曹操の献帝奉戴は、政策の180度転換だ
魏の曹操は、献帝を奉戴して、群雄からぬき出た。
よくある評価です。結果からさかのぼれば、正しい。
しかし、過程では正確でない。
曹操は、もともと献帝に反対する勢力だった。
献帝の正統を認めないことで、世に出ていた人物だ。195年、
曹操は政策を180度転換して、献帝を奉戴した。これを言います。
mujin氏のブログ「仏頂面も三度まで」10年7月1日にある記事が、
2ヶ月間ずっと、引っかかっていました。
タイトル:献帝推戴はとっさの思いつき
曹操は袁紹の部将。袁紹は劉虞を推し、自分を鄧禹に重ねた。
劉虞に断られ、袁紹は献帝に屈服。公孫瓚が喜ぶ。
袁紹は献帝から、右将軍に任じられた。袁術より低位。惨めな袁紹。
献帝が長安を落ちたとき、袁紹は献帝推戴を考えた。
曹操は袁紹を出しぬくため、献帝を奉戴した。
曹操による献帝の奉戴は、
献帝の東行、袁紹との抗争から、場当たり的に思いついただけ。
曹操は、献帝の兗州牧を、追いはらった。
荀彧と曹操は、高帝や光武帝に例えあった。漢室に興味がない。
根拠は、興平以前に、曹操が献帝奉戴を検討した史料がないこと。
董昭伝は、李傕への連絡のみ。毛カイ伝は、曹操の反応を記さず。
ぼくはmujinさんの「思いつき」を進め、
曹操は興平以前、献帝と敵対する立場だったことを書きます。
曹操が献帝に反発するのは、董卓が即位させたから
曹操が存在感をアピールしたのは、董卓の部将・徐栄との戦い。
190年、袁紹や袁術は、董卓を討つために出陣した。
袁術の部将・孫堅の活躍により、董卓を洛陽から追い出した。
だが袁紹の同盟者は、出陣しない。曹操は演説をぶち、突撃した。
武帝紀にあることだ。長安に行った董卓に追撃した。
陳寿本文も、裴注『魏書』も、曹操のセリフを載せる。
董卓のみを攻撃し、献帝を救い出せという口調だ。
ぼくは、後世の脚色があると思う。
のちに曹魏は献帝から禅譲を受ける。だから献帝を悪く言わない。
だが徐栄と戦ったとき、曹操から見て、董卓&献帝は敵である。
「劉協なんて、ニセ皇帝だ。董卓もろとも、つぶせ」
曹操は袁紹の部将として、のちに兗州を任される。
曹操が、袁紹の方針に沿って動き、信頼された証拠だ。
袁紹の「正義」は、劉協を否定し、劉虞を立てること。
石井仁『魏の武帝 曹操』はいう。
「曹操に漢室再建のビジョンはない。これが当時の曹操の限界」と。
ぼくは思う。曹操にビジョンがないのは当然。袁紹に同調し、劉虞派。
袁紹が関東の諸侯に支持されるとしたら、献帝への反発だ。
反献帝を言い続けなければ、袁紹は、根拠地すら危うい。
部将の曹操も、反献帝を言い続けることで、活動の場を得られる。
李傕は関東と和解したいが、袁紹&曹操は拒絶
192年、董卓が死んだ。192年7月、
李傕と郭汜の朝廷は、馬日磾と趙岐を、関東によこした。
「董卓さんが死んだ。そろそろ献帝を、関東でも認めてくれ」
という、李傕からの甘えた歩みよりだ。李傕も存立の危機だから。
李傕が送った趙岐は、冀州をあらそう、袁紹と公孫瓚を和戦させた。
mujinさんは、これを「袁紹が献帝に屈服」と解釈されます。賛成です。
袁紹は戦闘の継続が苦しかったから、しぶしぶ趙岐を受け入れた。
しかし、もう一度よく注意しておきたいのは、
袁紹が関東で支持される根拠は、献帝の否定であること。不変。
公孫瓚が喜んだのは、袁紹が献帝否定の一貫性を、失ったからだ。
192年、曹操は青州を、袁紹の部将として平定。兗州牧を自称。
李傕は、兗州刺史に金尚を送りこんだ。曹操は、金尚を追いかえした。
袁紹はしくじったが、曹操は一貫して献帝を否定した。
献帝を否定するという点で、曹操は袁紹にとって、有用な将軍だ。
『資治通鑑』は192年冬、曹操は董昭をつうじて、献帝に使者を送ったとする。だが、董昭伝を読むと、時期が特定できない。きっと司馬光は、毛カイの進言に引きずられて、董昭伝の記述をここに置いたのだ。しかし、同じことをふたたび云うと、董昭伝では時期が特定できない。
もっと遅く、195年ぐらいじゃないか。これでも董昭伝と矛盾しない。
金尚を追いはらっといて、献帝に使者、もあるまい。
曹操は徐州と兗州をあきらめ、袁術の豫州を攻めた
193年と194年、曹操は徐州を攻めた。
194年と195年、曹操は呂布と、兗州をとりあった。
