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諸葛亮は、益州の諸勢力を調和させた

上谷浩一氏の論文を要約します。自分の復習用。
上谷浩一「蜀漢政権論-近年の諸説をめぐって-」『東方学』91

論文の結論

上谷浩一氏から、渡邉義浩氏への反論。
渡邉義浩氏は「対立」で蜀漢政権をとらえるが、
上谷浩一氏は「調和」で蜀漢政権をとらえた。

ぼくは思う。属性のちがう人が同居すれば、何らかの摩擦が起きる。
おきた摩擦に注目すれば、渡邉義浩氏になる。摩擦への対処に注目すれば、上谷浩一氏になる。その摩擦によって組織がほろびていなければ、何らかの対処を見出すことは可能だもんね。
上谷氏の主張は、渡邉氏への反論たりえているのだろうか。
蜀漢政権をどのように捉えたいかという「好み」の世界ではないか。
そう、思えなくもない。笑


蜀漢政権論は、
後漢王朝が滅亡したあとの、地域社会の動きを知る糸口である、と。
以下、論文を要約します。

蜀漢政権の4つのグループ

政権の性格を、人的な構成から明らかにするという手法。
蜀漢政権には、4つのグループがある。
 1.劉備との任侠的結合(関羽、張飛、趙雲)
 2.劉備に荊州で帰属(諸葛亮、頼恭、廖立、黄忠)
 3.劉璋に帰属した、非益州人(許靖、法正、李厳、劉巴、董和)
 4.劉璋に帰属した、益集人(黄権、王謀)
2と3は、荊州人士がおおい。これを見て、狩野直禎氏や上田早苗氏は、荊州人が、益州人よりも優越したと述べた。

2と3(劉備の荊州人と、劉璋の荊州人)の関係はどうか。
建安二五年、3の許靖が太傅、3の法正が尚書令だが、2の諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事にすぎなかった。諸葛亮の官位が低いから、渡邉義浩はつぎの4つの過程を見た。
 ① 入蜀した劉備は法正をもちい、諸葛亮ら荊州名士を牽制
 ② 諸葛亮は官位がひくく、法正の下にあまんじた
 ③ 諸葛亮は、荊州にすむ荊州人を登用し、劉備に対抗
 ④ 法正が死に、諸葛亮ら荊州人が、劉備+任侠を圧倒

諸葛亮と劉備は、対決していない

渡邉氏のいう「①劉備が法正をもちい、諸葛亮を牽制」は妥当でない。
法正は、名士の許靖を推挙した。
諸葛亮と劉備に摩擦があるなら、法正と劉備にも摩擦があるはず。
諸葛亮と法正は「以公義相取」と法正伝にあるように、ちかい関係。

また諸葛亮の官位は、②のように低くない。
諸葛亮の上位にいるのは、後漢から官位をえた人。
劉備からのみ官位をえた中では、諸葛亮はトップだ。

◆漢中王
漢中王のとき、諸葛亮は5位だ。上の4人は後漢の官位をもつ。
 馬超-偏将軍・都亭侯「蜀志」馬超伝
 許靖-御史中丞「蜀志」許靖伝
 龐羲-議郎「蜀志」劉二牧伝
 射援-黄門侍郎から劉璋の長史に転じた、兄・射堅の錯誤
諸葛亮の5位は、任侠グループや法正よりも上位だ。

◆蜀皇帝
劉備を皇帝に推したとき、諸葛亮は3位だ。上の2人は、
 許靖-御史中丞「蜀志」許靖伝
 麋竺-最古参の宿老だから、形式的に配慮
諸葛亮の3位は、九卿よりも上位である。

諸葛亮の官位が低いのは、官制の未整備による

『郭沖五事』によれば、諸葛亮は、法の制定に参画している。
尚書令の法正は、諸葛亮が中枢に参画するのを当然と考えたから、諸葛亮と法の議論をしたのだ。
榊原文彦氏はいう。劉備政権は、官僚制度が整備されていない。

榊原「劉備と益州」『日本大学史学科50周年記念歴史学論集』1978
榊原氏はいう。蜀漢の官位は、在任期間が連続しない。君主が、個々の官位を、必要におうじて駆使していたようだ。
ぼくは思う。ベンチャー企業のツネである。社外に売り込みやすいよう、名刺に載せる肩書きをつくる。社内で、権力を調整しやすい組織をつくる。草創期の団体は、組織ありきでなく、人材ありきだ。

山本義隆氏はいう。尚書令の劉巴が、劉備が皇帝に即位する文をつくったのは、組織の未熟をしめす。
のちに諸葛亮が、丞相府に権力を集中したのも、組織が未熟だから。

諸葛亮の立場は、軍師将軍・署左将軍府事だ。
石井仁氏はいう。後漢末からあらわれる軍閥の私設職で、官制の枠外だ。正規の官制ではないが(ないからこそ)現実の権力をもった。

諸葛亮は現実の権力をもちつつ、人事を調整した。
すなわち諸葛亮は、劉璋の元部下に、公式の官位をゆずった。董和、李厳、呉懿、費観、許靖、龐羲、射堅、劉巴、法正など。
諸葛亮のスタンスは、渡邉義浩氏のいうような対立ではない。属性がちがう人々の関係性を、調整したのだ。

