過去の事実は、存在しない
野家啓一『歴史を哲学する・哲学塾』岩波書店2007
を読みました。おもしろかった。
「歴史学=物語り論」を、やさしく教えてくれる本。
水曜日の午後、半日年休をとり、散歩して読みました。至福。
読み返したい点を抜粋し、グレー枠に感想を書きこみます。
1. 歴史哲学と科学哲学
歴史哲学は、存在論、認識論、論理学にくらべて、取りつきやすい。
具体的な事実とのかかわりが密接なので。
いまでは、唯物史観、歴史の終焉、歴史法則、大きな物語は不可能。
歴史の語用論から出発すべきと考える。言語論的展開を無視できない。
歴史は科学か。語用論、歴史の物語り論をつかえば、科学となる!
意味による構成(素朴実証・実在主義)でなく、言語による構成を。
「言語論的展開」とは、なにか。
19世紀から20世紀初頭、
フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインがおこす。
秘匿された自己の「意識」から、公共的な「言語」へ。
ソシュールは言語を「差異の体系」と捉えた。世界を分節。
Jデリダは「テクストに外部はない」と断言。
バルトは「作者の死」を宣言した。
歴史学もランケを流動化させ、「事実」から「意味」探究へうつる。
パトナムの「内在的実在論」とは、なにか。
世界は心から独立する。唯一で真なる完全な記述がある。
世界をとらえる理論や記述は、複数バージョンありえるが、
やがて一点に収束するはずである。という考え方。
2. 歴史認識をめぐる論争
経歴を振りかえり、自分を思い描くことが、歴史意識の原型。
過去を一貫したものととらえ、正当化&合理化する。
「できすぎた話」になる途中で、隠蔽&抑圧だって起きている。
個人の歴史だって、他者の眼差しにさらされたパブリックなもの。
他者という鏡を必要として、自分の像をむすぶ。
だから歴史学は、政治的な磁場のなかに置かれる。避けられない。
太平洋戦争にかんする「歴史修正主義」がおきる。
前に流行った、ある修正主義の人は「歴史は物語である」という。
野家氏がこの本でやりたい物語り論とはちがう。
どこがちがうか。
修正主義:物語:ストーリー:政治に奉仕するフィクション
野家氏:物語り:ナラティブ:言語行為の構造を明らかにする哲学
物語り論は、どんな場面で、誰が誰にむかって語るか、
語り手の持つイデオロギーがどんなか、をさらす。透明な多元主義。
3. 出来事としての歴史/記述としての歴史
明治以降に日本は、西洋史学の影響で「歴史」をはじめた。
原義は「探究」だ。探究の手続で、知識を得られるもの。
歴史的出来事と、歴史記述は、循環した関係。
●出来事のほうが記述より、先に存在するが
●記述がないと、出来事は知られず、存在しないも同然
記述という「認識」をぬきに、出来事という「存在」はない。
「あったものは、あったんだ」という、神の目は不可能。
痕跡があり、痕跡を探究&認識することでしか、
過去に流れて消えた出来事を、存在させられない。
「隠滅された」ものだって、隠滅の痕跡があるから認識できる。
既知と未知の中間状態から、探究するのが歴史である。
4. 歴史における説明と理解
科学者という言葉も、研究機関も、19世紀なかばが起源。
「歴史は科学か」科学に乗り遅れまいと、定義が試みられた。
シュネーデルバッハのまとめ。自然科学と歴史科学はちがう。
●自然科学:全称で当然、普遍だ、不変の形式、法則づくり、抽象
●歴史科学:単称、特殊だ、一回きりの内容、直観、個性記述的
これは、学問の対象や内容でなく、学問の方法から見たもの。
おなじ意見で、
デュルタイは歴史学を、自然科学とちがうと定義。
●自然科学:自然を説明
●歴史学:理解(感情移入や追体験で、他者を再構成する)
デュルタイは、解釈学の人。テクストを読めば、作者さえ気づいていなかったことを、解釈で気づけるかも知れないと考えた。
自然科学は説明で、歴史学は理解だ。この構図だ。
20世紀、物理学の言語に、科学を統一する運動がある。
ヘンペルは1942年、歴史学=自然科学とした。
歴史を、因果関係で説明する。法則、初期条件、出来事、結果。
法則が当たり前のとき、歴史学は必然を説明できる。
「ペストに感染すると、人間は死ぬだろう」など。
だが法則は、すべて絶対ではない。だいたいそうなる、レベル。
「外圧が高まると、内政が混乱する、ことがおおい」
だから歴史は、テスト可能でもなく、予測可能でもない、、
5. 歴史の物語り論(ナラトロジー)
ポパーは、歴史が科学ではないとする。ヘンペルはダメ。なぜなら、
●法則なんてない(マルクスは嘘つきだ)
●歴史家は、ある観点で、ある選択をする。反証不能。恣意的だ。
●っていうか歴史は、科学とちがい、多元的&相対的でいいじゃん
ポパーの言い分は歴史学に優しいが、
ポパーを乗り越えることで、歴史学=科学は、ふたたび成り立つ!
