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三浦國雄「資治通鑑考」より

三浦國雄「資治通鑑考」(『日本中国学会報』第二十三集、一九七一年)

Ⅰ資治通鑑の成立

一、通史の出現
(一)時代、(二)新法という政治状況、(三)司馬光の内的動機。この三つの力学の上に『通鑑』は成立し、性格が決定された。

正史は、『史記』と『南史』『北史』を除き、断代史ばかりであった。

『南史』は、宋・斉・梁・陳のみ。『北史』は、北魏・斉・周・隋のみ。

『史記』以後、正史以外で通史の試みはあった。劉知幾『史通』によれば、梁武帝が編纂させた『通史』六百二十巻、北魏の崔鴻『科録』二百七十巻が存在した。

『通史』の巻数は、『梁書』武帝紀では六百巻とするが、『隋書』経籍志、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志、『史通』で異なる。

いずれも灰燼に帰した。劉知幾は、これら通史の出来の悪さを罵倒した。『史通』巻一、六家第一。

断代史は、王朝を完結するとみなし、断絶として捉える意識。「二十四史」という言い方は、ただの羅列なので通史ではない。通史とは、歴史は王朝の興廃によって断絶するものではなく、王朝は交替しても歴史的世界は連続するという意識。明確なパースペクティブ(見通し)によって過去の事蹟を再編成した史書のこと。

なぜ宋代に通史である『通鑑』が出現したか。
宋代にも、断代史の『唐書』『五代史』が編まれた。これを欧陽脩が『新唐書』『五代史記』として再編成した。

通史を生む、過去を連続する全体として捉える意識は、歴史の激動期に生まれる。アウグスチヌス『神国論』は、古代ローマ社会の没落。『愚管抄』は、貴族社会の没落意識。
他方で宋代は、五代の破壊から再生した時代。新しい貴族階級、士大夫の興隆体験、建設の意欲があった。
宋代の編纂事業は、太宗のとき、『太平御覧』千巻、『太平広記』五百巻、『文苑英華』千巻がつくられた。真宗のとき、『冊府元亀』千巻がつくられた。

前代の知識の集大成は、『通鑑』と同じ基盤。ただし、類書は事実の羅列にとどまる。一貫した視点から歴史的世界を一家の書に再構成した『通鑑』とは異なる。
司馬光の時代は、前代の道教的な気風が一掃され、儒学の興隆と、古代の復興の気運が盛り上がった時代。

二、新法と資治通鑑
一〇六六年、司馬光は私撰『通志』巻八を、英宗に提出した。タイトルから、通史を書くという意図はみえる。英宗は気に入り、五代の末まで続けよと命じた。
『通志』八巻は、『通鑑』の周~秦に対応するか。

英宗は、史局の設置、宮廷の蔵書の自由な閲覧、有力なスタッフの参与、必要経費の支出をしてくれた。一〇六七年、英宗が死に、神宗が即位しても支援は続いた。
だが、三年目の一〇六九年、神宗は王安石を抜擢し、司馬光は対立した。『通鑑』完成に向けた十五年間、司馬光は洛陽で編纂に没頭した。

『通鑑』編纂の期間が、王安石の改革と時期が重なっている。司馬遷『史記』の「発憤著書の説」を、そのまま司馬光にも当てはめられない。しかし、新法という現実と、その対極に、静まり返った歴史的世界があった。引き裂かれた状況で、編纂が行われた。

『通鑑』は、歴代の史書に例がないほど〈事実〉を執拗に追究する。論賛で史家の個人的な見解を述べ、本文では〈事実〉のかげに自己のすがたを潜めるというのは、『通鑑』に限ったことではない。しかし『通鑑』の場合、〈事実〉への傾斜がとりわけ顕著。
史実の選択にあたり、ひとつの史実に二種類以上の典拠があった場合、それらを比較論証して史実の精確さを期する。極めて〈実証的〉な方法で臨んでいる。奇妙なことに、そのような操作は舞台裏であるにも拘わらず、司馬光は敢えて公開している。『資治通鑑考異』巻三十がそれである。

