読書 > 元禄版『通俗三国志』をテキストデータに起こす

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はじめに

いま、有志のメンバーが複数人で、元禄版の『通俗三国志』の本文をテキスト入力して、ネットで公開しようという活動をしています。
『通俗三国志』へのアクセスのしやすさを向上し、またブログ等で引用しやすい環境を準備し、日本の三国文化を底上げしたいという思いからです。

『通俗三国志』とは何か、という解説も、メンバーのなかで準備をして頂ける予定です。もうちょい、お待ちください。


メンバー間で校正し、また利用しやすい公開方法も検討して、正式?に発表する予定です。入力の元となった『通俗三国志』の紙面の画像も、あわせて公開したいと考えており、準備しています。
とりあえず、ぼくが担当して入力したものを、バックアップがてら、置いておきます。くり返しますが、まだ校正してないので、わりに精度が怪しいです。

『通俗三国志』のテキスト入力という活動にご興味のある方は、私までご連絡を頂けますと幸いです。
メール:hirosatoh0906@yahoo.co.jp
ツイッター:@Hiro_Satoh

入力ルール(案)

◆改行について
・段落は、入力者の裁量による
 主に時間の経過、場面の転換などで段落を改める
・セリフで改行しない
 「」で、セリフの範囲を明示するのみ

◆記号の付与について
句読点は、入力者の裁量による
・名詞が列挙される場合、入力者の裁量で並列記号を入れる
 例:「盧植皇甫嵩朱雋三人を大将とし」

◆かな遣いについて
・読みやすさのため、カタカナをひらがなに直す
・コト、シテ、トキ、などは複数の文字に開く
・かなを漢字表記したものは、かなで入力
 例:「アマク」は、「あまねく」とする
・くり返し記号「〱」を原文どおり使う(KUではない)
 サイズを縦に2倍に拡大しなくてもよい
・「々」は漢字もしくは音読みの反復、「〱」はカナもしくは訓読みの反復
 意味が違うので、原文どおり入力;混同しない
・原文にない濁点は補わない
 例:「蟠りけれは」の読みは「わだかまりければ」だが「は」と入力

・漢文の引用でない箇所に、
 小さな送り仮名(添え字)がある場合は無視
 例:「其身を害せらる」とあるとき、
   「ノ」を補って「其の身を」と入力せず、「其身を害せらる」とする

古田島洋介『これならわかる漢文の送り仮名 ー入門から応用までー』(新典社選書46)のⅡ章の理論を参考に。


◆漢文について
・漢文は本文の訓読に従って書き下す
 漢文であれば、湖南文山が自作するとは考えにくく(←確認中)
 原典等からの引用かと思われるので、「」で囲む
・小見出し(章のタイトル)は、書き下すが、「」は不要
・原文の文字づかいと、今日の規範としての訓読法が異なる場合、
 原文のまま入力し、「ママ」という注記も不要
 例:「尭・舜も猶を病めり」は、「猶ほ」が今日の訓読の規範

◆誤り等の注記について
・湖南文山が誤訳している場合も、
 原文のまま入力
 例:底本の李卓吾本『三国演義』と固有名詞が異なる
   主語と目的語がひっくり返って、文意が変わっている
 (必要に応じて、作業者が欄外に注記するに留める)
・陳寿『三国志』等の正史に照らして、
 明らかに固有名詞等の表記がおかしい場合も、原文のまま入力
 (必要に応じて、作業者が欄外に注記するに留める)

◆その他、読みやすさに関して
・正字・旧字のうち、新字があるものは新字に改める
漢字の主語や副詞のあとに、漢字の連続しても、
 半角スペースを空けない(分かりにくいが、日本語表記の特性)
  例:「帝温徳殿に出御す」、「是直事にあらず」
・送り仮名の字数が、現代国語よりも少なくて読みにくいが、
 原文のまま入力(適宜、閲覧者に画像を参照して頂く)
・送り仮名の少なさから、ルビを付けないと
 漢字の読みが一通りに決まらない場合があるが、
 当面はルビをつけず入力(適宜、閲覧者に画像を参照して頂く)

