表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

04) 霊帝との対決、陳留への逃亡

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
『三国志集解』、むずかしくて、わからないなあ、、

黄巾、霊帝の与党との対決

光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷為濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓汙狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,奸宄逃竄,郡界肅然。
黄巾の乱。騎都尉になり、潁川を討つ。

『後漢書』霊帝紀、『後漢書』皇甫嵩伝にある。

濟南相になる。県の長吏は、貴戚にへつらい、蓄財する。8割をクビにした。淫祀を禁じた。郡界は、肅然とした。

李清植は、『魏武故事』の12月巳亥令をみる。曹操が官位についた順番が、陳寿の武帝紀とちがう。12月巳亥令は、曹操がみずから書いたものだ。陳寿の誤りである。盧弼はいう。李清植は誤り、陳寿が正しい。『後漢書』皇甫嵩伝、武帝紀の建安15年の注釈を見ると、つじつまが合う。曹操は、中平五年に34歳である。
ぼくは補う。つまり、曹操が書いたはずの、12月巳亥令が誤っている。笑
銭大昕はいう。『続漢書』郡国志を見ると、済南には10県しかない。10「余」は、誤りである。以下、県の数について、盧弼が検討する。はぶく。
ぼくは思う。済南国の人事を、ゴッソリ入れ替えたことは、何をあらわすか。「曹操は清流で、正義を実行した」なんて、二元論でわりきれる話でない。黄巾以前からつづく、霊帝政権の人事政策に、真っ向から対立したのだ。霊帝と、そのブレーンの三公たちに、正面から「NO」を突きつけたのだ。思い切ったことするなあ。体制内の、異分子ですよ。
もし黄巾がなければ、曹操は、自分の意見を実現する場を持たなかった。後漢を否定する黄巾のおかげで、曹操もまた、(少なくとも現状の、霊帝が主催する)後漢を否定することができた。ちまたの推理小説では、「だれが得をするか」をもとに、事件をおこす動機や犯人をさぐる。怪しいなあ、党人。怪しいなあ、曹操。笑


魏書曰:長吏受取貪饕,依倚貴勢,曆前相不見舉;聞太祖至,咸皆舉免,小大震怖,奸宄遁逃,竄入他郡。政教大行,一郡清平。初,城陽景王劉章以有功於漢,故其國為立祠,青州諸郡轉相仿效,濟南尤盛,至六百餘祠。賈人或假二千石輿服導從作倡樂,奢侈日甚,民坐貧窮,曆世長吏無敢禁絕者。太祖到,皆毀壞祠屋,止絕官吏民不得祠祀。及至秉政,遂除奸邪鬼神之事,世之淫祀由此遂絕。

『魏書』はいう。曹操は、済南でホコラを壊した。

『後漢書』光武十王伝にいう。琅邪孝王・劉京の国のなかに、城陽景王の劉章のホコラがあった。
ぼくは思う。宗教=あくどい金儲け、宗教=邪悪、というのは、現代日本人のインスピレーション。割り引いて考えるのは、むずかしいが。曹操は、済南にかたちづくられた、利徳関係のピラミッドを、うち砕いたのだと思う。霊帝の与党のもと、構築された支配層を、ひっくり返した。プチ反逆者。


久之,徵還為東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。
東郡太守となった。着任せず、郷里にかえった。

趙一清はいう。『後漢書』光武十王伝はいう。琅邪順王の劉容は、初平元年、弟の劉邈を、長安におくった。劉邈は、東郡太守の曹操が忠誠だと、献帝に盛んに伝えた。趙一清はいう。曹操は東郡太守に着任しなかったが、東郡太守という肩書きだけは、初平元年もつかった。杭世駿も、同じことをいう。ぼくは思う。「行奮武将軍」は、どうしたんだろう。無視された私称?
ぼくは思う。曹操が東郡太守に移され、かつ着任しなかった理由は、霊帝の与党からの反発でしょう。「こんなに反発を受けちゃ、思いどおりの人事ができない」と、曹操があきらめた。とりあえず、曹操の負け。黄巾みたいなインパクトが続かないと、曹操は台頭できない。


