程昱伝いわく「兗州尚未安集」
曹操は、いちど兗州をあきらめた。これをいいます。
まずは、地図をご覧ください。
196年、豫州の許にうつってから、兗州を通らずに戦った。
「兗州を足場に、兗州から領土拡大する」なんてことは、しない。
兗州は、地図のなかでピンク。青い線は、黄河。
曹操の軍事行動の年表
大学で習いました。「年表をつくると、なにかに気づく!」
そういうわけで、曹操の軍事行動を、年表にしてみました。
曹操が、いかに兗州を支配できていないか、分かります。
192年12月:済北で、青州黄巾をくだす
193年1月:袁術を封丘でやぶり、兗州をまもる
193年夏:曹嵩が殺されたので、徐州に進攻
194年夏:徐州で陳宮がそむき、呂布と泥沼開始
195年秋:呂布を兗州から追い出し、諸県を平定
195年10月:兗州牧となる
195年12月:雍丘を包囲し、張邈をくだす
196年2月:汝南と潁川の黄巾を攻める
曹操が兗州をたもったのは、193年の上半期だけ?
192年、青州黄巾は、兗州刺史の劉岱を殺した。曹操が鎮めた。
年表は、雄弁に語ります。
袁術は、曹操が黄巾をくだした翌月に、兗州にチョッカイを出している。進軍にかかる時間を考えれば、誤差の範囲だ。曹操があと1ヶ月遅ければ、兗州は袁術がおさえていたかも?
「袁術は、劉表に追い出された。兵站すら整えず、むやみに北上した」という評価は、的外れです。兗州をねらっていたのですよ。兵は拙速をとうとぶので、袁術はあわてて北上したのです。すべて裏目!
渡邉義浩氏は鮑信を「股肱」と評価し、兗州を曹操の本拠と考える。
だが、そのわりに曹操は、すぐ徐州に突っこむ。
曹操の徐州突撃は、領地を広げるための、群雄としての戦いではない。袁紹の部将でしかなく、転戦する将軍として働いている。
徐州を攻めているうち、陳宮ら地元の士大夫が、張邈とそむく。
張邈と張超を追いだした195年12月まで、兗州は領地でない。
やっと張邈を降したら、献帝の東遷を聞きつけ、すぐに豫州に南下!
たった2ヵ月後である。
豫州の許に行ったきり、曹操は兗州に帰ってこない。
「兗州は、曹操の本拠地」とは呼べない。称号だけは、兗州牧だが。
程昱伝にある、曹操が兗州をあきらめた証拠
程昱は、兗州の士大夫のうち、筆頭になって曹操を支持した人。陳宮と張邈がそむいたとき、程昱だけは、故郷の城を守った。
程昱伝に、兗州が治まっていないことが、書いてある。
天子都許,以昱為尚書。兗州尚未安集,複以昱為東中郎將,領濟陰太守,都督兗州事。
これは、196年の記事。曹操が許都に献帝をむかえた。兗州は、いまだなお、曹操のもとに帰順しない。だから程昱は、東中郎将となり、済陰太守となった。兗州の事を都督した。
・・・ほら、兗州は治まっていない。
程昱は、東郡の人だ。東郡を死守するとき、程昱は曹操におおいに貢献した。だがいま、程昱は故郷の東郡でなく、済陰の太守である。東郡は兗州のなかでも、北より(黄河沿い)だ。済陰は兗州のなかでも、南より(豫州に接す)だ。
また、地図には書いていませんが、兗州の東には、おおきな泰山郡がある。もちろん、曹操の手がとどく土地ではない。
曹操は、北の東郡まで手を伸ばす余裕がなく、南の済陰から「兗州全土をにらむ」というポーズをとったことになる。
程昱をおくなら、故郷の東郡がベストだ。もし兗州を安定して支配していたら、程昱を東郡に置けた。許都と東郡との連絡が、カンタンに維持できただろうから。でも兗州を支配できていない。東郡に程昱を置いたら「敵中に孤立」になりかねない。東郡を捨てた。
かつて東郡は、曹操が家族を置いていた場所でもあるのに。
程昱の「東中郎将」は、後漢の軍事の高官。盧植や董卓も、おなじ「中郎将」だ。程昱は、武力によって兗州をおさえることが、曹操から期待された。つまり、ちっとも安定してない!
もうひとり、有力な兗州の士大夫は、董昭だ。
董昭は、河南尹になった。董昭は袁紹のしたで、魏郡太守をしていた人である。政治的に有能だろう。だが、董昭を兗州から引きはがして、中央の仕事をさせた。
兗州の土地を支配することは、優先順位が低かったのである。
許都にうつったあとの曹操は、冒頭に書いたとおり、
官渡までの重要な戦争を、兗州をつかわずに戦っている。
おわりに
程昱も董昭も「劉備を殺せ」と云いました。
兗州人は曹操に、着実さを望んだのだろう。
「劉備を生かし、帝王としての度量を示すのは、やめろ。それより、先にすることがあるだろう。兗州を平定してくれ。劉備のようなリスキーな人材は、なるべく早く殺せ。着実に、着実にやろうよ」
兗州は、190年代後半、曹操のものではなかった。100903