表紙 > 読書録 > 満田剛氏の蒋琬政権にかんする論文2本より抜粋

蒋琬は亮をつぐ単独首班、費禕&姜維と断絶する

満田剛氏の2本の論文から、抜粋です。自分用メモ。
「諸葛亮没後の『集団指導体制』と蒋琬政権」
「蜀漢・蒋琬政権の北伐計画について」『創価大学人文論集』17,18


諸葛亮没後の「集団指導体制」と蒋琬政権

234年、諸葛亮が没。魏延が殺された。
後主伝はいう。蒋琬が最高権力者。

『益部耆旧雑記』で亮は、李福に蒋琬と費禕を指名。
先行研究は『益部耆旧雑記』にもとづき費禕の輔政期とする。

だが蒋琬伝や楊儀伝で陳寿は、蒋琬のみを指名。
陳寿は、蒋琬と費禕と姜維を、ちがえて捉えたのでは。

潘濬伝にひく『江表伝』はいう。蒋琬は潘濬の妻の兄。
潘濬は、王粲の評価を受けた。蒋琬の名声も同等か。
建興八年、張裔にかわって成都の長史。撫軍将軍。軍務も担当。
食糧と兵士の後方支援は、諸葛亮とおなじ道。

蒋琬の北伐は、上庸や魏興を攻める。中林史朗氏はいう。
蒋琬は呉を「主」とし、蜀が「従」となる。主客転倒だ。

あとで満田氏はいいます。蒋琬は呉との打ち合わせなく、荊州に出兵した。呉に攻められた魏の国難を攻める。さらに同盟国である呉まで、出し抜く。そんな計画だった。

蒋琬は「撤退しにくい」と戦術を否定された。戦略は二の次。
劉禅の政権が、土着化した。漢室復興の理念より、益州の保全。

渡邉義浩氏はいう。劉禅は土着化して、正統を失いつつある。
諸葛亮と断絶する。蒋琬は、正統を回復するため、北伐を計画。

蒋琬は234-246まで最高指導者。職歴も、亮の死後から中心。
『華陽国志』建興十二年はいう。6人による集団指導体制だ。
6人とは、蒋琬、楊儀、費禕、姜維、鄧芝、張翼。
集団指導体制は、諸葛亮の引継ぎ。8ヶ月で解消。
建興十三年正月の楊儀失脚、4月に蒋琬が大将軍・録尚書事で解消。

集団指導体制のあいだ、後主伝によると、事件は3つ。
魏延敗死と楊儀失脚。漢中は呉懿に任す。蒋琬が国事を総統。
先行研究は、魏延を弁護。魏延を使えない諸葛亮に責任。
魏延は叩上げの軍人。名声や経済力の官僚層から阻害。
魏延は劉琰と仲が悪い。魏延は、亮の戦略に不満。

亮の戦略は、陳羣伝につく陳泰伝にある。
255年姜維が狄道に攻めた。司馬昭は協議した。
涼州への交通を遮断。隴西、南安、天水、略陽で人を集める。
関隴の要害をとり、隴西を攻略。長安を伺う。
郭淮伝でも、司馬懿が亮の戦略を同じに考えたと見える。

武帝紀はいう。宋建は夏侯淵に滅ぼされるまで、30余年独立。
河西・隴右が、政治・社会・経済的に、独立の一域。中原に対抗。
221年まで反乱。227年、西平の麹英が、臨羌や西都で暴れた。
225-227年、揚州で羌族が反乱。亮の漢中進軍に呼応か。
倉慈が赴任するまで、敦煌に20年も太守がおらず。

後主伝227年の詔勅。月支・康居は、蜀漢とむすぶ選択肢あり。
西域の使者は、魏領の涼州を通過できた。

亮は、西や南とむすぶ戦略あり。魏延の長安戦略ダメ。
亮伝がひく『魏略』はいう。亮の北伐まで、魏は備えなし。
だが『魏略』は蜀漢滅亡より前に成立。内容を鵜呑みにできない。
魏延は派閥でなく、軍人として個人的に爆発しただけ。

『季漢輔臣賛』と王平伝はいう。
亮の没後の漢中は、呉懿と王平に託された。
政権の中枢は、成都にもどった。亮がいないから。

蒋琬伝はいう。蒋琬は尚書令になったあと、にわかに、
行都護、仮節、領益州刺史が、くわえられた。
亮の後継者であることを、すみやかに明らかにした。
蜀漢の都護は、中都護の李厳、行都護の諸葛センがいる。
宰相格のひとが就任する、軍事関係の官職か。
諸葛亮から指名されたから、ムリに誇示する必要なし。

費禕は後軍師のみ。中枢か不明。すぐ尚書令となり、中枢へ。
姜維は右監軍・輔漢将軍。姜維伝は「統諸軍」とする。
姜維は、蜀軍を統括していた。政権の中枢にいただろう。
鄧芝は「督江州」で、出鎮の可能性あり。中枢か不明。
張翼も不明。楊儀は、担当する業務なし。