史家が精確な史実を追求することはむしろ当然。司馬光に限らず、歴代の史家が目指した。ただし、かれらは手の内を見せなかっただけ。
私(三浦氏)は、『通鑑』の客観主義そのものより、むしろかれ(司馬光)がそれを『考異』というかたちで『通鑑』とともに上梓しようとした事実のほうが重要であると思う。客観主義そのものより、客観主義の「標榜」に注目したい。

司馬光は論賛のなかで、自分の著述は、褒貶の法を立てたものではないと、わざわざ断っている。ああ、あの『通鑑』巻六十九 魏紀一か。

『考異』は新法に対する〈憤〉とは無縁で、それどころか、正反対に見えながら、じつは繋がっている。
中央政界から退いた司馬光は、『通鑑』を当初の目的どおり、一個の史書として自立させねばならないという要請があった。また、歴史事象を借りて、新法を批判し、廃棄に至らせたいという要請もあった。葛藤が想像される。
中国の史書は、自己の見解のはけ口として、論賛という場がある。毀誉褒貶が許される論賛で、新法批判の論陣を張る。本文で事実だけを排列する。これでジレンマが解決するように見える。わざわざ『考異』を設けて、事実尊重主義を標榜する必要はない。
三浦氏は、そこに司馬光の綿密な配慮を読み取る。

『通鑑』は、旧法党の領袖(司馬光)によって書かれた。ならば、隠微なかたちであるが、新法批判の言辞を含んでいる。すると、抹殺されかねない。『考異』こそは、予想される誹謗から『通鑑』を救うための堅固な武装であった。あえて、事実至上主義を標榜することによって、〈憤〉を韜晦しようとした。

司馬光は、『史記』が後世に「謗書」として批判をあびたことを『通鑑』巻六十で触れている。司馬光自身も、『通鑑』制作中、新法党から中傷された(『文献通考』巻百九十三)。
北宋末、新法党により、『通鑑』は抹殺されかけたが、陳瓘が弁護してくれた。『宋史』巻三百四十五 陳瓘伝。

中国史学史のなかでの位置づけは。
記録者の主観的褒貶によって、事実そのものが曲げられた『春秋』に始まった。記録から、記録者の主観的判断を追い出した『史記』にゆく。客観的事実の雄弁性を『考異』によって保証しようとした『通鑑』にいたる。

三、編纂の意図
編纂の意図は、『通鑑』の「進書表」、「十國紀年序」、「劉恕・通鑑外紀序」に言い尽くされている。
司馬光の問題意識は、(一)従来の旧史は、膨大で煩雑、断片的。古代から五代を通覧することが難しい。(二)君主の治道に役立つ通史が存在しない。(三)今日の士大夫は歴史を学ぼうとせず、かれらが読める通史も存在しない。

力点は、(二)君主の治道である。司馬光は、君主に規諫するという自己の視座から、前代までの歴史事実を再構成し、皇帝に提供しようとした。
ただし、神宗に進講したが、どこまで有益であったか不明。『通鑑』を激賞し、編纂体制をサポートしたが、司馬光を政治から遠ざける方便であったかも知れない。司馬光を「老死」させるという意図が、神宗にあったかも知れない。

『太平広記』『文苑英華』、『冊府元亀』の編纂といった宋初の文化事業は、不平を抱く旧臣を「老死」させるために行われたという。吉田清治『北宋全盛期の歴史』三十頁。


『通鑑』は、「往時に鑑み治道に資あり」(胡三省・音註通鑑序)とあり、帝王学であるが、官僚に向けたものでもある。士大夫のあり方の書。人民の視点は欠落しているが。
当時の士大夫は、史学の学習が、科挙の急務ではない。正史ですら、版本も普及せず、読む方法すらなかった。
『通鑑』は、直後から熱心に読まれたのではなく、朱子『通鑑綱目』によって、儒学のなかで注目された。『通鑑綱目』が閑却されても、『通鑑』は必読とされた。

