していた。しかし、徐々に失われて至った。これは、十八家晋史のなかに編纂の欠陥があったからではないか。
王鳴盛は『十七史商榷』で、唐以前の諸家は尽く尽きたとしている。王隠・虞豫・謝沈には、西晋のみで東晋がなかった。干宝・習鑿歯は、言うまでもない。孫盛は東晋のことを記録したが、孫盛の死んだ時期で記述が止まっている。
これらの欠陥があるのだから、滅びるのは仕方がないと。王鳴盛の言うとおりだと。

鄧粲・臧栄緒・蕭子雲のものだけは、見所があったが、それ以外は、(内容の優劣において)唐修『晋書』に対抗できるものではなかった。

また、銭大昕『十駕斉養心録』巻六に、安史の乱によって書物が失われたとある。
『史通』正史によると、唐修『晋書』が完成すると、古い本を捨てていったとある。以後も、たびたび戦乱に見舞われて、蔵書が失われた。201105

なんか、たいしたことを書いてなかったですね。

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陶新華「《晋書・載記》略論」

陶新華「《晋書・載記》略論」(『杭州師範学院学報』一九九六―二、一九九六年)

『晋書』載記の国家は、「載記」は「僭偽」として扱われてきた。歴代の『晋書』の研究者は、十分な議論をしてこなかった。

1 『晋書』載記の材料

『史通』古今正史篇に、『晋書』について触れられている。

哲学書電子計画より:
皇家貞觀中,有詔以前後晉一脫「晉」字。史十有八家,制作雖多,未能盡善,乃敕史官更加纂錄。採正典與雜或作「舊」。說數十餘部,兼引偽史十六國書,為紀一訛「記」。十、志二十、列傳七十、載記三十,並敘例、目錄合為百三十二卷。自是言晉史者,皆棄其舊本,內有編年體,並棄之矣。竟從新撰者焉。

『隋書』経籍志および『史通』正史篇は、「魏書」を列挙している。
前趙史:和苞撰『漢趙記』十篇、田融『趙書』十巻…など。

北魏の崔鴻は、以上の偽史は残欠し、体例が不全なので、『十六国春秋』をまとめた。『十六国春秋』は、十八家『晋書』をまぜられ、唐修『晋書』のなかで、僭偽の国家とされた。民族の偏見に満ちている。
唐修『晋書』は、崔鴻『十六国春秋』と、それ以前の「偽史十六国書」を参考にしている。『史通』によると、これらから編纂されたという。

2「以晋以正統」について

『晋書』載記は、晋を正統としている。この筆法は、崔鴻『十六国春秋』を彷彿とさせる。『史通』探賾篇に、以下のようにある。

且觀鴻書之紀綱,皆以晉為主,亦猶班《書》之載吳、項,必系漢年;陳《志》之述孫、劉,皆宗魏世。

崔鴻の立場に似ている。『晋書』載記は、「僭」や「偽」の字を使う。晋と戦争をするときは、「征」と「寇」を使い分け、晋軍を「王師」としている。

載記で石勒は趙王を称するとき、群臣から勧進される文がある。劉淵が漢王を称するときも、文を載せている。しかしそれ以外は「僭位」とするのみで、詔や命などを載せない。これは、晋代の朱彝尊のいう思想に合致し、僭偽の君主は、「天子の制」に預からないということ。

『晋書』載記は、おもに『十六国春秋』に依拠しているが、全部がそれではあい。載記のなかに「偽」政権は十四あるが、崔鴻が十六国に含めた、前涼・西涼は列伝に移している。これも、張軌・李暠が、晋に称藩したことを根拠とする。独自に年号を立てたりしており、晋臣という扱いでいいのか?という王鳴盛の指摘もあるが、
ともあれ、晋を正統とした表現である。

『晋書』には四夷伝もあり、四夷伝では、少数民族が立てた国を「僭」「偽」 としない。また、載記に入っている北燕の馮跋、冉魏の冉閔は漢族である。
「乱華」「禍晋」というのが、載記に含められる要件なのだと。

前涼『晋書』で前涼が晋の忠臣であったことは、虚飾ではない。しかし、張重華もそうであったのかは、一層の検討が必要。

このへん、歴史学としての評価(前涼は実際にどうであったのか)と、『晋書』編纂という行為じたいへの評価は、分けて考えないと。


『晋書』において、前涼・西涼の扱いが特殊なのは、矛盾があるが、どこまでが『十六国春秋』に依拠しているか、検証が必要だと。

前涼・西涼の内実の検討がされている。はぶく。


3 載記の歴史記録の得失

『晋書』載記は(評判が良くないかも知れないが)、
姚興載記で、鳩摩羅什が仏典を翻訳し、その後、後秦で受容された状況を、とても詳しく書いている。
慕容廆は、慕容皝載記に詳細に記録があるが、中原の流民の様子を、きっちりと描き出している。

時二京傾覆…。


また載記は、つとめて重複を避けている。石勒の謀臣である張賓のことなど。石勒載記は、石趙政権で、張賓が策謀をねったこと詳しく書いてある。石勒載記には、張賓伝も付いているが、くり返しは書いていない。

苻堅の謀臣である王猛も同じ。蜀における諸葛亮のような重要性をもっているが、その君主の記録との重複をさせることがない。趙翼は、この記述方式を褒めている。『十六国春秋』と同日に語ることはできないそうな。
趙翼『廿二史箚記』巻七 『晋書』。

『晋書』の論賛の部分は、劉知幾『史通』論賛篇で、文飾が過ぎるといわれ、『旧唐書』房玄齢伝でも、実態から離れているとされている。
しかし、劉淵載記・石勒載記の論賛は、かれらの功業に肯定的であり、それほど悪いものではない。姚泓載記の論賛は、読む価値がある。

基本的に、『晋書』を褒めたい論文なんですね。


『晋書』載記の網羅性には、二つの明確な欠陥がある。
まず、武都の氐族の楊氏が立てた、仇池国を書いていない。『華陽国志』に出てくる内容であれば、載記に立てるべき国であった。
さいわいに、『宋書』氐胡伝、『北史』氐胡によって、知ることができる。
つぎに、怪異と符瑞を記しがちである。
趙翼『廿二史箚記』は、これを指摘している。載記のなかには、二十箇所以上の記述があり、これが余分であったと。

ほかには、矛盾や錯誤の箇所が、三百以上ある。中華書局本の校勘記、銭大昕『廿二史考異』、王鳴盛『十七史商榷』で指摘されている。
旅行載記に、鳩摩羅什が東に帰ることを勧めたとあり、「西夷伝にある」とある。しかし、『晋書』には西夷伝がない。ただ「四夷伝」「西戎伝」があるだけで、どちらにも鳩摩羅什は登場しない。ただ「芸術伝」に、鳩摩羅什がいるのみである。
苻登載記では、毛興が死にぎわに遺言が見えるが、銭大昕によると、符丕載記によれば、毛興は諸羌に殺されたのであり、遺言を託す余裕はなかった…などの矛盾がある。

4 『晋書』載記の意義

『資治通鑑』も詳しいが、『晋書』載記のほうが詳しい。崔鴻『十六国春秋』が散佚しており、民族融合の資料としては、『晋書』載記に勝ちがあるのであると。201105

『晋書』載記が完成したから、『十六国春秋』が散佚したと思いますが。とにかく、『晋書』を褒めたい論文?なので。

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宋鼎立「読《晋書・載記》」

宋鼎立「読《晋書・載記》」『史学史研究』一九八三―四(一九八三年)

1 載記と世家

載記の名称は、『後漢書』班固伝がもっとも早い。「僭偽」した人物を、「列伝」から分けるもの。『東観漢記』には載記があり、劉知幾『史通』題目篇に指摘がある。その『東観漢記』は、唐代以来の散佚してしまった。後世、『史通』に基づいて、『漢書』らを載記においた。

ので『史通』ありきだから、本来の形を伝えていると捉えることはできない。循環論法に陥る。


『晋書』載記は、『史記』世家と異なる。それは、『史通』世家篇の分析に見られるとおり。王鳴盛『十六国春秋』巻五十一にも見られる。
『四庫全書総目提要』史部・載記類の序も読むこと。

これらの先行する指摘の域を出ていない。


2 載記と、本紀・列伝との特徴

『晋書』載記の史料の来源は、劉知幾が「偽史」といった、十六国の歴史。西涼の李氏・西晋の乞伏氏の史書は伝わっておらず、南涼の禿髪氏は編者の名前が伝わっておらず、それ以外の十六国は、史書と編者が伝わっている。『史通』古今正史篇に見える。浦起龍は、劉知幾が並べている十六国の史書は、『隋書』『唐書』の志と同じ体裁だという。

『晋書』載記は、一国の君臣の活動記録であり、その点で、帝紀・列伝・世家の目的とは異なっている。
また『晋書』載記は、「序」があり、トータルの百三十六年間の要約を載せているのも異なる。趙翼『廿二史箚記』巻七では、『晋書』載記を簡潔だが漏れがなく、詳細だが乱れていないと称賛している。

正史における「載記」というジャンルそのものへの評価なので、ぼくの関心とは離れてきた。


『晋書』載記の欠陥

王鳴盛『十七史商榷』は、『晋書』には曲筆が残っており、前後で矛盾したり、余分な部分や不足があるとしている。王鳴盛は、二百以上の問題点を指摘をしているが、載記への指摘がとても多い。
趙翼『廿二史箚記』も同じような評価。

