表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

02) もっとも姦狡な宦官・曹騰

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
久しぶりに『三国志集解』を読んだら、わからないなあ、、

曹操の祖先

太祖一名吉利,小字阿瞞。
裴注。曹操は、吉利、阿瞞という。

『太平御覧』巻93は、この文言を『曹瞞伝』からとする。李龍はいう。裴松之は、かならず書名を記す。『曹瞞伝』という書名が脱落したのだ。
盧弼はいう。裴松之が書名を記さないのは、自分で注釈するときだ。「呉志」張昭伝におなじ例がある。


王沈魏書曰:其先出於黃帝。當高陽世,陸終之子曰安,是為曹姓。周武王克殷,存先世之後,封曹俠於邾。春秋之世,與於盟會,逮至戰國,為楚所滅。子孫分流,或家於沛。漢高祖之起,曹參以功封平陽侯,世襲爵土,絕而複紹,至今適嗣國於容城。
王沈『魏書』はいう。

王沈は、『晋書』に列伝がある。(引用はぶく)
以下、王沈の執筆態度について、諸氏の話が『三国志集解』に載る。はぶく。

曹操の祖先は、黄帝から出た。陸終の子・陸安が、曹姓を名のった。殷周革命のとき、曹俠を邾に封じた。春秋時代、会盟にくわわる。戦国時代、楚に滅ぼされた。子孫のひとつが、沛に住んだ。劉邦が起兵して、曹参は平陽侯に封じられた。絶えては嗣がれ、いまも容城に曹参の後裔がいる。

『漢書』曹参伝はいう。哀帝のとき、曹参の玄孫の孫・曹本始を、平陽侯とした。子の曹宏が嗣いだ。
『後漢書』韋彪伝はいう。建初2年、曹参の後裔・曹湛を、平陽侯とした。
和帝紀はいう。永元3年、詔して、容城侯に後継がいないから、曹氏に嗣がせろと。銭大昕はいう。班固の表や、韋彪伝は、どちらも、平陽侯という。だが和帝紀は、容城侯という。おかしい。侯康はいう。章帝の建初2年に、曹湛を封じたとき、平陽から容城に移したのだ。和帝紀はただしい。韋彪伝は、移る前の地名を、誤って書いたのだ。
皇后紀によると、明帝の永平3年、皇女の劉奴を、平陽公主とした。建初8年、公主の子が、爵位を嗣いで、平陽侯となった。1つの地に、2人を封じない。
趙一清はいう。曹氏を平陽侯というのは、ふるい名だ。食邑は、平陽になく、譙県にある。のちに、名を容城侯と改めた。盧弼は考える。趙一清は誤りだ。侯の話は、典拠がある。
ぼくは補う。石井仁先生の『曹操』に、書かれているとおり。曹操は、曹参の直系の後継者じゃない。っていうか、ほんとうに容城侯がいるのに、パッと出の曹操が、乗っとることは、できないよね。笑


曹操の祖父・曹騰

桓帝世,曹騰為中常侍大長秋,封費亭侯。
桓帝のとき、曹騰は中常侍となり、

『続漢書』百官志はいう。中常侍は、1000石だ。本注はいう。中常侍は宦官がつとめ、定員がない。のちに、中常侍は、2000石に増えた。皇帝の左右にはべり、後宮を仕切る。
盧弼はいう。『後漢書』宦者伝の序はいう。前漢のとき、中常侍は士人だった。後漢ではじめて、すべて宦官をもちいた。永平のとき、はじめて定員をもうけた。中常侍は4人、小黄門は10人だ。延平のとき、中常侍を10人、小黄門を20人にふやした。中常侍の定員がある。百官志は、誤っている
恵棟はいう。衛宏『漢書旧儀』はいう。中常侍は、禁中に出入りできた。衛宏は、成帝の外戚・王禁をはばかり、禁中を「省中」と書いた。
李祖楙はいう。前漢のはじめ、ただ「常侍」といった。元帝や成帝のとき、中常侍といいはじめた。みな士人だった。
朱穆は上奏した。和帝の鄧太后から、皇太后が政治をした。公卿に接さず、宦官をもちいた。後漢のはじめは、中常侍に士人もいた。のちに、中常侍は宦官のみとなり、これは改められなかった。

