雑感 > 『三国志総集編』の企画

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三国志の普及のための物語を書きたい

「はじめての三国志」を書こう。 三国志を知らない人に「最初に何を読めばいい?」と聞かれ、勧める本がないと思いませんか。『三国演義』の翻訳、吉川英治・横山光輝は長い。他の作家の独自アレンジは、初めての人には面白さが伝わらない。解説本ではなく、物語形式で触れてほしい。→よし書こう!
日本人の三国志受容のスタンダードの吉川英治に基づき、固有名詞を減らし、言葉づかいを平易とし、分量を減らす。独自解釈はしない。「布教」のためには冊子形式が良い。三国志の魅力を伝えたい相手にタダでプレゼントできるように安価に。印刷代はクラウドで集めたら、ご理解を得られるでしょうか。

日本人の三国志受容は、吉川英治がカギだと思うので(少なくとも自分は吉川英治で受容したので)そこから、三国演義の趣向に目配りし、史実にも適宜 寄せたり…。あらすじや解説ではなく、あくまで導入向けの物語にしたいんですよね。

ぼくらが三国志に熱中してると、「そんなに面白いなら、読んでみようか」という知人がいますよね。そういう人に気軽にプレゼントできる本。子供向けのリライト本が、入門用には合いそうですが、子供向けって勧められた側の気分が乗りませんよね。
物語分析的な骨子を損なわないダイジェスト版。

タイトルは、『通読三国志』にしよう。吉川英治を読みながら、削れるところに「✕」をつけ、物語の枝葉を削いでます。コウホスウとか、史実では重要人物だけど物語的にはいなくても同じとか、霊帝崩御後のゴタゴタも、宦官集団VS何進であって、宦官の名前は不要かなとか。
三国志普及本『通読三国志』は、吉川三国志のダイジェスト版にする予定。曹操・劉備・孫氏に視点を絞るだけで、読みやすくなりそう。でも、董卓・呂布のあたりは、三国が登場しなくても省きません。
人名・ストーリーのどこを削って、魅力を残すかという綱引き。創作よりも編集スキルが試されてます。

吉川三国志で、袁紹と袁術の対立が描かれない。 「袁術は……袁紹の弟にあたり、名門袁一族中では、最も豪放粗剛なので、閥族のうちでも恐れられていた」。陳宮「袁術を破り、次いで、袁閥の長者たる袁紹をも亡ぼしてしまうのです」。
袁紹・袁術は、呂布・曹操らの脅威として括られる。『演義』仕様?


大河ドラマの総集編の季節です。(2017年12月)
大河ドラマを毎週見てたのは、95年吉宗、96年秀吉、97年元就、00年葵徳川。すごいと思ったのが、総集編。1年間の各シーンを覚えてるから、「ここを繋ぐのか」「ここを切ったか」と編集の妙技に感動し、カットされたシーンを、自分なりに脳内で再生して補ってました。
吉川英治『三国志』を新潮文庫版で読み直してるんですけど(いま10巻のうち5巻目、関羽の五関突破)、読み応えがあって嬉しい反面、やはり長すぎる。面白いからいいけど。三国志を普及するために、吉川英治『三国志』の総集編(@大河ドラマ的な意味で)を作りたいという気持ちは高まります。

『通読三国志』は、もちろん『通俗三国志』を意識してのタイトルなんですけど、馴染みやすさからしたら、『三国志総集編』がいいかも。 171219

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関羽の五関突破について

疑問

『吉川三国志』を読んでいて、疑問がありました。
関羽の五関突破は、物語のなかでどういう効果や狙いがあるんだろう。
関羽の強さアピールじゃあるまい(華雄・顔良・文醜を斬れば充分)。危険を顧みず劉備を目指すという忠義なら、曹操に靡かなかったことで表現が済んでる。廖化・普浄・周倉らとの出会いなら、ここじゃなくても描けそう。