Ⅱ 資治通鑑論

一、形式について
紀伝体でなく、はるかに古いスタイル、編年体で書かれた。『史記』が出現してから、正史は紀伝体であった。
荀悦『漢紀』、袁宏『後漢紀』など、編年体もあったが、主流ではなかった。
司馬光が編年体を選んだのは、時間継起の連鎖によって、ひとつの歴史の場を提供するかたちだから。歴史を通覧するのに便利。
内的な動機があった。宋代は、古典を従来の訓詁にとらわれず、自己の眼で内在的に解釈しようという学風が起こった。史学の分野でも、『春秋』の新しい解釈が盛んに行われた。司馬光は、古文復興の波にのり、歴史記述の方法そのものを、もう一度、古代に還そうとした。
『通鑑』は、古代の継承と復活。

また同時に、形骸化し始めていた紀伝体に対する批判。
直前に完成した、『新唐書』『五代史記』に目もくれず、司馬遷を「好奇」と退けて『史記』を飛びこえ、

『通鑑』巻十二、漢紀四、高帝十一年

『春秋』よりも、事実主義の『左伝』に範を求めた。

劉恕「資治通鑑外紀序」


たんに編年体に準拠するだけでなく、文体においても『左伝』を擬している。
『通鑑』における時間の遡及法である、「初……」という書法。 また、「……従此始」、「請死」「請罪」という表現。

『通鑑』巻七十 魏紀二 文帝黄初七年に、「求請勖罪、帝不許」とある。ていうか、三浦氏は、後漢末から三国の例が多いですよね。

あるいは、胡三省のいうように、『通鑑』が某人(だれか)の破滅の原因を書くのも、『左伝』の体例であろう。

『春秋』に倣わなかった理由のひとつは、聖人でない限り、毀誉褒貶はなし難く。むしろ事実を直書して、読者の判断に委ねるべきだという信念があったからである。

司馬光は、褒貶の法を立てない(魏紀一、黄初二年)。

しかし司馬光は、まったく『春秋』の体例を無視したのではない。たとえば年号。西暦四〇三年、桓玄は東晋の安帝に位を譲らせたが、『通鑑』は桓玄の年号を使わない。胡三省はこれを、司馬光が桓玄の革命を、認めていなかったからとする。
また司馬光は、〈崩〉と〈殂〉を使いわけている。六朝の天子の逝去は、おおむね〈殂〉としている。

『左伝』を強く意識したのは、体裁に倣うためばかりでなく、『左伝』を直接継承しようとする意図があったから。『左伝』の終わりから、『通鑑』は始まる。
『左伝』の終わりは、前四五三年。『通鑑』の始まりは、前四〇三年。しかし『通鑑』は、『左伝』の終わりまで遡及して、春秋晋の分裂を説明している。断絶していない。
『春秋』の終わりから始めなかったのは、〈経〉に続けることは、自己と聖人を同じレベルにおく、不遜なことと考えられたから。

司馬光が『春秋』を尊重する態度は、王安石が『春秋』を「断爛朝報(官報のキレッパシ)」と罵倒したことと対照的。司馬遷が、『春秋』を継ぐことを父から遺命されながら、ついに『春秋』を呑み込んでしまったこととも対照的。
〈経〉と皇帝の不可侵性は、司馬光のなかで一体。

『左伝』の終わりから書き始めたのは、『通鑑』を『左伝』に接合させ、『左伝』=『通鑑』という通史を構想したから。『左伝』空間と、『通鑑』空間とが連続するためには、異質の体裁であってはならない。
だからこそ、宋代における古史の復活という、一見、アナクロニズムに見える形を冒して、『左伝』にならった。『通鑑』は、その構想において、(『左伝』の起点である)魯の隠公元年、前七二二に始めを託した、『左伝』に続く通史である。