まず年の表記、体例が統一されていない。君主の事業開始、年号、死亡の記事について、一定程度は晋の年号を使うが、それ以外に、書いたり書かなかったりする。一般に、十六国時代は、前半は年号を詳しく書き、後半は記述が簡略になる。生前に皇帝を称さなかった(と記録される)者が、前半は多く、後半は少なくなる。なぜか。称帝をしたとは、晋王朝の正朔を奉じないということ。これを書かないか、書くとしても「僭」の字をかぶせる。もとの史書で書かなければ、唐代の『晋書』編者も踏襲するしかない。

載記のなかで、諸国の君主が死ぬと、「僭号」したものは「死」とする。劉淵・石勒のように。まだ「僭号」せず、終身、晋臣であったものは、「卒」とする。慕容廆・姚弋仲である。これは、歴史書の筆法にかなっている。
しかし、前秦の苻健は、もとは東晋の永和八年に「僭即皇帝位」とあるのに、死んだときは「卒」とされる。偶然の誤りかも知れないが、指摘はされる。

載記の君主は、みな「僭偽」とされるが、代国のみ、しばしば「代王」とされる。北魏もまた、「魏王」「魏主」とある。孝武帝紀・安帝紀・姚興載記・赫連勃勃載記のように。
このような不統一を、王鳴盛は「唐人が隋を承けた」とする。そして隋は、北魏から正統を受け継いでいることが原因という。『十七史商榷』巻四十五。

載記は、崔鴻『十六国春秋』をとても多く参考にしており、崔鴻は北魏の顕官である。その歴史書は、「晋を以て君と為す」ものであった。『史通』探賾篇。

慕容徳載記では、叙述のなかに突然、虚妄が現れて、称帝するという「妖賊王始」という故事がある。これは可笑しいが、前後の文脈とちぎれている。これは、『晋書』が多くの種類の史書から取材したという証拠になる。
それ以外では、馮跋が北燕を称したとき、もとは慕容雲(高雲)を継いで立ったにも拘わらず、載記では西秦の乞伏部と巻を合わせており、おかしなことである。201105

ぼくもおかしいと思いました(笑)

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趙儷生「《十六国春秋》・《晋書・載記》対読記」

趙儷生「《十六国春秋》、《晋書・載記》対読記」(『史学史研究』一九八六―三、一九八六年)

この論文が出された時期が早いが、のちに、多くの研究者から参照されている。

五胡十六国を知るには、『晋書』載記と『十六国春秋』が主要な資料である。それ以外に、『資治通鑑』もあるが。載記と『十六国春秋』の優劣や成立時期の問題があり、明代の輯本『十六国春秋』と北魏の崔鴻『十六国春秋』との際も問題であった。第一節ははぶく。

われわれは崔鴻の原本『十六国春秋』を読めない。屠氏の今本『十六国春秋』を読むことができる。載記の主要な出典は、『十六国春秋』だと結論づけられる。八箇所の根拠をあげる。

1.慕容徳の南燕の叛乱者

今本『十六国春秋』は、巻六十五 南燕録(三)に、「王始伝」があり、これは載記と同じ内容である。
ただし、『十六国春秋』のほうに、唐朝の史官が削除した情報が載っている。一、王始は、莱芜の一である。二、父の名は、王固である。三、兄の名は、王林である。四、弟の名は、王泰である。五、妻は趙氏である。

中国哲学書電子化計画より:
王始莱芜人德建平四年以妖术惑众至数千人聚于太山莱芜谷自称太平皇帝署置公卿百官号其父固为太上皇兄林为征东将军弟泰为征西将军德遣车骑将军桂阳王镇讨禽之斩于都市临刑人皆骂之曰何为妖妄自贻族灭或问其父兄今并何在始曰太上皇帝蒙尘于外征东征西乱兵所害朕躬虽存复何聊赖其妻赵氏怒之曰君正坐此口过以至于此奈何临死复尔狂言始曰皇后何不达天命自古岂有不破之家不亡之国邪行刑者以刀钚筑之始仰视曰朕即崩矣终不改帝号也德闻而笑之谓左右曰荧惑之人死犹狂语何可不杀

これらは些細なことだが、重要である。唐朝の史官が省いたが、より遡った史料である。北魏末に集められた資料にあるのであり、明朝の輯本のとき追加できない。ここから、今本『十六国春秋』は、崔鴻の原本を伝えており、載記のルーツでもあるといえる。

2.沮渠蒙遜の子が劉宋に献じた目録

沮渠蒙遜の子は、沮渠牧犍(一に「茂虔」に作る)は、劉宋に書の目録を献じたという。このことは二つの大きな意義がある。第一に、河西「五涼」の地方の文化が高かったということ。第二に、沮渠氏は、北魏と関係が悪いが、南朝と行き来し、河西の物品を献上して、交流が会ったこと。
その書目は、1『周生子』十三巻……20『孔子賛』など。

この書目は、『晋書』に見えず、魏収『魏書』にも見えない。ただ、『十六国春秋』と正史『宋書』だけに見える。ここから、二つの問題が生じる。『十六国春秋』の輯本を作ったひとが、正史『宋書』巻九十八から書き写したのか。崔鴻『十六国春秋』の原本が、正史『宋書』から書き写したのか?

この問題の立て方、おもしろい!!


『宋書』も目録では、(『十六国春秋』にある)「亡典」を、(『宋書』では)「王典」に作り、「魏馭」を「魏駁」につくる。もし参照していたら、このような大きな誤りがあるはずがない。

それはそうでもないような。

さらに、崔鴻『魏書』の成立は五二二年であり、沈約『宋書』の成立は四八八年であり、三四年が隔たっている。南北が分裂したとき、これほど早く文書が伝達されることは不可能である。そこから考えられるのは、『宋書』が見たのは、もとの献書の目録であり、『十六国春秋』が見たのは、北魏が北涼を併呑したとき、北涼に残っていた資料ではなかろうか。出典が異なるのであるから、字に差異がある。

攻めていますね。


3.慕容評の「買水鬻薪」のこと

三七〇年、慕容評が、前秦の王猛と対決した。王猛は、慕容評の性質が貪卑であるから、慕容評が敗れると考えた。その表現を「買水鬻薪」としている。
これは四箇所に見え、『水経注』、『太平御覧』に引く崔本『十六国春秋』、『晋書』載記と明代の輯本『十六国春秋』である。四箇所の記述は、大同小異である。小異というのは、どこか。
価格として「入絹一匹、得水二石」とある。これは史料の内容に照らすと重要である。全漢升先生は、物価の算出に使っている。しかしこの価格表示は、『水経注』と今本『十六国春秋』には見え、『太平御覧』に引く崔本『十六国春秋』と『晋書』載記に見えない。
このことから、ルーツは価格のある『水経注』と、価格のない崔本『十六国春秋』という二種類が想定される。どちらも北魏末に完成したものである。そして、同一の『十六国春秋』があり、崔鴻の原本『十六国春秋』には違いがあることが分かる。崔本『十六国春秋』には価格の文がなかったが、今本『十六国春秋』には価格の文がある。今本『十六国春秋』は、『水経注』のなかから価格の情報を取ったのか?今後の検討を要する。

4.苻堅が捕らえた代国の君主

苻堅の軍が代北から代国の君主を捕らえてきたのか。この国主は什翼犍なのか窟咄なのかということ。
周一良先生が、崔鴻が北魏の国史を作って殺されたことを論じるとき、触れていたこと。『魏晋南北朝史札記』で論じられていること。
三種類の異なる記述がある。『十六国春秋』の史料価値を測れる。
1)魏収『魏書』は、国主が捕らわれたことを記さない。ただ什翼犍が敵を恐れて、逃亡して人に殺されたとするだけ。「暴かに崩ず」とする。
2)『晋書』載記に、什翼犍は苻洛に破られ、その子が父を捕らえて苻堅に降服したとある。苻堅はかれらが文化的でないので、太学で礼を学ばせたという。
3)今本『十六国春秋』に、苻堅は昭成帝(什翼犍)の庶長子の窟咄を長安に遷し、太学で学ばせたとある。この記述のあと、今本『十六国春秋』の編纂者は、載記の記述を小さい字で補足している。
これは絶好の事例である。窟咄のことから、明代において、崔鴻の原本と、明代のひとが読めた載記の内容は異なっていたから、並記して読者の判断を仰いだのである。

北宋の『資治通鑑』にいたると、魏収『魏書』を採用せず、また『晋書』『宋書』『南斉書』の説を採用せず、ただ「窟咄」という文言を採用した。司馬光は、崔鴻の『十六国春秋』を信用したのである。

この論文の、ぼくにとって面白い話は、この「4」まででしたね。


5「五涼」のときの文士の記録

五涼のときの文化の累積については、陳寅恪先生の『隋唐制度淵源述論稿』に見える。
今本『十六国春秋』が伝える崔本『十六国春秋』は、『前涼録』六、『西涼録』三、『北涼録』四がある。
これらのなかに、1)西晋の玄学思想と讖緯の学問の影響を受けたひとを記し、儒学に偏重せず、敦煌の文化人が載っている。2)『魏書』は、全国レベルの人士しか載録せず、五涼の地方を排除してしまう。しかし、地方史の正確をもつ『涼録』には、この地域の文化が記録されている。これは、『十六国春秋』の独特の価値ではないか。

なんのこっちゃ。


6.沙門の曇無讖のこと

曇無讖は、『晋書』と『十六国春秋』の比較には使えないが、『魏書』と『十六国春秋』の比較をするとおもしろい。

『晋書』には、曇無讖は出てきませんからね。


7.沙門の仏図澄のこと

仏図澄と鳩摩羅什は、時代が近いが、風格は同じではない。『十六国春秋』と『晋書』とで、彼らの書きぶりは異なる。『晋書』では、仏図澄はおもに「芸術伝」のなかに入れてしまい、石勒・石虎との関わりは書かれていない。『十六国春秋』は、石氏との関わりがきちんと書かれている。
仏僧の伝記については、『十六国春秋』のほうが、『晋書』載記よりも優れている。