以上、141026に暫定的に作成、随時更新します。

漢字の送り仮名について

ちょっと話し合いをしました。

@Hiro_Satoh はいう。元禄の『通俗三国志』は、送り仮名が少なくて、たびたび、前につんのめる感じです。
@yu_u_hiyoko さんはいう。元禄のも、……送り仮名は、現時点では補わないでそのまま翻字するルールでしたっけ。
@Hiro_Satoh はいう。いまは「原文に忠実に」とだけ決めており、ゆうさんのご意見に基づいて、決めたいと思ってます。日本文学の慣習では、翻字のとき、原文に添えられた送り仮名を入力しますか?試した感触では、送り仮名を入れると、入力速度・正確さ・読みやすさともに大幅に向上します。
@Hiro_Satoh はいう。ルビは面倒なので入力せず、同時に画像を開示して見せる方針です。しかし、送り仮名を入れないと、漢字の読みが1つに決まらず、ルビを入力しない弊害が大きくなります。私の好みでは、送り仮名を入れたいのですが、成果物の資料的価値が失われるのなら困るなと悩んでます。
@yu_u_hiyoko さんはいう。結局は、目的に応じて、という感じでしょうか。「原典に忠実に」を優先するのであれば、写本の状態のまま(例えば佐藤さんが挙げてる「あま子く」もそのまま)おこしますが、検索の便・読解の便という観点からなら、入れてもいいのではないかな、と思っています。
@Hiro_Satoh はいう。今回の目的は、専門家が論文に引用する際に使って頂くためではありません(専門家は結局、自分で打ち直すでしょうし)。ウエブ上で、広い層が『通俗三国志』を読むことができ、かつブログ等に引用できる環境を作ることです。大事なことなので、参加者全員で決めたいですね。
@Hiro_Satoh はいう。ぼくは、検索の便・読解の便を優先して、送り仮名を補ってもいいのかなと思っていますが…。ゆうさんのご意見はいかがですか?にゃもさん、教団さんにも聞いてみます。
@yu_u_hiyoko さんはいう。やはり読みやすく・利用しやすくというのが大事ですよね。私は佐藤さんと同意見です。

@Hiro_Satoh がおぎなう。例えば、元禄の本では、
「大ナリ」「兵モノヲ集アツメシム」「一人ノ翁に逢アフコノ翁…」「雨ヲ呼ヨヒ風を呼ノ術」とあるとき、
「大なり」「兵を集しむ」「一人の翁に逢。この翁…」「雨を呼、風を呼の術」と、あくまで原文の大文字のところだけを書き起こすのか、
「大ひなり」「兵ものを集(め)しむ」「一人の翁に逢ふ。この翁…」「雨を呼び、風を呼(ぶ)の術」と、右側の小文字の送り仮名を、入力者の裁量で取り込むかという問題です。
文末が「逢」で終わっていると、今日の感覚では、ぶつ切れの感じを受けます。
また「兵」だけだと、画像を見ないと「ヘイ」と読みますが、「兵もの」とあれば、「つはもの」と気づきます。厳密にいうと、送り仮名ではないかも知れませんが、読みを導くために、付けられています。
ぼくが、いま任意につけた「集(め)しむ」ですが、今日の送り仮名の規範である「め」を付けることで、「つどはしむ」「すだかしむ」でないことが、テキストだけで確定します。「すだかしむ」なんて、言わないでしょうけどw

「みづから」「おのづから」のように、送り仮名では解決しない問題があり、原文では「自ら」「自ら」という工夫がありますが、それは別の議論です。

また、「風を呼(ぶ)の術」の「ぶ」は、原文の送り仮名にもないので、補うのはダメかも知れませんが、おそらく省略なんだと思います。「風を呼の術」では、スワリが悪いです……とか。
原文に忠実か、適宜 補うのを許すか、それが問題なんです。

議論をつづけます。141028

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入力ルール策定の間に思ったこと

2014年10月の最終週は、『通俗三国志』の入力ルールについてツイッターで議論して、ぼくにとって見識が深まりました。せっかくなのでメモします。

送り仮名のつけかた

元禄版をテキスト起こしする過程で、いろんな疑問が湧いてきました。結果、「漢文は書き下す(訓読する)」という原則を立てることにしました。
元来、訓読は作成者の裁量でぶれます。訓読の妥当性も、確認しあえばいいです。これは、『通俗三国志』に限った話でなく、訓読の宿命です。