『通鑑』が『左伝』を直接継承したことは、宋学と関わっている。
(一)原典主義、(二)道統、(三)正統主義。
(一)について、歴史の祖は『春秋』と『左伝』であり、それ以外は、『史記』『漢書』は支流に過ぎない。ただし、『春秋』『左伝』を飛びこえ、独自の形式で、太古以来の歴史世界を再構成しえず、『左伝』の前で立ち止まったのは、司馬光と宋学の限界。司馬遷が紀伝体という新しいスタイルを想像し、『春秋』『左伝』を包み込んでしまったこととは異なる。……

宋学のことは、ぼく(佐藤)が不勉強なので、これぐらいで。


二、書法について
君臣のありかたを中心におく。国家の盛衰、生民の休戚は、君臣のありかたによって決まるもの。
史書としては異例なほど、おびただしく採録された臣下の上奏にたいし、君主がいかに受け止めたかという形で展開される。臣下の行為や、君主の発言がないわけではない。しかし『通鑑』は、その構造として、臣下の長々とした規諫の部分と、君主を中心に動くできごとの部分から成り立っている。

この二元性は、ペロポネーソス戦争の戦史に通ずる。ツキディデスは、出来事と演説から成り立っている。言葉と行為、演説と決議、理論と実際、予断と結果。二元論の対置によって、〈言〉と〈事〉について、明確な方法論を自覚していた。

『礼記』玉藻篇に、「動けば則ち左史これを書し、言えば右史これを書す」。『春秋』と『尚書』の区別が生まれる……と、劉知幾『史通』巻二 載言第三。
『通鑑』は、意識的に、〈言〉と〈事〉を分けるだけに留まらず、両者の葛藤のなかに、普遍的な理法を探ろうとしている。

上奏文は、規諫者の現状把握から始まる。規諫者の〈言〉は、その主観ではあるが、〈事〉を切り取って、〈事〉を補足してくれる。

上奏文は、君主への批判であり、現状の否定のあと、かくあるべし、さもなくば悪しき結果になる、という予断で結ばれる。司馬光は、君臣の対話の形式で、歴史を捕らえている。
『通鑑』巻七十五 魏紀七で、司馬師が傅嘏の言うことを聞かなかった場合の記事。司馬師が傅嘏の具申に耳を傾けておれば、敗戦はありえず、歴史は別の展開を辿ったかも知れない……と仄めかしている。

『通鑑』の書法について。
(一)事件を連鎖として捉える。(二)附加、(三)挿話、(四)対照。

(一)時間継起による羅列でない。位置が隔たっていても、因果の糸によって結ばれる。結果だけでなく、王朝の滅亡、個人の破滅の原因を追求する。その原因は、臣下の諫言のなかに潜ませてある。
熟読しないと結びつけられないので、胡三省は「……張本」という注を入れてくれる。

(二)附加は、時間の順序を無視し、ことがらを膨らませる。過去や未来にゆき、接合させる。紀事本末体は、これを膨らませたもの。(三)挿話は、別角度から照らし出すもの。挿話自体は客観的事実であるとしても、挿話の置き方に、史家の主観的判断が働く。

具体例は、もとの論文を参照。

(四)対照。項羽のすぐあとに劉邦をおくなど。

要するに、(二)(三)(四)は、いかにして編年体を逸脱するか、というものの内部分類でしょう。


時間継起の軸に沿って単純に排列したものではない。単純どころか、極めて綿密に排列し直している。史書において、純然たる客観主義はそもそも存在し得ないが、『通鑑』の客観主義といっても、個個の事実の正確さを期しただけの、いわば括弧つきのものであることに、留意する必要がある。
厳密にいえば、個々の事実それ自体からして、司馬光が直接目撃したものではない。選択過程にも、かれの主観が混入する。選択された事実の再構成に至っては、個人の世界解釈(@ニーチェ)といっても過言でない。