8.周虓のこと

周虓は、汝南の周訪の玄孫である。周虓の死の描写のにおいて、『十六国春秋』の弱点が現れている。
今本『十六国春秋』巻三十七 前秦録五は、周虓が関与し、前秦が敗北した経緯を、きちんと描き出していない。

この論文は、あとのほうになるほど、わりとネタが小ぶりになります。


以上から、
1)『十六国春秋』の原本は、本来はどうであったか分からない。北宋、南宋を経由して、流散してしまった。明代に輯本をつくるとき、内容に基づいて判断し、多くの部分は、北魏末のひとが記録したであろうことを集め直したと言ってよい。
2)『晋書』載記の評価をいたずらに高めてはいけないし、今本『十六国春秋』の評価をいたずらに低くしてもいけない。
3)『晋書』は唐代のひとがつくり、晋代から四百年を隔てている。唐初の史臣は、南朝の駢儷文の影響を受けており、形式への偏重がある。だから、史書を編纂するときも、その影響が出てしまったのだろう。各巻末の「史臣曰」は、ひどく異民族をけなしているが、太宗李世民も、そこまで異民族を悪辣とみていたのではあるまい。
4)今文『十六国春秋』の欠点もあるが、しかし、『晋書』『魏書』に見えない記事も多く、その価値は失われない。たとえば苻堅の史料は、載記の二倍ほどある。201103

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王強「再論《晋書·載記》及其正統観」

王強「再論《晋書·載記》及其正統観」(『史学理論与史学史学刊』二〇一三年巻、二〇一三年)

南北朝期、東晋の正統的な地位について議論があったが、唐修『晋書』は東晋の正統の地位を肯定した。載記には、十六国のおおくのことを列伝から分類して記し、史書の体裁として調整を加えた。

『晋書』は、二十四史のなかで、唯一、載記を設けている。百三十巻のうち三十巻というのは、相当な分量である。劉知幾は『史通』のなかで、これを称賛した。

1 南北朝時期の両晋の正統地位の分岐

北朝では、西晋を正統とし、東晋を正統としなかった。南朝は、両晋を正統とした。
北魏の孝文帝のとき、北魏で正統について議論された。『魏書』巻百八 礼志一に載せる、太和十五年に議論である。
北魏は、直前の統一王朝である西晋に、自己を接続させた。『魏書』は、北斉のときに完成したが、同様に、西晋に正統の地位を与えている。

『魏書』巻九十九に、前涼の統治者に関する記載があり、「私署涼州牧張寔伝」とする。唐修『晋書』では、張軌伝は巻八十六にあり、張軌の地位を西晋から正式に承認されたものである。『魏書』を作った魏収からみても、北朝は西晋を正統と認めているのだから、張軌を「私署」とするのは必然ではない。
西晋と比べて、東晋の正統の地位については、南北朝で扱いに決定的な違いがある。
魏収『魏書』は、『僭晋司馬睿伝』をつくり、司馬睿の経歴を貶めている。周一良先生の『魏収之史学』によると、魏収は孫盛『晋陽秋』を改変しながら、この記載を作っている。司馬睿を貶めるエピソードは小説的であるが、これは重要な意味を持つ。司馬睿が、晋室の正統な継承者でなく、正式な王朝でないことを論証しているのである。司馬睿を僭越、僭晋と位置づけている。
北魏を、西晋の後継者に置いている。

2 唐初における東晋の正統地位の肯定

『晋書』は唐初の重要な歴史書であり、太宗は賛を書いた。この御撰『晋書』で、東晋に正統な地位を与えている。
唐修『五代史』を作った李延寿による『南史』『北史』では、東晋は突出した地位を与えられている。『北史』巻百 序伝のなかで、李延寿はいう。……
『北史』と『南史』の記述範囲を、明確に区切っている。『北史』は、北魏の道武帝の拓跋珪が即位した元年から、隋の恭帝の義寧二年を下限とする。『南史』は、劉宋の武帝の永初元年から、陳後主の禎明三年としている。
注意したいのは、李延寿は、北魏-西魏-北周-隋唐という流れを想定している。隋を貶めているが、大一統の政権には違いない。隋は、統一政権であるから、『北史』に入れる必然性はない。『三国志』では、曹魏を本紀とし、晋の正統を明らかにした。李延寿の『北史』が、隋代を北朝と一緒にしたのは、唐を尊崇するためともいえるが、必然とは言い切れない。
李延寿は、隋を『北史』に入れた一方で、『南史』には東晋を入れていない。これは、東晋を大一統の西晋と並べることで、東晋の地位を引き上げたのだと考えられる。唐修『晋書』が、東晋の地位を引き上げた(本紀を書いた)のと符合する。

3 載記の地位は本紀と列伝より低い

紀伝体の基準では、本紀の地位は世家より尊く、世家の地位は列伝より貴く、載記は列伝よりも卑しい。二十四史のなかで、載記があるのは『晋書』だけ。
載記は、班固『東観漢記』に現れる。割拠勢力である、公孫述・隗囂に使った記載の名称。
『晋書』載記は、『史記』世家に似ている。だが、多くの学者は、これを同一として見ることに反対している。宋鼎立は、世家は、本紀よりかなり卑しいが、列伝よりは尊いとしている。劉知幾『史通』のなかでも、世家の位置づけについて述べられている。『史記』は、本紀、世家、列伝の順序になっている。
『晋書』載記は、本紀、列伝、載記の順序であり、尊さの序列である。唐の李氏の祖先である李暠は、『晋書』では列伝の部分に置かれており、『史記』孔子世家の市に似ている。

なるほど!!


班固『漢書』は、世家の体例を排除し、漢代の諸侯王はすべて列伝に入れた。おおくの正史にも、世家は見えない。柴徳賽先生は、漢は統一帝国であり、中央集権国家だから、春秋時代の諸侯とは違うのだという。劉咸炘は『史体論』のなかで、伝国というのは、十数世を経ればいいというわけでもなく、中央から支配されているならば、列国とは言えない(世家を立てるわけにはいかない)という。

『晋書』載記の十六国は、中央から支配されていない。ただし、先秦の諸侯と比べると、また異なる点も多い。先秦の諸侯は、周王室から封建されていた。しかし十六国は、ほとんど自立している。また、秦漢帝国の支配の数百年を挟み、意識が同じはずがない。『史記』の世家に似ているようであっても、十六国を世家とするには、適さないのである。

抜き書きしたけれど、わりとどうでも良かったです。


『晋書』の載記は、編纂の技術から見ても(世家と混同しない点が)適切であり、劉知幾が称賛するように、きちんと貶めることができている。

前涼・西涼を載記に入れないこと

十六国という呼称は、崔鴻『十六国春秋』に由来する。比較的早く、北方の戦況を整備してまとめたものである。崔鴻が十六国としたのは…。
崔鴻と、『晋書』載記で異なるのは、前涼と西涼である。晋代の王鳴盛は、西涼が列伝に入ったのは唐の祖先だからである。前涼は、かってに年号を立てていたから、晋臣としてよいのか?と、自問自答をした。筆写は、王鳴盛に賛同しない。王鳴盛はここで、前涼と西涼が列伝に入った理由を述べているが、唐初の史家から見たとき、前涼と西涼はどちらも晋室の中心であり、彼らの事績は載記に入れるべきでなかったというのか。

前涼と西涼は共通点が多い。まず、どちらも漢人が立てた政権である。南遷した晋室に使者を送って正統としたことがある。もし西涼を列伝に入れるのは、唐王朝の祖先だというならば、前涼と西涼をまとめて論じることはできない。唐初の史家から見て、晋室の中心であったのか?という区別によって、判定されたことになる。
前涼・西涼の列伝の最後の賛語により、唐初の史家が、前涼と西涼の創立者が、どちらも晋室の忠貞の臣であったと考えていることが分かる。

馬鉄浩「《晋書・載記》的正統観及其成因」には問題点があり、馬氏は、正統と僭偽というのを、『晋書』編者の基準から離れ、馬氏自身の基準で論じてしまっている。『晋書』を研究するからには、『晋書』編者の価値観に沿って研究すべきである。
後世の学者の一部がやっている、前涼は晋の正朔を奉じたのか?西涼は唐の祖先なのか?という、事実をめぐる議論は、『晋書』研究と関係がない。

おもしろい!!

『晋書』を編纂したひとたちの見方に沿うならば、前涼は晋の正朔を奉じたのだし、西涼は唐王朝の祖先であり、同時に晋室を正統として奉戴したのである。

『晋書』にそう書いてありますからね。

『晋書』の前涼伝や西涼伝は、馬氏がいうように、「偽から正に入る」というような(トリッキーな)ものではなく、列伝の末の賛に明確に現れている。前涼は「誠を晋室に帰した」のであるし、西涼は「王室は衰微したが、誠意を替えなかった」のである。

馬氏の議論を無効にして、原点回帰をしたのはいいけれど、新しいことを言えていないような?