@AkaNisin さんはいう。たとえば、原文「孔明を招く不能」って場合は、「孔明を招く能はず」って処理するじゃないですか。漢文は書き下すってルールを決めたので。この「一人の翁に逢」も同じで「逢」を書き下して「逢ふ」、ということだと思いました。僕は「一人の翁に逢」「雨を呼、風を呼の術」のような用言の場合は、担当者の判断で仮名を送っていいと思います。でも「兵(つはもの)」みたく体言のルビはキリないのでそのままがいいんじゃないでしょうか。

しかし、和訳のはずが、読者に訓読を求めるなんて、珍妙な文体です。そして、「江戸時代の日本語を書き下す」という発想がなかっただけに、ちょっとこの作業に好奇心をくすぐられます。

「曰」ですけど、漢文は訓読するという原則に照らせば、「曰く」と、くの字を補ったほうが自然でしょうかね。
「告ン」は「告げん」としましょう。理由は、動詞の活用語尾だからです。(「読みやすいから」、「今日の小中学校で習う送り仮名に一致させるため」「省略されたであろう送り仮名を戻す」ではありませんが、そのほうが分かりやすければ、そう理解してください。結論は変わりません)
動詞の活用語尾の延長として、名詞化してつかう動詞にも、送り仮名を付けてもいいかと思います。「災(わさはい)」「慎(つゝしみ)」「兆(きざし)」は、いずれも名詞ですが、「災い」「慎み」「兆し」と。

「漢文は書き下す」原則に照らすと、「其人」「此時」は「其の人」「此の時」と助詞の「の」を補いましょうか。 「大に」「漫に」は、形容動詞から派生した副詞なので、活用語尾を補って「大いに」「漫りに」となりますかね。
漢文の訓読では「是」を「ここ」と読むときは「是」のままで、「これ」と読むときは「是れ」としたり、「相(あひ)」は、「相」「相ひ」の2通りがあったり、送り仮名が任意の場合があります。語彙ごとにルールが必要ですね。
漢文の訓読では、反復して読むときは「ニの字点を付すので、原文「諸ノ官」は「諸〻(々)の官」となります。「張譲等」を「張譲ら」と、漢字をひらがなに直す慣習のある字がありますね。これらも要ルール化ですね。

物語は「どこ」にあるか

20141101に考えたことです。
結論として、「明治四十五年の有朋堂の出版物を底本にしよう」というところに到るまでの思考プロセスです。

今週、検討して、元禄の版本を入力するにあたり、「こういう場合は、このように改変しよう」というルールが増えていきました。ついには、「こんなに改変して、電子テキストとして起こす価値があるのか」と、自問するに到りました。
複数人で作業するにあたり、ルールが多いと、入力方針の共有が大変ですし、校正も手直しも大変になります。入力の精度がブレまくっているテキストに、価値があるのか。というのも、悩ましいです。
もともと、
右脇のルビや送り仮名を込みで成立してるものを、右脇の送り仮名なしでテキスト化するという企画自体、無謀で、割り切りが求められるのかも知れません。だが果たして、「ウエブ上ではルビが振れない」という理由だけで、ざくざく改変して良いものか。
無謀なことを達成するためには、蛮勇が必要です。しかし、蛮勇を振るうに当たって、いちおう思考的な裏づけだけは、踏まえておきたい。
これに答えるため、物語は「どこ」にあるのか、を考えてみました。

『通俗三国志』を今回のように改変しても入力しても、意味と発音は変えてないはずです。ただ表記のルールが、違うだけです。送り仮名や行間を総動員した版木の画面で、情報を「複線」的に伝えるのが元禄版。「単線」的にしか表現できないのがウエブのテキスト。差異があるとしたら、これだけ。
『通俗三国志』という作品の本質が、「意味と発音」に宿ると考えるなら、今回の改変も可です。音読したら結果は同じだし、音読する人が想定した意味が(同音異義語などで、伝達に失敗する場合を除けば)聞き手にそのまま届きます。まったく本質に抵触しない。
しかし、『通俗三国志』の本質が、版木の画面にも宿るとするなら、今回の改変は不可・無意味です。タマシイのない蝋人形みたいなもんです。

