表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

12) 官渡の戦い、袁紹の死

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。

白馬と延津の戦い

二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延于白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘裏,良大驚,來逆戰。使張遼、關羽前登,擊破,斬良。遂解白馬圍,徙其民,循河而西。

建安五年(200)2月、東郡太守の劉延が、顔良らに攻められる。袁紹は黎陽にいる。黄河を渡りそう。

『郡国志』はいう。兗州の東郡は、郡治が白馬だ。趙一清はいう。袁紹は顔良をつかわし、劉延を白馬で攻めた。東郡の本治は、濮陽である。曹操が東郡太守となり、東武にうつした。このとき、さらに白馬に移した。ぼくは思う。東武から白馬まで、郡治が南西に後退している。潁川のそばに、近づいてる。曹操が袁紹を警戒し、小さくまとまった証拠だろう。

夏4月、曹操は劉延を救いたい。荀攸が言った。「曹操が延津にゆき、袁紹軍を分散させろ」と。袁紹軍が減った白馬を、張良と関羽が襲う。顔良を斬り、劉延のかこみが解けた。

延津は、袁紹伝と于禁伝にある。関羽伝に、顔良を斬った話がある。張遼伝に、この話がない。盧弼はいう。関羽1人だけが、戦功があった。


紹於是渡河追公軍,至延津南。公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰;「可五六百騎。」有頃,複白:「騎稍多,步兵不可勝數。」公曰:「勿複白。」乃令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道。諸將以為敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將複白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜。良、醜皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。

荀攸が、延津で文醜を斬った。袁紹は、陽武(河南)にすすむ。

荀攸伝にもある。ぼくは思う。「いつ、だれが、なぜ戦い、どうなったか」に興味がある。しかし、「どこで(どんな地形で)、どのように戦ったか」に興味がない。だから、ザツですみません。荀攸が発想して、袁紹軍の主力を削ったんだなあ、と確認できれば、満足してしまう。言い訳すると、『三国志集解』も、地名の注釈はいつもどおり盛んだが、異説を載せない。

関羽が、劉備をたよった。

八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十裏。公亦分營與相當,合戰不利。時公兵不滿萬,傷者十二三。
習鑿齒漢晉春秋曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。

200年8月、袁紹は東西の数十里にひろがる。曹操の兵は、1万に満たず、2割や3割が負傷した。

裴松之が、ここで兵数について、異議を申し立てた。盧弼も、何焯をはじめ、おおくの意見をひく。本題でないので、まとめて後日。

習鑿歯『漢晋春秋』はいう。許攸は袁紹に言った。「軍を分けて、許都を襲え」と。袁紹は聞かない。許攸は、怒った。

『後漢書』袁紹伝でも、許攸がおなじく却下される。ぼくは思う。許攸の不遇は、興味ぶかいのだが。『漢晋春秋』の話じゃあ、小説っぽいエピソード追加という感じだ。許攸の不遇が、史書にベースとしてあり、2次創作しました、と。くわしくを袁紹伝で、確認せねばならん。許攸は、初期からの奔走の友だし。


紹複進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,眾大懼。時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以為「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。

袁紹は官渡にすすむ。矢が降る。曹操は荀彧に、「兵糧がない」と泣きつく。荀彧は、踏みとどまれと励ました。

『後漢書』荀彧伝、「魏志」荀彧伝もおなじ。


烏巣を焼く

孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,為刺客所殺。
汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。

孫策は、曹操と袁紹が対峙すると聞き、許都を襲いたい。兵をだす前に、刺客に殺された。

「呉志」孫策伝はいう。もと呉郡太守の許貢の客に殺された。盧弼は考える。孫策が刺客に殺されず、周瑜が巴丘で死なず、関羽が荊州で死ななければ。みな天下をねらえた。曹丕の簒奪は、ストップがかかったかも。ぼくは思う。ああそうですか。イフ物語は好きです。
孫策が、献帝にたいして、どういう態度をとったか。曹操にたいして、どういう態度をとったか。これは、孫呉の成立をめぐって、とても重要な問題。袁術の死後の話は、じっくりやるつもりです。武帝紀をやりながら、ぼくが、曹操という対象そのものに、あまり興味がないことが、注釈の分量でよく分かるなあ。視える化。笑