ここでぼくが云いたいのは、
曹操は、兗州も徐州も、根拠地にできなかったということ。
曹操が兗州を見切った証拠に、196年、豫州の潁川に、曹操は移る。根拠地を変えるとは、戦略の変更といっても過言ではない。
曹操は徐州に、虐殺の汚名だけ置いてきた。
兗州では勝ち、呂布を追いだすことはできたが、辛勝。不安定。
しかも兗州の東半分、泰山郡は、地元勢力が強い。手出しできない。
兗州の西半分は、人材を含めて得られたが、根拠地には小さい。
兗州の人に、袁紹は評判がわるい。程昱は、曹操がくじけたとき「袁紹をたよって、河北に行ってはいけない」と云った。董昭は済陰郡の人だが、袁紹に反発して、曹操を助けた。
袁紹集団の派閥争いが原因か。袁紹が故郷から連れた豫州人と、現地で用いた冀州人ばかり、活躍する。兗州人は、だんだん肩身がせまくなった。
曹操は矛先を転じ、袁紹の先鋒として、袁術の豫州を攻めた。
196年1月、曹操は、袁術が治める陳国をくだした。
潁川と汝南の「黄巾」をくだした。
汝南は、袁術の本籍だ。南陽にいても寿春にいても、袁術は豫州を治めていたと思う。後日書きます。
献帝がらみで、のちに袁術を頼った楊奉と韓暹も「賊」である。袁術は「賊」に、よほど人気があったらしい。笑
曹操は袁術をやぶり、豫州を手に入れた。
このとき、ちょうど献帝が、長安から流れてきた。
袁紹は方針をつらぬき、献帝を無視した
廷臣が献帝を、長安から出すことにこだわったのは、
献帝から董卓の手垢をのぞくため。
「献帝は、董卓の皇帝ではない。士大夫みんなの皇帝だよ」と。
廷臣が、献帝の洛陽入城にこだわるのは、董卓色を完全にすすぐため。
献帝が洗浄された。袁紹集団で、献帝を迎えるか議論が起きた。
「献帝を迎えると、袁紹さんの権威が落ちます」
なんてセリフを、袁紹伝で読むことができる。
しかし問題は、こんな手先の利害ではない。戦略の根幹に障る。
袁紹が支持されるのは、董卓&献帝を否定したから。
もし献帝を肯定したら、袁紹は天下取りのレースから脱落する。
董卓という求心力の死後、李傕と郭汜は、関東に優しかった。
「もう献帝が、正統な皇帝でいいじゃん。戦争を辞めよう」
という世論が、出てきたはず。
その献帝が、さらに身を清めて、洛陽のそばにいる。
廷臣によるクリーニングを、認めるか否か。袁紹は、認めなかった。
曹操が献帝を得るのは、袁紹と袁術への宣戦布告
上に書いたが、曹操は徐栄と戦い、献帝を否定した人だ。
だがいま、廷臣が献帝のクリーニングが完了した、と強弁している。
曹操は、まんまと廷臣の強弁に「だまされ」て、献帝を保護した。
「献帝さんは、董卓の皇帝ではないなら、保護しなくちゃ」
曹操の献帝奉戴は、ふたつの意味がある。
まず、袁紹との決別。献帝否定という、袁紹の根本方針にそむいた。
都合がよいことに、袁紹の先鋒・曹操は、冀州から遠くにいる。
袁紹から自立することは、比較的安全である。
曹操は、兗州をなかば捨てる(袁紹に返上する)覚悟で、
豫州に本拠をうつしたのだろうか。後日検討。
もし董卓が健在で、董卓と袁紹の天下分け目に持ち込めば、袁紹はもっと活躍したはずだ。考えても仕方のないことだが。
つぎに、袁術の撃退。
袁術は、曹洪が献帝を迎えに行くと、妨害した。武帝紀にある。
まだ曹操は、袁術の豫州を攻め始めて、1年も経ってない。
袁術と曹操のあいだで、献帝争奪戦は、豫州争奪戦の延長である。
袁術は、目先のいちばんの敵だ。
曹操は、袁術をくだく目的もあり、献帝を取りにいった。
袁術は匡亭の戦いで、於夫羅と張燕を味方にしている。袁術が、并州に目を向けていた証拠だ。
いま献帝の周りにいる韓暹や楊奉は、「河東の賊」です。袁術が、司隷を北へ縦断して、并州にむかうルートを、持ち続けていたことが分かる。
おわりに
粗けずりな思いつきを、書いてしまいました。
後日、史料で裏づけを重ねます。まずは董昭伝を計画中。
mujinさんが指摘されたように、曹操の献帝奉戴は、前触れなし。
それもそのはずで、
献帝奉戴を口にするのは、袁紹への謀反になるから。
献帝奉戴を思いもしないし、思っても直前まで黙るべきだ。
以上、曹操は献帝に対して「中立→奉戴」したのでなく、
「敵対→奉戴」と転換したことを、袁紹をからめて説明しました。
袁術の重要性も、すこし強調しつつ。100831