ここで、今回のテキスト入力の目的は何だったか、に立ち返って、考えておきたいと思いました。
意味と発音は、既存の出版物で読めます。国会図書館のデータベースに、有朋堂のPDFが落ちてもいる。また、版木の画面もウエブ上で見ることができます。今回は、世に無いものを作るのでなく、世にあるものでもアクセス性を高めることが目的かと思います。では、どういう『通俗三国志』の側面を、どこに向けて、どのようにアクセスしやすくするか、という問題になります。
たとえば、蔵書の優れた図書館を日常的に利用できる環境があり、かつ資料を利用するリテラシーに恵まれた大学院生は、最初からターゲットではなかったはずです。ぼくらが関与しなくても、研究活動を、日々すすめていらっしゃる。
ぼくがテキストの利用を想定してる三国志ファンって、たとえ(都市部に住んでいれば、気軽に)図書館に行けて、既存の出版物で『通俗三国志』が読めても、もしくはネットで江戸の版本の画像(PDF)が見れても、これを見ようとも思わない人々ではないかと思います。というか、そういう人々にも『通俗三国志』にアクセスしてもらいたいと思い、ぼくは提案した気がします。

元禄の版本の画像か、それを忠実にテキスト化したものは、『通俗三国志』にまつわるハードルの高さを再確認させることはできても、普及には役立つとは思えない。一見すると元禄の版本は、きれいな楷書っぽいので油断しますが、独特のカナづかいは、いちどは専門の教育を受けた人にしか読めません。
元禄版を読めないどころか、日本の(近世~戦前の)古典文学を読んだ経験のない三国志ファンには、明治に活字化された有朋堂版だって、なお読みにくいのではないでしょうか。
有朋堂のページ画像に、国会図書館のデータベースを使って辿りつくのは、じつは難しい。というか、そもそも国会図書館のデータベースを見に行かない。さらに、それを見て「私宛の情報だ」と感じ、(動機づけがあり、慣れ・能力が伴って)読むことができる人は、ファンのなかで少ないのではないでしょうか。
加えて、当然ながら、国会図書館のデータベースにある有朋堂書店の画像は、なかの文字(物語の本文)が検索にヒットしませんし、ブログに引用できませんし。それなら、たとえ有朋堂版を単純にテキストに入力して、ウエブ上に掲示するだけでも、三国ファンの興味が広がることに供するのではないか、というのが、ぼくの感覚です。

もしも『通俗三国志』の正確な電子化なら、一太郎のルビ等の機能か、青空文庫のタグを使わないと、そもそも無理です。当面、意味と発音だけでも、ネットで容易に読める環境を提供する、というだけでも、三国文化を底上げするという価値があるのではないかと思います。
漢文脈の素養がない人に向けて、元禄版ならずとも、有朋堂版を「書き下す」という作業を、今回はぼくたちが代行する。というのが、今回の目的にかなう意義かなと思います。残念ながら、学者の役には立ちませんけど。

当面のルール

1週間ぐらい試行錯誤した結果、考えたんですけど、入力方針の整備がかなり難しそうなので、いちど、明治四十五年の有朋堂の本をテキストに起こす、としましょう。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/879080
有朋堂は図書館に行けば読めますが、同じ物がウエブ上で検索にヒットし、コピペできるという便宜を提供するだけでも、価値があるとぼくは思います。
有朋堂版は、用言の活用語尾などの送り仮名を、元禄版どおり行間に振る場合と、本文に挿入する場合と、混在するようです。この点は議論を踏まえ、本文に入れて読みやすさを図れば良いと思います。厳密性より普及が目的なので。

『通俗三国志』に付随して

2014年11月末までに李卓吾本『三国演義』を曹操の河北平定まで読み(訓読し)終えたい。12月末までに『通俗三国志』を曹操の河北平定までテキスト入力し終えたい。1月末の三国志フェスで、小冊子(内容は未定)を売りたい。仕事と違って、趣味は自分が自分に負荷と納期を迫るから、わりと苛酷です。

また、厳密よりは平易をめざした、李卓吾本『三国演義』の現代語訳もやりたいです。『通俗三国志』は、翻訳ではなくて抄訳だし、そもそも現代人には読みにくい。吉川三国志は独立した1つの作品。「日本人なら李卓吾本」を提唱するなら、平易な現代語訳がなくては。まだ言うだけですが、おいおいやります。