汝南の劉辟らが、袁紹に応じて、許都のあたりをみだす。袁紹は、劉備をおくる。曹仁がやぶる。劉備はにげた。

建安元年、劉辟は死んだ記事があるが、生きている。もしくは、別人に劉辟がいたのか。
ぼくは思う。おなじ人でいいと思います。曹操は、豫州の北部(潁川)と、兗州の西部(陳留や東郡)だけを根拠地に、袁紹と戦っている。「河南4州と、河北4州の、天下の分け目」などではない。日本人は、関ヶ原のイメージを投影して、官渡の戦いをまちがえる。と思う。まあ、関ヶ原がじつはどういう戦いかは、べつに議論されるべきだが。


袁紹運谷車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然眾少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」

袁紹が物資を運ぶ。荀攸は、徐晃と史渙に、物資を焼かせた。曹操は、士卒をはげました。「あと15日で、袁紹をやぶろう」と。

冬十月,紹遣車運穀,使淳於瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十裏。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。

許攸が、烏巣の情報をもたらす話が、裴注『曹瞞伝』にある。はぶく。『三国志集解』でおもしろいのは、1つだ。『後漢書』にひく『曹瞞伝』に対して、恵棟はいう。袁紹軍の眭元進は、眭固であると。盧弼は考える。眭固は、史渙に斬られた。建安四年である。張楊伝にも、斬られたとある。恵棟は誤りだ。
ぼくは思う。官渡の名シーンが、『曹瞞伝』とは。がっかりだ。


紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹眾大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珍寶,虜其眾。

袁紹は、淳于瓊が撃たれたと聞いて、袁譚に言った。「曹操の本営を攻めれば、曹操は帰れなくなる」と。張郃と高覧は、曹洪を攻めた。張郃らは、淳于瓊が負けたと聞いて、曹操にくだる。袁紹と袁譚は、黄河をわたって逃げた。袁紹は、輜重や珍宝を置きざりにした。

潘眉はいう。荀彧の檄文には、張郃と高「奐」がいる。李善はいう。高覧は、高奐という名もあったのだろう。
ぼくは思う。官渡の戦いの本質は、陳寿が書くとおり、兵糧である。袁紹も曹操も、本拠から離れて、黄河で対陣している。さきに対陣を継続できなくなったほうが、負けだ。でも負けと言っても、それは戦闘による負けでなく、経済的な負けである。もし戦闘による決着なら、袁紹は黄河を渡れないだろう。


獻帝起居注曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,為說命錄之數。又紹與臣書雲:'可都鄄城,當有所立。'擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敘與紹書雲:'今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重。便欲送璽,會曹操斷道。'紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至於此。輒勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威, 得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」

献帝起居注はいう。

盧弼はいう。起居注は、皇帝に近侍する人が書く。「献帝」とか「山陽公」とかの書名は、魏代につけられたものだ。『史通』はいう。献帝が許都にくると、楊彪は献帝の記録をした。起居注は、楊彪による。ぼくは思う。もし楊彪が書いたものだとしたら、おもしろい。以下の文は、二袁について、ムダにくわしい。

曹操は献帝に言った。「袁紹は韓馥とともに、大司馬の劉虞を立てようとした。金璽をつくった。もと任県(鉅鹿)の県長・畢瑜を劉虞のところに行かせ、命数を説いた。また袁紹は、『献帝は鄄城にこい。私が立ててやる』と言った。袁紹は、金銀の印を偽造して、孝廉や計吏を任命した。従弟の済陰太守・袁敘は、袁紹に言った。『南兄・袁術より、北兄・袁紹のほうが年長だ。袁術は、璽を袁紹に送ろうとした。だが曹操に遮られた』と。袁氏がこんなだから、私(曹操)は、官渡で勝った」と。

