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谷口明夫「『資治通鑑証補』考」より

谷口明夫「『資治通鑑証補』考」(『鹿児島女子短期大学紀要』巻二十六、1991年)より、読書メモとして抜き書きしています。200924

『資治通鑑』は司馬光(1019-1086)が、劉攽・劉恕・范祖禹といった歴史学者三人、彼の子の司馬康を助手とし、19年の歳月で完成させた。294巻、周の威烈王23年(前403)から五代後周の959年までの1362年の歴史を記した。
宋末元初の胡三省の『資治通鑑音注』、明末清初の厳衍『資治通鑑補』がある。
厳衍『通鑑補』と同等あるいはそれ以上の価値を持つのが、名古屋市蓬左文庫所蔵の石川安貞『資治通鑑証補』。日本人が中国の学者に対しても誇り得る学術成果の一つ。出処を逐一示したという大雑把な説明のみがあった。

『資治通鑑証補』各巻の第一葉にも「大日本尾張儒臣 石川安貞 証補」とあるだけ。だが安貞の死後、嗣子石川嘉貞が父の遺業を継承したもの。
石川安貞の事績は谷口明夫「石川香山事跡考」(鹿児島女子短期大学『紀要』第二十五号、1990年2月)
石川安貞、号は香山。尾張鳴海の郷士として1736年に生。京学派の藩儒深田厚斎に学び、経史を修める。闇斎学派の浅見絅斎の門人、小出慎斎に学ぶ。闇斎学派に数えられ、1786年、名古屋城南の桑名街に漢学の塾を開く。
1770年、名注釈と評される『金鏡管見』を脱稿。金鏡とは、唐の太宗の人君論。石川安貞(香山)は、1772年、『陸宣公全集釈疑』24巻を完成、唐の名臣陸贄の文集に注釈を加えたもの。藩主徳川宗睦に知られ、1777年に藩儒。1781年~藩主の命で『行水金鑑解』を撰述。清代の水利書の注解。

ぼくにとっては、直接の関心から逸れるので現時点では読まない。


石川安貞は1782年、『資治五史要覧』を開始。『資治通鑑』にならい歴史を統治の教訓にしようという意図。藩主の命。宋・遼・金・元・明の歴史を、『続通鑑綱目』『宋元通鑑』及び各正史を用いて編年体で記した。
1783年、明倫堂が落成し、細井平洲のもと典籍に任命された。藩史編纂所の校勘に。

1789年、『資治五史要覧』を全面改訂し藩主に献じると『資治通鑑証補』撰述の命が下り、1810年に死ぬまで続ける。
石川安貞には子がなく、岐阜から石川嘉貞を養子とする。事跡は、名古屋市役所『名古屋市史-人物編』1934年、第九儒学の石川魯庵の条に見える。1794年に明倫堂の学生に挙げられる。
石川嘉貞は1811年、安貞を襲ぐ。1832年、江戸藩邸の学問所、弘道館の総裁として朱子学を講ず。四書のテキストは林道春の道春点。名古屋が冢注のみであったのに対し、朱子の注を使用したのは、闇斎学派の嘉貞にとって気楽であったと思われる。
石川嘉貞は安貞ほど著述がないが、『資治五史要覧』の浄書に嘉貞の助けがあり、史料の検索、校勘の基礎作業に参与したことは想像に難くない。2代の事跡から『資治通鑑証補』撰述の経緯は窺い知れないが、巻頭に見える嘉貞の「上資治通鑑証補箋」と凡例に、撰述の目的と経緯を伝える。

立派な政治を行うには経と史を読むことが必要。唐の悪臣の仇士良が人主に読書をさせるなと言ったのが例。『資治通鑑』編纂目的の一つに連なる。
先君(徳川宗睦)は聡明で明倫堂を興し、『資治通鑑』を継ぐ『資治五史要覧』纂修を安貞に命じ、次に『資治通鑑』への『資治通鑑証補』を命じられた。

『資治通鑑』への絶対的な尊崇の念があった。宗睦を取り巻く尾張藩士たちの共通の気持ち。尾張藩に司馬光を深く尊ぶという風気が満ちた。尾張の南宮大□が『司馬光伝』を自家出版した。安貞父子が司馬光・胡三省の誤りを指摘するとき「臣安貞(嘉貞)謹按」と謙り、推測の形で指摘するに留める。

証補を求められた直接的な理由は、嘉貞の「凡例」にあり、『資治通鑑』は省略が多く意味不明、事実の隠没がある。詳しく理解できるよう出処を示し、風教治民に役立つ者として忠臣・義士・貞女・烈婦・諫争を補う。逐一「証」して「補」を加え、按語を記した。
脱稿前に宗睦も安貞も没したと箋にある。