司馬光が編年体を選んだのは、精確な史実の記述を目指したかれにとって、紀伝体は著者の主観を大きく含みがちな体系であったからという説があるが、実はその逆!!!で、
枠組みの固定された紀伝体のほうが、むしろ自由に書きにくかったからではないか。
『通鑑』は、事実主義を標榜しているだけあって、私(三浦氏)には、『通鑑』は著者(司馬光)の見識によって、〈事実〉を切り取っているという意味で、
ぎゃくに主観の臭いが強い史書のように思えてならない。

少なくとも、『通鑑』を客観主義という視点からのみ捉えるのは、皮相な見解であり、〈主観〉からの視点、さらに〈客観〉と〈主観〉の対話として捉える視点が必要であるように、(三浦氏は)思う。

三、〈臣光曰〉について
『通鑑』にも、論賛がある。ただし、正史の巻末におかれ、おおむね個人や制度の全体に対してコメントするものとは異なる。編年体の『通鑑』の論賛は、歴史事象を任意に切り取って、批評を加えている。
『左伝』の〈君子曰〉に始まる、自由な批評形式に倣ったのであろう。

その批評対象は、君臣に集中する。文化史、制度史、経済史プロパー(これらの専論)はほとんどない。司馬光は、自由は〈史臣〉でも、自由な〈君子〉でもなく、皇帝の〈臣〉に他ならない、自己の立場から、逸脱しようとしない。
評者の位置が曖昧な、〈賛に曰く〉〈論に曰く〉としなかった所以。

文字数も、正史のように一定しない。数十から数百まで、ばらつく。論賛のすべてが、オリジナルでもない。全部で二百十篇あるが、約半数は、過去の思想家・歴史家の援用。言い分は、半分は、先人に言い尽くされているということ。

先人の選択に、かれの傾向はある。班固十五篇に対し、司馬遷は二篇のみなど。だが、司馬光の批評は、伝統的な儒者の最大公約数。奇をてらうことを嫌ったようである。普遍的なものの祖述者。201111

ここから、三浦氏は、『易』『礼』を手掛かりにし、司馬光の思想の検証に着手するが、引用しない。

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谷口明夫「『資治通鑑証補』考」より

谷口明夫「『資治通鑑証補』考」(『鹿児島女子短期大学紀要』巻二十六、1991年)より、読書メモとして抜き書きしています。200924

『資治通鑑』は司馬光(1019-1086)が、劉攽・劉恕・范祖禹といった歴史学者三人、彼の子の司馬康を助手とし、19年の歳月で完成させた。294巻、周の威烈王23年(前403)から五代後周の959年までの1362年の歴史を記した。
宋末元初の胡三省の『資治通鑑音注』、明末清初の厳衍『資治通鑑補』がある。
厳衍『通鑑補』と同等あるいはそれ以上の価値を持つのが、名古屋市蓬左文庫所蔵の石川安貞『資治通鑑証補』。日本人が中国の学者に対しても誇り得る学術成果の一つ。出処を逐一示したという大雑把な説明のみがあった。

『資治通鑑証補』各巻の第一葉にも「大日本尾張儒臣 石川安貞 証補」とあるだけ。だが安貞の死後、嗣子石川嘉貞が父の遺業を継承したもの。
石川安貞の事績は谷口明夫「石川香山事跡考」(鹿児島女子短期大学『紀要』第二十五号、1990年2月)
石川安貞、号は香山。尾張鳴海の郷士として1736年に生。京学派の藩儒深田厚斎に学び、経史を修める。闇斎学派の浅見絅斎の門人、小出慎斎に学ぶ。闇斎学派に数えられ、1786年、名古屋城南の桑名街に漢学の塾を開く。
1770年、名注釈と評される『金鏡管見』を脱稿。金鏡とは、唐の太宗の人君論。石川安貞(香山)は、1772年、『陸宣公全集釈疑』24巻を完成、唐の名臣陸贄の文集に注釈を加えたもの。藩主徳川宗睦に知られ、1777年に藩儒。1781年~藩主の命で『行水金鑑解』を撰述。清代の水利書の注解。