非益州人がたよる東州兵は、蜀漢の主力に編入

劉備政権が、劉璋の元部下を重んじたのは、東州兵を味方にするため。

上谷氏はあげる。劉璋の元部下を重んじた例は、ほかにもある。
呉懿の妹を劉備の皇后にした。劉備は、李厳に後事をたくした。諸葛亮は、蒋琬とともに、費イを抜擢した。

劉璋の元部下のうちで重んじられたのは、非益州人だけ。
劉備の死後に李厳は、趙雲や魏延が生きているのに、中護軍として「統内外軍事」をした。非益州人が重んじられた、好例だ。

あとで上谷氏がいう。
法正が建安二五年に死んだ。翌年に董和が死んだ。章武二年に、劉巴、許靖、馬超が死んだ。李厳は、非益州人の中心人物になっていた。


非益州人は、劉焉と劉璋のときから、東州兵と結びついた。
『華陽国志』では、犍為をとおる長江の渡し場に、東州兵の居住地があったことを伝える。東晋で建康をまもった「北府兵」に似ている。家族をまとめて居住させ、首都をかためた。
劉璋伝がひく『英雄記』で、趙韙は益州の「大姓」をひきいて、劉璋を攻めた。劉璋につかえる非益州人は、益州に土着する人との対立がこわい。だから呉懿や李厳らは、劉備に投降した。
渡邉義浩氏はいう。「東州士」は、劉備が成都を攻めたとき、壊滅したと。だが大多数は温存され、蜀漢政権の主力になったはずだ。

東州兵の結末について、
渡邉義浩氏は対立を強調したいから、史料から消えると「壊滅」という。
上谷浩一氏は調和を強調したいから、史料から消えると「編入」という。
指摘の内容は同じだが、筆者の性格がちがうだけでは?笑


諸葛亮は、劉璋の元部下+非益州人に配慮した

何焯『義門読書記』はいう。
李厳は南陽人だ。諸葛亮も、南陽にいた。東州兵も、おおくは南陽出身だ。南陽出身者が、蜀漢政権を牛耳った。

現代的な意味での「歴史学」というより、読書家の指摘風。だが、鋭い!


諸葛亮は、政権のバランスに気を配った。
廖立は、李厳に反発した。廖立は、劉備が荊州で登用した人。「龐統と廖立は、楚の良材だ」と称された人だ。諸葛亮は、劉璋の元部下+非益州人に配慮するため、廖立を排除した。
李厳は、北伐の供給に失敗した。諸葛亮が李厳を除くとき、幹部22人の合意というスタイルをつくった。劉璋の元部下+非益州人である、呉懿、呉班、鄧芝、費イが署名した。

諸葛亮の後継者も、バランスに気を配った。
荊州人の蒋琬は、軍事は呉懿と鄧芝に、行政は費イや董允に任せた。
つぎの費イは、呂ガイや陳シら、劉璋の元部下+非益州人の第2世代をもちいた。

呂ガイは、荊州南陽の人。父の呂常は、劉焉の入蜀に同行。
陳シは、豫州汝南の人。許靖の一族にあたると、呂ガイ伝にある。

姜維は、孤立した立場だ。人事のバランスをとれる人物ではない。諸葛亮が、姜維を後継者にしたという、史料的な裏づけはない。

益州のバランスを取ってこそ、政権が成り立つ

益州の土着豪族と、蜀漢政権の関係は、どんなか。
渡邉義浩氏による4段階の分析。
 1.劉璋政権:東州兵と益州土着豪族の対立をふくみ、不安定
 2.劉備のとき、益州人士はおさえられた
 3.荊州喪失と夷陵敗戦で、益州に依存。諸葛亮は、名士へ誘う
 4.益州人士は、名士社会に入りたくて、蜀漢政権に協力

益州人士の課題は「公」的な権力がいないこと。
成都四姓の張肅は、曹操にちかい。弟の張松は、劉備にちかい。張松は、州外の龐羲と、趙韙の元部下である李異を批判。州内の勢力は、自分の利益ばかり主張した。

狩野直禎「蜀漢政権の構造」『史林』42-4でいう。
巴蜀の豪族は、無定見にみえる。だが一環して、自己の利益をのばした。自己の利益のため、劉焉と劉璋をいただいた。東州兵に反発した。劉備の入蜀に、賛成や反対をした。諸葛亮の北伐に反対した。
ぼくは思う。人間なら、そりゃ、そうだろう。

だから諸葛亮は、きびしい法治をめざした。
龐羲は、記事から消えた。李異は、蜀漢に参加したかも不明。李厳や廖立は、きびしく断罪された。

狩野直禎氏はいう。蜀漢は、おもに地方官に、益州人士をもちいた。たとえば征西将軍に、犍為の張翼。
渡邉義浩氏はいう。蜀漢の富国強兵は、益州人士と競合しないよう行われた。 南中開発、塩鉄専売、蜀錦増産など。
蜀漢は、劉璋のもとにあった、益州人と非益州人の対立を、回避させた。すなわち、東州兵を益州の外にむけ、益州人の権益を確保した。

名声の権威なんかで、国は治まらない

渡邉義浩氏は、在地社会から切りはなされた、名士の権威を想定した。だが蜀漢の益州に、名士の話は当てはまらない。あくまで、リアルな益州の社会のうえに、蜀漢政権があった。諸葛亮は、益州に「公」権力をつくったから、支持された。

『華陽国志』はいう。蜀漢がほろびたあと、益州は大規模に移住させられた。州外の出身者が退去させられた。益州人と非益州人の調整を使命とした、蜀漢政権が、役割を終えたのだ。

以上、要約おわり。ぼくの史料読解に活かします。100714