『資治通鑑証補』全294巻のうち、巻219までは安貞の按語が見えるが以後見えなくなり、巻236を最後に消える。嘉貞は巻179に按語が初めて見える。安貞が力を注げたのは巻178まで、巻219までは嘉貞の力を借りたが未完成。作業は推計30年。厳衍と談允厚の『通鑑補』は、24年かかった。

『通鑑証補』は『通鑑』本文を無界九行、行十九字で書き、本文の間に、小字双行・行十九字で胡三省注及び証補の文を挿んだもの。詳細な構成は、嘉貞「資治通鑑証補凡例」に説明がある。「証」は出処を示し、「補」は本文に省略されたものを補った。

厳衍『通鑑補』からの引用ではない。

『通鑑』の字句、記事内容と異なった史料があった場合、その異同について考察したものを「補考」と呼ぶ。「証」「補」「補考」は朱線で囲み、「証」は胡三省注の上、つまり『通鑑』本文のすぐ下に置き、「補」と「補考」は胡注の下に置き、胡注と区別する。本文、証、胡注、補、補考の順で提示する。

「証」の文字を標出せず、直接出処のみを記し、全体を朱線で囲む。「補」「補考」は標記しこれだけを朱線で囲む。
本紀が『通鑑』の紀の柱となっていれば、ただ「帝紀」と記す。前後の帝の本紀であれば謚号を1字取り「高紀」「文紀」とする。列伝の初出は姓名、以後は姓を省く。

大同小異であれば「依○○」とし、小同大異であれば「取○○」とし、「略」「見○○」とし違いを示す。

ぼくが後漢末~三国を見る限り、「取」に出会ったことはないはず。

出処はみな正史に依って示すが、書が伝わらぬ、先学で出典が不明のものは将来の仕事としておく。←ぼくやってます!

凡例にある以外に「…字、○○無」もある。
証にあるのは『孟子』『韓非子』『戦国策』『漢武故事』『東観漢記』『世説新語』『隋唐嘉話』『陸宣公集』が正史以外で、あとは正史。司馬光が三百数十種あったというわりには貧弱。中華書局の標点本の人名索引が利用できると「証」の価値は大きくない?

司馬光が最も拠り所としたのが結局正史と実録類ならば、大部分を調べ尽くしており、また文字の異同まで逐一確認するのは大変な作業であるので極めて重宝する。←やってます!次回ぼくの論文で引用します!
『通鑑』全体にわたり出処を明記したのはこれ以外にない。←たしかに…!

長文の疏や詔を全部「補」うことは『通鑑』撰修の本来の目的に反し、閲読の妨げとなる。司馬光が削ったのは文が長すぎるから。『資治通鑑長編』を復原したのと同じ。「補」が正史から引用なら、正史を安価で入力できる今日、長文の「補」は価値を失った。
「補考」は『通鑑』本文と異同のある史料があった場合、それを記録し考察したもの。だが『証補』全体で「補考」の内容と性格は一貫しない。按語は、巻178までは朱枠で囲まれて独立しているが、それ以後は「補考」の一部として扱われ、朱枠が除かれる。巻178以前も補考のなかへの混入もある。
混入があるのは巻38,62,91,115,177。大多数の「補考」は異なる内容の史料が存在すること、異同の存することを記録するばかりであるが、時おり是非の判断を示す。「臣○○謹按」が原則のはずが、直接「按」と断らずに直接判断を下すことがある。巻178までは独立するが、以後は「補考」に吸収される。

巻179以降は嘉貞の手により不統一である。←隋代に区切りがあるからぼくには無関係!
「補考」の大多数は、字句の異同。判断を示さない。価値は、司馬光が削除したものに気づかせ、編纂姿勢がどういうものか考えさせる効果がある。他の情報を与える、司馬光の史料選択如何とその根底にある思想を考えさせる。

少数だが判断を加える「補考」もある。張良の封建を翌年に置くべきだ、『通鑑』の記事配列、編集に対しての意見。「臣安貞謹按」の体例に従わず、安貞の名もないのは嘉貞が後に加筆したからか。
「補考」には「補注」もある。『漢書』如淳注を引くなど。

『通鑑証補』は『資治通鑑考異』は単行本として存在したから省いたと。安貞らが用いたテキストに『考異』が割注として本文中に入っていたことが窺われる。静嘉堂文庫にかつて明倫堂の蔵書であった陳仁錫本がある。安貞のテキストもこれか。←重要!!!

『通鑑補』と『通鑑証補』の違い。『通鑑補』は厳衍と談允厚の師弟が『通鑑』の誤りを正し、闕を補おうとした『通鑑』の改編本。欠点を7つ挙げ、欠点を正そうと本文を改編した。体例も詳密。だが厳衍らは『通鑑』の原形を失わせた。補った文の出処を記さなかった。改変箇所もどこか分からないことも。

という論文を読みました。200924

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