04) 霊帝との対決、陳留への逃亡
言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
『三国志集解』、むずかしくて、わからないなあ、、
黄巾、霊帝の与党との対決
光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷為濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓汙狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,奸宄逃竄,郡界肅然。
黄巾の乱。騎都尉になり、潁川を討つ。
濟南相になる。県の長吏は、貴戚にへつらい、蓄財する。8割をクビにした。淫祀を禁じた。郡界は、肅然とした。
ぼくは補う。つまり、曹操が書いたはずの、12月巳亥令が誤っている。笑
銭大昕はいう。『続漢書』郡国志を見ると、済南には10県しかない。10「余」は、誤りである。以下、県の数について、盧弼が検討する。はぶく。
ぼくは思う。済南国の人事を、ゴッソリ入れ替えたことは、何をあらわすか。「曹操は清流で、正義を実行した」なんて、二元論でわりきれる話でない。黄巾以前からつづく、霊帝政権の人事政策に、真っ向から対立したのだ。霊帝と、そのブレーンの三公たちに、正面から「NO」を突きつけたのだ。思い切ったことするなあ。体制内の、異分子ですよ。
もし黄巾がなければ、曹操は、自分の意見を実現する場を持たなかった。後漢を否定する黄巾のおかげで、曹操もまた、(少なくとも現状の、霊帝が主催する)後漢を否定することができた。ちまたの推理小説では、「だれが得をするか」をもとに、事件をおこす動機や犯人をさぐる。怪しいなあ、党人。怪しいなあ、曹操。笑
『魏書』はいう。曹操は、済南でホコラを壊した。
ぼくは思う。宗教=あくどい金儲け、宗教=邪悪、というのは、現代日本人のインスピレーション。割り引いて考えるのは、むずかしいが。曹操は、済南にかたちづくられた、利徳関係のピラミッドを、うち砕いたのだと思う。霊帝の与党のもと、構築された支配層を、ひっくり返した。プチ反逆者。
久之,徵還為東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。
東郡太守となった。着任せず、郷里にかえった。
ぼくは思う。曹操が東郡太守に移され、かつ着任しなかった理由は、霊帝の与党からの反発でしょう。「こんなに反発を受けちゃ、思いどおりの人事ができない」と、曹操があきらめた。とりあえず、曹操の負け。黄巾みたいなインパクトが続かないと、曹操は台頭できない。
曹操は、権臣や貴戚をおそれ、引きこもった。
『水経注』は、曹操の家を載せる。建安15年の注釈も。
冀州刺史の王芬が、霊帝を廃したい
頃之,冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。
このころ、冀州刺史の王芬、南陽の許攸、沛國の周旌らが、霊帝を廃したい。
許攸は、武帝紀の建安5年、袁紹伝、荀彧伝、崔琰伝にある。周旌は、盧弼が注釈しない。合肥侯は、名がわからない。
ぼくは思う。霊帝を廃す相談が、曹操のところに来た。党人から見たら、曹操は、霊帝を廃す謀議に、加わってもおかしくない人物だ。つまり曹操は、第三者から見たとき、霊帝の与党に対し、よほどイラだっていた。
曹操は、王芬をこばんだ。王芬らは、敗れた。
魏書載太祖拒芬辭曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也。古人有權成敗、計輕重而行之者,伊尹、霍光是也。伊尹懷至忠之誠,據宰臣之勢,處官司之上,故進退廢置,計從事立。及至霍光受讬國之任,藉宗臣之位,內因太后秉政之重,外有群卿同欲之勢,昌邑即位日淺,未有貴寵,朝乏讜臣,議出密近,故計行如轉圜,事成如摧朽。今諸君徒見曩者之易,未睹當今之難。諸君自度,結眾連党,何若七國?合肥之貴,孰若吳、楚?而造作非常,欲望必克,不亦危乎!」