そんなこんなで、有朋堂版(明治四十五年)を底本とすることで、とりあえずの作業を進めることになりました。141102

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通俗三国志巻之一

天地を祭りて桃園に義を結ふ

熟〱邦家の興廃を視るに、古より今に至るまで、「治極まるときは則ち乱に入り、乱極まるときは則ち治に入る」。その理陰陽の消長、寒暑の往来せるが如し。此故に、「人君心を小むること兢々業々として、須臾も敢て焉を忘れず。尭舜も猶を病めり」とす。況や庸人をや。
漢の高祖三尺の剣を提て秦の乱を平げ玉ひしより哀帝の御時まて二百余年、天下よく治まりしに、王莽漫に位を簒て、海宇又大に乱る。然るを光武これを平げて、後漢の世を興し玉ひ、質帝・桓帝の御時まで已に二百年に及べり。

光武帝より十二代の天子を霊帝と申奉る。桓帝の譲を受て御年十二歳にて帝位に即玉ふ。此時、大将軍竇武・太傅陳蕃・司徒胡広三人、相共に天下の政務を摂て君を輔佐し奉る。
其のち内官に曹節・王甫と云ものあり。諂侫にして君を欺き漫に権柄を専にせしかは、竇武・陳蕃これを誅せんとして、計洩聞へ反て其身を害せらる。此より内官いよ〱志を得て放に朝綱を手に握れり。
建寧二年四月十五日、帝温徳殿に出御なりて已に御座に著んとし玉ふ時、俄に殿角より狂風をこりて、其長二十余丈の青蛇梁の上より飛下りて倚子の上に蟠りけれは、帝大に驚せ玉ひ、地の上に昏倒し玉ふ。殿中の騒動斜ならず。百官みな上を下へ反して武士を召てこれを拽出さんとするに、大蛇は消が如くに失て、雷の鳴ること天地を砕が如く、雹まじりの大雨夜半に至て静まり、洛陽城中の民家数千間崩れ壊れて死する者も多かりけり。
これをこそ希代の珍事かなと怪む所に、同き四年の二月に洛陽夥しく地震して、禁門・省垣こと〱く倒れ、海水溢れ涌て、登莱・沂密の海ちかき国は人家みな大波に捲れて、百姓死する者数を知ず。是直事にあらずとて改元ありて熹平と号す。此より辺境より〱謀反する者あり。
熹平五年又改めて光和と号す。諸処に怪異の事ありて雌鶏化して雄となる。六月朔日、十余丈の黒気地より起て飛て温徳殿に入。秋七月、玉堂の内に虹あらはれて、五原山の岸こと〱く崩る。其外種々の妖ことども数を知ず起りければ、是まことに一人の慎、天下の大事ならんとて、勅して群臣を金商門に集め、災を除く術を問玉ふ。
時に光録大夫楊賜・議郎蔡邕二人表を上て申けるは、「近年打つゝき怪異の事共起り候は、皆是亡国の兆なり。天なを漢朝を捨す、変を示して君臣を戒玉ふ。古より、『天子怪を見るときは則ち徳を修む』と云り。今内官漫に権を執て、天下の禍を成。早く之を除玉はゝ、天災自ら消すべし」と、密に奏聞しければ、其事忽に洩て、楊賜・蔡邕等内官の為に殺れんとせしを、呂強と云もの蔡邕か才を惜み命を乞て助てけり。
其後、内官に張譲・趙忠・封諝・段珪・曹節・侯覧・蹇碩・程曠・夏輝・郭勝と云もの十人、みな君に諂ひ事て専天下の政を掌る。此ゆへに之を十常侍と号して朝廷敬ひ重んずること師父の如く、諸の官人その門下に伺候して阿り服せんことを欲す。