ぼくにとっては、直接の関心から逸れるので現時点では読まない。


石川安貞は1782年、『資治五史要覧』を開始。『資治通鑑』にならい歴史を統治の教訓にしようという意図。藩主の命。宋・遼・金・元・明の歴史を、『続通鑑綱目』『宋元通鑑』及び各正史を用いて編年体で記した。
1783年、明倫堂が落成し、細井平洲のもと典籍に任命された。藩史編纂所の校勘に。

1789年、『資治五史要覧』を全面改訂し藩主に献じると『資治通鑑証補』撰述の命が下り、1810年に死ぬまで続ける。
石川安貞には子がなく、岐阜から石川嘉貞を養子とする。事跡は、名古屋市役所『名古屋市史-人物編』1934年、第九儒学の石川魯庵の条に見える。1794年に明倫堂の学生に挙げられる。
石川嘉貞は1811年、安貞を襲ぐ。1832年、江戸藩邸の学問所、弘道館の総裁として朱子学を講ず。四書のテキストは林道春の道春点。名古屋が冢注のみであったのに対し、朱子の注を使用したのは、闇斎学派の嘉貞にとって気楽であったと思われる。
石川嘉貞は安貞ほど著述がないが、『資治五史要覧』の浄書に嘉貞の助けがあり、史料の検索、校勘の基礎作業に参与したことは想像に難くない。2代の事跡から『資治通鑑証補』撰述の経緯は窺い知れないが、巻頭に見える嘉貞の「上資治通鑑証補箋」と凡例に、撰述の目的と経緯を伝える。

立派な政治を行うには経と史を読むことが必要。唐の悪臣の仇士良が人主に読書をさせるなと言ったのが例。『資治通鑑』編纂目的の一つに連なる。
先君(徳川宗睦)は聡明で明倫堂を興し、『資治通鑑』を継ぐ『資治五史要覧』纂修を安貞に命じ、次に『資治通鑑』への『資治通鑑証補』を命じられた。

『資治通鑑』への絶対的な尊崇の念があった。宗睦を取り巻く尾張藩士たちの共通の気持ち。尾張藩に司馬光を深く尊ぶという風気が満ちた。尾張の南宮大□が『司馬光伝』を自家出版した。安貞父子が司馬光・胡三省の誤りを指摘するとき「臣安貞(嘉貞)謹按」と謙り、推測の形で指摘するに留める。

証補を求められた直接的な理由は、嘉貞の「凡例」にあり、『資治通鑑』は省略が多く意味不明、事実の隠没がある。詳しく理解できるよう出処を示し、風教治民に役立つ者として忠臣・義士・貞女・烈婦・諫争を補う。逐一「証」して「補」を加え、按語を記した。
脱稿前に宗睦も安貞も没したと箋にある。

『資治通鑑証補』全294巻のうち、巻219までは安貞の按語が見えるが以後見えなくなり、巻236を最後に消える。嘉貞は巻179に按語が初めて見える。安貞が力を注げたのは巻178まで、巻219までは嘉貞の力を借りたが未完成。作業は推計30年。厳衍と談允厚の『通鑑補』は、24年かかった。

『通鑑証補』は『通鑑』本文を無界九行、行十九字で書き、本文の間に、小字双行・行十九字で胡三省注及び証補の文を挿んだもの。詳細な構成は、嘉貞「資治通鑑証補凡例」に説明がある。「証」は出処を示し、「補」は本文に省略されたものを補った。

厳衍『通鑑補』からの引用ではない。

『通鑑』の字句、記事内容と異なった史料があった場合、その異同について考察したものを「補考」と呼ぶ。「証」「補」「補考」は朱線で囲み、「証」は胡三省注の上、つまり『通鑑』本文のすぐ下に置き、「補」と「補考」は胡注の下に置き、胡注と区別する。本文、証、胡注、補、補考の順で提示する。

