おもしろい部分の抜粋
満田剛先生から、直接手渡しで買った本です。
『「三国志」万華鏡 英雄たちの実像』2008年
とくに面白かった、6章と7章をメモします。
6章:呉の隠れた名将-朱然とその一族
朱氏は、あまり有名でなく「いぶし銀」の一族だ。だが朱然の墓が見つかって、大いに注目された。
そのギャップを面白がるとともに、朱氏について紹介した章。
朱治は、孫翊を諌めた。息子を曹操に送ろうとした、孫賁(孫権の従兄)を説得した。224年に69歳で亡くなった。
朱然は、朱治の姉の子。周泰のいうことを聞かなかった。
荊州方面軍の後継者として、呂蒙に指名された。220年、朱然は江陵に着任した。
これより前、魯粛の後任は、はじめ厳畯だった。厳畯は、徐州彭城の出身。張昭と同じ故郷。諸葛瑾や歩隲と名声が並んだ。諸葛亮から、高く評価された。
呂蒙は、ただの軍人。士大夫のついてこない。呂蒙より、名士の厳畯のほうが、孫権と呂蒙にとって都合よし。
周瑜と魯粛は、江陵に着任した。魯粛、呂蒙、陸遜は、陸口に着任した。いちど着任すると、荊州以外に出撃することが少ない。
220年:呂蒙のあと、朱然が江陵に着任
221年:荊州の武昌が都となり、孫権が荊州を直轄
222年:劉備が攻めてきて、陸遜が大都督
223年:陸遜は、輔国将軍、荊州牧
229年:建業に遷都され、陸遜が西陵から武昌に移る
陸遜は、豫章郡、鄱陽郡、廬陵郡を統治
陸遜は、荊州にいるまま丞相となる
「呉書九」は、まだまだ探求せねばならん。
朱然の子は、朱績。
孫綝に混乱させられた呉を、蜀に売り渡そうとした。
7章:歴史家の明と暗-王沈、韋昭、そして陳寿
『魏書』は、曹叡が命じたが未完成。王沈が1人で完成させた。太原の王氏で、曹髦を裏切った。
王沈は、詔勅の原案を書く人。魏晋革命のための作戦会議で、中心的役割。266年5月、宰相の仕事を任されようとした矢先、死んだ。羊祜、荀勖、裴秀、賈充らの功臣の、さらに中心にいたのが王沈。王沈が死なねば、西晋の派閥争いもなかったかも知れない。
王沈は歴史を書いた。だが権力を持ち、弾圧する側に回ったから、無事に死ねた。
『呉書』は252年に諸葛恪が命じた。
韋昭は、鼓吹曲を書いた。自国の正統を強調するため、事実を誇張する。だが、他の歴史書と矛盾してはいけない。鼓吹曲をつくるには、歴史の知識が必要だ。
韋昭は、「後漢を受け継いだ国家」として呉国の正統性を主張し、将来は呉国が全土を統一することを前提とする、予定調和的歴史観を示そうとした。一種の予言書である。
ただ、初代丞相の孫邵の列伝を立てないのは、偏っている。韋昭は、張温の派閥に属した。張温と孫邵は、対立していた。
陳寿は『晋書』によれば、荀勖に気分を害された。
王沈も韋昭も陳寿も、同時代史を書いた。権力者本人、子や孫、恩恵をこうむった人に、配慮せねばいけなかった。毀誉褒貶された。
メモは以上です。
史学史に興味があるので、満田先生の論文を読みます。100405