表紙 > 読書録 > 渡邉義浩「解題『後漢書』とその時代」『全訳後漢書』より

李賢の注釈のおかげで、唐代に正史と認定

渡邉義浩『全訳後漢書』の解題を抜粋。ただのメモのみ。
『後漢書』の成立と、注釈の歴史について。

はじめに

『後漢書』は正史。正史という呼称は、『隋書』経籍志より。
現王朝の正統をしめすため、前王朝の歴史を編纂するのは、
唐代から現れた考え方。

『三国志』や范曄『後漢書』は、この考え方に当てはまらない。注意!

『後漢書』は、前四史(ぜんしし)に含まれる。
劉宋の范曄が、元嘉年間(430年代)に著した。范曄の見聞でない
伝承で生じた誤り、政治からくる偏向を、成立当初からふくむ。

范曄が獄死して「十志」が欠ける。
唐の李賢が注釈したのち、司馬彪『続漢書』の志をつける。
志をもってくる場所により、『後漢書』の巻数が変わる。

諸家「後漢書」

范曄の根本史料は『東観漢記』だ。後漢の蘭台で編纂。
明帝の班固、安帝の劉珍、霊帝の蔡邕が編纂した。

リアルタイムで編纂された。人間の寿命は決まっているから、バトンタッチして書く。こういう王朝の記録は、どこにでもあったのでしょう。
「複数の著者の作品で、一貫性がない」と悪口をいわれるのは『晋書』だ。だが『晋書』は、同時期に作業を分担&並行させたから、内容が散った。『東観漢記』は、時代によって作業を「分担」したから、散った。
おなじように一貫性がないにせよ、その理由が根本的にちがう。『晋書』を責めるついでに、『東観漢記』を責めてはいけないと思う。

三国時代には、『東観漢記』が読まれた。
『史記』『漢書』にならべて「三史」と呼ばれた。

あたり前ですが。三国時代よりあとに范曄が『後漢書』を書いた。三国時代の人たちは、『東観漢記』を見ながら、後漢について認識した。
渡邉氏の本で、『東観漢記』の逸文をあつめることで、三国の人たちの時代にたいする認識が分かる。まあ范曄の記述と、ほぼ重なるのだろうが。


『東観漢記』の評価は低い。複数の著者が書いたから。
唐の劉知幾『史通』は、傅玄のコメントをひく。班固『漢書』はすばらしいが、班固がかいた「中興紀伝」は見劣りがする。時勢にエンリョしたのだろうが、別人の文書のようだと。

班固が書いた文書のタイトルが「中興」だというのが、いまのぼくの関心にとって、ポイントです。光武帝は、実質は前漢とはべつの王朝を、独立して興した。でも光武帝の国を「中興」だと強弁することで、後漢の正統性をかためた。
もとの「中興紀伝」は、どんなか。范曄『後漢書』で、どれくらい読めるのか。渡邉氏の全訳と注釈で、しっかり確かめたい。
ぼくが思うに三国時代の人は、班固がつくった歴史観に振り回された。『漢書』として完結した本はもちろん、「中興紀伝」もまた、三国の人たちに影響をあたえたはず。
ある時代に支配的となる共通認識は、意外にも1人の天才(ないし少人数のキレモノ集団)が作るのかも。類似例は、けっこうありそう?

著者の目的がちがう。後漢像がちがって当然。
  ・班固: 漢は孔子が祝福した王朝、無謬である
  ・蔡邕: 漢王朝の終焉にあたり、制度を後世に伝える

『東観漢記』を根本にして、「後漢書」を編纂する試みあり。
12家13種。はじめは孫呉の謝承『後漢書』から。
現存するのは范曄『後漢書』と、袁宏『後漢紀』のみ。

范曄が『東観漢記』を原本にした証拠は、明八王列伝。
「本書」という語がある。李賢がこれを『東観漢記』とする。
李賢はいう。范曄は「論」を華嶠におう。范曄は諸書をけずった。

陳寿『三国志』も、満田剛先生はダイジェストという。
唐代に正史と認定されやすいのは、一覧性のたかいダイジェスト版ということか。諸書が散逸する前提で、もっとも字数のおおい本を、正史に認定してほしいものだ。笑


後漢「儒教国家」

『後漢書』は儒教の徳目にみちる。君臣の名分、忠義の命がけ。
董仲舒「天人三策」は、班固『漢書』にしかない。武帝は法家。
後漢になってから、儒教を国教化。讖緯、泰山、国家儀礼、白虎観。

前漢の高級官僚は、2%だけ儒教を修得。後漢は7割をこえる。
儒教の支配を歓迎する、在地勢力にも受容された

この話、まだ史料をそのまま飲みこめない。もういちど、渡邉氏の論文を読み返してみようと思います。


范曄とその歴史観

范曄は南陽の名門。儒教国家に好意的
祖父で東晋の范寧は『春秋穀梁伝集解』をあらわす。
名門の范曄は、自分たちの淵源を、後漢末にもとめた。

吉川忠夫は、范曄の考えを指摘した。
王朝に就くでも就かぬでもない「権道派」が、六朝貴族のルーツだと。

数年前に吉川論文を読み、理解できず。再挑戦する予定。

范曄は政争に敗れて、「権道派」の生き方ができず。

范曄は子弟にむけ、雑伝と夷テキ列伝を、自画自賛する。
「論」「賛」にも自信がある。班固を上回る「志」を書けず、刑死。

劉昭注と李賢注

南朝梁の劉昭は、6世紀前半に『集注後漢』を撰述。范曄に注釈。
司馬彪『続漢書』から、八志をぬきだした。
北魏、南朝陳、隋にも、范曄への注釈が試みられた。

唐の皇太子・李賢は、顔師古『前書音義』から、音注をつけた。
引用の痕跡あり。『春秋左氏伝』の孫引きである。
李賢は、裴松之にならい、事実の注釈をほかの後漢書からつけた。
李賢が注釈したことで、范曄『後漢書』は、決定版として認識された。

注釈に拠って、本文の価値がたかまる。テキストが後世に保存されてゆく、動機にもなる。注釈のありがたみは、大きいのです。
注釈というと、裴松之の専売かと思いきや(そこまで思っていませんが)『後漢書』にも、重層的な研究史&注釈の試行錯誤があったのですね。
渡邉氏がいろいろな注釈を列挙されていた。引用ははぶきます。


おわりに

渡邉氏が想定する『全訳後漢書』の読者は、後漢を専門としない人
上杉本が底本。『後漢書』を読んできた日本の民族の伝統を尊重。

抜粋終了。というわけで、『全訳後漢書』に拠りながら、
夏休みが終わっても光武帝を続行することにしました。。100815