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『隋書』の成立

中林史朗・山口謡司(監修)『中国史書入門 現代語訳 隋書』より、解題にあたるコラムを抜粋して勉強します。
コラム①、洲脇武志氏。p198より。

『隋書』の編纂

『隋書』は、唐の魏徴らによって編纂された。
現在の『隋書』は、本紀・列伝部分と、志の部分は、別々に企画・編纂された。
『旧唐書』(魏徴伝・令孤徳棻伝)、『史通』(古今正史篇)、『唐会要』、『隋書』の跋文(ばつぶん)によりながら、過程を追う。

唐の高祖の武徳四(六二一)年、令孤徳棻、「梁・陳・北斉はまだ記録があるが、大業年間の大乱をへた北周や隋の記録は残闕が多く、十数年すれば失われてしまうので、歴史書を編纂すべきです」と上奏した。
高祖は、武徳五(六二二)年、「隋史」は、中書令の封徳彝(ほうとくい)・中書舎人の顔師古に編纂を命じた。これは中断した。

貞観三(六二九)年、唐の太宗が、五代史(梁・陳・北斉・北周・隋)編纂の詔を下した。「隋史」は、秘書監の魏徴・前中書侍郎の顔師古・給事中の孔穎達(くようだつ)・著作郎の許敬宗らに編纂を命じ、尚書僕射の房玄齢を総監とした。
貞観十(六三六)年、「五代史」は完成した。「五代紀伝」とよばれ、各王朝の本紀と列伝のみ。

貞観十五(六四一)年、太宗は、礼部侍郎の令孤徳棻を監修として、左僕射の于志寧(うしねい)・太史令の李淳風・著作郎の韋安仁(いあんじん)・符璽郎の李延寿(りえんじゅ)らに、「五代志史」の編纂を命じた。さきに完成した「五代紀伝」の「志」部分である。
「五代史紀」は、高宗の顕慶(けんけい)元(六五六)年に完成し、太尉の長孫無忌によって上奏された。

「五代史志」は『隋書』に組み込まれた。現在、『隋書』の志をみると、隋以外の王朝につても項目が立てられており、王朝一代の事績のみを記す断代史の原則から外れているように見える。これは「五代史」の志として編纂されていたため。

令孤徳棻は、「北周や隋の記録」が失われることを危惧した。唐王朝は、高祖李淵が、隋の恭帝から禅譲を受けた。隋王朝は、高祖楊堅が、北周の静帝から禅譲を受けた。
唐にとって、北周と隋の正史を編纂すること、また同時期に存在していた梁・陳・北斉の正史を編纂することは、みずからの正統性確保のために必要不可欠であった。唐が国家として積極的に正史の編纂に取り組んだのは、こういった事情による。

『隋書』の編者

『隋書』(清 武英殿本)は、本紀・列伝部分は「魏徴」と記し、志の部分は「長孫無忌」と記している。これは代表者一人のみ。関わったのは、当時を代表する政治家・学者・史官であり、唐王朝が「五代史」の編纂に力を入れていたことが窺われる。

紀伝部分の魏徴について。
『隋書』列伝の巻頭にある序、巻末の論を執筆した。魏徴は、『梁書』・『陳書』・『北斉書』でも総論を担当している。
そもそも志だけでなく紀伝部分も「五代史」として企画・編纂されていた。
姚思廉が担当した『梁書』(巻六 本紀 敬帝)や、『陳書』(巻六 本紀 後主・巻七 皇后伝)に、「史臣 侍中 鄭国公 魏徴曰」とあり、李百薬の担当した『北斉書』に、「鄭文貞公 魏徴 総而論之曰」(巻八 幼主。ただし現行部分は『北史』によって補われている)とある。
魏徴は、太宗の「貞観の治」を支えた名臣。唐の名臣が、前代の歴史をどのように見ていたか、注目すべき人物。

志部分の李淳風について。
天文・律暦・五行の三志は、赤当時を代表する専門家である李淳風が一人で担当したと言われている。志は、分野別の歴史を記すものであって、紀伝部分以上に高い専門性が要求される。一人ではないとしても、李淳風に負うところは大きかった。
李淳風は、「五代史志」に先行して完成した『晋書』の志も担当している。

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『隋書』経籍志

コラム⑥、洲脇武志氏、p414。

隋の高祖が即位すると、秘書監の牛弘が全国に使者を派遣して、書籍を収集するよう上奏した。書物を献上したものには、一巻につき絹一匹を与えた。
煬帝も書籍収集に力を入れ、『隋大業正御書目録』が編纂された。『隋書』経籍志は、これに基づいたと考えられる。