竹内真彦先生より

竹内真彦先生(@TAKEUTIMasahiko)に教わりました。
「五関斬六将」は『平話』や雑劇では見出せず、現在のところ、演義が初出になると思います(演義の創作と断定する気はありません)。その一方で「千里独行」と「斬蔡陽」は、『平話』・雑劇双方に確認できます。つまり、「五関斬六将」だけ出処が違う可能性は高い。

根本的な問題の一つとして、許都から鄴というのは大した距離ではない……とは言いませんが、「千里独行」というのは如何にも大袈裟です。で、『平話』を確認すると、献帝がいたのは実は長安と設定されています。
それゆえ、関羽が曹操に別れを告げるのは、『平話』では「覇陵橋」と設定されます。劉備と張飛のいた古城が何処かは断定できませんが、徐州近辺だとすると、長安からは800kmほどあるので「千里」といって問題ないでしょう。だから「千里独行」は関羽にとっての「通過儀礼」となり得る。
ところが史実に従って、関羽の居所を許都に設定する演義の場合、前述したように、距離が近すぎて「通過儀礼」にならない。それゆえ、関羽は、許都→鄴郊外→汝南→古城→再び鄴郊外という具合に、「君の名は」(古い方ね)をやらないと劉備に逢えない。
で、おそらくは『平話』をベースにして、「千里独行」を構成した演義は、「通過儀礼」の側面を強調するために「五関斬六将」を採用した、のだと思います。では、「五関斬六将」自体は、どのような意味を有するのか。

自説に附会することになってしまいますが、曹操の許にいた際、関羽に赤兎馬が附与されたことをやはり重視したいと思います。これにより、演義の関羽に「青」「赤」の二色が附されたことになり、これは関羽信仰の原初形態である、関元帥の姿と符合する。
つまり、演義の関羽は、赤兎馬を得てはじめて神格化される要件を満たしたことになる。そして関元帥の異名は「馘魔元帥」すなわち首切り人。「五関斬六将」の関羽はその属性を遺憾なく発揮したことになります。
しかし、馘魔元帥はあくまで原初形態。最終的には「関大王」(演義成立の段階では関帝にはなっていない)に辿り着く必要があります。そのために必要な要素が、周倉と関平だったのではないか、と(ともに曹操との別れから劉備との再会の間に初登場)。
そして、周倉と関平を得た関羽は、「馘魔元帥」から「関大王」に進化し、無闇に人を殺すことはなくなった、と。廖化と普浄は、周倉・関平に準ずる存在と考えると理解しやすいように思います。ただし、周倉・関平に比べれば重要度は低いので、再登場は後れるわけです。

ついでに今回発見したのでメモとして。『演義』嘉靖壬午序本や李卓吾批評本は、曹操と関羽が別れた橋を、『平話』と同じく「覇陵橋」に設定します。許都から長安郊外の橋に行くわけがないので、これは演義のミス。ただし、『演義』が『平話』を継承している直接的証拠の1つとも言えます。
ただし、通行本である毛宗崗本は、これをミスと認定して「覇陵橋」ではなく、単に「橋」と改めています。妥当な措置ですが、演義が『平話』を継承していた痕跡を消していたことにもなります。

私の返事など

ありがとうございます。吉川三国志は「覇陵橋」とあるので、李卓吾本の系統(少なくとも毛宗崗が手を入れる以前)と分かりますね。李卓吾→通俗三国志。
関羽の関羽の人格は、曹操の誘いを断って時点で完成しているので、通過儀礼とは思いもよりませんでしたが、神?への成長なら、意味が深いですね。

吉川三国志の総集編を作ろうとしてるんですが、正史派?の私は、五関突破の意義が分からなかったんです。歴史への影響を基準に、逸話を取捨選択すると、重要度が低く感じられて。
物語的に意味があるなら省いちゃダメですが、それを言えば、毛宗崗の作業も、正史派?による物語の破壊?にも思えます。

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