5 伝文と論賛の褒貶が不一致

『晋書』載記には序があり、劉淵から禍いが始まった…とあり、乱世に対する否定的な態度が現れている。
唐初の史家は、賛のなかで、前涼の張氏と西涼の李氏に称賛をくわえているが、十六国の載記は、本文のなかで、英傑や君臣の才能をほめたあと、巻末の「史臣曰」や「賛」のところで、おおむね貶している。赫連勃勃・劉曜への言葉は、罵りである。
趙儷生先生は、伝文(載記の本文)と、評語のあいだに、作者の矛盾や葛藤があったとしている。

もしこれを史学理論から理解するならば、中国古代の史家は、われら現代の史家とは異なる観念を持っていながらも、われらと同様に、史家としての共同の規則を守りながら客観的な事実を書いていたといえる。
『晋書』載記の作者たちは、ほぼ十六国に否定的でありながら、しかし傑出した英雄や善政を書いていたのだから。

そこまで言えるのか?そんな肯定的なことか?むしろ、論賛の否定している論調を読み込むほうが、大事なのでは。


6 偽史を融かして正史に入れて「ない」

馬鉄浩は、『晋書』の載記は、偽史を融かして正史に入れたとし、十六国の歴史をなじませたことを肯定している。しかし、この言葉遣いは、ないだろうと。「偽史」とは、そういうものではないと。201103

批判のための批判いんあっていると思うので、抜き書きしない。

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馬鉄浩「《晋書・載記》的正統観及其成因」

馬鉄浩「《晋書・載記》的正統観及其成因」(『史学史研究』二〇〇七―四、二〇〇七年)

唐初に十六国の歴史の資料があり、南北朝の史官の手によったもの。最たるものが、『十六国春秋』と『三十国春秋』である。どちらも十六国を僭偽とおとしめ、しかし書法のうえで歴史的な地位を認めていた。その褒貶は、『晋書』載記への影響を与えている。
これ以外に、『晋書』は、前涼・西涼を載記に入れていない。その根拠はとても疑わしい。正統と僭偽の境界線を壊しており、かれらの歴史的心理を窺い知ることができる。

『晋書』の載記は、十六国の歴史を専門的に記すが、僭偽であると排斥し、東晋の年号で記事を書く。しかし唐代には南北統一が完了しており、史臣は十六国を客観的に肯定している。
趙儷生(一九八六、別途読みます)によると、『晋書』載記の評語のなかに、編纂者の複雑な状況と考えが反映されている。載記という名号の矛盾であったり、唐初の正統観念について検討を加える。
『晋書』載記の正統観が形成されるとき、前涼張氏・西涼李氏の二つを載記に入れなかった意義について述べる。

載記のなかの正偽の辨

梁代の阮孝緒『七録』は、その『紀伝録』のなかに「偽史」の項目をたてて、十六国史を著録している。阮孝緒はどうしてこのような区分をしたのか。
『七録』は、梁武帝の五二三年に編纂が開始され、南北朝の対峙中である。阮氏より前に、沈約が『宋書』を旁、北魏を「索虜」に区分していた。阮氏より後では、北朝の魏収『魏書』があり、列伝には南朝の桓玄・劉裕・蕭道成・蕭衍らを「島夷」とした。どちらも自分を正統とした。
南朝に仕えた阮氏が、南唐を正統とするのは当然である。

これと同じように、『隋書』経籍志も、十六国を僭偽とし、史部に「覇史類」を立てて、十六国の史籍を分類した。『隋書』は、唐の太宗の六五六年に完成した。天下は分裂から統一に向かっていた。劉知幾は、『七録』を踏襲して批評をつくり、『隋書』経籍志を作ったひとは、阮氏『七録』に依ったとしている。
「覇史」は、「偽史」から出たものであり、「偽史」とすると強烈に貶めてしまうから、覇史の小序のなかで、「或推奉正朔,或假名竊號,然其君臣忠義之節,經國字民之務,蓋亦勤矣」としており(全否定ではないので)、阮孝緒のときから、意識は変わっている。

『隋志』より約十年早く、唐太宗の六四八年に、『晋書』は完成している。
「載記」という形式は、班固に始まる。『後漢書』班固伝に、平林・新市・公孫述のことを、列伝・載記にした」とある。のちに、『東観漢記』としてまとめられた。『東観漢記』に基づき、范曄『後漢書』が作られ、列伝とされた。
晋代の著作郎である楽資の『山陽公載記』は、「載記」というタイトルであり、班固のこめた意味とは異なる。姚振宗『隋書経籍志考証』巻十三 『山陽公載記』の条で、「載記というのは、班固は、公孫述や隗囂には、後世にいう、覇史や偽史の意味で使った。しかし、山陽公(献帝)載記は、その意味ではない」と説明している。

のちに「載記」の意味が徐々に定まってゆき、退位したあとの皇帝(山陽公)の記録の意味では使われず、名号を僭偽したものの歴史として(班固の用法で)定着する。

唐修『晋書』には、載記が三十巻ある。載記の形式は、前代から発明されていたが、紀伝体のなかに、このように載記を置くのは、『晋書』の発明である。「世家」の体例をもちい、載記という名とし、本紀と列伝が並列された形式とした。『東観漢記』の(公孫述らの)ように、列伝に補充されるものとは異なった。

唐代は、華夷が一体となり、十六国を正史のなかにいれた。十六国は、僭偽したとはいえ、華夷の観念の正統の意識の影響下にあった。劉知幾のコメントによると、載記というのは、十六国の歴史の記述として、称賛されている。
『晋書』は、『隋書』経籍志よりも成立が早いが、『晋書』のほうが開明的で創新されたものである。…以上のように、偽史(覇史)が、載記に変化していくのは、一つの「正」と「偽」の対立であったものが、「偽」が「正」のなかに融け入る過程である。これが史学史のプロセスであり、南北朝から統一時代になり、民族が融合した時期の文化と、整合しているのである。

唐初の十六国の正統性の扱われ方

後世から見れば、僭偽とされる十六国の政権も、自ら正朔を立てた歴史をもつ。自立して、漢晋の制度をまねて、自国の歴史を書いた。
牛潤珍先生は、十六国時代の史官制度を三つに分けた。1復漢型。太中大夫が国史を管轄し、劉漢がその代表。2魏晋型。著作の官を設置し、前趙・後趙・前燕・後燕・前秦・後秦・後燕・夏・後涼らである。3諸侯型。史官は著作と称さないが、著作官と同じ職掌をもち、前涼・成漢・西涼・南涼・北涼・南燕・北燕である。
牛潤珍『漢至唐初史官制度的演変』(河北教育出版社、一九九九年)

『晋書』載記によると、五徳終始説で、政権の正当性を説明していたのは、前趙・後趙・前燕・前秦・後秦の五つ。注意を要するのは、この五つは、魏晋型の史官制度をもっていた。晋代の法制を継承しており、著作の官も継承していた。正当化の努力は、おのずと歴史叙述のなかにも反映される。

『晋書』は、『隋書』経籍志より十年前に完成した。その期間に、国家の蔵書には大きな変化がなかったはず。『晋書』載記が基づいたのは、まさしく『隋書』経籍志に載っている十六国の史書であろう。
『隋書』経籍志・史部・覇史類には、三十三の史籍が載っている。『吐谷渾記』・『天啓記』は十六国の本ではないから除外すると、三十一の史籍があることになる。ただ、これらは完全には十六国の史官の手によって作られたものではない。東晋、南北朝の史官の手によって作られたものも少なからず混じっている。正統の傾向は、必ずしも同じでない。

『隋志』のほかに、『史通』古今正史編に、少なからず十六国の史書が見える。おおくが十六国の史官がみずから作ったものであるが、しかし『晋書』編纂より前に亡佚してしまった。
『史通』と『隋志』を比較すると、十六国に正統観の変化の糸口になる。

『隋志』は三十一部を著録する。うち十六国の史官が撰述したのが十一、東晋が六、北魏が五、北斉が一、劉宋が一、時代が不詳なのが七である。『史通』は二十九を著録する。十六国の史官が撰述したのは、二十一であり、東晋は二、北魏は三、劉宋は二、時代不明が一である。

『隋書』に載せている十六国史のうち、六部が唐代には亡佚し、わずかに『七録』に名前だけが見える。この六部のうち、四部は撰述の時代が不詳であり、二部が東晋で撰述された。これらから、この時代に存続していた史籍は、多半が十六国の手によるものではないと分かる。
『史通』の記載と比較するに、この傾向はとても明確である。これは何を意味するか?史官の時代や地域は同じでなく、立場も変化する。南北の対立により、正統観が異なる。記載の真実性にも影響を与える。

十六国の戦乱が終息し、南北朝時代になった。十六国の歴史を追って撰し、整理するのが、南北朝の史家にとり、共通の課題であった。
『隋志』・『史通』は、十六国の著録について、時代が不詳のものを覗けば、北朝が撰述したものは六部であり、北魏の高閭『燕志』十巻、北魏の崔鴻『十六国春秋』などであった。残りは省く。
そのなかで、『十六国春秋』は各国の国史に依拠しており、増減や毀誉褒貶について、もっとも完備された十六国の集史であった。

南朝で編纂されたのは二部である。南朝では、十六国の歴史が軽視され、あまり歴史書は多く作られなかった。ただし、晋代の記録に十六国のことが付属させられた。梁元帝の世子である蕭方は、「諸史を採用し削除し、晋を主とし、漢の劉淵より以下の二十九国をならべて、上は呉の孫晧を採用し、宣帝から恭帝まで」の『三十国春秋』を作った。

このように、唐修『晋書』は、これらの史料に基づいた。十六国の史官がみずから撰した史料は少ないが、東晋と南北朝に大部分を依拠して作った。
『晋書』載記の重要なルーツである二つの史料、北魏の崔鴻『十六国春秋』と、南朝梁の蕭方等の『三十国春秋』が、それぞれ北朝と南朝の史官の態度を反映していよう。