ぼくは思う。おもしろい話だ。袁敘って人を、初めて見たが。盧弼は、注釈してくれない。袁術と近く、曹操のそばに潜りこんでいた楊彪が記したなら、楽しいなあ。袁術の即位が、はじめから袁紹にバトンタッチする前提だとしたら、話が変わってくるが。そこまでは、さすがに言えないな。負けた袁術による、第二段階の作戦だろう。苦肉の策。


公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。
魏氏春秋曰:公雲:「當紹之強,孤猶不能自保,而況眾人乎!」

曹操は、袁紹のもとの手紙を焼いた。
『魏氏春秋』はいう。曹操は言う。「袁紹は強かった。しかたない」と。

初,桓帝時有黃星見於楚、宋之分,遼東殷馗馗,古逵字,見三蒼。善天文,言後五十歲當有真人起于梁、沛之間,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。

桓帝のとき、楚や宋の領域に、星が出た。50年後に、梁や沛のあたりに、「真人」が現れると、予言された。曹操が袁紹に勝ち、天下に敵うものがいなくなった

ぼくは思う。ここで陳寿は、官渡の戦いの歴史的意義を、印象づけるために、予言の話をひいてきた。ナイスな構成である。とともに、いま明らかとなった陳寿の作為を検討すれば、曹操の実際に近づくことができるだろう。官渡をピークに据えるため、戦闘の経緯を、(ぼくから見れば)必要以上に詳しく書いたのだ。構成&作為によるものだ。


201年、劉備を汝南から払う

六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,複收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。

建安六年(201)夏4月、曹操は黄河をのぼり、袁紹を倉亭でやぶる。袁紹は、散った兵をあつめた。曹操は、郡県を定める。9月、曹操は許都にかえる。

何焯はいう。袁紹は、土地、兵数、人材がおおい。まだ曹操は、袁紹をうばえない。だから曹操は、許都にもどって、出直した。そのあいだに、劉備をのぞき、河北に全力をそそぎたい。
ぼくは思う。何焯の言うとおりなら。袁紹は強いし、劉備は役に立っている。

袁紹が破られる前。劉備は、汝南を荒らす。劉備は、曹操がみずから来ると、劉表ににげた。

張繍は曹操に降伏したが、劉表は曹操をみとめない。前のページで、曹操をかこむ3勢力をあげた。劉表、袁術、袁紹だ。袁術が死に、呂布も孫策も死んだので、袁術集団は無力だ。張繍が曹操にしたがい、劉表は武器を失った。だが、劉備を媒介にして、劉表と袁紹の同盟が成立した。官渡が終わったとは言え、曹操が忙しく戦い、ピンボールみたいに休まらない傾向は、同じである。


202年、袁紹の死

七年春正月,公軍譙 (中略) 紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。

建安七年(202)正月、曹操は譙県にもどる。5月、袁紹は死んだ。袁尚が、車騎将軍を名のって、黎陽にいた。秋9月、曹操は袁譚と袁尚をやぶる。袁譚と袁尚は、かたく守る。

『後漢書』献帝紀はいう。袁紹は、建安七年夏5月庚戌に死んだ。
ぼくは補う。曹操の勝利宣言と、裴注で橋玄へのお礼が載っているが、中略した。内容はともかく、ひとつの時代が区切られたことは確かです。


武帝紀は、いちどおしまい。二袁のことを、整理したくて、読み始めました。目的の場所まで、読み終わりました。平日を2週間分。会社の昼休みに『三国志集解』を読み、頭のなかで、何を書こうかシミュレートした。どれを省こうか、計画をたてた。
ありがとうございました。しばらく時期をおき、つぎは袁紹伝かな。今から東京にゆく。夜行バスに、乗り遅れてしまう。110225(金)