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年表「五胡十六国時代の洛陽」

このサイトで初めて、異民族の話を扱います。変な導入をします。すなわち、『晋書』や『宋書』から、「洛陽」という言葉が出てくる場所を抜き、年表を作ります。
意味もなく、こんなことを試みたりはしません(笑)
理解は得られなくても、いちおうぼくなりの興味です。

洛陽は守備に向かない。
「四方には敵対する勢力などいない。だから守備の必要はない。むしろ、朝貢してくる人のために、交通の便がいい場所に、都を置いてやろう。洛陽に都しよう!」
なんて言っていたのは、後漢です。
そう。洛陽は漢民族が脳内で作り上げた、完璧な都なのです。この土地が、いつどの国に帰属して、どんな扱いを受けたのか、見てみようと思いました。

五胡十六国時代の主な特徴としては、長安のある関中と、鄴のある山東に、大勢力が入れ替わり立った。洛陽はその間で挟まれて、フワフワと浮いていた。浮きっぷりから、時代の特徴が、何か見えてくるかも?


ここから見えてくるのは、東晋は洛陽を目的地として行動するけれども、五胡は洛陽をツイデに手に入れる程度だということ。
東晋が洛陽を得たら、必ずやることがある。西晋の皇帝たちの陵墓を、修復しなければならない。
だけど五胡から見れば、別に意味のない土地である。いや、「他の土地と比べて、特別な意味がない」という方が正確かな。べつに忌み嫌って、積極的に手放したいのではない。ただし守りにくい。
「資源が豊かな必争の地」
だったら、五胡が見逃すわけがない。違う。こだわりがないから、粘らない。華北でだいたい優勢になった国が、目まぐるしくパスをする。洛陽は、漢族だけに価値を持つ、脳内の都なのだ。

そして、この年表から見事に言えるのは、
「五胡十六国は、いちども洛陽に遷都していない
ということです。
三崎良章氏によれば、五胡十六国の遷都の回数は、全部で45回なんだそうで。これだけ都を移せば、一度くらい洛陽に入っても良さそうなのに、皆無!
だから、東晋がちゃっかり居座ることも、可能になった。
最後に。
493年に北魏が洛陽に遷都する歴史的意義に、震えるほど着目してみたくなるのでした。先賢の考察の蓄積が多かろう。読んでみなければね。