どうせ陳寿の意図は分からないから、どうするか
小野紀明『ヒューマニティーズ 古典を読む』岩波書店2010
を読みました。
ガダマーとハイデガーを理解する助けになるので、抜粋。
もちろん、陳寿や裴松之を読むとき、役立つ話です。
はじめに:学問的に読む
研究者は、現在の人間として、
過去のテキストと、学問的に対峙する。
著者が想定した読み手や、時代状況を反映して読む。
ぎゃくに「学問的」でないとは、自分の問題関心に引きつけること。
読み方は自分勝手でよく、著者の意図を無視してよい。
勝手に読んでも、示唆を与えてくれるから、古典は読みつがれた。
学問的に読んでも、過去を誤解する。避けられない。
・文脈を把握するための、重要な要素をわすれる
・著者の真意を、完全に理解していない
・著者がしかけたワナに、みごとに嵌った
これらは、原理的な問題ではない。克服できる。
ただし、異なる文化・言語・時代の文章を理解するとき、
原理的に不可能なことがある。
この不可能とは、ガダマーが指摘した、解釈学的循環である。
解釈学的循環の問題、人付き合いのテキスト解釈
19世紀のデュルタイは、自然科学バンザイに反発して、
解釈学(ヘルメノイティーク)を体系づけた。
解釈学は、もともと、聖書を解釈するやり方だった。
聖書に書かれた、神の意思(一般的で普遍的)を解釈し、
人間が直面した状況(個別的で具体的)に適用するための手法。
聖書だけでなく、ローマ法を読むときにも、解釈学をつかった。
ガーダマー『真理と方法』2部2章1節より。
解釈者は、テキストの外部から、すべてを見渡すことができない。
アルキメデスの点は、存在しない。
自らの偏見をまぬがれ、中立的にテキストを読むことはできない。
解釈者は、時代や場所に「拘束」されているから。
「拘束」の例。
源氏物語の冒頭で「女御と更衣がおおい」とあるのは、
天皇の権力が大きかったことを意味する。
紫式部が想定した読者には、天皇の強さの表現は、自明のことだ。
だが現代人は、新潮社の注釈によらねば、気づかない。
言葉の意味が分からないと、時代背景が分からない。
だが同時に、時代背景が分からないと、言葉の意味が分からない。
循環して、なにも分からない。がーん!
ひとつ、単語と文章。単語の意味は、全体から決まる。全体の意味は、単語の意味を分かっていないと決まらない。
ふたつ、過去のテキストと現在の読者。過去のテキストは、現在の読者の視点からしか、見れない。だが現在の視点は、過去のテキストをどのように「歪めて」読んだかでしか、決まらない。過去のテキストが、そもそもどんな意味だったのか分からないと、どう「歪んだ」のか分からない。
みっつ、過去の著者と現在の読者。テキストを読んでいるとき、読者は、そのテキストを読む前と比べて、変化する。読者は著者によって変化させられるが、著者は変化した読者からしか、眺めることができない。読者は著者がいないと決まらないが、著者は読者がいないと決まらない。ぐるぐる!
「拘束」を打開するため、ガダマーは対策をのべる。
解釈者はバイアスを受けいれ、テキストと「対話」すべきだ。
強引でもいいから、自分なりに解釈すればよいのだ。
どうせ、強引な解釈しか、できないのだから。
著者を自分なりに理解するとは、
他者とコミュニケートすることとおなじ。
「ふだんどおり、人付き合いするように、テキストを読め」
著者の小野氏のガーダマー理解をぼくなりの言い換えると、こうなります。
他者認識の問題:存在と存在物は、循環してしまう
ガーダマーの師は、ハイデガーだ。
ハイデガーは、テキスト読解のための解釈学を、
コミュニケーションをめぐる、人間学に発展させた。
ハイデガーの人間学でも、解釈学とおなじ循環がある。
ふたつ、過去のテキストと現在の読者とのからみ。相手の発言の意図を知るには、相手の人となりを知る必要がある。だが人となりを知るには、あらかじめ意図を知っている必要がある。所詮、自分ができる範囲で、意図と人となりを理解したつもりになるだけだ。
この循環に、ハイデガーは「存在論」で意味をつけた。
ハイデガーは、存在と存在物を区別した。存在とは、全体として、とにかくモノがあるという概念。存在物とは、部分として、存在している個別のモノのこと。
存在という概念がないと、そもそも存在物は、そこに存在することができない。ぎゃくに存在物がないと、存在という概念が、そもそも成立しない。
人間は、全体として「存在」という概念そのものを見たいと思っても、ムリ。部分の「存在物」を見ることしかできない。循環する。
「著者がいないと読者が固まらず、読者がいないと著者は現れることができない」という循環は、存在と存在論とおなじ図式となる。
ハイデガーは、ナチズムに加担したことを反省し、
循環を受け入れ、中途半端な「両義性」にとどまった。
以下、あまり分からんが、ほぼまる写ししておきます。後日のため!
「これは○であり、かつ、○でない」というのが両義性。
○は存在物をさす。存在する「これ」の全体は、部分(ある存在の姿)としてのみ現れる。結果、全体は隠れてしまう。
だから、存在である全体としての存在物は、部分である○であり、かつ○でない。そう言明するしかなくなる。
ぼくの補足。
あるものの「全体」を、すべて言い当てることはできない。「部分=○」でしか語れない。だから、言い漏れた部分を「○でない」と言っておき、「全体を言えたわけじゃないよ」と留保しておく。言い訳しておく。
ハイデガーが存在論で循環に立ち向かったのに対し、
ガダマーは「地平の融合」をさせよという。
「地平の融合」の中身については、小野氏のこの本よりも、渡邊二郎『構造と解釈』ちくま学芸文庫のほうが、くわしくて、よく分かりました。
ザツに要約すれば、自分なりの理解で体当たりすれば、それでいいじゃん、という話。小野氏の結論も、こっちだ。
読後の感想
80ページで1300円は高いなあ。でも、
解釈学的循環について、くわしく考えられたのは、よい経験でした。
ハイデガーの読み方につき、一説を提示してくれたのもうれしい。
解釈学は、三国志を読むときも、とても参考になると思ってます。
もうちょっと、解釈学について読みたい。
巻末の読書ガイドが、とても役に立ちそうですよ。100926