09) 兗州平定、献帝奉戴
言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、195年から196年です。献帝を奉戴します。
195年、兗州を平定する
二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯钜野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布複從東緡與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。
興平二年(195)曹操は、定陶(済陰)を襲った。済陰太守の呉資が、南城(定陶)をたもつ。曹操は、定陶をぬけない。呂布がきた。曹操は定陶を攻めるのをやめ、呂布をやぶった。
195年夏、呂布は、薛蘭と李封を、鉅野(山陽)におく。曹操は、これをやぶる。
荀彧伝はいう。荀彧は、徐州より先に、兗州を平らげろと言った。曹操が兗州を平定したのは、荀彧と程昱の功績である。
ぼくは思う。李典伝、荀彧伝、程昱伝を、読めということですね。
呂布は東緡(山陽)にゆき、陳宮とともに兵をひきいる。曹操は伏兵でやぶる。
『魏書』は、曹操の伏兵をくわしく伝える。
布夜走,太祖複攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兗州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,為其眾所殺,兗州平,遂東略陳地。
呂布はにげた。曹操は定陶をぬいた。諸県を平定した。呂布は、劉備ににげた。張邈は、呂布にしたがう。
盧弼はいう。ときに劉備は、陶謙に代わり、徐州牧だ。
張邈の弟・張超は、家属をひきいて、雍丘(陳留)にいる。秋8月、曹操は雍丘をかこむ。冬10月、献帝は曹操を、兗州牧とした。
ぼくは思う。董昭の動きを、よく見ておきたい。献帝を手に入れるまで、ずっと。
12月、雍丘がつぶれ、張超の三族を殺す。張邈は、袁術に救いをもとめる。張邈は、兵に殺された。兗州が平定された。
曹操は東へゆき、陳国をせめた。
是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。
この歳、長安が乱れた。献帝は、東へうつる。曹陽で敗れた。献帝は黄河をわたり、安邑にゆく。
ぼくは補う。袁術が、皇帝即位を検討するのは、史料上、曹陽で献帝が敗れたことがトリガーである。よほど、献帝はひどく敗れた。武帝紀でも、真っ先にあげるほどの大事件。
196年、献帝を洛陽でとらえる
建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衛將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
建安元年(196)春正月、曹操は武平(陳国)にきた。袁術がおいた、陳相の袁嗣をくだした。荀彧と程昱が、献帝を迎えろとすすめた。
荀彧伝に、献帝を迎えろという詳細がある。曹操に献帝をすすめたのは、ほかに司隷校尉の丁忠だ。丁忠は、曹植伝にひく『魏略』にある。丁忠は、丁儀と丁廙の父である。ぼくは思う。石井仁先生の本に、出てきた人だ。曹植伝だったのか。まだ読んでいない。
曹操は、曹洪を西にゆかせた。衛将軍の董承は、袁術の部将・萇奴とともに、曹洪をブロックした。
趙一清はいう。『後漢書』董卓伝はいう。董承は、韓暹に乱されるのを患いた。だから曹操を呼んだと。だが「魏志」武帝紀は、董承が曹操をこばんだという。董承の態度が、ちがう。曹操を召すアイディアは、董承でなく楊奉が言い出した。董昭伝を見れば、わかることだ。
ぼくは思う。董承は、曹操をこばんだということで、『三国志集解』は落着した。
汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,眾各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其眾皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,
汝南と潁川で、黄巾が曹操をこばむ。はじめ袁術に応じ、また孫堅についた。2月、曹操は黄巾をやぶり、劉辟を斬った。
それより、汝南と潁川の黄巾が、袁術についたことに注目を。孫堅にもついたが、袁術と孫堅は、おなじ集団である。原文に「又」があるから、袁術にも孫堅にも、両方ともに応じた、という理解でいいだろう。
献帝は、曹操を建德將軍とした。
196年夏6月、曹操は鎮東將軍にうつり、費亭(山陽)侯となる。
ぼくは思う。費亭侯は、祖父・曹騰とおなじ封地だ。祖父から継いだものだ。しかし、この歳のうちに、曹操は武平侯となる。武平は、曹操の居場所の地名だ。侯爵がダブる。盧弼が諸説をならべて、検討する。お腹がいっぱいだ。ぼくは、曹操のファンでなく、爵位マニアでもないから、どうでもいいのだ。笑
秋7月、楊奉と韓暹は、献帝を洛陽にもどす。
獻帝春秋曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。
『獻帝春秋』はいう。献帝は洛陽にきた。もと中常侍・趙忠の宅にきた。
張楊が宮室をなおし、揚安殿と名づけた。8月、献帝は宮城にもどる。
奉別屯梁。太祖遂至洛陽,衛京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。
楊奉は、わかれて梁県(河南)にいる。曹操は洛陽にきて、献帝をまもる。韓暹はにげた。
ぼくは思う。『後漢書』献帝紀、董卓伝、『三国志』武帝紀、董卓伝、『後漢紀』あたりを、並べてみたい。異同はあるだろうが、全体がわかるだろう。曹操のほかに、献帝のそばにいた人が、一様にザコ扱いされている。ザコへの陥としめ方に、一貫性がないから、記事が矛盾しまくる。記事を照合しやすくすべきだ。まず。
曹操は、節鉞を仮され、錄尚書事する。
獻帝紀曰:又領司隸校尉。
『献帝紀』はいう。曹操は、司隷校尉も領した。
李祖楙はいう。建安元年、曹操は司隷校尉となった。建安十八年、所管の司隷をはぶいて、雍州にくっつけた。曹操は、この歳に魏公になった。だから、司隷校尉をはぶいた。ぼくは思う。曹操が司隷校尉になったというのは、陳寿の本文にないが、『三国志集解』で異論がない。ということでOK?
洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。
洛陽がボロいので、董昭は曹操に、献帝を許県(潁川)にうつさせた。
許県で、社稷と屯田をつくる
九月,車駕出轘轅而東,以太祖為大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。
建安元年9月、献帝の車駕は、轘轅をでて、東へゆく。
曹操を大將軍とし、武平侯に封じた。
洛陽を出て、朝廷は乱れた。宗廟と社稷の制度を、はじめて立てた。
張璠『漢紀』はいう。献帝は曹陽でやぶれ、河東で黄河をわたる。侍中・太史令の王立が言った。「天文によれば、北へゆくな」と。
王立は、宗正の劉艾に言った。「符命によれば、漢の命数はつき、曹氏の魏がかわる。献帝は曹操をたよれ」と。劉艾は王立に、「だまれ」と言った。
天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。
献帝は東へゆく。楊奉は、梁県からはばもうとするが、できない。196年冬10月、曹操は楊奉を征す。楊奉は、袁術ににげる。曹操は、梁をぬく。
『後漢書』董卓伝はいう。楊奉と韓暹は、献帝の車駕をさえぎりたい。曹操にかなわず。楊奉と韓暹は、袁術をたより、揚州と徐州の間をあらした。197年、左将軍の劉備は、楊奉を斬った。韓暹は、并州ににげかえる途中、殺された。
於是以袁紹為太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。
袁紹を太尉とした。袁紹は、曹操の下になることを恥じ、受けない。曹操は、袁紹を大将軍とした。曹操は司空、行車騎将軍となる。
盧弼は考える。『続百官志』によると、はじめ前漢の武帝は、衛青に討伐の功績がおおいから、大将軍にした。衛青に名誉をつけるための任命だから、三公の大司馬を、そのまま置いた。のちの霍光や王鳳(王莽のおじ)も、おなじだ。光武帝のとき、呉漢が大将軍から、大司馬となった。大将軍は、三公=大司馬の下だ。明帝は、東平王の劉蒼を、驃騎将軍とした。王だから、劉蒼の驃騎将軍は、三公の上だった。和帝のとき、外戚の竇憲は車騎将軍となった。三公の下だった。匈奴を討った功績で、竇憲は大将軍になった。竇憲の大将軍は、三公の上だった。ここから、何がわかるか。大将軍の高さは、着任する人によってちがう。
「魏志」曹爽伝にひく『魏書』はいう。大将軍の曹爽は、太尉の司馬懿の右にでた。これは、漢魏のとき、大将軍が太尉の上だったことを示す。ぼくは補う。袁紹がイヤがったのも、正しいことだと。
『後漢書』献帝紀。冬11月丙戌、曹操は司空、行車騎将軍となり、百官をすべた。
この歳、棗祗と韓浩の提案で、屯田をはじめた。
『魏書』はいう。袁紹、袁術も食糧が足りない。曹操は屯田して、田官をおく。
ぼくは思う。曹操は兗州で、屯田したのか。ぼくは、屯田を始めるとしたら、この時期からだと思う。兗州は、袁紹からの「借り物」だった。袁紹のサポートをもらい、ムチャな遠征ばかりした。いま献帝をつかって、袁紹から自立して初めて、みずから食糧の調達をはじめた?
つぎから、張繍や呂布との戦闘が、いきいき描かれます。おもしろさ再開。
曹操が献帝を獲得するときも、血なまぐさい闘争が、あったはずだ。「ギョク」を奪い合ったのだから、もっともドロドロしたはずだ。しかし、皇帝がからむと、闘争が、はぶかれてる気がする。いかにも自然に、曹操が献帝を手に入れたかのように見える。韓暹や楊奉は、どうにも弱すぎるザコに描かれる。ウソだよなあ。『三国志集解』は、制度にかんする注釈が増えるから、スカスカにはならないが。110224