爰に中平元年甲子の歳、鉅鹿郡に張角と云ものあり。二人の弟を張梁・張宝と云り。元来不第の秀才たりけるが、或日山中に入て薬を採り、一人の翁に逢。この翁眼の内碧にして、顔は童子の如く、手に藜の杖を携へ、張角を呼で怪き洞の中に到り、三巻の書を授て申けるは、「これを『太平要術』と名づく。汝よく此書を読て唯つねに道を行て善を施し、天に代りて普く世の人を救んことを思へ。若悪心を起しなば必ず身を亡へきぞ」と云けれは、張角再拝して其の名を問に、我は南華老仙なりと答て、一陣の風ふき起り行方しらず飛去にけり。張角この書を読て昼夜怠ず学ひ、遂に雨を呼風を呼の術を得て自ら太平道人と号す。
其ころ天下大に疫癘行はれて死する人多かりければ、張角あまねく符水を施すに験を得ずと云ものなく、尽く張角が座前に来て自ら其過を懺悔し皆立ところに平復す。張角これより大賢良師と号し五百余人の第子を四方に分て病を救しめ、三十六の方を立て大小を分ち、皆将軍の名を以て方に名づく。此ゆへに大方を行もの一万余人、小方を行もの六七千人、みな一部の長を立て、「蒼天已に死す、黄夫当に立つべし、歳甲子に在て、天下大吉」と云はやらせ、「甲子」の二字を書て遍く施与へ、郡県・市鎮・宮観・寺院こと〱く之を推すと云こと無。
その後、青州・幽州・徐州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の間には、家々に「大賢良師張角」と書て敬ひ貴こと鬼神を礼するが如なりけれは、張角心の内に非分の望を発し、先大方の馬元義と云ものに金銀を持せ、禁裏に入て密に十常侍か心を結しめ、封諝・徐奉等に内通のことを頼み、二人の弟張梁・張宝を呼で申けるは、「至て得がたきは民の心なり。今民の心われに皈す。若この時に乗て天下を取ずんは、万人の望を失ん。ねかはくは二人の本意を聞ん」。張梁・張宝「これ元より望ところ也」と云ければ、張角大に喜び、一様に黄なる旗を造り、「三月五日に一同に事を起ん」とて、唐州と云弟子に書簡を持せ禁裏に入て、内々たのみ置たる封諝・徐奉等に告知さしむるに、唐州にはかに心を変し、直ちに奉行所に行て事の子細を訴へければ、帝大に驚き玉ひ、大将軍何進に命してまづ馬元義を生取て首を刎させ、内応せんとしたる者共千余人を獄に下し玉ふ。
張角事を現れたるを見て速に兵を興し、自ら天公将軍と号し張梁を地公将軍と号し張宝を人公将軍と号し、百姓を集めて申けるは、「今漢の運気すてに尽て、大聖人世に出たり。汝等宜く天に順て太平を楽め」と云けれは、四方の愚民われも〱と来り集り、皆黄なる絹を以て其頭を包けれは、世の人これを黄巾の賊と号す。張角すてに四五十万の勢を得て、在々所々に火を放ち人の財宝を掠め取。これに依て地頭・官吏も防へき様なく尽く逃かくれて、其騒動斜ならず。
大将軍何進これを誅せんとて帝に奏し、諸所守護職に命して軍勢を催促せしめ、盧植・皇甫嵩・朱雋三人を大将とし三手に分て追討せしむ。
此時張角が一軍幽州・燕州の界を手痛く犯しけれは、太守劉焉これを防ん為に校尉鄒靖と云ものに命じ、諸処に高榜を立て忠義の兵を集しむ。