曹騰は大長秋となった。

『漢書』百官公卿表はいう。大長秋は、秦官の将行だ。景帝の中6年、大長秋という名に改めた。「中人」や士人を用いた。顔師古はいう。秋は、収穫の季節だ。長は、恒久という意味だ。ゆえに、皇后の官名となった。「中人」とは、宦官である。
『続漢書』百官志はいう。大長秋は、定員1人で、2000石だ。後漢で、つねに宦官がついた。『後漢書』順烈皇后紀はいう。陽嘉元年春、有司は上奏して、長秋宮をたてた。

曹騰は、費亭侯に封じられた。

『続漢書』郡国志はいう。豫州の沛国に、サン県がある。劉昭は注に『帝王世紀』をひく。曹騰が封じられたのは、ここだ。胡三省はいう。サン県は、魏代に譙郡に属した。
洪適はいう。宦官なんぞに食邑をあたえ、爵位を継承させたばかりに、曹操が漢室をおびやかした。和帝や順帝のバカヤロウ。


司馬彪續漢書曰:騰父節,字元偉,素以仁厚稱。鄰人有亡豕者,與節豕相類,詣門認之,節不與爭;後所亡豕自還其家,豕主人大慚,送所認豕,並辭謝節,節笑而受之。由是鄉黨貴歎焉。
司馬彪の『続漢書』はいう。

盧弼がつけた、司馬彪と『続漢書』にたいする注釈は、はぶく。

曹騰の父は、曹節だ。あざなを元偉という。

盧明楷はいう。後漢の宦官に曹節がいる。曹騰の父である。趙一清は『後漢書』宦者伝をひく。曹節は、あざなを漢豊という。南陽の新野の人だ。宦者伝の曹節は、曹騰の父でない。曹節は、『宋書』礼志がいう「処士」だ。
侯康はいう。『後漢書』皇后紀に、曹操の中女・曹節がいる。もし、曹節が曹操の曽祖父なら、曹操は娘に、おなじ名をつけないはずだ。梁商鉅は、『芸文類集』巻94から、『続漢書』をひく。曹騰の父は「曹萌」だ。字形が似ているから、誤ったのだろう。
ぼくは思う。どうせ、史料的制約で、わからないのですね。これを確認した。そして曹節は、伝記がない人物だ。以下の話は、あからさまの創作だし。

曹節は、隣人にブタを盗んだと疑われた。笑って許した。

長子伯興,次子仲興,次子叔興。騰字季興,少除黃門從官。永甯元年,鄧太后詔黃門令選中黃門從官年少溫謹者配皇太子書,騰應其選。太子特親愛騰,飲食賞賜與眾有異。順帝即位,為小黃門,遷至中常侍大長秋。在省闥三十餘年,曆事四帝,未嘗有過。
曹節の子は、伯興、仲興、叔興だ。曹騰は、あざなを季興という。

趙一清はいう。『後漢書』蔡衍伝はいう。蔡衍は、河間相の曹鼎を劾めた。曹鼎とは、中常侍・曹騰の弟だ。趙一清は考える。曹節には、4子あった。曹騰が末子だ。なぜ曹騰に、弟がいるか。兄の誤りか。
盧弼は、曹洪伝にひく『魏書』をひく。曹洪の伯父は、曹鼎だ。曹鼎は、尚書令となった。『魏書』が正しければ、曹鼎は、曹騰のおいだ。どちらが正しいか、わからない。
『水経注』はいう。譙郡に、曹騰の兄の墓がある。墓の東に碑があり、「漢のもと潁川太守・曹君の墓」とある。曹仁伝にひく『魏書』はいう。曹仁の祖父は、曹褒だ。曹褒は、潁川太守となった。これは、曹騰の兄の名が、曹褒である証拠だ。
ぼくは思う。曹操より前に分岐した曹氏は、意外とわからない。曹鼎とか、曹褒の名を見ると、テンションがあがる。