ポパーをつぎつつ、ちょっとちがうのがダントー。
ダントーこそ、野家氏が「物語り論を発明した」とあおぐ人。
野家氏は、ダントーを紹介する。曰く、
歴史の物語りは、2つの出来事を、つなぐ。
はじまりと、おわり。
この2つを記述することが、そのまま変化を説明する。
例えば「魏王の曹操は、155年に生まれた」という記述。
155年時点で、生まれた子は「操」でも「魏王」でもない。
歴史家がおわりをつなぎ、男児誕生の意味を説明した。
出来事は、つながれることで、意味をもつ。
意味は、だれがいつ付けるかによって、絶えず変わる。
6. 過去の実在
物語りにおいて、意味は、言語によって付けられる。
歴史的事実そのものは、存在しない。
痕跡を言語で解釈して「想起」されることで、構成される。
構成は、再現や模写ではない。
「想起」は、個人の体験だけではない。
史料や遺物は、自分の外に保存された記録。図書館みたいなもの。
図書館の資料をつかって、想起することでも、歴史は構成できる。
7. 歴史記述の「論理」と「倫理」
歴史的事実は、存在しない。おなじ話が、物理の素粒子。
存在の痕跡はあるが、じかに観察できない。理論的な存在だ。
理論的存在は、いくらでもある。
戦争、軍隊、フランス革命、赤道、日付変更線、大学、会社。
見ることをも触ることもできないが、言語が構成している。
痕跡を整合するように組み立て、受容できる物語りをやりましょう。
どんなとき合理的になり、受容されるか。大森荘蔵氏はいう。
●現実への接続:通時的整合性
●他者の証言との一致:共時的整合性
●物的な証拠
これを満たせば、過去は、少なくとも素粒子や大学と同じレベルで、存在することになる。
歴史は記述されてるだけでも、読み手に「これは重要だから、覚えろ」「尊敬しろ」「語りつげ」「私たちの物語として、団結の根拠とせよ」という無言の圧力を与える。そういう話。
西洋史学の発展が、国民国家の発展とセットだった。この点を、野家氏は充分に自覚しておられて、注意を払っているのでしょう。
ぼくの勘ぐりですが、野家氏はこう言っているのではないか。
「国民国家バンザイの時代は、おわった。でも物語り論は、それ単独でも、充分に説得力をもつ歴史哲学の考え方なんですよ。捨ててしまうには、惜しいのだよ」
8. 過去の実在・再考
心理学者のタルヴィングはいう。記憶には2種類。
●エピソード記憶:特定の出来事、個人的な体験
●意味記憶:体験から独立した知識、見聞てなくても可
歴史記述という言語行為は、
エピソード記憶が、意味記憶に変わるように促すこと。
おなじものでも、見る角度で、ちがうカタチになる。
ものなら、ウラに回ってみることができる。
しかし過去については、ウラに回ることができない。
だから他人の想起とつき合わせ、合理的な落としどころを、
言語をつかって探す。間主観性がうまれる!
私たちは、合格発表の直前に、合格を祈る。
過去を変えられないのに、おかしいじゃないか。
おかしくない。
誰にも知られず、構成されていない過去は、過去ではない。
過去は、公認されてはじめて、過去になる。
歴史的事実はそのまま存在するんじゃなく、言語で構成がつくる。
読後の感想:言語論的展開ってすごい!
とりあえず、ウィトゲンシュタインを学びます。100917