「証」の文字を標出せず、直接出処のみを記し、全体を朱線で囲む。「補」「補考」は標記しこれだけを朱線で囲む。
本紀が『通鑑』の紀の柱となっていれば、ただ「帝紀」と記す。前後の帝の本紀であれば謚号を1字取り「高紀」「文紀」とする。列伝の初出は姓名、以後は姓を省く。

大同小異であれば「依○○」とし、小同大異であれば「取○○」とし、「略」「見○○」とし違いを示す。

ぼくが後漢末~三国を見る限り、「取」に出会ったことはないはず。

出処はみな正史に依って示すが、書が伝わらぬ、先学で出典が不明のものは将来の仕事としておく。←ぼくやってます!

凡例にある以外に「…字、○○無」もある。
証にあるのは『孟子』『韓非子』『戦国策』『漢武故事』『東観漢記』『世説新語』『隋唐嘉話』『陸宣公集』が正史以外で、あとは正史。司馬光が三百数十種あったというわりには貧弱。中華書局の標点本の人名索引が利用できると「証」の価値は大きくない?

司馬光が最も拠り所としたのが結局正史と実録類ならば、大部分を調べ尽くしており、また文字の異同まで逐一確認するのは大変な作業であるので極めて重宝する。←やってます!次回ぼくの論文で引用します!
『通鑑』全体にわたり出処を明記したのはこれ以外にない。←たしかに…!

長文の疏や詔を全部「補」うことは『通鑑』撰修の本来の目的に反し、閲読の妨げとなる。司馬光が削ったのは文が長すぎるから。『資治通鑑長編』を復原したのと同じ。「補」が正史から引用なら、正史を安価で入力できる今日、長文の「補」は価値を失った。
「補考」は『通鑑』本文と異同のある史料があった場合、それを記録し考察したもの。だが『証補』全体で「補考」の内容と性格は一貫しない。按語は、巻178までは朱枠で囲まれて独立しているが、それ以後は「補考」の一部として扱われ、朱枠が除かれる。巻178以前も補考のなかへの混入もある。
混入があるのは巻38,62,91,115,177。大多数の「補考」は異なる内容の史料が存在すること、異同の存することを記録するばかりであるが、時おり是非の判断を示す。「臣○○謹按」が原則のはずが、直接「按」と断らずに直接判断を下すことがある。巻178までは独立するが、以後は「補考」に吸収される。

巻179以降は嘉貞の手により不統一である。←隋代に区切りがあるからぼくには無関係!
「補考」の大多数は、字句の異同。判断を示さない。価値は、司馬光が削除したものに気づかせ、編纂姿勢がどういうものか考えさせる効果がある。他の情報を与える、司馬光の史料選択如何とその根底にある思想を考えさせる。

少数だが判断を加える「補考」もある。張良の封建を翌年に置くべきだ、『通鑑』の記事配列、編集に対しての意見。「臣安貞謹按」の体例に従わず、安貞の名もないのは嘉貞が後に加筆したからか。
「補考」には「補注」もある。『漢書』如淳注を引くなど。

『通鑑証補』は『資治通鑑考異』は単行本として存在したから省いたと。安貞らが用いたテキストに『考異』が割注として本文中に入っていたことが窺われる。静嘉堂文庫にかつて明倫堂の蔵書であった陳仁錫本がある。安貞のテキストもこれか。←重要!!!

『通鑑補』と『通鑑証補』の違い。『通鑑補』は厳衍と談允厚の師弟が『通鑑』の誤りを正し、闕を補おうとした『通鑑』の改編本。欠点を7つ挙げ、欠点を正そうと本文を改編した。体例も詳密。だが厳衍らは『通鑑』の原形を失わせた。補った文の出処を記さなかった。改変箇所もどこか分からないことも。

という論文を読みました。200924

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