司馬彪『九州春秋』はいう。陳蕃の子・陳逸は、平原の襄楷とともに、王芬と話した。天文によると、宦官や貴族をほろぼせる。
『魏書』は、曹操が王芬をこばんだ言葉を載せる。
董卓の下級将校となる
金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,眾十餘萬,天下騷動。
金城の辺章と韓遂は、刺史と太守を殺した。
辺章と韓遂は、反した。
ぼくは思う。よくまとまっていて、おもしろいから、盧弼を引用してみた。
徵太祖為典軍校尉。
曹操は、典軍校尉となった。
ぼくは思う。『曹操別伝』って、なに?そして、訳がテキトウです。今回、曹操が典軍校尉になった、直接のトリガーは、辺章と韓遂ですね。黄巾のとき、曹操は活躍の場を見つけた。いま涼州が乱れて、ふたたび活躍の場を見つけた。このとき、兵を後漢から支給されないのか?『曹操別伝』は、曹操スゲー!という、小説なんだろうなあ。信じないでおこう。
そして歴史は、韓遂の鎮圧に出発する前に、つぎの展開を用意した、、と。
會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后。
霊帝が死んだ。劉弁が即位した。何太后が臨朝した。大将軍の何進は、袁紹とともに、宦官を誅そうと謀った。何太后は、ゆるさず。何進と袁紹は、何太后を脅したい。
ぼくは思う。何進と何太后のあいだで、意見が割れる理由が、わからない。いろいろ読んだことがあるけど、いまいち、スパッと理解できない。後漢の外戚で、太后とその男子親族の族長が、意見を割ったことは、前例がないと思う。
曹操は、何進と袁紹に反対した。宦官に負けるよと。
『後漢書』何進伝に記事がある。陳琳は、袁紹に反対した。盧弼は考える。陳琳と曹操は、おなじ意見だ。英雄は、打ち合わせなくても、だいたいおなじ意見をもつ。陳琳は、「魏志」巻21、王粲伝にある。
卓未至而進見殺。卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。
董卓がくる前に、何進は殺された。董卓は、劉協を立てた。董卓は曹操を、驍騎校尉とした。
盧弼は『続漢書』と『宋書』の百官志を見るに。屯騎、越騎、歩兵、長水、射声の5校尉がある。驍騎がない。『宋書』はいう。後漢の光武帝は、屯騎を、驍騎とした。建武15年、また後漢の旧制の5校尉にもどした。校尉は、秩が2000石だ。
ぼくは思う。董卓は曹操を、配下の下級将校として扱ったのですね。袁紹とは、廃立の議論をした。袁術は、後将軍にしてもらった。曹操と、明らかに待遇がちがうなあ。
曹操は、姓名をかえて、東ににげた。
『魏書』はいう。曹操は、呂伯奢の子と賓客を殺した。
陳留で、起兵する
出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。
曹操は、関を出た。中牟をすぎた。亭長に疑われ、曹操は県に捕えられた。こっそりと、逃がしてもらった。
『世語』はいう。中牟の功曹は、曹操をにがした。
卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,是歲中平六年也。
董卓は、何太后と、劉弁を殺した。
曹操は陳留にとどまり、家財をつかい、兵をあつめた。冬12月、曹操は、己吾(陳留郡)で起兵した。
世語曰:陳留孝廉衛茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人。
『世語』はいう。陳留の孝廉・衛茲は、家財をつかって、曹操をたすけた。衛茲は曹操に起兵させた。兵は5千人いる。
ぼくは思う。英雄だから、経済的な援助を得られたのか。経済的な援助を得られたから、英雄の列にならべたのか。どっちが先か、よく分からないなあ。そして、財産を傾ける話なら、魯粛さんを例示してほしい。ついでに張邈も。
次回、お待ちかね。初平元年です。関東の諸侯につく、盧弼の注釈がおもしろい。これを読みたいから、武帝紀を始めたのです。110219