魏書曰:於是權臣專朝,貴戚橫恣。太祖不能違道取容。數數幹忤,恐為家禍,遂乞留宿衛。拜議郎,常讬疾病,輒告歸鄉里;築室城外,春夏習讀書傳,秋冬弋獵,以自娛樂。

曹操は、権臣や貴戚をおそれ、引きこもった。

ぼくは思う。「曹操が、後漢を見限った」というのは、後漢が滅びたあとから見た、アトヂエの目線。当時は、官位をあげることが、ほぼ唯一の自己実現の手段。曹操は政争に敗れて、その道を閉ざされたのだ。落ち込んだだろうなあ。
『水経注』は、曹操の家を載せる。建安15年の注釈も。


冀州刺史の王芬が、霊帝を廃したい

頃之,冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。
このころ、冀州刺史の王芬、南陽の許攸、沛國の周旌らが、霊帝を廃したい。

盧弼は、冀州の注釈をするが、王芬を注釈しない。ぼくは思う。こういうときこそ、盧弼さんに、がんばってもらわねばならんのに。王芬、わからない。きっと党人で、霊帝の与党に反対する人。でも、冀州刺史にまで出世したのだから、霊帝の与党から見たら、脅威だ。王芬は、陳蕃のような、領袖だったのかも。霊帝に批判的だが、とりあえず官位を上げておかないと、党人の収集がつかない、というポジション?
許攸は、武帝紀の建安5年、袁紹伝、荀彧伝、崔琰伝にある。周旌は、盧弼が注釈しない。合肥侯は、名がわからない。
ぼくは思う。霊帝を廃す相談が、曹操のところに来た。党人から見たら、曹操は、霊帝を廃す謀議に、加わってもおかしくない人物だ。つまり曹操は、第三者から見たとき、霊帝の与党に対し、よほどイラだっていた。

曹操は、王芬をこばんだ。王芬らは、敗れた。

華歆伝にある。王芬は、華歆と陶丘洪にも、もちかけた。陶丘洪は行きたいが、華歆がとめた。ぼくは思う。曹操が、王芬に従わなかった理由が、気になる。宦官の孫だから、、霊帝を否定しつつ、否定しきれない。家を繁栄させるなら、どうすべきかを、いちおうは、わきまえている。性格の問題で、反抗的なこともするが、せいぜい体制内の人。


司馬彪九州春秋曰:於是陳蕃子逸與術士平原襄楷會於芬坐,楷曰:「天文不利宦者,黃門、常侍(貴)族滅矣。」逸喜。芬曰:「若然者,芬原驅除。」於是與攸等結謀。靈帝欲北巡河間舊宅,芬等謀因此作難,上書言黑山賊攻劫郡縣,求得起兵。會北方有赤氣,東西竟天,太史上言「當有陰謀,不宜北行」,帝乃止。敕芬罷兵,俄而徵之。芬懼,自殺。
魏書載太祖拒芬辭曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也。古人有權成敗、計輕重而行之者,伊尹、霍光是也。伊尹懷至忠之誠,據宰臣之勢,處官司之上,故進退廢置,計從事立。及至霍光受讬國之任,藉宗臣之位,內因太后秉政之重,外有群卿同欲之勢,昌邑即位日淺,未有貴寵,朝乏讜臣,議出密近,故計行如轉圜,事成如摧朽。今諸君徒見曩者之易,未睹當今之難。諸君自度,結眾連党,何若七國?合肥之貴,孰若吳、楚?而造作非常,欲望必克,不亦危乎!」

司馬彪『九州春秋』はいう。陳蕃の子・陳逸は、平原の襄楷とともに、王芬と話した。天文によると、宦官や貴族をほろぼせる。

陳逸は、『後漢書』陳蕃伝にある。恵棟はいう。『田魯褒記』によると、陳逸のあざなは子ユウだ。襄楷は、『後漢書』襄楷伝がある。中平のとき、荀爽、鄭玄とともに、博士にめされた。襄楷は、行かず。

『魏書』は、曹操が王芬をこばんだ言葉を載せる。

盧文ショウはいう。この文書は、信じられない。廃立につき、どうして言葉をさかんにして、議論するものか。言葉すくなに、反対しておくほうがよい。ぼくは思う。これは王沈『魏書』が、飾りすぎた失敗だろう。