『十六国春秋』・『三十国春秋』の正統観

1)北魏の崔鴻『十六国春秋』
崔鴻は、劉淵・石勒・慕容儁・苻堅・慕容垂・姚萇・慕容徳・赫連屈孑・張軌・李雄・呂光・乞伏国仁・禿髪烏孤・李暠・沮渠蒙遜・馮跋らを、それぞれの国に歴史書があるが、統一されていないので、『十六国春秋』をつくり、百巻とし、その旧来の記述に基づき、増減と褒貶を加えた。
『魏書』巻六十七 崔鴻伝による。

旧来の記述(旧記)というのは、十六国が自分でつくった歴史書である。崔鴻が、不統一であり、増減と褒貶を加えたというのは、どのようにしたか。『史通』探賾編に、明確な答えがあって、晋を正統とし、『漢書』『三国志』の呉広・項羽・孫権・劉備のように、漢・魏を正統として描き出した。
それは、『十六国春秋』の年表に鮮明に現れている。『魏書』巻六十七 崔鴻伝によると、別に叙例一巻、年表一巻をつくり、提出したという。「大義を統括」し「微体を著録」したという。これこそ、劉知幾に称賛されているもの。
『史通』表歴篇に、崔鴻がまとめてくれた、とあり、『十六国春秋』の列表系年(表をつらね年をつなぐ)により、見通しが良くなったと。

しかし、今本『十六国春秋』をみるに、崔鴻は晋を正統にしたというが、具体的な紀年は、十六国の年号のままになっていたりする。たとえば、後趙録の石勒伝に、石勒の年号である「建平元年」という文が残っている。統一性がない。

『十六国春秋』の紀年の問題には、歴史的背景がある。崔鴻は北魏の晋である。晋代の年号を使って編纂するのは、とても手間が掛かった。北魏は、南朝の東晋の後継国家と敵対関係にある。北魏は、十六国の五徳のめぐりを継承している。
この問題は、北朝で議論になったことがあり、『魏書』礼志によると太和十四(四九〇)年、議論のすで、北魏は、晋を承けて水徳とした。

『史通』古今正史によると、『十六国春秋』は北魏の宣武帝のはじめ(五〇〇年ごろ)に開始された。水徳の議論から、十年後である。晋を正統とし、北魏の前身とせよと主張した崔光は、崔鴻の伯父なんだとさ。

しかも注意を要するのは、北魏が前身とした「晋」とは西晋のことである。北魏は、東晋を「島夷」と見なしている。しかし、崔鴻が十六国史を整理するとき、東晋をメインとしても、十六国をメインとしても、全員が納得するわけではない。東晋をメインとすれば、

北魏が、どの王朝の徳を嗣ぐとするかを、議論する必要があるくらい、揺れているということだから。このあたりが、『晋書』載記の紀年が、よく計算ミスを犯していることと繋がる?


2)梁の蕭方等『三十国春秋』
『梁書』世祖二子伝によると、蕭方等は、范曄『後漢書』に注釈を付けたが、まだ完成しないうちに、撰した『三十国春秋』と『静住子』が世に流通した。
経籍志・芸文志などでの扱いははぶく。

唐の秘書省正字の杜延業は、『晋春秋略』二十巻を表したが、その次女で、蕭方等が『三十国春秋』を著したことに触れている。これが最も早い、『三十国春秋』の文字である。
『三十国春秋』は、『春秋』のように褒貶しながら、南朝として自然と、西晋・東晋の分け隔てなく、晋の年号をつかって記事を作った。
その原書はすでに佚し、二十九国の目次も伝わっていないが、晋と二十九国を並立させている。このことから、二つの相反する性質を指摘できる。
一つ、晋を中心とし、晋を正統とし、晋について一番詳しく書いている。だから杜延業は、「刪輯」して、(巻の数を減らして)二十巻の『晋春秋略』を作ることになった。一つ、晋と敵対した国家が、僭偽なりにも存在したことを認めており、『晋書』載記や『資治通鑑』に受け継がれている。

劉知幾は『史通』称謂篇で、実態に即していることを褒めている。既存の『三十国春秋』の逸文は、『史通』による評価と整合している。

前涼・西涼を載記に入れなかった意義

『晋書』載記は三十巻あるが、十四の国を記している。前涼張氏・西涼李氏は、どちらも列伝に入っている。一般の認識では、前涼は晋臣であり、自立したが、晋の正朔を奉じていた。西涼の李氏は、唐朝が遡及的に始祖としたから、漢族とされると。だから王鳴盛は、「張軌・李暠は、載記に入れられるべきであった」と言っている。『十七史商榷』巻五十一、『晋書』第九。

1)前涼張氏
前涼は、年号「建興」を用いていた。西晋が滅びると、東晋との関係は薄かった。実態としては、一地方に割拠していた。
また、対外的には晋の正朔を用いていたが、内部では自己の年号を使っていたという論もある。考察があるが(はぶく)実態は、他の十六国と異ならなかったのではないか。

2)西涼李氏
西涼李氏は、最初から終わりまで、自前の年号を使っていた。唐朝の祖先だから、ほかの僭偽の国と並列にするのを避けた。唐初、皇帝の統治を強固にするため、『氏族志』を編纂した。囲碁、つねに増補していった。唐朝の祖先を、隴西の李氏につなげた。唐代の影響である。
ただし、近代の学者は、西涼の李氏の子孫ではないとするものもいる。陳寅恪先生は疑わしいとし、漢化した胡人とする。
かりに西涼李氏が唐朝の祖先だとしても、正統か僭偽は、血統では決まらないはずである。『晋書』の史臣に曰く、では、西涼に肯定的な筆のさじ加減がずっと見られる。

以上、前涼張氏・西涼李氏を列伝に入れることは、その理屈はあまり通らない。ただ、正統と僭偽の境界をぶち破っているのは、正史と偽史の境界をぶち破っているともいう。本紀・列伝と載記の区分は、正史と偽史の区分である。前涼と西涼は、「儀」をもって「正」に入れるものであり、偽史的な「僭越」と言える。

なんか、含ませているんだと思いますけど、よく分からないです。


陳寅恪先生はいう。唐以前の諸家の『晋書』は、それなりに十分であったが、なぜ太宗が改めて編纂をさせたか。漢代、『春秋左氏伝』のなかに、漢が尭のあとを嗣いだという説を紛れこませた。唐代の『晋書』がやったのも同じことである。前涼の張軌を同類の陪賓とし、前涼と西涼を載記に入れず、西涼列伝に「子孫が宋に使えた」と書いて、後世を欺いた、云々。201102

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呉娯「《晋書》取材"十八家晋史"考」

呉娯「《晋書》取材"十八家晋史"考」(『滄州師範専科学校学報』二五―三、二〇〇九年)

『晋書』は、小説や雑史を多く史書に混入している。その淵源は、前時代の晋史である。『晋書』編纂の体例は、干宝『晋紀』から直接の影響を受けている。編纂の政治傾向は、前代の晋史の痕跡を残している。
前時代の晋史の材料の承継と変化について考察し、『晋書』撰者の史学と文学に対する見方について考える。

孫盛・干宝は、文が史に勝ると捉えていると。 郭晋稀『文心雕竜注訳』によると、『文心雕竜』の『史伝』は、六朝時代の文と史の捉え方について、密接な関係がある。

この論文はあとで読む。小説や怪異をどのように取り込むかという話なので…。201102

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楊蘇閩「唐《晋書》成書時間小考」

楊蘇閩「唐《晋書》成書時間小考」(『短編小説』二〇一八―一七、二〇一八年)
『晋書』成立年代について、まだ検討の余地がある。
唐以前の十八家『晋書』の長所と短所を総合し、臧栄緒『晋書』を底本とし、数年で完成させたという。先行研究には、二種類にわかれ、
1.貞観十八年に開始し、二十年に完成した
2.貞観二十年に開始し、数年で完成した

着手した時期については、先行研究を出ていないように思われたので、完成した時期についてだけ引用する。

完成した時期は、趙俊は、『資治通鑑』の(新羅に下賜したという)記載に基づき、十二月より前とするが、曖昧である。
『唐会要』に、房玄齢・褚遂良・許敬宗が管理したとあり、しかし『旧唐書』芸文志上・史部に、許敬宗ら撰とある。許敬宗が「領銜上奏」したとあるから、こう書かれたのであろうが、なぜ房玄齢ではないのか。
『晋書』は、房玄齢の死後に完成し、提出されたからではないか。『新唐書』太宗本紀に、貞観二十二年七月、房玄齢が薨じたとある。『旧唐書』太宗本紀も同じ。つまり、『晋書』完成は、七月よりは遅い。

『旧唐書』太宗本紀に、貞観二十二年九月、褚遂良を中書令としている。『旧唐書』褚遂良伝によると、この年の昇進は1回であり、「俄に中書令を拝す」とある。『晋書』完成の褒賞として、昇格したのだろう。

状況証拠ですよね。

検討した結果、貞観二十年閏三月初四に始まり、貞観二十二年八月中下旬に完成した。二年五ヶ月によって完成したのであると。201102

完成時期について、先行研究よりも進んでいるが、この議論は、これ以上立ち入れないと思うので、はぶく。
そして、数年のズレが、『晋書』そのものの読解に、大きな影響を及ぼさないであろうことは確認できた。この期間に、唐の皇帝権力の性質が大きく変わったり、政治状況が移り変わったりしていない。

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岳純之「論《晋書》的速成及其存在的問題」

岳純之「論《晋書》的速成及其存在的問題」(『煙台大学学報』哲学社会科学版一六―一、二〇〇三年)

『晋書』の短期間の完成

貞観二十年、唐の太宗が『晋書』を作れと詔を出し、二十二年に完成した。百三十巻を、二年ほどで完成させた。この短期間で完成できたことには、たくさんの理由がある。前代の臧栄緒『晋書』を藍本とし、太宗も歴史書編纂を重視したため、人数が多くて陣容が豊かであり、分担作業をできたことは関わりがある。