陳寿からは、蒋琬、費禕、姜維だけが中枢だとわかる。
『華陽国志』のいう集団指導体制があったかも不明。
陳寿の「蜀漢国史観」では、無視されたと言える。
楊儀の失脚は、性格のせい。気の毒。派閥争いなし。

蒋琬は諸葛亮から人材を継承した。体制を引きついだ。
『三国志』を真に受ければ、魏延と楊儀という人材を、
「非常にくだらないこと」で失ったけれど。
蒋琬の単独首班だ。集団指導体制は、結果的には過渡期。
諸葛亮は、内政・外交・軍事の中心。諸葛亮は不慮で死んだ。
後継の準備がない。蒋琬は、後継体制をつくった。

蒋琬は、相対的には、昇進の必要がない。
だが蒋琬は、亮のようにすべて握るのを避けた。姜維に軍事。
茂才のとき固辞。病気になれば、費禕にゆずる。董允へも譲る。
蒋琬の人間性ゆえに、集中を避けた。
集団指導体制は、ゆるやかな蒋琬単独首班政権である
すると集団指導体制も、楊儀を生かすための道探し。
楊儀が失脚して、集団指導体制の必要がなくなった。

蒋琬の生前は、費禕や姜維と、大きなひらきがある。
諸葛亮と蒋琬の権力の差は、ない。権威は丞相の亮があるが。
宗預伝はいう。蒋琬は呉と外交問題をかかえた。
呉が巴丘の守備を強化するという。蜀の弱化ねらい。
蒋琬は、永安の守備を増強。宗預を呉におくる。

蒋琬オリジナルの政策なし。ただ大赦は9年で1回。
諸葛亮の政策をつぎ、大赦せず。陳寿の評どおり。

蜀漢・蒋琬政権の北伐計画について

蒋琬の北伐計画は、王夫之『読通鑑論』がいう。
魏興や上庸は、贅余。襄陽や樊城、宛城や洛陽にいけず。
司馬懿が簒奪に忙しくて、蜀漢が維持された。
陰平を鄧艾に破られるのは、蒋琬のせいである。
中林史朗氏、渡邉義浩氏も、亮の死で正統が終焉したとす。

蒋琬のとき、大規模な軍事行動なし。234.8-246.11
238年 蒋琬は漢中に出陣。呉懿と王平から、蒋琬へ。
241年 漢中の蒋琬は、漢水とベン水から、魏興と上庸ねらう。
姜維が西方に明るいから出兵。蒋琬は姜維より、ずっと高位。
姜維を抑えられず、小出しに出兵させたのでない
諸葛亮とおなじ北伐をしますよと、魏に牽制した。

北伐の中止は、蒋琬伝によると、蒋琬の持病。
このとき呉は、全琮、諸葛恪、朱然らが北伐。
司馬懿が出陣。司馬懿は朱然を撃退。
孫資伝や『晋紀』はいう。全琮を樊城で止めるのは困難。
荊州に陸遜がひかえる。蒋琬が荊州にでて、呉と合同
「呉主伝」にひく『漢晋春秋』は、零陵太守・殷礼の上書を載す。
朱然もうたがう。呉臣は、蒋琬の戦略を知らず。打ち合わせなし。

蒋琬の作戦の中心は、涼州から荊州へ。
諸葛亮のとき、孟達を寝返らせたのとおなじ。

蒋琬の北伐をとめたのは、費禕と姜維。
姜維伝がひく『漢晋春秋』はいう。費禕は専守論者。
姜維は北伐ルートと、西北の地理に通じた自負。
姜維は、荊州でなく西方から攻めたい。北伐に反対でない。

蒋琬のときは諸葛亮をついだので、豪族は非難せず。
蒋琬は漢中から、内政と呉外交をリモコンしたい。
董允が劉禅を見張ってくれたから、成都は保てた。

蒋琬が帰還して、費禕が大将軍・録尚書事。蒋琬おわり。
費禕のとき、録尚書事に姜維がいる。
後主伝がひく『魏略』はいう。蒋琬が死ぬと、劉禅は親政。
費禕が252年に開府。費禕と姜維のとき、独裁した人はいない。
費禕は守り、姜維は攻め、柔軟性を欠いた。
費禕は、魏に勝つ可能性を絶った。姜維は理念が先走った。
陳寿は、諸葛亮が指名した後継者を、蒋琬だけとする。

蒋琬と費禕&姜維は、列伝の扱いが同じでも、断絶がある。
陳寿は、費禕と姜維が、諸葛亮を継がないから、滅亡したとする。

・・・とりあえず『集解』の蒋琬伝を、自分で読みます。100814