表紙 > 読書録 > 落合淳思『古代中国の虚像と実像』と、歴史書のおもしろさ

落合淳思『古代中国の虚像と実像』より

落合淳思『古代中国の虚像と実像』講談社現代新書
を読みました。びっくりした!

今回はこの本の感想を書きながら、
歴史書って面白いなあ、ということを云いたいと思います。

本の内容:すべてウソだ!

歴史書をつかまえて「これはウソだ!」と、決めつける本。
歴史書の「おもしろい」部分は、たいていは創作だと。
平坦で「つまらない」ことこそ、真実なのだと。

『三国演義』を、正史(もしくは、自分が科学的だと思っている基準)と比べて、不一致たる部分を、切り捨てていく態度です。これを、自分よりファン歴が短い人の前でやると、1回目は、痛快。2回目は、優越感。
・・・3回目で、飽きる。笑
著者は、おそらく出版社の要請で「番外編」として、『三国演義』を批判していました。著者の専門外だろうが、切り口は同じだと確認できた。


感想1:今さら客観なんて求めないでください

ぼくは、次のことを、当たり前だと思っています。
「絶対の客観など、あり得ない」
これを踏まえ、
いかに面白く、自分なりに考えるかにこだわります。

「客観的に、私が考える」なんて、そもそも矛盾なんだ。
っていうか、18歳のころに解決した話題を、なぜ、いま再び、ぼくは書いているのだろうか。笑

しかし著者は、厳密な客観がどこかにあるはずだと、
純粋な子供のように、信じているらしい。

著者は「受験英語」という揶揄にからめ、「受験歴史」と批判する。中学や高校で習うけれど、使い物にならないウソ知識だと。
たしかに学校教科書に課題は多い。しかし、唯一絶対の真理があると、いちおう想定している点で、著者の態度は、中高生と同じだと思う。

「私の主観」を「客観」と言い換えているうちは、
何も生み出さないと思うのです。

感想2:批判ができて、当たり前

概して、すべての論述に対し、反論することが可能です。

今日の帰り道に考えたことです。歴史に限らず、全てのことについて、これが当てはまると思います。ああ言えば、こう言う、という感じで。
はじめに何かを言った側は、現状の均衡を崩したくて、論述したはずだ。現状のままでいいなら、家で寝ていればいいのだから。
当然、論述した人は、誰かから反作用を食らうことになる。

これについて、今さら「新発見だ」と騒ぎ立てたのが、今回の本だと思います。
べつに目新しくも何ともない。

「殷の暴君が酒池肉林しなかった」という指摘は、アマゾンでさんざん叱られているように、べつに目新しくない。でも、そんなことはいいのです。研究や著作活動は、先人からの拝借で成り立つのだから。
それよりも「あれにも、これにも、反論できるぞ。すごいだろ」という、話のフレームワークの古さが、とても残念です。最新でない。笑


っていうか、史料批判するのは、研究者の仕事だ。
それを誇られてもねえ。

モチ屋が「聞いて驚け。オレは、モチを売るのだ。どうだ、すごいだろ」と粋がっているに等しい。大切なのは、どんなモチを、いくらで売るかなのにね。今回の本では、言及していない。
著者がどんなモチを提供する人か、知らぬうちは、何とも云えない。


歴史書の面白さは、残存していること

誰かが、何かを書く。書いたものを、誰かが残す。
ここには、必ず目的があります。
意識しようがしまいが、誰かの思いが混ざりこみます。

いわゆる「正史」に認定された本は、古いにも関わらず、たっぷり読める。しかし、同時代のほかの類書は、ほぼ残っていない。良くて、切れっぱし。対比すれば分かることだが、ある本が「正史だ」と認定されるだけで、ものすごい保存のコストを、払ってもらえる。
この一事だけを以てしても、ぼくはテンションがあがる。

そうした「思い」の介在を暴き、断罪することに、
どれほどの意味があるのだろう?
ほぼ、意味がないと思う。
っていうか、正史に関しては、そんな手法は、使えないと思う。

ハプニングで出土した史料は、力んで「保存」の意図を探す必要がないと思います。正史に比べれば。


著者がやりたい意味での、客観的な歴史学は、こと中国古代史については、できないのだと思う。もっと多面的な証言が取れる(かも知れない)日本現代史でも、やったらどうだろうか。過多な情報に飲みこまれ、泳ぎきってこそ、楽しかろう。
中国古代史をやるならば、「歴史資料」とも「文学作品」とも割り切れない、微妙な位置づけの文字群と、戯れなきゃね。

『史記』をまっこう否定して、夏王朝や、始皇帝の事実を探す。これは、砂漠で深海魚を探すに等しい。


著者は、たとえば『史記』の伝承を批判するものの、代替案を出せない。それもそのはずで、『史記』が残っていることが、異常なことなんだ。代替案が出せないのは、著者のせいではない。
しかし人情として、
他人の否定ばかりして、代替案を出さない奴とは、付き合いたくない。気分が悪くなるだけだ」
ってことになる。だから著者は、アマゾンで叩かれる。

アマゾンで、この本を叩いた購入者は、まったく新しい始皇帝像を、見せてくれることを期待したはずだ。っていうか、そのように出版社が宣伝をしているからね。だが、そんなものは、ない。
そりゃ、最低の読了感になるでしょうよ。。

ご提案:歴史書の空白、妄想のすすめ

著者は、陳寿『三国志』は、それなりに信頼できると書いている。相対的に『史記』よりは安心できるかも知れない。

内容の妥当性を、比較・検証するための、他の史料が残っているから。

でも『三国志』のことばかり考えているぼくは、まったくそーでもない、と云いたい。まあ、それは置きましょう。笑

中国の文筆家が、全員でグルになってウソを書けば、後世のぼくらは騙されるしかない。だから「信頼できそうにない」のだ。
「騙してやろう」という積極的な悪意はなくても、皇帝による支配の下で書かれ、保存されてきたものは、現代のぼくたちから見れば「騙し」に等しいかも知れない。


『史記』でも『三国志』でも、読めることが、むしろ不自然な異常事態だと言っていいほど、古い本だ。

史料の中身を検討する前に、「どんな経緯で、なぜこの史料が残存しているか」を考えるべし。史料の性格が決まる。読み方が定まる。
兵庫の山奥で古文書を整理する合宿をしたとき、習ったことです。

こういう本を、どう読めばよいか。
「内容を批判したものの、代替案がない」
というシチュエイションに、おおく出くわす。それならば、開き直って、妄想すればいいじゃないか。手元にある材料を、ふんだんに使って、膨らまそう。
もし、既存の史料と違うことを云うなら、理由を示して、いちいち説明をする。他人に検証してもらえるよう、足跡を見せる。

ぼくは袁術について、この1ヶ月くらい考えています。この態度です。袁術につき、完成を目指しています。

そうすれば、研究論文にはならないが、アマゾンの評価者たちが、出版社に裏切られた(のと同じ種類の)知的好奇心を、1ミリでも満たせるものが、書けるかも知れない。生産的だ。
敵を作りまくるより、楽しいと思うのだけれど。100524