董卓の下級将校となる

金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,眾十餘萬,天下騷動。
金城の辺章と韓遂は、刺史と太守を殺した。

盧弼はいう。辺章と韓遂は、武帝紀の建安20年にひく『典略』にある。『後漢書』霊帝紀の中平元年に、記事がある。『資治通鑑』の中平元年、中平四年にも、記事がある。

辺章と韓遂は、反した。

盧弼は考える。曹操と、韓遂の父は、おなじ歳に孝廉にあがった。曹操は、韓遂と交馬語して、洛陽の話で笑ったのは、建安16年だ。ここから韓遂は、役人の家柄だとわかる。なぜ役人の家柄が、刺史や太守を殺したのか。刺史や太守を殺したのは、黄巾だけでない。漁陽の張純は、太守を殺した。并州刺史の張益は、殺された(劉焉伝)。孫堅は、荊州刺史の王叡と、南陽太守の張咨を殺した。劉岱は、東郡太守の橋瑁を殺した。張魯は、関中太守の蘇固を殺した。孫権は、呉郡太守の盛憲を殺した。張猛は、雍州刺史の邯鄲商を殺した。袁紹は、冀州牧の壺寿を殺した。袁術は、揚州刺史の陳温を殺した。李術は、揚州刺史の厳象を殺した。劉備は、徐州刺史の車胄を殺した。天下がみだれ、地方官を殺したのは、哀しむべきことだ。
ぼくは思う。よくまとまっていて、おもしろいから、盧弼を引用してみた。


徵太祖為典軍校尉。
曹操は、典軍校尉となった。

盧弼はいう。典軍校尉は、西園八校尉の1つだ。杭世駿はいう。『曹操別伝』はいう。曹操は典軍都尉となり、譙沛にもどって、兵士をつのった。兵士は曹操に反した。曹操は逃げた。足にキズを負った。平河亭で、8、9日養ってもらった。曹操は亭長に牛車を出させ、故郷まで送らせた。騎兵たちが、牛車を迎えた。曹操はとびらを開き、騎兵たちを励ました。みなは、曹操が帰ってきたと知り、おおいに喜んだ。
ぼくは思う。『曹操別伝』って、なに?そして、訳がテキトウです。今回、曹操が典軍校尉になった、直接のトリガーは、辺章と韓遂ですね。黄巾のとき、曹操は活躍の場を見つけた。いま涼州が乱れて、ふたたび活躍の場を見つけた。このとき、兵を後漢から支給されないのか?『曹操別伝』は、曹操スゲー!という、小説なんだろうなあ。信じないでおこう。
そして歴史は、韓遂の鎮圧に出発する前に、つぎの展開を用意した、、と。


會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后。
霊帝が死んだ。劉弁が即位した。何太后が臨朝した。大将軍の何進は、袁紹とともに、宦官を誅そうと謀った。何太后は、ゆるさず。何進と袁紹は、何太后を脅したい。

黄恩タンはいう。何皇后は、何進の妹だ。王貴人は、黄門の蹇碩をたより、劉協を立てたい。霊帝が死ぬと、蹇碩は、何進を殺したい。蹇碩が失敗し、劉弁が絶った。何進は、蹇碩をとらえた。何進は、陳蕃と竇武をまねて、宦官を殺したい。何進の「情」は、陳蕃と竇武とおなじだ。だが何進の「忠」は、陳蕃と竇武とちがう。何進は、ワタクシの復讐をするために、宦官を殺したいだけだ。まして何進は、優柔不断だ。成功するわけがない。
ぼくは思う。何進と何太后のあいだで、意見が割れる理由が、わからない。いろいろ読んだことがあるけど、いまいち、スパッと理解できない。後漢の外戚で、太后とその男子親族の族長が、意見を割ったことは、前例がないと思う。