其ころ涿県の楼桑村と云ところに一人の英雄あり。此人つねに言少して礼を以て人に下り、喜怒色に形さず、天下の名ある人を友として、其志きはめて大なり。身の長七尺五寸、両の耳肩に垂、左右の手膝を過、よく目を以て其耳を顧る。漢の中山靖王劉勝の後胤にして景帝の玄孫なり。劉備、字は玄徳。父を劉弘と云しが幼して喪しかば母に事て孝を尽し、自ら履を售、蓆を織て家業とす。舎の東南の方に大なる桑の木あり。高さ五丈あまりにして遥に望は重々として車蓋の如し。往来の人この木を見ては尋常にあらずと云。李定と云人これを見て、「この舎より必ず貴人を出さん」と云へり。
時に年二十八歳なりけるが天下に黄巾の賊蜂起して国々より忠義の士を招と聞て、自ら出て州郡に立たる高榜を読、長嘆して帰んとするに、後より大なる声を揚て、「大丈夫の士、国の為に力を出さずして何ことをか長嘆するぞ」と詞を掛る者あり。玄徳後を屹と見れば、その人身の長八尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚、声雷の如く勢ひ奔馬に似たり。乃ち立回てその名を問は、答て曰、「某は張飛、字は翼徳と云もの也。世々涿郡に住居して少の田地を持、酒を売、猪を屠て家業とし、専ら名ある人と相交る。今この処を過るに、足下の高榜の下にて長嘆し玉ふを見る。是いかなる故ぞ」。玄徳の曰、「われ今は流落たれども本は漢室の宗族にて、劉備、字は玄徳と云もの也。近ころ黄巾の賊しきりに州郡を掠劫す。我これを平げて社稷を扶んと思へども、力の足さるを恨る也」。張飛か曰、「よくも我心に合へり。其義ならば、我に相従ふ者四五人あり。共に志を合せて大儀の計略を成ん」とて、伴て玄徳の家に来り酒を飲て相議する所に、又一人の男きたり。
一両の車を酒店の門外に留め置、内に入て桑の木の下に坐し家主を呼て酒を買。玄徳その体を見れば、身の長九尺五寸、髯の長さ一尺八寸、面は重棗の如く、唇は抹朱の如し。丹鳳の眼、臥蠶の眉、相㒵堂々、威風凛々たりしかは、迎へ入て名を問に、答て曰、「われは河東解良の人にて関羽、字は雲長、始め寿長と云り。先年郷の豪雄勢ひに依て我を侮しゆへ、我之を殺して江湖の間に逃れ、流浪すること五六年なり。今黄巾の賊蜂起して、国々の守護英雄の士を招く。我この故に来りたり」。玄徳大に喜び、我志の程を詳に語りけれは、関羽「天の助なり」と喜び、共に張飛が家に行て義兵を起さんことを議し、「三人の内に玄徳年長じたれは」とて、二人再拝して兄とす。
張飛が曰、「わが宅の後なる桃の園幸に花の盛なり。明日白馬を宰て天を祭り烏牛を殺して地を祭り、三人生死の交を結ばんは如何に」。玄徳・関羽しかるべしと同じ、次の日桃の園に出て、金紙・銀銭を列ね牛馬を殺して天地を祭り共に再拝して誓て曰、「いま此三人、姓氏異なりと云ども結んで兄弟となり、心を合せ力を協せて漢室を扶け、上は国家に報し下は万民を救べし。同年同月同日に生ることを望まず、願くは同年同月同日に死ん。皇天・后土この心を照鑑し、若義に背き恩を忘は、天人共に誅戮すべし」とて、祭り了て、玄徳を兄とし関羽を次とし張飛を其次とし、共に玄徳の母を拝して、其のち郷の内にて腕立する若者共を集、桃の園にて酒宴し三百余人に及ひければ、「明日より旗を挙ん」と議するに、「馬一匹も無れは如何せん」と案ずる所に、「誰とは知ず、数十人打つれて多く馬を引せたる人人、この処へ向ひ来る」と申す。玄徳の曰、「此天われを助る也」とて、共に出て之を見れは、中山の大商人に張世平・蘇双と云もの二人なり。毎年北国に行て馬を商ひけるが、賊徒路を塞で往来を悩しけるゆへ、空く故郷に回るなり。玄徳迎へ入て酒宴をなし、逆賊を退治して漢室を助るの由を語りけれは、張世平・蘇双その志を感し、駿馬五十匹・金銀五百両・鉄一千斤を贈る。玄徳これを受て良巧に二振の剣を打せ、関羽は重さ八十二斤に青龍の偃月刀を作り「冷艶鋸」と名つく。張飛は一丈八尺の蛇矛を造りて甲盔まても一斉に備りければ、「さらば時を廻さず打立」とて、其勢五百余騎にて幽州に到る。
太守劉焉大に喜ひ、其姓名を問に、「漢室の宗親なり」とて家の系緒を語られければ、劉焉甚だ敬ひ相親むこと叔姪の如し。時に黄巾の賊徒大方程遠志と云もの五万余騎にて涿郡を犯しければ、太守劉焉乃ち校尉鄒靖を太将とし玄徳を先陣として打向て戦はしむ。

141026に初回入力完了。10枚目まで。


劉玄徳 黄巾の賊を破る

以下、入力をつづけます。

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