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吉川忠夫氏の文体に憧れた

吉川忠夫氏の本を読んでいます。
ぼくが気になっているのは、『劉裕』『侯景の乱始末記』など。なぜ気になるか。歴史の話を書くスタイルとして、マネを出来ないかと思ったからです。
ぼくがこのサイトのタイトルにしている、「いつか書きたい『三国志』」とは、このスタイルじゃないかと思ったのです。

吉川氏の文体はどんなか

吉川氏の本の特徴を挙げます。
歴史書の翻訳よりは、内容が取捨選択されている。通史的な解説本よりは、ドラマチックである。学術論文のような、1つの結論への収束は見られず、心地よい余韻がある。小説よりは、解説の骨が太くて、論文の引用もあり、史実の理解が助けられる。
初めに読んだときは、
「なんじゃこりゃ?何をやりたい本なんだ?」
と思いました。ぼくが不完全燃焼になったのは、上でそれぞれ否定した、既知のカテゴリに当てはめようとした結果です。しかし、どれとも違う。

どちらも中公新書から出ています。『劉裕』は、はじめ別の形で出版されて、それが新書に再録されたようですが。
ぼくは新書が好きです。小説より、理屈っぽい。 論文より、敷居が低い。軽くて安い。雑誌より、系統立っている。
大多数の新書に比べると、吉川氏の『劉裕』『侯景の乱始末記』は、ちょっと小説的だ。でも小説か新書かと2択するなら、まあ新書というメディアに載っているほうが、収まりが良い。

感涙したい人にとって、吉川氏の本は、味わいが薄い。作者が解説しすぎである。しかし、散文詩のように言葉を並べるだけが、歴史を感じ取る唯一の方法ではあるまい。論理的に、淡々と、史実とその解釈を並べるだけでも、泣けるときは泣ける(笑)
いや、泣くとかじゃなくて、もっと人の営みの底流にあるものを、感じ取ることが出来るのです。このあたりは、吉川氏の本をお手にとって頂かないと、ぼくにはうまく伝えられないのですが。

書き下し文の美

吉川氏の本のもう1つの特徴は、書き下し文が分かりやすいことです。まるで、吉川氏に書き下してもらうために、漢籍の原文が書かれたように、錯覚するほど。
もともと書き下しなんて、ムリヤリな翻訳作業だから、日本の男性がスカートを履いているような気持ち悪さが残るのです。いちおう裸じゃないが、違和感がアリアリです。これと同じで、余人が書き下すと、いちおう文型と字訓だけは分かるが、どうにも内容がスッと頭に入ってこない。

中国史の話を、現代日本人にリアリティを抱いて読んでもらうには、ところどころ書き下し文が入っていなくちゃ。決め台詞こそ、書き下し文で。
『蒼天航路』で、登場人物が「ボス猿」と口走った。「ボスなんて洋語を使っちゃったよ」と焦ったものです。しかし厳密に言えば、古代中国人が日本語を使っている時点で、おかしいわけで。
厳密な時代考証をしたら・・・とかではなく、ここはもう雰囲気の問題で、書き下し文はのウデは重要(笑)

ぼくの書きたいもの

これまで書いた、吉川氏の本の特徴に準えるかたちで、ぼくがやりたいことと、実現のために必要なことをまとめておきます。

吉川氏のように、複数の本紀と列伝のあいだを自由に歩き回り、エピソードに花を添える部分を、親切に抜き出したい。コツコツと史料を読み続けるのは必須。かつ、面白いと思った部分を探しやすく整理する。自分なりの解釈を1つでも多く書き残す。
吉川氏は参考文献に、わりにスタンダードな論文や概説書を挙げています。研究論文を書くんじゃないから、個別論で批判的になりすぎなくてもいい。しかし、マクロな時代への視点を、論文から得続けたい。着想は、論文の中にあり。
素人の下手な修辞だけで勝負せず、きちんとテーマを込める。すなわち、「ぼくが思いますに、この人物は、こういう性格だった」という主張です。小説の執筆経験もないくせに、北方謙三氏のような迫力を表面的にマネると、小学生が先生のウケを狙った作文になるんだ。
ぼくは、絶妙な味わいを入出力できる人間ではない。せいぜい理屈で物事を捉えるのが精一杯です。だったら、「感動できる」は無理でも、「納得できる」描写を目指してみようと思うのです。

荒地開拓から農業へ

書きたいことについて、もう1つ。
新書に載っても堪えられるレベルで、史実に詳しくない人に分かる文章を書きたい。

このサイトの文章は、新書に程遠い。程遠志である。
ぼくがこのサイトでやっているのは、荒野の開拓です。形振り構わず、ツルハシを振り回しているだけ。「読んで頂く」よりも、「書く」ことに目的が傾きまくっている。史料を訳すにしても、通読せずに、頭から訳し始める。全体のプロットなど皆無なので、途中で言ってることが変わる(笑)
少年漫画で「戦闘のなかで成長する」という話が、けっこうあります。初めにこれを読んだときは、
「もっと本番前に、家で練習してこいよ」
と思ったものでした。
しかし、「キーボードを叩きながら変化する」を、最近よく体験している。パソコンのプリンタは、完成したデータを印字するだけ。しかし人が書くという行為は、プリンタとは違うようです。書く自体が、開墾だ。

新書のレベルとは、開墾が終わった土地で、農業することに似てる気がする。畑の真ん中でツルハシを振り回したら、作物が枯れる。そうじゃなく、開墾に費やした労力を、ヒトサマに食べて頂けるかたち(作物)に変換する仕事なんじゃないかと。そちらの練習もしたいなあ。
リアルに会っている人にこのページを見てもらっても、
「好きなのは分かったが、内容はよく分からなかった」
と必ず言われる(笑)すなわち、
「あなたがツルハシを真剣に振るっているのは、よく分かった。でもそこを開拓しても、農地になるかどうか分からないじゃん。加えて、下手に近づいたら、あなたのツルハシが当たって危ない」
と言われているのだと思います。本意や不本意という次元ではなく、ぼくがやっているのが、正にそういうことだから、コメントはその通りだと思うのです。
でも、自分の知識欲に対して開墾して、それだけして死んだら、きっと後悔すると思う(笑)

おわりに

自分への宿題が、もう1つあった。吉川氏に倣うためには、書き下し文の練習も。日本の文語に、ひどくお留守だから、言い回しのボキャブラリを増やしたいと思っています。

・・・なんてことを、吉川忠夫氏の本を読んで感じました。
サイトの名前がダサいので、何度か変えようと思いましたが、いくらか外部にリンクも頂いているし、07年3月末にページを開設してから、ほぼ毎日のように「いつか書きたい」を見ることで、自分自身が動かされている側面もあるので、、タイトルはこのままです。自己暗示だ。ちょっと違うけれど、ベッドとして最悪な「薪」や、おかずとして最低な「胆」と同じですね。091013