魏書曰:太祖聞而笑之曰:「閹豎之官,古今宜有,但世主不當假之權寵,使至於此。既治其罪,當誅元惡,一獄吏足矣,何必紛紛召外將乎?欲盡誅之,事必宣露,吾見其敗也。」

曹操は、何進と袁紹に反対した。宦官に負けるよと。

何焯はいう。この注釈は、のちにウソで飾ったものだ。盧弼はいう。『資治通鑑』では、「閹豎」を「宦官」と記す。
『後漢書』何進伝に記事がある。陳琳は、袁紹に反対した。盧弼は考える。陳琳と曹操は、おなじ意見だ。英雄は、打ち合わせなくても、だいたいおなじ意見をもつ。陳琳は、「魏志」巻21、王粲伝にある。


卓未至而進見殺。卓到,廢帝為弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。

魏曰:太祖以卓終必覆敗,遂不就拜,逃歸鄉里。從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在,其子與賓客共劫太祖,取馬及物,太祖手刃擊殺數人。世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行,五子皆在,備賓主禮。太祖自以背卓命,疑其圖己,手劍夜殺八人而去。孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲,以為圖己,遂夜殺之。既而悽愴曰:「甯我負人,毋人負我!」遂行。

董卓がくる前に、何進は殺された。董卓は、劉協を立てた。董卓は曹操を、驍騎校尉とした。

趙一清はいう。『続漢書』百官志はいう。大将軍の営には、5部の校尉がいる。このとき、驍騎将軍はいない。おそらく曹操は、上司に将軍がおらず、校尉として軍をひきいた。のちに、驍騎将軍が置かれた。
盧弼は『続漢書』と『宋書』の百官志を見るに。屯騎、越騎、歩兵、長水、射声の5校尉がある。驍騎がない。『宋書』はいう。後漢の光武帝は、屯騎を、驍騎とした。建武15年、また後漢の旧制の5校尉にもどした。校尉は、秩が2000石だ。
ぼくは思う。董卓は曹操を、配下の下級将校として扱ったのですね。袁紹とは、廃立の議論をした。袁術は、後将軍にしてもらった。曹操と、明らかに待遇がちがうなあ。

曹操は、姓名をかえて、東ににげた。
『魏書』はいう。曹操は、呂伯奢の子と賓客を殺した。

ぼくは思う。呂伯奢の件は、食傷気味なので、もういいですね。


陳留で、起兵する

出關,過中牟,為亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,為請得解。

世語曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄俊,因白令釋之。

曹操は、関を出た。中牟をすぎた。亭長に疑われ、曹操は県に捕えられた。こっそりと、逃がしてもらった。

盧弼はいう。関とは、虎牢関だ。函谷関という考証学者は、まちがっている。地理的に、函谷関であるワケがない。

『世語』はいう。中牟の功曹は、曹操をにがした。

卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,是歲中平六年也。
董卓は、何太后と、劉弁を殺した。

『後漢書』献帝紀はいう。中平6年9月丙子、董卓は何太后を殺した。初平元年正月癸酉、董卓は劉弁を殺した。董卓伝はいう。まず董卓は何太后を殺した。関東が挙兵してから、劉弁を鴆殺した。『資治通鑑』も、何太后と劉弁は、べつのタイミングで殺される。数ヶ月、ちがう。だが陳寿は、中平六年に、劉弁も殺されたと記す。陳寿のミスだ。「魏志」董卓伝でも、何太后と劉弁が、まとめて死ぬ。陳寿のミスだ。

曹操は陳留にとどまり、家財をつかい、兵をあつめた。冬12月、曹操は、己吾(陳留郡)で起兵した。

世語曰:陳留孝廉衛茲以家財資太祖,使起兵,眾有五千人。
『世語』はいう。陳留の孝廉・衛茲は、家財をつかって、曹操をたすけた。衛茲は曹操に起兵させた。兵は5千人いる。

衛茲は、「魏志」巻22、衛シン伝とその注釈にある、盧弼は考える。麋竺は、金銀で劉備をたすけた。周瑜は、孫策を住まわせ、母と会った。みな英雄を知り、時代が英雄をもとめたのだ。
ぼくは思う。英雄だから、経済的な援助を得られたのか。経済的な援助を得られたから、英雄の列にならべたのか。どっちが先か、よく分からないなあ。そして、財産を傾ける話なら、魯粛さんを例示してほしい。ついでに張邈も。


次回、お待ちかね。初平元年です。関東の諸侯につく、盧弼の注釈がおもしろい。これを読みたいから、武帝紀を始めたのです。110219