表紙 > 読書録 > 満田剛「劉表政権について-漢魏交代期の荊州と交州」より

交州を欲した、劉表の野心

満田剛先生の論文を読みました。
三国志街道というイベントで、お世話になっている先生です。

とても面白かったです。
劉表は、3国の全てと敵対した人です。
『三国志』のどこを読んでも、好意的な記述が見えない。
「自守の賊」と言われる。だが、ほんとうにそれだけか?
劉表を発見するために、
散らばった記述をつなぎ合わせた論文でした。

自分の復習用ですが、論文のメモ

気になった記述を、箇条書いておきます。

○劉表を荊州牧にしたのは、名士に圧迫された董卓か。

ぼくにとっては「劉表を任じた主体が分からない」という事実のほうが、興味を引かれる。分からないから、この論文で推測がなされているわけで。


○『後漢書』で劉表は、献帝を支援した。『三国志』にない。
 曹操の献帝への忠節を際立たせるため、省かれたか。

○198年、長沙太守の張羨が反乱。官渡に参入できず。
 黒幕は、孫堅の遺体を収容した桓階。

○196年、交州刺史の朱符が死去。朱儁の子か。
 194年の豫章太守は、朱晧。朱儁の子である。
 東南で、朱氏の勢力が強かった。孫策に滅ぼされたが。

○曹操は、劉璋を動かして、劉表を牽制。使者を送ったが、未遂。

敵の敵は、味方。曹操は、劉表が敵。だから劉璋は味方。
ぼくは、思い至りました。赤壁のちょっと前、劉璋は、曹操の荊州占領を支持した。劉璋が大人しかった理由は、曹操とやんわり同盟していたからか! 怖気づいていたからではない。
曹操の敵は、張魯。劉璋の敵も張魯。つながった。
周瑜や劉備が益州を狙ったのは、曹操の与党・劉璋を削ぐため。おお!


○劉表が荊州を平定するのは、200年。張羨の子を討ったとき。
 以後、文化政策に重点がうつる。

思っていたより、ずっと遅い。劉備が招かれたのは、劉表が荊州を平定した直後だね。


○『傅子』は、西晋の傅玄が書いた。
 傅玄は、『魏書』の王沈から評価された。曹操万歳のバイアス。

蒼梧太守の呉巨は、劉表が任命した。史璜の後任。

劉備が頼ろうとした人は、劉表の役人でした。

○歩隲伝いわく。交州から1万人を長沙に連れてきた。
 交州から長沙へのルートがある。劉表が交州進出を狙える。

○孫策も、交州を狙った。呂範が桂陽、程普が零陵の太守を領した。
 孫策は孫輔を、交州刺史にした。

○劉表のいちばんの誤算は、曹操が袁紹に圧勝したこと。
 曹操の圧勝は誰にも予想できず、劉表を責めてはいけない。
○史書のなかで劉表は、悪い評価ばかり。
 賈詡が「平和なら、三公だ」と言ったのが唯一のマシ。

おわりに

論文のタイトルが、劉表と題しつつ「交州」と謳っている。
すでにここからして、平凡な認識を覆そうという野心が見えます。

平凡な認識とは「劉表=荊州の引きこもり」

劉表のように、史書に総スカンを食らった人は、妄想しがいがある。
董卓や袁術なんかが、この類ですね。
ぼくも、袁術について、いろいろ考えてみたい。100405