曹騰は、鄧太后に選ばれて、太子(順帝)につかえた。

『後漢書』曹騰伝に、おなじ記述がある。

曹騰は、順帝が即位すると小黃門となり、中常侍、大長秋にいたる。30余年、4帝につかえた。

盧弼はいう。安定、順帝、沖帝、質帝だ。桓帝までふくめると、5帝になる。


好進達賢能,終無所毀傷。其所稱薦,若陳留虞放、邊韶、南陽延固、張溫、弘農張奐、潁川堂谿典等,皆致位公卿,而不伐其善。
曹騰は、賢能な人材をあげた。陳留の虞放、邊韶をあげた。

『後漢書』虞延伝に、虞放がある。虞延の従曾孫が、虞放だ。
『後漢書』文苑伝に、邊韶がある。

南陽の延固、張溫をあげた。

『後漢書』延篤伝がある。盧弼は考える。延固とは、延篤を書き換えたものだ。延篤伝の内容と時期が、延固に一致するからだ。篤と固は、音がおなじだ。
ぼくは補う。張温が、なぜか『三国志集解』で欠けている。

弘農の張奐、潁川の堂谿典らをあげた。

『後漢書』張奐伝がある。堂谿典は、『後漢書』曹騰伝、蔡邕伝にある。蔡邕伝につく章懐注は、『先賢行状』をひく。

曹騰があげた人は、みな公卿になった。

蜀郡太守因計吏修敬於騰,益州刺史種暠於函谷關搜得其箋,上太守,並奏騰內臣外交,所不當為,請免官治罪。帝曰:「箋自外來,騰書不出,非其罪也。」乃寢暠奏。騰不以介意,常稱歎暠,以為暠得事上之節。暠後為司徒,語人曰:「今日為公,乃曹常侍恩也。」騰之行事,皆此類也。桓帝即位,以騰先帝舊臣,忠孝彰著,封費亭侯,加位特進。太和三年,追尊騰曰高皇帝。
益州刺史の種暠は、函谷関でつかまえて、曹騰へのワイロを劾めた。

『後漢書』に種暠伝がある。このエピソードは、曹騰伝にある。
盧弼は考える。函谷関は、弘農郡だ。益州刺史が治める地域でない。范曄が書くには、種暠は、蜀郡太守が、洛陽の内臣にワイロしたことを、劾めたのだ 。

のちに種暠は、司徒となった。「曹騰のおかげだ」と言った。

『後漢書』種暠伝は、「曹騰のおかげ」というセリフを載せない。盧弼は考える。種暠は、大将軍の梁冀と対決した人だ。権貴にへつらわない。曹騰にも、へつらわない。
『後漢書』孫程伝の章懐注は、『東観漢記』をひく。孫程ら宦官の悪口を書かない。王鳴盛はいう。曹騰は、宦官のなかで、もっとも姦狡で、国を誤らせた。『後漢書』に、曹騰の悪口がない。『後漢書』は、司馬彪『続漢書』をうつしたか、『東観漢記』をうつしたか、魏代の人が潤色した文をうつしたものだ。
ぼくは思う。曹騰の悪口がない件、おもしろい!いくらでも、組み立てなおせる。

桓帝が即位し、曹騰は費亭侯となる。特進を加えられる。

『宋書』百官志はいう。特進は、漢代に置かれた。前漢と後漢、魏晋のとき、加官されても、車服の待遇は、本官とかわらない。新たに吏卒がふえない。

太和三年、高皇帝を贈られた。

明帝紀の太和三年夏6月、この話がある。


曹騰のおわりに

後漢、曹魏の史官が、みな揃って口を閉ざした、曹騰のわるさ。妄想のタネが見つかりました。後漢で権力を握りつづけることは、ダークの証明だからね。

汝南袁氏のうち、袁湯(二袁の祖父)の一族とか。

そして、わるさをした宦官なら、『後漢書』に、いくらでも例が見つかる。小悪党の宦官は、わるさを記される。大悪党の宦官は、かえって記されない。いびつな構図だが、合理的な話だと思う。妄想する、足がかりは、ある!
また後日、曹操の父・曹嵩の話をやります。つづく。110217