唐もまた書籍を収集し、令孤徳棻・魏徴・虞世南(ぐせいなん)・顔師古が、秘書省において、図書の収集・整理にあたった。
貞観十五(六四一)年、「五代史志」編纂を命じた。『隋書』の志は、
礼儀志七巻・音楽志三巻・
律歴志三巻・天文志三巻・五行志二巻・
食貨志一巻・刑法志一巻・
百官志三巻・地理志三巻・
経籍志四巻で構成される。
『隋書』経籍志は、四部分類を採用している。各部の呼称が、(西晋の荀勗『中経新簿』の)「甲乙丙丁」から「経史子集」に変化している点、また部としては独立していないが、道教と仏教関係の書籍も収録しているのが特徴。
分類項目だけ見ると、『漢書』芸文志の影響は少ないように見えるが、『漢書』芸文志と同様に、各部・各項目末に、解題(小序)が設けられ、また冒頭部分にはこれまでの目録学の歴史を述べた「総序」が置かれている。

『隋書』経籍志は、書名・巻数・著者の順番で記載するが、ときおり、「梁有…巻。亡」と、梁の蔵書状況にも言及している。隋の蔵書やその学術思想だけではなく、ひろく梁の蔵書や南北朝時代の学術まで知ることができる。

四部分類方法は、清代に編纂された『四庫全書総目提要』まで継承された。わが国に現存する最古の漢籍目録『日本国見在書目録』にも影響を与えている。

ウィキペディアより:寛平3年(891年)ごろ藤原佐世が作成した日本最古の漢籍の分類目録であり、載せられた漢籍の多くは現存しない。漢籍目録としては『隋書』経籍志と『旧唐書』経籍志の中間の年代にあたり、また中国の目録に見えない書籍も含まれるため、中国史上も重視される。

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隋の術数・災異

コラム⑦、田中良明氏、p482。
陰陽・五行説や易理(えきり)をもちいて古代中国で行われた諸占術の総称を術数(じゅつすう)学という。同様の理論を用いながらも、さまざまな異常現象の原因を君主の不徳に求める災異説がある。

術数学

術数(または数術)は、古くは『漢書』芸文志 数術略に、「天文・暦譜・五行・蓍亀・雑占・形法」と分類される。
天文とは、恒星をいくつもの星宿(せいしゅく)(星座)に分類して、地上の土地や宮殿・官職などの性質を付与し、日月五星を観測して、異常な運行や流星・彗星などの不測の現象といった変異が起こればそれを占う。
暦譜(れきふ)は、日月五星の運行を計算して暦を作成し、日々の吉凶宜忌(ぎき)にふれた暦注を記していく占い。

『漢書』芸文志が図書整理のとき行った分類であり、当時の術数がこのように明確に細分化・分業化していたわけでなく、『漢書』芸文志 兵書略の陰陽の条にも、望気(ぼうき)などの諸占術を確認することができる。

図書分類は、『隋書』経籍志では、天文・歴数・五行に再整理され、多種多様な占書が、「五行」の一名のもとに著録されている。ほかに、「兵」の条にも、占風・望気の諸書が見られる。

ここには書かれていませんが、『隋書』経籍志の分類である「歴数」は、暦に関する本の分類のようで、占書はないようでした。


災異説と、五行志・天文志

前漢の董仲舒に始まるとされ、成帝期から流行した儒家思想の一種。日月蝕などの天文現象や、濃霧や季節外れの雨などの気象現象、または動植物や人間の異常行動を不可解なものとした。
前漢の中期に至って、一部の儒家は、それら異常現象を災異として捉えて天人の関係ものとに一元化を試みた。
かれらの営為は、『漢書』五行志に記されている。五行志のなかには、日月蝕などの諸災異は記されるものの、五惑星や流星などの天文災異は天文志に記されている。(なぜ五惑星や流星などの天文災異が、五行志に含まれないかというと)初期の災異説が、『春秋』の前例によって理論化されていたために、(『春秋』のなかには)五惑星の失行(異常運行)に関する前例を有さなかったため。

ついで劉向が洪範五行説による災異分類をおこなって日月五星の災異を「皇之不極」に配当したが、五惑星の失行に関する理論が、けっきょく天文占の域を脱し得なかった結果であろう。

『漢書』では(『春秋』の前例に従って)五行志に含められた日月のことが、なぜ五惑星にくっ付けられた(この文脈においては、五行志からの脱落・降格か)のか、書かれていないので分かりませんでした。

こうした天文志・五行志の関係は、以降も踏襲される。『魏書』天象志と『南斉書』天文志が、ほぼ時を同じくして、日月の変異をすべて(五惑星の異常な動きと同様に)天文志に収め、李淳風『晋書』の天文志・五行志もこの方針に従う。

その理由が知りたかったです。日月蝕は、もとは『春秋』に記され、術数学により占いができるものとして五行志に収められた。しかし、日月蝕がもつ占いの意義が後退して(?)五行志から押し出され、脱落・降格して、天文志に移されたという理解でしょうか。書かれていないので分かりませんでした。

五行志は、『漢書』以来、洪範五行分類を採用しており、『隋書』もこれに従う。210208

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