『後漢書』は、洛陽じゃなく地方を読もう
安能務『三国演義』冒頭で、筆者による時代解説が面白かったので、
抜書き&考察しておきます。
安能務『三国演義』第一巻1998講談社
メモしたいポイント
「なぜ三国は鼎立したのか?」という問題提起に対して、
安能氏は、
後漢が撒いたタネを、次のように解説してました。
党錮の禁で、有力な朝臣が地方に避難した
⇒地方で、小勢力が多く形成された
⇒地方勢力は、後漢末の群雄や三国による、一面支配を阻害
⇒三国は徴兵人口が少なく、天下統一の戦さを起こせず
劉表が荊州刺史になったとき、50数名の地方勢力に阻まれた。劉表は、50数名を騙して一網打尽した。これは有名な話です。
このとき劉表の入国を拒んだのは、誰だったのか。安能氏曰く、後漢の腐敗に嫌気が差し、地方に下っていた朝臣たちだと。
そうか、そこにルーツを持つのか!
後漢に味方せず、群雄に味方せず、三国のいずれにも味方せず。塢や砦で自立する、御山の大将たちです。
教科書では、三国鼎立の理由が分からない
党錮の禁を食らった人たちが、どこに行ったのか。どうやって三国分裂に関わったのか。
ぼくはこれが分からず、学術論文をいくらか読んだが、どうもモヤモヤしたままだった。
例えば、教科書的に語られるのは、
後漢が作る歪んだ秩序に嫌気がさした清流な知識人たちは、
⇒独自の査定基準で、人物評価を始めた(月旦)
⇒名士の人脈=名声のネットワークを形成
⇒曹氏の王朝に九品中正を認めさせ、魏晋南北朝の貴族へ
という話が一般的でしょうか。
だが、この歴史観では『後漢書』を楽しく読めない。
なぜなら後漢末の政治腐敗が、どうやって「群雄割拠」や「三国鼎立」につながるか、直感的にイメージできないから。
確認します。やがて名士になる人たちは、
「後漢の腐敗に怒って、新たな価値観を立ち上げた」
わけでしょ。
つまり、洛陽の狭い屋敷の中で、国家の秩序とはどうあるべきか?という、机上の学説をぶつけているだけだ。この議論がめちゃめちゃ盛り上がったとして、 どうして後漢の国土が割れるの?
確かに、
外戚が偏った権力を持ったり、宦官が私利を貪っているのは「義憤に耐えない」だろうさ。だがそれなら、袁紹が宦官を皆殺しにした時点で、議論も抗争も終わりでいいじゃん。一夜にして天下泰平!
『後漢書』で読むべきは、地方の記述だった
後漢を総括して「外戚と宦官と官僚の三つ巴」と言います。
このまとめ方の特徴は、視点が洛陽にだけ集中してしまうこと。外戚も宦官も官僚も、おまけに後漢皇帝も、漏れなく洛陽にいるから。
しかし忘れてはいけないのは、
ウォーリーのいない絵をいくら見つめても、ウォーリーは見つからないって事実。国土分裂の兆候は、きっと安能氏の言ったように地方に蓄積されている。中央の政争や、変人の奇行ばかり追いかけても、三国前史が分かるワケないんだ。
少なくともぼくは、洛陽だけに関心を払って『後漢書』を読んだものの、三国前史は描けなかった。
例えます。
後漢の洛陽で政争があるたびに、塗れたタオルを振り回すように、国土を分裂させるタネを撒き散らしている図を想像して下さい。
『後漢書』で中央政争ばかり見るのは、タオルを持っている手元を注視するに同じ。手元は忙しく回っているが、総体で大きな変化はないし、だんだん渇く=つまらなくなるだけ。
しかし視点を広げ、水飛沫に着目したら、発見が多いかも知れない。あんな大きさの粒が、こっちの方向に飛んで、やがて水溜りを形成しそうだ・・・とか。
揚州と荊州と益州は、どんな風土が形成されているのかな?と。
曹操が生まれる唐突感、地方へのシフト
曹操が生まれたのは155年。孫堅が生まれたのは、155年か156年らしい。
後漢を時系列で語っているとします。宮城谷『三国志』でも同じ。この年の項で、桓帝が梁冀に押さえつけられる「つまらない話」が、曹操&孫堅の誕生が挿入されることで、一気に面白くなる。
曹操と桓帝が、異世界に住んでいるような隔絶感を引きずりながらも、物語は「三国志らしく」なる。
このギャップの原因は何か?
キャラクターのスター性は、もちろんある。それだけじゃなく、視線が中央から地方にシフトするからじゃないか。
だったら、もっと早い段階から(曹操の登場を待たずして)地方をたくさん語れば、後漢の歴史は面白くなるんじゃないか? 史料的な制約はあるが、出来るだけ雄弁に!
中央の政争についても、地方への波及効果を、ややムリヤリでもいいから意味づけしてやれば、『後漢書』は楽しい。
もう1回『後漢書』を借りてきて、読み直そうかな。
安能氏の『演義』の翻訳は・・・まあぼちぼちで。100118