参加した人数は諸書で一定せず、十人、十九人、二十人、二十一人という諸説がある。具体的な人名の記載も異同がある。『唐会要』巻六十三『史館上・修前代史』に、名前が列挙されている(省く)。『冊府元亀』巻五百五十四『国史部・恩奨』と『唐会要』と比べると、人の出入りがある。『新唐書』巻五十八 芸文志二とも、高似孫『史略』と比べても、人物の増減がある。
参加者の名前について、諸書の表記は一定しない。宋代・清代の避諱であったもする。字形が似ており、人物の同定が難しい。名前の不一致について、重要なのは、盧承基・趙弘智である。列伝などを使った、二人の検証については省く。
この二十一人の説以外にも、人物には異同がある。
……検討した結果、『唐会要』の記載がもっとも信用できる。ただし、『晋書』を編纂した人員は簡単には解決できない。

さて、作業者は明確な分担があり、「掌其事者」がおり、「分工撰録」、「詳其条例、量加考正」が行われていた。

◆「掌其事者」
全体の管理者・主編は、諸書によって記載が異なる。『唐会要』は、司空の房玄齢・中書令の褚遂良・太子左庶士の許敬宗である。
『冊府元亀』・『史略』・『玉海』に引く『唐会要』も同様である。

『旧唐書』房玄齢伝では、房玄齢と褚遂良が「晋書を重撰せよ」という詔を受けたとあり、その後に、許敬宗と分担したとあるから、許敬宗は管理者ではない。ただし、当時、房玄齢と褚遂良は宰相であったから、具体的な管理業務は、二人に次ぐ地位の許敬宗が行ったのであろう。
余嘉錫は、『旧唐書』房玄齢伝の記述を、紛らわしくて間違いがあるとした。房玄齢と褚遂良が、管理業務をやったように記す、この部分を指すのだろう。

◆「分工撰録」
『唐会要』によると、分担作業者は、十四人である。『冊府元亀』国史部・恩奨も十四人であるが、顔ぶれに出入りがある。『冊府元亀』国史部・采撰二は十二人である。『史略』は十三人とし、盧承基がいない。……
作業者のあいだでも分担があり、李淳風は、天文・律暦・五行の三志を担当した。それ以外は分からない。原則としては、「その分野に詳しい人に任せる」という原則があったというが、これは宋代の鄭樵の推測である。

李淳風以外、よく分からないというのが結論。


◆「詳其条例、量加考正」
形式を定め、正しさをチェックしたのは、『唐会要』によると、令孤徳棻・敬播・李安期・李懐儼の四人である。『冊府元亀』・『玉海』が引く『唐会要』も、基本的に同じだが、李安期を、李懐安、李安儀につくる。

令孤徳棻と敬播のみ、果たした役割について簡略な記載があるだけで、それ以外のひとは役割が不明である。
『唐会要』巻六十三『史館上・修前代史』によると、起例は敬播の独創だという。『新唐書』巻百九十八 敬播伝によると、令孤徳棻とともに『晋書』を撰述し、大抵の判例はすべて敬播の発案であったという。
敬播には『叙例』一巻があり、のちに失われたが、現在は『史通』のなかでその片鱗を窺うことができる。巻六『晋書叙例』にある!

これは見たい!!

令孤徳棻は、唐前五代の歴史書の編纂を経験し、熟知しており、チェックの役を任された。『旧唐書』巻七十三 令孤徳棻伝に、編纂者としては第一であると書かれている。

『晋書』存在的問題

『晋書』は、唐朝初年に作られた同類の著作と比べると、際立った点がある。両晋の百五十六年の歴史をカバーしており、先行する臧栄緒『晋書』よりも、二十巻も多い。また、体例を完備しており、秦漢以来の伝統を継承しており、本紀が十九、列伝が七十、志が十あり、十六国という特殊な状況から、本紀と列伝の特徴をあわせもった載記とし、円満に、漢族の正統と、胡族の割拠をひとつの歴史書のなかで表現した。
史学をさらに進めて、「反逆伝」を作った。また規則を破って、すでに『宋書』のなかに列伝がある、晋と宋をまたがる人物の列伝を立てた。楊朝明「唐修『晋書』的政治因素(『史学史研究』、一九八九―四)」

しかし短期間で作ったため、チェックが甘いところもあった。
1.内容の遺漏。
劉遺民は晋末に名声があり、著作が多かったが、唐修『晋書』に載らない。劉遺民は、檀道鸞『続晋陽秋』に載っていたにも拘わらず。何禎は魏晋期のひとで、幽州刺史、廷尉を歴任した。許諄は、東晋のひとで謝安・王羲之と交際があった。前者は、虞豫『晋書』に列伝があり、後者は檀道鸞『続晋陽秋』と何法盛『晋中興書』に均しく記載があったが、唐修『晋書』に載っていない。
『晋書』地理志も遺漏がとても多い。北海郡は一方面が全て脱落し、済・岷の両県が見えない。県にも漏れがあり、巴東に漢・豊がなく、梁国に西・華がなく、晋初の地理と乖離している。栄陽に陽武があり、南郡に監利があるとし、また江左の与図がない。など、洪亮吉 東晋疆域志序(『二十五史補編』第三冊)にある。

2.錯謬相沿
唐修『晋書』に誤りは比較的多く、公知のことである。しかし、他の史書と異なる点がある。前人の史書の誤りを多く踏襲しているのが特徴。劉知幾も、郡国の記録は、その郷里の豪族を宣揚しており、疑わしい記述が『晋書』に引き継がれている、と指摘している。
江東の「五俊」は、『会稽会典』、潁川の「八龍」は『荀氏家伝』が出典。しかし晋代・漢代の著者は、この虚誉を、実録として取り込んでしまった。

銭大昕はいう。東晋では、徐州・兗州・青州を僑置したとき、「南」の字を付けなかった。劉裕が南燕を滅ぼし、青州・徐州の故地を回復し、北青州・北徐州を置いた。しかし、僑置の名は、「南」を付けないままだった。劉宋が受禅してから、「北」字を除いて、「南」字を加えた。『宋書』州郡志は、晋の成帝が南兗州を立てたとするが、当時「南兗州」という呼称はなかった。ところが『晋書』地理志は、(劉宋を遡及的に反映し)、東晋の明帝が、郗鑑を兗州刺史とし、のちに南兗州と改称した…と書いており、誤りである。
東晋は、徐州・兗州の刺史は、くっついたり分かれたりした。郗鑑より以後は、兗州刺史を領したものは、本紀と列伝でこまめに検証すべきであるが、南兗州刺史を領したものはいない……以下はぶく。

王鳴盛『十七史商榷』巻四十四『晋書二・曲筆未刪』もいう。太和四年、司馬懿は逃げながら、諸葛亮に攻撃を加える。

宣帝紀を見ると、太和四年の「明年」とあるので、太和五年ですわな。

宣帝紀に、「於是卷甲晨夜赴之,亮望塵而遁。……帝攻拔其圍,亮宵遁,追擊破之,俘斬萬計」と、諸葛亮を撃退しているが、『三国志』明帝紀・後主伝にあるが、宣帝紀の戦果は疑わしい。
晋代の曲筆を、唐代にも踏襲する必要はなかったはずなのに。

既存の史書の誤りを、史料批判を十分にせずに吸収した結果である。そのように、王鳴盛は指摘しており、この論文の著者も同意していると。
この論文は、『晋書』を短期間で成立させたことの問題点として、「作業がザツ」と言いたいようです。それを、今後の歴史書の編纂者への教訓にすべきだと言っている。


3.取材不当
『晋書』は、『語林』・『世説新語』・『捜神記』・『幽明録』から取材している。その結果、正しくない史書になった。
趙翼『廿二史箚記』に、『晋書』の記すところの怪異、という部分がある。劉聡のとき、平陽に彗星がふり…など。ぶたと犬が相国の府門のまえで交わり…など。『廿二史箚記』からの引用部分ははぶく。

『晋書』への批判は、劉知幾『史通』巻五 采撰のなかでされている(浦起龍『史通通釈』)。晋代の牛運震は、「『晋書』は好奇の病がある」といい、しかし、呂思勉は、『晋書』に寛容である。

4.照応が不够(足りない)
1)史実の不整合
恵帝紀は、永平三年十月、太原王泓が薨じたとする。しかし、太原王輔伝と、名前も時期もあっていない。高密王泰伝の封建と、恵帝紀の元康九年も整合しない。趙翼『廿二史箚記』に指摘がある。

2)参照できない
李重伝に「百官志に見ゆ」とあるが、『晋書』に百官志はなく、職官志にも李重のことが見えない。司馬彪伝に、「郊祀志に見ゆ」とあるが、『晋書』には郊祀志がないし、礼志にも司馬彪のことは見えない。張亢伝に「律暦志に見ゆ」とあるが、律暦志にない。以下はぶく。
などが、牛運震『読史糾謬』に載っている。

3)前後の重複
礼志中にある徐藻の議は、すでに后妃伝と志にも見えている。何澄らの議は、后妃伝に見えている。どちらかを省くべきだ。趙翼『二十二史箚記』にある。

4)体例(形式)が揃っていない
天文志中で、魏詠の死を「卒」とするが、天文志下では、「薨」とする。孔安国は、天文志中では「薨」とあるが、下巻では「卒」とする。褚襃も同じ。趙翼が指摘する。

5)倫理的な配慮が不十分
五胡十六国の統治者の妻となったひとは、褒めるべきでないのに、列女伝に収録されている。十六国の僧侶の、仏図澄ら四人は、東晋と交渉がなかったにも関わらず、芸術伝に収録されている。銭大昕が指摘している。

以上の5点が、房玄齢伝にある『晋書』への批判をより具体化したものである。この欠点を、歴史書の編纂者は、教訓とすべきであると。201102

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呉鉒鉒「《晋書》的編書時間…」

呉鉒鉒「《晋書》的編書時間、作者及与其有関的幾個問題」(『福建学刊』一九九二―、一九九二年)
原文には、章や節による区分がないので、紹介者(佐藤)が、適宜区切ってタイトルを付けた。

全体的に議論が粗かった印象。『晋書』の編纂時期については、より古く、下に載せた、趙俊「唐修《晋書》時間考」で、ほぼ決着が付いているように思われる。


唐修『晋書』の編纂期間

『晋書』はもとは『新晋書』と呼ばれた。「十八家旧晋書」と対にした表現。
唐修『晋書』は、唐の太宗の貞観年間に編纂された。『晋書』のなかで、テキストがもっとも長いが、編纂の期間はもっとも短い。編纂に関与した人物がもっとも多い。

編纂は、貞観十八(六四四)年に開始され、「二十年」で完成したと、『旧唐書』房玄齢伝にある。しかし房玄齢伝の記述は、時間の記述に誤りが非常に多いため、『旧唐書』・『新唐書』太宗本紀により、修正されるべきである。

以下、新旧の唐書の総称を、ぼくは『新旧唐書』と書く。


『玉海』巻四十六に引く『詔令門』に載せる貞観二十年の『修晋書詔』、『唐大詔令』にも内容が見える。『唐会要』巻六十三に引く『修前代史』には、貞観二十年閏三月に、『晋書』編纂を命じたとある。以上から、『晋書』編纂開始は、貞観二十年んと確定できる。房玄齢伝にある「二十年」というのは、開始したときの年号である。編纂の所要期間を述べていない。

『新旧唐書』太宗本紀によると、房玄齢は、貞観二十二年の七月に亡くなった。房玄齢伝は、誤って貞観二十三年としているが。『晋書』は、房玄齢の生前に完成したのであるから、貞観二十二年七月までに完成しているはず。
直接的な記述は、『新旧唐書』李淳風伝にある。
『旧唐書』によると、貞観十五年、李淳風府は太常博士に除せられ、ついで太史丞に転じた。『晋書』及び五代史の編纂にたずさわり、天文志・律暦志・五行志はいずれも李淳風がつくった。貞観二十二年、太史令に遷ったと。
『新唐書』によると、貞観二十二年に『晋書』を完成させたとある。以上から、『晋書』の完成は、貞観二十二年と分かる。

判明する編者は二十一人

『晋書』は貞観二十年閏三月から、二十二年七月以前に完成した。二年ほどしかかかっていない。前代の史書に比べると、『晋書』はいくつかの特徴がある。
1.官書であり、多くの人が関与している。2.多くの階層出身の門閥氏族が参加している。3.多くの文詠の士が参加し、南朝の文化的風潮の影響下にある。これが、後代のひとからの『晋書』への批判と関わりがあり、きちんと検証する必要がある。

『晋書』の作者は、房玄齢伝に十人が見える。

『旧唐書』巻六十六 房玄齢伝に、「尋與中書侍郎褚遂良受詔重撰晉書,於是奏取太子左庶子許敬宗、中書舍人來濟、著作郎陸元仕劉子翼、前雍州刺史令狐德棻、太子舍人李義府薛元超、起居郎上官儀等八人」とある。

『唐会要』修前代史詔には、ほかに十一人がみえ、合計で十一人である。
『新唐書』芸文志に載せるのも二十一人であり、これを『唐会要』と比べると、趙弘智がおおくて盧承基がない。『新唐書』宰相世系表によると、范陽盧氏に属し、高宗時代の宰相である盧承慶の一族である。趙弘智は、『新旧唐書』に列伝があり…。

『新唐書』・『旧唐書』・『唐会要』で、人物の異同を確認できる。姓名の表記の誤りなどがある。

ともあれ、総合すると、『晋書』を編纂した二十一人を確定できる。房玄齢・褚遂良・許敬宗・来済・陸元仕・劉子翼・李淳風・李義府・薛元超・上官儀・崔行功・辛邱馭・劉胤之・陽仁卿・李懐儼・趙弘智らである。

実際の主編は許敬宗

『晋書』は集団で製作された官書であり、その具体的な工程は考証できない。編纂者の名前はなく、『新唐書』芸文志は「名為御撰」とする。『旧唐書』経籍志は「許敬宗撰」とする。『宋史』芸文志は「房玄齢撰」とする。
「御撰」とあるのは、実際は、唐の太宗がただ、宣帝(司馬懿)・武帝紀(司馬炎)という二つの本紀と、陸機・王羲之の二つの列伝に、論賛があり、そこに「制曰」とある。

『旧唐書』房玄齢伝に、房玄齢と褚遂良が、「『晋書』を重撰せよという詔を受けた」とあるだけである。『唐会要』脩前代史に、房玄齢・褚遂良が許敬宗とともに、「その事業を掌った」とあるだけ。
『晋書』を編纂するとき、褚遂良はすでに黄門侍郎となり、「朝政に参預」していた。宰相の職務をおこなっていた。房玄齢・褚遂良は、政務が煩雑なので、「その事業を総括した(総其事)」とあるだけ。
実際の作業は、許敬宗がおこなったと思われ、だから『旧唐書』では、許敬宗の撰としていた。『旧唐書』許敬宗伝では、「朝廷が五代史および晋書を編纂し、全体の管理をした」とあるのである。

『晋書』の体例は、令孤徳棻が考案したもの。文を作成をしたのは、敬播・陽仁卿・李儼(もしくは李懐儼)の三人である。もとは、叙例一巻があり(すでに佚す)、掲載する人物は、敬播が選定したのである。

『旧唐書』令孤徳棻伝・敬播伝、『唐会要』脩前代史。

『晋書』は全部で百三十巻あるが、ただ李淳風が、天文・律暦・五行の三志を書いただけである。それ以外が、どのように作られたか、参考になる材料がない。

『晋書』は短期間に大勢で作ったが、許敬宗が主編であった。許敬宗の伝記はほぼ伝わっておらず、「無行的文人、貪鄙的政客」である。史書の編纂ぐらいにしか名前が出てこない。『姓氏譜』では、権勢におもねり、史実をねじまげ、当時の人々から怨まれたとある。
だから、『晋書』のなかの誤りはとても多く、本紀・志・列伝・載記のあいだで齟齬がおおい。一つのことを二回載せていたり、張冠李戴(ひとを取り違え)、事実を書き忘れたり、年月・地名・人名の誤りがとても多い。古今の学者が指摘してきたことである。

族譜、一族の記録としての傾向

『新唐書』宰相世系表、『新旧唐書』の本紀・列伝、および関連する記述によると、『晋書』の作者は二十一人おり、北方の氏族は、房玄齢ら十一人。南渡した氏族は、褚遂良ら四人。寒族は、李淳風・李義府ら二人。陸元仕ら四人は、属性が分からない。
士族の出身者が多いが、寒族の出身者も混じっている。隋朝や唐初に、にわかに地位を上げた一族がいたり、遡及的に士族であったことになったひともいるが(実例は省く)、ともあれ、多数が門閥士族の出身であることは疑いがない。
論文の附表を参照。

南北朝は、門閥制度の全盛時代である。隋唐以来、それは没落していくが、門閥の観念が社会や政治に大きな影響をもった。『晋書』編纂にも、それが反映されている。魏晋南北朝の士族は、政治・経済の特権を維持するために、みずから族譜や家伝を作った。
士族のルーツ、世系、官歴、婚姻、優れた人物の列伝などを載せた。隋唐になってもそれは衰えず、史学の領域にも影響を及ぼした。
『世説新語』賞誉篇に、謝朗が著作郎になると…という逸話があり、当時の史官が、父祖の記述に特別に配慮していたことが分かる。
ゆえに、魏収『魏書』を批評し、列伝が士人の家伝のようだと言った。沈約『宋書』も、世族が立てる碑のようである。何法盛『晋中興書』は、ひとつの大姓の記録のようであり、ほぼ家伝である。

『晋書』も例外でなく、裴秀伝には、子孫二十九人の記録があり、その時期は西晋を越えている。阮籍伝は、子弟十七人の記録があり、両晋の終わりまでカバーしている。王導伝は、子孫三十三人の記録があり、庾亮伝は二十四人、桓彞伝は二十四人であり、東晋の全体をカバーしている。
ただし、その大多数は、生前の官歴と、没後の追謚を載せているだけ。『晋中興書』、魏収『魏書』や、および同時代に作られた李延寿の『南北史』ほどは、家伝としての性質は持っていない。列伝の期間も、両晋で区切っている。

王渾伝では、西晋の太原王氏の子弟をあつめ、東晋は、王堪伝に切り替えて、太原王氏について書いている。瑯邪王氏は、西晋は、王祥伝・王戎伝があり、東晋は、王導伝・王舒伝らに切り替えて続きを書いている。
『晋書』では、一族のなかから特別な経歴の人物が現れると、別に列伝を立てる。庾琛は、庾皇后の父なので外戚伝にあるが、庾袞は孝友伝にあり、庾氏の子弟は庾亮伝にある。瑯邪王氏は、東晋以後、南朝の大きな士族であるが、『晋書』は王導伝のほか、王舒伝、王廙伝、王羲之伝をもっており、王敦伝は反逆者として桓玄らとセットにされている。

高官の家柄への配慮

『四庫全書総目』評は『晋書』について、褒貶の文は、事実を省みず浮華に流れ、小説を採取したとしている。『晋書』の作者は、高門の士族である。たとえば、太原の王堪へのコメントは、ほめすぎである。王堪の子の王承は、『晋書』のなかで絶賛されているが、事績は平凡である。

『晋書』は多くを『世説新語』から多くを採取したとされているが、高官をはばかり、名誉を貶める記述を拾わないことがある。『世説新語』惑溺篇にある王導の逸話、尤悔篇にある王澄の逸話など、王氏の盛徳をそこねる逸話は載せない。
また、『世説新語』任誕篇にある、劉孝標注に引く『晋紀』に載せる周顗の逸話も、周顗伝に載せていない。
しかし、高官の家柄でない、実務官については、『晋書』は多くを載せて、さらに貶めている。祖逖・劉琨の逸話は、孫盛『晋陽秋』の原文よりも、『晋書』祖逖伝のほうが、ひどくなっている。『世説新語』尤悔篇に載せる劉琨よりも、『晋書』劉琨伝のほうが、劉琨にとってマイナスに書かれている。

具体的な比較内容は、論文を参照。


論賛の美文、怪異の混入

『晋書』作者は、南朝の文風の影響をうけ、論賛に駢文をつかい、華やかだが実を伴わない。
范曄『後漢書』以前は、史官のつくる論は、すべて散文であった。南朝から、美麗な文を使うようになった。沈約『宋書』、魏収『魏書』、干宝『晋紀』総論は、いずれも偶句を用いている。…以下略。

南北朝は、道教・仏教が興隆した。鬼神霊怪、因果応報の逸話が、史書に混入されるようになった。劉知幾は…と批判している。
この流れの上にあるのは、王隠『晋書』の瑞異志、何法盛『晋中興書』の鬼神録らである。湯球『九家旧晋書輯本』によると、何法盛『晋中興書』には、徴祥説があるが鬼神録がない。唐修『晋書』は、瑞異志あるいは征祥説を立てなかったが、かわりに五行志を立てた。これは、瑞異志・征祥説の名残である。
『晋書』の五行志・天文志・その他の本紀や列伝に引き継がれた。

これらの怪異は、唐初の政治と関わりがある。李淵が起兵して即位するとき、符命の神秘性の力を借りた。即位した後、人々に符瑞について語るのを禁止した。
『晋書』の作者は、なぜ敢えて瑞異志・徴祥説を敢えて立てたのか。唐修『晋書』は、先行する『晋書』に比べて、怪異が少ないわけではない。元帝紀にある「牛継馬後」という黒い石の話は、王隠・虞豫・干宝・鄧粲の『晋書』には見えないが、沈約『晋書』になって初めて見えるものである。沈約が捏造した奇説であると、劉知幾は指摘している。
「牛継馬後」は、『晋書』の作者が捏造したわけではないが、王隠や虞豫たちが採用しなかった奇説を、『晋書』が採用したことには違いない。

王隠『晋書』は、陶侃が夢で羽が生えて飛び、都督八州軍事となった説を載せ、何法盛『晋中興書』も同じように載せている。しかし唐修『晋書』はこれを載せず、劉敬叔『異苑』の邪説を採用し、陶侃の逸話としている。内容は省く。

『世説新語』の安易な丸写し

『晋書』が後世からもっとも非難を受けているのは、『世説新語』を大量に引用したことである。『四庫全書総目』・劉知幾もこれを批判している。
按ずるに『世説新語』は、小説であり、魏晋期の士族官僚の思想、政治と生活のようすを記録しており、史料的価値がある。しかし、政治の伝聞や、すぐれた人物の事績には、多くの創作が含まれており、時期や地理について不整合がおおい。ゆえに劉孝標は注をつくり、『世説新語』の誤りを正した。

『晋書』の作者は史官である。問題は、彼らが『世説新語』を採用したこと自体にはなく、正しさの検証が不十分なことにある。劉孝標の指摘した誤りについて、『世説新語』を洗い直していなことに問題がある。
『世説新語』賢媛篇にのせる李絡秀のことは、劉孝標注に引く『周氏譜』で、誤りが指摘されている。しかし『晋書』列女伝は、そのまま『世説新語』に依っている。また、『世説新語』住誕篇に載せる阮籍のことは、劉孝標注引 王隠『晋書』によって、訂正されている。しかし、唐修『晋書』は、王隠『晋書』による訂正をせず、『世説新語』を丸写し、さらに脚色まで加えた。検証はぶく。

『晋書』郗超伝は、『世説新語』捷悟篇を載せているが、劉孝標に引く『晋中興書』によると、すでに『世説新語』の誤りを指摘している。それを無批判に受け継ぎ、それを郗超の「捷悟」としたのは誤解である。
このように、『晋書』には、南朝の文化的な影響があるのである(史料批判が不十分)。201101

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趙俊「唐修《晋書》時間考」

趙俊「唐修《晋書》時間考」(『史学史研究』一九八四―三、一九八四年)

問題の所在

『晋書』の修撰の時期は、諸説が一致しない。『旧唐書』房玄齢伝・令孤徳棻伝は、貞観十八年に始まり、二十年に完成したという。後世はこの説をとり、王鳴盛『十七史商榷』巻四十三、浦起龍『史通通釈』巻十二、魏応麒『中国史学史』はこれに従っている。
余嘉錫は、『唐大詔令集』、『唐会要』のなかにある『修晋書詔』に従い、貞観二十年に撰修が始まり、完成は確定できないとする。
一九七四年の中華書局の説明では、貞観二十年に始め、二十二年に完成とした。しかし、以後に出版された研究では、貞観十八年から二十年としている。べつの研究では、二十年に開始され、完成時期について触れない。
『史通』巻十二『古今正史』は、詔を奉じて着手し、完成時期については触れない。

編纂の開始時期

『旧唐書』巻七十三 令孤徳棻伝は、貞観十八年、雅州刺史となったが、公事により免ぜられた。ついで詔があり、晋書を編纂したとある。『旧唐書』巻六十六 房玄齢伝に、貞観十八年、太宗は詔し…晋書の重撰を命じ、二十年に至って完成したとある。
以上の列伝は、後世のひとからよく引用されるが、実態は懐疑的である。この列伝は、『修晋書詔』の内容に触れておらず、時期も符合しない。
『旧唐書』巻七十九 李淳風伝に、「貞観十五年、太常博士に除せられ、ついで太史丞となり、晋書及び五代史の撰述に携わった」とあり、これならば、『晋書』は貞観十五年とせねばならない。

『唐大詔令集』巻八十一に載せる『修晋書詔』によると、詔が出されたのは、貞観二十年閏二月である。余嘉錫によると、閏三月に作るべきであるが。
『唐会要』巻六十三に載せる『修前代史』によると、貞観二十年閏三月四日の詔に、晋書の更撰が命ぜられている。
『冊府元亀』巻五百五十六に引く『国史部 采撰二』、『玉海』巻四十六もまた、貞観二十年閏三月に『修晋書詔』が出たとしている。この詔こそ、開始時期の第一の手掛かりである。
詔のなかで語られている唐の太宗の親征は、『新唐書』太宗紀によると、一回だけである。詔にあるように、京城に還ってきたのは、貞観二十年三月である。『修晋書詔』を、貞観二十年閏三月とするのは、整合性がとれる。
もしも、貞観十八年に晋書作成の詔があるとすると、親征の文言と整合しない。
余嘉錫は、かつて貞観二十年から『晋書』が作られ始めたといい、その結論は正確であった。しかし、詔のなかで語られている親征のことに触れていなかった。そこは実証が不十分であった。

また、状況証拠とはなるが、全体の状況を見るに、唐の太宗は、貞観十八年に『晋書』作成を命じたとは考えにくい。
『旧唐書』房玄齢伝によると、房玄齢に京城の留守をまかせており、「蕭何の任だ」と言っている。褚遂良も、太宗の出征に従軍している(『新唐書』巻百二、褚亮伝)。このときに、房玄齢・褚遂良に、『晋書』を作れというだろうか。

編纂の完成時期

編纂開始は貞観二十年であれば、完成はいつだろうか。
『冊府元亀』巻五百五十六『国史部 采撰二』に、重要な手掛かりがある。『晋書』の作成を始めた後、「のち数年で完成し、秘府に所蔵し、皇太子及び新羅の使者に賜った」とある。『唐会要』修前代史にも、「皇太子と新羅の使者に賜った」とある。

この時期、できのいい本は、秘府に蔵書とし、副本を皇太子や諸王に賜ったという事例は、ほかにも見える。貞観五年に『群書政要』を、貞観十四年に『類例』を同じようにしている。
『冊府元亀』と『唐会要』に見える『晋書』の完成後の取り扱いは、完全に慣例どおりである。だから、ここから完成時期を割り出せる。
『旧唐書』巻百九十九上 新羅伝によると、貞観二十二年に使者を送り、太宗から『温湯』及び『晋祠碑』、新たに撰した『晋書』を賜って帰国した…とある。
『新唐書』巻二百二十 新羅伝に、貞観二十一年の明年、『晋書』を賜ったという記事がある。『旧唐書』巻三 太宗紀に、貞観二十二年、新羅の使者がきたとある。『資治通鑑』巻百九十九に、貞観二十二年十二月、新羅の使者がきたとある。いずれも、ズレはない。

以上から、貞観二十二年十二月、『晋書』を賜り、それが「新撰」であったことから、完成した時期が確定される。
『冊府元亀』に、「後、数歳にして書 就く」とある。もし、貞観二十一年に完成していたら、「数歳」とならないから、貞観二十二年と確定する。もし、貞観二十三年であれば、新羅の使者に渡せないから、やはり二十二年である。201101

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